7月 29

横浜の寺島

前回「尾崎良三」について紹介しました。

ここに登場した寺島 宗則は、幕末維新の超優秀官僚ベスト3に入ると私は考えています。
ここでは、彼の天才ぶりに触れながら幾度となく訪れた寺島の“横濱”物語を紹介ましょう。
lig_寺島 寺島 宗則(てらしま むねのり)
あまり彼の名は激動の幕末維新史の中で、比較的地味な存在かも知れません。鹿児島薩摩出身の寺島は現在の阿久根市に生まれ幼く藩医の松木家の養子となり蘭学を始めます。15歳で江戸遊学を認められ蘭学を学びその才能を発揮します。
http://kotobank.jp/word/寺島宗則
寺島が仕事先として横浜に赴任したのは1859年(安政6年)開港直前でした。大量の外国人との交渉ごとに対応するために全国の藩から人材を集めた中に“寺島”も一員として神奈川運上所に赴任することになります。
lig_慶応2年運上所前
このとき、寺島宗則28歳、多くの関係者が直面した英語ショックに遭います。横浜開港場に押寄せる多くの米英人の話す“英語”の前にこれまで必死に学んできた“蘭語”が全く役に立たないことを実感します。
このときの様子を同僚だった福地源一郎は「横浜の運上所は何事も皆手初にて上下恰も鼎の沸くが如く、盂蘭盆と大晦日が同時に落合たる状況にて頗る混雑を極めたり」と記録しているように、日々激務だったようです。
福沢諭吉が横浜居留地でオランダ語が通じないことを実感したように多くの幕末の知識層が英語の必要性を「居留地 横濱」で感じ取ります。
ここからが 天才・秀才それぞれに外国語習得の個性を発揮します。横浜勤務の間に文久の遣欧使節団に加わるチャンスが訪れます。さらに海外渡航の準備をしている間に結婚の話がもたらされます。新婚生活は二ヶ月足らずしか無く、渡航しなければなりませんでしたが、寺島にとって至福の横浜生活が始まります。
結婚するまでは居留地の農家の一寓に仮住まいしたり、江戸の仮住まいに暮らすなど落ち着きませんでしたが、所帯を持つということで、江戸本郷三丁目に新居を持ちます。妻の名は茂登(もと)、侍医の曾昌啓(そうしょうけい)の長女です。
妻の茂登(もと)には妹天留(てる)が居り、天留が結婚した相手が寺島の同郷薩摩の有島武(ありしまたけし)です。明治維新後大蔵省租税寮に勤め横浜税関長、国債局長、関税局長など財務官僚として活躍後、実業界で活躍します。
有島の息子が作家の有島武郎、里見弴そして芸術家の有島生馬です。
※作家、有島武郎の息子が黒沢の「羅生門」溝口の「雨月物語 」他に出演した俳優の森雅之です。

寺島は、文久遣欧使節の総勢38名の一員として約一年の欧州旅行に出かけます。
この時に同行したメンバーには、福地源一郎、福沢諭吉、森山栄之助らが通訳として同行し、この旅の知見が後の明治時代に大きな影響力をもたらします。
lig_遣欧ルート3
この時、多くの同行者が仏蘭西の雅さに圧倒され賛美しますが、福沢と寺島は英国の倫敦に強い関心と衝撃を受け、その後の建国思想に大きな影響を与えます。

欧州から戻り、時代は一気に幕末の争乱時代に突入します。寺島宗則もこの波乱の時代に巻き込まれ、生麦事件がきっかけで起こった「薩英戦争」では敗北を知ると盟友五代友厚と二人で“自発的に捕虜”になり鹿児島から英国艦船で横浜まで行き、神奈川奉行時代に旧知の仲となった米国人ヴァン=リードを頼って上陸ししばし隠れ住むことにします。薩摩藩から逃げる中、刻々と変わる情勢に薩摩藩に戻ることを許された寺島は、語学力を認められ薩摩藩遣英使節団の一行19名の一人として“国禁”を破り英国に留学することになります。英国で寺島は
自由貿易と近代外交の実務を当時の英国政府が目指した小国主義的自由経済を目の当たりにしてきます。
寺島の吸収し理解した政治観について紹介するスペースはありませんが、少なくとも後に日本が歩んだ“富国強兵”“皇国史観”とは一線を画していたことは紹介しておきます。

帰国後まもなく薩摩藩江戸高輪藩邸詰めとなった寺島は、
慶応2年7月から精力的にしかも頻繁に横濱に通い英国公使パークスと様々な折衝を行います。その壮絶ともいえる倒幕に転換した薩摩藩支援交渉は三ヶ月にも及び、ここに強い信頼と絆が醸成されます。

時代は急転直下、大政奉還から明治維新となり綱渡りのような政権委譲が行われます。内政にも外交にも多数の問題を抱えたままの新政府移行でした。
当時、殆どの主要外国公使館は横浜に集中し、その事務にあたる「横浜裁判所」が諸外国との重要な折衝窓口となります。
No.79 3月19日 神奈川(横浜)県庁立庁日

建前上「横浜裁判所」総督は東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ)に決まりますが、実務に強い官僚がいませんでした。副総督にも大隈重信、睦奥宗光らが名を連ねていましたが、維新体制の確立のために殆ど横浜に来ることが不可能な状況で、居留地の諸外国関係者からクレームが殺到する事態に陥ります。
そこで 矢面にたったのが外交折衝力のある
寺島宗則でした。
彼は優秀なスタッフを数人引き連れ、“いやいや”横浜裁判所勤務となります。他にやりたいことがたくさんあったのでしょう、依頼があったときかなり抵抗しますが勝手知ったる横浜に着任します。
この時寺島37歳、働き盛りです。まずは野毛の旅館「修文館」の逗留し落着き先の住まいを横浜の豪農「吉田勘兵衛」宅に決め最初の仕事を始めます。
lig_nnP8140410.jpg
No.321 11月16日(金)吉田くんちの勘兵衛さん(加筆)

「横浜裁判所」は「神奈川裁判所」に、その後「神奈川府」「神奈川県」とめまぐるしく変わる中、弁天社近くに官舎も整備されそこに移り住み、いやいやながらも?精力的に開港場の案件を解決していきます。
行政組織が未整備の中
国政としての外交、
居留地他県内全般の地方行政一般事務に至るまでを管轄するという異例な役職に謀殺されます。
横浜時代のトピックスは幾つかありますが
最も寺島宗則らしい 即決力として評価できるのが
「電信事業」の推進です。
lig_電信碑2
寺島はいち早く“ブレゲ指字電信機(モールス信号ではなく針で文字を指す方式)”を事後承諾で購入します。政府の了解を得た後、当時燈台技師として横浜の都市計画を担当していたリチャード・ヘンリー・ブラントン(Richard Henry Brunton)に相談し、英国から電信技師ジョージ・M・ギルバート(George M. Gilbert)を招聘し
1869年(明治2年)に横浜燈台役所と横浜裁判所の間に電信回線を敷設し通信実験を成功させます。成功を確認すると寺島は同年中に、横濱・東京間での電信による電報の取り扱い事業を開始します。寺島は「電信の父」とも呼ばれています。
No.26 1月26日 横浜東京間電信通信ビジネス開始

その後、明治政府は電信網の整備に力を入れ、横濱・東京間の電報の取り扱いが開始されてから数年で全国に電信網が張り巡らされます。
皮肉にも、同郷の西郷隆盛が起こした877年(明治10年)の西南戦争においても大いに活用され政府軍の勝利に貢献します。
lig_電話交換碑_
<電話交換業務も横浜から始まりました>
寺島の情報インフラに対する理解の早さは 既に幕末に鹿児島で「ガス灯」「写真」「電信」の実験体験を率先して行っていることからも理解できます。
この「ガス灯」「写真」「電信」三つとも横浜で事業化されているというのも不思議な因縁といえるでしょう。

その後、寺島宗則は東京勤務となった後もしばらく横浜から通いつめますが
最終的には 東京築地木挽町に転居します。内政からもっぱら外交担当として海外と日本を往復することもしばしばあり、
都度 横浜港から出立し 横浜港に戻ってくることになります。
そんな折、たまたま英国公使を辞して帰国する際、倫敦留学から木戸の要請で帰国してきた10歳年下の学生 尾崎三良(おざき さぶろう)が、横浜港の入国手続きを嘆いたのが
「番外編」10月17日こら!ちゃんと仕事せい! 
この時に見た横浜港は、何度も帰港している寺島にとって若き尾崎が憤慨している様を懐かしくも微笑ましく眺めていたのかもしれません。

7月 29

大さん橋誕生、港の核芯(戦前編)

2014年(平成26年)は大さん橋誕生120年の年にあたります。
巷では100年、100周年を祝いますが暦では120年という年回りにも意味があります。

大さん橋誕生120年にあたり横浜開港の軸となった「波止場」の歴史を簡単に追っていくことにします。
th_大桟橋5367 (波止場) 街の形成には“芯”が必要です。
歴史は城から育った城下町、寺社の門前に広がった町、街道の宿場町というように街は芯があれば大きくなってきた街を類型化しています。
横浜はこの点、港が“芯”となった都市といえるでしょう。
th_PB137732.jpg 改めて 世界最大級のCITY 横浜とは?考えてみましょう。
政治学者で歴史家でもある 原武史は 民都「大阪」帝都「東京」と定義し 歴史学者 石井孝は「港都 横浜」としました。 この「港都 横浜」の核であり芯となった桟橋の歴史を調べてみると意外な側面が見えてきました。
波止場=桟橋の無い港町は存在しません。 桟橋は港の必須施設です。

(開港の歴史)
横浜が開港するきっかけとなったのが有名なペリー率いる“黒船”来航です。“蒸気船四杯飲んで夜も眠れぬ”大騒ぎとなります。その後、国内ではすったもんだしながら開国を決め、1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に再来日したペリーと日米和親条約を締結することになります。
th_201312絵はがき011 この日本最初の外交条約が締結された場所は?
当時の地名で「武蔵国久良岐郡横浜村字駒形」現在の“開港広場”あたりです。この開港広場(幕府応接所)の先に、その後“開港波止場=桟橋”が作られることになるとは誰も予測していなかったでしょう。
→神奈川湊を国際港にすると列強に約束してしまいます。
th_PB137744.jpg (神奈川から横浜)
時の徳川幕府は、「横浜は神奈川の一部だ!」と主張して
1859年(安政6年)横浜村が開港場となります。
th_開港場幕府は旧来の石組み工法で“ペリー来航の応接所”となった“元浜”先に
二本の小さな波止場を造営
「横浜桟橋」が誕生することになります。一応「西波止場」「東波止場」と命名し、船着き場程度の「波止場」が誕生しますが、北向きの波止場には強い北風が吹くと波を被り全く係留することができない最悪の桟橋だったようで、開港場を利用する諸外国からはクレームの嵐となります。
そこで、1867年(慶応3年)に波止場の改築が行われ、波受け用に湾曲するように突堤が曲げられ、これが後に“象の鼻”と呼ばれるようになりしばらくはなんとか利用されますが、
th_波止場変遷図 大きな船は接岸できず 沖に停泊し小舟を使って桟橋まで人や荷物を運ぶという実に非効率<粗末>な「港」でした。
→居留地の居心地は意外に評判が良かったので、神奈川湊開港派や江戸開港派も次第に横浜を開港場として“公認”するようになりますが、
桟橋がね!なんとかならないか!
th_th_awa017.jpg (日本人も怒り心頭)
横浜港が「象の鼻」時代のエピソードが日記として残されています。
少々紹介しておきます。
明治政府の法務官僚となり活躍した“尾崎三良”(おざき さぶろう)の日記に
「我官憲の不常識なるに大いに不平なり。其他目につくもの聞くもの未開不文明なのには大いに失望せり。」とあります。
 何を怒っているかといえば
怒りをぶつけた先は「横浜港」の入国手続きを行っていた「税関官吏」に対してでした。
時は1873年(明治6年)10月17日(金)まだまだ「象の鼻桟橋」時代です。
ことの顛末は英国公使「寺島宗則」と当時英国留学生だった尾崎三良が寺島に随行してイギリスのP&O社汽船で帰国した際、横浜港でのハプニングです。
帰国した母国の“入国審査”が遅れ横浜港内からなかなか上陸できず待ちぼうけになったことに尾崎は怒ったのです。 冒頭に説明したように
関東地区唯一の国際港「横濱」でありながら、“象の鼻”とよばれた小さな桟橋しかなく、欧米の大型船を横付けすることもできず、乗客は沖で小舟に乗換え上陸しなければならず、しかも外国人は治外法権のため自在に下船していくが、当の自国民“日本人”は税関の検査が必要だという法律はすでにあり外国船利用の日本人に適応されます。
ところが 審査する税関職員が来ない!と“尾崎三良”(おざき さぶろう)君は怒ったのです。最終的な顛末は下記ブログをお読みください。
「番外編」10月17日こら!ちゃんと仕事せい!
ここで登場した寺島宗則(てらじまむねのり)がまた横浜と縁の深い人物なので、近々紹介したいと思います。 桟橋に話を戻します。
居留地の大きさの割に小さな桟橋はすぐに限界となり、
1872年(明治5年)には
入国管理部門の所管省庁大蔵省が「横浜港波止場建築」を上申し、燈台を作った「ブライトン」や、ガス灯の技術者であった「プレグラン」らが“築港計画”を提案しますが、意思決定できず実施するには至らず状況は変わらないまま時が流れてしまいます。
燈台を作った「ブライトン」に至っては、1874年(明治7年)に横浜築港計画書を完成させ、明治天皇が天覧しほぼ決定する段階までになりますが、工部省はブラントン計画の無期延期を伝える事態に至り1876年(明治9年)に任を解かれ帰国します。
th_201312絵はがき009 ブラントンアイデアは中々面白く興味深いものです。
ブラントン他「築港計画」挫折の背景には
政府の(絶対的)予算不足と
「明治6年の政変」
「明治10年の西南の役」
「明治14年の政変」他 次々と事件が起こり
不安定な政治体制により決断ができない状況にありました。
ようやく「港問題」に動きが出たのが
明治20年代に入ってからでした。
1888年(明治21年)に市制が敷かれ36都市の一つ「横浜市」が誕生。
1889年(明治22年)にようやく大日本帝國憲法が公布され
1890年(明治23年)11月29日に施行。
そして ようやく
1892年(明治25年)イギリス人技師 パーマー設計による「鉄桟橋」工事が始まります。
実はこの「鉄桟橋」建設費用、意外なところから捻出できることになります。
徳川幕府が幕末に支払った賠償金が戻ってきたのです。
アメリカ政府から“日本が幕末に支払った下関事件の賠償金78万5000ドル87セント”が南北戦争の“名将軍”後の大統領となったグラント将軍の尽力(他にもファクターはありましたが)で戻ることになったのです。
No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)

No.248 9月4日(火)坂の上の星条旗(後)

No.248-2 9月3日 坂の上の星条旗 改題
※この巨額の賠償金が
徳川幕府の決定的な弱体化の原因となる皮肉1889年(明治22年)当時の外務大臣大隈重信はこの返還された資金で横浜港整備“近代桟橋”の造営に踏み切ります。
そして 2年の工期を経て
1894年(明治27年)3月に幅約19m、長さ約457mの当時としては最先端技術を導入した横濱“鉄桟橋”が<完成>します。
この時の設計・監督にあたったパーマーは明治期の“お雇い外国人”イギリス陸軍の工兵少将で、日本初の近代的水道である横浜水道を完成させた人物としても有名です。
実は、ヘンリー・スペンサー・パーマー(Henry Spencer Palmer)は鉄桟橋の竣工、完成を見ること無く1893年(明治26年)54歳で脳卒中のため亡くなります。
Civil engineerの精神を日本に伝えたパーマーの意志は現在も“横濱”に残っています。
No.121 4月30日  日本にCivil engineeringを伝えた英国人

(コードネームは?)
現在「大さん橋」と呼ばれている横浜港の“ヘソ”となる国際客船ターミナルは、1894年(明治27年)に完成以来、様々な「ニックネーム?」で呼ばれてきました。
鉄桟橋
税関桟橋
築港桟橋
横浜桟橋
横濱大桟橋
サウスピア(南桟橋
メリケン波止場
だいさんばし(新港埠頭の誕生)
横浜港の港湾機能が“大さん橋”だけで間に合うはずもなく、すぐにパンクしさらに船の接岸できる“埠頭”が必要になってきます。
そこで誕生したのが“新港埠頭”です。
“大さん橋”の横に、12の埠頭を持つ「新港埠頭」が明治末から大正にかけて完成し、貿易、旅客用の埠頭として昭和の時代まで大活躍します。
赤レンガ倉庫(赤レンガパーク)
JICA
ワールドポーターズ
カップヌードルミュージアム
コスモクロック
アニヴェルセル みなとみらい横浜
新港埠頭が実質交易の中心地になりますが、代表的な客船や、商船は大さん橋に停泊しました。(欧米船独占時代からの脱却)
貨客船(商船)の為に「大さん橋」が作られますが、日本と外国を結ぶ定期航路はほぼ米英が独占状態でした。
「大さん橋」利用第一船はイギリス船籍「グレナグル号」でした。
1885年(明治18年)に合併し誕生した日本郵船は、1901年(明治34年)に初めて税関桟橋を利用することができるようになります。
この時に着岸した商船が後のシアトル航路定期船となった
「加賀丸」です。
この「加賀丸」1909年(明治42年)9月12日に桜の苗木2000本(シドモア桜)を運びアメリカ国民が歓喜した文化交流船です。(艱難辛苦乗越えて)
20世紀に入り「大さん橋」は二期工事で工期5年、経費113,750円をかけ幅42.8mの突端に木造の“上屋”が造営されます。
th_201312015.jpg

そこに 1923年(大正12年)の関東大震災が起こり機能不全に陥ります。
桟橋部は挫折、陥没、上屋消失 と記録が残っています。
応急処置を済ませ、二年後の1925年(大正15年)復興桟橋の竣工式も行われ、往時の賑わいを取り戻します。横浜市内全域での復興事業が進む中
1928年(昭和3年)には 二棟の上屋が完成します。
1936年(昭和11年)には第三期増築工事が完成し、「横浜大桟橋」が名実共に完成します。
1945年(昭和20年)第二次世界大戦末期、横浜大空襲により「大さん橋」は元より市街地の44%が焼失します。
戦後、進駐軍により「大さん橋」は接収され
「サウスピア(南桟橋)」と呼称が変更されます。市民は「大さん橋」完成以来メリケン波止場とも呼んでいたようですが、まさにアメリカ桟橋となってしまいました。→(大桟橋風景)

7月 28

【2月16日】ヨコハマグランドホテル解散

このブログは 2013年に書いたものからお気に入り、
加筆が欲しいものを「過去ネタ」としてアップしているものです。

grandH絵はがき

1927年(昭和2年)2月16日、関東大震災で倒壊・焼失した「The Grand Hotel Yokohama」が再建を断念し会社を解散しました。明治から大正期に横濱の高級ホテルとして輝いた「The Grand Hotel Yokohama」は震災をきっかけにその栄光の歴史に幕を下ろします。
この「The Grand Hotel Yokohama」エピソードを中心に紹介します。
「The Grand Hotel Yokohama」の創業に関わった人物の一人が写真家として有名なベアトです。
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/univj/list.php?req=1&target=Beato
フェリーチェ・ベアト(Felice Beato)
http://ja.wikipedia.org/wiki/フェリーチェ・ベアト

1870年(明治3年)夏にベアトが購入した英国公使館跡地の建物を(グリーン夫人が)石造りのホテルとして開業しましたが上手くいきませんでした。(写真家は財力があったんですね)
場所は海岸通20番地エリア、フランス波止場(西波止場とも)近くです。(マップ参照)
現在の人形の家近辺です。(フランス山もすぐ近くです)

lig_居留地東
lit_grandhotel
grandhotel

※ちなみに横浜には開港時三つの港がありました。元町よりのフランス波止場、現在の大桟橋エリアのイギリス波止場、そして万国橋エリアの日本波止場(上の画像マップからは外れています)です。

立ち行かなくなったホテルは
再度ベアトが資金調達し1873年(明治6年)に改装オープンします。
その後、1889年(明治22年)に個人経営から法人化(株式会社)し翌年の明治23年にフランス人の建築家サルダ(Sarda,Paul)設計により、隣接の18・19番に新館を増築します。
室数は200余りと横浜を代表する大型ホテルとして
関東大震災で焼失するまで営業していました。

※設計者サルダ(Sarda,Paul)は、指路教会会堂を設計した建築家です。
当時、高級ホテルのノウハウはやはり英仏、特にフランスが持っていました。
ホテルの朝食にもこの伝統が流れています。
コンチネンタルブレックファースト、
ブリティッシュ ブレックファースト(アメリカンブレックファースト)ですね。
海岸通20番地エリアはフランスの支配が強く感じられるエリアでしたので、
フランスの高級ホテルの名を使い(The Grand Hotel)としたのでしょう。
余談ですが、スウェーデンのストックホルムにある世界的にも有名な5つ星「グランドホテル」も
1872年(明治5年)にフランス人の(Jean-François Régis Cadier)によって設立されたホテルです。
関東大震災が無ければ、現在もThe Grand Hotel Yokohamaは営業していたかもしれません。

このグランドホテルを語るときに 忘れてはいけない人物がいます。
1889年(明治22年)支配人として、サンフランシスコから着任したルイス・エッピンガー(Louis Eppinger)です。
※カクテルの紹介でルイス・エッピンガーをバーテンダーと紹介している資料もありますが、手元の資料では支配人と紹介されていますのでここでは支配人としておきます。

1898_grandhotel.jpg

エッピンガーは着任2年目の1890年(明治23年)新しい創作カクテルの考案に取り組みます。
彼はカクテルに造詣が深く、アメリカ時代に(1885年頃)ニューヨークで人気を博したカクテル「アドニス」をバーのメニューに加えます。
「アドニス」とはライト・オペラと呼ばれた草創期のミュージカルのタイトルで、ギリシア神話を題材にした女神アフロディーテ(ヴィーナス)と四季の始まりとなった逸話を残すペルセポネの二人に愛された美少年“アドニス”の代表的悲劇をアメリカ流にアレンジしたものです。
このライト・オペラ「アドニス」は1880年代空前のロングランヒットとなります。
ヒット作品には早速新しいカクテルが考案されます。
19世紀まで主流だったブランデーに代わり当時人気のあった手軽で高級感のあるシェリー酒、特にフィノベースのカクテルが作られました。
カクテル「アドニス」
ドライ・シェリー3分の2、
スイート・ベルモット3分の1、
オレンジ・ビターズひと振りをステアして
カクテル・グラスに注いだものです。
食前酒としておすすめです。

この「アドニス」をエッピンガーは横浜版にアレンジしました。
スイート・ベルモットをドライ・ベルモットに変えたのです。
「アドニス」に比べ甘さが抑えられ「竹のように素直でクセがなく、すっきりとした辛口に仕上げられた」ためエッピンガーはこれを「バンブー」と名付けたそうです。

私の珍説(仮説)があります。
「電灯の事業化に成功した」発明王エジソン(1847年2月11日 – 1931年10月18日)は、
1879年(明治12年)に電球の実用化に成功しますが、
そのフィラメントに京都岩清水八幡宮脇の竹林から採取した竹を使います。
http://www.iwashimizu.or.jp/story/edison.php?category=0
その後すぐに新素材が開発されますが、日本の竹フィラメントは驚異的な寿命を実現し、世界にその名が轟きます。
それから約10年経っていますから、Japan Bambooというブランドはアメリカでも日本でも話題になっていたのではないでしょうか。

大西洋を渡った美少年(アドニス)は、アメリカに渡り「竹」を割って生まれた「かぐや姫」に変身して太平洋を渡ったとしたら なんとエキゾチックな物語でしょうか。

No.295 10月21日(日)先達はあらまほしきことなり

(グランドホテル焼失)
関東大震災は、横浜のほとんどの建造物を倒壊、焼失させます。
再建を試みるもの、諦めるものありましたが、
グランドホテルは後者を選びます。
国際ホテルの必要性を感じた横浜市内の財界、市役所の総意で1927年(昭和3年)12月1日現在のニューグランドホテルがオープンします。
敷地は幕末に開設されたフランス海軍病院跡で
ここでもフランスとの因縁があります。
またまた余談ですが、福沢諭吉が横濱から旅立ち
欧州を巡った時、帰路パリで泊まったホテルがグランドホテルです。

ヨコハマグランドホテル解散(過去ネタ)
7月 28

【歴史エピソード】電話交換史

今日は横浜風景の歴史、過去と現在の風景から横浜を読み解きます。

No.26 1月26日 横浜東京間電信通信ビジネス開始
●1890年(明治23年)12月16日
横浜と東京間にわが国で初めて電話交換業務が開始されました。
2014 【ミニネタ番外編】横浜電信柱 探索
ここでは電柱のミニネタを紹介しました。
今日はその後の“電話交換”ネタを発見しましたので紹介します。

lig_寺島
<寺島宗則>

明治早々に電話が導入され、普及していきます。
導入に積極的だった人物は
寺島宗則です。

初期は交換手による回線交換でした。
電話を使うには、2つの電話機の間で通信回線がつながっている必要があります。
まず 各電話機から電話局と接続します。
この時に昔の映像にあるように手元のミニハンドルを回し簡易発電を行い交換台まで“使用信号”を送る磁石式が使われていました。
lig_PC190003.jpg
交換台がその信号を受けると口頭で相手の電話番号を告げて、人手で接続してもらう方式です。
lig_PC190012.jpg 交換手に依頼するタイプなので初期の電話機にはダイヤルがありませんでした。1890年代はこの方式が主流だったそうです。ところが、関東大震災で人による交換機能が全面ストップし、電話線は無事でも繋がらない事態が生じました。そこで
1926年(大正15年)復旧をきっかけに自動電話交換機が採用されることになります。
国内で初めて導入された自動交換機に採用されたのが「ステップ・バイ・ステップ」という方式です。仕組みに関しては各自調べてください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/電話交換機

その後、順次自動化されていきますが、
当初は自動交換は市内電話に限られていました。それでも
市外電話にまで採用されるようになったのは戦後かなりたってからです。
自動交換機の導入にあたり
技術面の統一を重視する一方式案と
競争原理による経済性を重視する複数方式案が検討されます。
結果、
英国ATM社製のストロージャ式(A形)と
ドイツのジーメンスハルスケ式(H形)の2方式が導入されます。
英国ATM社製のストロージャ式(A形)は、
1926年(大正15年)1月20日
東京の京橋電話局に導入します。
一方
ドイツのジーメンスハルスケ式(H形)は、
1926年(大正15年)3月25日
横浜中央電話局(長者町局)に導入されます。
lig_長者町電話局 <昭和初期の長者町電話局>
lig_PB290008.jpg <現在の長者町NTT>
ジーメンスハルスケ式は1934年(昭和9年)から国産化ができるようになります。
正式にH形交換機と呼ばれ自動交換用の電話機普及につながります。
※自動電話は、加入者が交換手に頼らず通話することになるため
その講習会がデパートや学校で開催されたそうです。

戦後、「ステップ・バイ・ステップ方式」はメンテが楽な「クロスバ方式」に代わり、市内から遠距離通話も自動化が導入されていきます。

ここに一枚の大正15年4月に出されたはがきがあります。
lig_絵はがき昭和15年4月8日034 文面には
「横浜も去る三月二十五日から自働電話になり大変便利になりました。東京も二三局だけ自働式になったようでこれはその機械の内部の写真です」(独学読みなのでてにをは?)

絵柄には
ジーメン ハルスケ式
自働式電話交換機室
自働式電話開通記念 横浜中央電話局
とあります。
lig_201312絵はがき035 「絵葉書が語る」震災復興期の横浜です。

7月 28

【ミニネタ番外編】横浜電信柱探索(加筆)

今日は私の街歩きのガイド時に定番話題となっている
<電柱>の話を改めて絵葉書から紹介しましょう。
道路には電柱が建っているが、大きく電力を運ぶ電力柱、通信回線を張り巡らす電信柱がある。私たちは日常<電柱>か<電信柱>と呼び、殆ど電力柱とは呼びません。
この<電力柱><電信柱>かつては別々に建っていました。
今も分かれて建っている道路もあり、街歩きの楽しみの一つです。

「電信の父」といわれた寺島宗則が明治維新早々、横濱で最初に事業化した電信は、瞬く間に全国に広がります。
電気よりも早く普及した電信そして電信のために設置された「電信柱(でんしんばしら)」。
日本の情報インフラのスタートラインといっても過言ではありません。
今日は、この電信柱から「横濱風景」を読解いてみます。
lig_nnP8140410.jpgまずはクイズから行きましょう!
電信柱
電力柱
なんと読むでしょうか?それぞれの役割は?
電信柱は「でんしんばしら」ごく一般的に使用されていますね。
電力柱は?
「でんりょくちゅう」と読みます。
役割は電信柱が「電信」で電力柱は「送電」のための柱です。
歴史は「電信」柱が古く 電気→「電力」柱が約二十年遅く巷に設置されました。
現在は電信柱と電力柱が合体し「共用柱」として使用されているケースが多くなりました。

(風景としての横濱電柱)
横浜は“戦災”と“震災”で多くの記録を失いました。
残されている記録から “横浜の電柱”を読み解いていきます。

戦前の風景を読解くには「写真」がベストですが、横浜は冒頭にも書いたように“戦災”と“震災”で多くの記録を失ってしまいました。そこで重要な記録資料として役割が見直されてきたのが「絵葉書」です。
「絵葉書」に描かれた横濱風景で“電信柱”の存在は脇役も脇役、殆ど注目したコレクターはいなかったのではないでしょうか。
改めて、「絵葉書」から風景を読み込もうとすると
電柱が気になり始めました。
下記のサイトで横浜の戦前風景に出会えます。
都市発展記念館

手元にある「絵葉書」から横浜の電信柱風景を観察してみましょう。
横浜市立図書館 絵葉書「Yokohama’s Memory」

→電信柱の視点で観てみましょう。
気になって気になってしかたなくなりますよ!!
この他、建築物は当然ですが服装、乗り物など 見始めると不思議探検が始まります。
lig_201312絵はがき002(電信電力の歴史)
明治大正の電信柱風景を読み解く前に、簡単な電信・電力の歴史を振り返ってみます。
●印は<電力関係> ■横浜関係
1869年(明治2年)
■英国の通信技師を招き横浜燈台役所と横浜裁判所の間に電信回線を敷設。
ブレゲ指字電信機(モールス信号ではなく針で文字を指す方式)による通信が始まる。
「横浜の寺島」

1871年(明治4年)電信機器初の国産化
1878年(明治11年)国産電話機誕生(2台)
1886年(明治19年)
●日本初の電気事業会社(東京電燈)が開業
1887年(明治20年)
●日本初の火力発電所が完成
1889年(明治22年)からは一般利用が始まった。
1890年(明治23年)
電信線電話線建設条例 制定
→急速な普及で、道路専有による交通障害が多発。
→道路を管轄する内務省と逓信省の確執
■横浜〜東京で電話・電報業務サービス開始
1892年(明治25年)
●日本初の水力発電所が京都で完成。
1895年(明治28年)2月1日
●日本初の電気鉄道として、京都電気鉄道が開業。
1899年(明治32年)わが国長距離通話のはじめ(東京〜大阪間)
全国の電話加入者数が1万人を超えた。
1903年(明治36年)12月30日 横浜共同電灯会社「高島町に発電所竣工」
No.365 12月30日(日)横浜初の発電所

No.365 12月30日(日)横浜初の発電所


1904年(明治37年)7月15日
●■横浜で最初の電気鉄道(路面電車)運行開始。
No.417 Tram Tin Tim Street Car

1913年(大正2年)
●電力の動力需要が照明用の需要を超える。
1919年(大正8年)道路法で電柱の優遇専有が撤廃。
→逓信省 猛反発
1926年(昭和元年)日本初の自動交換方式開始
1942年(昭和17年)内務省・逓信省が協定を結び
電柱問題が解消。→といっても戦中だよね!!

 

(絵解き絵葉書)
明治大正期、電信柱と電力柱は別々だったそうです。
電信・電話は大正期まで回線数分だけ“電信線”が必要でした。
電話回線を一本のコードに集約する技術登場にはもう少し時間がかかります。
交換所で“交換手”が掛かってきた電話先と話して繋いでほしい相手に“手動”で繋ぐ時代が続きます。
ということは、電信柱の線数でおおよその電話回線規模が推察でき、街の規模の指標の一つになります。

light_横浜絵葉書再編01_111
8極 17連?
light_横浜絵葉書史料001
12極5連、8極14連?
light_百科事典005
12極5連、8極3連?

また、「電信柱」の回線数の変化で街の発展史を推論することもできます。
lig_読み解き地蔵坂絵葉書lig_201312電柱絵はがき001

資料を調べてみると、
電信柱の材質も最初は普通の木製柱で、材質は杉・桜・ヒノキを使用、風雨で7から8年しか持たなかったそうです。その後防腐剤入りが導入され、耐用年数が20年に延びます。
コンクリート柱となるのは戦後になります。
電柱の交換作業も大変だったようですが、現在行われている”電柱地下埋設”の考えが中々進まなかったため莫大なコストをかけていました。

今からすれば 欧米の仕組みを導入していた日本がなぜ電柱埋設を推進しなかったのでしょうか?
断片的資料ですが、ここにも縦割り行政の壁があったようです。
電信柱を道路に設置するための管理権争奪が当時の逓信省と内務省で壮絶な戦いがありました。
情報インフラは全てに有用なものなんですが。

lig_201312絵はがき弁天通り電柱さらに「電信柱」に続いて「電力柱」が登場します。電力の一般家庭への普及は、大正期に進みますが、道路占有の視点では「電気鉄道網」の推進と電信柱の増大から電気・電信の共有化が議論され関東大震災以降 少しずつ進行していったようです。
lig_201312絵はがき柳橋電柱どこかで 昔の情景に出合ったなら 「でんしんばしら」にも注目してみてください。
現在でも電信専用の<電信柱>のある通りもありますよ!
#電信柱 #絵葉書の風景

2016年11月加筆修正

7月 27

【横浜風景】護岸・誤岸?

別にあら探しをしている訳ではありませんが、

変な風景に出会ったので 紹介?します。
場所探しは思わぬ方向へ。
lig_遠景888この段差は何?
これが今日の【横浜風景】です。
横浜駅西口から鶴屋町方面にいく時に渡る「鶴屋橋」があります。この橋は西口界隈では歴史が古く戦前、このあたりが沼地だったころから橋が架かっています。
lig_鶴屋橋あたりlig_鶴屋橋昭和さて写真に戻ります。
この鶴屋橋のたもとにこの段差があります。
川幅がここで変わっている訳ですが、どうも工事中のまま放置されているって感じしませんか?
lig_近景89鉄筋出ていますよね?

土木事務所に聞けば済む話ですが、これでわざわざ担当者の労を願うのも気が引けたので、勝手に想像しました。
横浜駅西口界隈は、戦前は沼地で戦後しばらく“砂利置き場”でした。
現在の賑わいを想像することもできません。
おそらく 河口川からの工事と沼地埋め立て(ダイアモンド地下街)工事の都合が合わなかったのでしょう。
No.395 水中地下街

1964年(昭和39年)12月1日に西口の地下街が誕生します。
この工事には、西口全体の運河計画(新田間川)を進め
護岸工事しなければなりません。
この時、海につながるルートには
「Y市の橋」があります。
No.379 1月13日(日)Y市の橋

この鶴屋橋の架かる水路は一見濁った川ですが、
上流はどこか? お分かりですか?
遡ってみると?

(帷子川分水路)
lig_帷子川下流域46
相鉄線の西谷近くにこの川の分岐点があります。
lig_P7170046.jpg lig_P7170050.jpg 「帷子川分水路」です。
この「帷子川分水路」はかつて暴れ川だった帷子川の水害を和らげる役割を担った大切な運河です。
lig_分水路図
No.433 帷子川物語(1)

「帷子川分水路」は、そのほとんどが地下トンネルでできているので川の流れを目にすることはありません。分岐点と河口しか見えないのです。
帷子川は、昭和時代までかなりの暴れ川で、氾濫を繰り返しています。
この「帷子川分水路」のおかげで天王町以降の下流災害がかなり軽減されました。
「ベイクウォーター」を利用されるかた!
lig_P8021152_20140122092923290.jpg

「鶴屋橋」を渡る方!
<良い店があります>
感謝して渡りましょう。

7月 27

【横浜側面史】 観艦式

戦前、横浜で開催された大規模の式典が多くあります。

■製茶共進会・生糸繭共進会(1879年(明治12年))
■開港50周年記念式典(1909年(明治42年))
■神奈川県横浜市勧業共進会(1913年(大正2年))
■震災復興記念横濱大博覧会(1935年(昭和10))
この他、
特に横浜で多く開催されたのが海軍「観艦式」です。
今日はこの横浜沖「観艦式」を少しレビューしてみます。

観艦式930373
<昭和3年観艦式記念絵葉書  合成写真っぽい>
「観艦式」は明治に始まり現在も行われていますが、戦前は軍拡競争の中で国の威信をかけた式典として盛大に行われました。
「観艦式」
戦前、明治から昭和にかけて 日本海軍は「観艦式」を計18回実施しています。
その半数九回が横浜沖で実施されました。
No.285 10月11日(木)武装セル芸術

ここでは1940年(昭和15年)10月11日(金)に開かれた帝国海軍、最後で最大の「観艦式」について簡単に紹介しました。

そもそも「観艦式」というのは1341年に英国で始まったデモンストレーションで、当時のエドワード3世が英仏戦争の際に指揮を鼓舞するために出撃の際観閲したことに始まります。
余談ですが、
礼砲の作法も英国のプロトコルが世界標準になっています。発射数を最大21発として19発・17発・15発〜と奇数回その地位によって数が決まっています。
No.231 8月18日 (土)give a twenty‐one gun salute.

No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に

「No.285 10月11日(木)武装セル芸術」の回での紹介を含め
今回「観艦式」を再度紹介するに至ったのは
なぜ 「観艦式」の半分を横浜で行ったのだろうか?
という素朴な疑問があったからです。
おそらく 横浜港沖で行った理由は
「帝都東京」と「東海鎮守府」である海軍中枢基地「横須賀」に近いこと。
そして
横浜港の持つ構造の良さだろうと推測できます。
→後半で別途紹介します

全18回の「観艦式」の内訳は
横浜沖で9回
神戸沖で6回
横須賀沖で2回
1回(初回のみ)大阪天保山沖
で行われました。

観艦式44288d
<式次第>                  kawakita collections

観艦式41384

観艦式928357
kawakita collections

最初に横浜沖で実施された「観艦式」は
1905年(明治38年)10月23日<日本海海戦勝利凱旋観艦式>と呼ばれ、
日露戦争の勝利を祝う目的も兼ねていました。
第五回目にあたるこの「観艦式」は、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将が総司令官として式典に臨み国民の関心もかなり高いものでした。
観艦式図 <当時の観艦式 配列図>
この第五回目以降、観艦式は拡大を続けます。
明治期観艦式の見物人に関する資料は手元にありませんが、
1928年(昭和3年)御大礼特別観艦式(昭和天皇即位式)として実施された横浜沖での観艦式は天候にも恵まれ
鶴見岸から本牧まで、多数の見学者が水際を埋め尽くしその数は100万人を越えていたそうです。
この観艦式には米国『重巡洋艦ピッツバーグ』、英国『重巡洋艦ケント』『重巡洋艦サフォーク』『重巡洋艦ベルウィック』、仏国『装甲巡洋艦ジュール・ミシュレ』、伊国『リビア』、オランダ『ジャワ』と各国の特務艦計11隻の外国艦船も参加しています。

(劇場としての横浜港一帯)
横浜港一帯が最高の一大劇場と化していたことになります。
横浜港の持つ円形劇場、
横浜港から鶴見川崎にかけての、岸辺・丘からの眺め
現在のように工場や高層ビルの無い時代に、少し小高い丘に登れば横浜沖の東京湾が一望できたロケーションは、海上デモンストレーションには最高です。
多くの国民・関係者にプレゼンスできる「横浜港一帯」だったのです。

観艦式444384
kawakita collections

以前 このブログで 帝都東京と 港都横浜の都市間競争を紹介しましたが、帝都東京が力と権力も有しながら中々開港できなかった背景は、省庁間・地元経済界の猛反対に加え、多くの市民の支持と
「港都横浜」としての“劇場性”もあったからではないでしょうか。

70年代に私が初めて横浜港周辺を散策し始めた頃、
まだまだ海辺は近づくことが難しかった時代でした。
「KEEP OUT」の文字も多かった気がします。
横浜港の水際が自由で快適な空間になりはじめたのは つい最近のことです。
戦前以上に港都横浜の魅力を楽しめるようになった?今
“平和会議場”もあることですし
みなとのみらいから積極的平和を発信できる都市に成長していって欲しいものです。

観艦式一覧
1868年 (明治元年3月26日) 大阪天保山沖 4月18日
1890年 (明治23年)4月18日 神戸沖。
1900年 (明治33年)4月30日 神戸沖。
1903年 (明治36年)4月10日 神戸沖。
1905年 (明治38年)10月23日 横浜沖 日露戦争終結
1908年 (明治41年)11月18日 神戸沖。
1912年 (大正元年)11月12日 横浜沖。
1913年 (大正2年)11月10日 横須賀沖。
1915年 (大正4年)12月4日 横浜沖。
1916年 (大正5年)10月25日 横浜沖。
1919年 (大正8年)7月29日 横須賀沖。
1919年 (大正8年)10月28日 横浜沖。
1927年 (昭和2年)10月30日 横浜沖。
1928年 (昭和3年)12月4日 横浜沖 【御大典記念】
1930年 (昭和5年)10月26日 神戸沖。
1933年 (昭和8年)8月25日 横浜沖。
1936年 (昭和11年)10月29日 神戸沖。
1940年 (昭和15年)10月11日 横浜沖。
【日本海軍最後の観艦式】紀元二千六百年特別観艦式

(余談)
観艦式資料を探していたら
観艦式準備資料の中からこんな図面・文書を発見しました。
観艦式509317
観艦式4397e3 以前横浜水上署見学の際
ここで西波止場という言葉が使われていました。何気なく聞き流していましたが
lig_sanbasi 戦前からこのあたりを
「西波止場」と呼び続けていたんですね。

7月 25

(通算648話)横浜火災海上保険を創った男

(プロローグ)
日本は世界の船舶保険において一位二位を競う“保険大国”です。この保険制度は十字軍遠征時代の冒険貸借から始まった金銭消費貸借制度に原点があります。その後、海洋貿易の契約制度の試行錯誤を繰り返しながら、近代保険制度が確立していきます。
日本では江戸末期に福沢諭吉※により、西欧における保険知識が紹介され、その後、明治初頭から海上保険の研究が行われ「海上請負」と呼ばれる荷主への貨物補償制度の試みが行われるようになりました。
※『西洋旅案内』
実は制度としては朱印船貿易時代にすでに「抛金」(なげかね)という海上保険制度が行われていました。これは前述の「冒険貸借」とほぼ同じ考えしくみの金銭消費貸借制度でした。
明治に入り最初の海上保険会社が1879年(明治12年)に設立されます。「東京海上保険会社」(現在の東京日動)です。
その後大小様々な海上保険会社が創業しますが、合従連衡を繰り返しながら現在につながってます。
1881年(明治14年) 明治生命保険会社(生保関連の草分け)。
1893年(明治26年)に住友海上火災保険(株)・日本海上保険(株)
1918年(大正7年)に大正海上火災保険(株)→三井海上火災保険(株)
1919年(大正8年)に三菱海上火災が設立。

1897年(明治30年)に横浜でも海上保険会社が設立されます。
横浜火災海上保険です。
後の戦時経済下に関西の保険会社と合併し同和火災海上保険となりますが、貿易港横浜を代表する海上保険会社として創業以来各地に支店を出し貿易の潤滑油の役割を担っています。
横浜火災海上保険を偲ぶ形としてとして現存するのが神戸にある毎日新聞ビルです。ここはかつて横浜火災海上保険 神戸支店(1925年竣工、設計:河合浩蔵)でした。
lit_横浜海上保険001横浜火災海上保険(株)本店は、「横濱成功名誉鑑」(1910年 明治43年刊)によれば太田町3丁目50番地となっています。同和火災海上保険(株)『同和火災50年史. 資料集』によれば「横浜火災創業の地(現在の横浜市中区弁天通一丁目付近)」です。
微妙な違いについてはここでは精査しません。
light_横浜火災海上運送借用

この横浜火災海上保険の初代社長は富田鐵之助(とみた てつのすけ)、副社長で二代目社長となったのが土子金四郎(つちこ きんしろう)です。
話は横道に逸れます。社長となった富田鐵之助なる人物もかなり魅惑的な人物のようです。彼の簡単なエピソードを集めるだけでも たっぷり歴史の面白さを楽しむことができそうです。
富田鐵之助
Wikipediaでは
「富田 鐵之助(とみた てつのすけ、天保6年10月16日(1835年12月5日)〜大正5年(1916年)2月27日)は、幕末の仙台藩士・明治期の外交官・実業家。諱は実則。号は鉄畊。日本銀行初代副総裁・第2代総裁を務めるが、大蔵大臣松方正義と対立して罷免された。後に貴族院議員・東京府知事を歴任する。」

とありますが、ここに紹介した内容以外が富田を紹介する上で重要な側面だと思います。明治政府の経済政策の台所となる「日本銀行」の設立に深く関わり、初期の重要な金融政策に関わった冨田は総裁になって早々大蔵大臣松方正義に明治22年罷免されます。
以後在野で生きることになります。彼の生き方、日銀時代の数年以外(前後)が面白いのですが、あまり紹介されていないようです。横浜とも横浜火災海上保険以外で繋がっています。

<第一エピソード>
富田 鐵之助は日銀を首! になった二年後の1891年(明治24年)、東京府知事に就任します。
この時に彼が断行した「神奈川県」との大げんか!※ が『神奈川県に属していた「三多摩(南多摩郡・北多摩郡・西多摩郡)」を東京府に併合』したことです。これは東京と神奈川の水源戦争でもあり、東京(府)になっていなかったら、多摩川の上流域は神奈川県で、横浜の水源地も道志川・相模川水系に加え多摩川水系も横浜・川崎の水!ということになっていたらその後の都市発展は大きく変わってきたかもしれませんね。東京にとっては三多摩確保が生命線であったことは間違いありません。

※大げんかではなく、政治的思惑で神奈川県から自由党の強かった三多摩を分離したという資料もあり、明治維新以来この三多摩地区の政治的視点からの動きもかなり面白そうです。

<第二エピソード>

じゃあ 富田 鐵之助は神奈川の宿敵!か? というと一方で
(東京府知事就任以前ですが)日本の生糸産業が対米輸出に深く関われるよう尽力しています。この生糸紡績に関しては、知事辞任後 横浜に大いなる貢献をしています。
保土ケ谷、現在の天王町にあった大工場「富士紡績」の設立に関わっていました。
「富士紡績」は戦災で焼失するまで天王町一帯の基幹産業として、地域と深い関わりがありました。
No.434 帷子川物語(2)

(エピローグ)
へろへろとワンタンすするクリスマス
カチカチと義足の歩幅八・一五
ライターの火のポポポポと滝涸るる

オノマトペ(擬声語・擬態語など)の不死男といわれるほどリズム感のある俳句を残した秋元不死男は戦前戦後を通してアリズムを指向した俳人として活躍します。
大桟橋埠頭ビルに秋元不死男の句碑があります。目立たないので見逃している方も多いかもしれません。

lit_秋元不死男句碑
「北欧の船腹垂るる冬鴎」
Whirl winter-seagulls yonder
While rests a huge Nordic liner
With her impending wall of hull,at anchor.
秋元不死男は、横浜市元町生まれで彼の作品活動で山手警察署に逮捕、半年後東京拘置所に移され二年間勾留された時代もありました。
俳人 秋元不死男、本名は秋元 不二雄。彼が職場として23年間勤めたのが、
横浜海上火災保険でした。1941年(昭和16年)、治安維持法違反の嫌疑で検挙され会社を辞職。戦後は俳句の世界に生き、1968年句集『万座』にて第2回蛇笏賞を受賞しました。

No.35 2月4日 秋元不死男逮捕、山手警察に勾留

No.35 2月4日 秋元不死男逮捕、山手警察に勾留

7月 22

【絵葉書の風景】人の居る風景4

戦前の大量絵葉書を“量売り”で購入した中には、様々な風景があります。その中から、テーマで選んだ絵葉書を紹介します。今回は「日傘」です。

近年、日傘が復活してきたようですが、戦前は夏に「日傘」をさすあたりまえの光景があったようです。といっても当時の日傘はかなりの高級品でした。
日傘をさす姿は、時代のステイタスだったのかもしれませんね。

light_絵葉書横浜風景編001

男性は帽子、女性は日傘。大正から昭和初期によく見られた光景です。上記の絵葉書は戦前繁華街として賑わった「伊勢佐木」の光景です。

light_20140713210154_002

「色香ただよう」と題して、川岸に傘をもった二人の女性が登場しています。light_20140713210236_001 light_20140713210242_001 light_20140713210244

なかなかモダンな「洋傘」をさしています。和服に「洋傘」は似合いますね。light_20140713210252_001 light_20140713215247 light_芦原温泉069_026

7月 22

【ハマmemo】横浜の五大苦

1978年(昭和53年)飛鳥田市政(1963年〜)から細郷市政(〜1990年)に変わった折
細郷市長は、
横浜市が経験してきた試練を五大苦というキーワードで表現しました。

1923年(大正12年)9月の関東大震災、
1929年(昭和4年)に始まった世界恐慌、
1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲前後の戦災、
1945年(昭和20年)8月16日終戦から始まった米軍の接収時代、
そして
1955年(昭和30年)頃から始まった 高度経済成長下の人口急増
light_横浜中心部被災

<無からの飛翔力>
選択には一部異論もありますが、一つの横浜を捉えるヒントとしてこの5つの試練から横浜を見つめてみます。輝かしい過去や、先進性の気風に横浜の姿を重ねがちですが、横浜の横浜たる根底には「無からの飛翔力」があるのではないかと私は考えています。
都市の姿としてこの「横浜」を俯瞰した時、
実際 この「横浜」には“輝かしい時代の”僅かな痕跡しか残っていません。
実際開港時の香りは“街区”の形状しかありません。
<運河の町「横浜」>の痕跡も無くなってしまいました。これらの喪失、その大きな要因が「関東大震災」と「横浜大空襲」です。
物理的に失ったこの街の面影に代わる<よこはま>はなにか?
横浜人はかろうじて点在する名残から現在の「よこはま・YOKOHAMA」らしさを追い求めてきたのではないでしょうか。

light_絵葉書横浜大さん橋編201419009<埋立ての街>
この意味で 最大の横浜喪失の要因は
1923年(大正12年)9月の関東大震災でした。
都市機能を失い「港都」横浜の地位を揺るがした大災害だったのです。
この震災復興のシンボルが「山下公園」であり、「野毛山」一帯の整備されてきた公園空間でした。中でも<山下公園整備>によって大正の横浜が終わったともいえるでしょう。
→もう少し 災害の記憶をこの公園に残しても良いのでは?と私は感じています。

三菱造船所から「みなとみらい21地区」へと代わることで横浜の昭和が終わり平成が始まります。
まさに「みなとみらい21地区」は平成の横浜を代表するイメージとなりました。

かつて横浜開港場周辺を表現するキーワードとして「運河の街」がぴったりでした。そしてもう一つ横浜が「埋立ての街」です。海岸線の変化で、横浜の変化を捉えることが可能です。

江戸時代の新田開発から始まり、幕末の緊急造成、そして明治・大正の港湾作りのための埋立て。昭和にかけての工業化にシフトしはじめた京浜地帯の埋立て。
そのさなか関東大震災で喪失した街の再生を願い「山下公園」が誕生し
戦後根岸・磯子、そして金沢の埋立てが行われました。
平成の<みなとみらい>と<新本牧>が現在の横浜をある意味象徴しています。
この間、埋立てにより誕生した<横浜駅周辺>が横浜の交通の要衝となっていきました。

「米軍の接収時代」
横浜における米軍接収面積は1604万平米でした。
全国の接収面積の約62%で日本最大の接収規模でした。
(注:沖縄は全土米軍に占領され日本から切り離されていました。日本ではなかったのです。)
1952年(昭和27年)に日米間で「日米行政協定」が結ばれ、ようやく接収解除が始まるはずだったのですが朝鮮戦争により<軍事拠点>として在日米軍施設の役割が増大し、地域によっては接収地域が増えるという状況にありました。

「高度経済成長」
横浜にとって「高度経済成長」がなぜ「苦難」の一つになったのでしょうか?
接収時代に横浜中心部の多くを接収された横浜は
行政機能や基幹施設の移転を余儀なくされ、決してフル回転できる状況ではありませんでした。
ここに、高度経済成長による都市人口集中が起こります。
<横浜>は首都圏の事業所に勤務する従業員とその家族の“ベッドタウン”として夜間人口が急増していきます。
そこには当然、住宅政策、都市基盤整備が急務になっていきます。電気水道ガス等のインフラは勿論、学校や交通網の整備が待った無しの状況に置かれました。当時の学校関係者は「とにかく学校整備が追いつかない。一日を二部制にしたり、プレハブの臨時教室を整備を突貫でしたね」と語っています。

※高度経済成長は実質二波ありました。
wikipediaでは
「日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期は、1954年(昭和29年)12月から1973年(昭和48年)11月までの19年間である。一部文献では、高度経済成長第一期(設備投資主導型)が1954年(昭和29年)12月から1961年(昭和36年)12月まで、高度経済成長転型期(転換期)が1962年(昭和37年)1月から1965年(昭和40年)10月まで、高度経済成長第二期(輸出・財政主導型)が1965年(昭和40年)11月から1973年(昭和48年)11月までとされる。」

横浜市の人口は、単純計算で年に十数万人の人口増が十年以上続く事態になります。
(つづく)