明治期の台場図、左上斜めに鉄道が開通しています |
現在と重ねてみました(ちょっとマップが古い!) |
(概要)
調査は過去に何回か実施されていましたが、
今回(2008年6月30日)の調査は、台場と陸地を繋ぐ
「西取渡り道(にしとりわたりみち)発掘調査」が行われました。
場所は、古地図では一目瞭然ですね。
でもこれが現在どこか?
というと横浜通でも実際足を運んでみないと中々分かりづらくなっています。
京急仲木戸から徒歩十分くらいです。(バスもあります。コットンハーバー行き)
古地図上、横浜港に突き出ているのが横浜台場です。
東京のお台場が有名ですが、幕末期全国に数多くの「台場」が作られました。
四方海に囲まれている日本にとって海岸線(港)の防衛上不可欠な要塞でしたから全国急ピッチでお台場造りが進められました。
(約1,000箇所ともいわれています)
この神奈川台場は、幕府より神奈川湊近辺の警備を命じられた松山藩(現在の愛媛県松山市)が勝海舟設計のもとに1859年(安政6年5月)に着工し、1860年(万延元年6月)に完成したものです。
※実質は勝海舟に丸投げ!だったという記録もあるようです。
扇型に近い形状で3つの稜堡(りょうほ.凸角部)がつくられ、函館の五稜郭と同様にヨーロッパの大砲を使用する対近代戦用の稜堡式(りょうほしき)築城形式が採用されました。
この神奈川台場、他のお台場とは少し役割が異なり
“多目的”だった点が注目されます。
(数ある台場でも貴重な存在)
神奈川台場、軍事施設であると同時に、他の台場には見られない船溜まりという構造を持っていました。
また、諸外国の外交団が来日した時や外国の国王・大統領の誕生日などに儀礼として祝砲を発射する施設として利用された記録が残っています。
国際港湾都市横浜に相応しい施設だったといえるでしょう。
総面積は約2万6千平方メートルで、埋立には付近の権現山(神奈川区幸ヶ谷(こうがや)、幸ヶ谷公園付近)の土砂が使われました。
(忘れ去られた遺構)
この神奈川台場は、1899年(明治32年)2月に廃止され、大正時代あたりから周囲の埋め立て事業によってまさに“埋もれて”しまいます。
石積みがしっかりしています。 |
発掘された遺構 |
(蘇るのか開港場の遺構)
このお台場、過去に何度か保全計画が持ち上がったようですが、全て計画だけで今回の発掘を待つしかなかったようです。
ただ、埋め立てたままであるということ、中心部はJR貨物の東高島駅で掘削等を殆ど行っていないことから、まだまだ保全には期待が寄せられています。
一部ですが、開港150周年を記念して、神奈川台場公園の敷地内にその石積みが復元展示されています。
さらに、
■参考リンクが多くありますので一部を
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/park/make/kanagawadaiba.html
http://boso-cycle.blogspot.jp/2011/02/blog-post_13.html
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1110010016/
http://castle1.exblog.jp/15444965/
http://castle1.exblog.jp/15382223/
http://castle1.exblog.jp/15401750/
http://www.katsu-iwai.com/katsusable/index.html
■マンション内資料室で公開
日本人はどうも「形」が見えないと関心が高まらないようですが、2012年(平成24年)5月に、遺構を個人的に公開した方々がいます。
これで、さらに神奈川台場へのリアリティが増して来ると期待されています。
詳しくは
http://www.hamakei.com/headline/6987/
「営業時間は10時〜23時。入場料は大人100円、子ども・学生無料。資料室はレンタルホール(有料)としての貸し出しも行っている。問い合わせは栄光(TEL 045-441-5465)まで。」
※余談
幕府より神奈川湊近辺の警備を命じられたのが松山藩
開港場付近の警備を命じられたのが越前松平藩
越前松平藩の警備本部(陣屋)が日ノ出町駅近くに作られました。