9月 12

暦で語る今日の横浜【9月12日】

横浜の年表から 今日起った出来事をピックアップしました。
●1879年(明治12年)の今日
「政府は貿易銀と洋銀の等価取扱を布告した(9月19日実施行)」
幕末から明治初期は貿易銀と洋銀の交換レートがめまぐるしく変わり為替レートが安定してませんでした。
開国と共に始まった貨幣制度の弊害は、多くの資金を海外に流出させ、財政破綻を起こします。これが起因となって徳川幕府は崩壊しますが

No.466 19世紀の「ハゲタカファンド」

新政府になっても通貨制度は安定せず、幣制の建直しを図ります。
1871年(明治4年)6月17日に日本最初の貨幣法規「新貨条例」を決めます。
「円」「銭」「厘」という新しい単位を導入します。

※明治貨政考要の記事によると大隈重信が新しい貨幣を円形(丸い硬貨)に統一するのが良いと主張しますがこれに反対する者が多かったそうです。重信は「親指と人さし指の先を合わせて、円の形を作りそれをそばの人に見せれば誰でもそれが貨幣であるということが分からないものはない。だいたい物が四角であると廻しにくくて摩損することが多い。円ければ摩損が少なく廻し易い。外国では貨幣はみな円形を採用している。実際上も懐中からの出し入れには円い貨幣は便利である。だから新しい貨幣は円形にするのが一番よい。」と説き貨幣が丸くなったそうです。

新通貨制度は当初“金本位制度”で始まりますが
貿易のために開港場限定で「1円銀貨(貿易銀)」を発行し、外国で通用している「洋銀」と同等“等量目”とします。この通貨制度を自由化したのが
1879年(明治12年)の今日「政府は貿易銀と洋銀の等価取扱を布告した(9月19日実施行)」となり「金銀複本位制」となっていきますが、維持は難しく大正期まで制度の試行錯誤が行われます。

●1881年(明治14年)の今日
根岸北方の海軍射的場でスイス射的会開催。
スイス射的会は何回も行われたようで、
No.169 6月17日(日)私は武器を売らない
でも紹介しています。

●1920年(大正9年)の今日
「帝国蚕糸株式会社設立発起人会が成立した(総代原富太郎・今井五介)。当初資本金10,000,000円の予定だつたが、株の申込が多いので15,000,000円に増額した。」
1914年(大正3年)第一次世界大戦ぼっ発による蚕糸恐慌で一次帝国蚕糸株式会社を作り、滞荷生糸を買い入れ供給調整を行うことで恐慌を乗り切りますが、2回目の蚕糸恐慌が、1920年(大正9年)に起こります。
ニューヨーク生糸市場在庫が三か月分売れ残っているところへ、日本の株式が暴落、銀行破綻や生糸商倒産が相次ぎます。この時、蚕糸業同業組合中央会が活動を起こし、当時の原内閣を動かします。
蚕糸業者の組織するシンジケート「第二次帝国蚕糸株式会社」を設立し、不況を乗り越えます。

No.93 4月2日 蚕糸貿易の歴史を見つめてきた倉庫
1926年(大正15年)4月2日「帝国蚕糸倉庫株式会社」創立総会が開催されました。

●1927年(昭和2年)の今日
「横浜音楽協会主催「藤原 義江独唱会」開催、開港記念会館」
藤原 義江(ふじわら よしえ)日本のオペラ歌手、声楽家として
戦前から戦後にかけて活躍します。私生活はスキャンダルの連続でしたが、その歌唱力と奔放さで、創設した「藤原歌劇団」とともに一時代を築きます。
戦前スキャンダルまみれで欧米を放浪した頃
ロンドンでは吉田茂(当時は駐英一等書記官)の引き立てられる
三井の大番頭中上川彦次郎ファミリーとのスキャンダルがありながらも
三女藤原あきとの恋に『世紀の恋』と謳われるなど
など運?にも恵まれた人生を送ります。
http://www.youtube.com/watch?v=wkJ3c3K0pfg
作詞:時雨音羽、作曲:中山晋平
『出船の港』

●1933年(昭和8年)の今日
岡倉天心が亡くなります。52歳でした。
No.171 6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け

No.280 10月6日(土)天心と三渓

No.382 1月16日(水)横浜と福井

No.375 1月9日(水)残した大正の財産

●1959年(昭和34年)
新市庁舎完成に伴い、交通局本局も滝頭から同庁舎に移転
No.256 9月12日(火)どこも本庁舎引越は大問題

9月 11

暦で語る今日の横浜【9月11日】

横浜の年表から 今日起った出来事をピックアップしました。

●1886年(明治19年)の今日
フランス西波止場でヨットレース開催。
No.226 8月13日(月)西波止場の2勝1敗

ここでも紹介していますが、グランドホテル前にあった横浜西波止場は水泳競技が行われるなど、スポーツが盛んだったようです。
スポーツ大好き国民No.ONEといえば 仏蘭西人ですね!
オリンピックのIOC サッカーFIFA アメリカズカップも(ルイビトンカップ)ですし、
ルマン、ツールドフランス、そういえばF1も仏蘭西です。
※IOC、本部はスイス・ローザンヌですがクーベルタン男爵が創立した団体です。
 公式言語は“フランス語”です。
※FIFA国際サッカー連盟も本部はスイスのチューリッヒに
 初代会長は、ロベール・ゲラン(フランス)です。
暦で語る今日の横浜【9月9日】

●1893年(明治26年)の今日
「中島湘烟、信行とイタリアから帰国し、横浜西太田の山荘に安着する。」
俊才 “自由民権運動”に目覚めた岸田俊子は同志 中嶋信行と結婚
名を中島湘烟と名乗ります。中島信行は神奈川県令を務め、第一回の衆議院選挙で神奈川4区で当選した人物で 自由な時代でした。
イタリア公使だった信行とともに現地で結核を発病します。
9月11日に日本に帰国し治療に専念ししますが、
1899年(明治32年)3月26日
 信行が肺結核のため53歳で亡くなり、
1901年(明治34年)5月25日
 追うように中島湘烟、肺結核のため28歳で逝去します。
No.153 6月1日(金) 天才と秀才

●1923年(大正12年)の今日 震災復興の動きは?
※震災後最初の市会が仮市庁舎屋上で、震災復旧善後策に関する緊急市会開催。
※復興事業を市長の自由裁量とすること及び国の復興援助要望の意見が出る
※市、人心の安定を目的として『横浜市日報』発刊。11月下旬迄発刊
No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

※原富太郎・小野哲郎・井上準之助が上京、関係大臣に貿易復興の援助を懇望した
※長野県出身の小説家、
 浅原六朗(28歳)横浜にトラックで訪れ、震災の跡を見る。
 浅原はモダニズム文学の作家として活躍

●1928年(昭和3年)の今日
ニューヨーク・ナショナル生糸精算取引所が開業した。
かくて生糸精算所はこれまで横浜のみであったのが
神戸・ニューヨークと3ヶ所になった。
実は このことは 横浜が独占していた生糸取引の終焉を示すもので
震災後、神戸に取引が移り、最大の取引先である米国側も
イニシアチブを握る 重大な出来事です。

●1965年(昭和40年)の今日
「市会第六(水道・交通)委員会の意見具申により市会議長から市長に「本市交通事業の財政再建について」意見書提出(市電の廃止、地下鉄建設促進等)」
議会の立場では致し方ないことかもしれませんが
市電の廃止、地下鉄建設促進等に関する意見書が提出されました。

●1978年(昭和53年)の今日
「ヨコハマさわやか運動」の市本部設立総会が開かれました。
No.147 5月26日 明るく豊かな国民生活の形成に寄与

●1910年(明治43年)の今日
「富貴楼」のお倉こと 「斎藤 たけ」
 横浜で73歳の生涯を終えました。
9月 9

暦で語る今日の横浜【9月9日】

●1873年(明治6年)の今日
「日本波止場」が築造されました。
「日本波止場」は開港時から少し場所が変わりました。また「東西波止場」の位置でよく混乱することがありますのでここで整理しておきます。

港が開かれる直前の横浜は約100戸、人口約500人の小さな村でした。
一変したのは、ここが港になったことです。
それも日本初の国際貿易港でした。
開港場の中央に「運上所」ができ上がります。
この運上所をはさんで東側に外国人居留地が広がり、
西側に日本人の居住地が形成されていきます。
ここに東西二つの(まっすぐで)小さな波止場が造られます。

安政6年 波止場がデフォルメされています

東西の波止場のうち外国人居留地に近い方は「東波止場」と呼ばれ
外国貿易のために用いられました。
もう一方は「西波止場」と呼ばれ内航船の貨物の積卸しに用いられました。

明治25年頃、最初はまっすぐな波止場でした。

1863年(文久3年)になると、
※1864年(元治元年)説もあり
貿易量の増大に伴い、現在の山下公園中央付近に新たに「東波止場」が建設されフランス波止場と呼ばれるようになります。一方
元の東波止場は、イギリス領事館(現在の横浜開港資料館)が建てられると、イギリス波止場と呼ばれるようになります。

内航船の貨物の積卸しに用いられた西波止場は築造当初「日本波止場」「税関波止場」とも呼ばれていましたが
1873年(明治6年)の今日
より東側に本格的な「日本波止場」が築造されます。

※象の鼻
1867年(慶応3年)には、東波止場が風浪を避けるために湾曲した形に変更されます。その形が象の鼻に似ていることから一般に「象の鼻波止場」「象の鼻」と呼ばれるようになりました。

No.307 11月2日(金)日本波止場に万国橋

●その他の今日の横浜【9月9日】
1881年(明治14年)の今日
3代目杵屋佐吉、横浜で亡くなります。
杵屋佐吉は江戸時代から続く長唄三味線方の名跡で代々長唄佐門会の家元を名乗っています。
(文政3年(1820年)〜明治14年(1881年)9月9日)
「16歳で森田座に出演し、その後も演奏家として活躍した。当時は、作曲家として鬼勝こと二世杵屋勝三郎、杵屋三郎助、杵屋正治郎等の名手が輩出した時代でもあり、三世佐吉関連では「由加利の花」という作品を三世の弟子である杵屋はつ栄が演奏した記録が残っているだけで、他に目立ったものは見当たらない。しかし三味線は名人と言われ、性質は負けず嫌いの仁侠を好む江戸っ子気質であった。
晩年は横浜で門弟の育成に専念し、明治14年(1881年)9月9日、61歳で病歿。」(Wiki)

●1901年(明治34年)の今日
歴史学者、文学博士、東洋史の概念を初めて生んだといわれる那珂 通世(なか みちよ)が東京〜九州間自転車旅行の帰途に、横浜に立ち寄ります。
尾上町の当時日本有数の自転車輸入商「石川商店」で開かれた「那珂通世東京・九州間自転車旅行歓迎会」に出席するためでした。50歳。

●1922年(大正11年)の今日
6代目尾上菊五郎37歳の時、
横浜鶴見(花月園)に行き、4日に来日したアンナ・パブロバの歓迎会を開きます。
6代目尾上菊五郎といえば、初代中村吉右衛門とともに「菊吉時代」を築いた大正・昭和期の名優で、歌舞伎で単に「六代目」というとこの6代目菊五郎のことをさします。

重ね扇に抱き柏

さすが、歌舞伎名跡の芸の広さを感じます。

No.52 2月21日 東洋一の遊園地(加筆修正)

【番外編】 ドイツ横浜

●1978年(昭和53年)の今日

大通り公園の開園式が挙行されました。
「大通り公園」はいろいろネタがありますので
別仕立てで紹介します。

 

9月 8

【番外編】横浜の大学

横浜の大学所在地と簡単な概要を紹介します。
市内東西南北周辺部に点在しています。
意外と中心部に少ないのは、地価のせいでしょうか?
学園祭やオープンキャンパスがありますので、横浜の学園気分を散歩がてら満喫してはいかがでしょう。

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◆鶴見大学
http://www.tsurumi-u.ac.jp
鶴見二丁目1-3(歯学部・文学部/歯学研究科・文学研究科)
1953年(昭和28年)創立
学校法人総持学園
1954年から「図書館学講座(司書・司書補講習)」を設け全国でも稀な「図書館学課程」を一般に開講しています。開かれた図書館教育の草分けです。

(関連ブログ)No17 1月17日(火) 本日芥川賞発表

◆横浜商科大学
http://www.shodai.ac.jp
東寺尾四丁目11-1(商学部)
緑区西八朔町761(みどりキャンパス)
1941年(昭和16年)横浜第一商業学校 創立
学校法人横浜商科大学
日本の大学史上初となったiPhoneを1,700台導入しクラウド型の次世代ラーニングシステムA’OMAI(アオマイ)による教育で話題となりました。
立教大学に次いで「観光学科」を早期に設置した草分け的存在です。

◆神奈川大学
http://www.kanagawa-u.ac.jp
六角橋三丁目27-1(工学部・第二工学部・経済学部・第二経済学部・法学部・第二法学部・外国語学部・人間科学部/工学研究科・経済学研究科・法学研究科・法務研究科・外国語学研究科・歴史民族資料学研究科・人間科学研究科)
1928年(昭和3年)創立
※米田吉盛が横浜市中区桜木町に横浜学院を開設
学校法人神奈川大学
地方入学試験および給費生制度を戦前から導入し
また、勤労青年の為の夜間部を設けた横浜初の高等教育機関として評価されている。
日本で唯一の歴史民俗資料学研究科が大学院に設置

(関連ブログ)
No.165 6月13日(水) 修文練武

◆横浜国立大学
http://www.ynu.ac.jp
常盤台79-1(工学部・教育人間科学部・経済学部・経営学部/工学研究院・工学府・環境情報研究院・環境情報学府・教育学研究科・国際社会科学研究科)
1876年(明治9年)創立
※横浜師範学校(後の神奈川師範学校)設置
国立大学法人横浜国立大学
日本の国立大学の中で、唯一大学名に「国立」の文字が入る大学です。
横浜経済専門学校・横浜工業専門学校・神奈川師範学校・神奈川青年師範学校の4つの旧制官立教育機関を母体とし、新制国立大学として1949年に発足しました。

◆横浜市立大学
http://www.yokohama-cu.ac.jp
瀬戸22-2(国際総合科学部/都市社会文化研究科・国際マネジメント研究科)
福浦3-9(医学部/医学研究科)
1882年(明治15年)創立
※横浜商法学校(後の横浜商業学校)設立。
公立大学法人横浜市立大学
横浜市立横浜商業専門学校(Y専)、私塾鎌倉アカデミア、横浜医科大学を母体として、1949年の学制改革に伴い私塾を含む新制大学として誕生しました。

(関連ブログ)
No.428 Y校創設地はどこだ?

No.429 Y校創設地はどこだ?2

No.267 9月23日(日)Yの真価

◆関東学院大学

http://univ.kanto-gakuin.ac.jp
(金沢八景キャンパス・金沢文庫キャンパス)
六浦東1-50-1
(工学部・人間環境学部・経済学部/工学研究科・経済学研究科・法科大学院)
釜利谷南3-22-1(文学部/文学研究科)
1884年(明治17年)創立(横浜バプテスト神学校→後の東京学院神学部)
※アルバート・アーノルド・ベネットにより、横浜山手に設立されました。
学校法人関東学院
関東学院大学の校訓は「Be a man and serve the world(人になれ 奉仕せよ)」
英国との繋がりが深く、オックスフォード大学の構内にオックスフォード研究センターを開設し日英学術交流を推進しています。10大会連続で決勝戦に進出、うち優勝6回の実績を持つラグビーもオックスフォードとの交流があります。

(関連ブログ)
No.71 3月11日 内村鑑三と関東学院

No.1 1月1日(日) 奇跡の1998年(前編)

No.350 12月15日(土)横須賀上陸、横浜で開化。

◆慶應義塾大学
http://www.keio.ac.jp
(日吉キャンパス・矢上キャンパス)
日吉4-1-1(医学部・理工学部・文学部・経済学部・法学部・商学部・薬学部/経営管理研究科/システムデザイン・マネジメント研究科/メディアデザイン研究科)
日吉3-14-1(理工学部/理工学研究科)
1858年(安政5年)開校
1868年(慶應4年/明治元年)
 年号をとって「慶應義塾」と塾名を定めました。
※創設者は福沢諭吉
学校法人慶應義塾
1934年(昭和9年)日吉地区(現在の日吉キャンパス)を設置、予科を移転しました。

(関連ブログ)
No.28 1月28日 高島嘉右衛門と福沢諭吉(加筆)

No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発

◆東京工業大学
http://www.titech.ac.jp
(すずかけ台キャンパス)
長津田町4259(生命理工学部/生命理工学研究科・総合理工学研究科)
1881年(明治14年)東京職工学校創立
→東京工業学校→東京高等工業学校→東京工業大学(旧制)
国立大学法人東京工業大学
※明治初期日本初の工業教育専門機関として設立。
1975年(昭和50年)9月
 長津田キャンパス(現在のすずかけ台キャンパス)開設
通称、チーズケーキと呼ばれている附属図書館は図書館建築の枠組みを越えた作品として話題になりました。
設計は安田幸一 東京工業大学教授で代表作は新江ノ島水族館、ポーラ美術館、桜田門交番 他

◆昭和大学
http://www.showa-u.ac.jp
(横浜キャンパス)
十日市場町1865(保健医療学部)
1928年(昭和3年)昭和医学専門学校創立
学校法人昭和大学
1997年(平成9年) 昭和大学医療短期大学設置(横浜市緑区十日市場町
2001年(平成13年) 昭和大学横浜市北部病院開院
2002年(平成14年) 昭和大学医療短期大学を改組し、保健医療学部開設

◆東洋英和女学院大学
http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigaku/
三保町32(人間科学部・国際社会学部)
1884年(明治17年)「東洋英和女学校」として設立。
学校法人東洋英和女学院
1989年(平成元年) 横浜校地に東洋英和女学院大学開設

◆桐蔭横浜大学
http://toin.ac.jp/univ/
鉄町1614(工学部・法学部・医用工学部・スポーツ健康政策学部/工学研究科・法学研究科・法科大学院)
1988年(昭和63年)創立
学校法人桐蔭学園
1965年(昭和40年)4月桐蔭学園工業高等専門学校開設
1997年(昭和9年)桐蔭横浜大学に改称
桐蔭学園高校は設立当初から能力(学力)別クラス編成により、能力別の授業を行うことで有名になりました。学園創立者・初代理事長は柴田周吉。

◆國學院大学
http://www.kokugakuin.ac.jp
(横浜たまプラーザキャンパス)
新石川三丁目22-1(文学部・法学部・経済学部・神道文化学部・人間開発学部)
1882年(明治15年)皇典講究所が創設。初代総長は有栖川宮幟仁親王。
学校法人國學院大學
神社本庁の神職の資格が取れる神職課程があります。
大学でこの資格を取得できるのは國學院大學と皇學館大学のみです。
2009年(平成21年)4月 横浜たまプラーザキャンパスに人間開発学部(初等教育学科・健康体育学科)を開設。

◆日本体育大学
http://www.nittai.ac.jp
(横浜・健志台キャンパス)
鴨志田町1221-1(体育学部)
1893年(明治26年)日本體育専門學校
※創設者日高藤吉郎
前身は成城學校(現・成城中学高等学校)内に設立された「體(体)育會」→日本體育會體操練習所→日本體育會體操學校→日本體育専門學校→日本体育大学
1968年(昭和43年)横浜市緑区鴨志田に用地を取得し、新キャンパス建設に着手します。
1971年(昭和46年)横浜・健志台キャンパスオープン。
約166,000m?の敷地に野球場・陸上競技場・米本記念体育館(他2つの体育館を有する)・体操競技館・サッカー場(全面人工芝・観覧席有り)・ラグビー場(観覧席有り)・アーチェリー場・プール・弓道場・テニスコート(6面)・ゴルフ練習場(グリーン有り)

◆東京都市大学
http://www.tcu.ac.jp
(横浜キャンパス環境情報学部)
牛久保西3-3-1(環境情報学部/環境情報学研究科)
1929年(昭和4年)武蔵高等工科学校創立
学校法人五島育英会
武蔵高等工科学校→武蔵工業大学
1955年(昭和30年)東京急行電鉄創業者五島慶太の興した学校法人五島育英会に引き継がれる。
2009年(平成21年)東横学園女子短期大学を統合し東京都市大学に改変。

◆明治学院大学
http://www.meijigakuin.ac.jp
(横浜キャンパス)
上倉田町1518
(文学部・経済学部・社会学部・法学部・国際学部/国際学研究科)
1863年(文久3年)ヘボン夫妻が横浜に英学塾を開設。
※女子部はフェリス女学院となる
学校法人明治学院
1985年(昭和60年)4月 横浜校舎開校。

(関連ブログ)
No.146 5月25日 学園祭に行こう!(修正)

No.149 5月28日  「鈍翁」の偉業を偲ぶ

◆横浜薬科大学
http://www.hamayaku.jp
俣野町601(薬学部)
2006年(平成18年)創立
学校法人都築第一学園
2006年(平成18年)4月に横浜市戸塚区の横浜ドリームランド跡地に開校。

◆フェリス女学院大学
http://www.ferris.ac.jp
緑園4-5-3(文学部・国際交流学部・音楽学部/人文科学研究科・国際交流研究科・音楽研究科)
中区山手町37((音楽学部3・4年次))
1863年(文久3年)ヘボン夫妻が横浜に英学塾を開設。
1870年(明治3年)アメリカ改革派教会の宣教師メアリー・E・キダーが、ヘボン施療所で、女子を対象に英語の授業を開始したのが始まり。
※男子部は明治学院となる。
日本での女子校として最も古い歴史を持つ学校。
1988年(昭和63年) 緑園キャンパス開設(山手・緑園の2キャンパス体制に)

(関連ブログ)No.48 2月17日 さよならYDL

●●無くなった大学
◆神奈川県立栄養短期大学
横浜市保土ヶ谷区桜ヶ丘2-43-1
1945年(昭和20年)創立
神奈川県立栄養士養成所として横浜市南区中村町に開設し
その年保土ヶ谷区桜ヶ丘に移転します。
1948年(昭和23年)12月神奈川県立栄養専門学院に改称
その後
1961年(昭和36年)2月神奈川県立栄養短期大学に改称
2003年(平成15年)4月県立福祉大学が横須賀に開学するに伴い合併し、閉校します。

◆神奈川県立外語短期大学
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f619/
横浜市磯子区岡村4-15-1
1968年(昭和43年)創立
43年間で約3,700名の卒業生を送り出し、その役目を終え、平成23(2011)年6月に閉学しました。
後継学校は
国際言語文化アカデミア
神奈川県横浜市栄区小菅ケ谷1-2-1

※その他 閉校した大学キャンパスがまだ幾つかあったと記憶していますが

 詳細は追跡しておりません。

No.329 11月24日(土)学校名は語る

9月 8

暦で語る今日の横浜【9月8日】

●1899年(明治32年)の今日
昨日「1899年(明治32年)9月7日」行われた
「太平洋電線敷設に関し建議」書を携え
大谷嘉兵衛会頭、米国貴府萬国商業大会(第一回国際商業会議所会議)へ出席のため渡米しました。
【9月7日】

●1900年(明治33年)の今日
夏目漱石(33歳)
横浜港からドイツ汽船プロイセン号で出航、文部省留学生として英語研究のためイギリスに向かいました。(途上でパリ万国博覧会を訪問)
ドイツへ留学した芳賀矢一、藤代素人(禎輔)らも同船者でした。
この留学は、漱石にとって神経衰弱との闘いだったといわれていますが、
イギリス留学時代、美術館に通い多くの絵画鑑賞をしたその影響がその後の漱石文学に現れてきます。彼の作品中に多くの絵画が登場することは有名ですが、ロンドン時代の絵画鑑賞は孤独感を癒す最大の薬だったようです。

“夏目漱石の美術世界展”
東京藝術大学美術館で5月14日(火)〜7月7日(日)
http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2013/soseki/soseki_ja.htm
広島県立美術館で2013年3月26日(火) 〜2013年5月6日(月)
http://www1.hpam-unet.ocn.ne.jp/special/index.php?mode=detail&id=87
静岡県立美術館で7月13日(土)〜8月25日(日)の日程で巡回
http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/japanese/exhibition/kikaku/2013/02.php

●1909年(明治42年)の今日
「鶴見総持寺の石川県からの移転が完了した」(横浜歴史年表)
総持寺は二つある曹洞宗大本山の一つで、石川県輪島市門前町に建てられました。
1907年(明治40年)3月9日に石川県から鶴見に移転の認可が下り
移転が数年かけて行われます。
No.312 11月7日(水)裕次郎だけじゃない


●1938年(昭和13年)の今日
「東京開港反対県・市・本会議所連合委員会が開催される。東京開港問題連合協議会(市会・県会・商工会議所・各議員)がひらかれた」
震災後にわかに浮上してきた「東京開港」の影響を最も受ける横浜市は、かなり劣勢に立ちながらも必死に東京開港反対を訴えます。
No.347 12月12日(水)横浜自立の原点

No.460 横浜と福島をつなぐもの

No.250 9月6日(木)やはり官僚には向かなかった?

●1961年(昭和36年)の今日
「横浜市条例を左横書きに改正する条例制定」とあります。
縦書きか横書きかも条例で決めるんだ!でもこの条例は“縦書き”ですよね。
といって調べたら 出てこない。調べ方が悪いのか?元ネタが違っているのか?
でも横浜市条例は確かに横書きです。 

というところで退散するのもなんなので

○横浜市例規集
http://www.city.yokohama.jp/me/reiki/reiki_menu.html
○「横浜市行政文書作成要領」の制定等について
http://www.city.yokohama.jp/me/reiki/honbun/g2020043001.html
横浜市行政文書作成要領の中では
第2 文書作成の基本
文書は、簡潔かつ的確であるとともに、分かりやすく見やすいものとしなければならない。そのため、特に次の点に配慮すること。
1 文書の内容について、結論と理由等を明確にする。
2 文書の構成について、作成の趣旨及び目的を踏まえ、項目、レイアウト等を工夫する。
3 文書中での表現について、一つひとつの文章を短くすること、結論を先に述べること、箇条書に整理すること等に努める。
第3 用紙等の規格及びその用い方
1 用紙及びその用い方
用紙は、原則として、日本工業規格によるA4判(A列4番)を縦長に用いる。A4判によりがたい場合は、A5判以下のA列の用紙を用いることができる。A3判は用いない。
なお、図面、地図、写真、表彰状、ポスター等は、この限りでない。
2 材質
筆記又は印字により清書するときに使用する用紙等の材質は、文書の保存年限に耐え得るものでなければならない。
3 用紙のとじ方
用紙のとじ方は、左とじとする。ただし、縦書き文書については、この限りでない。
第4 左横書き
文書は、左横書きとする。ただし、次に掲げるものは、この限りでない。
1 法令等で様式が縦書きと定められており、それによらなければならないもの
2 賞状、表彰状、式辞、その他刊行物等であって、特に縦書きが必要とされるもの

○横浜市公示令達規則
http://www.city.yokohama.jp/me/reiki/honbun/g2020039001.html
(縦書きの公示及び令達の措置)
5 この規則施行の際、現に効力を有する公示及び令達で縦書きのものは、この規則施行後に改正の必要を生じた際、左横書きに改めるものとする
付 則(昭和37年8月規則第58号)
この規則は、公布の日から施行する。
付 則(昭和24年9月規則第69号) 抄

○横浜市教育委員会公示令達規則
http://www.city.yokohama.jp/me/reiki/honbun/g2021115001.html
(公示及び令達の形式等)
第3条 公示及び令達は左横書きとする。ただし、次の各号に掲げるものについては、縦書きとすることができる。
(1) 法令の規定により縦書きに定められた様式
(2) 他の官公署が縦書きに定めている様式

いろいろ出てきました。悉皆網羅してません。

9月 7

暦で語る今日の横浜【9月7日】

●1875年(明治8年)の今日
久良岐郡磯子村真照寺旧境内
久良岐杉田村東漸寺塔頭の地上知分を
それぞれ小学校敷地として下渡することについて、神奈川県より内務省へ伺った。「神奈川県史料(5)135〜136」
久良岐郡磯子村真照寺旧境内→磯子小学校(明治6年5月)

久良岐杉田村東漸寺塔頭の地上知分→杉田小学校(明治6年5月)

写真 さがしてます

※明治初期(明治10年までに)設立された小学校リスト
1872年(明治5年)
 山下小学校  北八朔町1865-3
1873年(明治6年)
 子安小学校  新子安一丁目24-1
 都岡小学校  都岡町4-8
 北方小学校  諏訪町29
 鉄小学校  鉄町427(くろがね)
 星川小学校  星川三丁目18-1
 元街小学校  山手町36
 末吉小学校  上末吉一丁目9-1
 谷本小学校  藤が丘一丁目55-10
 保土ケ谷小学校  神戸町129-4
 磯子小学校  久木町11-1
 杉田小学校  杉田一丁目8-1
 根岸小学校  西町2-46
 金沢小学校  町屋町26-26
 釜利谷小学校  釜利谷東六丁目37-1
 六浦小学校  六浦三丁目11-1
 大綱小学校  大倉山4丁目2-1
 日野小学校  日野七丁目11-1
 田奈小学校  田奈町51-13
 富岡小学校  富岡西七丁目13-1
 日吉台小学校  日吉本町一丁目34-21
 長津田小学校  長津田町2330
 戸塚小学校  戸塚町132
 市場小学校  元宮一丁目13-1
 潮田小学校  向井町三丁目82-1
 山内小学校  新石川一丁目20-1
 青木小学校  桐畑17
 市沢小学校  市沢町781
 二俣川小学校  二俣川1-33
 石川小学校  中村町1-66
 大岡小学校  大橋町3-49
 太田小学校  三春台42
1874年(明治7年)
 高田小学校  高田町1774
 中川小学校  牛久保東二丁目21-1
 鴨居   小学校  鴨居四丁目7-15
1875年(明治8年)
 川島小学校  川島町1162
 神奈川小学校  東神奈川二丁目35-1
1876年(明治9年)
 千秀小学校  田谷町1832
このように、明治初期に地域の学校が設立されます。
学校の敷地の多くが地元の協力で
(寺社、私有地等)を寄付し開校された学校が多かったようです。

●1899年(明治32年)の今日
「太平洋電線敷設に関し建議する。」
日本の国際通信に歴史は古く
1871年(明治4年)に始まります。
長崎と上海が海底ケーブルで結ばれ、通信ビジネスが始まりますが、当時最も貿易量が多かった日米間のケーブル通信が実現するには
その後 かなりの時間を必要とします。
長年、日米間は欧州経由で国際電報が取り扱われていました。
日米直結の太平洋ケーブル計画は、通信が欧州からアジアに開通した明治初期から念願でした。特に国内最大の対米貿易都市、横浜にとって
「太平洋ケーブル敷設」は悲願でした。
明治政府にとって最初の外国首脳訪日だった
ハワイ王カラカウア王とも太平洋通信計画が話し合われます。
また、ハワイ国王一行の正確な到着時間も(欧州経由)電信で伝えられます。

No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に

様々なハードルを乗り越え、太平洋を越え日米間にケーブル通信が開通したのが
1900年(明治39年)8月まで待たなければなりませんでした。
この太平洋通信事業成功に尽力したのが
「大谷嘉兵衛」氏です。

No.22 1月22日 大谷嘉兵衛を追って

No.345 12月10日(月)Tea or Coffee?

No.112 4月21日 濱にお茶は欠かせない

大谷嘉兵衛、三重出身の実業家で明治大正期の横浜史に欠かせない重要人物ですが
横浜での“大谷嘉兵衛”知名度は??????
1899年(明治32年)9月7日の今日
横浜商工会議所会頭 大谷嘉兵衛は
10月に米国フィラデルフィアで開催された
第一回国際商業会議所会議に出席する前に
「太平洋電線敷設に関し建議」し、
アメリカに渡り日本代表として米国に建議書を渡します。
多くのハードルを乗り越え サンフランシスコ・ハワイ・マニラまでが開通し、
すでにマニラ・香港間の回線と繋いで通信回線が
太平洋を繋ぐことになります。

No.26 1月26日 横浜東京間電信通信ビジネス開始

この太平洋通信回線の開通が
 日露戦争(後には真珠湾攻撃)に深く関わっていきますが、
 その話しは別の機会に。

※大正時代ですが
 一通の電信が大問題となった「大正のロッキード事件」
 シーメンス事件も横浜が舞台でした。
 No.23 1月23日 大正の正義

9月 6

暦で語る今日の横浜【9月6日】その2

●1977年(昭和52年)の今日
1970年〜から始まった派大岡川の埋立が完了した日です。
「派大岡川」?どこの川でしょうか?
派大岡川の埋立によって
かつて和船が積荷や乗船客を運んでいた時代が終わりを告げました。
現在は、首都高速が走っています。

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No.187 7月5日(木) 目で見る運河

No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語(一部加筆修正)

No.236 8月23日(木)帰浜した鉄工所

No.321 11月16日(金)吉田くんちの勘兵衛さん

No.352 12月17日(月)市民の財布を守った都南

「ヨコハマのこだわり」
http://hustle.jp/content/view/52/1/

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かつて派大岡川から両岸を見ると こんなかんじ

●1962年(昭和37年)の今日
市長は二度目の横浜市長に一期在任した“半井清”
次期市長候補選びで紛糾し当時の藤山愛一郎に一任しますが、
候補を田中省吾とする藤山裁定で自民党横浜市連を二分する大騒動になったのです。
1963年(昭和38年)2月13日には自民党横浜市連再び分裂となり
4月17日に行われた第5回統一地方選挙で自民党は分裂選挙となり惨敗します。
この選挙で当選したのが飛鳥田一雄です。
おりからの革新市長の流れに乗ったとはいえ、自民党の失策といえる選挙でした。

●1969年(昭和44年)の今日
横浜商工会議所観光部委員会(委員長六川英一)は横浜市長に対し「開港記念会館」の取りこわし反対を申し入れます。
※この記事を読んで え!「開港記念会館」を取り壊す!なんて話しがあったんだと驚きました。
1985年(昭和60年)横浜市内で「開港記念横浜会館」創建時の設計図が発見、ドーム屋根等を復元しました。国の重要文化財にも指定され今も威風堂々のジャックです。
No.375 1月9日(水)残した大正の財産

No.70 3月10日 310

No.420 3月10日(日)横浜三塔に思う

No.183 7月1日(日) 7月のハマ?



「開港記念会館」
http://www.city.yokohama.lg.jp/naka/kaikou/
六川英一さんはアート宝飾の創業者です。1946年(昭和21年)骨董品・美術品の個人商店として開業し、1953年(昭和28年)真珠、貴金属の輸入専門店としてアート貿易を設立します。
http://www.artjewelry.co.jp/company.html

9月 6

暦で語る今日の横浜【9月6日】その1

今日は紹介するネタがかなりヘビーなものが多く
一つ一つさらに展開できそうです。
チャンスがあれば 挑戦してみます。
●1890年(明治23年)の今日
明治政府は、勅令をもって税関の管轄区域を定めます。
横浜税関の管轄エリアは、(明治4年7月14日の廃藩置県によりますと)
陸前:仙台県、登米県(とめけん)=宮城県北東部
磐城: 角田県、中村県、磐城平県、湯長谷県、泉県、三春県、棚倉県、白河県
下総:多古県、小見川県、高岡県、結城県、古河県、関宿県、佐倉県、生実県、葛飾県、曾我野県
上総:菊間県、鶴牧県、鶴舞県、桜井県、久留里県、飯野県、小久保県、佐貫県、松尾県、一宮県、大多喜県、宮谷県
安房:長尾県、花房県、館山県、加知山県
武蔵:川越県、忍県、岩槻県、浦和県、小菅県、東京府、品川県、神奈川県、六浦県
相模: 小田原県(足柄県)、荻野山中県
伊豆:韮山県
駿河: 静岡県
遠江:堀江県
の11カ国
及び小笠原島の沿岸となりました。
どえらい広範囲が管轄エリアだったことが判ります。
※税関の業務と権限は 恐らく現在より数段広く強いものだったに違いありません。その中核となったのが
「横浜税関」です。
このリストで、廃藩置県当時の「県」を通してもドラマが見えてきます。
横浜の所属した「武藏国神奈川県」は
三多摩地区が入っていたんです。

赤エリアが最初の神奈川、青線が現在の神奈川

逆に県央は荻野山中県、県西は足柄県でした。

●1923年(大正12年)の今日
関東大震災で壊滅した十全病院が隣接する平沼邸を仮病舎として借り受け
一般診療を開始しました。震災から六日目でした。
No.432 老松を追い本町に迫る!

No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

(小史)
1871年(明治4年)4月20日
横浜元弁天(現・中区北仲通6)に早矢仕有的などにより民間人のための「横浜仮病院」が開設されました。
デュアン・B・シモンズ(Duane.B.Simmons)が週1回の割合で勤務し英米式医療が行われました。

No.162 6月10日(日)日本よさようならである。
長崎に次ぐ日本で2番目の洋式病院でしたが、
同年9月に近隣の失火により類焼し廃止されてしまいます。

1872年(明治5年)7月
中区太田町に神奈川県令大江卓や早矢仕有的などにより「横濱中病院」として再建されました。 シモンズの伝染病予防の必要性を訴えた建議を神奈川権令大江卓が採用します。
1873年(明治6年)12月
西区老松町の野毛山修文館跡に移転し「横浜共立病院」となりました。
1874年(明治7年)2月
「横浜共立病院」を県立とし「神奈川県立十全医院」と改称。
東洋一の設備を誇ります。
当時最も重大な疫学の最先端病院として種痘業務、コレラ対策で中心的役割を担います。 
1889年(明治22年)4月
初代院長として正式に広瀬佐太郎が就任し、ドイツ式医学に改められました。 
1891年(明治24年)4月
神奈川県から横浜市に移管され、「横浜市十全医院」と改称されました。 
1905年(明治38年)4月万治病院の前身である横浜避病院は十全病院から独立します。
1923年(大正12年)9月1日
関東大震災で壊滅したものの、隣接していた平沼氏邸を借り、
9月6日、仮病院を開設しました。 
1924年(大正13年)6月
南吉田町(現・南区浦舟町4=現在地)に応急病院を開設します。
1926年(大正15年)11月に「横浜十全医院」が再建されます。 
1944年(昭和19年)
「横浜市立医学専門学校」(横浜市立大学医学部の前身)が開校し、
「横浜市立医学専門学校付属十全病院」となりました。 
1949年(昭和24年)4月
「横浜医科大学付属病院」と改称します。
1954年(昭和29年)4月
「横浜市立大学付属病院」と改称され現在に至ります。

9月 5

暦で語る今日の横浜【9月5日】

●1911年(明治44年)の今日
鈴木梅四郎・加藤時次郎が福富町に「社団法人実費診療所横浜支部」を設立しました。
実費診療所とは、下層・中等階級の没落を防ぐ医療を目指した民間医療施設で、医師加藤時次郎と協力して鈴木梅四郎が東京京橋に設立したのを手始めに横浜にも開設されました。
この実費診療所は医療の社会化運動の先駆的役割を担いました。
創設者、鈴木梅四郎は

時事新報から横浜貿易新聞(神奈川新聞)の主筆を経て実業界に入り、王子製紙専務として同社の発展に寄与します。実業家として活動する中、日本の医療制度の貧弱さに危機感を持ち、医療所不足や医療制度の改革を行い実費診療所を始めます。

横浜診療所

この実費診療所に賛同し参加した医師たちに対し
医師会が大反発を起こし医師への処分を行い訴訟になります。
ことの顛末は、
1審判決では原告医師会が全面敗訴します。
控訴審も控訴が棄却されますが
大審院第四民事部(現在の最高裁)は
 控訴審判決破棄の判決
事実上の原告側逆転勝訴となります。

※ここには医師会の強い政治的な圧力が反映されたようです。 何時の世も医師会は圧力団体?

●1923年(大正12年)の今日
関東大震災に際しイギリス支那艦隊・アメリカアジヤ艦隊の救援第1船が来港しました。

●1943年(昭和18年)の今日
花月園の動物園で飼育されていた“熊”は戦争のため処理されました。
No.52 2月21日 東洋一の遊園地(加筆修正)

●1950年(昭和25年)の今日
横浜市内の小学校完全給食が実施されました。
戦後アメリカからの支援物資が「ララ物資」として給食が実現しました。
No.346 12月11日(火)ララの羊

●1967年(昭和42年)の今日
第一回全国税関水泳大会横浜税関プールにおいて開催,横浜税関が優勝しました。
「横浜税関プール」ってどこにあったんでしょうか?
それとも横浜税関内にあるんですかね?

横浜税関 空撮でみる限り該当施設は?

●1967年(昭和42年)の今日
「政府は原子力船母港の候補地だった横浜市を断念し、青森県むつ市に決定します」
1963年(昭和38年)に観測船として建造計画が決まり母港の候補地が検討されます。この原子力観測船は、「原子力船むつ」と命名され
1969年(昭和44年)6月12日に進水します。
 記念切手が発行されるなど、期待の旅立ちでした。
1972年(昭和47年)に核燃料が装荷されます。
1974年(昭和49年)に出力上昇試験が太平洋上で開始されますが、
試験開始早々の低出力で放射線漏れが発生し“むつ市帰港”を拒否され
「原子力船むつ」は彷徨の時代を迎え改修後むつ市関根浜港が新母港となり
1992年(平成4年)1月にすべての航海を終了し、
1993年(平成5年)に原子炉が撤去されて非核化されます。
船体は現在、
独立行政法人海洋研究開発機構(JAMSTEC)の「みらい」として運航されています。
http://www.jamstec.go.jp/j/about/equipment/ships/mirai.html

●1986年(昭和61年)の今日
市政100周年記念博覧会の実施主体となる「横浜・丘と海の祭り協会」設立

No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催