7月 23

【今日の横浜2015】1月28日・7月24日

1891年(明治24年)の今日
「日本最初の石鹸製造者の堤磯右衛門(59)が没した。彼は明治初年横須賀造船所請負人代理で現場監督中当時輸入品だけであつた石鹸に注目し、フランス人写真技師ボイルからその基本的製法を学び研究の結果、明治6年三吉町4丁目に初めて石鹸製造所を設け、海外に輸出するまでになつた」(横浜歴史年表)
横浜もののはじめ<代表格>石鹸の堤磯右衛門(磯子)が亡くなった日です。
このエピソードは有名な話なので 今日は別ネタで一捻りします。

1917年(大正6年)1月28日の今日
作家となって間もない芥川龍之介が三渓園の原善一郎を訪ね、善一郎が歓待します。
そのお礼状を芥川は善一郎に送ります。
「拝啓 昨日は松井老人同道にて参上 色々ご馳走になりありがたく御礼申し上げます。瑞魔天を見たことは一生忘れません。あんな甚大な感動を受けたことは今まで殆ど無いと言って良い位です。
ああいう所へ行かなければ駄目です。少なくとも行こうとしなければ、
尤も行こうと言っても 今の人間には行かれないのかもしれませんが
なにしろ大変なものです。また 三渓園小集の時には上がりたいと思っております。
三渓園そのものの冬枯も甚だ面白く思いました」(一部句読点読み付加)
笹鳴くや横笛堂の眞木材
と即興の俳句を添えています。
※「瑞魔天」は新井恵美子「原三渓物語」では「閻魔天」となっています。light_20150404125316龍之介と善一郎とは東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)時代の同級生で友人でした。ご存知、横浜の大生糸商の原富太郎(原三渓)の長男として生まれた善一郎は早稲田大学に進み、家業を継ぐことを運命付けられ卒業後アメリカに留学します。一方の芥川は、中学から第一高等学校一部乙類(文科)に成績優秀が優秀だったため無試験入学します。
その後、東京帝国大学文科大学英吉利文学科に進み学生時代に『新小説「芋粥」』で文壇デビューします。
中学時代の二人は友人として互いに影響し合い、芸術を愛した善一郎が愛読していた歌誌「心の花」を薦めます。これをキッカケに芥川は同誌に短歌を寄稿するようになります。
さらに、文芸誌「心の花」第18巻第4号に「柳川隆之介」の名で短編『大川の水』が掲載され文学者の道を歩み出します。
https://www.youtube.com/watch?v=rCQARXjTuuM
『大川の水』

芥川が「三渓園」を訪れた1917年(大正6年)は、作家芥川にとって
第一短編集『羅生門』「戯作三昧」連載 第二短編集『煙草と悪魔』「或る日の大石内  蔵之助」など作家活動にギアが入った一年でもありました。
この年の暮れ11月23日
芥川は 善一郎の結婚披露宴に出席します。善一郎の妻寿枝子は、団琢磨(59歳)の四女で、会場は移築が完了した三渓園臨春閣(りんしゅんかく)でした。
披露宴には芥川の他に
哲学者、美学者、作家の阿部次郎(当時34歳)
哲学者、倫理学者、日本思想史家の和辻哲郎(当時28歳)
哲学者、教育者、政治家の安倍能成(当時33歳)らの若き仲間達が集いました。
その後芥川も善一郎も それぞれの道を歩みます。
芥川は
1927年(昭和2年)7月24日に服毒自殺します。
そして原善一郎が
1937年(昭和12年)8月6 日に脳溢血で突然亡くなります。
父原三渓は箱根で息子の死を知ります。病気がちの三渓にとって追い打ちをかける悲報でした。
昭和恐慌、東京開港の難題を抱える中、
原三渓は
1939年(昭和14年)善一郎三回忌の祥月命日が過ぎた8月16日、70年の生涯を閉じます。

(1月28日関連ブログ)
No.28 1月28日 高島嘉右衛門と福沢諭吉(加筆)

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