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No.389 横浜の性愛空間

今日は、横浜のラブホについて紹介します。
日本最初のワンルーム・ワンガレージ型ラブホは横浜から始まりました。
“横浜初”のまえに、ラブホの現状について調べてみました。

nnP8021392
ここは鶴見市場のラブホで、横浜初ではありません。

ラブホテルと一般的に表現しますが、
変幻自在、時代や地域によってその名は変わります。
風営法では規定が一応ありますが、私たちはラブホを構造や経営形態では分類していません。
この分野に真正面から民俗学的に研究している第一人者がいます。
“金 益見(きむ いっきょん)”さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/金益見

nnWV260001

彼女はラブホのような空間を「性愛空間」としました。
的確な表現ではありますが、直接的でもありますのでここではラブホとします。
ラブホ的空間は
江戸時代から「出会い茶屋」と呼ばれた商いがありました。
明治に入り「温泉マーク」「逆さクラゲ」
そしてストレートに「連れ込み」の表現で使用される時期が長く続きます。
戦後モータリゼーションの進展から、道路沿線に
モーテル、モテルと呼ばれる空間が登場するようになります。
一方で、駅裏や繁華街の一角に従来の旅館がスタイルを変え
アベックホテル、そしてラブホテルと表現されるようになります。
しばらくラブホ、ラブホテルの時代が続き
 1984年の「風俗営業等取締法」全面改正あたりから
この業界の再編成が始まります。
カップルズホテル、レジャーホテル、ファッションホテル、
ブティックホテル、アミューズメントホテルと新しい呼称に変化していきます。

「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する条例」(いわゆる「風営法」)で、ラブホテルが全面的に規制の対象とされるようになり、年々県単位で条例が成立し新規開業が厳しくなってきています。
(最近ではこの風営法のもとのダンス禁止が議論を呼んでいます)
http://houmu.h-chosonkai.gr.jp/siryoukan/fukusisi%20jissenjyourei%208.htm

(横浜市内では)
横浜市内のラブホ数は?
正確にはわかりませんが、HPから横浜市内のラブホとされている
ホテルをピックアップたところ150ありました。
 ざくっとマップ化してみました。

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■立地
マップから分布特性から分類すると下記の3つに分けることができます。
●高速道路インターチェンジ立地
 東名高速道路「横浜インター」周辺に集中

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※1990年代に一度ラブホのオーナー取材をした経験があります。この時に何故インターチェンジ近くに<ラブホ>が集中しているのですか?と訪ねたところ
「隣町ニーズですね」と迷い無く返答されたことに驚いた記憶があります。インターチェンジ立地は高速道路ですから利用層は遠方からと想像しがちでしたが 圧倒的にご近所ニーズなんだそうです。どうやってご近所と確認したのか?正確に教えてはもらえませんでしたが、どうやら車のナンバーを記録してマーケティングリサーチをしたらしい…。
この他 色々伺いましたが、この話は別チャンネルにしましょう。
も一つ、インターチェンジエリアは出店規制が緩い、風営法上の制限をクリアできるからだという理由もあるようです。

●街道沿線立地
 鎌倉街道沿いに多く立地

●駅裏・繁華街立地
 新横浜駅周辺、横浜駅周辺に集中

■よこはまラブホはじめて物語
1968年(昭和43年)横浜に日本初のモテル型ラブホが登場しました。
横浜新道「国際ゴルフ橋IC」入口にオープンした「モテル京浜」です。
現在は環状二号線が交差する「今井IC」(2001年(平成13年)9月28日開通)になり「ホテルニュー京浜」となっています。

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「国際ゴルフ橋IC」は名門“ゴルフ場”の入口インターチェンジとして横浜新道の開設と同時にオープンしました。
ここに開業した「モテル京浜」は、日本発のカップル型のモテルとして、一世を風靡します。
■オーナーはこの業界の伝説的人物
 中嶋孝司氏
(1924年(大正13年)5月27日加賀市生まれ2003年(平成15年)12月22日に死去)
で、中学校教師、ダンス教師を経てモーテルを経営し風俗研究家、健康評論家そして推理小説家としても「日本推理作家協会」メンバーとして作品を残す多才な事業家でした。
元々、中嶋孝司さんはアメリカ型モーテルであるワンルーム・ワンガレージ型の第一号を導入します。
1963年(昭和38年)地元、石川県にオープンした「モテル北陸」は、一人(シングルルーム)から家族まで多様な宿泊ニーズに応える客室を用意し、長距離のトラック運転手や、当時盛んになりはじめた“自動車旅行”のニーズを見込んでの事業展開だったそうです。
事業は大成功し、行列ができるほどの盛況となりますが、利用者のほとんどがカップルだったことに着目し日本発のカップル型のモテルの開設に踏み切ります。

1968年(昭和43年)7月5日 横浜新道が第三京浜と繋がります。
環状八号線野毛から横浜を結ぶ第三京浜道路との連絡路が開通し、湘南と東京が結ばれることで、ドライブ層が一気に増加します。

No.351 12月16日(日)戸塚踏切をなんとかしろ

中嶋孝司さんの読み通り、切り通しの新道にひときわ目立つ「モテル京浜」はモテルブームの火付け役となり、全国にワンルーム・ワンガレージ型が拡がります。

■警察と住民と
その後、ワンルーム・ワンガレージ型は売春・犯罪の温床にもなりまた住宅環境も悪化することからモテル側と規制の追いかけっこが始まります。
郊外型は、一般街道から姿を消しつつ高速道路のインターチェンジ付近に集まるようになります。
一方で、駅裏・繁華街系も陰のイメージから豪華さや快適さを競うようになります。
「カップルズホテル、レジャーホテル、ファッションホテル、
ブティックホテル、アミューズメントホテル」等など
一時期は、資金回収率の良さからファンドの投資対象にもなりますが、新規開店が厳しくなった現在、既存のラブホの吸収・系列化が進んでいるようです。

No.384 【横浜の商店街】商店街全般を斬る(全般編)

横浜市内には調べたところでは約330の商店街(会)が登録されています。中には「商店連合会」「協同組合」「振興組合」など組織化されているものから、登録だけの名目商店会まで含まれています。

ここにあるビルにも複数の商店街組合があります。

私が実際に利用、ウォッチした商店街を思い出しながら、私流に商店街を幾つかの類型に分類してみたいと考えてみました。

「商店街」分類で一番わかりやすいタイプが
(テナント集積型)です。
例えば
クラブ・〔アット〕商店会
(西区みなとみらいのクイーンズスクエア アット)
ランドマークプラザテナント会
(西区みなとみらいのランドマークプラザまとめて)
といった商店会です。
ランドマークプラザにも商店会があった!って知ってました?
他にも
「横浜シァル商店会」「ジョイナス商店会」「横浜モアーズ専門店会」「ザ・ダイヤモンド商店会」といった大型商業施設のテナント群で構成される商店の集まりがあります。
ここではコメントの対象外とします。

【ここでの定義】
基本的に露面店で構成される「商店街」とします。
Wikiでは「商店街(しょうてんがい)とは、商店が集まっている地区をいう。また、地域の商店主の集まりを指す場合もある。」とありますが、これに加え露面店とします。
※アーケード型、モール型等でも分類できますが 立地形態で分類してみました。これは私の勝手分類です。

【門前町】
古来、寺社の門前を中心に栄えた商店会です。横浜は歴史的に門前都市が少ないので、門前商店街も少数です。
妙蓮寺ニコニコ会 (港北区)
横浜弘明寺商店街(協) (南区)
本牧三渓園通り商栄会 (中区)
※観光施設・公園もそこにつながる門前町型商店街としてとらえています。

(ので、役所の門前も)
西区役所通り中央商店街 も門前町型です。

(微妙な門前商店会)
中華街関帝廟通り会
洪福寺松原商店街(振)

【城下町】
「江戸以前の城郭」を核に拡がった専門性のある商店街があります。現在でも城下町には名前だけ残っているところと、商店が現存しているところがあります。
横浜には中世の城趾が幾つか残っていますが、江戸時代の城がありませんので、城下町型商店街はありません。
ただ、居留地を横浜の“城”とすると居留地城を中心に商店街が拡がっていくという見立てができます。

【宿場町、駅前】

全国共通、駅前・街道筋に発展した商店会で全国の大半が入る分類です。
駅前銀座型商店街
二俣川銀座商店街(振)
ドリーム銀座商店会
芹が谷銀座商店会
瀬谷銀座通商店会
西前銀座商店街(協)
柏葉銀座柏商会
市場銀座商店街
潮田銀座協商会(協)
鶴見銀座商店街(協)
尻手銀座親交会

【クイズです】
横浜中央地下街商店会 ってどこの駅前?にある地下商店街でしょうか?

横浜駅西口にあるザ・ダイヤモンド(旧ダイヤモンド地下街)ではありません。ここにはザ・ダイヤモンド商店会があります。
(最後に答を用意しました)

【駅前】
杉田駅前商店会
本郷台駅前商店会
本郷台駅前アーケード商店街
能見台駅前商店会
反町駅前通り商店街
三ッ境駅前商店振興会
瀬谷駅前サンロード商店会
瀬谷駅前横丁通商店会
たまプラーザ駅前通商店会
山手駅前商和会
日ノ出町駅前商店会
花月園駅前通り花商会
生麦駅前通り商友会
中川駅前商業振興会
和田駅前商店街
(商店街雑景)

質問の答え
所在地は 中区尾上町です。
お判りですか?
マリナード地下街のことです。
株式会社組織で株主は
株式会社大丸松坂屋百貨店→(旧松坂屋)、株式会社奥村組、株式会社竹中工務店、協同組合伊勢佐木町1・2丁目商和会、株式会社有隣堂、株式会社横浜銀行、株式会社大林組、株式会社三井住友銀行、横浜振興株式会社、株式会社三菱東京UFJ銀行 他

No.383 【生麦界隈】横浜史を生麦で体験

約5日間、諸事情で原稿アップを休んでいました。
再スタートします。今日は、この5日間の成果を報告がてら
生麦界隈の散策レポートを贈ります。

nnP1170477
今回は食が中心です?!

横浜市鶴見区生麦(なまむぎ)
横浜市の東海岸?に位置し、東海道の街道沿いに工場と住宅地が連なるエリアです。この界隈、一日ぶらり散策には最高です。
お勧めします!
過去にも紹介していますのでぜひお読み下さい。
【番外編】生麦、旧東海道を歩く

No.234 8月21日(火)パーセプションギャップの悲劇

■今回改めて歩いたルート

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別の地域再発見プログラムに参加しました。(ここでは省略)
このあたりは、かつての「浜」のなごりを追体験できるエリアです。

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■みどころ紹介
鶴見川河口干潟「貝殻浜」
所在地は鶴見区生麦5丁目地先です。
貝殻の川辺が自然公園として保全されています。
※「まちなみ景観部門」で受賞しています。
狭い“猫の額ほど”の保全公園です。
だからこそかつての川の面影が輝いて見えます。
横浜市北東部唯一の干潟で、多くの生き物が生息する貴重な場所です。
一級河川鶴見川の生麦周辺築堤工事の際に、多くの人々が川にふれられるよう、河口干潟を残しました。
この「貝殻浜」が整備されたのは2006年(平成18年)のことです。
第5回横浜・人・まち・デザイン賞で、「まちなみ景観部門」を受賞しました。

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※賢いカモメ
この辺のカモメは人に慣れています。エサをあげる人が多いのでしょう。
足元にある貝殻を空中に撒くと多くのカモメが集まってきますが、皆「様子見」です。判っているようです。

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■まぼろしの橋発見!
鶴見ユタカ橋
竣工は昭和8年1月で数年後に暴風雨で破壊され、再建されませんでした。つい最近まで橋脚を確認できたそうです。

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地元の方の話しでは 有料の橋だったとのこと。
現在のサイエンスフロンティア高校あたりと生麦の「貝殻浜」を結んでいたと推測されます。
昭和4年の地図には当然ですがありません。

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■生麦魚河岸通に行きましょう。
江戸時代の頃は
横浜沖を広く漁場とする漁港だった「生麦」は
明治以降、埋立ての歴史に翻弄されながらも
このエリアで多く水揚げされたノリ・貝・魚の専門店街が残りました。
「生麦魚河岸通」です。

nnP1190639

かつては貝殻の多く混じった砂利道でした。
県内全域から「寿司や」「小料理や」がここにネタ探しに訪れました。
流通の変化で 県央の客筋の激減
チェーン展開による集中仕入で激減した寿司店の仕入れがなくなります。
現在では
かろうじて魚河岸通の雰囲気を残している程度です。
再生は(少なくとも生き残る)最後のチャンスかも知れません。

この短い通りを「生麦貝食貝道」とでもネーミングし
賑わいを取り戻したいものです。
そのためにも!!!
皆さん 足を運んでください。

■納得丼を食べよう

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納得丼(貝とまぐろ)
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若大将
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おかみさん

唯一残った朝飯食堂「生麦」
朝8時半から営業しています。(午後1時から休憩)
夕方5時から夜の部!です。(今度行きますね)
横浜市鶴見区生麦5丁目23-9
045-501-0467
刺身定食、生麦丼、納得丼他多数メニューがあります。
とにかく みそ汁が 美味いの一言。
このみそ汁をいただくことに価値ありです。

ごちそうさまでした。

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【番外編】 1月17日(木)横浜は坂ばかり

横浜の特徴は起伏に富んだ地形にあります。
谷戸の多い町だからこそ、丘があり緑が感じられますが、
結果、坂が多いんですね。
今日は 横浜の坂についてちょっと紹介。

急坂(西区)

(横浜で一番有名な坂)
横浜で全国に知れ渡っている坂は?
権太坂です。毎年テレビでも放映されています。
そう、お正月の箱根駅伝です。
箱根駅伝の正式名称は?
「東京箱根間往復大学駅伝競走」といいます。
1920年(大正9年)に始まったこの駅伝の名物区間が、
ごぼう抜きや大ブレーキが頻繁に起こる区間として有名になりました。
現在の「権太坂」は新道ですが、旧東海道の勾配度は半端じゃありません。

(名の在る坂は?)
坂の無い町はありません。でも “名前の付いた坂”というのは どこにでもあるというものではありません。坂の何は理由があります。
私がざくっと拾い出しただけでも
250にも及びます。
横浜の坂名一覧の資料があるのかもしれませんが、
力づくで調べたので
推測値では
500は越えるのではないか?と思います。
ご存知の方 教えてください。
市民グラフ・ヨコハマ NO.95には
横浜橋 めぐり坂あるき」特集があります。
がこの号、買ってあったかな。図書館に行かねば。

nnWV230132
見つかりました

(坂名)
保土ケ谷の権太坂に話しを戻します。
ここは日本橋を出発する東海道の街道筋最初の難関です。
道中 行き倒れも多かったようです。
権太坂の名の由来は幾つかあるようですが、
坂を造る時に尽力した藤田権左衛エ門の名からという説と
旅人がここは何と言う坂ですか?と尋ねたら
耳の遠い年寄りが自分の名を伝えたことから
という 微笑ましい由来とが有名です。

私の確認した「坂」を幾つか紹介しましょう。
■くらやみ坂
西区西戸部3丁目〜伊勢町3丁目あたり
※坂道標あり
島田荘司の小説にもなった(らしい)坂です。
■半僧坊坂
西区東ヶ丘坂
※坂道標あり
■フェリス坂(西野坂)
中区山手町にある「階段」です。
正式名称は「西野坂」で通学路から名付けられた坂です。

■ワシン坂
中区山手町
横浜に多いカタカナ坂の一つです。
由来説は多く、和親条約のワシン説、鷲見坂からワシン説(最有力)、ワシン(ウシン)という外国人が住んでいた説、降り際にわき水があり「ワキシミズザカ」が外国人たちの口によって「ワシン坂」となった説などです。

■見尻坂
中区山手町
※考えてみれば変な名ですね。昔男衆は褌に短い着物でしたから
下から尻が見える位急だ!ってことでしょうか。
急な坂だったため、前の人の尻がすぐ眼の先にくる、前の人の尻を見上る坂という意から命名されたという説もあります。

■馬坂
中区根岸台、その名の通り「うまざか」で競馬記念公苑“ポニーセンター”の入口あたり
(まさかの名は 磯子にあります)
■ビア坂
中区山手町と諏訪町・千代崎町1丁目の間
まさにビール発祥の地にふさわしい名です。

■ビール坂
保土ケ谷区桜ヶ丘1丁目〜神戸町
ここにはかつてビール工場があったので命名されました。
かなり急坂です。

■アメリカ坂
中区本牧和田
横浜市立本牧中の横を通る坂です。
本牧散策の時には登ってみましょう。さほど急坂ではありません。

■ハロー坂(愛称)
中区和田〜和田山
由来は米軍が本牧一帯を接収していた頃に付けられたのでしょう。

■水道坂
保土ケ谷区坂本町から川島町と仏向町の間まで
ここは、横浜が相模川水系から取水している水道の道から命名されています。
■紅葉坂
西区紅葉ヶ丘
この紅葉坂の石畳を登った記憶のある方も多いのでは?
残念ながら歴史ある「石畳」は
不評のため改修?されてしまいました。
この坂も物語が多くある坂ですので
チャンスがあれば 物語仕立てで紹介します。

■急坂
西区東ヶ丘
冒頭の写真です。野毛山に続く階段坂です。

No.371 1月5日(土)ノゲ的 (加筆修正)

今日は野毛。
この街は、読むより行くに限ります。

私はまだ野毛を語るには“飲み”が足りないかもしれませんが、
今日は野毛を紹介します。

(アジア人白神義夫さん)
神奈川新聞の名物記者、白神義夫さん。
彼は中華街と野毛のことを良く語っていました。
特に野毛の大通りを「税務署通り」と呼んでいた時代の話には
 熱い語りが止まりませんでした。
「野毛は悔恨の街である」と語り、本にも書いています。
野毛は“変わりつつ、変わらない”人気の定番商品のセオリーみたいな街です。
常連にも、ビギナーにも懐かしさと新鮮さを見つける事ができる街、
「野毛はデラシネの屋台から始まった」と白神さんは語る。
「そこには、米軍さんの匂いもあったけど、変わり身の早い日本という国への反権力の煙が漂っていた…。」

書く命家 平岡正明)
横濱文芸復興「野毛的」を読み返すと、
この街が持っている磁力というか粘着力みたいなものが感じられます。
東京は本郷湯島に生まれた彼が、
横濱に反東京の拠点を見いだしたのが「野毛」の磁力で、90年代に積極的にこの街と関わり、野毛の発信力となりました。
偶然とは恐ろしいもので、
私が初めて“野毛”に近づいたのが高校時代、日ノ出町の「山手英学院」夏期講習に通っていた頃の拉麺屋でした。
→現在も場外馬券場の隣のビルで営業していたことに感動しました。
(2014年末現在 残念ですが閉店して新しいお店になっています)

大学生時代、一冊の本を持ってセンターグリルの階段を登ったのが、野毛の街に侵入した初めての経験でした。

ランチでは無く現在お気に入りのオムライスです。

空いていた窓際の席に陣取り、大盛りのランチを注文し、
伊勢佐木の有隣堂で購入した本を開く。
何時もはカバーをかけない方ですが、今日は
この本の表紙に圧倒され「カバーをお願いします」と言ってしまった
「山口百恵は菩薩である」
知る人ぞ知る、「野毛的」の平岡作品である。

残念ながら、平岡さんは一度パーティの席で遠目にお会いしただけでした。
今、彼は亡くなられましたが、
生まれた街が変わりゆく新しいランドマークを何と評したでしょうか
 平岡さん。

(女流)
今の野毛を語るには二人の「女流」を欠かせません。
女流作家 山崎洋子さん
女流落語家 荻野アンナさん
土日の野毛にも、夕暮れの野毛にも
女性の姿が多くなりました。
ここにも
“変わりつつ、変わらない”野毛の磁力が働いているように感じます。


(コンテンツ塊)
野毛を本質を語る前段だけでも数十冊の本ができる街。
野毛はコンテンツの塊です。
開港時から現代まで、エッセイにしたいネタを
私流のタイトルを付けるなら
「松平陣屋事件貼」
 (越前松平藩と長谷川伸)
「野毛別宅物語」
 (野毛別荘史)
「時の野毛山」
 (時鐘と十全病院)

「老松小学校の悪童」
No.86 3月26日 老松小学校の悪童

「野毛で錦絵に会う」
 (高橋誠一郎の横濱)
「税務所通物語」
 (そこのけ闇市)
「美空ひばりと福島通人」
「山本周五郎 逃げる」

世の“物書き”は野毛でもう少し惑わして欲しいものです。

「暮らしの場に思いをよせ、
人々のふれあいが始まるとそこは「界隈」になる」

No.457 ザンギリ野毛

※野毛の床屋について書きました。

No.422 妙蓮寺と野毛

1968年(昭和43年)〜翌年にかけて
横浜を舞台にした人気テレビドラマ「三人家族」について紹介しています。
※世代がわかりますね。

No9 1月9日(月) 野毛カストリ横町立退き騒動

戦後間もなくの話しです。「櫻川」がまだ“川”だったころ
野毛桜木町駅近くにカストリ横町がありました。


No.424 琉球バル


No.323 11月18日(日)歓楽街の住まい方

No.360 12月25日(火)Merry Christmas!

今日は、クリスマスです。
1879年(明治12年)12月25日(木)日本人の手によつて初めてのクリスマスが海岸教会で行われ、1949年(昭和24年)12月24日(土)戦後初のクリスマス礼拝が尾上町「指路教会」で行われました。
今日は小さなクリスマススナップ特集です。

「指路教会」クリスマス。
http://www.yokohamashiloh.or.jp/christmas2011.html

No.358 12月23日(日)もう一つのぶらぶら中華街

横浜歴史年表によると1970年(昭和45年)12月23日、中華街の西門(延平門)が完成したそうです。
今日は中華街のウェルカムゲート「牌楼門(ぱいろうもん)」の話しから
もう一つの中華街を紹介しましょう。

根岸線がこの中華街近くを走るまでは、
桜木町から市電に乗って横浜の「迷宮」に到達したものです。

昭和30年代の市電路線図

戦後 昭和30年代、中華街は現在のような世界最大のグルメゾーンではありませんでしたが、謎めいたオトナの町でした。

横浜中華街のシンボル「中華街牌楼」が登場したのが1955年(昭和31年)です。
この牌楼に「中華街」と書かれたことがキッカケで、
この町の名が広く「中華街」と呼ばれるようになりました。
それまで神戸や長崎と同じく「南京町」と呼ばれていました。

横浜中華街が、周辺の関内エリアの街区の道路方向が違う事は有名です。
この街の方向に慣れるには少し時間が必要かもしれません。

現在、中華街には10の牌樓が建っています。
この牌樓に詳しくなると、方向感覚はかなり判りやすくなります。
まず、東西南北4カ所の基本牌樓
東の「朝陽門」
西の「延平門」
南の「朱雀門」
北の「玄武門」
色でも区別されています。
青・白・赤・黒を記憶しておくだけでも中華街ツウにちょっとなった気分になれます。

中華街の核になっているのが「善隣門」

何時も「善隣門」の方角アンテナを張り巡らしておきましょう。
この5つ「牌樓」に囲まれた約500m四方の中華街の中に
二つの通りの端を守る牌樓が4つあります。
「市場通り」に2つ

「関帝廟通り」に2つ「地久門」と「天長門」

これで9カ所「牌樓」が頭に入りましたか?
最後に JR石川町駅前の「西陽門」で10の牌樓 完了です。

(昔の居留地の不思議)
外国人居留地の一角にあった中華街、現在は「山下町」ですが、誕生当初は様々な町名がありました。中華街周辺の地名を列挙します。

薩摩町・越後町・加賀町・前橋町・小田原町・豊後町・武蔵横町・大坂町・琵琶町・京町・阿波町・堀川町・上田町・九州町・富士山町・花園町・蝦夷町・尾張町・函館町・神戸町・長崎町・武蔵町・駿河町・角町・二子町
1879年(明治12年)頃、
街区が番号だった居留地に日本国中の町名が付けられます。
番号じゃわかりにくかったのでしょう。

薩摩町・越後町・加賀町など名付けられた30の町名は、
20年後の1899年(明治32年)の条約改正により外国人居留地が撤廃されると、日本大通りを除き、全て“山下町”となります。
その後も通りの名として戦後まで使われていました。
現在は殆ど無くなりましたが、
かつての町名の名残りに出会える場所が二カ所あります。
中華街に隣接する「加賀町警察署」と市営バスの「薩摩町中区役所前」です。
“前田”と“島津”が残りました。→おわかりになります???

(牌樓と三種の珍獣)
牌樓の話しに戻しましょう。
中華街に潜む三種類の“珍獣”をご存知ですか?
獅子(ライオン)
龍(ドラゴン)
鳳凰(フェニックス)
この三種の“珍獣”、まずは牌樓に潜んでいます。
どこに隠れているでしょう?

中華街に棲む“珍獣”で最も生息数の多いのが獅子(ライオン)です。
突然舞いつつ登場することもあります。
数えたことはありませんが、アバウト1,000以上いるのではないでしょうか。
さて?
龍(ドラゴン)も意外なところに
そして
鳳凰(フェニックス)は
さすが という所に生息しています。

どこにあるのだろう?
珍獣ハンティングしながら 
中華街を散策するのもまた楽しいものです。

No.352 12月17日(月)市民の財布を守った都南(追加あり)

1921年(大正10年)12月17日の今日、
神奈川全県の貯蓄銀行を包含し都南貯蓄銀行(資本金1,000,000円)が
現在の横浜市中区弁天通に設立(後に吉田橋に本店移転)されます。

(今も残る吉田町の都南銀行の面影)

1920年(大正9年)3月に起こった戦後恐慌による経済破綻は、特に輸出入経済に大きく依存していた横浜にとって深刻でした。
横浜最大の「七十四銀行」と関連銀行の「横浜貯蓄銀行」が突然休業(事実上の破綻)します。この時の預金口座数が55,000で、しかも一口2,500円以下の小口(個人)預金口座数が53,000を占めていました。
当時の横浜市の総戸数が75,000(世帯)だったことからこの衝撃の大きさがわかると思います。
この「七十四銀行」から連鎖して起った破綻を救済するために原富太郎以下地元経済人が奔走し12月16日に設立されたのが「横浜興信銀行」のちの横浜銀行です。


ちなみに
日本の普通銀行、個人資産の管理をする貯蓄銀行は、
明治維新以降全国各地に設立され
ピークとなった1901年(明治34年)に2,344行ありました。
その後、昭和初期には872行になります。

「横浜興信銀行」設立からちょうど一年後の1921年(大正10年)12月17日の今日、不安定な金融機関を整理統合し預金者を保護するために貯蓄銀行法を作り(株)都南貯蓄銀行が設立されます。
神奈川県下の23の貯蓄銀行と4の普通銀行が合併することになります。
手元に資料のある横浜の商業のヘソにあたった“吉田町”から金融機関の変遷を紹介しましょう。
1918年(大正7年)
第一次世界大戦が終結した年です。
当時、吉田町には横須賀商業銀行、横須賀貯蓄銀行、川崎銀行、川崎貯蓄銀行の4行と横浜信託(財産管理銀行)が営業していました。市内で商業の盛んな伊勢佐木町には2行、元町にも1行しか銀行がありませんでしたので、吉田町の賑わいがわかります。
※銀行協会のDBでは川崎銀行は大正6年に解散となっています。

そこに大正12年「関東大震災」が起こり、「戦後恐慌」を生き残った金融機関に追い打ちをかけますが、統合や整理で生き残りをかけます。
震災直後の大正13年
吉田町の金融機関は(株)都南貯蓄銀行の他、旧横須賀貯蓄銀行が(株)横浜銀行(現在の浜銀とは別)、旧横須賀商業銀行は(株)共信銀行に、旧横浜信託は(株)上信銀行として生き残り営業を継続します。
二度の荒波を受けても、吉田町から金融機関が消えませんでした。

(吉田町 都南ビル)
1928年(昭和3年)関東大震災から復興した旧都南貯蓄銀行本店が吉田橋近くに開業します。(横浜市中区吉田町10番)

追記:都南貯蓄銀行本店ビル→都南ビルが竣工したのは1930年(昭和5年)9月15日
その後、
都南貯蓄銀行は横浜銀行と合併後閉店しますが、
横浜大空襲でも生き残り、現在に「都南」ビルの名が残ります。

設計者は山口為蔵で施工者は山口組となっています。
激動の昭和金融史を語る歴史遺産です。
■老舗復活の拠点に
 この都南ビル1階にうなぎ「八十八」が復活・開業しています。

横浜市中区吉田町10都南ビル1階
TEL/FAX:045-261-8088
定休日: 月曜日
http://yokohamayasohachi.com

No.345 12月10日(月)Tea or Coffee?

横浜経済界を牽引した
伊勢商人大谷嘉兵衛に関しては、
過去2回紹介しています。
今日は
“直輸出”実現を目指した大谷嘉兵衛の
「日本製茶株式会社」を通して横浜の茶業を紹介します。
1895年(明治28年)12月10日(火)
大谷嘉兵衛の提唱により日本製茶株式会社が設立されました。
日本のお茶輸出の大きな転機となります。

(輸出産業の転機)
現在の野毛近辺“宮川町”に「日本製茶株式会社」(資本金200,000円)が設立されます。
※(異説)1895年(明治28年)ではなく
 1894年(明治27年)設立説も資料上見当たりますが、
 1895年(明治28年)12月10日(火)としておきます。
「日本製茶株式会社」設立のポイントは、
外国商館による独占的輸出だった流通に
直接の輸出取引の道を開いたことにあります。

(四半世紀の夢)
開国し幕末・明治維新の日本を支えた輸出品は
「生糸」「お茶」がほとんどでしたが、
日本のお茶輸出の栄華は四半世紀で終わります。

■「お茶」は明治中期まで「生糸」と並ぶ主力輸出品でしが、「茶」は1880年代から一気に減少します。■「絹織物」と「綿糸」が戦争前まで2割を占める重要輸出品となります。

(引用先)
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4750.html
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/0470.html

(つかの間の栄光)
なぜ「お茶」輸出は四半世紀しか続かなかったのでしょうか?
結論から云うと
最大輸出国の需要が変化したことと、
競合による価格競争に負けたことにあります。
幕末明治期の日本のお茶輸出先はほとんどアメリカでした。
英国領の「お茶好き」アメリカ人は、宗主国イギリス(東インド会社)から「お茶」を輸入していましたが、高関税に抗議し1773年に起った“ボストン茶会事件”をキッカケに独立戦争が起ります。
これによって米国はお茶の輸入先変更と、紅茶からコーヒーへの転換が始まります。
このような状況下に“捕鯨基地”を探してアジアを東上したペリーは日本に開国を迫りますが、この国に「お茶」があることを知ります。
開港後、いち早く米国のスミス・ベーカー商会が横浜に支店を出します。
横浜で最大の製茶輸出商社として、お茶(と樟脳)の対米輸出を一手に引き受けます。

注文量が生産量を上回り、横浜から各地のお茶生産地に注文が出ますが、商品の絶対不足状態になり、増産の必要から静岡のお茶畑開墾が始まります。
皮肉にも、静岡は明治維新で失業した幕臣が多く新茶畑開墾に転職していきます。
この結果、日本一の茶生産地「静岡」が誕生します。
横浜と静岡はお茶を通して繋がりを深めていきます。
天下の清水の次郎長も、職を失った幕臣のために茶畑開墾を進めると同時に、横浜−静岡間の廻漕事業にも参画し、何度も横浜を訪れています。
多くのお茶は「横浜港」から外国商社を通じて行われていました。
日本商社から直接輸出することを日本のお茶業界で試みますが、
直接貿易には多くのハードルが待ち構えていました。
受注量の急増で生産者のモラルダウンが起り
粗悪乱造品が多く出回るようになり、輸出先からクレームが来ます。
安定した品質と、直接取引を組織的に行っていく必要性から生まれた会社が
「日本製茶株式会社」です。

(近代化の遅れ)
明治中期まで横浜港からほとんどのお茶がアメリカに向けて輸出されました。お茶の加工は横浜市内で行われましたので、当時街中を歩くとお茶を煎った香りがしたことでしょう。
お茶の輸出は完全にアメリカに依存していました。
幕末には南北戦争の影響で輸出が激減し価格が暴落します。明治に入ると、アメリカがメキシコとの戦費調達のためにお茶に“関税”をかけ、輸出量が激減します。
日本から業界団体が渡米し、関税引下げ交渉をし成功しますが、
インド・中国が競合相手として再登場し国際競争時代に突入します。
日本のお茶業界は、ロシア他 
輸出先の多角化を模索しますが上手くいきませんでした。

実は「お茶」が日本人の“日常茶飯”になったのは明治以降です。

お茶は高級輸出品から、日本人の日常品に「市場」の転換によって日本の茶業市場は現在まで生き残ってきました。
(お茶かコーヒーか文明の衝突)

現在、
日本のお茶市場は文明の衝突が起っています。
オーバーに聞こえるかもしれませんが
前掲の世界地図でお分かりのように、世界はお茶文明でしたがイギリスを除く欧米はコーヒー文化圏です。さらにコーヒー(陣営)は、アジアに輸出攻勢をかけています。
戦後、わが国の「茶の間」にウーロンと紅茶が仲間に加わり
「お茶しない?」が「コーヒーショップ」に変わりました。

(お茶の記憶)
横浜の日本茶業界は国内競争で「清水港」に輸出港を譲り多くのお茶問屋が移転しましたが、現在も街のお茶屋さんから横浜の栄華を感じ取れます。
野毛・吉田町・日の出町・戸部・藤棚界隈に老舗の「お茶屋」さんががんばって営業を続けています。
支援したいものです。
横浜にとってお茶は重要な歴史の“生き証人”です。
(過去の話)
No.174 6月22日(金)しみずみなとの名物は?

No.22 1月22日大谷嘉兵衛を追って

No.340 12月5日(水)今日は昼から銭湯だ!

資料を眺めていたら、
1986(昭和61年)12月5日の今日、
新横浜に「横浜健康ランド」がオープンとありました。
1980年代は横浜市内の“銭湯”が減少し始めた頃ですが、
このような健康ランドブームも起りました。
寒空には暖まる銭湯ネタを少々。

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我家にもあります今も現役の「ケロリン」桶

「横浜健康ランド」は
横浜国際ホテル(現 国際ホテル、本社横浜市西区)が新規オープンした同ホテルグループの新規事業でバブル崩壊と共に閉館しています。
http://yokohama.khgrp.co.jp
設計がイヅミ建築設計事務所で、施工が奈良建設とのこと。
そういえば!
旭区上白根に「アサヒファミリー健康ランド」という入浴施設がありました。
(2009年(平成21年)7月20日突然廃業)
確か、ここには仕事で1990年代に一度事務所に行ったことがあります。
入浴施設は「公衆浴場法」に規定された施設で、健康ランドや銭湯は「日帰り入浴施設」として厚生労働省の管轄になります。
(県から市へ)
これまで
これらの入浴施設は厚労省の事務を都道府県が「公衆浴場法施行条例」を決めて管理していましたが、2012年から市に権限が委譲されました。

横浜市公衆浴場法施行条例(平成24年9月25日)PDFファイルです
http://www.city.yokohama.lg.jp/kenko/hokenjo/genre/seikatsu/iken/shihokoshuyokujo.pdf
「資料2」
http://www.city.yokohama.lg.jp/kenko/hokenjo/genre/seikatsu/iken/saisokukoshuyokujo.pdf
なにかと細かいですね。
横浜市は従来の県条例に加えて「水質基準」をより厳しく設定したようです。
神奈川県から横浜市へ?
「地域の自主性及び自立性を高めるための改革の推進を図るための関係法律の整備に関する法律」の施行に伴い、本市で公衆浴場法施行条例を制定したことにより、神奈川県が定めている基準を本市の規則で定める必要が生じたため、 公衆浴場法施行細則の一部を改正するものです。」
とあります。
「地域の自主性及び自立性を高めるための改革の推進を図るための関係法律の整備に関する法律」・「国と地方の協議の場に関する法律」って何?
http://www.cao.go.jp/chiiki-shuken/110428.html
「地方自治体の自主性を強化し、自由度の拡大を図るため、義務付け・枠付けを見直し」たそうです。(※地方分権ってレベルじゃないですがね)

話しを「銭湯」に戻しましょう。
横浜市でも70年代までは、内湯化が拡大していましたが、銭湯需要もなんとか横ばい状況でした。
戦後最初の打撃が「オイルショック」だったようです。銭湯もエネルギー転換と「公害防止」の流れで薪から石油に転換していきますが、燃料の値上げが収益構造に影響します。かなりの銭湯が廃業したそうです。

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銭湯と言えば、2012年38号の「季刊横浜」は特集が“銭湯”です。

横浜は銭湯に一家言ある銭湯名人が数名います。
一番有名なのが、野毛の一角で居酒屋「ごっつあん」を経営する大森美津男さん
居酒屋の内装が「銭湯」になっています。

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銭湯絵の第一人者中島師匠の作品が堂々!と壁になっています。

この辺りの話しは「季刊横浜」最新号をぜひお読み下さい。

横浜は頑張っている「銭湯」が沢山あります。
銭湯は下町の香りがします。
スーパー銭湯も良いですが、
たまには ちょっと熱めの「銭湯」の嗜みも良いものです。

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市内有数の銭湯区?!南区、西区、鶴見区 ガイドも出ています

※横浜市内だけの聞き取りレベルですが
 戦後横浜市内で銭湯を開業した方々の出身地は福井・石川・富山・新潟の「北陸地域」が多いそうです。
特に神奈川の銭湯には「タイル絵」といわゆる「ペンキ絵」が一緒に使われているところが多いのです。

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銭湯に体重計は必須備品です
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寒暖計も銭湯には必ずありますね
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ちょっとしつこいですかね。体重が気になるので。