(素案レベルです。今後加筆修正される予定です)
1901年(明治34年)と1904年(明治37年)1月25日に
市議会議長に渡辺福三郎が選出されたと「横浜市会の百年」の年表に記載されていました。
(渡辺福三郎の議長任期は1893年(明治26年)〜1905年(明治38年)で、市会の議長選挙は概ね明治期は1月に行われていました)
この市会議長を10年以上歴任した渡辺福三郎という人物について
今日は紹介しましょう。
《渡辺福三郎》
1855年(安政2年)1月〜1934年(昭和9年)
明治から昭和前期に横浜を舞台に活躍した実業家です。明治の時代、茂木・原・若尾と並ぶ横浜の豪商と言われた実業家です。
福三郎、江戸は日本橋の老舗海産物業「明石屋」の家に生まれました。
彼の父にあたる「明石屋」7代目福秀の時に横浜が開港を迎えます。
開港場の交易を推進するため幕府の勧めもあり元浜町に「明石屋分店」を構え巨額の投資を行います。
江戸で商っていた軍用石炭を横浜でも扱い、その他に海産物・蚕糸を取り扱いました。福三郎の代になり横浜支店は本格的に外国船の石炭や、輸出用の海産物を扱い「石福商会」の看板で事業を拡大していきます。
彼が関わった横浜の事業は多岐にわたりました。幾つか紹介しましょう。
神奈川・八王子間の「横浜鉄道(現在の横浜線)」の発起人・経営者の一人として尽力します。また「横浜電気鉄道」の設立にも関わり<取締役>に就任し経営に参画します。
1912年(明治45年)には渡辺銀行を設立、馬車道入口の本店は地域のランドマークとして威風を放ちます。
渡辺銀行は経済恐慌の影響を受け残念ながら昭和13年に第一銀行に買収され消滅しますが、戦前の横浜経済の重要な役割を担ってきました。
さらに
<渡辺福三郎>の妻 「たま」という女性を紹介しようと思いましたが、
実業の福三郎とはまったくジャンルの違う分野で大活躍した横浜の女傑!です。
彼女に関しては 別仕立てでぜひ紹介したいと思っています。
「横浜宝塚劇場」が改装オープンし「市民ホール」となった日です。