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横浜年表ピックアップ【10月11日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
●1879年(明治12年)の今日
「成島柳北(42歳)鎌倉を見物したのち、公田から大岡に出る近道をして五里を歩き、横浜停車場に着く。」
当然、全ての道程が“徒歩”です。昔の人は健脚でした。
成島 柳北 (なるしま りゅうほく)、幕末は幕府の将軍侍講、奥儒者で、明治維新後文学者、ジャーナリストとして活躍します。(姪孫に俳優の森繁久彌)
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Wikipediaより |
成島家は19世紀前半から幕府の『徳川実紀』『続徳川実紀』『後鑑』などを編纂する
家に生まれ、将軍家の学問を進講する将軍侍講の任に就きますが批判したために解職。
この頃から洋学を学び、維新後1872年(明治5年)欧米を巡ります。この時に岩倉具視、木戸孝允らと出会い、欧州では共済制度を学び帰国後、安田善次郎と共に日本最初の生命保険会社「共済五百名社」(現在の明治安田生命)を興します。
一方で、ジャーナリストとして1874年(明治7年)に『朝野新聞』を創刊し初代社長に就任します。
大隈重信が設立した早稲田大学の初代の議員となり「朝野新聞」社論でも大隈重信の改進党に近い言論を展開します。
前米大統領のグラント訪日の際には接遇委員を勤めました。
ところが、次第にジャーナリズムに関心を失い、文学や風流に傾倒していきます。
彼の代表作?『柳橋(りゅうきょう)新誌』はその名前の通り色街「柳橋」のエッセイとガイドブックを一緒にしたような作品です。
遊郭街の繁盛ぶりを紹介しながら、そこに絡む人々の人情を描きました。
今日紹介した成島柳北、横浜道行の一行は
彼が浜松からの帰途に箱根塔之沢の玉の湯、湯本の福住(萬翠楼)に泊まり、小田原から東海道を上ります。藤沢で昼食後東海道を離れ江の島に行き、江戸時代からの老舗、伊能忠敬も利用した旅館夷屋吉右衛門に泊まります。
※割烹旅館「惠比壽屋」藤沢市江の島1-4-16に現在も営業しています。
そして10月11日の今日、鎌倉を見物したのちに公田から(上)大岡に出る近道を五里歩き、横浜停車場に着く徒歩旅行を終えます。
●1918年(大正7年)の今日
小説家「田村俊子」34歳
朝日新聞記者“鈴木悦”の後を追い横浜港から「メキシコ丸」で出航しカナダに向かいます。その後18年間アメリカ、カナダバンクーバーで暮らしますが、“鈴木悦”が亡くなり1936年(昭和11年)3月31日18年ぶりに帰国します。
官能的な退廃美の世界を描き、自由奔放な生活を私小説にした作品が多い。
日本敗戦直前に上海で脳溢血により客死します。
●1973年(昭和48年)の今日
商工会議所百年史によると
「新相鉄ビル」に横浜高島屋の増設店舗が開店した とありました。
正確には
新相鉄ビルと高島屋ビルからなる「相鉄ジョイナス」の
“横浜高島屋部分”が完成し開店しました。
“ジョイナス部分”は遅れて
1978年(昭和53年)5月に全館リニューアルして開店しました。
屋上にはジョイナスの森彫刻公園、
4階には吹き抜け「市民の憩いの広場」があり当時としては斬新な試みでしたが、途中で店舗となり“先人”の努力が消えていってしまったのは実に悲しい限りです。
※現在横浜駅ビル改築でどうなるのか?
期待したいところです。
ジョイナスの森彫刻公園は
1986年(昭和61年)に横浜市「まちなみ景観賞」
1991年(平成3年)には写真による屋上利用コンクール最優秀賞「建設省住宅局長賞」を受賞。
横浜年表ピックアップ【10月10日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
※10月10日は銭湯の日です。
横浜にもまだまだ頑張っている!人気の!銭湯が多くあります。
横浜で最も有名な?銭湯愛好家の集まりが
「横浜銭湯めぐりの会」
http://www005.upp.so-net.ne.jp/sento-meguri/sento.htm
横浜市浴場協同組合
http://www.1126.jp/home.htm
個人的には、1990年代に24軒銭湯はしごしたのがピークで、2000年代には数軒しか利用していませんが、中々良いもんです。
●1877年(明治10年)の今日
「西南の役が平定したので総督有栖川宮・参軍海軍大将河村純義・参軍海軍少将伊藤祐麿が軍艦「丁卯」「春日」「清輝」の3隻にのり東海鎮守府へ凱旋した」
東海鎮守府はまず1876年(明治9年)横浜に仮設され1884年(明治17年)には横須賀に移転しました。
暦で語る今日の横浜【9月28日】
でも紹介しましたが、横浜市内の西南の役に関係する石碑に時々出会います。
日本の最大級にして最後の“内乱”です。
まだまだ不明確なところも多く資料発見が期待されます。
●1894年(明治27年)の今日
川上音二郎(30歳)横浜の港座で、21日まで「日清戦争」を興行する。以来しばしば港座で興行する。
→港座は湊座のことでしょう。
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煙を出す建物の隣が湊座(港座)で、横浜公園に隣接していたようです。 |
No.415 横濱的音楽世界
●1896年(明治29)の今日
「実業家若尾幾造(68)が没した彼は山梨の人で1859年横浜にうつり生糸売込業をいとなんだ。世人から水晶大尽とも呼ばれた」
横浜には開港と同時に、近郊から商人がビジネスチャンスを求めて集まってきます。江戸商人は幕府の関係があったためか堅実さを求める人が多かったようですが、他県からの商人達はかなり手荒い商売をした人たちも多かったようです。
山梨県出身の「甲州商人」、群馬県出身の「上州商人」は絹・生糸関係で多く横浜を目指しました。
No.465 三島と横浜、その縁を探る
●1923年(大正12年)の今日
「馬車道〜日本橋間復旧開通」横浜市営交通八十年史
え?日本橋、と最初驚きましたが、横浜にも「日本橋」の地名と市電の駅がありました。今は名残もありません。
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震災前 |
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震災後 |
※震災で市電の走る道が変わっているのが判ります。
●1954年(昭和29)の今日
「野毛山で紙芝居屋さんの運動会開催。」
手元に資料はありませんが、調べてみたいテーマですね。
“紙芝居屋さんの運動会”とは 果たしてどんな内容だったのでしょうか?
「戦後の街頭紙芝居は1946年(昭和21年)ごろから人気上昇し、GHQ占領時代に最盛期を迎える。しかしその内容が「低劣、俗悪」であり子どもによくないという世論を受けて、自治体が条例や認定制を設け、また業界が自主規制を行ううちに紙芝居はその自由奔放さと輝きを失っていき、その後は1953年(昭和28年)に放送開始した街頭テレビなどにも押されて衰えていった。」(Wiki)
ということですから、この運動会が行われたのが ピーク時の頃であったようです。“自主規制”の一環として 同業者の親睦を兼ねて運動会が開かれたのではないでしょうか。
●1964年(昭和39)の今日
第18回オリンピック東京大会が開催されましたね。
神奈川県下では
サッカー(三ツ沢蹴球場 他)
ヨット(藤沢 江の島)
バレーボール(横浜文化体育館 他)
カヌー(相模湖)が競技会場として使われました(〜24)。
横浜年表ピックアップ【10月9日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
●1886年(明治19年)の今日
「横浜の麦藁真田紐製造所の新築が落成した」
麦藁真田紐(むぎわら さなだひも)は【麦稈真田紐(ばっかん さなだひも)】とも書き、麦わらを平たくつぶし真田紐(さなだひも)のように編んだものを指します。
真田紐は縦糸と横糸を使って織った平たく狭い織物の紐のことで、麦藁で真田紐のように編んだものを使って麦わら帽子(ストローハット)を作り、日本各地で地場産業として盛んに行われました。
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本文とは関係ありません。埼玉県春日部市の地場産業です。 |
特に戦前は“麦わら帽子”がさかんに外国へ輸出され、製造素材として麦藁真田が製造されました。
その輸出を担ったのが横浜港です。
※絹製品と同様に、需要の高まりに伴い粗製濫造が起こり、全国の麦稈真田製造を行っていた中小企業の多くが破綻します。
1920年頃の工業用ミシンは米国シンガーが独占状態でした。昭和に入り
ブラザー工業が「麦わら帽子製造用環縫ミシン」を開発し大ヒットします。
https://museum.global.brother/guide/zone/1/10?lang=ja&_ga=2.233123099.482062017.1651186413-1442387065.1651186413
「昭三式ミシン(麦わら帽子製造用環縫ミシン)の商標を「BROTHER」と定めて市販開始」
●1926年(大正15年)10月9日付けで
「横浜新報もしほ草・江湖新聞」が明治文化研究会から小野秀雄の校訂で発行されました(全500頁で索引が付いている点が特徴)
元々『横浜新報もしほ草』は、
明治のマルチタレント“岸田 吟香”が米国人ヴァン・リード(Eugene M. Van Reed)と共に慶應四年に横浜の外国人居留地で発行された新聞です。
日本初の日刊新聞「横浜毎日新聞」の誕生以前に横浜で生まれた新聞の一つです。
一方「江湖新聞」は、福地桜痴が1868年(慶応4年)江戸で創刊した佐幕派の新聞で絵入り・総仮名付きの新聞です。
新政府を否定的に論じたため第22号で発禁処分となります。
この二つの画期的な新聞を1926年(大正15年)に復刻し、話題になります。
復刻に尽力した小野秀雄(おの ひでお)は日本のジャーナリズム研究、マス・コミュニケーション研究の先駆者といわれた人物で、「新聞学」「新聞史」を確立した一人です。この本の発行元となった「明治文化研究会」は吉野作造が主宰し、小野秀雄や宮武外骨 他当時の多くの言論人が関わります。
『横浜新報もしほ草』は,神奈川大学のデジタルアーカイブで閲覧できます。
http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/handle/10487/4462
No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者
●1897年(明治30年)の今日
「大佛次郎、横浜英町で生まれる。」
大佛次郎は横浜出身の代表的な文学者です。
父が日本郵船会社社員だった関係で横浜市に生まれ、明治37年4月に太田尋常小学校に入学するまで横浜で育ちますが、翌月東京新宿に転居します。
港の見える丘公園に大佛次郎記念館があります。
http://osaragi.yafjp.org
彼に関しては 別の機会にぜひ紹介してみたい横浜・鎌倉に関係の深い人物です。
横浜英町は、現在の横浜市中区英町で、黄金町駅の近くです。
●1942年(昭和17年)の今日
「オーストラリア方面の外交官や引揚者を乗せ鎌倉丸が帰国」と横浜市史II・1下1015に記録があります。Wiki『日本郵船戦時戦史 上』では10月8日、大内氏『商船戦記〜世界の戦時商船23の戦い』によれば9月27日とありますがここでは市史を採用しました。
「鎌倉丸」は1941年(昭和16年)日本海軍に徴用され特設運送船となります。
1942年(昭和17年)10月9日の航海が交換船として最後の任務でした。
(交換船)
交換船とは
第二次世界大戦当時に、開戦により交戦国や断交国に取り残された外交官や駐在員、留学生などを帰国させるために関係国の船舶で運航された船のことです。
敵国の関係者と自国の関係者は“中立国に寄港”し、交換が行われました。
交換船は戦時国際法に沿って「交換船として運航される全ての船舶はすべて民間籍であること」と定められたため、民間船舶が“徴用”されることになります。
浅間丸(16,975トン、日本郵船)、龍田丸(日本郵船)、帝亜丸(日本郵船)
※アメリカ生まれのジャニー喜多川(後のジャニーズ事務所社長)も第一次日米交換船グリップスホルム号に乗船し帰国しています。
鎌倉丸は
→1942年(昭和17年)に日英交換船として東アジアの英国領と日本を往復しました。
(再び海軍徴用船)
横浜に最後の交換船として交戦国、自国の関係者を搬送した後、鎌倉丸は再び軍の徴用船として航海に出ます。
1943年(昭和18年)4月15日に神戸からバリクパパンへ向け出航したのが最後の航海となります。
鎌倉丸は1930年竣工時に「秩父丸」と命名されましたが、1939年に鎌倉丸(かまくらまる)と改名されました。その事情を含めエピソードは
No.38 2月7日 鎌倉丸をめぐる4つの物語
●1956年(昭和31年)の今日
「屏風ヶ浦漁協・同海岸埋立反対期成同盟が磯子海岸埋立に反対」
磯子は戦前人気の海水浴場でしたが、戦後最も早くしかも全面的に埋立が行われ工場が誘致されます。
横浜年表ピックアップ【10月8日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
●1878年(明治11年)の今日
居留地、西波止場沖でボートレースが開催されました。
西波止場沖は かつてグランドホテル他 多くのホテルや
フランス(租界)人居留地があり、外国人のイベントが数多く
開催されました。
1886年(明治19年)にも西波止場沖でヨットレース開催されて
いる記事が出ています。恐らく頻繁に行われていたのでしょう。
No.226 8月13日(月)西波止場の2勝1敗
●1903年(明治36年)の今日
合名会社明治屋設立(代表社員米井源治郎)。
1885年(明治18年)創業者磯野計が横浜万代町で船舶納入業を開始します。これが明治屋の創業にあたります。そして法人化(合名会社)し、二代目社長に米井源治郎が就き、明治屋中興の祖となります。
1911年(明治44年)4月22日株式会社に改組します。
この日に因んで
No.113 4月22日 甘辛両党おまかせ!
●1966年(昭和41年)の今日
野毛山公園遊園地、金のかかる遊戯施設を廃し、子供の遊び場や草木中心の公園としてリニューアル開園します。
●2005年(平成17年)の今日
引退を表明していたハマの大魔神こと佐々木主浩の引退セレモニーが本拠地である横浜スタジアム で行われました。
選手交代で佐々木主浩が告げられると、今日も勝ちを確信しました。
No.300 10月26日(金) 優勝、日本一
No.95 4月4日 横浜DeNAベイスターズの本拠地「ハマスタ」開幕
ベイスターズ優勝は多くの幸運と勢いが重なり実現しました。
1998年(平成10年)9月19日には、
横浜ベイスターズの優勝を祈願する目的で、
横浜駅東口の地下街・ポルタに「ハマの大魔神社」が設置されました。
祀られたのは「ハマの大魔神」で、多くのファンが訪れました。
この神社は佐々木主浩選手が最も得意としたフォークボールの握りをかたどったご神体が祭られ優勝決定後もしばらくは設置され、1999年(平成11年)の1月17日に撤去されました。この間、約1,660万円のお賽銭が集まり、全額横浜市社会福祉協議会 に寄付されたそうです。
佐々木主浩選手は1989年(平成元年)ドラフト1位で横浜大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ )に入団します。
1998年(平成10年)に優勝した後、オフにFA宣言。
メジャーリーグのシアトル・マリナーズ に移籍します。
アメリカンリーグ新人王に輝き
メジャーリーグでも抑え投手として活躍します。
2001年と2002年の2年連続MLBオールスターゲーム登板という快挙を成し遂げ、好成績を収めますが、2003年に故障者リスト入りして以来不振に陥ります。
シーズン終了後、もう1年間残っていたマリナーズとの契約を破棄して退団し、日本に帰国しベイスターズに復帰します。
2004年度、前半は好調な成績を残しますが
8月に入り3試合連続して救援に失敗し2軍落ちとなります。
8月7日に現役引退を表明し、
10月8日(対ヤクルト戦)に行われる予定だった引退試合には佐々木自身が辞退し、セレモニーのみが行われ挨拶で「生涯野球人であることを誓います」と語りました。
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=iFdL9twD0ww
http://www.youtube.com/watch?v=xC4zFFy7tBI
横浜年表ピックアップ【10月7日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
今日10月7日は中々記事が見つからず苦労しました。
●1881年(明治14年)の今日
落合直文(19歳)遊学のため東上の途で、箱根湯本の福住に泊まる。
8日に小田原、大磯を経て鎌倉に行き、三橋屋に泊まり
翌日9日、周遊し再泊する。
10日、横浜金沢に向かい西村屋から舟で横須賀に行き、造船所を見学
松阪屋に泊まる。
11日、汽船で横浜に渡り、汽車で東京に着く
「『落合直文著作集』Ⅱ所収「村雨日記」」より
※落合直は歌人、国文学者で
代表歌に戦前教育では有名な「桜井の訣別(青葉茂れる桜井の…)」の作者。
※厳密には前日の福沢諭吉紹介と同じで
横浜には正確には10日に金澤に到着していますが今日としました。
●1930年(昭和5年)の今日
エスペラント講演会が横浜貿易新報社で開催されました。
講演者はジョセフ=シェラー氏。
詳細は不明ですが、大正から昭和初期にかけて
日本では エスペラント活動(運動)が盛んに行われます。
No5 1月5日(木) 漂泊の詩人 永井叔
【雑談】ラブストーリー
「第92回世界エスペラント大会」が横浜で開催されています。
http://www.jei.or.jp/evento/2007-08_uk92/japane/gheneralo.htm
●1959年(昭和34年)の今日
横浜市中区出身の力士「若羽黒」大関昇進祝賀会が
相鉄文化会館内の精養軒で開催されました。
「若羽黒」はクリーニング店を営む家に長男として生まれ小さい頃からわんぱく坊主でしたが立浪部屋に入り活躍し始めた頃には「ドライ坊や(ボーイ)」というニックネームで人気が出ます。
※少し話題はずれますが
クリーニング業発祥の地は横浜です。
フランス山公園へ入る入口に
自然石の大きな石碑が建っています。
1949年(昭和24年)10月場所から14歳の若さで初土俵を踏みます。
しこ名は部屋の大先輩である羽黒山政司に因んで「若羽黒」としました。
1954年(昭和29年)3月場所で新十両に昇進、
1955年(昭和30年)3月場所でスピード新入幕をはたします。
1959年(昭和34年)9月場所では12勝3敗の好成績で場所後に大関へ昇進し
大関昇進祝賀会が開催されます。
同年11月場所では13勝2敗で幕内最高優勝を果たし
「押しの横綱が誕生か」と言われましたが
残念なことに
1960年(昭和35年)1月、綱獲り場所でおおよその期待と予想を裏切り7勝8敗と負け越して以来「綱取り場所」を迎えることはできませんでした。
No.141 5月20日 もしかしたら菊名区?
横浜出身の最初で(最後の?)横綱 33代武蔵山 武(悲劇の横綱と呼ばれました)は港北区日吉の出身で、奇遇なことに港北区役所が開庁した日と同じ5月20日(昭和10年)に横綱昇進が発表されました。
●1937年(昭和12年)の今日
陸軍省、磯子区及び中区の一部に
軍機保護法が適用されます。
(区域内の測量・撮影・模写等の行為を禁止)
12月には磯子区の大半、中区・戸塚区の一部追加
軍機保護法(ぐんきほごほう)
昭和12年8月14日法律第72号
軍事上の秘密、いわゆる軍事機密(軍機)を保護する目的で公布・施行された法律。
元々、1899年(明治32年)に公布された古い法律でしたが、
1937年(昭和12年)に全部改正され対象範囲が拡大、強化されました。
軍人以外に民間人も対象となり、
軍港、要港などの港湾、堡塁、砲台、その他国防のために建設した防禦営造物、軍用艦船、軍用航空機、兵器、陸軍大臣又は海軍大臣所管の飛行場、電気通信所、軍需品工場、軍需品貯蔵所、その他の軍事施設について、測量、撮影、模写(スケッチ)、模造、録取(記録)、複写、複製を禁止又は制限します。
また、陸軍大臣又は海軍大臣は空域、土地、水面について区域を定め、その区域に於ける航空、気象観測、立ち入りの禁止又は制限、外国船舶に対する開港場以外の入港禁止又は制限を行いました。1945年(昭和20年)10月13日に廃止されました。
●1964年(昭和39年)の今日
東京オリンピックの聖火リレー、横浜入りしました。
●1986年(昭和61年)の今日
横浜国際交流ラウンジが 山下町の産業貿易センタービルに開設されました。
●1987年(昭和62年)の今日
第5回アジア地域経済交流横浜会議(YCEDA’87)が
横浜国際会議場をメイン会場にして開催されました。(〜10月9日)
横浜年表ピックアップ【10月6日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
●1870年10月30日(明治3年10月6日)の今日
福沢諭吉(34歳)は、金澤(当時は久良岐郡で横浜エリアではありませんでした)に一泊、その後横浜に出て三泊します。
9月14日から“家族と”熱海での病気療養を終え帰り道に箱根湯本に二日間滞在します。10月6日に湯本を出て藤沢〜江の島〜鎌倉と回り金沢で一泊します。翌7日に金沢を発ち横浜に出て3泊します。10日朝横浜を発ち東京に戻ります。
福沢のごく普通の日常生活の記録ですが、諭吉は
1870年(明治3年5月中旬)
発疹チフスを患い生死を彷徨います。そこで、熱を下げるために氷が必要になりますが、初夏に天然氷はこの時代殆ど手に入りません。
そこで元福井藩主・松平慶永(春嶽)が所有していたアンモニア吸収式冷凍機を借用し氷を製造し福沢の治療に使い彼は回復します。
完全に健康を回復するのに二、三年かかりましたが、この年の後半は静養に専念した彼にとっての健康面・思想面でも転機となります。
明治の思想家“福沢諭吉”は、日記を残していません。
その代わりに彼の日常を知る手がかりが書簡です。福沢の書簡は確認されているだけでも2,600以上あります。
この、熱海からの病気療養の帰り道を伝えた書簡は、
明治3年10月22日教え子の“阿部泰蔵”に送ったものです。
※阿部泰蔵(あべたいぞう)
三河国豊橋藩の医家に生まれ、儒学、蘭学を学んだ後
1868年(慶応4年)に鉄砲洲慶應義塾に入学しますが
途中戊辰戦争のため帰国(藩)。戦争後、再度入塾し卒業後明治生命保険会社を創業します。
福沢が手紙を送った1870年(明治3年)当時「阿部」は大学南校教授に就いていました。
明治生命保険会社設立以外も丸善商社取締役、東京統計協会特別会員、生命保険会社協会評議員会会長、日本郵船会社監査役 等を歴任します。
No.29 1月29日 福沢諭吉の横浜ワンデーマーチ
●1881年(明治14年)の今日は
29歳の「郵便報知新聞」の主幹“藤田茂吉”が横浜に行き、
町会所(開港記念会館)で開かれた「生糸荷預所事件に関する演説会」で、
「商戦」を演説します。
手元の資料では彼が演説した「商戦」の内容は不明ですが
“藤田茂吉”が演説したこと。
そのテーマが【生糸荷預所事件】だったことが注目に値します。
明治期の日本を支えた生糸貿易の転機となる大事件が生糸荷預所事件です。
※【連合生糸荷預所事件】
1881年(明治14年)生糸取引方法を改革したい横浜の生糸売込業達が輸出生糸の管理組織「連合生糸荷預所」創設を目指します。
一方、「連合生糸荷預所」創設により商品の管理権を失うことになる外国商館との間で生じた紛争です。
最終的に外国商社が約二ヶ月にわたり取引を拒否した事件です。
生糸売込業(輸出側)の主なメンバーは茂木惣兵衛、原善三郎、渋沢喜作など横浜の生糸実業家達でした。
これまで外国商館(輸入側)が生糸の現物を自分たちの手で検査、計量を行っていましたが取引上様々な弊害が生じていました。
日本側は「荷預所」は、「商権」の奪還が設立目的だ!と東京日日・朝野・東京横浜毎日・東京経済雑誌などマスコミと連携し世論を味方に付けようとします。
これに対し外国人商社は「条約違反」「自由貿易に反する」と取引を拒否し外国銀行も資金を止めるなど徹底して対抗します。
横浜の各国領事・公使や神奈川県令(政府)が和解調停工作を行いますが決裂します。
「郵便報知新聞」の主幹“藤田茂吉”が横浜に出向いたのはちょうどこの事件のど真ん中にあたります。
世論は盛り上がりますが、結論は「日本側の敗北的妥協によって終息」となりますが、不平等条約のもとで外国人商社が求めていた“内地通商権拡大”の要求を拒否し居留地貿易(現状維持)を守ったことは、政府ができなかった民間の貿易交渉の成果と評価されています。
この交渉過程には
三井物産会社・三菱系の貿易商会など日本の商社、横浜だけではなく東京の商工会議所も巻き込み、最終的には渋沢栄一、益田孝らの交渉で「日本側の妥協」となります。
「港都横浜」財界人の最初のつまずきでした。
藤田茂吉は
新聞記者、政治家、鶴谷山人・九皐外史・鳴鶴居士・聞天楼主人・翠嵐生等の多くの号を名乗り言論界で明治期活躍します。「郵便報知新聞」の主幹として活躍、自由民権の立場から「東京日日新聞」の福地桜痴と紙上で論戦を展開しライバル紙として言論界をリードします。相馬御風(そうま ぎょふう)は娘婿となります。
豊後国佐伯生まれで、慶應義塾出身で福澤諭吉の直弟子。
郵便報知新聞社に入社し、新聞の主筆、その後立憲改進党に参加。
1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に東京府第4区から出馬し当選、衆議院議員を通算二期務めました。
その他、日本橋区会議員、同議長、同衛生会長、東京府会議員、同区部会議長などを歴任します。
明治12年7月29日から8月14日まで10回にわたって「郵便報知新聞」社説で「国会論」を発表し国会開設運動に多大な影響を与えました。
この「国会論」に関しては面白いエピソードがありますので長くなりますが紹介しておきます。
「郵便報知新聞」社説で展開された「国会論」は、草稿を福沢諭吉が書き、藤田茂吉がリライトして掲載したもので、福沢が「福翁自伝」の中でその時の顛末を詳しく述べています。
「明治十年西南の戦争も片付て後、世の中は静になつて、人間が却て無事に苦しむと云ふとき、私が不図思付て、是れは国会論を論じたら天下に応ずる者もあらう、随分面白からうと思て、ソレカラ其論説を起草して、マダ其時には時事新報と云ふものはなかつたから、報知新聞の主筆藤田茂吉、箕浦勝人に其原稿を見せて、「此論説は新聞の社説として出されるなら、出して見なさい、屹と世間の人が悦ぶに違ひない。但し此草稿のままに印刷すると、文章の癖が見えて福沢の筆と云ふことが分るから、文章の趣意は無論、字句までも原稿の通りにして、唯意味のない妨げにならぬ処をお前達の思ふ通りに直して、試みに出して御覧。世間で何と受けるか、面白いではないかと云ふと、年の若い元気の宜い藤田箕浦だから、大に悦んで草稿を持て帰て、早速報知新聞の社説に載せました。当時世の中にマダ国会論の勢力のない時ですから、此社説が果して人気に投ずるやら、又は何でもない事になつて仕舞ふやら、頓と見込みが付かぬ。凡そ一週間ばかり毎日のやうに社説欄内を填めて、又藤田箕浦が筆を加へて東京の同業者を煽動するやうに書立てて、世間の形勢如何と見て居た所が、不思議なる哉、凡そ二三ケ月も経つと、東京市中の諸新聞は無論、田舎の方にも段々議論が喧しくなつて来て、遂には例の地方有志者が国会開設請願なんて東京に出て来るやうな騒ぎになつて来たのは、面白くもあれば、又ヒョイと考直して見れば、仮令ひ文明進歩の方針とは云ひながら、直に自分の身に必要がなければ物数寄と云わねばならぬ共物数寄な政治論を吐て、図らずも天下の大騒ぎになつて、サア留めどころがない、恰も秋の枯野に自分が火を付けて自分で当惑するやうなものだと、少し怖くなりました。併し国会論の種は維新の時から蒔てあつて、明治の初年にも民選議院云々の説もあり、其後とても毎度同様の主義を唱へた人も多い。ソンナ事が深い永い原因に違ひはないけれども、不図した事で私が筆を執て、事の必要なる理由を論じて喋々哺々数千言、噛んでくくめるやうに言て聞かせた跡で、間もなく天下の輿論が一時に持上って来たから、如何しても報知新聞の論説が一寸と導火になつて居ませう。其社説の年月を忘れたから、先達箕浦に面会、昔話をして新聞を尋ねて見れば、同人もチャント覚えて居て、其後古い報知新聞を貸して呉れて、中を見ると明治十二月の七月二十九日から八月十日頃まで長々と書並べて、一寸と辻褄が合つて居ます。是れが今の帝国議会を開く為めの加勢になつたと思へば自分でも可笑しい。」(福翁自伝)
■1887年(明治20年)の今日
根岸競馬場で天皇が競馬を観覧します。
No.130 5月9日 クラベウマ外交の時代(前編)
No.131 5月10日 クラベウマ外交の時代(後編)
■1910年(明治43年)の今日
横浜砂糖商組合が設立されました。
横浜港は砂糖の輸入功としても一時期日本最大の貿易港でした。
昔鶴見区大黒町に「横浜さとうのふるさと」がありましたが、現在は閉鎖されてしまいました。
181系統「横浜さとうのふるさと 行」というバス路線が 博物館閉館後も入っていた記憶があったので調べてみたらまだ残っていました。
「横浜さとうのふるさと館」は、1997年(平成9年)5月に開館し2004年(平成16年)5月に閉館します。この「横浜さとうのふるさと館」は
「パールエース」印の砂糖で知られる製糖最大手会社です。
会社名は砂糖なのに「塩水港精糖株式会社」で、台湾の塩水港に因んで付けられた社名です。「パールエース」株式会社は大洋漁業(株)(現マルハ株式会社)と塩水港精糖株式会社が共同出資で作られた製糖会社で現在は塩水港精糖の完全子会社となっています。
http://www.pearlace.co.jp
■1929年(昭和4年)の今日
保土ケ谷区保土ケ谷町に横浜市児童遊園地が完成開園式が挙行されました。
地味な公園ですが、中々良い公園です。
ちょっと不便なのがネックですが その分 穴場かもしれません。
http://park.hama-midorinokyokai.or.jp/park/kodomo-park/summary/
隣接する「英連邦横浜戦死者墓地」も横浜ならではのメモリアルパークです。
横浜年表ピックアップ【10月5日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
●2013年(平成25年)の今日から
「馬のアート cartoons×comics〜時代を映す諷刺と現代マンガの世界〜」
根岸競馬記念公苑 馬の博物館 第2展示室において開催されます。
会期〜12月1日(日)まで。
休館日:月曜日(但し祝日・振替休日は開館)
入館料:一般100円
小・中・高校生30円
10月20日(日)には「馬とのつどい2013」も関連開催
※森部英司アートパフォーマンス
※武蔵野美術大学ワークショップ
※馬車、ポニー、馬の試乗会
※ホースアトラクション
http://www.bajibunka.jrao.ne.jp
「横山大観展」(良き師、良き友)
横浜生まれの思想家・岡倉天心が創設に関わった東京美術学校第一期生の横山大観展を今日10月5日(土)から11月24日(日)まで開催します。
http://www.yaf.or.jp/yma/index.php
●1894年(明治27年)は
「時刻表記念日」です。
意外と地味な記念日ですが、
鉄道発祥の地、横浜には重要な記念日といえるでしょう。
今日は
日本で最初の月刊時刻表が発行された日です。
時刻表は、1872年(明治5年)新橋・横浜間に日本初の鉄道が開業した時から存在していました。
『鉄道列車出発時刻及賃金表』が駅構内などに貼り出される程度でした。
全国に鉄道網が拡大するにつれて、
情報量が増え冊子体の時刻表が必要となってきました。
1872年(明治5年)10月14日(旧暦9月12日)に鉄道運行が正式開業してから
『時刻表及賃金表』が本町六丁目の横浜活版社から発行されます。
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/kids/bunmeikaika/d3_01.html
※横浜活版社に関しては調査中です。
横浜の活版史として 別途紹介します。
「横浜毎日新聞」も横浜活版社から発刊されました。
『時刻表及賃金表』これが日本初の市販時刻表といわれています。
そして、運行ダイヤの最新情報を提供する定期刊行物として
月刊時刻表が1894年(明治27年)10月5日に発刊されます。
手塚猛昌が経営する庚寅(かのえとら)新誌社が刊行した「汽車汽船旅行案内」です。
この時刻表は福澤諭吉がイギリスの時刻表を元にし編纂させ、手塚猛昌が発行したものです。発車時刻や運賃のほか、紀行文等も掲載されていたそうです。
編集した手塚猛昌(てづかたけまさ)は
長州が生んだ“日本時刻表の父”と呼ばれています。
因みに
日本交通公社の時刻表は、
1925年(大正14年)4月に創刊されました。
●1896年(明治29年)の今日
「東海道鉄道工事ならびに停車場位置に関する陳情書を提出する。」
これもかなり深い鉄道ネタです。
1881年(明治14年)5月7日に新橋駅〜横浜駅間の複線化が完了します。
1887年(明治20年)7月11日に横浜駅(初代)〜国府津駅間が延伸開業しますが、その間の駅は程ヶ谷駅(現在の保土ヶ谷駅)・戸塚駅・藤沢駅・平塚駅・大磯駅・国府津駅で
ほぼ現在の駅に近いものです。
1896年(明治29年)の今日出された陳情書は
神奈川駅〜程ヶ谷駅間の変則ルートを直線化する計画が出され
軍用短絡線を陸軍省から譲り受けることが決まったことに関するものだと推察できます。
二年後の1898年(明治31年)神奈川駅〜程ヶ谷駅間の短絡線が開業し、東海道本線となります。この時期に横浜〜茅ヶ崎駅間が複線化されます。
※逆に神奈川駅〜横浜駅間、程ヶ谷駅〜横浜駅間が支線扱いとなります。
→このあたりも 一度整理して 紹介したいと思っていますが
簡略マップ作成の時間と気力が中々できないので 保留中です。
●1967年(昭和42年)の今日
横浜市議会「全員協議会は派大岡川等河川の埋め立てについて審議」
この話しは、かなり面白い(個人的に)ネタであること、
派大岡川を語ると吉田川も語る必要がある。
当然大岡川を含めた
横浜運河物語に発展していきます。
さらには市営地下鉄、首都高速、根岸線まで絡んできます。
→とういうことで現在傍系資料やら 現地調査やら進行中です。
今月中に一定レベルでまとめ 紹介したいと考えています。
●1892年(明治25年)の今日
横浜市立本郷小学校
横浜市栄区中野町16番地の1
1892年(明治25年)10月5日の今日
鎌倉郡本郷村立尋常高等本郷小学校が創立しました。
開港時の児童数は269名でした。
昭和14年4月1日本郷村が横浜市に編入され戸塚区になったことに伴い横浜市本郷尋常高等小学校と改称します。 児童783名
明治20年代の創設は 新しい方?
横浜には結構歴史ある小学校が多いのです。
No.144 5月23日 教育熱は時代を超えて
●1907年(明治40年)の今日
早稲田大学野球部は横浜居留地の外国人チームと東京新宿の戸塚(安倍)球場で試合を行い12-1で勝利しました。
これだけでは【横浜】とあまり関係無し????
さらに調べると翌週にも試合があり今度は横浜で
10月12日に横浜居留地の外国人チームと戦い
3−2でまたまた早稲田が勝利します。
実は 早稲田大学野球部は、この年以外にも
多数横浜の外国人チームと試合を行っていることが
判明。
→1904年(明治37年)
7月2日
横浜居留地外国人チームと戦い28対3で勝利(横浜公園)
4月28日
米国艦船ウィスコンシンチームと戦い7-1で敗北します。
5月25日
さらに米国艦船ウィスコンシンチームと戦い8-7で敗北します。
10月14日
横浜居留地外国人チームと横浜公園球技場で戦い3-2で敗北します。
日程不明
横浜居留地外国人チーム戦9対6にて快勝。
横浜居留地外国人のアマチュアチームと戦い12-2で勝利します。
対米艦チームと戦い5-2で敗北します。
→1907(明治40年)の記録では
9月28日
横浜居留地外国人チームと横浜で戦い10-2で敗北します。
6月4日
米国艦船メリーランドチームと戸塚球場で戦い5-2で敗北します。
5月3日
横浜居留地外国人チームと戸塚球場で戦い12-2で勝利します。
横浜年表ピックアップ【10月4日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
【人名を検索したらハマってしまいました】
●1905年(明治38年)の今日
第26代大統領セオドア・ルーズベルトの長女アリス・ロングワース・ルーズベルト(21歳)がアジア歴訪の帰りに「ミネソタ号」で再度横浜港に立ち寄ります。
「アリス・ロングワース・ルーズベルト」
![]() |
彼女の絵本が発刊されています |
この名から検索で導き出された情報はあらぬ方向に発展し、簡単な紹介では済まなくなってしまいました。
→改めて もう少し整理し 紹介しますが、今日はアウトラインだけ。
アリスの訪日は、歴史的に極めて皮肉な出来事となります。
最初にアリスが日本を訪れたのは
日露戦争で連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を破り戦勝気分に浸っていた最中の
1905年(明治38年)7月でした。
![]() |
横須賀にある戦艦 三笠 |
大量の戦費を使い、かろうじて勝利した日本は、戦勝をキッカケにアメリカの仲裁に応じようとしていました。
アリスの訪日は、外務大臣小村寿太郎が、セオドア・ルーズベルト大統領に面会するため横浜港を発ち、ニューヨークに到着した時とほぼ同時期でした。
米国大統領の娘アリスはあくまで外交儀礼上の存在で、主な目的は日本皇室との面会でしたが、米国にとって真の狙いは陸軍長官ウィリアム・タフト率いるアメリカ合衆国フィリピン訪問団による「桂・タフト協定」の成立でした。
米国訪問団の表向きの目的は1898年(明治31年)に起った米西戦争によってスペインからアメリカ合衆国にその支配権が移ったフィリピン国情の視察の途中訪問でした。
この訪日中の7月に取り交わされた「桂・タフト協定」の内容は非公式で日本側には残っていません。
●日本は、
アメリカの植民地となっていたフィリピンに対して野心のないことを表明する。
●極東の平和は、
日本、アメリカ、イギリス3国による事実上の同盟によって守られるべきである。
●アメリカは、
日本の韓国における指導的地位を認める。
乱暴に表現すれば
フィリピンはアメリカのものだから手出しするな
英国(日英同盟)に続き米国も日本の安全を保障する
朝鮮半島の支配は黙認する
だからここでロシアをあまり追い込まないようにロシアからは賠償金は取らない(ポーツマス条約)という結果に落ち着きます。
※日露戦争は、日本とロシアの戦争ですが戦場は朝鮮半島と中国大陸です。
ところが
アリスにとって
行きの訪日7月から帰りの訪日10月までの4ヶ月で
世界の状況は一変します。
日本は日露戦争に勝利したものの、ロシアからは賠償金を受け取ることができないままアメリカの仲裁を呑み、アリス訪日の前9月には大暴動(日比谷焼打事件他)が起り桂内閣は退陣に追い込まれます。帰りも「朝野をもって歓迎」を受けたとありますが、行きとはかなり状況が一変していました。
(セオドア・ルーズベルト)
父のセオドア・ルーズベルトは、日本が明治政府になった頃は、極めて親日家でした。
アメリカ人初の柔道茶帯取得者でもある彼は、ハーバード大学の同窓生だった金子堅太郎とは友人として日本を贔屓にしていましたが日露戦争後日本脅威論者として対日強硬派になります。
排日移民法、グレート・ホワイト・フリートによる対日牽制を行います。
アメリカがハワイを併合しようとした際、日本は巡洋艦浪速と金剛がホノルルに入り、アメリカの軍事力行使を牽制し、ハワイ併合を遅らしたという経緯があります。
No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に
ハワイを巡る日米緊張関係は、第二次世界大戦(真珠湾攻撃)開始の半世紀前から始まっていたことになります。
皮肉にもルーズベルトはポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され1906年のノーベル平和賞を受賞します。
※1898年(明治31年)の米西戦争でアメリカ陸軍第1師団第2旅団長としてマニラを占領した軍人がアーサー・マッカーサーで、ダグラス・マッカーサーの父親です。
その時のフィリピン民政長官となったのが前述のタフトで、アーサー・マッカーサーとは水と油、そりが合わずことごとく対立しアーサーが本国に戻ることで決着します。その後、彼は日露戦争観戦武官として東京に赴任し、自らの副官として呼び寄せたのが次男のダグラス・マッカーサー陸軍中尉でした。
1905年(明治38年)10月29日にダグラス・マッカーサーは横浜に上陸し、11月1日に父親と横浜を発ちアジア歴訪に向かいますが、数日過ごした最初の“横浜”はどのように映ったのでしょうか。
その後、1906年6月末に再度訪日し約三週間横浜と東京に滞在します。
話しはそれてしまいましたが、
日露戦争時にダグラス・マッカーサーは父の戦ったフィリピンと、ロシアに勝った日本に出会っていたことは第二次世界大戦時の彼にとって大きな影響を与えたことは間違いありません。
No.243 8月30日 (木)横浜の一番長い日
No.336 12月1日(土)ホテル、ニューグランド
No.139 5月18日 マッカーサーに嫌われた男
No.252 9月8日(土)横浜終戦直後その3
No.246 9月2日(日)90年後の横浜(加筆修正)
●1906年(明治39年)の今日
「二代目市川左團次(25歳)横浜の喜楽座で開かれた横浜孤児院慈善演芸会に出演する。7日まで続け、以後は通常興行に入る。」
二代目市川左団次、屋号は高島屋
9月に二代目市川左團次を襲名したばかりの興行となります。小山内薫と意気投合し自由劇場を立ち上げ、史上初の歌舞伎海外公演をソ連で行うなど、歌舞伎界に新風を吹き込んだ中興の祖です。
●1937年(昭和12年)の今日
「中区紅葉坂に市教育会館が完成した」
※教育会館って歴史あるんですね。
No.67 3月7日 教育会館にて夜露死苦!
●1985年(昭和60年)の今日
「区名選定委員会、戸塚区分区新区名を市長に報告、A区=栄区、B区=泉区」
栄区と泉区の名前が決まり翌年の1986年(昭和61年)に誕生します。
●1889年(明治22年)の今日
嘉以古樓が相生町三丁目に新築落成します。
嘉以古樓は関内の料亭として倉橋春助が1877年(明治10年)に開業した老舗。
1903年(明治36年)10月3日権利を畠山政吉が得て「割烹料理店 八百政」として開店します。
訪米する尾崎行雄の送別会、市長になる前の若き三橋信方の講演会、市会議員、財界人の会合場所として賑わいました。
●1890年(明治23年)の今日
イギリス人で、ロンドン軽気球会社の支配人
パーシバル・スペンサー(SPENCER, Percival Green 1864年〜1913年)が来日します。
来る10月12日より横浜を手始めに関西・東京で実施する軽気球による飛行ショー開催のために横浜に到着しました。
No.286 10月12日(金)初の空中PR横浜で
●1918年(大正7年)の今日
山下町に在日フランス商業会議所が設立されます。
「シャムブル・デ・コムメルス・フランセイズ・ドウ・ジャポン」
http://www.ccifj.or.jp/jp/
他にもいろいろありましたが
今日は ここまで。
横浜年表ピックアップ【10月3日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
【明治のルール作り】
●1874年(明治7年)の今日
「第1大区内の相撲諸見世物興行の場所を、
吉田埋立地翁町4丁目元魚鳥獣青物四品市場吹貫納屋とし、
興行者は埋立人と示談するように指示した。」
(神奈川県史料)
![]() |
本文とは直接関係ありません |
1875年には福富町他8町を追加します。
→もう一つ 同じ意味合いの記録が同年同日にあります。
「歩道に商品等を張り出したり、並べ置くことがないように注意した。」
(神奈川県史料)
明治に入って、政府は膨大なルール設定を行います。
当初は矛盾も多くあったようですが、
「泥縄式?」で問題が起ると布告等で規制し、
矛盾がでると修正するという状態だったようです。
道路使用や、商業(商売)のルールもこの時期にかなり詳細に規制が行われ、
庶民はずいぶんと 戸惑ったのではないでしょうか。
●1890年(明治23年)10月3日
地方学事通則法律第八十九号公布
→この規則は、地域の学校設立に関してルール化したもので、
一村一小学校制が確立し学区が形成されます。
これによって、地域の子どもたちの“通学路”が生まれます。
地域(町村)運営の学校経営に関するルールも詳細に決められますが、結果経済的負担が増加し義務教育費の国庫負担が強く要望されるようになります。
●1901年(明治34年)の今日
「屋上制限令に対し、戸部・中村・根岸・本牧等 新編入区域住民、屋根を瓦等の不燃物とする「屋上制限令」の施行有余を願い出ます。」
江戸時代、日本の民家の多くが“藁葺き”でした。風情はありますが街中では火事になるとひとたまりもありません。
類焼を減らすために、全国的に「屋上制限令」を出します。
(以下 仙台市が出した屋上制限令)
一、家屋其他建物の屋上は必ず瓦スレート、亜鉛板等不燃質物で葺かなければなりません
一、前項の制限に依らず燃質物で葺いた人があれば警察署から葺換を命ぜられます
一、仮小屋や一時の建物又は土地の状況によりその必要なきものは警察署の□可を受ければ不燃質物で葺かなくとも差支えありません
一、家屋其の他建造物の新築改築又は大修繕をなすときは着手五日前に左の事項を警察署に届出ねばなりません
一、住所氏名、二、建物の位置種別、三、新築改築又は大修繕の別、四、覆葺の材料、五、起工及竣工の期日
一、工事落成したるときは十日以内に警察署に届出で検査を受けねばなりません
一、以上の届出は口頭で差支えありません
一、万一規則に違反し又は警察の命令に従わない人は拘留又は科料の□則に触れます
一、詳い事は規則を御覧なさい
一、仙台市(広瀬川以西除く)及鉄道沿線二十間以内の地域は昨年十二月より向う十年間に必ず全部葺換せなければなりません
【火事】
火事ネタも明治時代は多数ありますが
●1900年(明治33年)の今日
羽衣座 全焼(類焼21戸)
明治時代、日本最大級の劇場銀座だった横浜は
火事による小屋の焼失が多くありました。
中でも「羽衣座」の火事は大きかったようです。
【高島嘉右衛門ネタ】
●1875年(明治8年)の今日
「高島町に新築3層の神風樓開業。」
横浜の遊郭史は、火事と引越の歴史でした。
No3 1月3日(火) 大火事
現在の横浜公園あたりには港崎(みよざき)遊郭
豚屋火事→「慶応の大火」
No.294 10月20日(土)防災道路を造れ!
「神風樓」は政商 高島嘉右衛門が経営していた遊郭です。
No.197 7月15日(日)老舗ホテルを支えた横浜
●1879年(明治12年)の今日
「瓦斯局訴訟問題の和解の宴が尾上町の外務省でひらかれた」
横浜で始まったガス事業は、政商高島嘉右衛門が国際コンペに無理矢理参入し、日本社中として参入します。その後、伊勢山下(現在の本町小学校)にガス工場を作り本格的なガス事業に乗り出しますが、ガス灯の使用料金がスムーズに支払われず経営が悪化します。そこで、ガス会社を売却しようと考えますが
その売却過程で、購入金額が不適切だ!と
横浜町商人(丸善創始者)早矢仕有的らが、訴訟を起こします。
その訴訟が“決着”し、その宴会を開いた!
という 話しです。
→機会があればこの顛末も紹介します。
「尾上町五丁目外務省出張所に於て瓦斯灯訴訟(瓦斯局を町会所に引受たる件に対し、横浜町商人早矢仕有的外、数十名より、横浜区長今西相一・戸長島田豊寛外数名に係る紛議にして、原告代言人高梨哲四郎、被告代人横浜区書記小山茂と横浜裁判所に於て、論弁数月に渉りしが、仲裁ありて和解す)和解親睦の宴を開く、当日来賓には野村県令・河野・磯貝両書記官・横浜裁判所長三好退蔵・税関長本野盛亨・灯台局長原隆義・鉄道局駅長土肥旨一、東京より渋沢栄一、総員二百五十余名、頗る盛会なりし、会場内外球灯数百個、大江橋向ふ及び川筋に於て煙火を打揚げ、非常警戒の為め、橋詰に喞筒組出張せり」
No.27 1月27日 ニッポン、国際コンペに勝つ
(高島嘉右衛門関連ブログ)
No.28 1月28日 高島嘉右衛門と福沢諭吉(加筆)
他多数
(渋沢栄一)
No.374 1月8日(火)○●■△と横浜
【橋ネタ】
●1882年(明治15年)の今日
「都橋」掛替えのために
福富町3丁目 物品卸場に使用中、他の物品揚卸を禁止
【番外編】 1月29日 謎解き都橋
●1915年(大正4年)の今日
朝日橋、斎藤善右衛門らの尽力により完成、架橋式を挙行します。
青木宮州町、と埋立地大野町を結ぶ。
【日本郵船ネタ】
![]() |
写真は氷川丸 |
●1896年(明治29年)の今日
日本郵船会社、豪州航路を開設し、第1船として「山城丸」が就航しました。
→「山城丸」は共同運輸会社がイギリスのアームストロング・ミッチェル社に発注した客船で、その後日本郵船が所有した商船です。(初代)
1898年(明治31年)まで豪州航路で活躍しました。
二代目は1912年(大正元年)11月9日に竣工し南方航路で活躍しますが
1943年(昭和18年)9月16日横浜を出港し、9月23日魚雷攻撃を受け沈没。
三代目は1963年(昭和38年)11月19日に竣工し欧州航路で活躍しますが
1973年(昭和48年)10月11日にイスラエル海軍とシリア海軍の戦闘(ラタキア沖海戦)で被弾し放棄、スクラップとして売却されました。
●1913年(大正2年)の今日
「日本郵船会社 「香取丸」竣工(10,526t)」(横浜歴史年表)
→10月8日欧州向け航路に就航
※客船データベースと若干データが異なります。
起工:1911年(明治44年)11月3日
進水:1913年(大正2年)3月30日
竣工:1913年(大正2年)9月11日
同型船に「鹿島丸」があります。
【鉄ネタ】
●1911年(明治44年)の今日
「横浜電気会社が江之島電気鉄道会社を吸収合併した」
江之島電気鉄道会社は現在の江ノ電です。
ここには「天下の雨敬」「投機界の魔王」と呼ばれた
「軽便鉄道」の雨宮 敬次郎が関係しています。
No.465 三島と横浜、その縁を探る
No.69 3月9日 事業失敗鐵道、横浜線物語
●1946年(昭和21年)
市会で大口駅開設を求める建議可決。
開設は、翌年の1947年(昭和22年)12月20日です。
→駅前シリーズは現在準備中で、「大口駅」も初期に紹介する予定です。
※駅前の雰囲気が 国鉄ローカル駅情緒を残す市内でも希有の駅です。
【その他】
●1877年(明治10年)の今日
日本長老会、スコットランド長老会、ミッションの3教会は、
海岸教会で合同し 日本基督一致教会を組織します。
邦人初の牧師誕生。小川、奥野、戸田
→日本基督一致教会
http://www.kaiganchurch.or.jp
No.68 3月8日 禁酒の勧めに横浜バンド活躍
●1903年(明治36年)の今日
相生町三丁目の旧「嘉以古」跡に 割烹料理店 八百政 開業。
当時の高級料亭といえば
相生の「八百政」
尾上町の「かね田」
太田町の「日盛楼」
伊勢佐木の「あらゐ」
そして住吉の「千登世」といわれました。
千登世に関しては
No.176 6月24日(日) 関内の粋といやーー、ね。
●1919年(大正8年)の今日
横浜中央食品市場(株)、表高島町に設立資本金100万円
No.97 4月6日 東日本初の中央卸売市場が認可される
●1931年(昭和6年)の今日
「シアトルの日本人学生母国見学団が来訪し市内を視察した」
シアトルは、横浜から多くの移民が渡った港です。
また、日米交流の歴史を持ち「横浜」とも縁の深い街です。
No.39 2月8日 龍田丸をめぐる2つの物語
No.241 8月28日(火)駅を降りたら、国際港 復活
●1931年(昭和6年)
「金輸出再禁止を見越してドル買が盛になり、このため正金銀行はアメリカ向正貨現送に忙殺され多額の正貨が海外に流出した」
※10月〜12月までに38,400万円の金貨が流出します。
10月3日1,500万円
10月8日1,500万円
10月15日1,500万円
10月16日1,500万円
10月19日1,500万円
10月22日1,500万円
10月24日1,500万円
10月26日1,500万円
10月27日1,500万円
10月29日1,500万円
11月2日1,500万円
11月4日1,500万円
11月5日750万円
11月8日1,500万円
11月9日1,700万円
11月10日750万円
11月16日750万円
11月18日1,700万円
11月24日2,250万円
11月25日1,500万円
11月27日750万円
11月30日1,500万円
12月1日1,500万円
12月5日750万円
12月15日3,000万円
12月24日2,000万円
(表組にすれば良いのですが )
横浜年表ピックアップ【10月2日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
これまで年代順に年表を紹介してきましたが、
今日から 私が気になった事件から順に紹介していくことにします。
●1916年(大正5年)の今日
相甲電気株式会社(資本金80,000円)が戸部町に設立された。
この一行は、つい見逃しそうな小さな記事でした。
どうも引っかかったので、調べてみると
1917年(大正6年)頃、現在の城山市一帯に電気を供給した会社だということがわかりました。さらに遡ると供給電力は
道志川(三ヶ木)発電所から配電されます。
道志川(三ヶ木)発電所は現在
発電所:相模原市緑区三ヶ木字道志川
取水口:相模原市緑区三ヶ木字小吹
放水口:相模原市緑区三ヶ木字道志川
建設時期は1911年(明治44年)です。
現在「三ヶ木発電所の遺構」が残っています。
なぜ?
横浜に創設された会社が相模原の電気供給会社に?
この道志川発電所は、
当初住宅用では無く 工事用の電源を確保するために設置されたものです。
実はこの発電所は横浜市水道局の第二期拡張工事の際に工事用の電力を供給するために設置されたものです。
第二期拡張工事のうち、
青山沈殿池から津久井を結ぶ城山隧道(全長4358.5m)の掘削工事のために送気器や排水ポンプ、コンクリートミキサーなど数々の機械を使用するための電源用に設置されたものです。
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第二回は図面が判読しにくかったので3回で代用しました。 |
隧道完成後は、相甲電気に譲り渡されて地域の発電所として活躍します。
その後、「富士水力」に吸収され最終的には「東京電燈=東京電力」に吸収されます。
1942年(昭和17年)3月31日に東京電燈が解散
翌4月1日に日本発送電(株)と関東配電が発足
1951年(昭和26年)5月1日に現在の東京電力(株)。
この時、電力会社の再編成と民営化に尽力したのが
ボーンアゲインを自ら実践し説いた松永安左衛門です。
※彼なら 現在の電力会社をどうしたでしょうか?
話しを戻します。
横浜市の成長は「水」なくしては語れません。
開港以来40年間、横浜は水不足との闘いでした。
No.291 10月17日(水)横浜水要日!
水源を遠く山梨県道志村に設け、配水路(水道道)を整備してきましたが
人口増に追いつかない状態が続き、
何回か大きな拡張工事を行ってきました。
第二期拡張工事は、横浜市水道行政の上でも極めて重要な工事でした。
※相甲電気が設立された戸部町は、野毛山のすぐそばですね。
●1886年(明治19年)の今日
岡倉天心(23歳)横浜港からシティ・オブ・ペキン号で出航、文部省美術取調委員としてアメリカを経由でヨーロッパに向います。
翌年の1887年(明治20年)10月11日、ゲーリック号で横浜に帰着します。
この日横浜港を出港した「シティ・オブ・ペキン号」には、小松宮彰仁親王が乗船し
イギリス、フランス、ドイツ、ロシア等ヨーロッパ各国歴訪に向かいました。
小松宮彰仁親王は、明治天皇の“義理”の叔父で、伏見宮邦家親王第8王子。
※岡倉天心が横浜と深い関係にあることは下記のブログをお読み下さい。
No.280 10月6日(土)天心と三渓
No.171 6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け
芋づる式でいけば、
岡倉天心と同じ船に乗船した小松宮彰仁親王といえば、
静岡県三島市にある国指定「天然記念物・名勝 楽寿園」が
小松宮彰仁親王の別邸です。
http://www.city.mishima.shizuoka.jp/rakujyu/index.htm
2013年の夏、横浜のメンバーとこの楽寿園を水源とする
「源兵衛川」の再生を探索してきましたのであわせて紹介します。
●1874年(明治7年)の今日
神奈川県布達道路規則の第14条で
「子供のたこあげ・羽根つき・こま廻し」を禁止。
この規則は、往来での事故が増えたからでしょう。
1872年(明治5年)にはすでに人力車が東京でも4万台を超えたということですから、横浜でも各地で人力車が“活躍”していたのではないでしょうか?
子どもの遊び場が何時の世も 被害者になってしまいますね。
●1899年(明治32年)の今日
ロマン・カトリック系フランス・サンモール修道会が山手に横浜紅蘭女学校を創立しました。→横浜雙葉学園ですね。
これも、資料の1899年(明治32年)ではなく
以下Wiki
1872年(明治5年)
メール・マチルドをはじめとする
「幼きイエス会(旧サン・モール修道会)」の修道女が横浜に上陸し、
初の来日修道女となりました。
横浜の山手において、外国人子女教育および孤児養育事業を開始します。
1900年(明治33年)
これを基礎とし、一般子女向けに横浜紅蘭女学校として開校。
1925年(大正14年)8月30日
紅蘭女学校が復旧された。
1958年(昭和33年)
校名を横浜雙葉に変更。
2000年(平成12年)
創立100周年を迎える。
●1929年(昭和4年)の今日
早大横浜美術部第1回美術展覧会が伊勢佐木町不二家で開催されました。
「伊勢佐木町不二家」
No.41 2月10日 不二屋伊勢佐木町店新築開店
●1960年(昭和35年)の今日
プロ野球大洋ホエールズが初優勝。
No.300 10月26日(金) 優勝、日本一
※マイコレクション紹介します!!
No.1 1月1日(日) 奇跡の1998年(前編)