11月 30

【大岡川運河物語】日ノ出川運河

かつて大岡川運河群の背骨に当たる「吉田川・新吉田川」現在は大通り公園と呼ばれている、この通りの関内駅寄りに「日ノ出川公園」がある。
全長604mで、吉田川と中村川に繋がっている。

完成したのは1873年(明治6年)、横浜に鉄道が敷設され急速に開港以来、次の発展が始まった時期にあたる。開港場(関内)の誕生による賑わいも後背地としての関外(吉田新田域)にまで住宅地・商業地が拡大していく真っ只中にあった。
この頃、開港場と周辺の集落を繋ぐのは、南に堀川筋、北に新生横浜駅、西の吉田橋を渡り吉田町・野毛町ルート、西へ伸びる現在の伊勢佐木だっだ。
さらに開港場の賑わいを支えるには、一つ大きな障害があった。南一つ目沼の存在である。
元々、ここは北一つ目沼と共に1667年(寛文7年)に完成した吉田新田の水田の水抜き用湖沼だった。古文書には悪水池と記されていた。

江戸期に入ると、日本の農業は田畑への肥料の投下(施肥)が盛んに行われ、当時の水田は汚染処理も重要な作業であった。特に吉田新田は下流域が海に面し、真水を維持しつつ上流からの肥料を多く含んだ水を貯めなければならない。
水田の維持は大変だったに違いない。
すでに、北一つ目沼は常清寺を中心に宅地化されて、一時期遊郭にもなり吉田町、吉田橋と続く動脈だったが、南一つ目沼は相変わらず悪臭のする沼が存在していた。
明治に入り早速関内外の整備の動きが加速し、1870年(明治3年)には根岸湾と中村川を繋ぐ「堀割川」計画が始まり、かつて中川と呼ばれていた灌漑用水路を活かした運河を整備し直結する計画も始まった。
南一つ目沼埋立に必要な土は堀割川開削時の土を活かし、日ノ出川水路はこの南一つ目沼埋立時に水抜きを兼ねて残されたものだろう。
埋め立てられた日ノ出川両側には運河を利用した石材店、木材店、回漕店などが店を構えるようになった。

大正期頃の日ノ出川風景

掲載の風景は、日ノ出川扇町付近。川岸に石材店があり、和船には木材が積まれているのが判る。ただ前述のように日ノ出川、運河というより排水路の役割のほうが大きかったのではないだろうか。川幅が狭く、水深も浅かったことから、 大型船の航行には適していなかったため、明治期から日ノ出川両岸の町内が日ノ出川によって分断されている寿町・松影町・吉浜町・扇町・翁町・不老町・長者町の住民達からは埋立要求が出ていた。
一方で両岸で営む薪炭商・製材商・材木商・造船鉄工商・青物商らは生活を脅かされることから<埋立反対>の声が出て結果、対立の構造が生まれてしまった。

戦前、昭和期の日ノ出川付近 正面に寿小学校

関東大震災後の1924年(大正13年)に復興計画の一貫として政府復興局は、山下公園・野毛山公園・神奈川公園の公園整備とともに、日ノ出川を埋め立てて<公園化>する案が検討されたが、埋立反対派の事業者たちは市議会に存続・改修を求める要求を出し、可決された。
ほとんど艀船も入れない日ノ出川は、浚渫もできず、埋立もできないまま結局戦後まで残される形となった。横浜空襲で周辺は焼け野原となり、日ノ出川は残骸・瓦礫の投棄処分が繰り返され、川の体を失っていた。
さらに周辺を戦後占領軍に接収され、本格的に埋立計画が始まったのが接収が解除された1953年(昭和28年)のことであった。

終戦直後の関外埋地七ケ町付近


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Posted 2021/11/30 by tadkawakita in category "大岡川水系", "横浜と船", "横浜絵葉書", "水辺の風景

About the Author

横浜の歴史にざくっと関心をもって15年です。本腰をいれて学び始めて5年となりますが、学べば学ぶほどに深くなっていきます。 Y2345というキーワードを作りました。1923年〜1945年までの横浜を軸に「横浜史」を乱学しています。 史実に出会ったら、できるだけ現在の地を訪れるよう努力しています。

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