ホーム » 【横浜テーマ】横浜の〜 » 横浜の学校 (ページ 2)
「横浜の学校」カテゴリーアーカイブ
No.348 12月13日(木)いっさつの本があれば
この第四有隣堂が、現在の株式会社有隣堂となります。
有隣堂の沿革史には
1909年(明治42年)12月13日
「松信大助が個人経営で横浜市伊勢佐木町1丁目7(現在の伊勢佐木町本店所在地の一角)に「第四有隣堂」を創業。間口2間奥行き3間、木造2階建ての店舗で、書籍・雑誌の販売を開始。」とあります。
現在創立百年を超える横浜を代表する企業です。
http://www.yurindo.co.jp/
書籍・文具販売の他、出版部門を持ち音楽関係の事業も行っています。
簡単に有隣堂前史を紹介します。
「有隣堂」の社名は論語の里仁にある「徳孤ならず 必ず隣有り」に由来しています。
創業者「大野貞蔵」は、新潟県柏崎出身の父「大野源蔵」の長男として横浜に生まれます。
1894年(明治27年)頃に「第一有隣堂」を当時のビジネススポット吉田町通りに開業します。
当時横浜の中心部(関内・関外)には東京に移った横浜生まれの「丸善」の他多くの競合店が進出していました。
大野貞蔵の弟、四男とした生まれた松信大助が、暖簾分けで伊勢佐木に「第四有隣堂」を創業し
1920年(大正9年)7月6日に「第一有隣堂」と「合名会社有隣堂」を吸収合併し「株式会社有隣堂」が誕生します。
有隣堂はかつて第九まであり、それぞれ第一有隣堂から暖簾分けしましたが、吸収合併や廃業に伴い現有隣堂のみ残っています。
(※横浜市西区藤棚に第七有隣堂が最近までありましたが廃業)すみません、誤報です。
(出版部門)
全国の大手書店の中で、古くから丸善・紀伊国屋と並び出版部門を持つ有隣堂ですが一般分野の出版を手がけて来た他社とは一線を引き、有隣堂は現在も横浜関連の出版を基本にしています。
横浜を知るには「有隣堂」の出版物が不可欠です。中でも有隣新書は、記念すべき第一巻が1976年(昭和51年)発行の名著「港都横浜の誕生」石井孝著です。
現在出版界を牽引する“新書”の歴史は1938年創刊の岩波新書に始まりますが、地域出版としては草分け的存在といえるでしょう。紀伊国屋新書もありましたが、現在は復刻のみです。
また、私が最もお世話になっているのが
「横浜近代史総合年表」松信太助編、石井光太郎+東海林静男監修
です。開国期から昭和まで新聞・雑誌・書籍・チラシ等から丹念に史実を拾い出しコンピュータ普及以前の手作業でまとめあげた業績は大きいものがあります。当初は、故松信太助氏が20年に渡って個人的に整理し社内資料としてまとめていたものでした。ファイルカードの枚数は8万枚にも及んだそうです。
この知的集積を公開していく作業も書籍(現在ではネット)の大切な役割といえるでしょう。
(有隣堂の思い出)
有隣堂本店イセザキ店には、創業当時から“飲食コーナー”が併設されていました。戦前は有隣食堂として人気だったそうです。
戦後はいち早く洋食レストランが地下にオープンし、食事・喫茶を楽しむことができました。
また、一時期馬車道に「ゆーりん ファボリ」という文具のコンセプトショップがあり、そこには「くれーぷ屋」というこれまた当時としてはかなり斬新な喫茶レストランが併設されていました。記憶にある方も多いのではないでしょうか。
![]() |
閉店時にいただいた“お宝”です。 |
![]() |
見つけました。当時のマッチ!自分でも物持ちの良さに敬服。 |
文具が規格量産(不況)の時代に入り、閉店してしまいましたが
この「ファボリ」は今こそ“欲しい”文具・アートショップでしたね。
また、地域の子供達を対象にした「親子はかせセミナー」は、35年近く続いている地道な企画です。
(画期的)
有隣堂のPR史には画期的なCMが作られたことがあります。
テレビ神奈川(現 TVK)で流された「一冊の本があれば」です。
完全なイメージ広告で、その完成度がこれまた高いものでした。CMソングに企業名を一切入れない、コンセプトのみ伝えるという手法で歌を制作したそうです。口ずさんでもらえることを狙い、「歌いやすく“つぶやきやすい”ことが大切だ」と考えたと制作責任者だった大貫和夫(元取締役)氏からうかがいました。
歌手名を失念しましたが たぶん「小坂 忠こさかちゅう」です。
砂漠のシーンから始まった記憶があります。
(余談)
有隣堂で続けられていること
私はあまし選択しないのですが(気に入らない訳ではありません)有隣堂で文庫を購入するとブックカバーの色を選ぶことが出来ます。
これって「実用新案特許」も取得しているそうです。
ところが 調べたら 手元には6色ものカバー文庫が書棚に入っていました。さすがに「ピンク」は選べないなと感じていましたが
ありましたね「ピンク」も ブルーが二種類あって一番好きですね。
(余談の余談)
山手学院(横浜市栄区)は、有隣堂の運営する学校法人です。学校創設者は江守節子で、現社長の叔母にあたります。理事長は現在篠崎孝子で、江守節子の妹(元有隣堂社長)です。
http://www.yamate-gakuin.ac.jp/about/index.html
No.48 2月17日 さよならYDL
本日も昨日に続き「さよならネタ」です。2002年(平成14年)のこの日、横浜ドリームランドが閉園しました。1964年にオープンし、38年の歴史に幕を降ろしたのです。(黄金時代にデートコースにした方も多いのでは)
![]() |
1983年YDL上空半分以上宅地化 |
横浜ドリームランドは、佐賀出身の歌舞伎役者、松尾國三が一代で築いた日本ドリーム観光が手がけたテーマパークの一つです。当時いち早くディズニーランドを模倣した奈良ドリームランド開園に引き続き三年後の1964年、横浜市戸塚区俣野町700番地に約1,320,000m²の規模でオープンしました。
「昭和の興行師」、「芸能界の黒い太陽」の異名を持った松尾國三の一生は、盟友だったダイエー創業者の中内功と大きく重なります。ワンマンの決断力が時代を切り開き、そのワンマンが自社を潰すという典型的な悲劇の企業モデルです。
約1,320,000m²が閉園時には145,776m²しか無く、土地を切売りしながら必至に活路を見出そうとした姿はあわれな末路というほかありません。
横浜ドリームランドをめぐる顛末はネットで様々な情報が提供されています。貴重な教訓として一度レビューされることをお勧めします。
横浜ドリームランド、開園当初の方向は正しかったと思います。(ディズニーランドコピーの是非は別ですが)遊園地やボウリング場、スケート場、ショッピングモール、映画館そして高級ホテルを備えたレジャー施設でした。
決定的失敗要因は、モノレールの欠陥による運転休止につきます。というより、送客設計の甘さです。原宿のボトルネックを軽くみたことが全ての運命を決定づけました。
車社会が急速に発展する中、国道一号線原宿交差点付近は神奈川有数のボトルネックと当時も認識されていました。原宿はXポイント、つまり二方向から車が集中し、二方向に分かれるネック部分にあたっていました。横浜新道と一般国道が合流する「戸塚」と、湘南地方と藤沢市内に分かれる「俣野」の根元に原宿が位置していたからです。
最寄り駅「大船」からバスで土日は一時間かかることもありました。当初のモノレール計画では8分を予定していました。この差は決定的でした。
現在、原宿交差点立体化は実現しましたが、周辺の道路計画は遅々として進んでいません。
一つ、横浜ドリームランドが残した価値ある遺産があります。ホテルエンパイヤの建築です。当時68mの高さを誇る高層ホテルは画期的でした。しかも現在、現役で活躍しています。
1962年8月に高さ規制が解かれたものの施主が二の足を踏んでいた頃、高層ビルの設計はゼネコン各社が是非手がけてみたい事例でした。外観を五重塔のようにしたい、という施主のリクエストに対し設計者は構造も五重塔にヒントを得ます。この経験値が現在の高層建築に役立っていることはいうまでもありません。

1968年に完成した世界を日本を驚かせた「霞ヶ関ビル」36階の設計にこのホテルエンパイヤ(地上21階、地下2階)完成が大きな自信を与えました。
※旧横浜ドリームランドは横浜薬科大学になっています。
http://www.hamayaku.jp