1月 22

No.385 【横浜界隈鉄道編】横浜の駅

今日は、横浜市内の駅を簡単に紹介しましょう。
1990年から折々に市内全線全駅巡りをし、2008年に市内全駅前に降り立つことを踏破しました。
中からお気に入りの駅を幾つか紹介していきますが、
その前に 全駅概況を。

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(日本一の横浜駅)
横浜駅は、記憶に従えば日本一路線が乗入れている駅です。
意外じゃありませんか?
 ○東急東横線
 ○相模鉄道線
 ○京浜急行電鉄線
 ○横浜市営地下鉄ブルーライン線
 ○横浜高速鉄道みなとみらい線
 ○JR東海道本線
 ○JR根岸線
 ○JR京浜東北線
 ○JR横須賀線

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以上6社9路線乗入れ規模は他のターミナル駅ではありません。
新宿駅が微妙なところですが5社8路線、東日本旅客鉄道(JR東日本)・京王電鉄・小田急電鉄・東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)が乗入れています。地下では離れて西武新宿駅があります。
wikiでも
「2012年現在一つの駅に乗り入れる鉄道事業者数としては日本最多となっている。」とあります。

(市内の駅の数)
全路線をカウントすると
168駅ありました。
「横浜駅」のような複数路線乗入れのターミナル駅をまとめてカウントすると、
153駅となります。
※市内全線全駅踏破は、勿論全事業路線の改札を出る!ということでカウントしています。
(ただし、センター北・南、横浜駅のようにシームレスな路線は別です)

(市内の路線)
市内を走る路線は21あります。
事業会社でカウントすると9社です。
■こどもの国線(全線)→横浜高速鉄道・東京急行
■相鉄いずみ野線→相模鉄道
■横須賀線→JR東
■横浜高速鉄道みなとみらい線→横浜高速鉄道
■横浜市営地下鉄グリーンライン(全線)→横浜市
■横浜市営地下鉄ブルーライン(湘南台駅以外全線)→横浜市
■横浜新都市交通金沢シーサイド線→横浜新都市交通
■横浜線→JR東
■海芝浦支線→JR東
■京浜急行電鉄→京急
■京浜東北線→JR東
■根岸線→JR東
■逗子線→京急
■相模鉄道(相鉄)
■鶴見線→JR東
■田園都市線→東京急行
■東横線→東京急行
■東海道新幹線→JR東海
■東海道本線→JR東
■南武線→JR東
■目黒線→東京急行

南武線? の駅が横浜市内にある!
「矢向駅」です。
地図上は横浜市内なので実際行ってきました。

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昔はここに住所があったそうです
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駅前ロータリーに木があるのは懐かしい感じがします

隣の尻手駅はプラットフォームを避けるように川崎市内です。
妙に不自然です。この辺の市域確定について調べてみたいものです。

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同じホーム<市またぎ> では「大船駅」も横浜市に乗っかっていますが
所在地は鎌倉市です。(鎌倉市大船1丁目)
「笠間口」は横浜市栄区笠間一丁目にあります。

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(駅数ランク)
事業会社別市内駅数ランク
第一位は当然、横浜市営地下鉄ブルーライン 31駅
第二位は、京浜急行本線の 23駅※
第三位は、横浜新都市交通金沢シーサイド線の14駅です。
以下 相鉄本線(13駅)、根岸線(11駅)、横浜市営地下鉄グリーンライン(10駅)、横浜線・東横線(9駅)といった順です。
※京急の横浜市内駅数23は、京急全体から見ても多いのではないでしょうか。

(オタク系ランキング)
もうすでに鉄男君系ですが、さらにマニアックなランクを。
横浜市内で路線がまとまって見えるる地点は?
5路線がまとまっていますが さてどのあたりでしょうか?
写真に撮ってあります。この開かず踏切は無くなりました。
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手前から鶴見線、京浜東北線、東海道線、JR貨物線、京浜急行線

(余談編)
横浜市内で戦後廃止された路線があります。さてどこでしょう。
(市電を除きます)
答:ドリームランド線
廃止になりかかったこどもの国線もありますが…

1月 21

No.384 【横浜の商店街】商店街全般を斬る(全般編)

横浜市内には調べたところでは約330の商店街(会)が登録されています。中には「商店連合会」「協同組合」「振興組合」など組織化されているものから、登録だけの名目商店会まで含まれています。

ここにあるビルにも複数の商店街組合があります。

私が実際に利用、ウォッチした商店街を思い出しながら、私流に商店街を幾つかの類型に分類してみたいと考えてみました。

「商店街」分類で一番わかりやすいタイプが
(テナント集積型)です。
例えば
クラブ・〔アット〕商店会
(西区みなとみらいのクイーンズスクエア アット)
ランドマークプラザテナント会
(西区みなとみらいのランドマークプラザまとめて)
といった商店会です。
ランドマークプラザにも商店会があった!って知ってました?
他にも
「横浜シァル商店会」「ジョイナス商店会」「横浜モアーズ専門店会」「ザ・ダイヤモンド商店会」といった大型商業施設のテナント群で構成される商店の集まりがあります。
ここではコメントの対象外とします。

【ここでの定義】
基本的に露面店で構成される「商店街」とします。
Wikiでは「商店街(しょうてんがい)とは、商店が集まっている地区をいう。また、地域の商店主の集まりを指す場合もある。」とありますが、これに加え露面店とします。
※アーケード型、モール型等でも分類できますが 立地形態で分類してみました。これは私の勝手分類です。

【門前町】
古来、寺社の門前を中心に栄えた商店会です。横浜は歴史的に門前都市が少ないので、門前商店街も少数です。
妙蓮寺ニコニコ会 (港北区)
横浜弘明寺商店街(協) (南区)
本牧三渓園通り商栄会 (中区)
※観光施設・公園もそこにつながる門前町型商店街としてとらえています。

(ので、役所の門前も)
西区役所通り中央商店街 も門前町型です。

(微妙な門前商店会)
中華街関帝廟通り会
洪福寺松原商店街(振)

【城下町】
「江戸以前の城郭」を核に拡がった専門性のある商店街があります。現在でも城下町には名前だけ残っているところと、商店が現存しているところがあります。
横浜には中世の城趾が幾つか残っていますが、江戸時代の城がありませんので、城下町型商店街はありません。
ただ、居留地を横浜の“城”とすると居留地城を中心に商店街が拡がっていくという見立てができます。

【宿場町、駅前】

全国共通、駅前・街道筋に発展した商店会で全国の大半が入る分類です。
駅前銀座型商店街
二俣川銀座商店街(振)
ドリーム銀座商店会
芹が谷銀座商店会
瀬谷銀座通商店会
西前銀座商店街(協)
柏葉銀座柏商会
市場銀座商店街
潮田銀座協商会(協)
鶴見銀座商店街(協)
尻手銀座親交会

【クイズです】
横浜中央地下街商店会 ってどこの駅前?にある地下商店街でしょうか?

横浜駅西口にあるザ・ダイヤモンド(旧ダイヤモンド地下街)ではありません。ここにはザ・ダイヤモンド商店会があります。
(最後に答を用意しました)

【駅前】
杉田駅前商店会
本郷台駅前商店会
本郷台駅前アーケード商店街
能見台駅前商店会
反町駅前通り商店街
三ッ境駅前商店振興会
瀬谷駅前サンロード商店会
瀬谷駅前横丁通商店会
たまプラーザ駅前通商店会
山手駅前商和会
日ノ出町駅前商店会
花月園駅前通り花商会
生麦駅前通り商友会
中川駅前商業振興会
和田駅前商店街
(商店街雑景)

質問の答え
所在地は 中区尾上町です。
お判りですか?
マリナード地下街のことです。
株式会社組織で株主は
株式会社大丸松坂屋百貨店→(旧松坂屋)、株式会社奥村組、株式会社竹中工務店、協同組合伊勢佐木町1・2丁目商和会、株式会社有隣堂、株式会社横浜銀行、株式会社大林組、株式会社三井住友銀行、横浜振興株式会社、株式会社三菱東京UFJ銀行 他

1月 21

No.383 【生麦界隈】横浜史を生麦で体験

約5日間、諸事情で原稿アップを休んでいました。
再スタートします。今日は、この5日間の成果を報告がてら
生麦界隈の散策レポートを贈ります。

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今回は食が中心です?!

横浜市鶴見区生麦(なまむぎ)
横浜市の東海岸?に位置し、東海道の街道沿いに工場と住宅地が連なるエリアです。この界隈、一日ぶらり散策には最高です。
お勧めします!
過去にも紹介していますのでぜひお読み下さい。
【番外編】生麦、旧東海道を歩く

No.234 8月21日(火)パーセプションギャップの悲劇

■今回改めて歩いたルート

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別の地域再発見プログラムに参加しました。(ここでは省略)
このあたりは、かつての「浜」のなごりを追体験できるエリアです。

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■みどころ紹介
鶴見川河口干潟「貝殻浜」
所在地は鶴見区生麦5丁目地先です。
貝殻の川辺が自然公園として保全されています。
※「まちなみ景観部門」で受賞しています。
狭い“猫の額ほど”の保全公園です。
だからこそかつての川の面影が輝いて見えます。
横浜市北東部唯一の干潟で、多くの生き物が生息する貴重な場所です。
一級河川鶴見川の生麦周辺築堤工事の際に、多くの人々が川にふれられるよう、河口干潟を残しました。
この「貝殻浜」が整備されたのは2006年(平成18年)のことです。
第5回横浜・人・まち・デザイン賞で、「まちなみ景観部門」を受賞しました。

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※賢いカモメ
この辺のカモメは人に慣れています。エサをあげる人が多いのでしょう。
足元にある貝殻を空中に撒くと多くのカモメが集まってきますが、皆「様子見」です。判っているようです。

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■まぼろしの橋発見!
鶴見ユタカ橋
竣工は昭和8年1月で数年後に暴風雨で破壊され、再建されませんでした。つい最近まで橋脚を確認できたそうです。

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地元の方の話しでは 有料の橋だったとのこと。
現在のサイエンスフロンティア高校あたりと生麦の「貝殻浜」を結んでいたと推測されます。
昭和4年の地図には当然ですがありません。

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■生麦魚河岸通に行きましょう。
江戸時代の頃は
横浜沖を広く漁場とする漁港だった「生麦」は
明治以降、埋立ての歴史に翻弄されながらも
このエリアで多く水揚げされたノリ・貝・魚の専門店街が残りました。
「生麦魚河岸通」です。

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かつては貝殻の多く混じった砂利道でした。
県内全域から「寿司や」「小料理や」がここにネタ探しに訪れました。
流通の変化で 県央の客筋の激減
チェーン展開による集中仕入で激減した寿司店の仕入れがなくなります。
現在では
かろうじて魚河岸通の雰囲気を残している程度です。
再生は(少なくとも生き残る)最後のチャンスかも知れません。

この短い通りを「生麦貝食貝道」とでもネーミングし
賑わいを取り戻したいものです。
そのためにも!!!
皆さん 足を運んでください。

■納得丼を食べよう

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納得丼(貝とまぐろ)
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若大将
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おかみさん

唯一残った朝飯食堂「生麦」
朝8時半から営業しています。(午後1時から休憩)
夕方5時から夜の部!です。(今度行きますね)
横浜市鶴見区生麦5丁目23-9
045-501-0467
刺身定食、生麦丼、納得丼他多数メニューがあります。
とにかく みそ汁が 美味いの一言。
このみそ汁をいただくことに価値ありです。

ごちそうさまでした。

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1月 17

【番外編】 1月17日(木)横浜は坂ばかり

横浜の特徴は起伏に富んだ地形にあります。
谷戸の多い町だからこそ、丘があり緑が感じられますが、
結果、坂が多いんですね。
今日は 横浜の坂についてちょっと紹介。

急坂(西区)

(横浜で一番有名な坂)
横浜で全国に知れ渡っている坂は?
権太坂です。毎年テレビでも放映されています。
そう、お正月の箱根駅伝です。
箱根駅伝の正式名称は?
「東京箱根間往復大学駅伝競走」といいます。
1920年(大正9年)に始まったこの駅伝の名物区間が、
ごぼう抜きや大ブレーキが頻繁に起こる区間として有名になりました。
現在の「権太坂」は新道ですが、旧東海道の勾配度は半端じゃありません。

(名の在る坂は?)
坂の無い町はありません。でも “名前の付いた坂”というのは どこにでもあるというものではありません。坂の何は理由があります。
私がざくっと拾い出しただけでも
250にも及びます。
横浜の坂名一覧の資料があるのかもしれませんが、
力づくで調べたので
推測値では
500は越えるのではないか?と思います。
ご存知の方 教えてください。
市民グラフ・ヨコハマ NO.95には
横浜橋 めぐり坂あるき」特集があります。
がこの号、買ってあったかな。図書館に行かねば。

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見つかりました

(坂名)
保土ケ谷の権太坂に話しを戻します。
ここは日本橋を出発する東海道の街道筋最初の難関です。
道中 行き倒れも多かったようです。
権太坂の名の由来は幾つかあるようですが、
坂を造る時に尽力した藤田権左衛エ門の名からという説と
旅人がここは何と言う坂ですか?と尋ねたら
耳の遠い年寄りが自分の名を伝えたことから
という 微笑ましい由来とが有名です。

私の確認した「坂」を幾つか紹介しましょう。
■くらやみ坂
西区西戸部3丁目〜伊勢町3丁目あたり
※坂道標あり
島田荘司の小説にもなった(らしい)坂です。
■半僧坊坂
西区東ヶ丘坂
※坂道標あり
■フェリス坂(西野坂)
中区山手町にある「階段」です。
正式名称は「西野坂」で通学路から名付けられた坂です。

■ワシン坂
中区山手町
横浜に多いカタカナ坂の一つです。
由来説は多く、和親条約のワシン説、鷲見坂からワシン説(最有力)、ワシン(ウシン)という外国人が住んでいた説、降り際にわき水があり「ワキシミズザカ」が外国人たちの口によって「ワシン坂」となった説などです。

■見尻坂
中区山手町
※考えてみれば変な名ですね。昔男衆は褌に短い着物でしたから
下から尻が見える位急だ!ってことでしょうか。
急な坂だったため、前の人の尻がすぐ眼の先にくる、前の人の尻を見上る坂という意から命名されたという説もあります。

■馬坂
中区根岸台、その名の通り「うまざか」で競馬記念公苑“ポニーセンター”の入口あたり
(まさかの名は 磯子にあります)
■ビア坂
中区山手町と諏訪町・千代崎町1丁目の間
まさにビール発祥の地にふさわしい名です。

■ビール坂
保土ケ谷区桜ヶ丘1丁目〜神戸町
ここにはかつてビール工場があったので命名されました。
かなり急坂です。

■アメリカ坂
中区本牧和田
横浜市立本牧中の横を通る坂です。
本牧散策の時には登ってみましょう。さほど急坂ではありません。

■ハロー坂(愛称)
中区和田〜和田山
由来は米軍が本牧一帯を接収していた頃に付けられたのでしょう。

■水道坂
保土ケ谷区坂本町から川島町と仏向町の間まで
ここは、横浜が相模川水系から取水している水道の道から命名されています。
■紅葉坂
西区紅葉ヶ丘
この紅葉坂の石畳を登った記憶のある方も多いのでは?
残念ながら歴史ある「石畳」は
不評のため改修?されてしまいました。
この坂も物語が多くある坂ですので
チャンスがあれば 物語仕立てで紹介します。

■急坂
西区東ヶ丘
冒頭の写真です。野毛山に続く階段坂です。
1月 16

No.382 1月16日(水)横浜と福井

この文章を作成中(14日)に横浜は豪雪?
で機能麻痺の状態です。

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今日は 横浜と福井の繋がりについて紹介しましょう。

(越前福井藩)
横浜は開港後、全国の商人・武士が集まり、
居留地の外国人達と開港場の日本人による寄合所帯で構成されていました。

開港場の情報は、いち早く全国に伝わり
歴史で学ぶ「尊王」「攘夷」他の様々な動きが横浜を情報源として活発になっていきます。
1858年(安政5年)7月に幕府は、開港場である神奈川と横浜の警備を
伊予松山藩と(坂の上の雲の素材となった)
越前福井藩に 命じます。
ところが、福井藩主松平慶永(春嶽)は拒否します。
理由は井伊政権への反発もありましたが、藩財政が逼迫していたことも大きかったようです。
逆に越前藩のブレーン橋本左内を中心に代替え案を検討させます。
これに激怒したのが時の大老 井伊直弼です。
1858年(安政5年7月5日)8月13日
一連の“安政の大獄”による松平慶永(春嶽)は言いがかりにも似た不時登城の罪を問われて強制的に隠居・謹慎となります。橋本左内もその後、獄中死し幕末の賢人を失います。


藩主が蟄居し、急遽新しく第17代福井藩主となったのが越後国糸魚川藩第7代藩主松平 茂昭(まつだいら もちあき)です。
この頃の徳川幕府は藩主に関して、現代のサラリーマン社会にも似た人事システムで動いていましたので、藩主ポストの異動で“お国の殿様”が決まったようです。
逆に徳川諸藩で江戸時代に藩主のお国替えがなかったのが井伊家の彦根藩でした。

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ひこにゃん

彦根城
国宝 彦根城
 

松平 茂昭は再度横浜警備の要請を受け、現実路線を選びます。
越前福井藩は幕府直轄領(天領)だった
武藏国久良岐郡太田村に19,000坪を借り受け
500人の常駐する陣屋を突貫工事で完成させます。

太田陣屋
太田陣屋

大岡川の沼地を開墾しての造成のためかなり苦労したようです。
ここが、現在の日ノ出町・黄金町一帯です。

昭和初期 市電が走り京急はまだの頃
昭和初期 市電が走り京急はまだの頃

明治14年迅速図 太田陣屋跡
明治14年迅速図 太田陣屋跡
 

しかし、藩の経済は逼迫していましたから
越前福井藩は開港場にいち早く、藩命による商館を建てます。
藩財政建直し策の重要方針として長崎と横浜に輸出商社を設立し、その収益を藩の収入に充てようと考えた訳です。
今でいう「県の物産店」みたいなものですかね。
横浜開港は、
全国諸藩とそのトップに立っていた幕藩体制に「情報」「経済」の波が押寄せます。
幕末、多くの藩が自前で「国防対策」を迫られ、貿易力の差が明治維新の原動力にもなっていきます。

横浜町五丁目 大通北側に
横浜村名主の一人だった石川徳右衛門名義で90坪の土地を借り
表間口6間、奥行き15間の大きさで
「石川屋」を開きます。
開店当初は 与助という人物を支配人に雇いますが
商売が発展するに伴い福井藩から警備で赴任していた人物が、
専任で
ビジネスに関わっていきます。
当時の「横浜錦絵」にも多く登場したということですから
大変賑わったのでしょう。商売は横浜も長崎も順調に発展していきます。
横浜の越前福井藩ショップ!を担当したのが 
越前屋金右衛門 またの名を
石川屋善衛門
本名を 岡倉 覚右衛門といいます。

ここでピーンと来た方もいらっしゃると思います。
彼の息子が 岡倉角蔵、後に岡倉覚三となり
一般的には 岡倉天心の名で 明治期に大活躍します。

No.280 10月6日(土)天心と三渓

No.9 1月9日(水)残した大正の財産

その後の「太田陣屋」は
1866年(慶応2年)に歩兵・騎兵伝習所
1870年(明治3年)には県吏員の子弟への漢学教授を目的とする文学所が設けられますが、
陸軍の用地として収用され
戦後 民有地となり問屋街として賑わいますが
時代の趨勢で 問屋は数軒を残すのみとなり
現在に至ります。
No.471 横浜・世田谷・彦根

1月 15

No.381 1月15日(火)素材ベイブリッジ

昨年366話の中で、意外な大ネタが抜けていました。
横浜ベイブリッジを取上げるタイミングがありませんでした。
今日は、横浜のシンボル
ベイブリッジを紹介します。

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わが家の玄関先に飾っている絵もBBです。

ベイブリッジの兄弟、鶴見つばさ橋は12月21日(金)に「世界一の斜張橋」として紹介しました。
■世界一の斜張橋

■横浜ベイブリッジ
横浜観光のシンボルの一つです。
ブリッジ上の湾岸高速を走る時はいつも胸がドキドキします。
例えば、
リムジンで羽田や成田から横浜に帰る時、
鶴見つばさ橋からベイブリッジにかかるあたりで
横浜に帰ってきたな と感じます。
この風景は たった二十年の時間しか経っていませんが、懐かしい風景のようにも感じてしまいます。
(素材に最適)
ただスペックを紹介するだけでは
面白くないので
作品素材としての横浜ベイブリッジを探してみました。
まずは私のベイブリッジ写真から

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絵画の素材でもベイブリッジ工事が取上げられています。蒼々たるメンバーが工事中の風景を描いています。
今関一馬
東京都出身 東京大学中退。小山敬三美術賞、国画会展会友優秀賞など

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國領 經郎
横浜市生まれ、1986年日展で内閣総理大臣賞受賞。1990年日本芸術院賞受賞、1991年芸術院会員。

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田沢茂
岩手大学特設美術家講師、青森県 県文化賞受賞授章。

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福島瑞穂
広島県尾道市生まれ。女子美術大学大学院客員教授。

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斎藤カオル
神奈川県葉山町生まれ。第12回自由美術家協会展入選。社団法人春陽会理事長。代表作「源氏物語五十四帖」

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●小野肇
医師。浜口タカシに写真を学び生涯横浜の写真を撮り続けた。

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○相笠昌義
東京日本橋に生まれる。 東京芸術大学美術学部油絵科を卒業。第25回安井賞展で安井賞を受賞。多摩美術大学教授。損保ジャパン東郷青児美術館大賞を受賞。

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大きい作品ですので右の一部を紹介します

(スペック)
1989年(平成元年)9月27日に開通した2層構造の斜張橋です。長さは860m(中央支間長460m)で本牧埠頭A突堤(中区)と大黒埠頭(鶴見区)とを結んでいます。
設計は名港西大橋(めいこうにしおおはし)のデザイン案
名称はサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジを
参考にしたとされています。
当時横浜市が、建設省(現、国土交通省)に開港130年記念に際しこの橋の建設を強く働きかけ、難工事の末に開通したといわれていますが?
※まあ 与太話はいろいろありますが 全て薮の中です。

2層構造の上層部は首都高速湾岸線で、下層部は(一般)国道357号が15年後の2004年4月24日に暫定2車線として開通しました。

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しかも図面でも明らかなように、片側しか開通していません。この先どうなるのでしょう。

(高さ問題)
ベイブリッジの海面からの高さは約55メートルで、現在これがネックで大型客船が通過できず、門司港、神戸港に寄港地を奪われています。

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後5m高ければクリアできたのですが?
何故 この高さになってしまったのか?
当時国際港の橋の高さの標準は ゴールデンゲートブリッジで
66mだったはず。ただ間に合わせるために低く設定したのであれば、明治期の鉄道ゲージ以来の失策です。

遊歩道「横浜スカイウォーク」(有料)がありましたが、
これも2010年(平成22年)9月に閉鎖されてしまいました。

【番外編】もうひとつの9月27日

(略年表)
・1977年(昭和52年)8月一般国道357号・高速湾岸線都市計画決定
・1980年(昭和55年)11月高速湾岸線(横浜ベイブリッジ)着工
・1989年(平成元年)9月27日首都高速湾岸線開通
・1998年(平成10年)12月一般国道357号(大黒〜本牧区間)事業着手
・1999年(平成11年)8月臨港道路(大黒ふ頭・本牧ふ頭)
港湾計画決定・整備着手
・2000年(平成12年)3月一般国道357号(大黒〜本牧区間)着工
・2000年(平成12年)12月臨港道路(大黒ふ頭・本牧ふ頭)着工
・2004年(平成16年)4月24日下層部分の国道357号が開通

商品にもなっています。

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ありあけのベイブリッジサブレです
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1月 14

No.380 1月14日(月)川鎮

この三日、川に因んだ話題を紹介していますが今日も横浜の川ネタでいきます。
横浜の川の流域には不思議な神社が存在しています。
神社ファンには超有名な話しです。
鶴見川水系には「杉山神社」、境川水系には「左馬(さま)神社」が点在しています。
共に暴れ川の鎮守様として地域信仰の役割も担っていたようです。

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(杉山神社)
「杉山神社」は、横浜を中心に川崎、町田に70近く点在します。
全国的に観てもこのエリアに集中している珍しい神社です。

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一般的に「杉山神社」は
http://ja.wikipedia.org/wiki/杉山神社
「五十猛神(スサノオの子)を主祭神とする神社である。旧武蔵国都筑郡茅ヶ崎に紀州系忌部氏により祀られ、同氏の麻穀栽培地開墾の拡大とともに、現在の神奈川県横浜市を中心に川崎市、東京都稲城市などに72社が現存している。」とあります。
一方で、
鶴見神社の縁起には、
「鶴見神社の創建は、推古天皇の時代(7世紀初め)と伝えられる。古くは杉山大明神(杉山神社)と称された。1920年(大正9年)に、社名を鶴見神社と改めた。」とあります。また、
「鶴見神社は往古は杉山大明神と称し、境内地約五千坪を有する社でありました。その創建は推古天皇の御代(約1400年前)と伝えられております。続日本後記承和五年(約1180年前)2月の頃に『武蔵国都筑郡杉山の社、霊験あるを以って官幣を之に預らしむ。』」ともあります。
http://www18.ocn.ne.jp/~tsurujin/contents/yuisyo.html
由緒の真偽は別にして、
杉山神社をマップに落としてみると、鶴見川流域に多く他の杉山神社も「帷子川水系」「多摩川水系」「大岡川水系」流域に点在していることがわかります。
川無くして田畑は実らず、されど川は暴れる中で、川への鎮守として杉山社が信仰されたのでしょう。近くの杉山神社を探し、水辺までの道筋を楽しんではいかがでしょうか?

(杉山神社紹介)
多く点在する杉山神社の中から幾つか紹介しましょう。
鼠神社
西区中央にある「杉山神社」は旧戸部村の鎮守様で江戸時代は「杉山明神社」と称して願成寺を別当寺とし、幕府より朱印地を与えられていました。

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本殿には対の大己貴命の使いである高麗鼠が鎮座し、一回転廻するならわしです。この鼠は地域の子供達の人気ものでもあります。

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(左馬神社)
市内の鶴見川・帷子川等の流域に多く点在する「杉山神社」に対し、境川の狭い地域にだけ点在する「左馬・鯖神社」は12しか確認されていません。

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「左馬・鯖神社」は、左馬(さま)・鯖(さば)・佐波・左婆などと呼ばれますが、源義朝を祀る神社として江戸時代初期に建立されたものが多いようです。全国にもここだけにしか無い神社で最近見学者が急増中です。

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境川は相摸の国と武蔵の国の境に流れる川ですが、水害湛水域でもあり
暴れ川の鎮守と義朝の霊を合祀したのが始まりでした。

□杉山神社一覧

何故?源義朝?
このあたりの話しは、【番外編】にて続編として
謎解きをしてみましょう。

1月 13

No.379 1月13日(日)Y市の橋

横浜を描いた洋画家の一人、松本 竣介の作品展(世田谷区立美術館)が明日1月14日(月)に閉幕します。した。
この規模の彼の作品展は当分開催される事は無いでしょう。
今日を含め二日しかありませんが、「Y市の橋」8点を含めチャンスのある方はぜひご覧下さい。

松本 竣介は1912年(明治45年)4月19日〜1948年(昭和23年)6月8日という短い人生に加え、1925年(大正14年)に病気(脳脊髄膜炎)のため聴力を失う中、ほぼ戦中を東京で生き抜きます。
東京渋谷生まれですが、多感な子供時代を父の仕事の関係で岩手県花巻と盛岡で過ごします。
彼の名は佐藤俊介でしたが、1936年(昭和11年)に松本禎子と結婚して松本姓となり、1944年(昭和19年)制作の作品からは竣介と名乗るようになります。
松本 竣介の作品には、都会風景が多く描かれています。しかも、その作風が大きく変化していきます。
青のモンタージュ。
青系統の透明な色調のなかに無国籍的で他面的な都会風景や人物をモンタージュ風に描いた作品群があります。
茶と黒の時代。
茶系統(赤銅にも近い)のくすんだ色調で東京や横浜の風景を描いたものがあります。
戦時下、東京の空襲が激しくなる中、家族を疎開させますが松本は自宅にとどまります。第二次世界大戦中の1941年(昭和16年)に軍部による美術への干渉に関する雑誌記事に抗議し、当時の画家達の多くが沈黙する中、雑誌『みづゑ』に「生きてゐる画家」という文章を発表し「芸術の自立」を主張した数少ない画家の一人です。
松本竣介は、
昭和前期の近代洋画史に、一種独特の足跡を遺した画家として評価されています。私は時々絵を鑑賞する程度の専門家ではありませんが、この一連の作品群を一気に観て、その非凡さマルチな才能に驚かされました。
彼の人生がもう少し延びたら
彼は戦後の日本をどう描いただろう。
ただただ残念さを感じるのみです。
彼は、
風景画そして人物画を中心に描いています。
1月14日までの作品展では
油彩・約120点、素描・約120点、スケッチ帖や書簡などの資料・約180点が一気に公開され、その質は勿論、量にも圧倒されました。

「松本竣介展「生誕100年」」
世田谷美術館
2013年1月14日(月)まで
開館時間 10:00-18:00
東京都世田谷区砧公園1-2
http://www.setagayaartmuseum.or.jp

松本竣介が描いた横浜の風景と橋が10点数点出品されています。
中でも 多作の「橋」「運河」をモチーフにした作品群で
「Y市の橋」は代表的作品群です。
描かれた場所は「月見橋」で架け替えられていますが雰囲気は少し残っています。横浜市内を流れる帷子川水系の「新田間川」の派系で派新田間川に架かっています。

最初に架かったのが1928年(昭和3年)で、この作品が昭和40年代ですから比較的新しい橋ではないでしょうか。
現在この周辺は、日々変貌を遂げており、
横浜駅を東西に結ぶ「きた通路」の「きた東口」エスカレータを登ったところにあります。

きた東口広場

上を首都高速が走り、東海道線、京浜急行線の線路にほぼ隣接しています。

現在は情緒も面影もありませんが

松本竣介は、派新田間川の一つ下流に架かる「金港橋」からこの「Y市の橋」を描きました。

金港橋から月見橋

架設年は1926年(大正元年)で国道1号線の橋として1970年に道路拡張に伴い拡張されました。

この近辺は、戦前から戦後しばらく表玄関にあたります。
神奈川(現在の東神奈川)あたりの工場群や、造船所(現在のみなとみらい)へ向かう人々や車両で賑やかな都市空間だったようです。
現在は 横浜そごう、ベイクウォーターがあり当時の面影は殆ど残っていません。強烈な印象として『残っている」のが今閉鎖されたまま残されている鉄の歩道橋です。
しかも、「Y市の橋」では風景がデフォルメされています。
絵と見比べてみるのも面白いです。

わずか20年ほどの短い画歴の中で、
都市の一部にこの横浜東口に架かる橋を選んだ
松本竣介の気持ちに触れるべく 長い時間この作品群の前に佇んでいました。
やはり 実物を観ないと判らないことが多くあります。

No.328 11月23日(金)横浜駅東西戦争史

No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争

No.269 9月25日(火)河口に架かる橋

1月 12

No.378 1月12日(土)川辺の横浜

昨日、川辺の再生に命を削った森清和(もりせいわ)さんのことを紹介しました。
これをキッカケに
今日は横浜の河川について軽く調べてみました。

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横浜には大河はありませんが、8つの水系、58の支流があります。
総延長は約200kmとなっています。
横浜市内の8つの水系を紹介しましょう。
それぞれに奥深く、川べり情報を紹介したいのですが、
今日は全体を簡単に紹介しておきます。

●鶴見川水系

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市内で最も大きな川です。源流域を東京都下に持つ一級水系では珍しいダムのない川です。下記に大きさランキングの数値をだしておきました。
鶴見川の素晴らしいところは、横浜市内を流れる「鶴見川」全域に
川べりのサイクリング道が整備されていることです。
No.4 1月4日(金)鶴見川 輪下り絶景

No.3 1月3日(木)自転車乗ってますか?

No.239 8月26日 (日)タマちゃん調べ出したら止まらない

→流域に杉山神社が多く点在します。(別日に紹介します)

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○帷子川(かたびらがわ)水系

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帷子川分水路(石崎川)

かつて捺染工場の染めを洗い流す染料で濁った川として有名でした。
現在は、捺染産業は衰退し浄化設備も進化し鮎の遡上するきれいな川に変身しました。天王町駅付近で、今井川と合流し平成8年位まで氾濫が起っていましたが、護岸設備が整備され災害は無くなりました。
帷子川散策は電車に乗って!
帷子川に沿って「相鉄線」が走っています。二俣川までの各駅、どこでおりても帷子川に徒歩で行けます。

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※帷子(かたびら)は、古くは装束をつけるときに汗とりとして着たもので、生絹(すずし)・練り絹(ねりぎぬ)または麻糸で織った布のことです。色は白が正式ですが紅色も用いられていました。
「帷子」という地名に関しては、着物の帷子からきたものと、地形からきたものとの2説があります。

○大岡川水系
鶴見川についで大物!?

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開港場を支えた川です。桜の季節に散策すると最高です。
磯子区の円海山あたりを源流にして、上大岡を通り南太田駅付近でY字型に2つに分かれます。上流部では笹下川に分かれます。
北の流れは桜木町駅のあたりで横浜港に注ぎ、南の流れは中村川と名前を変え、石川町から元町に沿いながら山下町で横浜港に注ぎます。開港場は大岡川下流域に形成された新田によって発展しました。
※堀割川は大岡川の分流で明治時代に作られた人工河川です。
No.192 7月10日(火)もう一つの大岡川

No.187 7月5日(木) 目で見る運河

※派大岡川

No.214 8月1日 (水)開港場を支えた派川工事

※堀割川
1月1日(火)この駅「日ノ出町駅」

No.321 11月16日(金)吉田くんちの勘兵衛さん

○境川水系(本川水系・柏尾川水系)
境川は、東京都および神奈川県を流れ相模湾に注ぐ二級水系の本流です。武蔵国と相模国の国境とされたことからこの名があり、現在でも上流部は東京と神奈川の都県境となっています。
藤沢市内の最下流部から河口にかけて、片瀬川(かたせがわ)と呼ばれています。
※流域には日本で極めて珍しい左馬神社が点在しています。
→別日に紹介します。
柏尾川は境川の支流で、戸部川とも呼ばれています。戸塚区柏尾町あたりを源流として藤沢市川名で境川と合流します。
※今戸塚駅前が再整備されて 柏尾川の風景も変化しています。

▲入江川(いりえがわ)

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鶴見区東寺尾付近を源として西に流れ、神奈川区西寺尾付近でJR横浜線と平行して南に流れを変え、大口商店街横を通って神奈川区子安通りで6派川の運河に分かれ、横浜港に注いでいます。

▲滝の川(たきのがわ)

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滝の川はかつて本牧の千代崎川、保土ケ谷の帷子川と並んで横浜の三大悪川といわれました。水源は、近郊にある六つの溜め井で、ほとんどの部分が暗渠化され、三ツ沢せせらぎ緑道・六角橋緑の小径・滝の川せせらぎ緑道に姿を変え姿を消してしまいました。

▲宮  川(みやがわ)

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宮川は、釜利谷夏山団地の釜利谷遊水池にその源を発し、丘陵地帯を東に向かい、途中で右支川と左支川と合流し、さらに低平地帯で谷津川と合流して平潟湾に注いでいます。

▲侍従川(じじゅうがわ)

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侍従川は、鎌倉市と横浜市の境にある朝比奈峠を水源として、横浜市金沢区を横断し、金沢八景の平潟湾に注いでいます。

(鶴見川ランキング)
川の大きさを測る指標に
「水系流域内人口」という数値がありますが
全国109ある一級水系の中で、「水系流域内人口」が30万人以上レベル水系が約40あります。(カッコ内は本川延長)
以下に、「水系流域内人口」順上位10位は、
1利根川12,140千人(322kmで第2位)
2淀 川11,650千人(75kmで第67位
3荒 川 9,300千人(173kmで第14位)
4多摩川 4,250千人(138kmで第24位)
5信濃川 2,950千人(367kmで第1位)
6石狩川 2,500千人(268kmで第3位)
7庄内川 2,500千人(96kmで第54位)
8大和川 2,150千人(68kmで第77位)
9鶴見川 1,840千人(43kmで第99位)
10木曽川 1,700千人(229kmで第7位)
このランキングは、在る意味川の大きさを表す指標です。

1月 11

No.377 1月11日(金)花鳥風月のまちづくり

都市の(どぶ)川がしかたのないことだと誰しもが思っていた頃、
川の再生を生涯の仕事とした一人の横浜市職員がいます。
森 清和さん。
川の再生に関わっている人達の間では伝説の人です。
ここで 彼の業績について少しですが紹介しておきましょう。

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元横浜市環境科学研究所 主任研究員だった森 清和(もりせいわ)さんは2004年(平成16年)1月11日の今日、61歳で惜しまれるその生涯を閉じます。
2003年に横浜市を定年退職後も市民団体を組織し都市の川の再生を生涯の仕事にしようと活動を始めた矢先の大きな挫折であり、
日本の環境保全活動にとって多大な痛手でした。

(森 清和さんについて)
情報量が少ないですが、森 清和さんのWikipediaです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/森清和

森さんの業績に関する代表的参考資料は
横浜型エコシティ研究報告「花鳥風月のまちづくり」
2002年3月発行
環境研資料 No.146
A4版・122ページ
PDFでダウンロード可能です。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/mamoru/kenkyu/shiryo/pub/pub0146/
ここに集約されています。
このレポートの
第5章 提案と課題「花鳥風月のまちづくり」
冒頭部分を引用します。
■これまでの、ことに高度成長期以降の横浜の都市づくりは、自然地の人工改変を基本とし「計画的開発」という名目のもとに、六大事業を中心に行われてきた。多くの人が若干の疑念は持ちつつ、乱開発に対抗するためには、次善策として計画的開発もやむをえない、そういう認識を持っていたように思う。しかし乱開発を防げなかったし、大きなつけが残された。財政問題、都市問題、環境問題の深刻化である。しかし依然として開発動向は失われていない。一日も早く軌道修正する必要がある。
横浜の活力と魅力を維持し、再生していくには、持続的成長を都市形成の柱とする以外にはない。それもスクラップ・アンド・ビルド方式ではなく、横浜の生態的都市構造に根ざした都市形成である。言うなれば、「花鳥風月のまちづくり」である。こういった言い方は、直感的で研究や行政にはなじまないかもしれないが、いまはそういった市民的な直観や感性を重視し、そこから出発する時期に来ていると考える。言い換えれば、都市政策を転換するためには、その前に行政のスタンスの転換が必要と言うことである。

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■森さんは研究者、専門家、技術者ですから
川の問題点を指摘し、提言したのは当たり前といえば当たり前です。
しかし、彼の活動の視点はその専門性を活かした
人との関わり方にあります。
森 清和さんが亡くなられた後、追悼の意もこめて出版された
「花鳥風月のまちづくり―こころと水辺の再生を」

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花鳥風月編集委員会編 中央公論事業出版発行
1500円 現在品切れ 古書あり
の冒頭に書かれている「ハグロトンボの章」に
彼の人となりが集約されていますので、引用させていただきます。
「森 清和は、いわゆる有名人ではなかった。しかし、その交友関係や交際範囲は、全国に拡がっていた。役職につかない公務員ではあったが、一介の公務員ではなかった。研究者ではあったが、研究室にじっとしている人でもなかった。川などの水辺や自然を大切にしようというまちづくり活動には、縁があれば熱心に関わりあちこち精力的に顔を出す。だが、市民活動のリーダーのような存在になろうとはしなかった。水辺の自然を愛したが、ナチュラリストを標榜することもなかった。水辺をめぐる話題になると、その魅力や不思議を熱っぽく語った。雄弁ではなかったが、話しをしているうちに周囲の人たちを何となくその気にさせる独特な雰囲気を持っていた。」

(横浜だからこそ)
横浜には、大きな河川がありません。確かに二級水系「大岡川」河口に横浜開港場は開けましたが、水力発電所もダムのない一級水系「鶴見川」が市内北部を流れ、南西に「境川」の他全部で8つの水系58の支流がある河川規模としては小さい自治体です。
東海道筋の宿場町の他は、開港後に大きく発展し
戦後は一気に浜と海辺を失ってしまった街です。

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(よこはまかわを考える会)
一時期川の汚れ日本一だった「鶴見川」の再生という大きな課題があったからこそ、川を考える動機が高まったといえるでしょう。
1982年2月に森さんと有志が集まって「よこはまかわを考える会(略称かわの会)」が結成され、現在も緩やかな連携をとりながら活動が継続しています。
この会が森さんの活動母体となり、その後の意思を継承する会となっています。

よこはまかわを考える会
〒231-0063 横浜市中区花咲町1-48-3 ロゼ桜木町901
花鳥風月研究室
事務局 TEL, FAXは非公開です。
特徴は代表者・規約を決めずプロジェクト方式のフラットな運営
月一回の広報紙を発行しています。

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「全国川の日ワークショップ」
http://www.mizukan.or.jp/kawanohi/kawanohi.htm
毎年7月7日は「川の日」です。この日に、
「川の日」ワークショップが1998年以来開催されてきました。
この全国川の日ワークショップを創設したのが森さんで、現在森さんを記念して森清和賞を設けられています。

ごく一部の紹介ですが、森さんの活動に
横浜の誇りに感じます。
明日は
このテーマから 派生して
横浜の川を語ってみたい!?と思います。