6月 20

No.172 6月20日(水) 階級差なく埋葬

保土ケ谷区狩場町にある「英連邦横浜戦死者墓地」をご存知ですか?
横浜にある外国人墓地の一つです。
今日は「英連邦横浜戦死者墓地」のエピソードをご紹介します。

英連邦横浜戦死者墓地

(プロローグ)
1998年(平成10年)1月15日(木)
来日中のトニー・ブレア英国首相は、16センチの積雪で首都圏の交通が麻痺状態の中、万難を排して保土ケ谷区権太坂「英連邦横浜戦死者墓地」を訪れます。

(当時私は保土ケ谷に住んでいたので雪の中、
 異様な交通規制を印象深く記憶しています)
英国の要人は全て来日の際ここを訪れます。
1975年(昭和50年)に来日したエリザベス女王、
そして1991年(平成3年)来日したダイアナ妃もここを訪れ慰霊に祈りを捧げました。

(英連邦法)
この「英連邦横浜戦死者墓地」は終戦直後の
1946年(昭和21年)6月20日(木)の今日
日本軍が使用していた児童遊園地を連合軍が接収した日です。
ここは約8ヘクタールの広大な敷地で、英国がいち早く戦死者墓地候補に決定し、政府間交渉に入ります。
米国とは異なり、この広大な空間を、“英連邦戦死者の埋葬場所”の候補地とした理由は、英連邦独特のルールがありました。
「戦死者の遺体は本国に送還せず、階級差なく現地で埋葬するという原則」(1917年制定)に従ったものでした。
「英連邦横浜戦死者墓地」は日本政府から譲り受け、英国政府が管理し現在1,853の慰霊が葬られています。

※英連邦墓地は世界に2,500カ所余り、小規模を含めれば21,000カ所あるといわれているなか、世界最大級の規模です。

(静寂と鎮魂の別世界)
ここに埋葬されている戦没者の大半は、第二次世界大戦中に日本の捕虜となり、没した人たちです。
出身国別にイギリス区、オーストラリア区、カナダ・ニュージーランド区、インド・パキスタン区、戦後区の5区に分けて埋葬されています。

No.122 5月1日 ハイデルベルク・ヘンリーと呼ばれた男

ここは“観光地”ではありませんが、横浜の歴史を知る大切な空間である事は間違いありません。
一度は訪問しておく価値のあるところです。
一般開放されていますが、あくまで墓地ですのでご注意下さい。

■英連邦横浜戦死者墓地(参観無料)
参観時間:AM8:00〜PM5:00
住所:保土ヶ谷区狩場町238
アクセス:JR保土ヶ谷駅からバスで20分、「児童遊園地前」下車。

アクセスマップ

(余談)
1998年に来日したトニー・ブレア英国首相は「第三の道」を新しい政治体制の方向と位置づけ絶大な支持を得て労働党を安定政権に導きます。

一読の価値あり

当時野党民主党の代表だった「菅直人」との会談で
菅直人が 「政権奪取の秘訣は何か」と尋ねます。
ブレア首相は
「その前に、我が労働党は政権を取るまでに18年もかかったことを申し上げたい」
「政策の出発点に文化のよりどころがなければ、一時的に新しいもの好きの支持を得ても、根を下ろす力にはなりません」
民主党の議員諸君「第三の選択」読み直したほうが良いかもしれません。

6月 19

No.171 6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け

1916年(大正5年)6月19日(月)の今日
歌人佐佐木信綱(44歳)は横浜三渓園に行き、
滞在していた詩人であり思想家のタゴールと面会しました。

(タゴール日本と出会う)
1913年(大正2年)アジア人として初のノーベル賞(文学)を受賞した
インドの詩人Sir Rabindranath Tagore(1861年5月7日〜1941年8月7日)は、
1901年〜1902年(明治34年〜35年)にインドを訪遊中の岡倉天心と交流します。

かねて関心の高かった日本(人)との出会いでした。
横浜生まれの岡倉天心は、
近代日本の美術界に多大な貢献と影響を与えた人物ですが、
国内でのトラブルから再起のための充電の旅でもありました。※

開港記念横浜会館横にあります

※1898年彼の尽力で開校した東京美術学校で天心排斥運動が起き
 横山大観、下村観山らと共に学校を去ります。
No.280 10月6日(土)天心と三渓

(日本への旅)
ノーベル賞で一躍有名になったタゴールは1916年(大正5年)
アメリカへ講演の旅に出ることになります。
途中日本に立ち寄りますが、
その時すでに岡倉天心は亡くなっていました。
(1913年(大正2年)9月2日没)
天心の弟子で親友だった横山大観宅に逗留しますが、
手狭だったこともあり交流のあった原富太郎(三渓)に相談をします。
原富太郎は、養祖父の原善三郎がこの地に初めて建てた
山荘”松風閣”(伊藤博文が命名)をゲストハウスとしてタゴールに提供します。

松風閣は横浜大空襲で焼失します。
一部松風閣付属施設の遺構が残っています。

6月18日(日)タゴールは横浜三渓園を訪れ
9月2日(土)岡倉天心の命日に日本を発つまでの二ヶ月半、
横浜(日本)を堪能します。

http://www.sankeien.or.jp/

現在の松風閣(展望台)
現在は 本牧の工場地帯が広がっています
松風閣の眼下に広がる上海友好庭園(三渓園とは別)
前の丘の頂上が松風閣

松風閣滞在中、
彼は多くの三渓コレクションの代表作、下村観山作品に触れ感動します。
中でも三渓園の臥竜梅に着想を得たという弱法師
(重要文化財で現在東京国立博物館蔵)をいたく気に入ります。


弱法師は、謡曲「弱法師(よろぼし)」を題材にしたもので、
盲目の俊徳丸が梅花の下で見えないはずの落日の気配を描く様が描かれています。
このモチーフにタゴールは
 当時の植民地インドと独立に奔走するマハトマガンジーらに思いを寄せたといいます。
この観山作「弱法師」を記念にするために原三渓は、
“模写”を荒井寛方に依頼します。
これが縁で、荒井寛方はタゴールに招かれインドで絵画教授を務め、
その後の作品に大きな影響を与えます。
 ※観山の記念碑が本牧山に建っています。

(多くの人がタゴールに面会)
横山大観を初め当時の美術界、文学界の重鎮がアジア初のノーベル賞作家を訪問します。
彼が三渓園に到着した日の翌日6月19日(月)には歌人佐佐木信綱が訪れます。
また7月11日(火)には秋田雨雀、吉田絃二郎らが訪ねます。

(Stray Birds)
三渓園滞在中に 詩人として執筆活動も行います。
タゴール作品の代表作の一つ「さまよえる鳥」(Stray Birds)の草稿を執筆します。


日本を離れ、講演先のアメリカで326編からなる構成詩「Stray Birds」を発行します。
「Stray Birds」
By Rabindranath Tagore
[translated from Bengali to English by the author]
New York: The Macmillan Company, 1916
の冒頭には
To T. HARA
of Yokohama
と書かれています。
「Stray Birds」は
http://www.sacred-texts.com/hin/tagore/strybrds.htm
でどうぞ。iPod  iPad bookにもあるそうです。

STRAY birds of summer come to my window to sing and fly away.
And yellow leaves of autumn, which have no songs, flutter and fall there with a sigh.
三渓園の夏と秋の情景から始まっているように感じます。

最後に彼の言葉を 今の時代に贈ります。
虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け

■横浜とインドの関係
参考サイト
横浜インドセンター
http://www.yokohama-india-centre.jp/

6月 18

No.170 6月18日(月) 大荷物「リゾート21」の旅

1986年(昭和61年)6月18日(水)の今日、
東急田園都市線開通20周年記念イベントの一貫として伊豆急行株式会社の「リゾート21」号が田園都市線を走りました。(6月22日(日)までたった5日間)
でもこの企画は大変なできごとでした。
どこが大変だったのか?調べてみました。
その一部をご紹介します。

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Thanks Watanabe

(公共性という障壁)
鉄道事業はその公共性から民営化されても多くの法律に埋もれながら現在も一部硬直化している分野です。
(だから安全であるということもあるのですが、
  ここでは公共事業についての言及は避けますね)
この1986年(昭和61年)の企画は、同じ東急グループとはいえ伊豆急行株式会社の車両を田園都市線で走らせてしまうという途方もないものでした。
伊豆急は東急(五島慶太)の夢の出発点でした。
同じ五島の夢“田園都市構想”の実現の場だった「田園都市線」に「リゾート21」号が走ることは大変感慨の深い出来事だったと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/多摩田園都市
http://ja.wikipedia.org/wiki/東急田園都市線
リゾート21
http://www.izukyu.co.jp/dennsya/r21/index.html

(何が大変なのか)
他社の軌道上を別企業の車両が走る
(しかも荷物として)走るのは大変面倒なことです。
特に当時はまだ国鉄時代でしたから交渉にも時間がかかったと思います。
まあ分割民営化直前※参照で<柔軟>だったのかな?

鉄道会社は基本24時間365日不眠不休の事業ですから、空いた時間に電車を走らせることは簡単なことではありません。
なにせバス停の位置を数m移動させるにもものすごい手続きが必要な時代でした。
しかも、使用したい車両は伊豆の「リゾート21」号です。

が実際は、
この車両伊豆から運んだのではなく、
「京浜急行金沢文庫駅」に隣接する「東急車輛製造株式会社(現在の総合車両製作所)」で製作された、
できたて「リゾート21」を「長津田駅」まで“京急”と“国鉄”の路線を使って運んだ次第です。
これが今考えても ぞっとするくらい 現場は大変なことだったんです。

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(金沢文庫から長津田の長い旅)
さあどうやって運んだのでしょうか?
線路はつながっていますから 線路を使って運べば良いのですが、
二つの大きな問題がありました。
一つは軌間の問題です。
軌間とはレールの幅です。
この話しも前段が長いのですが簡単にいえば、日本は(電力以上に複雑)標準軌、狭軌の2規格が存在します。

■標準軌
日本では新幹線、主に関西の私鉄、路面電車、多くの地下鉄路線
京浜急行はこの標準軌です。因みに横浜市営地下鉄も標準軌です。

■狭軌
軌間が1,067 mm (3ft6in) 規格がJR(旧国鉄)在来線、東京近郊私鉄、地下鉄で東急田園都市線はJRと同じ規格です。
(もう一つ規格がありますがここでは触れません)

軌道規格を図にしました。

【解決は神武寺にあり】
京急金沢文庫にある車両工場では“全国の車両”を取り扱っています。ということは様々な軌道規格に対応している秘密があるにちがない。
ありました。
京急の「標準軌」から国鉄JRの「狭軌」に繋がる場所があります。

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京急逗子線の「神武寺駅」です。
駅構内からJR横須賀線に軌道が繋がっています。
ここで軌道変更が可能になっています。

(お荷物!)
運びたい車両「リゾート21」は“貨物扱い”で運ばれました。
ちょっとややこしいのですが、
国鉄(JR)路線は、貨物列車が通ることが出来る路線が(現在でも)決まっています。
単純に旅客線路を最短距離にというような選択ができません。

結果
「リゾート21」は、(お荷物として)下記の長い旅をしました。

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青線が最短距離、貨物線を使うと赤線ルート

●スタート
金沢文庫工場→京浜急行逗子線→(神武寺駅)→国鉄(JR)横須賀線逗子駅→大船駅→根岸線に入り磯子経由桜木町から貨物専用線に。

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MMの脇を抜けるJR貨物線
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マリノススタジアム前を通過する日石のタンク車

国鉄(JR)貨物線「新興駅」経由

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JR貨物新興駅付近(新子安近く)

鶴見操車場→現在の武蔵野線路線で北上します。
(え!武蔵野線?)
武蔵野線の営業区間は鶴見駅から千葉県船橋市の西船橋駅までです。
現在は、府中本町から西船橋駅まで開通していますが、路線は貨物線として「鶴見ー府中本町」間が繋がっています。

先を急ぎます。
中央線八王子経由、横浜線から長津田駅まで国鉄線路を使い、
ここから東急田園都市線に入りました。
長ーい旅が終わります。
■要は、東神奈川と長津田間は貨物列車が走れない!!ということに尽きます。

(帰りはどうなった?)
逆ルートですが、終着点は伊東駅です。
東海道本線貨物線路でマイホーム伊豆に帰ります。(納品?)

アルファ・リゾート21
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(このルート設定は、各種規則、Wiki等を使って私個人が推論した範囲を出ません。
 ほぼ間違いがないと思いますが事実と異なる点がありましたらご指摘願います)
→現在継続調査中です。

6月18日関連付録
【海外移住の日】
1908年のこの日、本格的な海外移住の第一陣781人を乗せた笠戸丸(神戸発)が、ブラジルのサントス港に到着した今日を「海外移住の日」としました。
(横浜由縁)
1966年に独立行政法人国際協力機構が制定しました。
Japan International Cooperation Agency、略称JICA
本部
〒102-8012 東京都千代田区二番町5-25 二番町センタービル
JICA横浜
http://www.jica.go.jp/yokohama
〒231-0001 神奈川県横浜市中区新港2-3-1
ここのレストラン、ラウンジはおすすめ(穴場です)
港が見えるレストラン
「Port Terrace Cafe(ポート テラス カフェ)」

6月 17

No.169 6月17日(日)私は武器を売らない

横浜スポーツの百年に1876年(明治9年)6月17日(土)の今日
「北方の鉄砲場でスイス人の射的会開催」とあります。この記述を手がかりに。北方の鉄砲場のエピソードを探索してみる事にします。

現在の中区大和町あたり

明治初期の地図に、細長い不思議な敷地を見ることが出来ます。
“鉄砲場”とあるこの場所は、1865年(慶応元年)に居留地の外国人が作った射撃場兼練兵場です。現在のJR山手駅から本牧通りまでの大和町商店街がちょうどこの位置にあたります。

居留地軍の教練の合間にレジャースポーツとして射撃を始めました。
最初に始めた外国人はスイス人でした。ファブル・ブラント、フランソワ・ペルゴら時計商人の手で会員制「スイスライフルクラブ」が結成されました。すぐに別の射撃倶楽部「横浜ライフル・アソシェイション」が結成され毎週射撃会がここで行われたそうです。
「スイスライフルクラブ」のファブル・ブラントは時計商でもあり武器商人でもありました特に薩摩藩人脈に強く西郷 隆盛、大山 巌らもここで射撃を楽しんだそうです。
ファブル・ブラントについては、
http://www7b.biglobe.ne.jp/~scemo3440/favre-brandt.html
に詳しいのでぜひ参考にしてください。スイス人と日本の関わりが幕末から深く繋がっていたことに驚きます。

さらに興味深いのが、時計職人であり時計商のフランソワ・ペルゴです。彼は生まれ故郷スイスの名門時計時計製造業の家に生まれました。
独立したてのスイス産業界の期待を背負い、スイス時計製造業組合からアジア(日本)支店開設の委任を受け来日します。
ペルゴは1864年にエドワルド・スネル(Edward Schnell)と横浜でスイス時計の輸入商社「シュネル&ペルゴ」を設立しますが、スネルが武器販売を優先しようとしたところからペルゴと対立してすぐに商会を解散し独自の会社F.ペルゴ(F.perregaux & Co. )を創設します。
ペルゴは当時の商社が武器販売で財を成していましたが、自らの時計技術を信じました。しかし時計はそう簡単には売れなかったようです。そのためサイドビジネスとして炭酸飲料水販売等も行っていたようです。
ペルゴは日本で最初に時計を製造し販売した人物といえるでしょう。
1870年代に入りペルゴの時計ビジネスはようやく軌道に乗り始めますが、居留地に良く発生した火事で会社を失ってしまいます。
そして会社再建の心労で脳卒中となり亡くなります。
(山手外国人墓地に埋葬されています)
(ここに漫画や資料で深い関わりを詳細に紹介しています)
http://www.gp-japan.co.jp/g_perregaux/f_perregaux/

実家であるスイス(Perregaux & Co. )社が横浜モデルを記念発売したことがあります。文字盤のYOKOHAMAにご注目ください。
フランソワ・ペルゴ限定モデル税込価格で1,050,000円(税込)だそうです。もう完売しているかもしれません。

ちょっと現在の鉄砲場(大和町商店街)付近を散策します。

銭湯も健在です
和服の染み抜き店があります
かつては「チャブ屋」もあった通りですが、今は下町風の商店街です。

「横浜側面史のチャブ屋」に関しては別な機会に ご紹介します。

6月 16

【番外編】コンパクトディスクと蚊取り線香

CDと蚊取り線香。(今日は横浜とは関係ありません)
ふだん一緒のステージに立つ事の無い二つのツールが同じサイズであるのは何か人間工学的な共通項があるのだろうか?
ふとした疑問に気づきました。

蚊取り線香の缶はメディア保存に最適!?

両者をちょっと調べてみました。
■CD
(英: Compact Disc)とはデジタル情報を記録するための円盤型のメディアです。皿メディアと呼ばれていた時代があります。光ディスク規格の一つでレコードに代わり音楽を記録するため、ソニーとフィリップスが共同開発したことに始まります。
当初フィリップス社が開発していたコンパクトカセットの対角の長さと同じ直径11.5cmに対し、ソニー側が収録できる時間の延長を提案したことにより直径が0.5cm増えて12cmとなった経緯があります。
この12cmサイズはスーパーオーディオCD、DVD、DVDオーディオ、次世代DVD (Blu-ray Disc、HD DVD) などに使用され今後もメディアのスタンダードになっていくだろういわれています。
※コンパクトディスクのコンパクトは、当時フィリップス社が開発していたレーザーディスクに比べて小さかったことから命名されました。

■蚊取り線香
夏には欠かせない蚊取り線香。キンチョウ蚊取り線香の歴史より調べてみました。蚊取り線香の発祥の地は、大日本除虫菊株式会社創業の地、和歌山県有田市です。創業者 上山英一郎がアメリカの種苗会社から除虫菊の種を譲り受け有田で実用化したことに始まります。元々は蚤駆除用だった除虫菊を日本に多かった蚊の駆除用に転換できたことが成功の秘密です。
当初は一般の線香のように棒状でしたが1895年(明治28年)に渦巻き型の蚊取線香が誕生します。しかし中々実用化できず、試行錯誤を繰り返し
1902(明治35)年にようやく発売された日本生まれの商品です。
アメリカには現在Mosquito Coilとして輸出されています。
なぜ渦巻きか?
燃焼時間という壁をコイル状で解決しました。
当初は長さ58ミリ、燃焼時間6時間でした。
現在は長さ75ミリ、燃焼時間7時間ですが 直径はほとんど変わっていません(別にジャンボサイズが発売されています)。
(差別化)
1957(昭和32)年には機械化に合わせ、“ネジが緩む”と嫌われていた左巻きをあえて採用し、差別化を図ります。

ラベルのマークに(上山)の字が現在も入っていますが創業者の上山英一郎の名をデザインに入れています。
http://www.kincho.co.jp/factory/shiryou/shiryou01.html

(結論)
両者には 用途上も関係なさそうですが、ともに手のひらサイズを意識してこのサイズになっています。取扱を模索すると似通ったサイズに収斂されていくようです。
(余談)
マークに織り込む
これも有名なエピソードですが、横浜生まれの「キリンビールのラベル」にはキ・リ・ンの三文字が刷り込まれています。

この麒麟ラベルは1889年(明治22年)に太宰府天満宮の麒麟像がお気に入りだったグラバーの提案でデザインされたと言われています。
ラベルに用いられている麒麟の絵の中には隠し文字、カタカナの「キ」、「リ」、「ン」の文字は「当時のデザイナーが遊び心でデザインしたという説」と「偽造防止説」がありますが関東大震災で資料を紛失したため不明となってしまいました。この手の謎は解き明かされない方が面白いですね。
キ:耳と角の間
リ:たてがみの中央に横向き
ン:尾の上部
※ラベルの麒麟のひげは、創業に関わったグラバーのひげがモチーフだと言われています。

6月 16

No.168 6月16日(土) 6月のカナチュウ(加筆修正版)

どこかで紹介しておきたかった神奈川中央交通株式会社。
6月に因縁のある会社です。勿論横浜とも深い関係があります。
創業記念日が6月5日(1921年(大正10年))。
東海道乗合自動車に社名変更が6月16日(1939年(昭和14年))。
神奈川中央乗合自動車に社名変更も6月16日(1944年(昭和19年))。
現在の「神奈川中央交通株式会社」への社名変更が6月29日(1951年(昭和26年)と6月に脱皮してきた日本最大のバス会社です。

(弘明寺生まれ)
神奈川中央交通株式会社(県民の愛称はカナチュウ)
現在神奈川県平塚市に本社を置く、
事業エリア路線規模において日本最大のバス会社です。
このカナチュウの創業地は
横浜市南区大岡町(現在の弘明寺近く)です。

昭和29年頃の弘明寺営業所(社史より)

平塚本社となったのは1953年(昭和28年)のことです。
社史90年の中で、横浜本社時代が約30年ありました。
(さらに6月変身)
2012年6月1日から創業90周年を節目にロゴの変更を行いました。
(新ロゴ)

(旧ロゴ)
いかにも交通関係の会社というロゴですが、この社章が制定されたのも1944年(昭和19年)6月16日でした。

(えらいぞカナチュウ11系統
桜木町駅前から保土ヶ谷駅東口をつなぐ11系統というバス路線があります。
この11系統はかつて「横浜市営バス」が同じ11系統として営業していた路線です。
市があきらめた路線?
カナチュウが運行しています。
私のおすすめ路線バスルートの一つです。
210円でたっぷり横浜の観光地を堪能できます。
※休日はかなりの交通渋滞があり時間がかかりますが、これがまた路線バスの愉しみです。
(主な経路)
保土ケ谷駅・井土ヶ谷下町・中村橋・打越橋・港の見える丘公園・日本大通り駅県庁前

11-E7-B3-BB-E7-B5-B1

このルートは
「横浜を知るルートバス」
「横浜の尾根ルートバス」としてもおすすめです。
●中華街、元町、港の見える丘公園、イタリア式庭園から見る、山下町、関内、MM地区、ポートサイド地区は抜群です。
移築した外交官の家も見ながらしばらくは、観光地横浜の顔を巡ることが出来ます。
山手カトリック教会、司教館、フェリス女学院などなど並ぶ山手の狭いながらも魅力ある横浜を楽しむことができます。
山手の背骨(尾根)を走り、ちょっと下町の香りがする蒔田・井土ケ谷を過ぎると保土ケ谷の歴史街道(切り通し)を抜け 江戸時代の東海道宿保土ケ谷へ。
歴史街道にも触れることができます。

珍しいバス専用表示灯

※バス専用表示灯はかなり珍しい存在です。

(返還の決まった)米軍基地が、ベストビューポイントにあります。

神奈川中央交通株式会社
http://www.kanachu.co.jp/

6月 15

【番外編】さようなら横浜 !

ポテトチップス大好きな皆さん!
ポテトチップと横浜の関係知ってますか?
ポテトチップは、アメリカ合衆国ニューヨーク州サラトガスプリングのレストラン Moon Lake Lodge のシェフ、ジョージ・クラム (George Crum) によって1853年8月24日に発明された、という説が有力だそうです。

日本で初めてポテチをつくったのは、フラ印のポテトチップです。
今日 購入し久しぶりに味わいました。以前より薄切りになりました。
ゴツいポテチでしたが ある意味普通になってしまいましたので残念です。

スナック菓子(ポテトチップス)ファンの中では、ご存知の方も多いと思いますが、この“フラ印”(フラ ブランド)についてご紹介します。
このブランドは、濱田音四郎氏(明治44年生まれ)が、終戦後、ハワイから帰国し、牛込納戸町に設立したアメリカン・ポテトチップという会社が製造し、“フラ印”で販売したのが始まりです。
昭和20年代のアメリカン・ポテトチップスを設立した当初は、顧客といえばアメリカ軍のキャンプぐらいで中々一般市場では普及しなかったそうです。
軌道に乗ったのが昭和30年代の高度成長期でした。濱田音四郎氏は第二の故郷ハワイとの交流にも尽力しました。
濱田氏は、大相撲の初の外国出身の関取である「ハワイ マウイ島出身 高砂部屋」のアナウンスで土俵に上がった高見山を日本に紹介した方です。

この本社工場が一時期ですが横浜市瀬谷区にあったんです。
商品のダンボール箱に張っていたシールも(YOKOHAMA JAPAN)でしたね。
瀬谷の工場は2006年頃???閉鎖し(東京スナックの)茅ヶ崎工場と統合し、その後幾つか販売会社が変わった記憶があります。

6月 15

No.167 6月15日(金) 自然、単純、直裁、正直、経済的

街の魅力を維持するには積極的な住民参加が必要です。
魅力スポット横浜市山手は、
住民によって地域の価値が守られてきたエリアです。
このエリアには 来訪者を魅了する
象徴的な“洋館群”が立ち並びます。
1960年(昭和35年)6月15日(水)、元町公園の一角に移築された
エリスマン邸の開館式が行われました。

エリスマン邸

山手地区には移築を含め
7つの洋館が横浜市によって保全管理されています。
それぞれの洋館情報に関してはHP等に詳しいので簡単な紹介に留めておきます。


1. 横浜市イギリス館〔横浜市指定文化財〕
 上海の大英工部総署の設計

2. 山手111番館〔横浜市指定文化財〕
 J.H.モーガンの設計

3. 山手234番館〔横浜市認定歴史的建造物〕
 朝香吉蔵の設計

 ★隣接する「えの木てい」も朝香吉蔵の設計です。
 http://www.enokitei.co.jp/

4. エリスマン邸〔 横浜市認定歴史的建造物〕
 A.レーモンドの設計

5. ベーリック・ホール〔横浜市認定歴史的建造物〕
 J.H.モーガンの設計で元Stジョセフ寮でした。

6. 外交官の家〔重要文化財〕
 J.M.ガーディナーの設計

7. ブラフ18番館〔横浜市認定歴史的建造物〕

■番外編
 山手公園管理事務所(旧山手68番館)

Antonin Raymond
以上紹介した中で、今回紹介するエリスマン邸は、
Antonin Raymondの手による価値ある建造物です。
A.レーモンドはフランク・ロイド・ライトのもとで学び、彼が帝国ホテルを設計した際、助手として日本を訪れます。
その後、
日本に残り全国に多くの名作品を残します。
また彼の事務所で前川國男、吉村順三、ジョージ・ナカシマなどの建築家が学びました。第2次世界大戦の期間を除いた44年間を日本で過ごし、
「近代建築の父」と呼ばれています。

レーモンドの5原則
レーモンドの5原則「自然、単純、直裁、正直、経済的」を具現化したデザインがこのエリスマン邸に観ることが出来ます。
元々、1926年(大正15年)にワシン坂の山手127番地に建てられたものを1982年(昭和57年)マンション建築時に解体、
現在地(旧山手居留地81番地)に再現されました。

テーブルウェアイベント


http://www2.yamate-seiyoukan.org/seiyoukan_details/Ehrisman/
住所:横浜市中区元町1ー77ー4
開館時間:9:30〜17:00
喫茶時間:10:00〜16:00
休館日:第2水曜日(祝日は開館し翌日休) 年末年始(12/29〜1/3)
TEL・FAX:045-211-1101

■レーモンドの設計作品in YOKOHAMA
 1926年 ライジングサン石油会社ビル
 1927年 旧ライジングサン石油会社社宅(現 フェリス女学院10号館)
 1938年 不二家
 2月10日 不二屋伊勢佐木町店新築開店

6月 14

No.166 6月14日(木)歌人俳人の横浜

「旅せむと病みてかへるも花こころ」
可中庵朴因、辞世の句です。
彼は諸国を遊歴中に五味史遊の庵で発病し1892年(明治25年)6月14日(火)の今日、
野毛十全病院で亡くなりました。51歳でした。

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現在の老松中学校

”可中庵朴因“は滋賀県粟津の義仲寺(ぎちゅうじ)で墓守をしていました。
義仲寺は平安時代末期木曾義仲<源義仲>が矢で射られ最期を遂げた“粟津の松原”があったところで、木曾義仲ゆかりの寺です。
また、江戸時代の俳人・松尾芭蕉の墓や多くの句碑があることでも有名です。
可中庵朴因の詳細は不明ですが、彼が芭蕉の句碑の中で育った事で俳句に傾倒していったのでしょう。
遊歴の旅は全国<芭蕉の句>巡りだったのかもしれません。

(句・歌に詠まれた横浜)
横浜には松尾芭蕉の句碑が幾つかあります。
有名な一句が

「鎌倉を 生きて出けむ 初松魚」
戸塚宿・富塚八幡宮境内に句碑があります。
以前にも書きましたが、
戸塚宿は鎌倉郡戸塚村でしたので句にも「鎌倉」の地名が詠われています。

芭蕉『句碑』
「梅か香にのつと日の出る山路かな」
熊野神社(横浜市磯子区中原)

「うき我をさひしからせよかんこ鳥」
天宗寺(横浜市都筑区)

「春もややけしきとゝのふつきと梅」
飯田家住宅(横浜市港北区)

「あかあかと日はつれなくも秋の風」
池谷邸の入口(横浜市港北区)

「觀音の甍見やりつ花の雲」
東福寺(横浜市鶴見区)

「草色々おのおの華の手柄かな」
街山八幡社(横浜市戸塚区)

「世の人の見つけぬ花や軒の栗」
清源院(横浜市戸塚区)

(その他横浜に因む句・句碑)
横浜市金沢区近辺は 兼好法師が歌・文に残しているように、古くから明媚な場所でした。
横浜を詠った歌人 俳人
○窪田 空穂(くぼた うつぼ)
「青海の上に浮かべる白雲の光帯びたり春来と見えて」
「眺めをる心さみしみ海の岸離れてくれば足に砂鳴る」

○与謝野 寛(鉄幹)
「夏島が剥がれて白き一面を隠さぬも好し炎日のものと」
「いにしえの文庫の主なる顕時を敬するこころ鐘ひとつ撞く」

○与謝野 晶子
「金沢や安芸を目がけて人の飛ぶやぐらの下の秋のしら波」

○佐佐木信綱
「金沢のいり江おだひに丘きよみ七百年(ななももとせ)を文ここにあり」

○高浜 虚子
「昔ここ六浦と呼ばれ汐干狩」
「春の浜に柵結いありぬ検疫所」
「鴨の嘴よりたらたらと春の泥」
(横浜市中区 三渓園 池畔)

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「茂り中日限り地蔵の旗つづく」
(横浜市戸塚区 戸塚町464 親縁寺日限地蔵前)
○中村汀女

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蕗のたう おもひおもひの 夕汽笛
(横浜市西区野毛山公園内句碑)
※西戸部に暮らしていた時期があります
「横浜に 住みなれ夜ごと 夜霧かな 汀女」
「噴水の ましろにのぼる 夜霧かな 汀女」
「船影が つつじのうえに ふとくなる 汀女」
「竜のひげ 夕方落ち葉 やみにけり 汀女」

○古澤太穂
「少年どち若葉染みに来くつわ展」
(横浜市中区根岸森林公園内)
※横浜育ちの歌人、横浜文化賞を受賞

○大野林火
「白き巨船きたれり春も遠からず 林火」
(横浜市中区フランス山内)
※横浜市中区日ノ出町に生まれた俳人
 平楽増徳院にも句碑があります。

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彼岸鐘 草木聞けり 鳥聞けり

○南部松若丸
「山の間のこの閉寂を宣しとして文明のもとを護り給へり」
※松屋銀座勤務、昭和十年頃に横浜松屋勤務、
 その間 磯子に暮らし後進指導にあたりました。

○尾山篤二郎
「称名寺の裏の柴山木の芽さし明るき径が一すぢとほる」
※晩年 金沢区称名寺門前に暮らし多くの歌を残しています。
 野島公園「旧伊藤博文金沢別邸」に歌碑があります。

6月 13

No.165 6月13日(水) 修文練武

横浜学院(後の神奈川大学)初代校長だった林 頼三郎は、
1935年(昭和10年)6月13日(木)の今日、
第18代大審院長(現在の最高裁判所長官)に就任します。

現在の最高裁
(林 頼三郎の適当な肖像が見当たりませんでした)

大審院は戦後の三権分立制度に比べて独立性の弱い最高裁ではありましたが、全国の裁判所の頂点に立つことは法曹界の重要な位置にありました。
戦前大審院長は初代から第22代まで19人が就任しました。明治期の司法黎明期から大正の確立期に入るころから大審院長は帝国大学の寡占状態が常体化していました。
13代「富谷 鉎太郎」から昭和19年に就任した22代「霜山 精一」まで。11人の大審院長の中で唯一私学でかつ弁護士(現場)から法曹界のトップとなった人物が林 頼三郎でした。
東京法学院(現中央大学)で学んだ林の10年後輩、米田 吉盛が1928年(昭和 3年)に横浜桜木町で横浜学院(後の神奈川大学)創立するときに恩師でもあり法曹界の現場で活躍する彼、林 頼三郎を初代校長として迎えました。
【神奈川大学】
http://www.kanagawa-u.ac.jp/

『神奈川大学五十年小史』によれば、「先生の高潔なる人格と胎蕩たる徳望と官界における名声とは私が本学を経営するために無言の力となり対社会的信用をかち得たことは疑なきところで先生のお蔭によって本学が今日あるを致したと思うのである。感謝に堪えない」と創設者 米田 吉盛は初代校長 林 頼三郎を偲んでいます。
「修文練武」は初代校長 林 頼三郎が好んで示した言葉です。

林 頼三郎関連資料は【神奈川大学図書館】
http://www.kanagawa-u.ac.jp/library/organize/exhibition/2011/09/003535/

(JINDAI)
横浜市神奈川区六角橋に本部がある神奈川大学は、横浜市中区桜木町に開設された横浜学院を母体として戦後新学制により「神奈川大学」と命名されました。どうやら最初は「横浜大学」を狙っていたようです。

Wikiによれば
「横浜専門学校と官立の新制大学(前身は横浜経済専門学校・横浜工業専門学校・神奈川師範学校・神奈川青年師範学校)と横浜市立の新制大学(前身は横浜市立経済専門学校)がともに「横浜大学」を名称として申請したため、3校において協議を行うこととなった。その結果、各校が譲歩し「横浜大学」の名を使用しないことを決定した。その際、官立の新制大学は「横浜国立大学」、横浜市立の新制大学は「横浜市立大学」とすることとなり、横浜専門学校は「神奈川大学」を名乗ることとなった。」
とあります。横浜大学だったら「HAMADAI」「HINDAI」っていったかどうか。


神奈川大学「じんだい」はさすが法律学校が前身だけあって、略称「じんだい」を登録商標(日本第4372633号および第4404030号)として登録しています。関西では神戸大学が地元では「じんだい」と呼ばれていますが、公式には神奈川大学の略称だそうです。

■六角橋は「神大の街」です。
大学の近くには必ず学園の街が存在します。1930年に東急東横線「白楽」に移転した神奈川大学にとって、通学路「六角橋商店街」は学園の街として歴史を刻んできました。現在、「六角橋商店街」のまちづくりにも積極的に関わっています。

ちょっと前なので今は?

No.60 2月29日 消え行く街の個性