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【占領の風景】関外飛行場
2009年ごろ「空港の街」という飛行場サイトもできていましたがマイナーでした。このタイトルはいささかオーバーだとは思いますが、意外性からも面白い内容になっています。ただ情報量としては残念無念、少なすぎます。さらなる継続を期待したのですが。
(URLは文末に掲載)

1945年(昭和20年)9月、終戦直後接収が始まったと同時に米軍は横浜の繁華街に飛行場を整備します。
カナコロ「戦災復興の記憶〈8〉飛行場」
https://www.kanaloco.jp/article/entry-64012.html
ここに貴重な写真が掲載されています。1950年(昭和25年)ごろに撮影されたものとあり、接収解除は二年後の1952年でした。
この写真から接収当時の様子が良く判ります。飛行場脇に被災し関外がほぼ焦土化した伊勢佐木4丁目から5丁目のバラックが建っている風景が確認できます。 今回、この神奈川新聞は何故この時期に「飛行場」敷地を撮影したのだろう?と思い巡らしていたところ
そういえば、
当「XY通信」でも初期に取り上げたことを思い出してみると
「暦で語る今日の横浜【9月10日】市長と飛行場」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=75
で後半ちょっと紹介していました。
これも1950年(昭和25年)9月10日の新聞記事から辿ったものです。
偶然にも1950年
「“伊勢佐木町飛行場”跡広場で横浜の「港湾勤労者スポーツ大会」開催。」の記事から手繰り寄せたものですが、
この時期には飛行場跡地が地元に開放され、地域のイベントが開催されていたことが判ります。
実質飛行場機能は「間門」の海岸線に移設されました。

ここに紹介する風景は、この若葉町飛行場整備中のものと思われます。右手に勤労動員なのか、多くの人が集まっています。
飛行機も確認できます。
1948年(昭和23年)修正の1万分の1地図と比較しても、まだ周辺が未整備状況を確認できます。
地図情報や接収資料からこの写真は1945年秋から1947年(昭和22年)
ごろと推測しました。

横浜市内にはかつて航空機離発着に関係する施設がいくつかありました。他の横浜市内飛行場に関して簡単に紹介します。
<富岡水上飛行場>
現在金沢区にある富岡総合公園一帯周辺に横浜海軍航空隊の施設が整備されていたもので飛行艇の(海を使った)離発着が行われていましたが滑走路は無かったようです。
1936年(昭和11年)に開設され終戦まで使用されました。
その後接収、解除という歴史をたどり、公園や警察・民間施設となっています。
広さ:約21,9200平方m <大日本航空横浜水上飛行場>
ここも富岡同様飛行艇用の施設がありました。戦前には南方(パラオ)への定期便も運行されていた時期もあり、戦後米軍に接収、解除という歴史を歩みました。
所在地:磯子区鳳町あたりから中区千鳥町
(当時は、横浜市八幡町海岸)
195,162平方m
1945年(昭和20年)9月25日〜
1955年(昭和30年)3月11日接収開始1960年(昭和35年)6月30日接収完了。

発動機4基、翼長40メートル、「綾波」「磯波」「黒潮」「白雲」など海や空にちなんだ愛称の優美な巨人機で、サイパンまで10時間、パラオまではさらに7時間かかりました。客席は18あり運賃はサイパンまで235円で東京・大阪間の7倍でした。戦時中は人員と機材すべてが海軍に徴用され南方の島々との連絡や人員・物資の輸送の任務にあたりました。
昭和17年には世界最優秀機の名も高い2式大艇 が登場しましたが、全備重量24.5トンの日本最大の新鋭機で乗員以外に26~64人も収容でき、離着水時には家々の屋根をかすめて轟音を響かせました。
97式大艇の最終飛行は終戦後昭和20年(1945)9月の台湾向け紙幣の輸送で、2式大艇は同じ年11月にアメリカへ試験機として引き渡すため香川県の託間基地からここに飛来したのが最後です。
根岸には飛行艇の乗員や空港関係者が大勢下宿し子供たちに南方の珍しい果物の味を運んでくれました。鳳町の名は巨大な翼にちなみ未来に羽ばたくようにという意味でつけられたそうです。 」
※中区史 <間門飛行場>
前述の関外若葉町にあった軽飛行場が海岸線に移設され一時期飛行場として開設されました。 関連サイト
「空港の街」
http://isezakiwakaba.hama1.jp/e28216.html
第968話【絵葉書の風景】お三の宮

まもなく1000話になりますが、お三の宮はうっかり紹介していませんでした。
昔のお三ノ宮付近の絵葉書・地図を少し紹介しながら
「関外総鎮守お三の宮日枝神社」に触れます。
多くの方は「お三の宮」と略して呼んでいます。
関外総鎮守の名からわかるように
横浜関外地区=吉田新田域の鎮守様です。
約360年前、江戸の木材・石材商の吉田勘兵衛が、深い入り海部分を干拓する願いを幕府に出し、新田事業に成功します。この「吉田新田」の鎮守(守り神)として、寛文十三年 (1673年)に建てられたのが「関外総鎮守お三の宮日枝神社」です。
なぜ「お三の宮」なのかは諸説あります。
(1)お三の宮の旧社名である「山王社」が転詑して、「山王(さんのう)の宮」から「おさんのうのみや」「お三の宮」になった。
(2)お三の宮は江戸赤坂の山王社からの勧請で、日吉大社→東京赤坂の日枝神社→お三の宮、と三番目にあたる。
(3)江戸の山王社は、近江日吉山王二十一社の中の、大宮・ニノ宮・三ノ宮であるから、お三ノ宮もその分霊を祀ったので。
以上は「山王」に関係するもの。
(4)明治初期の古地図には、お三の宮の位置に、「お産の宮」と当て字をしたものもあり、お産の信仰があったのではないか。
(5)古田新田埋立ての際の人柱「おさん」を祀ったので。
(4)(5)は庶民信仰の中から呼ばれるようになったようです。
定説となりそうなのは「山王社」の<さんのう>→<おさんのう>
このあたりではないでしょうか。

日枝神社には<池>がありました。
明治から大正時代の地図をみると日枝神社裏には大きな池がありました。
現在はどうなっているか?
吉野町市民プラザになっています。



日枝神社は古くから猿が神様の使い「神猿(まさる)」信仰がありました。
中世から近世にかけて山王信仰のなかでサルは神の使いとしての役割を担うとされ、
外部からの侵入を排除して村内を守る役割や、音から難がサル、「神猿(まさる)」は勝るに繋がるとして縁起物となりました。




日枝神社周辺の風景


第878話【時折今日の横浜】3月26日
三渓園
1954年(昭和29年)の今日
現在、多くの市民に愛されている三渓園が“市民公園”として開園しました。
桜の季節に合わせての開園でしょう。
本牧にある三渓園は、横浜を代表する実業家であった原富太郎(原 三渓)が明治時代に作った自宅を兼ねた庭園です。
1906年(明治39年)5月1日には自宅でありながらその多くを市民に公開、戦前の横浜名所として賑わいました。
彼は多くの芸術家を支援、当時の鈍翁(益田孝)と並ぶ日本美術コレクターでもありました。
横浜が歩んだ悲劇の歴史を三渓園も受け、関東大震災と横浜大空襲で多くの建造物と美術品を失い戦後、原コレクションも散逸してしいます。
オーナーであった原家は、苦渋の売却を決意しますが開発事業者ではなく横浜市に活用を委ねます。三渓園の保全に積極的だった平沼亮三が横浜市長に当選したことで、三渓園の財団化が積極的に進められます。
1953年(昭和28年)に「財団法人三溪園保勝会」が設立され、本格的な再整備が始まり、1954年(昭和29年)の今日 開園し現在に至ります。
三渓園をめぐる関連ブログ
No.280 10月6日(土)天心と三渓
No.171 6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け
【横浜 三溪園】
www.sankeien.or.jp/
「三溪園は、横浜市中区にある庭園。17.5haの敷地に17棟の日本建築が配置されている。実業家で茶人の原富太郎によって1906年に造園され、現在は公益財団法人三溪園保勝会が運営している。名称の三溪園は原の号である三溪から。2006年11月17日に国の名勝に指定された。」
<三渓園の風景>
第865話 【絵葉書の風景】<開戦前夜の伊勢佐木?>
[横濱名勝]伊勢佐木町通りの夜景
Night view of the Isezaki street,amuzement centre,
..(The famous place of Yokohama)
■撮影場所
横濱最大の繁華街だったイセザキの夜景。
一番手前の伊勢ビルからオデヲンまでがベタに写っている。
カメラの位置は 松屋屋上かと考えたがもう少し手前馬車道入口あたりから
望遠で撮影されたものと思われる。
下の風景、中央奥のビルから撮られたのではないか?
■撮影時期
昭和8年〜10年頃か
時刻は 不明
横浜市が震災復興事業が正式に完了し、伊勢佐木が戦前最も輝いていた時期。
■絵葉書の風景
遠くにオデヲン。さらに奥にはネオンサインで「レートクレーム」がはっきり見える。
「レートクレーム」は東京に本社を置いた平尾賛平商店の看板商品で1954年(昭和29年)に廃業するまで「レート」ブランドで国内を始め、中国大陸でも事業を拡げた。
ちなみに「レート」ブランドの最大ライバルは「クラブ」ブランド。
「東のレート、西のクラブ」と言われ化粧品メーカーの2大ブランドだった。
オデヲンの屋上にはビクターの看板が見える。
この日本ビクター蓄音機株式会社(現在のJVC)は横浜に縁の深い企業だ。
<入口左手>
高級果実万太(MANTAFRUITS)
柳屋小間物店 小間物とキリ
玉木屋洋服店
名物●●→博雅亭(名物 シューマイ)ではないか?
有隣堂では「古本市」が開催されている
かすかに天賞堂
(サロン)店名不明
<入口右手>
伊勢ビルには
大きな地球儀を模した球体に<キネマ石鹸><キネマ黒砂糖石鹸>の看板が見える。
その下には「キリンビアホール」の看板が。
●●新聞→読売新聞か?
美容院
パーマネントウェーブ
フィンガーウェーブ
(都屋)の洋傘
写真部
高島屋●● ストア
戦後横浜駅に進出する前、伊勢佐木に店舗を持っていた。
洋食・すしの看板(三好野食堂か?)
野澤屋百貨店
寿百貨店
ジャズ●●
→オデヲンに近いので 喜楽座か?
といった風景の読取りができたが、詳細判読は難しい。
戦災で多くを失い戦後は長い接収を受け、現在の横浜駅西口開発と共に
イセザキはその中心地としての賑わいを失う。
市電を失った後、イセザキの商店主達が再結集しモール化など新しい商店街づくりに奔走。
現在のイセザキがある。
第830話 6月24日は美空ひばり命日
1989年(平成元年)6月24日の
美空ひばりが亡くなった日です。
彼女は 我が国女性として初めて国民栄誉賞を贈られました。
No4 1月4日(水) 昭和の歌姫
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=619
ちょっと一覧化してみました。題して
【横浜と美空ひばりの歌】
※関係あるんだろうな? レベルのリストです。
抜けもあるかもしれませんのでご了承ください。
気楽に始めましたが 結構時間がかかってしまいました。
◎1949年(昭和24年)
「河童ブギウギ」松竹「踊る龍宮城」挿入歌
※竜宮城→浦島伝説からムリムリ
◎1949年(昭和24年)
「悲しき口笛」作詞:藤浦 洸 作曲:万城目 正
◎1954年(昭和29年)
「ひばりのマドロスさん」作詞:石本 美由起 作曲・編曲:上原 げんと
※石本 美由起さんは横浜の方で、横浜をイメージする作詞も多い方です。
神奈川区の歌も作詞されています。ちなみに歌は 由紀さおりさん。
◎1955年(昭和30年)
「あの日の船はもう来ない」作詞:西沢 爽 作曲・編曲:上原 げんと
◎1956年(昭和31年)
「港は別れてゆくところ」作詞:西沢 爽 作曲:船村 徹
◎1956年(昭和31年)
「君はマドロス海つばめ」作詞:石本 美由起 作曲・編曲:上原 げんと
◎1957年(昭和32年)
「みなと踊り」作詞:星野哲郎(補作詩石本美由起)作曲:船村 徹
※横浜市/産経時事新聞社選定「横浜の歌」
◎1957年(昭和32年)
「浜っ子マドロス」作詞:星野哲郎(補作詩石本美由起)作曲:船村 徹
※横浜市/産経時事新聞社選定「横浜の歌」
→この産経時事新聞社選定「横浜の歌」は未確認です。追って調べてみます。
◎1957年(昭和32年)
「港町さようなら」作詞:水島 哲 作曲:万城目正 編曲:若木みのる◎1958年(昭和33年)
「ご機嫌ようマドロスさん」作詞:西沢 爽 作曲:船村 徹
◎1958年(昭和33年)
「白いランチで十四ノット」作詞:石本美由起 作曲:万城目 正
◎1958年(昭和33年)
「風に唄えば」作詞:石本美由起 作曲:万城目 正(B面)
◎1960年(昭和35年)
「アロハの港」作詞:三木嘉平 作曲:古賀政男
◎1960年(昭和35年)
「ひばりの船長さん」作詞:石本美由起 作曲・編曲:船村 徹
◎1960年(昭和35年)
「哀愁波止場」作詞:星野 哲郎 作曲・編曲:船村 徹
◎1960年(昭和35年)
「初恋マドロス」作詞:西沢 爽 作曲:遠藤 実
◎1960年(昭和36年)
「ヨコハマ物語」作詞:西沢 爽 作曲:遠藤 実
◎1963年(昭和38年)
「港は涙のすてどころ」作詞:石本美由起 作曲・編曲:上原げんと
※ジャケットは柳沢良平?
◎1964年(昭和39年)
「港は心のふるさと」作詞:三浦康照 作曲:船村 徹
◎1964年(昭和39年)
「お久し振りネマドロスさん」作詞:三浦康照 作曲:船村 徹
◎1967年(昭和42年)
「あの人の…」作詞・永六輔 作曲・中村八大
これは注目です。
美空ひばり オフィシャルウェブサイトには見当たりませんでした。
探し方が悪いのかもしれません。
https://www.youtube.com/watch?v=uxbmVCAuOAM
ユーチューブは 著作権上 削除される可能性が高いので
確認したい方は 早めに!!!
※追って調べました。
アルバム「歌は我が命~美空ひばり芸能生活20周年記念」に収録。
シングルでは発売されていません。残念です。
◎1967年(昭和42年)
「港のむせび泣き」作詞:三浦 康照 作曲:山本 丈晴
◎1969年(昭和44年)
「星くずの港」作詞:吉岡 治 作曲:下川博省 編曲:河村 利夫
◎1970年(昭和45年)
「港が見える丘」アルバム
◎1972年(昭和47年)
「ひばり仁義」作詞:石本 美由起 作曲:市川 昭介
◎1977年(昭和52年)
「港町十三番地」作詞:石本 美由起 作曲・編曲:上原 げんと
◎1986年(昭和52年)
「恋港」作詞:志賀 貢 作曲:岡 千秋 編曲:斉藤 恒夫
◎1999年(平成11年)
「元禄港歌」作詞:秋元 松代 作曲:猪俣 公章
※1905年録音
No.176 6月24日(日) 関内の粋といやーー、ね。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=432
関内を代表する割烹料亭「千登世」が
1881年(明治14年)6月24日(金)の今日、
住吉町6丁目79番地に開業しました。
第821話 1989年(平成元年)6月16日ドーム復元工事
1989年(平成元年)6月16日の今日
開港記念会館ドーム屋根の復元工事が完成した日です。
「横浜市開港記念会館(ジャックの塔)」は横浜三塔の一つです。
この横浜三塔は様々なシーンで取り上げていますので今日はジャックのドームに絞ります。
横浜市開港記念会館は
辰野式フリークラシックとよばれる様式で横浜の近代建築を代表するシンボルです。
竣工は1917年(大正6年)当時の名称は「開港記念横浜会館」
前身は「町会所」でその後「横浜貿易商組合会館」となり「横浜会館」に変更。
「横浜会館」は当時の商人たち(現在の横浜商工会議所)の<シンボル>でもありましたが明治39年に焼失してしまいます。
開港50周年をキッカケに再建計画が起こり大正3年9月に起工、同6年6月に竣工します。その後
関東大震災で大被害を受けほぼ焼失してしまい改めて再建計画が持ち上がります。
関係者は<復活・復元>を選びます。 1927年(昭和2年)震災復旧(復元)工事が竣工します。
理由は未確認ですが
この時、ドーム屋根は復元されないまま1980年代まで時が流れます。
1959年(昭和34年)に「横浜市開港記念会館」と名称を変更し、
ほとんどの人が<ドームのない>開港記念会館しか知らなくなってしまいました。
ところが
偶然、
1985年(昭和60年)横浜市内で創建時の設計図が発見されます。
当時の基本構造設計は福田重義、山田七五郎、佐藤四郎
施工が清水組(現在の清水建設)
この設計図を元に<市制100周年><横浜博覧会YES89>に合わせ
1989年(平成元年)6月16日の今日
竣工当時のドーム屋根等が復元されます。
「開港記念会館」は横浜市内に残る復活の象徴となりました。
この年、国の重要文化財指定を受けます。
2001年(平成13年)に一部補修、さらに復元し再開館、現在に至ります。
No.375 1月9日(水)残した大正の財産
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=208
※実は初代「開港記念会館」建設に際し<小さな謎>を発見しました。
この謎に関しては別立てで中間報告します。
【謎解き横浜】弁慶の釣り鐘は何処に?(2015年6月16日アップ)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7575
その他の6月16日
1870年(明治3年)6月16日の今日
「英国公使パークス、外務大輔・寺島宗則、神奈川県知事・井関盛艮会談。「新規波戸場取設」を提案。(開港資料館)」
開港時から殆ど変わらない港湾施設では困る!と築港を促す要求が英国から神奈川県に出されます。
(過去の6月16日)
No.168 6月16日(土) 6月のカナチュウ(加筆修正版)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=441
【記念式典】横浜、金のシャチホコ
ここに一枚のお城の写真があります。
城郭ツウであれば<金の鯱>がトレードマークの「名古屋城」らしい?と推理されたかもしれません。
この名古屋城は、横浜市の復興イベントのために建てられた<フェイク>ハリボテです。
場所は山下公園、時は1935年(昭和10年)の出来事です。
(復興記念横浜大博覧会) 『復興記念横浜大博覧会』が1935年(昭和10年)3月26日から5月24日まで山下公園を中心に開催されました。
1923年(大正12年)に起こった<関東大震災>から立ち直った横浜市を国内外にアピールするために横浜市が復興記念と謳い実施されたものです。
メイン会場となった『山下公園』は、震災復興のシンボル的存在でした。 山下公園と通りを挟んだ山下地区約10万平方メートルを会場にして開催され来場者は、のべ3,299,000人に達し横浜市内で開催された戦前最大のイベントとなりました。
※乃村工芸の博覧会データベースによれば
「大正12年の関東大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、山下公園約10万平方メートルを会場に開催した。風光の明媚と情緒随一の山下公園には、1号館から5号館まで各県と団体が出展、付設館として近代科学館、復興館、開港記念館のほか、正面に飛行機と戦車を描いた陸軍館と、1万トン級の巡洋艦を模した海軍国防館が作られ、館内に近代戦のパノラマがつくられ、戦時色の濃い内容であった。特設館は神奈川館のほか満州、台湾、朝鮮などが出展。娯楽施設は真珠採りの海女館、水族館、子供の国などがあり、外国余興場ではアメリカン・ロデオは、カーボーイの馬の曲乗りと投げ縄や、オートバイサーカスなどの妙技を見せ喝采を浴びた。この博覧会は百万円博といわれた。」とあります。
最初に登場した<名古屋城>はこの『復興記念横浜大博覧会』山下公園会場の大さん橋寄りに設置されました。ここに登場した<地方館>は、
地元神奈川館、北海道館、東京館、奈良館、(静岡茶)。統治下にあった台湾館、朝鮮館でした。
全体を通して、特徴的なのは<海>に関するテーマ館が目立つことです。
海女館、水族館、海洋発展館、ウォーターシュート、そして特に際立っているのが戦後貨客船「氷川丸」が係留されたあたりに設置された「生鯨館」でしょう。 山下公園先の海を囲って鯨を泳がせたようですが、飼育環境が悪かったのかすぐに死んでしまったそうです。現在なら保護団体から厳重な抗議がきたことでしょう。
さらには、かつて仏蘭西波止場(下図 東波止場)だった汐だまりを活かした池には<水上遊戯>施設と『蟹罐』という名の謎の水上施設が記載されています。
『復興記念横浜大博覧会』開催内容を絵図や記念絵葉書を元に探ってみるといろいろ興味深いことがわかってきます。
(記憶)
現在も残っている当時の施設は「ホテルニューグランド」だけです。一部モニュメントが残されているのが「産業貿易センター」前の香港上海銀行と、イギリス系海運・貿易商社バターフィールド&スワイヤ商会の事務所だった建物の一部を保全した「創価学会戸田平和記念館」です。公園内には震災復興に関する記憶は殆どありません。
この山下公園が震災復興のシンボルだった?ことを改めて思い起こす空間にする必要があると感じています。
(山下公園)
メイン会場となった山下公園は、
関東大震災の復興事業として1930年(昭和5年)3月15日に誕生しました。面積は 74,121m²あり現在も多くの利用者で賑わっています。完成以来、湾岸の工業化に伴い殆どの海岸線が工場用地、埠頭用地となる中、公園機能が残された横浜の貴重な臨海施設です。
戦後一時期、米軍の接収地となりオーシャンビューの住宅が建ち並んだ時もあります。
No.181 6月29日(金) オーシャンビューの35棟解体
■1935年の出来事をピックアップ
2月18日
菊池武夫が貴族院で美濃部達吉の天皇機関説を反国体的と糾弾
3月7日
村山助役再選を決定 日吉・富岡の一部地域へのガス供給案可決 私営バス強制買収に関する意見書を関係行政庁に提出する建議可決
●皇紀2600年記念オリンピック大会招致に関する意見書を市長に提出する建議可決
3月16日
アドルフ・ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄し、ナチス・ドイツの再軍備を宣言
3月20日
復興博浜踊り発表会が野沢屋で開催された
復興記念横浜大博覧会開催
3月26日
西条八十作詞杵屋佐吉作曲「はまちどり」が発表
4月1日
横浜宝塚劇場が住吉町に開館した
4月4日
日中両国の経済状態視察などを目的とした米極東産業視察団の一二人、横浜に到着。
4月6日
満洲国皇帝溥儀が来日。靖国神社参拝
4月7日
美濃部達吉が天皇機関説のため不敬罪で告発される
4月9日
美濃部達吉の「憲法概要」など著書3冊が発禁となるも買手殺到し書店で売切れ
4月14日
太平洋最大の豪華客船エンプレス・オブ・ブリテン号、五百余人の観光客を乗せて横浜へ入港。
8月12日
永田鉄山暗殺事件(相沢事件)
9月15日
ナチス・ドイツにおいてニュルンベルク法制定(ユダヤ人公民権停止・ドイツ人との通婚禁止)
9月15日
ハーケンクロイツ旗が正式にドイツの国旗とされる。
12月9日
第二次ロンドン海軍軍縮会議開催
歴史の点と線(真鶴・横浜)
今日のテーマですが タイトル通り
<歴史の点と線>を結んでみました。
1930年(昭和5年)7月25日
「上大岡にある西福寺(曹洞宗)の移転建立が完成(横浜歴史年表)」
所在地は横浜市港南区上大岡東1-38-19
一度前を通ったことがありましたが、写真は撮っていないので今度行ってみます。この「西福寺」お寺のサイトや港南区史・真鶴町史によると
もとは真鶴にあったお寺で、小田原市早川の「海蔵寺」の末寺、山号を「東向山」と称していました。了峯印達により文禄元年(1592年)創建されました。
※「西岸清光庵主」説もあります。
関東大震災で震源地に近かったため、損害が大きく檀家を持たなかったこの寺は再建を断念します。縁あって、上大岡に新寺建立の際、「西福寺」を移転することとなりました。
「地主の北見家の協力をいただき、昭和四年に寺籍譲り受けの許可も下り、移転の功労者「原田久吉翁」の号「二楽」を山号にいただき、新たに名前を「二楽山 西福寺」と改め、新生西福寺としてこの地で再出発しました。
そのご功績を讃え、松喜和尚は「西福寺中興開山」として原田久吉翁は「西福寺中興開基」として、永代にお奉りさせていただいております。(上大岡西福寺)」
ということで、真鶴と横浜の<縁>を少し紹介します。
(真鶴)
皆さんは真鶴半島をご存知ですか?
東海道本線で横浜から下り線で約1時間、相模湾の西南端に位置しています。
「「真鶴」は、神奈川県の西部にある小さな半島の町です。
古くから上質の石材とされる小松石の産地でもあり、江戸城の石垣、皇族の墓石としても有名です。
半島の先端、真鶴岬では景勝、三ツ石(三つ岩)を望めます。
また、半島全体は樹齢350年以上の黒松の林(御林)があり、魚付き保安林として漁師の方に守られています。半島全体は県立真鶴半島自然公園に指定されています。」
いくつかの町村がまとまり現在の湯河原町、真鶴町が形成されています。
「真鶴は、古くより漁業と石材が盛んに行われてきました。
漁業は魚つき保安林のおかげで良質なプランクトンが発生し、木々の影が魚を休ませるなど、魚にとってはストレスフリーな環境です。
石材は「本小松石」という銘石が採掘され、高級墓石として知られています。」(真鶴観光協会)
真鶴半島近隣では江戸時代から良質の安山岩を産出し、積出港としても栄えました。江戸城にも多く使われ、幕末には江戸湾の海防対策のために護岸や台場建設に用いられます。
(横浜と真鶴)
横浜が他の町にどのような影響を与えたのか?横浜市民は多くを学びません。
どちらかというと影響を受けたこと、それを受入れたことが語られています。
幕末から横浜が開港場として急成長する中、この発展に伴い功罪含め横浜は近隣都市、神奈川全域、そして全国にその影響も大きかった視点で歴史を考えてみることも大切でしょう。
真鶴町も幕末から<横浜>の影響を大きく受けました。神奈川台場や、1859年(安政6年)の開港に間に合わせるために突貫工事で開港場を完成させる際、真鶴の小松石を発注している記録が残っています。
また、みなとみらいで人気のドックヤードガーデン、横浜船渠(後の三菱重工業横浜造船所)第2号ドックの建設にも真鶴の石が大量に使われています。
前掲の神奈川県のマップから、東京湾・相模湾を眺めると、三浦港と真鶴港は沿岸航路の重要な位置にあることがわかります。
農耕地の少ないこの地域にとって、漁業と石材業は産業の根幹でした。この二大産業は皮肉にも当時鉄道のない時代には海を巡って利害が対立し、このエリアの歴史にも様々な闘争史を刻んでいます。
石材需要は時代の影響を大きく受けます。江戸時代に近隣の築城や改修計画は少なく石需要は減ります。開港期に一気に延びた需要も幕末の動乱期には一気に需要が落ちるなど景気の浮き沈みの大きい産業でした。
明治草創期から殖産興業の影響で、新設の工部省はこのあたりの石を<国管理>に指定します。横須賀製鉄所(横須賀造船所)、燈台、前述の横浜造船所等々用に使われることになり、真鶴は好景気となりました。
ところが、間もなく需要の国管理が解かれ<自由化>が訪れ生産現場は荒廃します。乱開発のため、石山のインフラが荒れ、積み出しにも影響が出ます。
真鶴一帯の石供給に陰りが出て、不景気が訪れます。そして次なる山は、鉄道建設ラッシュでした。横浜・品川間の鉄道敷設にも真鶴地方の石が使われます。
また、近代建築にも小松石が多く使用され<東京帝国大学>等に小松石が使われた記録があります。
大正時代には東京湾岸の河川・軍事施設等の整備計画に真鶴近辺の石が大量に使われ需要が高まります。
このようにジェットコースターのような石材需要の歴史の中で、漁業とミカン栽培なども景気の波を受けていきました。
(横浜商人)
真鶴の歴史に登場する横浜の実業家達は
浅野 総一郎(埋立)、朝田 又七(廻船)、雨宮敬次郎(鉄道)他
石を必要とする実業家たちも真鶴の資産に着目します。
その後、鉄道網の整備により保養地として湯河原・真鶴が着目され、東京は勿論 横浜の実業たちも温泉付き別荘計画に強い関心を寄せます。
真鶴と横浜を繋いだのは廻船、その後の鉄道でした。
現在真鶴駅前に初期の鉄道敷設を記念した「豆相人車鉄道歴史街道」の碑が建っています。
大正期、真鶴地域のミカンの多くが横浜港からカナダ、アメリカ、大連等に輸出され好景気に沸いた時代もありました。
この真鶴と横浜を繋いでいた<石>を運んだのが船です。この廻船業が真鶴の経済を支えて来ました。
天然の良港が古くから真鶴を支え、その安全祈願として国指定重要無形民俗文化財である貴重な日本三大「船祭」が行われます。
【真鶴貴船まつり 】
毎年 7月27日・7月28日に開催されます。
図書館設置問題と水源林買収
今日は横浜資料からたまたま出会った史実を紹介します。
(掃部山公園)
横浜市史5巻目第二章「第一次世界大戦下の市政」第二節に
「図書館設置問題と水源林買収」という項目が書かれています。
読んでも2ページ程度なので全て引用しても良いのですが、前振りも含めて少し編集してみました。
第二節のタイトルは「遅々たる公共施設の整備」
ここでは横浜史の中で明治末期から大正初期について触れています。
横浜は開港50周年の記念行事も行い交易も盛んな大都市になった割にインフラを含め公共設備がなっとらん!と市議会で問題提起されます。
大正3年には「開港記念横浜会館」の建設が始まります。
当時
「一つの公会堂なく一つの図書館なし」と揶揄された横浜市は、まあ経済優先だったのでしょう。港湾施設は国のお金で大きく整備されてきましたが、市内を見回すと<ろくなものがない>という状態、文化施設不毛の町でした。様々な文化施設の計画が無かったわけではありません。市議会での議論がまとまらなかったのです。
例えば「商品陳列館」(現在のコンベンション・トレードセンター?)の建設計画も紛糾し先送りとなります。<市会>は明治以来<商人派><地主派>の系譜が二大勢力となって対立状況がありました。
同じく市民力のバロメータである「図書館」建設も明治期からの懸案事項でした。
ライバル神戸市は明治44年に規模は小さいですが本の閲覧を始めていました。その後、本格的な図書館が大正10年に開設されます。横浜市立図書館、そして大阪市立図書館も、大正10年に<横浜公園仮設閲覧所>が開設されます。
といっても戦後制定された<図書館法>による公共図書館の体裁はあまり整っておらず、本格的な開館は戦後を待ちます。
大正10年に図書館が開館した背景には「公立図書館職員令(同年勅令336号)」があるのかもしれません。
この辺詳しくないので勅令のタイミングだけ記しておきます。
※水源林確保のテーマは 横浜水道史のキモ!なので別立てで紹介します。
大正3年に彦根の井伊家から「掃部山」一帯4,233坪を横浜市に寄付するという申し入れが“正式に”あります。この広大なしかも整備された公園空間を無償で提供した背景は、聞くも涙、語るも涙の井伊家と支援者の努力があったのですが背景は別段で。
この公園、
寄付には条件がついていました。
●未来永劫 公園として使用しすること
●井伊直弼像はそのままにしておくこと※
※これが井伊家の<本望><photo id=”7″ />
●公園にはその他の建造物、井伊像とは関係のない記念物を建てない!
そして ここが肝心、
◎市が開港記念のために図書館を建設することは許す。
しかも 井伊家から2万円を補助するというものでした。
この申し入れをチャンスに図書館を建設しようという考えもだされます。ただ、この井伊掃部頭像を巡っては <開港50年式典>で政界を巻き込んで一悶着があった公園ですから、その後もスムースに掃部山に図書館ができるわけもなく、
横浜市は候補地を北仲にあった宮内省御用地払下げを目論みますが、条件が折り合わず計画は頓挫します。
結局大正10年になって横浜公園の仮設閲覧所を経て、昭和2年にようやく現在の中央図書館が開設されるに至ったのです。
一方、現在の<神奈川県立図書館>は戦後になり<サンフランシスコ講和条約>の記念事業として紅葉丘、掃部山公園に隣接する場所に設置されます。この時の知事は内山岩太郎という“豪腕知事”でした。
井伊家のメッセージに寄り添ったのか判りませんが、マッカーサーがペリーを意識した<講和条約>の記念事業に掃部山脇の図書館というのも歴史の皮肉といえるでしょう。
(大横浜)
横浜に様々な施設が登場するのは昭和に入ってからです。
残念ながら関東大震災後の復興事業によって横浜商工奨励館や横浜中央電話局、本町旭ビル、横浜地方裁判所の他都市中心部の威容は整います。
文化施設も、公園が整備されたのも関東大震災後の復興事業でした。
山下公園、野毛山公園もこの時期に整備されます。
実は 関東大震災後の復興計画で 横浜市の中心部を戸部に置く計画もありました。
市域を拡大し、市としても拡大していく上で、中心をどこに置くか?
今回市役所の移転で、少し市の軸がまた北に移動しますね。
ちょっと暴言になりますが、横浜の原点は<野毛・吉田橋>にあるんじゃないか?
と時々思うようになりました。<photo id=”3″ />
この辺に関しては 改めて。
最近横浜もビアガーデンが復活しているらしいので 飲みに行きますか!!
(過去の7月29日ブログ)
No.211 7月29日 (日)株式会社横浜国際平和会議場
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=396
1991年(平成3年)7月29日の今日、
横浜みなとみらいに通称“パシフィコ横浜”
「会議センター」と「ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル」が完成しました。運営会社の正式名称は「株式会社横浜国際平和会議場」です。
これに伴い
1991年(平成3年)7月29日
「市営バス141系統<横浜駅前〜パシフィコ横浜〜桜木町駅前間>運転開始(横浜市営交通八十年史)」します。
【市電ニュースの風景】1931年 №20
目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。1931年(昭和6年)5月
十四・五・六日 伊勢山皇大神宮大祭(電車 紅葉坂・野毛坂又は戸部一丁目下車
バス紅葉坂下車)
十五日 『郵船』浅間丸入港(ホノルルより午前中四号岸壁へ)
十五日 弘法大師誕生会ならびに詠歌大会(電車及バス本町一丁目下車)
=午前十一時より本町開港記念会館にてー入場無料=
十五日より十八日まで
第四回掃部山バザー(電車 紅葉坂・野毛坂又は戸部一丁目下車
バス紅葉坂又は雪見橋下車)
=マネキン劇場支那獅子舞其他余興沢山=
十六日 名古屋高商對横濱高商野球戦(午后三時横濱公園球場にて)
十六日 基督教婦人講演会 入場無料(午后二時尾上町指路教会にて)
十六・七日 神奈川金毘羅神社大祭(電車及バス 青木橋下車)
十六・七日 横濱専門学校記念祭(電車 六角橋終点より約四町)
=中等学校陸上競技会、音楽会、野球試合、提灯行列等ー入場無料=
18日シボレー大キャラバン隊(20数台)到着、元横濱駅裏広場で展覧
懸賞標語
「おつと危い左右(当選者 松本藤四郎君)」
※アラビア数字は別の年表から追記したものです。
[キーワード]
■伊勢山皇大神宮
横浜の総鎮守「関東のお伊勢さま」と呼ばれている伊勢山皇大神宮は、開港後現在の場所に遷座されてものです。現在の位置する場所からほど近い戸部村海岸伊勢の森の山上にあった神社を明治初年に国費を以て創建したもので、開港場の総鎮守として明治から今日まで多くの参拝者が訪れます。
No.691 【横浜神社めぐり1】伊勢山皇大神宮
■『郵船』浅間丸
「太平洋の女王」と呼ばれた浅間丸。主に横浜-ホノルル-サンフランシスコ航路に就航し多くの日本人と訪日外国人を運びました。
ロサンゼルスオリンピックに出場した西竹一男
ハリウッドスターのダグラス・フェアバンクス
ヘレン・ケラー
交換船・海軍徴用船となった後
1944年(昭和19年)2月24日に魚雷を受けて損傷しますが沈没は免れます。修復後マニラから高雄へ向けて航行中魚雷が命中し沈没。
■掃部山(かもんやま)
別の機会に詳しく紹介します。
■尾上町指路教会
指路教会は最初の横浜居住地39番から、現在地、太田町、住吉町を経て1892年(明治25年)再び現在地に戻り、ヘボンの尽力により赤レンガの教会堂が建てられました。初代指路教会は
設計:サルダ 1892年(明治25年)竣工
関東大震災で倒壊。現在の建物は大正15年竹中工務店の設計により再建されました。横浜市認定歴史的建造物です。
■神奈川金毘羅神社
大綱金刀比羅神社
「横浜の金刀比羅(こんぴら)さん、大神様の尊き御神徳を知る数多くの会社経営者を始め、船舶関係、農業関係、建築関係、医療関係、民衆に至るまで、十六神の大神様の御神徳を頂ける神社であります。」
旧東海道、神奈川宿台の坂に鎮座、街道の安泰と袖が浦神奈川港に出入りする船は海上安全を祈願した神社です。
■横濱専門学校
神奈川大学の前身の校名。(戦前の歩み)
1928年(昭和3年)
米田吉盛が横浜市中区桜木町に「横浜学院」を開設
現在の西区桜木町6丁目34番地にあった「桜木会館」の1階と2階を借り学校を開校。
同年12月
横浜学院、中区西戸部町富士塚に移転。1929年(昭和4年)
専門学校令により「横濱専門学校」(法学科、商業理財科)を開設
1930年(昭和5年)
六角橋校地(現在の横浜キャンパス(横浜市神奈川区六角橋)へ移転
1939年(昭和14年)
工学系の3学科(機械、電気、工業経営)を新設
1945年(昭和20年)
GHQによって一時的に六角橋校地が接収
大倉山の大倉精神文化研究所と三ツ沢の県立第二横浜中学校(現横浜翠嵐高校)にて授業を再開。