No.230 8月17日 (金)孫文上陸(加筆修正)

「中国革命の父」と呼ばれた孫文、
中国が清国から独立した辛亥革命は彼抜きで語れません。
革命直前まで清国に追われ、革命後は袁世凱と敵対しながら何度も亡命を繰り返しては中国本土の革命勢力を取りまとめようしました。
その重要な舞台となったのが日本です。
さらに横浜は孫文にとって忘れ得ぬ地となりました。
1913年(大正2年)8月17日の夜半、革命今だ達成しない傷心の孫文が、富岡の海岸に上陸します。

上陸したのはこの近辺です。

(ちょっと複雑ですが)
孫文は革命を決心してから十数回日本を訪れます。
通算で9年以上滞在しますが、そのうち横浜滞在期間は延べ6年近くに及びます。
孫文が亡命滞在した世界の各都市で、横浜が最も長い滞在地でした。

最初は19世紀末「清国」末期の時代です。
アヘン戦争、太平天国の乱、洋務運動が起こり、日清戦争で大きな賠償を抱える革命前夜の1895年(明治28年)11月です。
ハワイにいた孫文は中国広州で挙兵しますが失敗、同志とともに日本へ亡命し、横浜に革命派の秘密組織「興中会」支部を設立します。
その後、機会を見ては本国で挙兵しますが失敗し日本、欧米に亡命を繰り返します。
革命派「興中会」は1911年まで10回の武装蜂起を決行し全て失敗しますが革命の引き金となっていきます。
※ちょうどこの頃、1906年頃を描いた映画が「孫文の義士団」です。
http://sonbun.gaga.ne.jp

この間 日本亡命中に孫文は、多くの日本人支援者と出会います。
南方熊楠
宮崎滔天
犬養木堂
頭山満や内田良平と玄洋社社中
副島種臣
そして彼に現在なら一兆円近い支援をした
実業家 梅屋庄吉らです。
当時(孫文を確保したい)清国領事館のあった横浜中華街で孫文は、運命の女性との出会います。
この間、加賀町警察の積極的な保護を受け、革命運動の準備を行うことが可能となりましたが、同じくロンドン亡命中は、清国公使館に監禁されてしまいました。

そして、期熟し
1911年(明治44年)10月10日の武昌蜂起をキッカケに辛亥革命が起ります。
この時孫文はアメリカに亡命していましたが各地で蜂起したリーダー達を取りまとめるために、急遽上海に戻り臨時大統領となります。
ところが、
世紀の悪党!
策士「袁世凱」に見事、クーデターを起こされます。
1913年(大正2年)に政権奪還のために蜂起しますが大惨敗します。
孫文は亡命を求め日本(神戸)へ向かいます。
孫文の電報を受け取った日本の支援者は亡命を許可するよう求めますがしばし時間がかかります。
孫文は中国からまず神戸に入り、その後横浜に向い、
8月17日の夜半、神奈川県警水上警察署のランチに乗り移り
 富岡海岸沖合で和船に乗り換えて、日本に上陸します。失意の亡命でした。

上陸の碑「孫文先生上陸之地」が、金沢区富岡東の慶珊寺(けいさんじ)山門脇に建てられています。(位置は冒頭のマップ参照)

孫文は生涯、理想の革命を追いますが実現する事はありませんでした。
「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」という遺言を残し、1925年(大正14年)3月12日に北京で亡くなります。

孫文は、日本で自らを孫中山と呼ぶようになります。
以後、中山は孫文を表すキーワードとして世界中の中華街には中山路(チュウザンルー)があり、彼の偉業をたたえる中山記念堂が建てられています。

創業当時の外観
魅惑の担々麺、90年代後半まで裏メニューでした。

横浜の中山記念堂は、北京料理の名店で魅惑の担々麺がある「華都飯店」の三階にあります。

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