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暦で語る今日の横浜【9月20日】
横浜の年表から
今日起った出来事をピックアップしました。
●1877年(明治10年)の今日
「コレラ病が流行したので県庁内へ検疫事務所を設け、また横浜停車場と波止場に官吏医員が出張旅客の検査にあたった。」
開国と明治維新で、外国の文明が流入すると同時に「疫病」も入ってきます。明治時代の検疫体制の確立の中心となったのが開港場であった横浜です。
伝染病は中々市民に理解されにくく、加持祈祷が流行した時代でもあります。
「昨今頻りと激しきは翁町松影町辺にて同所の警察所へ届出る者陸続として絶え間なく、戸部平沼辺の利口連は不動等へ護摩を焚き、赤紙へ牛という字を3つ書いて門口へ張り出すも有れば、八つ手の葉を下るもあり、蕃椒と杉の葉は何の為と尋ぬれば、トオにスギだという謎なりと・・・」(「朝野新聞」)
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本文とはことなります |
No.217 8月4日 (土)わがひのもとの虎列刺との戦い
●1904年(明治37年)の今日
フォン・シーブルブがドイツ国費で横浜ドイツ学校を創立しました。
東京横浜独逸学園(DSTY)
http://www.dsty.jp/schule/japanisch
現在も、横浜市都筑区に開校しています。都筑区はドイツ関係企業も多く、ドイツと関係の深いエリアでもあります。
Bosch Corporation Yokohama Office→都筑区牛久保
http://www.bosch.co.jp/jp/press/rbjp-1006-02.asp
●1923年(大正12年)の今日
物理学者、随筆家、俳人でもあった寺田寅彦(44歳)川崎、横浜の震災被害の状況を視察します。
「天災は忘れた頃に来る」は彼の有名なメッセージ。
「流言蜚語の伝播の状況には、前記の燃焼の伝播の状況と、形式の上から見て幾分か類似した点がある。
最初の火花に相当する流言の「源」がなければ、流言蜚語は成立しない事は勿論であるが、もしもそれを次へ次へと受け次ぎ取り次ぐべき媒質が存在しなければ「伝播」は起らない。」寺田寅彦(流言飛語)
「ある機会に、東京市中に、ある流言蜚語の現象が行われたとすれば、その責任の少なくも半分は市民自身が負わなければならない。事によるとその九割以上も負わなければならないかもしれない。」寺田寅彦(流言飛語)
●1950年(昭和25年)の今日
横浜国際港都建設法の賛否に住民投票が行われました。
(投票率39.5%、賛成175,361票、有効票の89.8%)
→詳細未調査、ちょっと気になる「住民投票」です。
住民投票が行われたこと、国際港都建設で行われたことに関心があります。
●1968年(昭和43年)の今日
「横浜市のオデッサ見本市が開催される(79社が出品)」
オデッサは横浜市と姉妹都市です。
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ウクライナとオデッサ洲 そしてオデッサの位置 |
1965年(昭和40年)7月1日に姉妹都市提携
ソビエト時代から現在は独立してウクライナ共和国のオデッサ州都です。
http://old.mfa.gov.ua/japan/jpn/
2011年には東日本大震災に際しオデッサ市民及びオデッサ第60学校から、横浜市を通じて被災地に義援金が寄付されました。→現在のウクライナ情勢が心配です。
※ちなみに チョルノーブィリはウクライナの街です。
No.303 10月29日(月)オカピ外交
●1974年(昭和49年)の今日
当時NHK横浜放送局の小田貞夫さんが「横浜ステンショ かながわの乗物一世紀」(有隣堂)を発刊しました。248回にも及ぶラジオ放送から横浜を中心に本格的な鉄道ことはじめをまとめた秀作です。
●1982年(昭和57年)の今日
東京ガス住宅設備社(東京ガスハウジング→東京ガスリモデリング)の第一号店が中区羽衣町にオープンしました。
1982年9月17日に設立され9月20日にリヴィングモア横浜がオープン
リヴィングモア横浜
〒231-0012 神奈川県横浜市中区相生町6-104-2 横浜相生町ビル7F
http://www.tgrm.jp/shop/yokohama/index.html
●1989年(平成元年)の今日
横浜市営地下鉄1000形改造車(冷房化)運用開始しました。
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地下鉄1000型 |
1000形は1972年(昭和47年)から2006年(平成18年)まで運行されました。
1号車 (1041) が横浜市金沢区の横浜市資源循環局金沢工場でストックヤードとして再使用されています。
http://www.city.yokohama.lg.jp/shigen/sub-keikaku/keikaku/g30/ivent050528.html
暦で語る今日の横浜【9月19日】
横浜の年表から
今日起った出来事をピックアップしました。
今日は「千島艦事件」を中心に紹介します。
●1895年(明治28年)の今日
「千島・ラヴェンナ号事件が、横浜のイギリス法廷で解決した」
千島・ラヴェンナ号事件は「千島艦事件」と呼ばれ、
明治時代の日本軍艦の沈没補償をめぐる日英間の紛争事件です。
日本政府が訴訟当事者として外国の法廷に出廷した最初の事件ですが、その裁定結果を巡り日本国内の国会・世論を巻き込んだ一大事件となり、決着まで3年かかった事件です。
ここに簡単な経緯を紹介しておきます。
事件は
1892年(明治25年)11月30日に日本海軍の水雷砲艦千島がイギリス商船と衝突、沈没し乗組員74名が殉職します。
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東京青山墓地にある千島艦乗員の慰霊碑 |
この年の8月8日には第2次伊藤博文内閣が成立、外務大臣は陸奥宗光、大山巌は陸軍大臣に復帰し、この事件に関わることになります。
この事件を陸 羯南(くが かつなん)は早速新聞に掲載します。
<軍艦千島号の沈没 既に電報欄内にも記せしが如くなるが尚ほ海軍省に達したる電報に曰く今朝五時頃伊予和気郡堀江沖に於て我軍艦千島号は英船ラベナ号と衝突し千島は遂に沈没せり生存するもの十六人なりと又た神戸通信者より我社に達したる電報に拠れば其要左の如し千島号の溺死者は七十四名なり摩耶、武蔵、葛城の三艦は当港を出発して直に千島遭難地に向ひたりとあり右に付海軍大臣は宮中に伺候して事の次第を上奏したり。海軍大臣の官邸には伊東次官、山本大佐、村上書記官を初しめ相会して協議せり。千島は去月二十八日神戸へ向け出発したるものにして我か新造の軍艦なり>(明治25年12月1日)
日本海軍がフランスに発注していた砲艦千島(750トン)が仏国ロワール造船所で竣工し日本に回航、長崎港を経由して神戸港に向かう途中、愛媛県和気郡沖の瀬戸内海で、イギリスのP&O所有のラヴェンナ号と衝突し「千島」は沈没、乗組員74名が殉職します。
ラヴェンナ号も損傷を受けますが軽微なものでした。
当時の日本はいまだ不平等条約下にあり、
安政五カ国条約によって領事裁判権が設定されていました。
イギリス商船に関する裁判は横浜のイギリス領事裁判所で第一審が開かれます。
●1審は反訴のみが却下され、日本側の実質勝利
双方とも不服を抱いて上級審にあたる上海のイギリス高等裁判所に控訴。
●2審ではP&Oの全面勝訴
この判決をめぐって 国内・国会が紛糾。
政府は2度にわたって衆議院解散を断行
英国本国の枢密院に上告を決めます。
●1895年(明治28年)7月3日
英国枢密院は上海の判決を破棄して横浜領事館への差し戻しを命じるとともに、P&Oに日本側の訴訟費用約12万円の負担を命じます。
●1895年(明治28年)9月19日
日本政府とP&Oの間で和解が成立します。
※P&Oは1万ポンド(日本円で90,995円25銭)の和解金と日本側の訴訟費用全額を負担する代わりに日本政府は一切の請求権を放棄。
「もののふの河豚にくはるる悲しさよ」
正岡子規は1892年(明治25年)12月2日の新聞「日本」に、俳句時評「海の藻屑」と題し、千島艦沈没を句で評しました。
二審で千島艦事件日本敗訴がきっかけとなり「対外硬派」が誕生し
「内地雑居反対・対等条約締結・現行条約履行・千島艦訴訟事件詰責」を主張、政党も同調し、日清政争への序曲となっていきます。
(岡村輝彦)
この千島艦事件を日本代表の弁護士として英国と法廷で戦ったのが岡村輝彦です。
彼は後に中央大学第3代学長(英吉利法律学校から数えると4人目)となり日本の民法典整備に重要な役割を果たした法律家です。
岡村輝彦なる人物、横浜少し関係がありますので紹介しておきます。
学生時代の岡村の性格は豪放不罵、ナポレオンを崇拝し、また北海道開拓に関心を抱き、同級生から「岡村ナポレオン」「岡村北海」などと呼ばれたそうです。
成績不良のため1875年(明治8年)の第1回国費留学生の選に外れますが、なんとか第二回で渡英、ロンドンのキングス・カレッジからミドル・テンプルに進み、アトキンスの弁護士事務所でも実務経験を積みます。
留学中に一時、勉強のし過ぎでノイローゼになりますが、日本から留学した中で5人目のバリスター(英:barrister)となります。バリスターとは法廷弁護士(ほうていべんごし)のことで、当時法廷で弁論、証拠調べ等を行うことができる弁護士として事務弁護士(ソリシター、solicitor)とは別に分業が行われていました。
日本に戻り、行動派の法律家として裁判所判事、弁護士を歴任します。
1885年(明治18年)8月横浜始審裁判所長
この頃から、東京大学・東京法学院・明治法律学校で講義を担当します。
1891年(明治24年)2月に官職を辞し、代言人=弁護士となり東京・横浜の2か所に事務所を開業します。
開業した翌年、この「千島艦事件」に遭遇します。
日本人として初めて横浜の英国裁判所に出廷し見事な法廷交渉を展開し勝訴判決を得ます。ところが、上告時は司法省御雇外国人カークウッド
が担当し上海の上等裁判所での控訴審は日本側が敗訴します。
その後、国内で紛糾した後、ロンドンの英国枢密院における上告審の訴訟代理人を依頼され渡英、勝訴判決を得て凱旋帰国します。
※この裁判にかかった経費は 最終的に日本が得た和解金を上回ってしまいましたが、政治的勝利は日本国の重要な成果でした。
1913年(大正2年)3月から翌3年6月まで中央大学の学長を務めました。
ベトナム戦争を撮影した報道写真家「岡村昭彦」は岡村輝彦の孫です。
http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/library/okamura_bunko/
●1914年(大正3年)の今日
横浜市電、大岡川線の一部「お三の宮」〜「弘明寺間」が開通しました。
暦で語る今日の横浜【9月18日】
横浜の年表から
今日起った出来事をピックアップしました。
●1874年(明治7年)の今日
「路上、橋際で人力車の客待ち停止が多く通行の妨げとなるため人力車並列場を設け、以後そこに置くように指示した。」(神奈川県史料)
明治以降急速に成長した人力車は、明治期のモータリゼイション時代のパイオニアですが、交通ルールが決められていなかったため、多くのトラブルも起ってきます。
バブル時代に繁華街のタクシーが社会問題となりましたが
歴史は繰り返すのかも知れません。
「人力車並列場」とは現在のタクシー乗り場のことです。
●1878年(明治11年)の今日
新橋・横浜間の汽車運行事業で中等の空席が多いため苦慮していた国は
上・中等の旅客に往復切手(割引往復乗車券)の制度を設け割引し乗車促進策とします。実施は11月1日で、日本初の往復乗車券のはじめといわれています
●1906年(明治39年)の今日
山崎紫紅、「史劇 七つの桔梗」発表
山崎紫紅、横浜生まれの劇作家。本名山崎小三。
史劇を多く手がけ「七つ桔梗」は彼の代表作の一つ。
●1925年(大正14年)の今日
野毛山公園が開園しました。
面積は27,500坪でもとの「原善三郎」と「茂木惣兵衛」の庭園を併せこれに水道給水場を加えたものです。野毛山公園は災害復興事業として始まった事業です。
No.101 4月10日 薄れ行く災害の記憶
●1963年(昭和38)の今日
飛鳥田市長が市会で初の市政運営方針を発表
横浜市六大事業
http://ja.wikipedia.org/wiki/横浜市六大事業
No.393 横浜外環状線に遊ぶ
No.37 2月6日 都市デザインの実践場
No.58 2月27日(月)政治家が辞めるとき
●1915年(大正4年)の今日
横浜市は、セルビア救済のために「万国救難の会」結成し義捐金募集を開始します。
※第一次世界大戦の舞台となった バルカンの火薬庫セルビアは、中世オスマントルコ支配から独立したころから小国同士の争いが絶えない地域でした。1912年〜1913年にバルカン戦争を通してオスマン帝国から独立を勝ち取りますが、1914年(大正3年)6月28日ボスニア地方の州都サラエヴォで起ったフランツ・フェルディナント大公の暗殺をキッカケに全面戦争に突入します。第一次世界大戦の始まりです。
この第一世界大戦で
セルビアは全人口の28%、男子人口の58%を失います。
1919年(大正8年)のパリ講和会議では日本の提出した人種差別撤廃案に賛成するなど民族問題に取り組む姿勢をとりますが、この地域の人種差別と宗教差別による歪みは、20世紀後半まで火種となって残りました。
●1919年(大正8年)の今日
小野光景(おの みつかげ) 75歳で亡くなります。
横浜商業高校(Y校)の前身にあたる横浜商法学校を創立しました。
絹糸輸出商社の小野商店を創業した実業家で貴族院議員を歴任。
中央本線(辰野支線)に彼の名にちなんだ「小野駅」がありますが、鶴見線の「鶴見小野」は、この地を埋め立てた小野高義・鱗之助親子に因んだものです。
暦で語る今日の横浜【9月17日】
横浜の年表から
今日起った出来事をピックアップしました。
今回は、小さな一行からさらに探ってみたいテーマがありましたので
別項で展開してみることにしました。
●1900年(明治33年)の今日
「平沼延次郎他22名が発起人の横浜電気鉄道(株)に電気鉄道敷設の特許おりる」と横浜歴史年表に記載されていますが、
Wikiには「1899年(明治32年)9月設立」とあります。
→2年後の1902年(明治35年)の今日
「横浜電気鉄道株式会社が設立された。市内鉄道敷設出願の4派合同が成り、平沼延次郎外22名が一致して出願したので、8月市会の協賛を経この日設立を認可されたのである。」と横浜歴史年表にありますが会社設立の日に矛盾が。
→このような 年表記述が矛盾したり、誤記かもしれないケースが時々あります。
横浜電気鉄道株式会社は後の横浜市電(横浜市交通局)の前身です。
他の資料(横浜銀行史年表)によると
1902年(明治35年)9月17日の今日
「横浜電気鉄道株式会社設立」が正しいようです。
真偽は再調査しますので少々お待ち下さい。
●1912年(明治45年)の今日
「ティール喜歌劇団が来日し、横浜ゲーテ座でミュージカル・コメディ「バラエティ島」を公演」ティール喜歌劇団がパロディ風の作品を上演しましたがあまり評判が良く無かったそうです。「横浜ゲーテ座」も、横浜の音楽史上重要な劇場です。
●1936年(昭和11年)の今日
「横浜大博覧会協賛会剰余金をもって商工奨励館増築工事に着手する。」
戦前は余剰金が出たんですね!?
●1945年(昭和20年)
横浜税関に置かれていた米太平洋陸軍総司令部(GHQ・AFPAC)が東京日比谷の第一生命ビルに移転しました。
No.252 9月8日(土)横浜終戦直後その3
●1946年(昭和21年)9月17日
横浜市戸塚区東俣野町である事件が起りました。
これは「別掲テーマ」で詳細をドラマ仕立てにしてみます!!!
●1984年(昭和59年)の今日
帆船「日本丸」の引き渡し式が行われました。
約183万kmを航海し、約11,500名の実習生を育てました。
http://www.nippon-maru.or.jp
●1882年(明治15年)の今日
近藤滋弥(こんどう しげや) 生まれる
日本郵船会社社長、『坂の上の雲』にも登場する近藤廉平の長男。
グラスゴー大を卒業し、東京鉄道の技師をへて1926年(大正15年)に横浜船渠の専務となります。のちに三光紡績を設立し実業界で活躍します。
この間私費で“近藤記念海事財団”を創設し、海事の発展に尽します。
貴族院議員。1953年(昭和28年)8月20日70歳で死去。
●1990年(平成2年)の今日
一人の教育者が亡くなりました、江守 節子(79歳)
1911年(明治44年)2月6日横浜に生れ横浜で亡くなった山手学院創設者です。
→このテーマも別掲テーマで紹介します。
●9月17日は
神社の例大祭が多い日です。
横浜に集中して建立されている「杉山神社」の一つ
都筑区佐江戸町、青葉区みたけ台の杉山神社の例大祭の日です。
神奈川区東神奈川にある「熊野神社」
たまたま発見データですので網羅してません。
暦で語る今日の横浜【9月16日】
横浜の年表から
今日起った出来事をピックアップしました。
●1889年(明治22年)の今日
横浜税関の検査課翻訳掛を廃し、諸願・届出書類はすべて原文のまま取扱うこととされました。
●1911年(明治44年)の今日
「全市で玉突競技会開催(〜17日)」
とあります。日本のビリヤード史は幕末に始まりますが、四つ玉スタイルでした。
現在のようなポケット・ビリヤードは、1900年頃にアメリカから持ち込まれました。
日本で始めてのビリヤード場が登場したのは
1871年(明治4年)東京にできた精養軒です。
1877年(明治10年)には日本で初めてビリヤード台が製造されるようになります。
1879年(明治12年)東京府内に53か所の「玉突き場」があった記録が東京府の統計に記されています。
昭和時代に入ると全国のビリヤード場は約25,000軒にも上ったそうです。
「撞球場日記」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1030348/3
「玉突全書」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/861571?tocOpened=1
※必要は発明の母
世界で初めてプラスチック製品が実用化されたのがビリヤード用の玉だったそうです。象の乱獲で象牙の玉が高額となり、普及の妨げとなっていました。
ニューヨークに拠点を置くビリヤードボールのメーカー「Phelan&Collender」社が象牙に代わる球の素材を広く募集し1万ドルの懸賞金が用意されました。
これに刺激された人物が奇跡の発明をします。
1869年(明治2年)自らビリヤードファンで印刷業のジョン・ウェスリー・ハイアットが挑戦した結果、プラスチックが発明されます。
ハイアットはビリヤードボールの素材にニトロセルロースを使用することに成功、これがプラスチックの実用化商品となり「セルロイド」が誕生します。
ハイアットは「プラスチック産業の祖父」とよばれています。
昨今、オリンピックの話題ばかりですが、
JOCの競技にビリヤードがありました。
http://www.joc.or.jp/sports/cuesports.html
ビリヤードはスポーツです。
●1923年(大正12年)の今日
横浜商法学校初代校長“美沢進”が亡くなります。横浜商法学校は後の横浜商業=Y校です。美沢は
校訓10ヵ条の制定、実践科の商業取引実習など特色のある商業教育をすすめ多くの商人を輩出しているY校の基礎を築きます。
創設期の横浜商法学校は〈美沢塾〉といってよいほど小規模で、校長美沢進の個人的影響力の強い学校でした。
美沢進は福沢諭吉の信頼厚く、福沢の葬儀を取仕切ったことでも福沢家との関係がわかります。
No.428 Y校創設地はどこだ?
No.267 9月23日(日)Yの真価
●1967年(昭和42)の今日
飛鳥田横浜市長が山梨県南都留郡道志村に中学生のためのキャンプ場を造成する方針を表明。
のちに横浜市道志青少年野外活動センター(スポーツ広場・キャンプ場)として開設され多くの市民に利用されてきましたが、2013年(平成25年)3月31日をもって廃止されました。
代りに
■道志村キャンプ場における横浜市民優待利用サービス事業
http://www.city.yokohama.lg.jp/kodomo/ikusei/doushi.html
●1972年(昭和47年)の今日
台風20号「Helen(ヘレン)」の影響で
市営地下鉄伊勢佐木長者町駅の工事現場が冠水します。
この水害によって開業が約1ヶ月遅れてしまいました。
台風20号「Helen(ヘレン)」は9月16日和歌山県潮岬付近に上陸し伊賀上野→米原→富山を経て日本海に抜けました。
関西に大きな被害がおよびましたが横浜市内にも傷跡を残します。
市内では1,574戸が浸水しました。
●1987年(昭和62)の今日
国連の「平和の使徒(ピース・メッセンジャー)」に横浜市が選ばれ、東京の国連広報センターで贈呈式が行われました。
※国際連合によって国際平和年と定められた1986年、横浜市は「国際平和年よこはま記念事業実行委員会」を組織し、平和シンポジウム、子ども平和大使国連派遣事業等、様々な国際平和に関する事業を実施しました。これらの取り組みや上記事業が評価された結果、1987年に国際連合より、ピースメッセンジャー(平和の使徒)の称号を授与されました。
http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/kokusai/peace/messenger/
この年
1987年(昭和62年)に(株) 横浜国際平和会議場が設立され、
1991年(平成3年)に展示ホールが竣工します。
第4回会議「ピースメッセンジャー都市会議」横浜大会
暦で語る今日の横浜【9月15日】
横浜の年表から
今日起った出来事をピックアップしました。
●1873年(明治6年)の今日
「新橋・横浜間で貨物列車の運転が開始された」
日本初の鉄道開通は
1872年(明治5年)横浜・現在の桜木町〜新橋間が開通。
●1879年(明治12年)の今日
第1回製茶共進会が開催される。
No.259 9月15日(土)全国お茶の品評会開催
●1890年(明治23年)の今日
横浜にはじめて電灯が点火された(横浜共同電灯会社の試験送電)日です。
会社前と市中契約者の家屋内のみだけ点灯したそうです。
※ガス灯が横浜にともされたのは
1872年9月29日(明治5年8月27日)日曜日のことで大江橋より馬車道、本町通りにかけてで日本における初めてのガス灯点灯でした。
当初は、ガス灯の方が明るかったようです。電気がガスに代るにはこの後数年かかります。
●1890年(明治23年)の今日
「午前十一時、土耳其国軍艦ヱルドグロール号本国へ向け長浦を出帆す、(長浦に滞艦せしは七月十九日、虎列刺病死者一名あり、翌二十日同患者あり、消毒離隔の為め同二十一日該所に回航せしなり、同艦帰国の途次、九月十六日、紀州大島近海に於て暴風雨に遭遇し沈没し、乗組員六百名中六十九名は辛くも大島の人民に救助せられしも、使節ヲスマンパシヤ以下、五百余名は海底の藻屑と消ゆ、此凶報神戸に達するや、兵庫県庁は四方に飛報し、同港碇泊の独乙軍艦某号、我八重山艦等大島に向ひ、生存者を乗せて、神戸港に上陸せしめ、負傷者を治療し、十月十一日、軍艦比叡・金剛の二艦を以て彼国へ送還せられたり)」
ヱルドグロール号はエルトゲロル号、エルトグルル号と表記する場合も。
詳しくは下記を
No.159 6月7日(木) 強い日土友好の原点
●1919年(大正8年)の今日
高島町に公設浴場開場。
なんの傍証も資料もありませんが
「公設浴場」ちょっと調べてみました?
1879年(明治12年)東京で全国最初の「湯屋取締規則」が制定されます。
これが公衆浴場規定の始まりのようです。
背景には、コレラの流行を抑えるための「伝染病を予防する衛生的行動」を啓蒙するためという時代ニーズもあったようです。
※因みに日本で最初に公設浴場が設けられたのは大阪市です。
東京市を含め関東に公設浴場が本格的に普及するのが関東大震災後のことです。
官設民営が原則だったようですが、実業家の社会貢献の一つとして公設浴場開設のため寄付なども行われていたようです。
「増田嘉兵衛」氏が県立公設浴場開設のため寄付(『横浜市史 第5巻(下)』 p.27)といった記事もありました。
●1930年(昭和5年)の今日
吉田町に都南ビルが竣工した
No.352 12月17日(月)市民の財布を守った都南
※加筆修正しました。
●1961年(昭和36年)の今日
市内遊覧バスの見学コースに「横浜マリンタワー」を加え出発時間を変更。
●1971年(昭和46年)の今日
市内遊覧バスコース変更(本牧市民公園を加える他)と出発時刻を通年午後0時とする。
●1964年(昭和39年)の今日
大桟橋旅具検査場,東京オリンピックのため改装,国際船客ターミナル完成
「大桟橋旅具検査場」とは何?
税関では現在も「旅具通関部門」と言いますが、何時も意識せず通過していますがいわゆる「手荷物検査」ですね。
東京オリンピック2020年が決まりましたが、1964年のオリンピックに間に合わせるために“ドタバタ”していた様子がわかります。
大桟橋に「国際船客ターミナル」が完成した日です。
http://www.osanbashi.com
1964年(昭和39年)開催の東京オリンピックに合わせて大改修が行われ、国際船客ターミナルとしての高機能化が図られました。
1階部分に
税関・出入国管理・検疫施設を構え、
2階部分に
渡航旅客や歓送迎者用待合所や土産物店向け設備が整えられました。
自走式渡船橋により接岸船舶の高度差や位置に関わらずターミナルからの乗下船が容易になるなど当時としては最高位の機能を備えていたそうです。
2002年には現在の「大さん橋」が完成し、「くじらのせなか」室内部分を「くじらのおなか」と呼んでいます。
暦で語る今日の横浜【9月14日】
横浜の年表から
今日起った出来事をピックアップしました。
●1862年(文久2年8月21日)の今日
幕末の大事件「生麦事件」が西暦1862年の今日起ります。
ブログでは(文久2年8月21日)の旧暦にて紹介しました。
※因みに幕末明治の年表を悩ます「旧暦」は
明治5年12月2日(1872年12月31日)まで使用されていました。
翌日の12月3日が明治6年1月1日(1873年1月1日)となり日本の暦が「西暦」に統一されました。→しゃんしゃん!!という訳には行きません。
何故か?
だって旧暦で生活していたのが約一ヶ月(明治5年の12月が無くなってしまう訳ですから むちゃくちゃな変更です。
それも 11月9日(約一ヶ月前)に布告され実施されます。
立川志の輔さんは この出来事を新作落語にしています。
番外編 幕末明治の年号って苦労します。
●1875年(明治8年)の今日
「野犬が増加したため、飼主の住所氏名を明記した首札を飼犬に付けるよう触れが出た。神奈川県史料(1)390」
明治8年の話しです。現代とはレベルが違いますが野犬の問題は同じようですね。
●1896年(明治29年)の今日
巖本善治(33歳)横浜本牧の多聞院に滞在する。と日記にあります
多聞院は現在も中区本牧元町2−16にあります。
巌本 善治(いわもと よしはる)は女性教育家、評論家で事業家です。
フェリス女学院に講演に行って助教・若松賤子を知り、
1889年(明治22年)横浜海岸教会で結婚式を挙げます。
No.153 6月1日(金) 天才と秀才
実業家としては
コーヒーの直輸入会社カフェ・パウリスタに取締役として参加。
1911年(明治44年)11月
東京にカフェ・パウリスタが開店します。現在もカフェ・パウリスタは健在です。
http://www.paulista.co.jp
●1923年(大正12年)の今日
震災後2度目の市会がひらかれ、
帝都復興事業に横浜市を包合することを求める意見書を
監督官庁に提出する建議可決
※復興から“横浜”が取り残されないように 必死の意見書を国に提出します。このような“横浜も東京と同様に復興支援を”という記事を当時の新聞や行政記録に多く発見することができます。
現実 関東大震災以降、横浜は急速に都市力を失っていきます。
●1929年(昭和4年)の今日
「保土ケ谷区天王町の橘樹神社の新築落成式の報告祭が行われた」
相鉄線天王町近くにある橘樹神社は
天王様 (てんのうさま)とも呼ばれ素盞嗚尊を祀る文治二年創建の神社です。
社殿は文政十三年に改築し
大正12年の関東大震災で倒潰し1929年(昭和4年)の今日復興します。
が、横浜大空襲で全焼し1951年(昭和26年)に復興し現在に至ります。
http://www.youtube.com/watch?v=wUljQchyDr0
橘樹神社(たちばな じんじゃ)は武蔵国橘樹郡に幾つか点在します。
橘樹郡の総社は川崎市高津区子母口にある橘樹神社です。
●1932年(昭和7年)の今日
「済生会鶴見診療所が開設された。」と記事がありました。
済生会鶴見診療所の「済生会」を調べて びっくりしました。
※済生会 正式には
社会福祉法人恩賜財団済生会(おんしざいだんさいせいかい)と称し、
日本最大級の医療福祉関係の財団です。
http://www.saiseikai.or.jp
※「済生会は、明治天皇が医療によって生活困窮者を救済しようと明治44(1911)年に設立しました。100年以上にわたる活動をふまえ、今、次の三つの目標を掲げ、日本最大の社会福祉法人として全職員約54,000人が40都道府県で医療・保健・福祉活動を展開しています。」財団HPより
(最初の病院は横浜に!)
1913年(大正2年)9月に
神奈川県済生会病院が現在の横浜市西区岡野町に開設したのが済生会第1号病院です。
横浜からスタートした医療財団だったのです。
神奈川県病院はのち横浜大空襲により焼失し、戦後移転し現在横浜市神奈川区
富家町6-6に開設し地域医療拠点として医療活動を続けています。
http://www.kanagawa.saiseikai.or.jp
暦で語る今日の横浜【9月13日】
横浜の年表から 今日起った出来事をピックアップしました。
●1874年(明治7年)のこの日
「谷戸橋畔のヘボン博士邸内に横浜長老派公会が創設された(指路教会の前身)」
ヘボンは「ジェームス・カーティス・ヘボン」
英語読みではジェームス・カーティス・ヘップバーンと発音します。アカデミー賞女優キャサリン・ヘプバーンはカーティス・ヘボンと同じHepburnの一族だそうです。
「谷戸橋畔のヘボン博士邸内」記念碑は横浜地方合同庁舎の前に建っています。
ヘボン式のローマ字で知っている方も多いかも知れません。
ヘボンは眼科医だったんですね。
No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者
長老派公会とはキリスト教のプロテスタント、カルヴァン派の教派です。
指路教会
http://www.yokohamashiloh.or.jp
1892年(明治25年)1月16日、指路教会の大会堂が現在の尾上町6丁目85番地に新築されました。
No16 1月16日(月) 指路教会建つ
●1880年(明治13年)のこの日
横浜取引所の株式取引が許可され、これより横浜株式取引所と改称しました。
「横浜洋銀取引所」は貨幣の交換を主に取り扱う為替トレードセンター?
その役割を終え、新しく株式会社の株取引を扱うようになりました。
1877年(明治11年)横浜洋銀取引所を創立
1879年(明治13年)開業
No.49 2月18日 過去に学ばないものは過ちを繰り返す
1879年(明治12年)横浜取引所と改称
1880年(明治13年)横浜株式取引所と改称
1889年(明治22年)任意解散します
この年1889年(明治22年)は、市制施行され「横濱市」となります。
日本で初めて大日本帝国憲法・皇室典範・ 衆議院議員選挙法が公布されます。
近代国家のスタートでした。ある意味、明治維新後22年間は憲法の無い“暫定国家”だったということになります。
●1921年(大正10年)のこの日
「永井荷風(44歳)横浜鶴見の旅亭華山荘に田村百合子を訪ねるが不在であった。」
田村百合子は、本名田村智子、芸名白鳩銀子。戸籍上は本間智子でした。
『断腸亭日乗』にも交際相手として名前が出てくる日露戦争前に活躍した大物軍人・田村怡与造(いよぞう)の娘で同じく大物軍人本間中将の妻です。
すごい話です。
永井と浮き名を流したあとは成瀬巳喜男監督の代表作『妻よ薔薇のやうに』(昭和10年)に登場する女優伊藤智子となりますが、芸術家 伊藤熹朔と結婚するんですね。
http://www.youtube.com/watch?v=J2lzKiplmWI
明治、大正時代 猛女というかすごい女性が多く登場する時代です。
永井荷風は父の関係で( 父久一郎日本郵船会社横浜支店長)短い間ですが横浜に暮らします。
●1923年(大正12年)のこの日
震災後初めて「県庁・市役所に点灯した」ということです。恐らく公官庁優先だったでしょうから、電気復旧まで二週間かかったことになります。
また、当時の世界情勢を表す出来事として
「ソ連救済船レーニン号が入港したが、共産主義宣伝の疑をもつて退去命令が下された」というようにソ連の援助を拒否することに。
●1935年(昭和10年)のこの日
「横浜輸出織物手工捺染工業組合が設立された。」
手工捺染は横浜の地場産業でした。
開港当時、蚕糸産業は日本の一大産業に成長しシルク製品は開港以後半世紀にわたり、戦争時代をのぞき輸出品の首位の座を占めます。そのほとんどが横濱港から出荷されました。シルクの集散地だった横濱が、気象条件や水資源に恵まれて捺染プリントの一大生産地となります。横濱捺染技術は東西の優れた木版技法を取り入れて発展します。
かつて 帷子川、大岡川は捺染工場が並び、洗い流された残染料が川を染め(汚染)ましたが、戦後は一気に衰退します。
No.433 帷子川物語(1)
No.238 8月25日(土)日伊友好の歴史
●1938年(昭和13年)のこの日
「横浜王冠キルク工業組合が設立された」
No.82 3月22日 神戸産東京麦酒
暦で語る今日の横浜【9月12日】
横浜の年表から 今日起った出来事をピックアップしました。
●1879年(明治12年)の今日
「政府は貿易銀と洋銀の等価取扱を布告した(9月19日実施行)」
幕末から明治初期は貿易銀と洋銀の交換レートがめまぐるしく変わり為替レートが安定してませんでした。
開国と共に始まった貨幣制度の弊害は、多くの資金を海外に流出させ、財政破綻を起こします。これが起因となって徳川幕府は崩壊しますが
新政府になっても通貨制度は安定せず、幣制の建直しを図ります。
1871年(明治4年)6月17日に日本最初の貨幣法規「新貨条例」を決めます。
「円」「銭」「厘」という新しい単位を導入します。
※明治貨政考要の記事によると大隈重信が新しい貨幣を円形(丸い硬貨)に統一するのが良いと主張しますがこれに反対する者が多かったそうです。重信は「親指と人さし指の先を合わせて、円の形を作りそれをそばの人に見せれば誰でもそれが貨幣であるということが分からないものはない。だいたい物が四角であると廻しにくくて摩損することが多い。円ければ摩損が少なく廻し易い。外国では貨幣はみな円形を採用している。実際上も懐中からの出し入れには円い貨幣は便利である。だから新しい貨幣は円形にするのが一番よい。」と説き貨幣が丸くなったそうです。
新通貨制度は当初“金本位制度”で始まりますが
貿易のために開港場限定で「1円銀貨(貿易銀)」を発行し、外国で通用している「洋銀」と同等“等量目”とします。この通貨制度を自由化したのが
1879年(明治12年)の今日「政府は貿易銀と洋銀の等価取扱を布告した(9月19日実施行)」となり「金銀複本位制」となっていきますが、維持は難しく大正期まで制度の試行錯誤が行われます。
●1881年(明治14年)の今日
根岸北方の海軍射的場でスイス射的会開催。
スイス射的会は何回も行われたようで、
No.169 6月17日(日)私は武器を売らない
でも紹介しています。
●1920年(大正9年)の今日
「帝国蚕糸株式会社設立発起人会が成立した(総代原富太郎・今井五介)。当初資本金10,000,000円の予定だつたが、株の申込が多いので15,000,000円に増額した。」
1914年(大正3年)第一次世界大戦ぼっ発による蚕糸恐慌で一次帝国蚕糸株式会社を作り、滞荷生糸を買い入れ供給調整を行うことで恐慌を乗り切りますが、2回目の蚕糸恐慌が、1920年(大正9年)に起こります。
ニューヨーク生糸市場在庫が三か月分売れ残っているところへ、日本の株式が暴落、銀行破綻や生糸商倒産が相次ぎます。この時、蚕糸業同業組合中央会が活動を起こし、当時の原内閣を動かします。
蚕糸業者の組織するシンジケート「第二次帝国蚕糸株式会社」を設立し、不況を乗り越えます。
No.93 4月2日 蚕糸貿易の歴史を見つめてきた倉庫
1926年(大正15年)4月2日「帝国蚕糸倉庫株式会社」創立総会が開催されました。
●1927年(昭和2年)の今日
「横浜音楽協会主催「藤原 義江独唱会」開催、開港記念会館」
藤原 義江(ふじわら よしえ)日本のオペラ歌手、声楽家として
戦前から戦後にかけて活躍します。私生活はスキャンダルの連続でしたが、その歌唱力と奔放さで、創設した「藤原歌劇団」とともに一時代を築きます。
戦前スキャンダルまみれで欧米を放浪した頃
ロンドンでは吉田茂(当時は駐英一等書記官)の引き立てられる
三井の大番頭中上川彦次郎ファミリーとのスキャンダルがありながらも
三女藤原あきとの恋に『世紀の恋』と謳われるなど
など運?にも恵まれた人生を送ります。
http://www.youtube.com/watch?v=wkJ3c3K0pfg
作詞:時雨音羽、作曲:中山晋平
『出船の港』
●1933年(昭和8年)の今日
岡倉天心が亡くなります。52歳でした。
No.171 6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け
No.375 1月9日(水)残した大正の財産
●1959年(昭和34年)
新市庁舎完成に伴い、交通局本局も滝頭から同庁舎に移転
No.256 9月12日(火)どこも本庁舎引越は大問題
暦で語る今日の横浜【9月11日】
横浜の年表から 今日起った出来事をピックアップしました。
●1886年(明治19年)の今日
フランス西波止場でヨットレース開催。
No.226 8月13日(月)西波止場の2勝1敗
ここでも紹介していますが、グランドホテル前にあった横浜西波止場は水泳競技が行われるなど、スポーツが盛んだったようです。
スポーツ大好き国民No.ONEといえば 仏蘭西人ですね!
オリンピックのIOC サッカーFIFA アメリカズカップも(ルイビトンカップ)ですし、
ルマン、ツールドフランス、そういえばF1も仏蘭西です。
※IOC、本部はスイス・ローザンヌですがクーベルタン男爵が創立した団体です。
公式言語は“フランス語”です。
※FIFA国際サッカー連盟も本部はスイスのチューリッヒに
初代会長は、ロベール・ゲラン(フランス)です。
暦で語る今日の横浜【9月9日】
●1893年(明治26年)の今日
「中島湘烟、信行とイタリアから帰国し、横浜西太田の山荘に安着する。」
俊才 “自由民権運動”に目覚めた岸田俊子は同志 中嶋信行と結婚
名を中島湘烟と名乗ります。中島信行は神奈川県令を務め、第一回の衆議院選挙で神奈川4区で当選した人物で 自由な時代でした。
イタリア公使だった信行とともに現地で結核を発病します。
9月11日に日本に帰国し治療に専念ししますが、
1899年(明治32年)3月26日
信行が肺結核のため53歳で亡くなり、
1901年(明治34年)5月25日
追うように中島湘烟、肺結核のため28歳で逝去します。
No.153 6月1日(金) 天才と秀才
●1923年(大正12年)の今日 震災復興の動きは?
※震災後最初の市会が仮市庁舎屋上で、震災復旧善後策に関する緊急市会開催。
※復興事業を市長の自由裁量とすること及び国の復興援助要望の意見が出る
※市、人心の安定を目的として『横浜市日報』発刊。11月下旬迄発刊
No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる
※原富太郎・小野哲郎・井上準之助が上京、関係大臣に貿易復興の援助を懇望した
※長野県出身の小説家、
浅原六朗(28歳)横浜にトラックで訪れ、震災の跡を見る。
浅原はモダニズム文学の作家として活躍
●1928年(昭和3年)の今日
ニューヨーク・ナショナル生糸精算取引所が開業した。
かくて生糸精算所はこれまで横浜のみであったのが
神戸・ニューヨークと3ヶ所になった。
実は このことは 横浜が独占していた生糸取引の終焉を示すもので
震災後、神戸に取引が移り、最大の取引先である米国側も
イニシアチブを握る 重大な出来事です。
●1965年(昭和40年)の今日
「市会第六(水道・交通)委員会の意見具申により市会議長から市長に「本市交通事業の財政再建について」意見書提出(市電の廃止、地下鉄建設促進等)」
議会の立場では致し方ないことかもしれませんが
市電の廃止、地下鉄建設促進等に関する意見書が提出されました。
●1978年(昭和53年)の今日
「ヨコハマさわやか運動」の市本部設立総会が開かれました。
No.147 5月26日 明るく豊かな国民生活の形成に寄与