6月 12

No.164 6月12日(火) JR JR

昨日のJ・R・ブラックには今日につながる話しがあります。
1872年6月12日(水)(旧暦明治5年5月7日)かねてよりの突貫工事で進めていた品川・横浜間の鉄道が仮開業しました。

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日本の新聞黎明期に活躍したJ・R・ブラック
No.163 6月11日(月) 反骨のスコッツ親子

彼は、新聞だけではなくビジネスにもその才能を発揮しました。
品川・横浜間の鉄道開業が決まった1872年(明治5年)の横浜で、
「駅構内で新聞を販売したい」と
工部省に申請を出して許可を得た人物がJ・R・ブラックです。
日本で最初の新聞の駅売(即売)は「横浜駅(桜木町駅)」から始まったようです。
国鉄時代にJRブラックさんが駅で新しいビジネスとは!!
冗談はさておき、
新聞の発行だけではなく駅構内での販売を考えたとはすばらしい経営感覚です。
開店当初は出店料が無料だったそうですが、1875年(明治8年)1月から年間36円の有料になったそうです。
ちなみに、駅弁は1885年(明治18年)7月に宇都宮駅で食料品を販売した際に、弁当も販売したのが始まりだそうです。
<参考文献>「駅売弁当 -北から南まで-」山崎きく子(昭和女子大)

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横浜で駅弁と言えば!!!崎陽軒ですね。

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(ちょっと鉄道横道)
日本初の鉄道営業の開始は6月12日ですが、“鉄道の日”はなぜか10月14日です。
この“鉄道の日”元々『鉄道記念日』といいました。
国鉄民営化で「『鉄道記念日』のままではJRグループ色が強い」という“変な”お達しがあり1994年(平成6年)“鉄道の日”になったそうです。
(そんなことにこだわらなくても良い!って感じですが)
話しを“鉄道の日”10月14日に戻します。
品川・横浜間の正式開業は四ヶ月の仮営業後、旧暦明治5年9月9日の重陽の日に予定されていました。
ところが当日暴風雨で延期せざるを得ず改めて旧暦9月12日(西暦1872年10月14日(月))に正式開業しました。
ということで、西暦の10月14日が『鉄道記念日』となったわけです。
つまり、鉄道営業の開始の6月12日は“仮営業”“試験運転”????????
ということですかね。

初代横浜駅、現在の桜木町駅をうろついてみました。
桜木町駅に新改札口、JR東日本14年春設置へ(2012年の情報)
【紅葉坂口ができます】→紅葉坂口2014年7月オープン!!
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1201120048/

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「みなとみらい」へ短縮!とありますが
あまり時間的メリットがあるとは思いません。
改札の混雑緩和が主!ではないでしょうか。(野毛はちょっとダメージ?)
※コレットマーレには朗報ですね。商業施設ができるそうです。JR商法逞しいですね。
ということで
最新情報では 桜木町CIALが登場します。した。
lit_AZ103047lit_AZ103051 (周辺散歩)新しく桜の木が植樹されています。さてどこでしょうか?

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横浜緋桜は横浜生まれの桜です

かの有名な鉄道発祥の記念碑は現在寂しいところに建っています。

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ここでは鉄道記念日ではなく仮開業の日を創業の日としています

(余談)
駅の立食い蕎麦「川村屋」
このお店 110年以上の歴史があるお店です。
私このお店30年来の利用者ですが、2000年に入る頃までは 関東ワースト10に入るお店でした。
正直美味しいとは言えませんでした。
ネットでも、その前のパソコン通信でも人気無かったのです。
ところが、
今世紀に入り経営姿勢が変わったのか 代替わりしたのか
群を抜いて美味しくなりました。ここは青汁でも有名です。

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『横浜富貴楼お倉』鳥居民 1997 草思社にも登場します。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0323.html

富貴楼関連
No.255 9月11日(火) 謎多き尾上町の女将

No.419 落胆の身を江湖にさらす

6月 11

No.163 6月11日(月) 反骨のスコッツ親子

今日は横浜に因んだスコットランド人のお話をしましょう。
山手の横浜外国人墓地に親子で眠るスコットランド人の墓があります。
ファミリー名はブラック。
父のジョン・レディ・ブラック(John Reddie Black)は1880年(明治13年)6月11日(金)の今日、横浜海岸通18番地で急死し横浜外国人墓地第9区29に葬られました。

スコットランド国旗

 ブラック親子の話しをする前に、彼ら“スコットランド人気質=スコッツまたはスコッチ”について簡単に紹介しておきましょう。
“スコットランド人気質” はアメリカ人にとって「ケチ」で「頑固」と言われていますが、人一倍正義感が強く、動じない気質の裏返しとも言われています。
アメリカン・ジョークの世界の御約束では、「スコットランド人=ケチ」と決まっています。
でも地元イギリスではちょっと違います。
ちょっと長くなりますが、イギリスで人気のジョークのネタをご紹介しましょう。
このジョークはまず”An Englishman, an Irishman and a Scotsman…”で始まります。
日本風に言えば、ここに大阪人と京都人と神戸人が居てね  と言った風です。

「イングランド人とアイルランド人とスコットランド人がパブに入り、そろってビールを買った。
冷えたビールをグッと飲もうとしたその瞬間、ハエが一匹ずつビールにぽちゃんと落ちた。
(ありえね!)
イングランド人はビールを捨ててしまった。
スコットランド人はビールの中からハエをつまみ出し、気にせずにビールを飲み続けた。
アイルランド人はハエをつまみ出して逆さにぶら下げ、こう叫んだ。
 「吐け! オレのビールを吐きだせ、この野郎!!」
てな具合です。
※イギリスは連合王国で、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国とも呼ばれます。


(ジャーナリズム魂)
前置きが長くなりましたが、スコットランド人ジョン・レディ・ブラックは、オーストラリアに暮らしていましたが母国に帰ろうと考えていました。
たまたま日本が開国し横浜で友人から新聞社経営の手伝いを依頼され日本に向かいます。イギリス人ハンサード(A. W. Hansard.)が創刊した週刊英字紙《The Japan Herald》の共同編集人となります。
時は幕末の1863年(文久3年)のことです。
激動の日本に、スコッツ魂が燃えたのでしょう。
1867年(慶応3年)に日刊英字紙《The Japan Gazette》をへフトと協力し創刊します。

開港資料館「もののはじめ考」より

ところが、正義感のあるジャーナリズム魂は、時の政府批判にも及び徹底した圧力を受けます。
外国人のため筆禍を免れることになりますが、日本語新聞「日新真事誌」を発刊し自由民権運などと基の政府批判を擁護したことで当時の日本政府は法律を改正してまで新聞から手を引かせます。
怒ったブラックは日本を去り報道の舞台を上海に移しますがまもなく健康を害し1879年(明治11年)再び日本に戻り療養がてら代表的著作「ヤング・ジャパン」上下 二巻を執筆します。

 
東洋文庫で全3巻に分けて発刊されています

「この本は、歴史として権威を主張するものではない。この本は、現行の条約が1858に締結されてから経過した21年間に、外国人が多少とも興味を持ち、また少なくとも関係した、この美しい『日出づる国」で起った一番目立った事件を簡単に物語ったものにすぎない。」(まえがき)より冒頭部分

1880年(明治3年)6月11日脳溢血でジョン・レディ・ブラックは亡くなります。

(親子揃ってスコットランド人気質)
ジョン・レディ・ブラックが最初日本に立ち寄る前、滞在先のオーストラリアで生まれた息子がいました。
ヘンリー・ジェイムズ・ブラック、父を追って母子で日本で暮らします。
この国が妙に水に合ったのでしょう、父が上海に移った時、日本で暮らす事を選びます。そして後に石井 貎刺屈(いしい ぶらつく)と改名し日本に帰化することになります。

東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫

父親のジョンも息子のヘンリーもすごいと思うのはその語学センスです。
父は日本語に堪能で無ければメディア人として日本語新聞など出版できません。
さらに息子のヘンリー・ジェイムズ・ブラックは、職業に噺家を選びます。
日本初の青い眼の落語家となり、落語だけではなく翻訳家、落語作家、奇術、催眠術の実演と八面六臂の活躍をしました。light_2015042812吉田橋富竹亭日本における最初の外国人噺家となった<快楽亭ブラック>は、1878年(明治11年)頃に当時時代を皮肉る演説会などへ出てその堪能な日本語を披露し喝采を浴びます。さらに1879年(明治12年)馬車道の「富竹亭」に誘われて出演しそれがキッカケで芸人としての道を歩むようになります。

彼が初代 快楽亭 ブラックと呼ばれ、日本芸能史に残る活躍をします。
1903年(明治36年)には、母国英国グラモフォン社の録音技師フレッド・ガイズバーグが来日すると、ブラックは積極的に親しい芸人を誘い落語や浪曲を録音円版に録音し、これが貴重な日本初のレコード録音となります。
四代目橘家圓喬、初代三遊亭圓右、初代三遊亭圓遊、三代目柳家小さんなど明治の名人たちの貴重な生の声が残されています。

大正時代に入る頃、落語の世界に不況が訪れます。 
快楽亭 ブラックの人気も凋落して不遇な晩年を過ごし1923年(大正12年)9月19日、満64歳で亡くなりますが父の墓の隣(横浜外国人墓地)に葬られます。

ヘンリーが芸人になる時、家族、知人から猛烈な反対を受けたそうです。
彼は講談からこの世界に入りますが、最初は日本語の練習を兼ねて稽古に励んだそうです。
26歳のときには三遊亭円朝や3代目三遊亭円生の三遊派に入り、「ジャンヌ・ダルク伝」など西洋小説の翻案物の噺をして名をあげるなど外国と日本の文化融合に尽くした人物として今以上に評価されるべき人物であると思います。
イアン・マッカーサー『快楽亭ブラック』(内藤誠・堀内久美子訳)


※二代目 快楽亭 ブラックは関係がありません。
(余談)
幕末明治を調べているともっと調べてみたい謎!にぶちあたります。
活字ビジネスです。新聞出版に活字は欠かせません。簡単に活字を作る事はできません。出版人外国人とともに活字職人も来日していますが彼らの足跡を調べてみたいと思っています。どなたか情報ありましたらお知らせください。
4月17日 活きる鉄の永い物語

6月 10

【番外編】 ドイツ横浜

横浜とドイツの深い関係リンク集を作ってみました。

■本格的なドイツパンといえば!
横浜 天然酵母パン パン工房むぎや (MUGIYA)
http://www.mugiya.com/
※ドイツパンというより Yokohama パン!

アムフルス(Am Fluss)
東横線綱島駅の西口から徒歩4分
(味は未確認)

日本大通り「アルテリーベ」
http://www.alteliebe.co.jp/yokohama/
厳密に言えば?オーストリアかな?
昔の佇まいが好きでしたが 現在はスタイリッシュです。

■学校もばりばりドイツ
1904年に創立された東京横浜独逸学園(DSTY)
http://www.dsty.jp/schule/japanisch

■今年は春にも
横浜赤レンガ オクトーバーフェスト2012
http://www.yokohama-akarenga.jp/oktoberfest2012/

■横浜日独協会
http://jdgy.sub.jp/about.html

横浜市はフランクフルトに事務所があります。
http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/kokusai/exchange/office/ffoffice.html
ドイツ フランクフルト市は横浜市のパートナー都市です。
フランクフルト市とは地球温暖化対策、経済、文化芸術創造都市の分野での交流を進めています。

姉妹港もあります。ハンブルグ港です。
1992年10月27日姉妹港提携
http://www.hafen-hamburg.de/

関連ブログ
No.162 6月10日(日)日本よさようならである。
※(ちょっと残念)
1922年3月7日にドイツ風の軽食の店「E・ユーハイム」横浜市中区山下町にオープンします。関東大震災によって「E・ユーハイム」は焼失し神戸に移り現在のユーハイムが誕生します。
神戸で再起を目指した時にアドバイスしたのがバレリーナのアンナ・パヴロワさん。「JUCHHEIM’S」を三宮に開店し現在に至ります。
http://www.juchheim.co.jp/

6月 10

No.162 6月10日(日)日本よさようならである。

外国関係エピソードシリーズ最終回は「ドイツ」です。
27歳の若き医師が1867年(慶應3年)6月横浜港に降り立ちました。
そして約40年暮らした「日本」を後にしたのが1905年(明治38年)の今日6月10日(土)です。
同じ横浜港から母国への失意の旅発ちでした。

働き盛りの30年に及ぶ時間を遠き異国で過ごしたドイツ人医師の名はエルヴィン・フォン・ベルツ。
「お雇い外国人」としては異例の長きに渡り日本の近代医学に貢献しました。
彼が日本で果たした軌跡は多大なものがあります。
岩波文庫で「ベルツの日記」という名著が出ていますので、是非参考にしてください。
ここでは、簡単にベルツとドイツと横浜の関係について簡単に紹介しておきます。

(混迷の文明開化)
日本は近代化を急ぐあまり、当時の先進国のおかれた状況とは関係なく、各国の“良いこと取り”をしようとします。さらに、導入者どうしの権力闘争が起こり、制度の本質を見失う事態も頻発します。
憲法を初めとする法律体系、陸海軍の軍隊制度、高等教育といった諸制度は英米仏独といった各国の制度が混在したままの導入が行われます。
医学の世界も、フルベッキによるアドバイスで英国医学から一気にドイツ医学に変更されます。
明治維新直後は漢方医学、オランダ医学、イギリス医学(アメリカ)の三つの流れがありましたが、政府はイギリス系とオランダ系の主導権争いを嫌い?
ドイツを中心とした医学制度を推進します。幕末から英国医学を積極的に導入し、推進してきた中心地が横浜でした。

臨床重視の英国医学、病理研究重視の独国医学、現在では両輪となっていますが、当時は両国の科学に対する文化ギャップがそのまま日本で争われた形となりました。
1872年(明治5年)
当時の神奈川県令大江卓らの積極的な働きで東京大学南校からデュアン・B・シモンズ(Duane B. Simmons、1834年〜1889年)を招聘し、英米式医療を導入します。
「横浜共立病院」その後「十全医院」となり、現在の横浜市立大学医学部となるまで英米医学が脈々と流れています。市大浦舟病院にはシモンズの碑が建てられています。

十全医院は当初 野毛(現在の老松中)にありました

(ベルツは違った)
日本がドイツ流の医学制度を東京大学医学部を中心に確立していきます。病院でカルテというドイツ語が現在も使われていますね。
あるときは、ドイツ派とイギリス派で病気の原因を巡って大論争を展開したりしますが、全体的にはドイツ医学が主流となります。
しかし、明治期30年日本で暮らしたベルツは、ドイツ流といったこだわり無く、広い視野に立って医学を教えていきますが、かなり手厳しい批判も行います。
日本はそのような彼を次第に軽視するようになります。
結果、日本で結婚した夫人とともに日本を離れ故郷シュトゥットガルトに帰国し64歳の生涯を終えます。


(ベルツの言葉)
「日本人は、科学の樹を育てるのではなくて、果実だけを求める」


「日本人は西欧の学問の成り立ちと本質について大いに誤解しているように思える。日本人は学問を、年間に一定量の仕事をこなし、簡単によそへ運んで稼動させることのできる機械の様に考えている。しかし、それはまちがいである。ヨーロッパの学問世界は機械ではなく、ひとつの有機体でありあらゆる有機体と同じく、花を咲かせるためには一定の気候、一定の風土を必要とするのだ。日本人は彼ら(お雇い外国人)を学問の果実の切り売り人として扱ったが、彼らは学問の樹を育てる庭師としての使命感に
燃えていたのだ。・・・つまり、根本にある精神を究めるかわりに最新の成果さえ受け取れば十分と考えたわけである。」


「もし日本人が現在アメリカの新聞を読んでいて、しかもあちらの全てを真似ようというのであれば、その時は、日本よさようならである。」

※(余談)
■草津温泉はベルツによって再評価され、彼の碑がここにも建っています。

す。
http://www.kusatsu-onsen.ne.jp/

■1883年(明治16年)箱根富士屋ホテルに滞在中、女中の手が荒れているのを見たのをきっかけに、「ベルツ水」を処方。
現在でもグリセリンカリ液として日本薬局方・薬価基準に収載されており製造販売されています。

6月 9

【番外編】偽作三昧

福沢関連データを調べていたら偽作の横行を知りましたので紹介しておきます。
「福澤心訓」なる額装販売がいまだビジネスになっています。

「福澤心訓」は福澤諭吉が作成したとされていますが全くの偽作です。
「福沢心訓」、「福沢諭吉翁心訓」、「福沢心訓七則」、「諭吉心訓」、「心訓」、「七則」などとも呼ばれビジネスになっています。
これは売る側の責務として販売を直ちに中止すべきだと思います。
額装して高額で販売しているある会社にメールを送ったら、
「発売以来20年、クレームは一切ありません。」とのことでしたが 最近突然販売を中止しました。理由は判りません。
私の知る限り6人(社長4名、大学職員1名、芸能人1名)確認し、お伝えして(おそらく)もう掲示していないと思います。
著作権の権利をいち早く日本に伝えた福沢諭吉が泣きます。
慶應出身の“経営者”の方 特にご注意くださいませ!!!!

慶應義塾大学の公式見解です。
Q「福沢心訓七則」の内容を知りたい。
A福沢心訓七則は福澤諭吉が書いたものではありません。
 詳しくは以下の文献をご覧ください。
富田正文. 1963年. 「福沢心訓七則は偽作である」 『福沢諭吉全集』(第20巻付録). 東京: 岩波書店. p.10
富田正文. 1964年. 「重ねて福沢心訓について」『三色旗』 198号, p.2.
富田正文. 1972年. 「福沢心訓七則は偽作である」『塾友』 9号, p.5.
慶應義塾編. 1996年. 『慶應義塾豆百科』 東京: 慶應義塾. (No.98 福澤心訓)
http://www.keio.ac.jp/ja/contents/mamehyakka/98.html
1963年から指摘されているのに
 知らない人の方が多いのは慶應義塾の責任でもありますが、
 ほんの少しでもメディアで告知されればこんな無様なことにはならないのでは。

『福沢諭吉全集』(第20巻付録)

富田正文はここで、この偽作心訓の最後の一訓を例にとっています。
一、世の中で一番悲しい事は、うそをつく事です。

6月 9

No.161 6月9日(土)  日本、ロシアに勝利!

21世紀、日露の戦いが横浜で!といえば
2002年(平成14年)6月9日(火)の今日行われた、
日韓共催FIFAワールドカップ予選第二戦の対ロシアです。
会場は横浜国際競技場(現日産スタジアム)1対0で日本が初勝利した試合です。

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スタジアムパンフより
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ロシア国旗

(横浜で日本初勝利)
ワールドカップ初戦は、6月4日埼玉スタジアムで対ベルギー戦。
試合結果は惜しくも2対2の引き分けでした。
そして6月9日の第二戦がここ横浜国際競技場で午後8時半キックオフしました。
両チーム一進一退を繰り返し前半を終了します。
後半に入りまもなくでした、中田浩二が低いクロスを前線の柳沢に送り、柳沢の絶妙なワンタッチパスで稲本に落とすと、稲本がワントラップで美しい弾道を描く豪快なシュートを放ちます。
ゴール右上に突き刺さる稲本のシュートで、勝ち点を4に伸ばし日本代表をH組トップに押し上げる快挙でした。日本サッカー史上、FIFAワールドカップにおける初勝利となった決定ゴールでした。

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作成:著者

日本 vs ロシア 10分編集版
https://www.youtube.com/watch?v=mCX-zQVA2no
★これは“横浜に”でっかい記念碑!!もんです。


(横浜で日露)

横浜で、開港時列強5カ国の一つ露西亜の歴史を知る場所はあまりありません。
歴史的建造物では、
■旧露亜銀行横浜支店
旧露亜(Russo-Asiatic Bank)銀行横浜支店はイギリスの建築家バーナード・M・ワードの設計で、1921(大正10年)年頃建てられました。
皮肉にも、英国人により設計された露亜銀行設立の目的は、アジアそして中国における大英帝国に対抗するための戦略的金融機関でした。
その後ドイツ領事館、法務省横浜入国管理事務所を経て警友病院別館となりますが病院移転に伴い現在は保全リニューアルされブライダル施設に変身しています。
日本金融史黎明期の外国資本による銀行建築で唯一残っている作品です。
横浜市の指定有形文化財となっています。

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旧露亜銀行横浜支店 別館リニューアル前

No.123 5月2日 全県下警察官待望の楽園

■横浜と露西亜を結ぶ人たち

エリアナ・パブロワ(日本名 霧島 エリ子)
日本初のバレエの稽古場を鎌倉七里ガ浜に開設し多くのバレリーナを育てました。初期、横浜でレッスンを行っていましたが、1927年(昭和2年)に鎌倉に移りました。

2月21日 東洋一の遊園地

■リューリ兄弟の貿易商会とロシア革命

「横浜開港と境域文化 (神奈川大学評論ブックレット) 」内海孝 著
日露関係史をひも解く場所として関係が深い町といえば北海道函館でしょう。
幕末期には開港を求めて、開港後は日露最大の貿易港として函館とロシアは密なる関係にありました。ロシア革命の時、多くの白系ロシア人が
日本(函館)に亡命します。
彼らの中で実業家として横浜で成功を収めたのがリューリ家の人々でした。
1920年にロシア革命の難を逃れ、函館経由横浜に移り住み海産物商社として事業を展開します。
たまたま函館で避暑中に「関東大震災」があり難を逃れますが、倉庫が倒壊し大損害を被ります。一時期神戸に事務所を移しますが、また横浜に戻り事業を戦争直前まで続けます。

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■外国人墓地とロシア人

横浜で外国人墓地は4カ所ありますが、一番知名度の高いのが山手にある横浜外国人墓地です。関係国は40余国、4400人余りの外国人が葬られています。この横浜外国人墓地第一号の埋葬外国人がロシア人といわれています。また横浜外国人墓地全体の墓の約3分 の1をロシア人の墓で占めていることは知られていません。
外国人墓地には、正門の反対側にメーエル=M=リューリ門があります。この門は、前述の海産物商リューリ氏が寄付したものです。(場所は知りつつも残念ながら気に留めまていませんでした。近々確認に行きます。)

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「横浜開港と境域文化」より

多くのロシア人の墓の中には
エリアナ・パブロワ(日本名 霧島 エリ子)もここにあります。

No.209 7月27日 (金)浜で起り、浜で終結

※函館外国人墓地
1854(安政元)年にペリー一行が来航した際に死亡した水夫2人を埋葬したのが始まりとされています。函館湾の入口を見下ろす高台、函館市船見町23 元町地区にあります。
※参考
NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会
〒231-0062 神奈川県横浜市中区桜木町3丁目9
http://www.kanagawa-eurasia.org
旧HPアーカイブ
http://www.kanagawa-eurasia.org/old/index.html

特定非営利活動法人 神奈川県日本ユーラシア協会
http://www.geocities.jp/eurask/
〒231-0062 神奈川県横浜市中区桜木町3?9 横浜平和と労働会館5階

6月 8

No.160 6月8日(金) 親王殿下のニッポン

今日は日希関係です。
むりやり関係ネタを探している訳ではありません。

たまたまです。(でもちょっとうれしい)
かつて世界各国の要人が来日した横浜港。
まさに国際港ですね。
船の入港で世界情勢の変化もいち早く分かることができたので新聞社も横浜港に通信員を配置していました。
1891年(明治24年)6月8日(月)「午前十時五十分「希臘」のジョージ親王殿下横浜港へご入港」しました。と配信します。(当時の毎日新聞)

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ギリシャ王国旗

「ジョージ親王殿下」
この時代の国名、人名には苦労します。読みと表記にはバラツキがあります。

「希臘」とはギリシャの漢字表記です。
この「ジョージ親王殿下」とはゲオルギオス・ティス・エラザス
当時のギリシア王国ゲオルギオス1世と王妃オルガの次男(一説に三男 詳細調査してません)を指します。

ゲオルギオスはギリシア語発音で、新聞では英語表記で<ジョージ>となっていますが、ここでは以下ギリシア読みに従いゲオルギオス親王殿下と表記します。

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この記事の内容は、
5月11日に滋賀県大津で起った外交的大事件「大津事件」(※下欄 大津事件参照)で負傷したロシア帝国皇太子と共にウラジオストクに同行していたギリシアのゲオルギオス王子がロシア軍艦で帰路につく際、乗り継ぎのため「横濱」に寄港したという内容です。

昨日取り上げた「土耳古国」とは扱いがかなり違います。

No.159 6月7日(木) 強い日土友好の原点

理由は、この大津事件が日本にとって”国の命運をかけた”重大な事件だったからです。
※大津事件
日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現・大津市)で警備にあたっていた警察官・津田三蔵が皇太子を突然斬りつけ負傷させたという、暗殺未遂事件のことです。大国ロシアの要人を官憲が殺傷しようとする由々しき事態。
国を揺るがした事件であると同時に、
犯人津田三蔵をどう裁くのか?

日本の司法史に必ず登場する事例です。
ここでは「大津事件」は取り扱いませんが、
この事件の対処のため、明治天皇が急遽京都に向かいますが、天皇は見舞いをロシア側から一日待たされるという事態からも事件の重大さと国力の違いが分かります。

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この時代、ギリシャは、ヨーロッパの小国で、しかも長い間オスマン帝国支配下にあり独立してまもない国でした。
当時、ギリシャはオスマン帝国と比べたら、吹き飛ぶような国力でしたが、それでもこの国の「王子ゲオルギオス親王”殿下“」が特別扱いされたのは、ギリシャ王国が持つ歴史にあります。
このエリアは現在も欧州の原点であると同時に民族紛争の絶えないエリアです。

最大の理由は宗教的背景です。
ギリシア=ギリシア正教とロシア=ロシア正教は特に同じ流れを持った“キリスト教 正教会”系だからです。

バルカン半島が19世紀から”世界の火薬庫”と呼ばれたほど、紛争の絶えない小国家が列強の宗教や民族関係を背景に支援の下でバランスをとっているゾーンでもありました。(現在もいまだ緊張感は継続しています)
当時
ギリシャ王室は、「ティス・エラザス・ケ・ザニアス」と呼ばれ、欧州王族の一員でした。ギリシャ王国が1832年に建国されて以来、列強各国と姻戚関係になることで国の威信を保ってきたのです。
王子ゲオルギオス親王もロシア帝国皇太子・ニコライの従兄弟にあたります。

当時のギリシャは、宿敵国オスマン帝国に対峙するため、ロシアの国力に頼らざるを得なかったのです。
一方1891年(明治24年)の頃の日本は、
列強の一つ「大露西亜帝国」の前に、まさに「坂道を登り始めたばかりの国」でした。

司馬遼太郎「坂の上の雲」の主軸となる日露戦争1904年(明治37年)2月8日〜1905年(明治38年)9月5日)への道は、まさにこの時に始まっていたといえるでしょう。
明治元年生まれの24歳の青年王子の悲劇と40歳になろうとする明治天皇の屈辱がこの“戦争”になんら関係が無かったとはいえないと思います。

6月8日午前10時50分、横浜港に着いた「ゲオルギオス親王殿下」は上陸後露西亜領事館に向かい、横浜港近辺は厳戒態勢がとられます。
殿下は翌日の9日午前10時に出港する太平洋郵船会社のゲーリック号でギリシャに帰国する予定でしたので8日の夜、
日本政府はグランドホテルで歓迎レセプションを企画します。

ところが、日本の申し出に対しゲオルギオスは無視し、
ロシアと関係の深い”フランス”
の招きに応じます。
フランス外交はしたたかですね。
一方日本政府側は むかついたでしょうね。

この事件のあった初期の日希関係はぎくしゃくしたスタートでしたが、戦後は港を舞台に親しい交流が続いています。
戦後のギリシャは「海運国」として活躍し

横浜は上陸したギリシャ人が集う「ギリシャ料理」の名店が多く誕生します。
「オリンピア」「スパルタ」「アテネ」「パルテノン(閉店)」「サロニコス(閉店)」等です。ギリシャ料理店の多さは港町横浜の特徴といえるでしょう。

●オリンピア
https://www.olympiayokohama.com
横浜市中区太田町2丁目30

ギリシャ料理 スパルタ:SPARTA
www.sparta.jp/
横浜市中区吉田町3−7

ギリシャ料理&バー アテネ/ATHENS
横浜市中区山下町217-4

パルテノン
横浜市中区本郷町1丁目1

Greece
現在のギリシア国旗
6月 7

【番外編】土耳其国軍艦エルトゲロル号(またまた余談の余談)

6月7日紹介の「横浜通信員報じて曰く土耳其国軍艦エルトゲロル号は特命太子オスマンパシャを乗せて今朝九時横浜に入港したり」(毎日新聞)の記事の片隅に気になる記事がありましたので追っかけました。

「東京銀座三丁目の十字屋及び横濱元町同支店にて販売する紙腔琴を今般内国博覧会第五本部へ出品したるに〜」
「紙腔琴」の紹介(はみだし?)記事です。元町十字屋で販売?
紙腔琴(しこうきん)とは、手回し式の小型オルガンの一種で日本オリジナル楽器らしい。

1890年(明治23年)に戸田欽堂が発明し、栗本鋤雲が命名したというしろもの。なんと製作は「西川オルガン製作所」とのこと。
■「西川オルガン製作所」といえば横濱
たしか「西川オルガン製作所」は 国産ピアノ(オルガン)の実用化を成し遂げたところ。この西川ピアノの創設者である西川虎吉氏は、1846年に千葉で生まれてその後、開国で賑わう横浜に移り住みドイツ人のドーリングに調律の方法を習った方。
■1884年西川虎吉、西川風琴製作所を横浜に創設
■1885年西川オルガン製作所に(のちに日本楽器製造に合併)
http://ja.wikipedia.org/wiki/ヤマハ
明治初期、西洋楽器にまだなじみがなかった頃、オルガン・ピアノは風琴・洋琴と呼ばれていました。アコーディオンの名称は手風琴でした。
初めて西洋楽器が上陸したのは横浜です。ペリーが贈った中にあったそうです。音楽に国境無し!
明治・大正そして昭和初期にかけてピアノもどきではありましたが風琴・洋琴の製造が盛んに行われたそうです。
横濱居留地にあったドーリング商会・モートリー商会・スエーツ商会等の外国商館の他、多くの楽器を扱う事業が横濱で生まれました。
欧米商館の他、西川虎吉のおこした西川楽器製作所、中国人技術者がおこした周興華洋琴製作所・李兄弟ピアノ製作所なども横浜で楽器づくりを競い国内での西洋楽器の普及に重要な役割を果たしました。
(茅ヶ崎で現役)
http://www.taiyonosato.co.jp/topicslink/monthly/monthly_organ.html

新聞記事では第3回内国勧業博覧会に西川楽器の紙腔琴が展示され6月2日に宮内庁に納入したと6月8日付け新聞記事に掲載されています。

■第3回内国勧業博覧会概要
開催期間:1890(明治23)年4月1日〜7月31日
場所:東京上野公園
入場者数:1,023,693人

No.159 6月7日(木) 強い日土友好の原点
No.341 12月6日(木)桐生・横浜・上海
No.341 12月6日(木)桐生・横浜・上海(後編)
※周ピアノについて

6月 7

No.159 6月7日(木) 強い日土友好の原点

昨日は日英友好でした。
今日は日土友好の“さわり”だけ紹介しましょう。
(話せばながーいので)
1890年(明治23年)6月7日(土)の今日午前九時、一隻の軍艦で横浜港に入港します。
オスマン帝国(トルコ)の使節団で、彼らは約3ヶ月港内に停泊し、9月になり母国に向けて出港しました。
強い日土友好のキッカケとなった歴史に残る悲劇の序章の始まりです。

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トルコ共和国 国旗

「横浜通信員報じて曰く土耳其国軍艦エルトゲロル号は特命太子オスマンパシャを乗せて今朝九時横浜に入港したり」(毎日新聞)

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「千八百九十年明治弐拾参年六月七日午前九時、土耳其国軍艦ヱルトグロール号にて同国使節オスマンパシヤ横浜着港、使節の一行上京し、翌十四日、帰艦す」(横浜沿革誌)

※土耳其国は当時の中国語表記で現在は土耳古と表記しますが漢字表記は特殊な場合にしか使いません。
(キッカケ)
1886年(明治19年)から7年(明治20年)にかけて皇室の小松宮彰仁親王ご夫妻は、皇室外交の一貫として欧州歴訪の際、オスマントルコ(現トルコ共和国)の首都イスタンブールを訪問、勲章を贈りました。
日本とトルコ友好の始まりです。

これに対し、オスマントルコのアブドュルハミト2世が日本に答礼使節を派遣することを命じます。
艦長以下609名の海軍士官学校を卒業したての若いスタッフと特使のオスマンパシャ(オスマン大佐)を乗せた軍艦(Ertuğrul Fırkateyni)は1889年(明治22年)7月に母国を発ちます。
※パシャとは高級軍人の称号
当時の新聞ではエルトゲロル号とかヱルトグロール号と表記されていますが、現在は正確な音に従いエルトゥールル号と呼ばれています。
「エルトゥールル」号は航海途上の各国を時間をかけ訪問します。各国で熱烈な歓迎を受けますが、長旅の疲労は横浜港に着く頃ピークに達していました。
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6月7日(土)朝、「使節団」は横浜に入港し準備を整え、
6月13日(金)に皇帝親書を明治天皇に奉呈します。これが最初の訪日トルコ親善使節団となります。
この使節団の訪日は、あくまで儀礼的なものでした。
フリゲート艦「エルトゥールル」号は、日本まで11ヶ月の時間をかけました。
当時インド、東南アジアで勃興しつつあった多くのムスリム(イスラム教徒)国家に対しオスマン帝国が国威を示す(軍事プレゼンス)の役目も大きかったからです。
天皇に親書を届けた親善訪日使節団は、一路母国に帰還する予定でしたが、出港が大幅に遅れます。帰還に3ヶ月もの時間がかかります。
出港が遅れた理由は
航行で蓄積し続けた艦の消耗、そして未熟な船員の体力・精神力の消耗、一番の理由が資金で物資調達が十分にできなかったためだといわれています。
儀礼団というメンツもあったのでしょう。弱音を殆どはかなかったようです。
しかし現実には「エルトゥールル」号は健全な航行能力を失っていました。
悲劇はその後に起こります。
船舶も乗務員も疲労困憊の中、日本側の忠告も虚しく台風の危険を無視した無謀な航行の結果、「エルトゥールル」号は和歌山沖で乗員の殆どを失う大惨事を起こします。漂着した生存者と多くの遺体を(串本)村を挙げて助けました。事件当時に建てられたエルトゥールル号殉難将士慰霊碑が現在も和歌山県串本町にあります。
詳しくは下記をご参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/エルトゥールル号遭難事件
 
(1億円の義援金を集める)
トルコ共和国を旅行すると、殆どの国民が日本ファンであることに気がつきます。緯度も日本に近く四季に恵まれたトルコは、義務教育で「日本」について学びます。(日本の子供達は殆ど知らないでしょう)
トルコにとって日本は一時期(第一次世界大戦時)を除き、友好国であり続け、尊敬の意を持ち続けている親日的な国民です。
多くのトルコ国民を親日家にした最大の事件が、エルトゥールル号遭難事件の14年後の日露戦争です。
1904年(明治37年)2月8日から1905年( 明治38年)9月5日に起こった日清戦争に続く総力戦でした。
結果は小国日本が超大国ロシアに勝ち世界を驚かせました。トルコはトルコの宿敵ロシアの敗北に歓喜します。

ロシアの敗北でトルコへの影響力が低下したことと帝政オスマンの弱体化でトルコでは独立運動が高まります。
そのリーダーとなったのが初代大統領となったムスタファ・ケマル・アタテュルク(ムスタファ・ケマル)です。

日本がロシアとの緊張を高め、日露戦争に突入した時に、
トルコに長期滞在していた唯一の日本人がいました。

実業家、山田寅次郎(茶道宗徧流の第8世家元 山田 宗有)です。
彼は日露戦争に日本が勝利する以前からトルコの(尊敬に値する)有名人でした。
民間人、山田寅次郎をトルコで一躍有名にしたキッカケとなった事件が、
1900年(明治33年)に起こった土耳古軍艦「エルトゥールル」号遭難事件でした。

山田寅次郎はこの悲劇に対し日本全国を回り民間人として義援金を集めます。
山田寅次郎は、この義援金を(民間人として)トルコに届け熱狂的に迎えられます。
国王の依頼で短い期間でしたが士官学校で日本語を教えます。
その時に、ムスタファ・ケマル・アタテュルク(ムスタファ・ケマル)がいたそうです。

その後、山田寅次郎はトルコで事業を始め日本とトルコの友好に努めます。
当時日本とトルコは国交がありませんでしたので日土友好は民間の手で築かれたのです。

(映画化)
この事件をテーマにした映画が2015年(平成27年)に制作されました。
「海難1890」のタイトルです。1890年(明治23年)事件の起こった日です。
「『海難1890』(かいなん いちはちきゅうぜろ)は、2015年制作の映画。日本とトルコの友好125周年を記念して、合作及び朝日放送創立65周年記念作品第2弾、BSフジ開局15周年記念作品として制作された。(wikipedia)」
主演は内野聖陽、遭難したトルコクルー達の治療にあたった医師田村元貞の役を熱演。
アマゾンプライムで観ることができます。
http://www.kainan1890.com

(余談)
トルコのお土産で一番人気が「青い目玉のお守り」
トルコ語でNazar boncugu(ナザール・ボンジュー)と言います。
わが家にもNazar boncuguがあります。(門扉に飾ってるので錆びてますが)トルコの伝統的なお守りで紀元前より使われてきたものです。
一説メデューサの目とも言われています。メデューサの目はギリシア神話では目を見ると石になるという神話ですが逆にトルコではお守りの目だったんですね。立場(歴史的には宗教戦争)変われば 魔女が女神に!!

(10年来のトルコの友人から購入したものです)
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わが家常備のトルコ国民酒

彼らは「ラッキ」と呼び、ストレートでぐいぐい飲みます。
アルコール度45度あります。
1本空けた翌日は(悪酔いはしませんが)独特の香りが体を包みます。

6月 6

No.158 6月6日(水) 休暇をとって日本支援!

サー・ラザフォード・オールコック(Sir Rutherford Alcock)
彼の名は歴史教科書で少し学ぶ程度でしょうか。
オールコックは初代イギリス駐日総領事(後に公使)となりその後の日英関係に重要な役割を担った人物です。
1862年(文久二年五月九日)6月6日(金)の今日、文久遣欧使節団と英国政府の条約改正交渉を彼のサポートのおかげで成功することができました

オールコック像

1858年(安政5年)日本政府(幕府)はペリー来航がキッカケで五カ国と通商条約を個々に結びます。
歴史では安政の五カ国条約と呼ばれています。

※意外と知られていない事実
安政五カ国条約の正式名はそれぞれ日米修好通商条約・日英修好通商条約・日仏修好通商条約・日露修好通商条約・日蘭修好通商条約です。
条約内容は国ごとに少しづつ異なっています。

例えば英米の修好条約 開港地が異なります。

(オールコック赴任)
我が国初の近代国際条約の手続きを行うことになります。
1858年8月26日(安政5年7月18日)
イギリス代表エルギン伯爵ジェイムズ・ブルースと江戸幕府の間で日英修好通商条約が調印されます。

外交担当老中、太田備後守資始とエルギン伯爵との会談風景(英国側スケッチ)

条約締結時の通訳は語学の秀才、森山多吉郎でした。

No.412 多吉郎、横浜に死す。

No.413 あるドイツ人の見た横浜

この日英修好通商条約締結後、清国領事だったオールコックが初代駐日領事として赴任します。ちなみに二代目が<曲者の>ハリー・パークスです。
ラザフォード・オールコックは清国領事時代から就任初期まで対日(アジア)強硬派でしたが次第に日本政府(幕府)に理解を示すようになります。
もし、オールコックがそのまま強硬姿勢をとり続けていたら、日本は列強の前に空中分解していた可能性が高いといわれています。米国は南北戦争で当初のコミットを失い、フランスも虎視淡々と日本を狙っていました。
米国の代わりにイニシアチブをとったオールコックは日本の国際化へ道筋に尽力します。彼の人間的側面と優れた洞察力のおかげでしょう。
当時の幕府は 攘夷勢力がかなり強く「神奈川」開港をなんとか「横浜」に変更することに奔走している頃です。
締結された日英修好条約では
●神奈川・長崎・函館の港と町を1859年7月1日に開く。
●兵庫港を1863年1月1日に開港
●新潟(又は代わり)港を1860年1月1日に開くこと
●江戸と大阪の町を62年63年にそれぞれ開くことを条約で締結します。
(期限延長の要望)
ところが幕府内部で これはちょっと実現不可能そうだという大勢になります。
関係国に1868年1月1日まで五年待って欲しいと要望します。
オールコック以下各国領事は難色を示しますが、オールコックは交渉担当者との信頼感と時の情勢分析で延長を認める方向に転換します。
しかし政情は極めて不安定でした。
水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がオールコックらを襲撃する東禅寺事件が起ります。
オールコックは無事避難しますが、攘夷の根深さを体験します。
これをきっかけに公使館を品川から安全な横浜に移します。
そして条約内容の変更要請のために派遣される事になったのが
「文久遣欧使節」です。
竹内保徳(下野守)以下総勢38名で、段取りはオールコックがフランス公使に相談し、費用も含めて英仏が負担します。

遣欧ルート「福沢諭吉の西航巡歴」山口一夫 より

(旅程)
長崎→英領香港→英領シンガポール→英領セイロン→英領イエメン→エジプト・スエズに上陸、鉄道でカイロ→アレクサンドリアに出て、船で地中海を渡り英領マルタを経て、マルセイユ経由パリに入ります。
残念ながらフランスとの延長交渉は決裂します。
その後、
カレーから英仏海峡を横断、1862年4月30日水曜日(文久2年4月2日)ロンドンに到着します。
この時、
オールコックは休暇申請し日本の使節団を追いかけます。英国に帰国し
1862年6月6日金曜日(文久2年5月9日)「ロンドン覚書」が無事調印されます。
実はこの行動が、後に問題になりますが日本にとって彼の存在が米国にも影響し、明治維新をソフトランディングさせる下地づくりができ上がります。
オールコック不在の日本では、大事件が起ります。
使節団が英国を去った頃、第二次東禅寺事件(1862年6月26日)が起こり死傷者が出てしまいます。
何故か代理公使は公使館を横浜から元の東禅寺に戻してしまいます)
治安悪化、幕府の後手後手の対策、表面化する薩摩藩の単独行動。
薩英戦争前夜まで緊張感が高まっていました。

(日本人初めての万国博)
日本使節団は英国滞在中に「第2回ロンドン万博」の開幕式に賓客として招かれます。使節団一行は何度も会場を訪ねて熱心に見物し、特に機械に興味を示します。また、万博会場以外にも電信局、海軍工廠、造船所、銃器工場などを見学し様々な先端技術を精力的に吸収していきます。
この使節団に加わっていたのが後に西洋事情を著した福沢諭吉です。
彼がExhibitionを「博覧会」と訳したといわれています。

福沢諭吉らが撮影した集合写真

(福沢諭吉のヨーロッパ経験に関しては 故山口一夫さんにご存命の頃いろいろご教授いただきました)

(余談)
オールコックは、最初に富士山に登った外国人です。

オールコック等が富士登山を恐ろしがるかわら版

■昨日の役に立たないクイズの答
朝倉響子さんの「ニケとニコラ」ですが、
関内Hの横にあります。