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【横浜の風景】元町百段坂を数えてみた!part2

関東大震災まで元町に「百段坂」がありました。
以前このブログで、
「百段坂」は俗称で実は?101段である。
実際元町百段坂を数えてみました
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9211
結果
やはり101段だろう という結論におぼろげながら達しました。
まあ「101段坂」よりはすっぱり「百段坂」が良いでしょうね。
今回
画像に不明な点もあったので新しい画像を元に
再度「百段カウント」に挑戦してみました。
元になった写真

これを拡大し階段を一つ一つ確認していくと
出てきた不明点があります。
(第一の不明点)
最初の一段はどこだ?
階段の始まり、小学生とおぼしき少年と愛犬らしき動物の後に段差があるように思えます。スロープににも見えますが、段にも。

ここは0段、グランドフロアみたいなものか?

以前Part1に使用した写真の0段付近を拡大してみることに。

段差があるようなないような。あるといえばある。
ただ、
Part1は明治初期(電信柱も電力柱も無い頃)と思われるので、階段下は整備されてまもなくのころで<登る人>も少なかったのではないか。

Part2の写真では30個の碍子「電信柱」が写っていますので明治中期以降だろうろ推理できます。

(第二の不明点)
ちょうど90段目あたりの段差が確認しにくいのですが、高くなればなるほど段差は狭く見えるはずなので91段目をカウントしました。

【結論】
結論はやはり101段が正解のようです。
なんだ! ということですが、百段坂の時代変化も少し確認できたので<良し>としておきます。

第866話 横浜川崎市境合戦 その1

国盗り合戦といえば それは戦国時代に遡ります。
江戸時代は 国替えもありました。%e5%b9%95%e6%9c%ab%e5%9b%bd%e5%9f%9f 近代に入り、明治初期に都道府県が制定され
その後
1889年(明治22年)4月1日以降、市町村制が始まります。
その後、全国市町村は<合併>の二文字に揺れます。
明治期に71,314の町村があったそうです。
明治22年
「明治の大合併」町村数は15,859と約5分の1に減少。
昭和28年〜昭和36年
「昭和の大合併」市町村数は昭和36年で3,472に減少。
<横浜の市域拡大>
横浜を例に取れば、
現在の市域はかつて国を分けた<相模国>と<武蔵国>をまたいでいます。
近世以前の国区分には川や山が重要な要素でしたが、交通網が発達してくると国境が次第に曖昧になってきます。武蔵国と相模国を分けたものは尾根筋、稜線ですがもう一つの視点では<水系>で現在の18の区を分けることもできます。
<隣接市>
横浜市は東が川崎市 西が藤沢市・大和市
南は鎌倉市・逗子市・横須賀市と隣接しています。
これまで横浜市で目いっぱいでしたが、今回は
少し近隣にも視野を広げてみることにします。
お隣、川崎市との市域の歴史、ほとんど知りませんでした。
プロローグに川崎の市域拡大を紹介しておきます。
■川崎市の変遷
大きく6次に渡って市域が拡大されました。%e5%b7%9d%e5%b4%8e%e5%b8%82%e5%b8%82%e5%9f%9f%e6%8b%a1%e5%a4%a7
1924年(大正13年)7月1日[合体し市制開始]
橘樹郡川崎町、大師町、御幸村が合体し川崎市発足
1927年(昭和2年)4月1日[第1次市域拡張]
橘樹郡田島町 編入
1933年(昭和8年)8月1日[第2次市域拡張]
橘樹郡中原町 編入
1937年(昭和12年)4月1日[第3次市域拡張]
橘樹郡高津町、日吉村(鹿島田・小倉・南加瀬)編入
1937年(昭和12年)6月1日[第4次市域拡張]
橘樹郡橘村 編入
1938年(昭和13年)10月1日[第5次市域拡張]
橘樹郡稲田町、生田村、向丘村、宮前村 編入
1939年(昭和14年)4月1日[第6次市域拡張]
都筑郡柿生村、岡上村 編入
別添の市域拡大図から分かる通り、川崎市は市となった当初実に不安定な市域を擁していました。橘樹郡田島町が川崎市に編入されたのが昭和2年。これが一つのターニングポイントです。

■横浜市の市域拡大
1889年(明治22年)4月1日【市制施行】
1901年(明治34年)【第1次市域拡張】
1911年(明治44年)【第2次市域拡張】
1927年(昭和2年)【第3次市域拡張】
1936年(昭和11年)【第4次市域拡張】
1937年(昭和12年)【第5次市域拡張】
神奈川区に、橘樹郡日吉村から大字駒ケ橋(下田町)、駒林(日吉本町)、箕輪(箕輪町)および矢上、南加瀬の各一部(いずれも日吉町)を編入(日吉村の他地区は、川崎市へ編入。)
1939年(昭和14年)【第6次市域拡張】

【番外編】市域拡大は元気なうちに!?(加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=359

No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=526

<水利が市域の鍵>
市域拡大の背景には<水利権>が欠かせません。
水を巡る横浜・川崎の話を何回かに分けて紹介していきます。

第850話 7月16日 能見台からブラ散歩

京浜急行「能見台(のうけんだい)駅」からスタートするぶらり歩き、好きなコースの一つです。
市内の駅としては立ち寄ることの多い駅です。

能見台駅

能見台駅

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過去四・五回のぶらり歩きをまとめてみました。
駅の改札を出て駅前から反対側に回りこむように高架橋を越え、少し混みいった住宅街を抜けると緑の多い別世界に入り込んだような<坂道>にでます。

県立循環器呼吸器病センター入口
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県立循環器呼吸器病センターがあり、この坂道を少し登り切ると大きく視界が開けます。
駅前から坂道を上り視界が開ける場所、他にも多くありますが
この坂を下っていく気分が私は好きです。地図を看ないと判りませんが、越えた丘の下を<横浜横須賀道路支線>が走っていて、並木出口となっています。
坂を下りて行く途中左手に不自然な公園、ゴルフコースと間違えそうな「長浜・花夢スポーツ広場」があり、
この公園が高速道路の保全施設だということに気がつくには少し時間が必要でした。light201502040049 light201502040059
元の道にもどり暫く行くと、右手に今日紹介したい「横浜検疫所」と少し下った先にかつて細菌検査所のあった「長浜ホール」があります。lightP6292167 lightP6292179 「細菌検査所」は、野口英世が一時期勤務した施設で日本の検疫制度を最初に支えた検疫施設です。
1979年(昭和54年)7月16日の今日、
横浜検疫所で「検疫制度100年記念式典」が開催されました。
開港後、海外との交易で<コレラ>も輸入してしまった日本にとって伝染病対策が急務でした。
No.2178月4日(土)わがひのもとの虎列刺との戦い
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=390
No.89 3月29日ペスト第一号もYOKOHAMA
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=528

1879年(明治12年)
虎列刺病伝染予防規則が公布され三浦郡長浦(横須賀市長浦)に「長浦消毒所」が設置されます。
これがわが国最初の<検疫所>です。
その後、日清戦争で横須賀軍港が拡張され
1895年(明治28年)長浜に移転し「長濱検疫所」が設置され現在に至っています。
野口英世がこの「長濱検疫所」に採用され勤務したのが
1899年(明治32年)のことです。
この時「長浜検疫所」の細菌検査室だった施設が現在保全され横浜市の市民施設となり、隣接して「長浜ホール」が誕生しました。
一方、この細菌検査室一帯に近い国の「横浜検疫所」は現在も重要な検疫作業を行っています。

(海岸線観察)
この「長浜ホール」一帯から富岡の先までかつて海岸線であった境目を散策することができます。横浜市内では貴重な地域資産といっても過言ではないと私は感じます。
長浜から富岡にかけてかつての海岸線が昭和40年代まで残されていました。
横浜市内で唯一残されていた海岸線が一気に住宅地となっていきます。開発の際、かつての<海岸線>を意識した開発が行われた?のかどうか判りませんが、
エッジを散策しながら<旧海岸線>を散策することができます。
何度か歩いていますが、古い地図を片手に歩くとワクワクしてきます。

(能見台西側)
1982年(昭和57年)に「能見台駅」は「谷津坂駅」から改称されます。
お年寄りの方には「谷津坂駅」の名を懐かしく感じる方も多いようです。この「能見台駅」の名は、駅西側エリアの大規模な宅地開発に伴い変更されました。
「能見台」の名は、近くにかつて17世紀に「能見堂」という風光明媚な地蔵院があったことに因んでいます。

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江戸時代にここから金沢八景巡りがスタートするポイントにあたり、多くの江戸庶民が訪れた場所でした。
海に面した丘陵のエッジに位置する「能見堂」あたりは鎌倉時代から「金沢古道」があり、程ケ谷から金沢に抜ける要所でもありました。light201501280119 鎌倉時代から江戸、そして近代化に伴い、このエリアは人里離れていたこともあり軍事産業の中心地となります。
戦後、多くの工場が撤退又は産業転換し戦後の高度成長を支えます。そして昭和30年台後半から、まとまった住宅地として開発が進み現在に至ります。

鎌倉時代から現在まで、この「能見台」周辺だけでも濃密な歴史が刻まれています。

(米軍「小柴貯油施設」は?)
「長浜ホール」に隣接する広大な緑地があります。米軍が接収し「小柴貯油施設」として利用していた敷地です。ここは返還されたはずですが いまだ原野!?のままになっています。整備するには<不都合>でもあるのではないか?と疑ってしまいますがどうなっているのでしょうかね。light1977-長浜小柴貯油施設lightckt-83-長浜 この「小柴貯油施設」一帯の丘も<水際線>を知る重要なポイントなのでなんとか活かして欲しいですね。

第840話 7月5日引越し好き

今日のテーマは<引っ越し>
他の街の歴史は良く判りませんが、
横浜の歴史を眺めると施設の移転(引越し)がめだちます。
1974年(昭和49年)7月5日の今日
JR根岸線関内駅前の大通り公園に面した好立地に「教育文化センター」が開館します。略して<教文センター>ここに横浜市民ギャラリーが<移転>してきました。
(横浜市民ギャラリー)移転史
1964年(昭和39年)桜木町駅近くにオープンし
1974年(昭和49年)の今日新築の「教育文化センター」内にオープン。
2013年(平成25年)に「教育文化センター」解体のため閉館し
2014年(平成26年)10月10日に西区宮崎町に移転オープン。
このように様々な事情で移転した施設を記憶の範囲で羅列してみます。
■横浜市役所移転史
[本町1丁目(横浜電信分局)]→[港町(魚市場跡地)]→[桜木町一丁目(中央職業紹介所)]→[港町]→[老松町(老松国民学校)]→[反町(日本貿易博覧会神奈川会場)]→[港町]→[北仲へ]
No.256 9月12日(火)どこも本庁舎引越は大問題
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=348
※市役所は全国でもトップクラスの引越し回数ではないでしょうか?
■横浜税関移転史
(象の鼻パークあたりから現在の場所に移転します)
■中区役所移転史
[港町]→[桜木町]→[住吉町]→[日本大通]
※中区役所も三回引越ししています。
■南区役所移転史
※記憶の範囲
[南太田一丁目]→[花之木町三丁目]→[浦舟町2丁目へ]

■神奈川新聞社
※記憶の範囲
[太田町2丁目]→[花咲町6丁目]→[太田町2丁目]

◎港南区役所の移転計画
駅前区役所として区民には便利な港南区役所が港南区港南四丁目(すぐ近く)に移転します。これは数百メートルの移動という感じですね。計画が遅れているようです。
移転新築工事の杭工事の再施工に伴い、完成時期が約1年遅れ平成29年3月になる見込み。

◎神奈川県立図書館の移転計画が検討されています。
◎戸塚区役所が駅前に移転しました。
◎磯子区役所も浜マーケット近くの磯子1丁目から磯子3丁目に移転
◎警察署(記憶の範囲)
・山手警察
※正確な町名は判りませんが 山手町→本牧町→戦中に移転を繰り返し→小港町
・南警察署
※南警察署は名称も変わりました。
1921年(大正10年)寿警察署(南区吉野町5丁目)久良岐郡警察署から改称
1983年(昭和58年)南区大岡二丁目に新築移転
・伊勢佐木警察署
明治10年 長者町(長者町署)
明治15年 境町(横浜署)
明治17年 伊勢佐木町25番地(吉田橋際)伊勢佐木署
大正12年 震災のため久保山派出所→太田尋常小学校→初音町に移転
大正13年 長者町5丁目(本願寺)
昭和2年  新庁舎

ここまで振り返ってみると 震災と戦争・接収が横浜にとって大きなダメージになっていることが改めて認識しました。

忘れていました、横浜駅も現在三回目の移転です。

(過去の7月5日)
No.187 7月5日(木) 目で見る運河
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=420
1904年(明治37年)7月5日(火)の今日、
大岡川の吉浜橋と花園橋が遊泳禁止で話題となりました。

第831話 1950年(昭和25年)6月25日朝鮮戦争勃発

1950年(昭和25年)6月25日の今日
「朝鮮動乱が勃発する。この戦争はわが国経済に多大な「特需」をもたらした(横浜商工会議所百年史)」
「朝鮮戦争勃発。(横浜市史)」
Wikipediaでは
「朝鮮戦争(ちょうせんせんそう、1950年6月25日-1953年7月27日休戦)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡り北朝鮮が、国境線と化していた38度線を越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争。」
です。
朝鮮戦争は市内中心部が米軍により接収されていた横浜にとって大きな影響を与えました。そこには<光と影>があり、占領下の日本<横浜>の現実が鮮明になった戦争でもありました。

関内エリアは大半が占領地でした11666056_1007196312657806_2158586649515523571_n 横浜にとってこの戦争による最初の影響は横浜に司令部のあった「米国第八軍司令部」が韓国に移動します。在韓米軍は編成替えを行い極東を統括していた第八軍司令官ウォルトン・H・ウォーカー中将が朝鮮派遣アメリカ地上軍司令官に就任。
第八軍は横浜から大邱(テグ)へ司令部を移すことになります。

11377094_1007194569324647_2128983487843944639_n 11391788_1007194509324653_7381001016816611094_n大邱市内
この第八軍は現在もソウル特別市竜山(ヨンサン)基地に司令部があります。
第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)6月10日にロバート・アイケルバーガー中将の指揮下に編成された部隊でダウンフォール作戦の相模湾(茅ヶ崎)上陸作戦を行う予定でした。10933703_1007194792657958_6417406341188521689_n このダウンフォール作戦の本土上陸作戦が実施される前に日本が降伏したことにより、第八軍は終戦後司令部を横浜市(横浜税関本庁舎)に設置し東日本(実質日本全体)の占領任務に就きます。
No.243 8月30日 (木)横浜の一番長い日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=363

No.252 9月8日(土)横浜終戦直後その3
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=352

この第八軍は横浜を中心に様々な施設を接収していました。戦後接収時代を知る世代の方々は、市内のいたるところに「第八軍マーク」を見た記憶があるそうです。
第八軍マーク1795513_1007192579324846_1617232656768115400_n1896973_1007192605991510_2705981110115481566_n 10660179_1007192665991504_6360759367323415246_n
朝鮮戦争、朝鮮を舞台にした米ソの代理戦争となり日本は「国連軍」の支援という立場でこの戦争に関わることになります。横浜は「朝鮮戦争勃発にともなって横浜は国連軍の兵站基地となった。(高村直助「都市横浜の半世紀」)」ことだけでなく、過剰なレッドパージも行われ、他方 広範囲で公職追放されていた戦前の要職者の追放解除も行われることになります。
その後 1951年(昭和26年)9月8日 サンフランシスコ講和条約が結ばれ、ようやく国権を回復することになります。
No.246 9月2日(日)90年後の横浜(加筆修正)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=358

No.177 6月25日(月) 出られない出口
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=431
「海芝浦」の話です。

横浜オリジナル<ミリオンダラー>

横浜グランドホテル支配人、ルイス・エッピンガーは二つの横浜カクテルを発案したことでその名を今に残している。
その名はバンブーミリオンダラー
標準的なレシピは
(バンブー)
ドライ・シェリー : ドライ・ベルモット = 2:1
オレンジ・ビターズ = 1dash
(ミリオンダラー)
ドライ・ジン:40ml
パイナップルジュース:15ml
スイート・ベルモット(ドライ・ベルモット):10ml
レモンジュース:10ml
グレナデン・シロップ:1tsp
卵白:1/2個
<スライスしたパイナップルを飾る>
※ベルモット:フレーバードワイン
イタリア発祥のスイート・ベルモット
フランス発祥のドライ・ベルモットとがある。

【レシピ2】
ビーフィータージン:45ml
チンザノベルモット ロッソ:15ml
パイナップルジュース:15ml
グレナデンシロップ:1tsp
卵白:1個分

バンブーに関しては、当時ニューヨークで大ヒットした「アドニス」をエッピンガーがアレンジした<姉妹カクテル>だ。adonispgm このバンブー誕生に関しては推論だけ簡単に記しておく。
カクテルうんちく界では 日本らしさを表すために<バンブー=竹>としたとある。
私は<竹>そのものの話題性に着目した。
同時期 <発明王エジソンが電球フィラメントに日本の竹を短期間だが使用した>背景があるからではないか?
と推理している。
また竹の物語とアドニスの物語にも一捻りありそうだとも考えている。

さて本日の主題、ミリオンダラー
ルイス・エッピンガーはミリオンダラーレシピをどのような背景でイメージしたのか?
ジンとベルモットが基本になっているので<マティーニ>のアレンジカクテルと言っても良いかもしれない。
ミリオンダラー最大の特徴は パイナップル及びパイナップルジュースだ。
このパイナップルはアメリカの誕生期に重要な意味を持っていたフルーツである。
「植民地時代のアメリカではパイナップルはとても珍しい果物だったため、特別なお客様のいるテーブルに置くのは最上級のおもてなし」というエピソードも残っている。このスタイルはその後のゴールドラッシュに酔った49年組(フォーティナイナーズ)によって開拓された<西海岸>のホテルでもおもてなしのシンボルとしてパイナップルが使われたに違いない!この時エッピンガーは18歳だった。彼がどのような仕事に就いていたかどうか不明だが、ドイツ系アメリカ人だった彼らの多くは<金鉱探し>のバックヤードで雑貨商や食品、酒の販売を営んだ。ドイツ系移民の一人リーバイ・ストラウスが金鉱で働く人々の愚痴話からあの<ブルージーンズ>を商品化したことは有名だ。
贅沢=成功の象徴だったパイナップルはコロンブスがアメリカ大陸から持ち帰り、めずらしさと栽培の難しさから当時「王の果実」とも言われた。パイナップルに<ミリオンダラー>一攫千金の夢をエッピンガーは重ね合わせたのかもしれない。

「原産地はブラジル、パラナ川とパラグアイ川の流域地方であり、この地でトゥピ語族のグアラニー語を用いる先住民により、果物として栽培化されたものである。15世紀末、ヨーロッパ人が新大陸へ到達した時は、既に新世界の各地に伝播、栽培されていた。 クリストファー・コロンブスの第2次探検隊が1493年11月4日、西インド諸島のグアドループ島で発見してからは急速に他の大陸に伝わった。 1513年には早くもスペインにもたらされ、次いで当時発見されたインド航路に乗り、たちまちアフリカ、アジアの熱帯地方へ伝わった。当時海外の布教に力を注いでいたイエズス会の修道士たちは、この新しい果物を、時のインド皇帝アクバルへの貢物として贈ったと伝えられる。 次いでフィリピンへは1558年、ジャワでは1599年に伝わり広く普及して行った。そして1605年にはマカオに伝わり、福建を経て、1650年ごろ台湾に導入された。日本には1830年東京の小笠原諸島・父島に初めて植えられたが、1845年にオランダ船が長崎へもたらした記録もある。(whikipwdia)」

ここからも判るように、20世紀初頭には東南アジアと交易が盛んになっていた日本でもパイナップルを入手できたようだ。
インド洋から東南アジアの海洋覇権を握っていた英国と、太平洋の覇権を握ろうとしていた米国の衝点となっていた日本=横浜には多くの一攫千金の夢を持った商人が集まってきていたのだろう。
1889年(明治22年)に新生会社組織に生まれ変わったヨコハマグランド・ホテルのスタッフとして着任したルイス・エッピンガーはこの時すでに58歳だった。(支配人に就任したのは60歳)
この年、英国人技師パーマーによる築港計画が着工する。この時の神奈川県横浜築港担当が30代の若き三橋信方(後の横浜市長)だった。
新しい国際港の時代到来に備え、グランドホテルは海軍省の招きで来日していたフランス人建築家サルダに新館(別館)設計を依頼する。これによってヨコハマグランド・ホテルは客室は100を超え、300人収容の食堂、ビリヤード室、バーが整備された。lightimg147THE GRAND HOTELlightグランドホテルダイニング light絵葉書グランドホテルサービス 恐らく新館竣工期にオリジナルカクテル「バンブー」「ミリオンダラー」のどちらかまたは両方がお披露目されたのではないだろうか。
この時期、京都岩清水で採取されエジソンの白熱電球に採用された日本の竹は1894年(明治27年)まで輸出されていたので、<バンブー>が当時の話題に上がっていたに違いない。
また1894年(明治27年)に完成した「鉄桟橋」を含めた横浜築港財源が米国より返還された賠償金であったことも、狭い居留地では大きな話題となっていただろう。アメリカ人エッピンガーにとっても誇りに思っていた出来事だったに違いない。
日露戦争が始まった翌年の1905年(明治38年)、
74歳になった彼は、ホテルマネジメントの最前線から退き、マネージング・ディレクターとなり後任の支配人H.E.マンワリング(Manwaring)を母国アメリカから招聘する。
1906年(明治39年)に新しい支配人が着任した後の1908年(明治41年)6月14日
ルイス・エッピンガーはその生涯を終え、外国人墓地に眠る。
このニュースはすぐさま彼の出身地サンフランシスコに伝えられ、新聞にも訃報が掲載された。77年の生涯、後半の約20年を日本で過ごしたことになる。lightスクリーンショット 2014-08-11 11.34.39 関東大震災で焼失するまで横浜のフラッグシップホテルだったヨコハマグランド・ホテル。そこに関わった二人の支配人ルイス・エッピンガーとH.E.マンワリングは共にサンフランシスコと深い関係にあった。
1871年(明治4年)に横浜港を旅だった岩倉使節団が最初に訪れた外国、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコで宿泊したホテルがミリオンダラーホテル「グランド・ホテル」であった。lightGrand_Hotel_725 オーナーはこの街で大富豪となったチャップマンこと「ウィリアム・チャップマン・ラルソン」というオハイオ州生まれのアメリカンドリームを実現させた男だった。岩倉使節団一行を自宅のゲストハウスに招いた様子が「米欧回覧実記(久米邦武)」にも記されている。
もしかするとミリオンダラーはサンフランシスコグランドホテルにあやかったものとも推理できる。このテーマは今後も追いかけて行きたい。

「時」の話題

今日は「時」の話題から始めます。

古典落語に「時蕎麦」という滑稽話があります。屋台の蕎麦屋でお勘定をす際、「七(なな)、八(はち) 今何どきだい? 」「ここのつで」「十(とう)、十一(じゅういち)」というだましを使うネタです。
時代は江戸、
屋台の蕎麦屋はなぜ時間を正確に言えたのでしょうか?
江戸時代の時報は<鐘>の音でした。江戸では公認の時報を打つ場所が九カ所あったそうです。初めに捨て鐘三回の後に、時刻に応じてその数だけ鳴らしました。
ではその打つ時刻はどうしたのか?
当初は線香の燃え方で、その後「水時計」が設置されていて、時計に従って鳴らしたということですから、秒単位の正確さは無いものの社会生活には全く問題がありませんでした。
江戸時代の暦、太陰暦も季節感にそったカレンダーで農家には便利な<暦>でした。
時報の知らせ
鳴らす間隔は、当初「明け六つ」(午前6時)、「暮れ六つ」(午後6時)をドーンと太鼓で知らせるだけでしたが、2代将軍 徳川秀忠の時代から鐘に代わります。昼夜十二の刻を打つようになります。
「時そば」の九つ時、午(うま)の刻(午後零時)か子(ね)の刻(午前零時)のことです。落語には近くで様子を見ていた<与太郎>が登場していますので、午(うま)の刻(午後零時)の九つ時が自然かもしれません。
※「時そば」はyoutubeに多く収録されていますのでどうぞお楽しみください。
この時に使われていた時刻は江戸以前の「和暦」に基いて不定時法を用いていましたが、明治六年以降太陽暦を使うことになります。定時法(24時間を均等に分ける)時刻となり西洋式の時計が大量に輸入されます。ところが、
時計があっても、すぐに時計は役に立ちません。
基準時と「時報」が必要だったからです。
日本の基準時間をどうするのか?
教科書では「東経135度 明石標準時」と習います。
この明石標準時は、東経135度の時刻を日本の標準時とすることを定める勅令「本初子午線経度計算方法 及標準時ノ件」が1886年(明治19年)公布され決定します。
英国のグリニッジを基準とした日本の上を通る9時間の時差となる135度とすることになります。
この英国グリニッジ標準時も、国際会議でかなりもめます。フランスも自国の国立天文台を基準にすることを主張したからです。
1884年(明治17年)国際子午線会議の投票で僅差の結果、英国に決定します。
もし、フランスに決まっていたら 明石では無くなっていたでしょう。
1884年(明治17年)以降、一気に国際標準時の整備が世界レベルで推進されます。
二年後の
1886年(明治19年)に明石が標準時地点と正式に決まり、
国際標準時を必要とする国際港に<時報>が求められるようになります。
1903年(明治36年)の3月2日
「横浜」と「神戸」の国際港にタイムボール(報時球)が設置され運用開始しました。
<かなり前置きが長くなりました>
横浜港のタイムボール(報時球)は皮肉にも<フランス波止場>近くにありました。
light横浜絵葉書時報003 現在で推測すると、氷川丸とホテルニューグランドの間、山下公園の中央広場あたりです。
ちなみに横浜のタイムボールは<黒色>で、神戸は<赤色>だったそうです。この絵葉書が赤なのは<手彩色>で目立つことを意識したのかもしれません。

1913年(大正3年) 航海指針 山田正良 編 (海員協会版)
横浜報時球信号手続
1.報時球は日曜日及大祭日を除き毎日本邦中央標準時の正午時(東経135度に於ける平時正午時即ち英国経威平時の15時)に墜下せしむ
2.報時球の位置は北緯35度26分40秒988 東経139度39分零秒330トス
3.報時球の色ハ黒色に塗り櫓は白色とす
4.球は常に下部横木上に据置き正午時約5分前(午前11時55分)より之を上部横木下まで引揚げ東京天文台より電気作用を以て之を降下し始むる瞬時を以て正午時とす
5.報時信号に過誤ありたるとき又は故障の為め該信号を為し能はざるときは球櫓の下桁端に萬国船舶信号W旗を掲ぐ
「横浜報時球信号手続」でも表記されているように作動は
「東京天文台より電気作用を以て之を降下し始むる」
電信により遠隔操作されていたことになります。
<球>が知らせる時刻に合わせて 少し前に上に上がり、ジャストタイムに球が落下するしくみだったようです。港に停泊中の船舶は<望遠鏡>で報時球の落下を待ちます。落ちた瞬間「タイム!」と叫び 船舶内の時計の時刻の誤差確認をしたそうです。
■横浜報時球信号の位置
「神奈川県港務部報時信号所及暴風雨標」神奈川県港務要覧(明治43年)より

【さらに時報の余談】
現在調査中の話も ちょっと紹介してしまいましょう。
本町1丁目にあった町会所(現:開港記念会館)は1874年(明治7年)に竣工し石造亜鉛葺二階建て、一部四階建て延765㎡の壮大な洋館として開港場(関内)のランドマーク的役割を果たしました。特に時計台と時報を告げる音が<寺の鐘>だったそうです。
洋式の建物・時計台に西洋の鐘ではなく寺の鐘!
何故 和式だったのか?知りたいところです。
この鐘 どんなものだったか? 一枚の絵葉書で発見しました。
わかったことはここまで、さらに詳しくは 別の機会に紹介します。

 

図書館設置問題と水源林買収

今日は横浜資料からたまたま出会った史実を紹介します。
(掃部山公園)
横浜市史5巻目第二章「第一次世界大戦下の市政」第二節に
「図書館設置問題と水源林買収」という項目が書かれています。
読んでも2ページ程度なので全て引用しても良いのですが、前振りも含めて少し編集してみました。
第二節のタイトルは「遅々たる公共施設の整備」
ここでは横浜史の中で明治末期から大正初期について触れています。
横浜は開港50周年の記念行事も行い交易も盛んな大都市になった割にインフラを含め公共設備がなっとらん!と市議会で問題提起されます。

大正3年には「開港記念横浜会館」の建設が始まります。

当時
「一つの公会堂なく一つの図書館なし」と揶揄された横浜市は、まあ経済優先だったのでしょう。港湾施設は国のお金で大きく整備されてきましたが、市内を見回すと<ろくなものがない>という状態、文化施設不毛の町でした。様々な文化施設の計画が無かったわけではありません。市議会での議論がまとまらなかったのです。
例えば「商品陳列館」(現在のコンベンション・トレードセンター?)の建設計画も紛糾し先送りとなります。<市会>は明治以来<商人派><地主派>の系譜が二大勢力となって対立状況がありました。
同じく市民力のバロメータである「図書館」建設も明治期からの懸案事項でした。
ライバル神戸市は明治44年に規模は小さいですが本の閲覧を始めていました。その後、本格的な図書館が大正10年に開設されます。横浜市立図書館、そして大阪市立図書館も、大正10年に<横浜公園仮設閲覧所>が開設されます。
といっても戦後制定された<図書館法>による公共図書館の体裁はあまり整っておらず、本格的な開館は戦後を待ちます。
大正10年に図書館が開館した背景には「公立図書館職員令(同年勅令336号)」があるのかもしれません。
この辺詳しくないので勅令のタイミングだけ記しておきます。

※水源林確保のテーマは 横浜水道史のキモ!なので別立てで紹介します。

大正3年に彦根の井伊家から「掃部山」一帯4,233坪を横浜市に寄付するという申し入れが“正式に”あります。この広大なしかも整備された公園空間を無償で提供した背景は、聞くも涙、語るも涙の井伊家と支援者の努力があったのですが背景は別段で。
この公園、
寄付には条件がついていました。
●未来永劫 公園として使用しすること
●井伊直弼像はそのままにしておくこと※
※これが井伊家の<本望><photo id=”7″ />
●公園にはその他の建造物、井伊像とは関係のない記念物を建てない!
そして ここが肝心、
◎市が開港記念のために図書館を建設することは許す。
しかも 井伊家から2万円を補助するというものでした。
この申し入れをチャンスに図書館を建設しようという考えもだされます。ただ、この井伊掃部頭像を巡っては <開港50年式典>で政界を巻き込んで一悶着があった公園ですから、その後もスムースに掃部山に図書館ができるわけもなく、
横浜市は候補地を北仲にあった宮内省御用地払下げを目論みますが、条件が折り合わず計画は頓挫します。
結局大正10年になって横浜公園の仮設閲覧所を経て、昭和2年にようやく現在の中央図書館が開設されるに至ったのです。

一方、現在の<神奈川県立図書館>は戦後になり<サンフランシスコ講和条約>の記念事業として紅葉丘、掃部山公園に隣接する場所に設置されます。この時の知事は内山岩太郎という“豪腕知事”でした。

井伊家のメッセージに寄り添ったのか判りませんが、マッカーサーがペリーを意識した<講和条約>の記念事業に掃部山脇の図書館というのも歴史の皮肉といえるでしょう。

(大横浜)
横浜に様々な施設が登場するのは昭和に入ってからです。
残念ながら関東大震災後の復興事業によって横浜商工奨励館や横浜中央電話局、本町旭ビル、横浜地方裁判所の他都市中心部の威容は整います。

文化施設も、公園が整備されたのも関東大震災後の復興事業でした。

山下公園、野毛山公園もこの時期に整備されます。
実は 関東大震災後の復興計画で 横浜市の中心部を戸部に置く計画もありました。
市域を拡大し、市としても拡大していく上で、中心をどこに置くか?
今回市役所の移転で、少し市の軸がまた北に移動しますね。
ちょっと暴言になりますが、横浜の原点は<野毛・吉田橋>にあるんじゃないか?
と時々思うようになりました。<photo id=”3″ />

この辺に関しては 改めて。
最近横浜もビアガーデンが復活しているらしいので 飲みに行きますか!!

(過去の7月29日ブログ)
No.211 7月29日 (日)株式会社横浜国際平和会議場
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=396
1991年(平成3年)7月29日の今日、
横浜みなとみらいに通称“パシフィコ横浜”
「会議センター」と「ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル」が完成しました。運営会社の正式名称は「株式会社横浜国際平和会議場」です。
これに伴い
1991年(平成3年)7月29日

「市営バス141系統<横浜駅前〜パシフィコ横浜〜桜木町駅前間>運転開始(横浜市営交通八十年史)」します。

横浜市町内会連合会

1975年(昭和50年)6月12日の今日は横浜市内の町内会会長で組織していた「横浜市町内会長連絡会」が「横浜市町内会連合会」という名に改称されました。
皆さんは地域の自治会町内会に加盟していますか?
「自治会町内会は、一定の地域において、住民相互の親睦を図り、そこで起こる様々な課題を解決することを目的に自主的に組織された住民団体です。
横浜市内には、平成26年4月現在で2,881団体の自治会町内会が組織され、約123万世帯の市民が加入しています。」
と「横浜市町内会連合会」のサイトに書かれていました。

「自治会町内会は防災や福祉、美化活動など安全安心で住みやすい地域づくりを目指す活動や、お祭りや運動会などのレクリエーション活動を行っています。
普段、あまりお気づきにならないかもしれませんが、自治会町内会の活動は、みなさんのくらしに欠かせない役割を担っています。
地域の絆をはぐくみ、地域で支え合う社会を作っていくためにも自治会町内会への加入をお願いしています。」
http://www.yokohama-shirenkai.org
さらに少し遠慮気味に勧誘もしています。
横浜も加入率の低下に悩んでいるようです。
横浜市内 自治会町内会には
123万世帯が加入(H26年)しているそうです。横浜の総世帯数が約163万(H26年)ですから7割強の加入率という計算になります。
内閣府のH19年「町内会・自治会等の地域のつながりに関する調査」では
「町内会・自治会があると回答した人は、9割を超えている。また、町内
会・自治会の区域としては小学校区より狭いという回答が7割を超え、平 均すると約 600 世帯、9割弱の加入率である。なお、回答者世帯の9割超 が実際に町内会・自治会に加入している。」
都市部の横浜はかなり低い加入率です。
横浜市自治会町内会加入率推移横浜市自治会町内会加入率推移


(自治会・町内会?)
ここまで「自治会町内会」とまとまった<単語>で表記しましたが、地域によって自治会・町内会はそれぞれ別名称で使用されています。
横浜市の公式見解(ちょっと大げさですが)では
「自治会・町内会は、地域に住むみなさんが自らの手で相互に仲良く助け合いながら、自分たちの地域生活をよりよくしていくために、様々な活動を行う任意団体です」
「「自治会」「町内会」の名称については、呼び名は違いますが、団体の活動内容に違いがあるわけではありません。それぞれの自治会・町内会が発足時に、決定しております。」
と名称は違うが内容は同じとしています。
地方自治法でも、「地縁」団体とされていて、町内会=自治会となっています。
徹底して調べていませんが 町会・町内会その下部組織として<隣組>の呼び名が戦前に使われ、戦後自治会が使われ始めたようです。
町単位が町会、集合住宅や新しくまとまって開発された住宅地には「自治会」が多く感じますが、混在していて明確な特性とはなっていません。
→市内自治会町内会の形成 おもしろそうです。
例えば自治会は「西柴団地自治会」「権太坂境木自治会 」「青葉区連合自治会」「緑区中山町自治会」「下田町自治会」「鴨居地区連合自治会」「本郷台自治会」「関ヶ谷自治会」
一方町内会は
「港北区連合町内会」「桜木町町内会」「南吉田町内会」「山元町3・4・5丁目町内会」「青葉区たちばな台町内会」「長沼町内会」「岡野二丁目町内会」

(歴史)
「横浜市町内会連合会」がまとめたものをベースに横浜に特化し町内会の歴史を調べてみました。
町内会の起源
横浜市における町内会の起源は、市制が施行された翌年の明治23 年(1890 年)
に作られた「衛生組合」で
この衛生組合を組織した目的は、
第一に横浜が開港以前は一寒村にすぎず、他の地域にあるような旧来の隣保組織を持っていなかった
第二に横浜が開港地として貿易や居留外国人との関係で、伝染病の危険にさらされる機会が多かったため
と横浜の町内会の起源をまとめています。

横浜の場合、
「横浜が開港以前は一寒村にすぎず」という点が大きいです。この決まり文句の「一寒村」という代名詞には異論がありますがここでは置いておきます。
※寒村ではなく小さい村で暮らしは豊かだった
横浜開港場は江戸時代までの農村や城郭・寺社・宿場などといった<地縁社会>の無い政治特区でしたので「旧来の隣保組織を持っていなかった」ことが特徴といえるでしょう。これも市域拡張で旧来の<地縁社会>が横浜市内にも組み込まれ、新旧の<融合>が横浜の文化的なエッジであるだろうと考えています。
横浜開港場周辺の地域にとって集落の<結束>は上記の第二の理由
<伝染病の危険>が大きかったといえるでしょう。

No.89 3月29日 ペスト第一号もYOKOHAMA
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=528
No.217 8月4日 (土)わがひのもとの虎列刺との戦い
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=390
悪い意味でいち早く伝染病の被害を受けた横浜は1890年(明治23年)に作られた「衛生組合」がいわゆる地域互助組織=隣保組織の代替となったようです。
その後関東大震災を経験しながら、「衛生組合」が「自警団」等を経て「町内会」「青年会」等の地域組織として地縁組織となっていきます。昭和期横浜市には、自治活動を行うための町内会、衛生組合の町内会事務代行、町総代会という3つの組織がありましたが1940年(昭和15年)9月11日付け内務省訓令第十七号「部落会町内会等整備 要綱」により「隣組」「町内会」として明確に一本化されます。
「隣組」は十戸内外で組織されるように指導され、当時大ヒットした<国民歌謡>によりさらに強化されることになります。
https://www.youtube.com/watch?v=rBh4wUrjltM
https://www.youtube.com/watch?v=kQf-aO95ezU
1941年(昭和16年)時点で
横浜市の町内会数は798、隣組は約2万に達し、銃後の守りとなりました。
戦時中の横浜の「隣組」の様子を丹念に調べた本が出ています。
「戦時下の日本人と隣組回報」渡邊洋吉 幻冬舎新書2013年刊
横浜の資料を読み解いた力作横浜の資料を読み解いた力作
この本は珍しい昭和16年〜17年の横浜市戸塚区矢部町第6隣組で回覧された「隣組回報」を読み解きながら当時の時代背景、状況を克明に記しています。

戦中に隣組、町内会は有効な情報伝達組織、地域管理システムとして機能しましたが、粗末な地域権力構造となり暴力組織にもなり終戦とともに解散・解体されます。
戦後、未組織の中で生活互助的な「防火防犯協会」「赤十字奉仕団」が誕生し「町内会」の役割を担うようになります。
1951年(昭和26年)GHQの自治政策緩和により権限が政府自治体に移管、「町内会」組織の再編が始まります。長い接収時代が徐々に解除となり、横浜市に多くの人口が流入する30年代ごろから積極的に新しい「町内会」組織育成と平行して従来とは違った形の自治会町内会(団地管理組合の性格をもった自治会町内会など)が続々と結成されます。
これらの地域互助組織の発展形が市連合町内会長連絡会となり
1975年(昭和50年)6月12日の今日
横浜市町内会連合会に改称されたという訳です。

(横浜国立大学でも)
町内会への加入について
町内会に入って、地域デビューしよう!ー地域に新たな活力を!ー
学生の皆さんは、国大生になって実家を離れ、国大周辺やヨコハマ地域等に暮らす「地域社会の一員」です。その地域を運営していくには、町内会という組織が必要で、日夜活動しておりますが、その町内会では若い力である国大生の加入を強く求めています。
「遠くの親戚よりも近くの他人」という諺がありますが、どうか地域の方々と顔馴染みになり、何かあったらお互いに助け合っていくような間柄になっていただきたいと思います。
皆さんが地域住民の方々に見守られていれば、ご両親も安心です。

なんて案内もあるのには驚きました。

長くなりましたが、最近人気薄の自治会町内会ですが
違和感があることも事実です。個人単位ではなく<世帯単位>であることや説明(理解)のプログラムなしに半強制的な<雰囲気のある>ところも
地域の老人親睦、広報の配布組織といった批判もあります。
地域社会の「骨粗鬆症」化と表現する専門家もいます。
なんといっても<防災上>
私達を守る私達が守る共助組織です。
さらに高齢化の中での様々な課題を解いていく大事な下支え組織でもあります。
しかし
世代間・ライフスタイル別の運営に対する認識ギャップが多く生じているようです。その他の共助組織との連携やシームレス化も遅れています。
横浜も空き家率、高齢化率が 急上昇しています。
このギャップを乗り越えるには さらなる工夫が必要でしょうね。

No.164 6月12日(火) JR JR
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=446
1872年6月12日(水)(旧暦明治5年5月7日)かねてよりの突貫工事で進めていた品川・横浜間の鉄道が仮開業しました。

【謎解き横浜】弁慶の釣り鐘は何処に?

「一寒村に過ぎなかった横浜が〜」
枕ことばとして使われる横浜開港のフレーズです。小さな村でしたがそれを<寒村>という枕詞で形容するのは止めよう派です。(少数?)
<小さな村>たしかにその通りですが、私はもうこの苔むした表現は卒業したほうが良いなと考えています。開港前の横浜村は風光明媚な<観光地>でもありました。

開港によって横浜は開港特区となり、その中心地となった開港場は国内外のビジネスが集積する都市となっていきます。明治になり、開港場でビジネスを展開する貿易商人たちが日々起こる案件を評議する目的で「町会所」が設立されます。横浜商工会議所の原点です。
light_時計台神奈川県全図1874年(明治7年)に竣工した町会所は、石造亜鉛葺二階建て、一部四階建て延765㎡の壮大な洋館として明治38年に撤去されるまで開港場の「時計台」としてもランドマークの役割を果たします。
鐘塔はドーム風に設計され、時計はスイスの商社<ファーブルブラント商館>が輸入したものを取り付けます。light_町会所時計台

町会所は1890年(明治23年)に「横浜貿易商組合会館」と改称し
その後「横浜会館」と呼ばれるようになります。明治30年代半ばにはこの「横浜会館」も老朽化し明治38年に改修工事のため解体工事が始まります。
この時「時計台」も撤去されます。
翌年明治39年に焼失し、改修を断念します。
1909年(明治42年)横浜開港50周年を機に、「横浜会館」再建計画が持ち上がり資金集めが始まり大正3年9月に起工、同6年6月に竣工したのが現在の愛称ジャック「横浜市開港記念会館」です。当時は「開港記念横浜会館」と呼ばれました。開港記念会館夜景

今回のテーマは、この「町会所」にあった<鐘>です。
平野光雄の「時計亦楽」(昭和51年10月25日、青蛙房刊)横浜町会所時計塔の項に下記のような記述がありました。
「付記。『開港記念横浜会館図譜』(大正六年十一月刊)を見ると、旧町会所時計塔に設置された時報用釣鐘(梵鐘風の和鐘)の写真が掲載されており、当然、大正六年までは釣鐘が存在していたことを物語っている。(以下略)p98」梵鐘

開港記念横浜会館図譜<え?梵鐘風の和鐘?!>
この町会所は1874年(明治7年)に竣工、石造亜鉛葺二階建て、一部4階建て延床765㎡の壮大な洋館でした。ここには町役所や歩合金徴収所、貿易商組合事務所などが入っていました。4階には文明開化を象徴する巨大な時計塔が設置され、鐘塔はドーム風に設計され、前述の通り時計台の機械はファーブルブラント商館が輸入しジェームス・ファーブルブラント自ら塔屋に登って取り付けを指揮したそうです。
※JamesFavre-Brandt
http://www7b.biglobe.ne.jp/~scemo3440/favre-brandt.html
http://www7b.biglobe.ne.jp/~scemo3440/favre-brandt2.html

時計は時刻を刻みますが、見える範囲でしか活用できません。
そこで、<和製の梵鐘風の釣鐘>を撞き<時報>とした訳です。
鳴らされた時刻はわかりませんが、例えば正午に「ゴーン」と鐘が鳴ったお寺の無い開港場はどんな感じだったのでしょう。居留地の外国人には<クールジャパン>だったのかもしれません。
「時計亦楽」の著者も疑問を呈していますが、
この「釣鐘」は何故和風だったのか?
その後、この釣鐘はどのような運命をたどったのか?

開港50年記念祭 弁慶の釣鐘と提灯1909年(明治42年)開港五十周年の年、市内では様々なお祭り、式典が開催されます。開港五十周年を祝う<弁慶の絵柄の鐘楼が写った絵葉書>
この絵葉書には「この鐘の由来」がおぼろげに見えます。
「旧横浜会館時計台時報に用いたる者なり」(良く読めません)
新しく制定された市章<ハマ>マークの提灯と、横浜会館で時報として使われていた釣鐘が弁慶に担がれている光景です。

さて、ここに登場する「弁慶の鐘」とはどんな意味合いだったのでしょうか?
「弁慶の釣鐘伝説」という話は全国にあるようで、そもそもは
三井寺(園城寺)金堂に伝わる
弁慶が“比叡山に持ち帰った”という伝(つたえ)のある鐘のことで
「ある日、弁慶一行が三井寺にやってきて、ひと暴れした後、このお堂の釣鐘を引っ張り出して比叡山に持って帰りました。この鐘は、俵籐太が琵琶湖の竜神の頼みで、百足を退治して、そのお礼に竜宮から貰い、三井寺に寄付したと言伝えがあります。さすがの弁慶も簡単には持ち上がらず、引き摺っているのが、よくわかります。
それで、この鐘を「弁慶の引き摺り鐘」と言うようになりました。」
とあります。
この他
●鳥取県の大山寺の釣鐘
弁慶の釣鐘(寿永の鐘)
弁慶の怪力 鳥取県の大山寺の釣鐘を、一日で島根県平田市鰐淵寺まで担ぎ持ち帰った。18歳の修行僧時代のことで、なんと 101Kmの距離を担いで運んだそうです

●石川県金沢市石浦神社拝殿
「石川県金沢市石浦神社拝殿弁慶に伝わるエピソードに、「弁慶の釣鐘引き」の話がある。?〜1189。源義経(1159〜1189)の家来といわれているが、大体が室町時代成立の『義経記』によるもので、その生涯は明らかではない。
主君に最期まで尽くし、かつ怪力無双の豪傑ということから人気が高く、能「安宅」や歌舞伎「勧進帳」では主役である。」
と解説されています。

●出雲市の鰐淵寺
にも伝承があります。

大切な梵鐘を移動させた<因縁>を伝えるための物語のようです。こんなに大切な梵鐘を弁慶によって移動させたのは<これこれしかじか>という訳です。
「横浜会館」の時計塔(横浜町会所時計塔)の鐘は
どこから来て どこに行ったのか?
横浜沿革誌残念ながら いまだもって謎のママです。何かの資料が発見されわかる日がくるかもしれません。開港場の時報が<ゴーン>だったことは、当時の開港場の音の風景としてはかなり面白いエピソードではないでしょうか。