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「【幕末明治の横浜】」カテゴリーアーカイブ
No.369 1月3日(木)自転車乗ってますか?
今日のテーマは自転車。
横浜に自転車が似合います。でも谷戸の多い横浜では坂道も覚悟しなければなりません。
私は、水辺サイクリングを楽しんでいます。鶴見川、大岡川、柏尾川、そして海辺サイクリングです。
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マイちゃり |
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大岡川 |
今、自転車を手軽に借りて横浜を走る「横浜コミュニティサイクル」(通称ベイバイクbaybike)が人気です。レンタサイクルなんて言いません。ベイバイクする!です。
自転車といえば、神奈川県津久井出身の梶野 甚之助が設立した高島町の「自転車製造所」をまず紹介しておきましょう。「明治成功名誉鑑」(明治43年)等の資料によりますと
梶野 甚之助は1856年(安政3年)に津久井郡太井村に生まれ、8歳で丁稚見習いとして醤油醸造業に従事します。
1871年(明治4年)には奉公先の醤油樽を使って見よう見まねで木製の自転車を作ったそうです。
1877年(明治10年)21歳の時に当時最先端技術に触れることが出来た燈台局に就職します。
1879年(明治12年)蓬莱町4-8に工場を設け、自転車製造を創業します。
米国ヴァンタイン社をベースに純正国産品を製造し、「金日本号」「銀日本号」のブランド名で逆に中国・米国に輸出するまでに至った技術者・企業家です。
諸説ありますが、ここが日本最初の自転車製造企業(メーカー)といわれています。
会社は、1888年(明治21年)高島町5丁目10番に移転します。
この頃が、梶野自転車製造、絶頂期に入ります。
1890年(明治23年)には第3回内国勧業博覧会・東京に自転車を出品し第4回内国勧業博覧会では有功賞を受賞ます。
新聞広告等にも積極的に出稿し販売も順調に伸びますが、次第に部品供給力・価格力に押されていきます。
(関連プログ)
No.213 7月31日 (火)金日本、銀日本
「明治成功名誉鑑」(明治43年)には、自転車関係の成功者が他に3名紹介されています。
真砂町1丁目3番
高木 壽次「喬盛館」(明治26年創業)
「クリヴランド号」の輸入特約店
相生町1丁目3番
根津 酒造蔵「根津自転車店」(明治29年創業)
英国製“ストレート”自転車の輸入特約店
尾上町4丁目
松浦 精一郎「キンリン社」(明治36年創業)
英国モノポール社特約店
明治42年には大手自転車メーカーとなった丸石商会(現在の丸石自転車)も尾上町に横浜支店を出します。
これら 横浜生まれの自転車企業は残念ながら全国展開した大手メーカーに駆逐されていきますが、1874年(明治7年)6月1日に野毛で生まれた『河本商店』は現在も“まちの自転車店”で健在です。
じてんしゃ102かわもと
http://jitensha-102.com
私の自転車も、ここで購入・メンテナンスしています。
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鶴見川、大岡川初め横浜市内を走り回っています |
自転車店はホームドクターが必要です。
自転車購入は、点検・修理が可能な店にしましょう。
今年もサイクリングイヤーでいきます。
No.365 12月30日(日)横浜初の発電所
酔った勢いで始めた苦行、
「一日一話の2012年度ブログ」も
ついにラス前!となりました。
1903年(明治36年)12月30日
横浜共同電灯会社「高島町に発電所竣工」と「横浜近代史年表」に記載がありました。
原則、裏取りをしましたが社史には記載が無かったので確認できていません。
でも高島町の発電所に関しては関心があったので少し追いかけてみました。
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桜木町発電所 |
電気の普及には発電所が必要です。
横浜で最初の発電所は関内の常盤町にできました。
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常盤町本社 |
田沼太右衛門ら横浜財界人が発起人となり、
1889年(明治22年)7月に横浜共同電灯会社が設立され、初代社長には高島嘉右衛門が就任します。
最初の発電所はエジソン直流三線式発電方式を採用した火力発電所です。
日本の発電所は「直流」「交流」を併用します。因みに電灯は元々直流で開発されましたが、交流でも動作しますが、電動機は「直流」「交流」の併用ができません。この「電流戦争」にも面白いエピソードがありますが、別の機会に譲りましょう。
電力会社は思ったほど伸びませんでした。
「関内及び外国人居留地」を営業区域として許可を得たのですが、英国人商会の競合があり居留地の売電が進まず、関外の営業権を持つ会社も吸収合併しますが、かなり苦戦が続きます。
1896年(明治29年)に居留地内の英国人経営の電灯会社経営権を買収し競合を解消し収益性が確保できるようになります。
※このとき、英国人商社の電灯線は地中埋設線による電力提供を行っていたそうです。この方式が継続されたら 日本の風景は変わっていたでしょう。
大きな転機は、1901年(明治34年)に訪れます。
市域の拡大です。
■久良岐郡
戸太村、中村、本牧村、根岸村
■橘樹郡
神奈川町、保土ケ谷町大字岡野新田、大字岩間字久保山・大谷・林越・大丸、子安村大字子安を編入します。
この市域拡大により営業エリアも拡大することで、経営が一気に好転します。
1897年(明治30年)そこで、新たな発電所が必要となり新しい発電所が高島町二丁目に完成します。
ここでは、交流発電機が導入されます。電気事業に適した交流が基本となります。
「横濱電気株式会社沿革史」にある高島発電所地図を観て驚きました。
隣にある会社が「横浜電線製造株式会社」です。
(場所が違う)
1884年(明治17年)に山田与七が横浜に山田電線製造所を創業。
1896年(明治29年)山田電線製造所が横浜電線製造株式会社に変更。
ここが古河鉱業と合併し、古河電気工業そして横浜ゴムが誕生します。
「横浜電線製造株式会社」を調べた際には、手元の資料が「高島町九丁目」に会社を設立し、後に西横浜へ移りそこが古河の研究所になった経緯を紹介しました。
No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王
違う資料がでてきましたので
追いかけて移転したのか、間違いなのか確認してみたいと思います。
(駅舎に埋もれた遺構)
横浜共同電灯会社は後に横浜電気株式会社となり横浜最大の電力会社となりますが、送電技術の向上で次第に発電所はより広い敷地に、そして山間部の水力発電所に移行して行きます。
この高島発電所は廃止され
その上に
1915(大正4年)第二代横浜駅舎が建ちます。
その後、関東大震災で被災し、現在の横浜駅に移されます。
ここに高島発電所があったことは資料上明らかになっていましたが、
遺構が一部残っていることは
2003年5月下旬、東急東横線旧高島町駅の解体工事をするまで判りませんでした。
この時、発電所の冷却水を貯める楕円形の海水引入口が発見されました。
その後
1922年(大正10年)東京電灯株式会社に吸収されます。東京電灯株式会社は現在の東京電力です。
(余談)
No.180 6月28日 横浜能楽堂、その点と線
●咲壽栄一(さくじゅえいいち)
1884年(明治18年)横浜電気株式会社の常務取締役上野吉二郎の長男として東京の京橋に生まれました。1893年(明治27年)に横浜市吉田小学校へ転校、神奈川県立第一中学校へ入学します。京都市第三高等学校を経て、東京帝国大学工科大学建築学科に進み山崎清太郎、後藤慶二、大熊喜邦ら上記の仲間達に出会います。卒業後大蔵省臨時建築部に入り、のちに大蔵技師。妻木頼黄とともに設計にあたりますが30歳という若さで逝去します。墓所は横浜市磯子区の根岸西有寺墓地です。
咲壽栄一は惜しくも30歳という若さで亡くなりましたが、その間短い時間ではありましたが大蔵省臨時建築部で多くの税関設計に関わってきました。また俳人としても非凡な才能を表し短い人生に詠んだ句はおよそ3万句もあったそうです。
彼が亡くなった後、山崎静太郎が中心となって咲壽栄一遺稿集「卯木集」を出版します。咲壽は卯花(ウツギの花)を好み、俳号「卯木屋」と読んだそうです。
横浜電気株式会社の常務取締役上野吉二郎の長男ですが、母方の高橋家の祖母の姓を名乗り咲壽栄一(さくじゅえいいち)として活躍しました。
この高橋家が、現在の「株式会社ダニエル」を創業し横浜クラシック家具の伝統を守っています。
No.197 7月15日(日)老舗ホテルを支えた横浜
No.361 12月26日(水)横浜に戻って快進撃!
1933年(昭和8年)12月26日の今日、
日本初の自動車量産メーカー自動車製造㈱が
横浜市神奈川区守屋町(現宝町)に誕生しました。
この自動車製造㈱は翌年の6月に日産自動車となり、
2013年に創立80周年を迎えました。
日産自動車本社が銀座から故郷横浜に75年ぶりに戻って来たのが2009年8月です。
日本ビッグスリー(トヨタ・日産・本田)の大手自動車メーカーの一つで、
現在はフランスの自動車製造大手ルノーとアライアンスを結び同社の傘下に入る国際企業となっています。
簡単な歴史は下記を参照してください。
(戦前の貴重な動画もリンクされています)
http://www.nissan-global.com/GCC/Japan/History/history/main.html
(簡略史)
日産が主力自動車とした「ダットサン」は
『快進社自働車工場』にルーツがあります。
注目「自働車」ですからね!!
1911年(明治44年)橋本増治郎が東京府渋谷村麻布広尾88番地に『快進社自働車工場』設立します。このときの資金協力者三名、田健治郎・青山禄郎・竹内明太郎のイニシャルを並べDATとし、脱兎(DAT)のごとく“快進社”と命名します。
1914年(大正3年)上野で開催された東京大正博覧会にV2気筒10馬力エンジンの「脱兎号(DAT CAR)」を出品し、銅牌を受賞します。
純国産自動車の1号車といわれています。
一方で、大阪に久保田権四郎という起業家がいました。
1921年(大正10年)に
ゴルハム式三輪車をベースに、日本人技師後藤敬義とゴルハムとの共同設計で、四輪自動車のリラー号」を完成させます。
この二社が関東大震災を乗り越えるために手を結び、
「ダット自動車製造株式会社」が誕生します。
DATが製造したのが「DATSON」(ダットソン)でしたが
SONは「損」に繋がるということで「SUN」に換え「DATSUN」(ダットサン)が誕生することになった訳です。
その後
石川島自動車製作所(石川島造船資本)に吸収され、日産の前身「戸畑鋳物株式会社」傘下に入り「戸畑鋳物・自動車部」となります。
1933年(昭和8年)12月26日戸畑鋳物・自動車部からダットサン製造に関する一切を引き継いで、『自動車製造株式会社』を創設し今日の日産になっていきます。
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日産50年史より |
1935年(昭和10年)4月には日本で最初の量産工場と言われた横浜工場から小型自動車『ダットサン』を製造、日産ダットサンブランドが誕生します。
(戦前の自動車製造)
ここで少し戦前の日本における自動車製造の状況について紹介しておきます。
日本のモータリゼーション、自動車の普及は大正に入り活発になります。
当時日本には国産能力が殆ど無く、輸入に頼っていました。
昭和に入りアメリカからフォード(関東)とGM(大阪)が工場進出し、量産体制に入ります。
部品の殆どがノックダウン方式でしたから国内産業も育たない状況にあり、日本メーカーの自立が国策としても望まれていました。昭和7年ごろ国内市場16,000台の内、国産が880台(6%弱)しかありませんでした。
日本の自動車メーカーは
トヨタも日産も最初は「トラック市場」参入から出発しています。
(余談)
「ダット自動車製造株式会社」を吸収した石川島造船といえば、
「横浜製鉄所」繋がりです。
横浜で初めて設立された近代的企業「横浜製鉄所」は慶応元年9月下旬竣工、開業しました。その後、1879年(明治12年)平野富二(後の石川島造船所)の経営に移ります。
No.236 8月23日(木)帰浜した鉄工所
他に横浜関連大企業といえば、
古河電工と横浜ゴムも横浜創業の企業ですね。
(余談2)
日産の前身「戸畑鋳物株式会社」は、創業者鮎川義介が北九州戸畑で起こした企業です。鮎川義介は是非下記リンクをお読み下さい。
戦前経済史には欠かせない人物です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/鮎川義介
さらに横道
東京と大阪の企業が創り上げた「ダット自動車製造株式会社」が石川島造船と合併し「自動車工業株式会社」を作ります。
ちょっと間違いやすいのですが、その後鮎川義介に吸収されできた会社が『自動車製造株式会社』です。
このとき、一部の技術者達が「自動車工業株式会社」に残り、後のいすゞ自動車になっていきます。
このいすゞ自動車のデザイン部門の風雲児だった中村史郎※を引き抜き
現在の日産自動車常務執行役員、チーフクリエイティブオフィサー(CCO)に就任しています。
※「インパルス」「ピアッツァ(二代目)」「ビークロス」を設計
No.350 12月15日(土)横須賀上陸、横浜で開化。
演奏しながら、様々な図形を描くように行進する吹奏楽バンドが行う演目をドリルといいます。
このドリルにビューグルを使用するマーチングバンドがビューグル隊です。1961年(昭和36年)12月15日の今日、神奈川県警音楽隊に、日本で初めてビューグル隊が結成されました。
ビューグルとは、金管楽器の一種で牧畜,狩猟などに用いられた角笛の一種に由来します。広くは軍隊などで使用する弁装置のないラッパなどもビューグルと呼ばれます。
(20130128加筆しました。)
(ビューグル上陸)
ビューグルサウンドは
昭和30年代、アメリカ海兵隊ドラム&ビューグル・コーのメンバーによって日本に上陸したチームによって初めて日本人に指導されました。
当時、横須賀に入港したアメリカ海軍第7艦隊の軍楽隊として乗船し、横須賀に駐留していたメンバーが地元の学生や県警音楽隊にマーチングの指導を行ったことに始まります。
この米海兵隊によるドリルは、斉一性のあるビューグルとドラムのスピーディーな隊形変換、鮮やかな楽器のトワリング、今までに聴いたことの無い圧倒的な音量で音楽関係者のみならず多くの聴衆に衝撃を与えました。
その後、彼らに指導を受けた関東学院や神奈川県警察音楽隊がビューグルによるマーチングを行うようになり全国に拡がっていきます。
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(http://pixabay.comフリー素材から) |
日本人が初期に購入したビューグルは(アメリカ スリーガーランド社製)G調でピストンがひとつしかなく、音階も完全には出ないため演奏が非常に難しい楽器だったそうです。
Marching 神奈川県警察音楽隊 2012
http://www.youtube.com/watch?v=3Icq77aiYY4
神奈川県警察音楽隊&カラーガード : The Sound of Music Medley
http://www.youtube.com/watch?v=iebhM61i8Rs&playnext=1&list=PL2C27056E225DABFD&feature=results_main
神奈川県警察音楽隊 第228回マリンコンサートから
http://www.youtube.com/watch?v=PMlWZiKHd3s
■ビューグル隊の誕生
1961年(昭和36年)12月15日、25名の編成による県警察音楽隊ビューグル隊は(先生の)米海兵隊ビューグルバンドとともに県庁を訪問パレードしデビューします。当時の内山 岩太郎神奈川県知事に結成を報告し、日本で初めてドリル専門のビューグル隊が誕生することになります。
神奈川県下、様々なシーンでこのビューグル隊に出会うことができますが、一番確実なのは「みなと祭り」でしょう。
迫力ある演奏をぜひお楽しみ下さい。
※県警百年記念のパレードでも「ドリル」が披露されました。
一方、横須賀で米軍に学んだ学生達も新しいビューグルバンド結成に向けて活動を始めます。
ビューグルを学んだ関東学院吹奏楽部(現:関東学院マーチングバンド)のOB達は、日本大学高等学校吹奏楽部・京浜女子大学付属トランペット鼓隊(現:鎌倉女子大学中等部・高等部マーチングバンド)のOB・OG達と共に日本初の一般編成によるマーチングバンド「日本ビューグルバンド」を結成します。
1967年(昭和42年)1月10日には、この日本ビューグルバンド主催の「第1回パレードバンドフェスティバル」が横浜市文化体育館で開催されます。このパレードバンドフェスティバルが、現在開催されている「マーチングバンド・バトントワーリング全国大会」の原点となっています。
長者町芸術祭2012/関東学院マーチングバンド
http://www.youtube.com/watch?v=Nk–rRkFTrg
実は、
警察音楽隊の歴史は横浜から始まります。
1934年(昭和9年)1月、神奈川県警察部警務課内に音楽隊が総員8名で発足しました。その後、戦争により解散しますがこの音楽隊が日本の最初の「警察音楽隊」です。
戦後、警察機構が新しくなり、戦後警察の下
大阪府警察音楽隊が1945年(昭和20年)に初めて発足します。
その後、少しずつ各都道府県に音楽隊が結成されていきます。昭和40年までに42都道府県で結成されました。
1980年(昭和55年)鳥取県警察音楽隊の結成で全都道府県警察音楽隊が出そろいます。ビューグル隊に関してはまだまだ少数派のようです。
■待ってました(横浜はじめて物語)
日本吹奏楽発祥の地は横浜です。
現在横浜市中区の妙香寺内に記念碑があります。
碑文には
「明治2年(1869年)10月、薩摩藩の青年藩士30余名が当妙香寺に合宿し、英国陸軍第10連帯第1大隊所属軍楽隊の指導者ジョン・ウイリアム・フェントン(JohnWilllamFenton)から吹奏楽を学んだ。
これが日本人による吹奏楽団創立の序であり、吹奏楽活動の緒となった。
発祥から120年目にあたるこの年、日本吹奏楽が悠久に発展することを祈念し、ここに、吹奏楽界同志に諮りこれを建立、謹んで日蓮宗本牧山妙香寺に献呈するものである。」平成元年(1989年)9月8日建立とあります。
No.344 12月9日(日)2117年まで待て!
19世紀は二回。
1874年(明治7年)12月、1882年(明治15年)12月の二回。
20世紀はありません。
21世紀では2004年6月8日、2012年6月5日(火)午前7時過ぎから午後1時45分の間観ることができました。
次回は2117年12月11日です。
さてなんでしょうか?
さらになんで 12月9日に関係があるのか?
今日はこのあたりをひも解きます。
(日面通過)
一生に一回、観ることができないかもしれない天体ショー、
「金星の太陽面通過(金星の日面通過)」が
1874年(明治7年)12月9日の今日、観測されました。
しかも、横浜が観測ベストポジションでした。
この観測活動の記念碑が(地味に)横浜市中区紅葉坂の県施設の一角にあります。
金星の日面通過とは、
金星が太陽面を黒い円形のシルエットとして通過していくように地球から見える天文現象で非常に稀な現象です。
原理は簡単で、金星が地球と太陽のちょうど間に入ることで起こりますが、そう頻繁に起りません。太陽系、「すい・きん・ち・か・もく」なんて記憶したものですが、共に太陽の周りを回っているため、
太陽と地球の間に「金星」が入るためには長い時間が必要になります。
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イメージ図です。実際の惑星間、位置を現わしていません。 |
(地球と金星の関係)
金星の日面通過が起きる間隔は(近年では)
243年で、その8年後に一回
その後121.5年と105.5年の長い空白期間があるため中々観測できません。
金星は英語でVenus、太陽に近い方から2番目の惑星です。明け方と夕方に目視できるので「明けの明星」「宵の明星」として古くから人々の生活に登場してきました。
(横浜観測点)
1874年(明治7年)12月9日に起った「金星の日面通過」の時は、当時天文観測の先進国だった欧米各国が世界70か所以上に観測隊を派遣します。日本が観測に最適な場所の一つだということで、フランスとアメリカ、そして太陽の国メキシコがそれぞれ観測隊を派遣します。
明治7年の日本はまだ明治維新直後で、政府も外国からの観測隊訪問依頼の目的がよく理解できずに困惑します。
派遣国は、この「金星の日面通過」の科学的意義の重要性と純粋に科学的な観測である点を伝えます。意義を理解した明治政府は、欧米の進んだ科学技術を吸収できる絶好の機会と考え、観測隊に便宜を図ります。
同時に観測技術を学ぶことを水路寮(現在の海上保安庁海洋情報部の)に命じます。
長崎にフランス隊とアメリカ隊を
神戸にはフランス別働隊が観測所を設けます。
横浜はメキシコ隊が拠点を置き観測を行いました。
横浜のメキシコ観測隊は、二カ所で観測します。
横浜市中区の宮崎町三九番地と、山手町(フェリス女学院高校門柱横)の二カ所で観測が行われました。
フランシスコ・ディアス・コパルーピアス隊長率いるメキシコ観測隊と日本からは水路寮の吉田重親海軍中尉が参加しました。
紅葉坂にある記念碑には
第1観測地点(野毛山)東経1390 37′ 48〝 北緯350 26′ 45〝
第2観測地点(山 手)東経1390 39′ 02〝 北緯350 26′ 07〝
二点の観測座標が刻まれています。
実はこの観測まで、日本の位置は科学的に確定していませんでした。
この時アメリカ観測隊は長崎とワシントン間、長崎と東京間それぞれの経度差観測も行い、これによって日本の地図上の正確な経度が初めて決定されることになります。
紅葉坂にある「金星の太陽面通過(金星の日面通過)」記念碑は、ちょっと判りにくい場所にありますので 注意深く“観察”しましょう?!
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写真の右下の一角に記念碑があります。 |
この日は私のブログでも全くノーチェックだったようで、悔しいというか残念でした。
もう観ることができない!
No.157 6月5日(火) 半ズボンより長ズボンでしょ!
※2117年も日本で観測できるそうです。
No.341-2 12月6日(木)桐生・横浜・上海(後編)
1922年(大正11年)12月6日の今日、群馬県桐生市の書上家の家族のもとに横浜から一台のピアノが納入されました。このピアノは、父との思い出でもあり、かつての栄華を誇った栄光のなごりでもありました。
の後編です。
(横浜・上海)
日本近代化を支えた数少ない輸出品は
初期の「生糸」「製茶」
明治後期から「絹織物」が横浜の主要輸出品となります。
他に横浜沖の海産物も上海などに輸出されていました。
貿易相手国はアメリカが主でしたが、「絹織物」の羽二重はフランスで人気となり、横浜港の対仏貿易の重要な輸出品となります。
中江兆民の中江塾に学んだ後の十一代書上文左衛門祐介は、書上商店の娘と結婚する前に横浜で働いていました。
1888年(明治21年)9月22日創業した横浜煉化製造会社です。日本の煉瓦製造の歴史は、吸収でオランダに始まりイギリスチームによる煉瓦工場が稼働しますが、関東ではチームフランスの横須賀製鉄所で工場設立のために製造されたのが始まりです。この横須賀製鉄所建設工事は江戸幕府最後の大事業となります。
この横須賀のフランス人チームは、横須賀製鉄所完成後、群馬県富岡に新設された官営富岡製糸場へと移動し世界遺産を完成させます。
No.266 9月22日 (土)ハマの赤レンガ
(YOKOHAMA煉瓦)
横浜では、1873年(明治6年)からフランス人ジェラールが瓦とれんがの製造を開始しますが生産量に限界があり、ホフマン窯の導入で初めて大量生産が可能となります。
1887年(明治20年)10月
日本煉瓦製造会社(埼玉県)現存(重要文化財)
1888年(明治21年)9月
横浜煉化製造会社(神奈川県)→御幸煉瓦製造所
1888年(明治21年)10月
下野煉化製造会社(栃木県)現存(重要文化財)
横浜煉化製造会社は相場師田中平八ジュニアが社長を務め、10年間稼働しますが、経営母体が代わり横浜から姿を消します。
この横浜煉化製造会社創設時に副支配人だった十一代書上文左衛門祐介の才覚はここで磨かれます。
桐生の羽二重を横浜から世界に輸出し、上海にも支店をだします。当然、彼自身が(家族を伴って?)横浜や上海に出かけている可能性の高いといえるでしょう。
十一代書上文左衛門は1914年(大正3年)50歳で亡くなります。
息子史郎が十二代書上文左衛門を継ぐことになります。24歳でした。
家業は順調に伸びていきますが、
1920年(大正9年)に発生した戦後恐慌が、大戦景気を上まわる大正バブルの直後に起ります。
(バブル崩壊)
大正バブルは繊維業や電力業に莫大な利益をもたらします。この大正バブルで商品投機(綿糸・綿布・生糸・米など)・土地投機・株式投機が活発化し、一方で過剰生産気味になります。
欧州への輸出が一転不振となり大戦景気で好調だった綿糸や生糸の相場が1920年(大正9年)半値以下に価格暴落、連鎖して株価暴落となり銀行取付が続出します。
これによって地方の老舗が軒並み倒産、結果として三井財閥、三菱財閥、住友財閥、安田財閥など財閥系企業や紡績会社大手が生き残り寡占化が急速に進むことになります。
書上商店もこの創業以来最大の危機に直面します。同業者が次々と店をたたむ中、書上商店を株式会社化しリスクを分散しかろうじて生き残ります。地域に生きて来たからこそ再生できたと言われています。
(周ピアノ)
バブル崩壊から2年、一段落した1922年(大正11年)12月6日(水)群馬県桐生市にある書上家の家族のもとに横浜から一台のピアノが納入されました。
横浜市の山下町123番地にあった「周興華洋琴専製所」が製作した“S.CHEW”銘のあるピアノでした。
山下町123番地は現在の南門シルクロード沿い、元町寄りにありました。当時の絵はがきに「目印の3本の音叉」をアレンジした木彫りの看板を見ることが出来ます。
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店先左側に看板が確認できます。奥は山手の丘でしょうか。 |
店主の名は周筱生(しゅう しょうせい)、当時20代半ばの若者ですが評判の腕前でした。彼は上海にある英国のピアノメーカー「モートリー商会」でピアノの輸入・販売・調律・修理をしながら腕を磨き、1905年(明治38年)に来日、横浜へ来て1912年(明治45年)にこの「周興華洋琴専製所」を創立します。
当時、横浜には国産ピアノメーカーの草分け西川ピアノがありました。
【番外編】土耳其国軍艦エルトゲロル号(余談の余談)
ここで少し紹介しています。
横浜中華街でのピアノ製造業は順調で、現在の南区堀の内に工場も作りますが、1923年(大正12年)9月の関東大震災で被災します。
創業者の筱生氏はこの地震で亡くなり息子が継ぎます。
二代目によるピアノには“S.CHEW&SON”の銘が入っていました。
1945年(昭和20年)の空襲で工場が焼失し、「周興華洋琴専製所」は三十数年で絶え手島います。初代も二代目の作品も製造数が限られていますが、特に初代周ピアノは確認されている台数が少なく「幻のピアノ」と呼ばれています。この書上家に納品されたピアノは、貴重な横浜・上海・桐生を結ぶ架け橋といえるでしょう。
周ピアノは現在
中華街萬珍樓に展示されています。
書上家のピアノは
桐生明治館
桐生市相生町2-414-6
に展示されています。
No.331 11月26日(月)七五三太の横浜
港は出会いと別れのプラットホーム。
今日も港ネタです。
幕末期、函館から密航しアメリカに渡った新島 七五三太(しめた)が、晴れて1874年(明治7年)11月26日の今日、横浜に“日本人宣教師”として帰国します。
彼に密航を決意させたのは“アメリカの地図書”に見た世界の広さでした。
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イメージです。本文とは関係ありません。 |
“米国の大学で初めて学位をとった日本人”
新島 七五三太(敬幹)は、徳川時代に掟を破り渡米したため<無国籍者>でした。
明治になり日本政府が初の海外駐在外交官として米国に派遣した森有礼によって、
初めて日本国パスポートが発行されます。
新島はアメリカ訪問中の岩倉使節団と出会い、木戸孝允の知遇を得ます。
木戸は新島の卓越した語学力を評価し欧州使節団に参加させます。
※岩倉使節団は、明治新政府によって派遣された初の大規模な公式使節団です。
岩倉使節団の目的は、まず不平等条約の改正に向けた予備交渉でしたがほとんど成果をあげることができませんでした。しかし、
もう1つの目的“欧米各国の国家制度、産業技術、伝統文化などを視察すること”については、使節団のみならず通訳として同行した新島 七五三太にとっても「智識を世界に求め」る最高のチャンスでした。
新島が後に編集した岩倉使節団の報告書『理事功程』は、
明治政府の教育制度に大きな影響を与えることになります。
(Joseph Hardy Neesima)
新島 七五三太(敬幹)は、1864年(元治元年)6月函館から出国し、上海、香港を経由し米国行きのワイルド・ローヴァー号で太平洋を渡ります。
1865年(慶応元年)ボストンに到着し、船主のA.ハーディー夫妻の庇護を受け高等教育を受けるチャンスをつかみます。
函館から上海に向かう船上で船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以降「ジョー」の名を使い始めます。
帰国後1875年(明治8年)1月、郷里群馬の父に宛てた手紙で初めて自分はこれからジョセフの略で「襄」と名乗ると書き送ります。
彼こそが後の同志社大学を開く「新島襄」です。
この後、
明治六大教育家の1人に数えられた新島襄は活動の場を関西に移し、キリスト教の布教活動と学校(同志社)の設立に奔走します。
米国で無国籍の新島襄に日本国籍のパスポートを発行した森有礼も
明治六大教育家の1人で、明六社の発起代表人、文部大臣として学制改革を実施し一橋大学の創始者です。
※明治六年結成した「明六社」は、日本最初の学術団体。機関誌『明六雑誌』が有名。
悪名高き太政官政府の「讒謗律・新聞紙条例」で廃刊、解散になります。
(聖書の翻訳)
ここにもう一人、横浜に因んだ人物が登場します。
1874年(明治7年)11月26日の今日、新島襄を横浜港で出迎えた米国人
ダニエル・クロスビー・グリーン(Daniel Crosby Greene)です。
後に新島と「同志社」を築くメンバーですが、
新島襄同様にアメリカ外国伝道委員会「アメリカン・ボード (American Board of Commissioners for foreign Missions)」から派遣された宣教師です。
ダニエルは、1874年6月1日宣教師の活動を行っていた神戸から横浜に来て、ヘボンらとともに宗派を超えた共同の聖書翻訳に取り組んでいた時に新島が帰国したのです。
※Daniel Crosby Greene
From June 1874, until May 1880, he resided in Yokohama, as a member of the committee for the translation of the New Testament into the Japanese language.
日本国内で最初に聖書を翻訳したのは、
ゴーブル(J.Goble,1827〜1896年)ですが、
明治時代に入り聖書翻訳は“個人訳の時代”から“共同訳”の時代に入ります。
プロテスタント宣教師らによる
聖書翻訳委員会(翻訳委員社中)が横浜で組織されます。
メンバーは宗派を超えて集まりました。
多くが横浜に縁の深いメンバーです。
★ジェームス・カーティス・ヘップバーン(Presbyterian)
一般的にはヘボン式ローマ字の創始者のヘボン博士で有名
★サミュエル・ロビンス・ブラウン(Reformed Church of America)
横浜の修文館の教頭兼英語主任、
ブラウン塾から一致神学校を経て明治学院に発展しました。
★ロバート・S・マクレー(Methodist)
横浜山手でキリスト教神学を教授する
「美會神学校」(青山学院神学部の源流)を設立。
青山学院初代院長。
★ネイザン・ブラウン(Baptist)
日本で第二番目のプロテスタント教会である
横浜第一バプテスト教会を設立。
山手の横浜外国人墓地に眠る。
★ジョン・パイパー(Anglican)
東京で聖パウロ教会(目黒区五本木)を開きます。
★ウィリアム・B・ライト
(Society for the Propagation of the Gospel in Parts)
牛込聖バルナバ教会を建てる。
そして
★ダニエル・クロズビー・グリーン
(American Board of Commissioners for Foreign Missions)
らが参加し「新約聖書」の翻訳を完成させます。
ダニエルはその後、関西に戻り同志社に関わり神戸で亡くなります。
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米国で報道されたダニエルの死亡記事 |
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神戸の外国人墓地に眠るダニエルの碑 |
No.324 11月19日(月)広田弘毅に和平を進言した男像
日本一大きかった(未確認)…県知事像が撤去!
認知度低い?
戦後初の民選神奈川県知事「内山 岩太郎像」が
1975年(昭和50年)の今日11月19日に建立され、
2012年7月に解体されました。
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偶然撮った内山像。大きかった!! |
実は「内山 岩太郎像」解体を知ったのは、このテーマを調べているときでした。前々からこの像の前を通る度に気になっていた人物像です。
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1206260032/
リンク切れになってしまいました。神奈川新聞社のニュース記事でした。
高島嘉右衛門の足跡を追って青木橋から高島台あたりを散策するルートにちょうど「神奈川県私学会館」があり、ここの前庭にどーーんと建っていました。
台座を含めると8.6メートルの高さにもなるそうです。東日本大震災後、近隣住民から倒壊を不安がる声が寄せられ欠いたが決定したそうです。(写真撮っておいて良かった)
Googleストリートビュー(2009年)ではまだ見ることが出来ますよ。(現在モードは更新されてしいますのでタイムマシン機能を使ってください)
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ストリートビュー |
(耐えられない存在の遠さ?)
私だけかもしれませんが、神奈川県知事は横浜市民にとって遠い存在ですよね。
解体要求の背景には、個人銅像としては大きすぎる(威圧感)が、倒壊の危険性より強かったのではないか?と勝手に想像します。
ではこの内山なる彼の人物像を調べてみますと実にもったいない気もします。
改めて、
横浜市民に聞く!
「戦後県知事を何人知っていますか?」
“内山 岩太郎(うちやま いわたろう)”は、戦後初の民選(公選)神奈川県知事です。
戦前南米・ヨーロッパで外交官を務め実績を残します。
戦後は1947年から67年まで5期20年の長期にわたって神奈川県知事でした。
彼は5期務めただけはある!
いろいろ足跡を残しています。
個人的に評価するのは
1951年(昭和26年)神奈川県鎌倉市雪ノ下・鎌倉八幡宮境内に開館した元神奈川県立近代美術館(坂倉準三設計)
1954年(昭和29年)11月に開館した神奈川県立図書館と音楽堂(前川國男設計)
この二つの文化施設建設を(当時の状況下で)推進した功績は大きいと思います。
双方共に建て替え(廃止)計画が持ち上がりますが、多くの存続支援活動を経て現在も現役で活躍しています。
また、横浜開港100周年を記念して昭和34年(1959年)にオープンしたシルクセンター(坂倉準三設計)建設にも尽力しています。
当時これこそ財政難の折、選択眼は間違っていませんでした。
(内山 岩太郎略歴)
1890年(明治23年)2月28日
前橋市天川原町5、農業岩吉・ちか子の三男として誕生
1902年(明治35年)4月1日
群馬県立前橋中学校入学
1907年(明治40年)4月8日
東京外語学校スペイン科に入学
1909年(明治42年)9月15日
外務省留学生としてスペイン・マドリードに到着
1912年(明治45年3月
外務書記生に任命、在スペイン公使館勤務
1917年(大正6年)11月22日
外交官領事官試験に合格、チリ在勤を命じられる
南米・ヨーロッパの外交官勤務5年に及ぶ
1923年(大正12年)1月11日
内田康哉外務大臣の秘書官に任命
1924年(大正13年)1月16日
十文字信介の娘登志子と結婚
南米・ヨーロッパの外交官勤務15年に及ぶ
1937年(昭和12年)10月22日
アルゼンチン公使に任命
1942年(昭和17年)7月24日
広田弘毅に和平を進言
1943年(昭和18年)3月31日
外務省から退官
1947年(昭和22年)4月5日
神奈川県知事選に立候補し初当選
1957年(昭和32年)3月1日
川崎臨海工業地帯造成に着工
1962年(昭和37年)2月15日
津久井郡城山町にダム建設着工
1966年(昭和41年)5月17日
県新庁舎落成
1966年(昭和41年)
勲一等瑞宝章を受章。
長年の功績がたたえられてペヘレイがアルゼンチンから移植された
1967年(昭和42年)4月22日
在職21年におよんだ神奈川県庁を去る
1968年(昭和43年)6月17日
登志子夫人死去
1971年(昭和46年)11月16日
横浜市港北区日吉本町自邸にて死去
エピソードは満載です。
トピックスは、
1942年(昭和17年)7月24日、もう戦争始まってます。
年齢一回り先輩の広田弘毅に和平を進言しますが時遅く、
1943年(昭和18年)3月31日外務省を退官します。
■カトリック信者で頑固者。(大平正芳にも共通)
■スペイン語は滑らか堪能で、戦前は外交官として活躍。
■「相模湖」の命名者、命名でいえば県立「柏陽」高校の名付け親。
■戦後は吉田茂の信任が厚く、進駐軍と丁々発止ディベートする交渉力。
■終戦直後の食料危機への現場対応の見事さ。
■政治的には神奈川県政のドン河野一郎とは同じ保守陣営でありながら犬猿の仲。
■米国排日政策の中、ブラジルへの集団的移民に多大な貢献をします。
http://www.ndl.go.jp/brasil/greetings.html
産業育成では
■いち早く地域ブランドの育成に着手した独自の「神奈川県指定銘菓」制度を制定し推進します。(現在も活きてますね)
■内山岩太郎知事、最後の仕事として推進したのが「神奈川県立歴史博物館」(けんぱく)です。
(何故私学会館に銅像?)
内山岩太郎神奈川県知事は「心して育てよ日本の子供らを」という言葉のレリーフを神奈川県立総合教育センターに残しています。
彼の功績の代表例は“教育振興”といえるでしょう。
近代日本における初の私立学校は横浜(神奈川)から始まりましたが、第二次世界大戦後、神奈川県内の私学各校のダメージは相当のものでした。
物的被害、人的被害、資金難のハードルを乗り越せるために様々な県政手腕を発揮、神奈川私学にとって「中興の祖」とも称せられました。
○県私立学校審議会設置
○「学校法人の助成に関する条例」(私学助成)施行
※全国に先駆けて私立学校教育のための補助金制度を整備した功績は大きいと言えるでしょう。
横浜市と神奈川県の関係に付いても何れ紹介しましょう。
No.324 11月19日(月)広田弘毅に和平を進言した男像
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=268
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=180
No.321 11月16日(金)吉田くんちの勘兵衛さん(加筆)
開港場「横浜」生みの親は誰でしょう?
私は“吉田勘兵衛”さんだと考えます。
彼の名が現在市内の一部に残っています。
その代表が「吉田橋」と「吉田町(商店街)」です。
1946年(昭和21年)11月16日(土)この吉田町商店街が復興祭を開催(17日まで二日間)しました。
この記事から
ざくっと(おこがましいですが)吉田町商店街を巡るエピソードを当ブログ流に追って?みましょう。
まず吉田町商店街はどこにあるのでしょうか?
現在の吉田町は伊勢佐木町と野毛町を結ぶ短い商店街です。
開港後横浜が国際港として整備が始まり、国内用と外国用の桟橋ができました。
国内用の日本波止場から「馬車道」が走り「派大岡川」の「吉田橋」を抜け伊勢佐木町商店街横から野毛と「横浜道」に抜ける商店街が「吉田町商店街」です。
それでは始めましょう。
吉田町商店街は幕末から昭和40年代まで、
継続してずーーーっと
横浜で一番コンスタントに賑わっていた“隠れ人気スポット”でした。
だから、終戦直後も一番に「復興祭」を開催したのでしょう。
1946年(昭和21年)11月16日(土)の「復興祭」は、神奈川新聞に広告と記事が出ています。
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写りが悪いのでご勘弁ください |
“吉田町復興際”
進駐軍の許可を得て清水組(現在の清水建設)の全面協力で商店街を再建します。
※清水建設は1858年(安政5年)井伊直弼より開港場横浜の外国奉行所などの建設を請け負い横浜開発とは縁が深いゼネコンです。(都橋脇に横浜支店があります)
そこに戦前のお店が復活しその記念セールをするといった内容です。
(広告では)70の店舗が揃ったとPRしています。
ビクターの歌手が3名出演する“歌謡ショー”も同時に行われました。
3人の歌手とは
晩年は横浜で暮らしたデュエットの藤原亮子、
第1回日本レコード大賞童謡賞を受賞した石井 亀次郎。
そして新人の平野愛子でした。
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平野愛子(wikipedia) |
これは中々特筆すべきことで、歌手 平野愛子が新人で登場していることです。
平野は1945年(昭和20年)暮れにビクターが行った歌手募集で3,000人の中から7人という400倍以上の倍率から選ばれた大型新人でした。
特にビクター専属作家「東辰三」に見いだされ
1947年(昭和22年)4月にビクターが戦後初のレコードとしてリリースした
「港が見える丘」で第一線に躍り出た
「濡れたビロウド若きブルースの女王、平野愛子」です。
この歌のヒットが「港の見える丘公園」の名につながります。
No.129 5月8日 ヒット曲の公園
港が見える丘 平野愛子
https://www.youtube.com/watch?v=VHJd8VMleCU
この“吉田町復興際”開催から半年後ですから、もうライブで練習していた頃ではないでしょうか?
当時を知る方から平野愛子は吉田町で何を歌ったか聞いてみたいものです。
(開港以前に横浜に着目)
この吉田町商店街、吉田橋の名が残る「吉田」は、横浜の関外地区を開港前に私財を投げ打って埋め立てた「吉田勘兵衛」さんの「吉田」です。
彼の努力、開拓精神が無ければ今の横浜は無く、開港場は最初の要求通り“神奈川”になっていたかもしれません。
(悲劇の埋立て王)
吉田家の代々に渡る横浜埋立て物語は語るも涙の物語です。
横浜に広大な新田を造った吉田 勘兵衛は江戸時代前期の日本橋で材木商を営み財を成します。高島嘉右衛門、苅部康則らとともに横浜三名士といわれました。(時代はズレますが)
※マルチビジネスマンだった高島嘉右衛門
保土ケ谷宿の本陣を代々管理し、横浜道を造った苅部康則
吉田勘兵衛、
新田開拓に関しては、隅田川沿い、千住中村の音無川流域を埋立て農業の世界でも成功します。
1656年(明暦2年)に横濱の入海に目をつけます。
幕府の許可を得て新田の開発(干拓)に着手し数々の苦労を乗り越え完成し「吉田新田」と名付けます。
この功績により苗字帯刀を許され、子孫は代々この新田に住み続けることになります。現在は大岡川近くの「吉田興産ビル」にその名残があります。
大岡川吉野町辺りから現在の首都高速までぜーーーんぶ、
吉田家の奮闘でできた土地です。
工事の途中、潮除堤が崩壊し干拓途中の土が流されたりしますが、地元の人々の意見をまとめあげながら約20年かけて
1667年に完成させます。
信心深かった吉田勘兵衛は
「新田開発の成功は村民の努力と神様や仏様の守りがあったからだ」と考え“お三の宮日枝神社”と長者町八丁目に“常清寺”を建てます。
吉田家の菩提寺となっている“常清寺”はその後、久保山に移りますが共に祀られた「浄地院殿永運日浄清正公大神祇」(清正公様)は現在も(清正公通り)と共に長者町に残っています。
吉田家は明治に入って、横浜開港場の水運機能を高めるために中村川から根岸湾までの運河を開削し「堀割川」工事を進めます。途中財政難に陥りますがなんとか完成します。
現在の吉浜町・松影町・寿町・翁町・扇町・不老町・万代町・蓬莱町はこの土砂を使って埋め立てられたのです。
まさに現在の横浜は「吉田さん」のおかげです。
No.214 8月1日 (水)開港場を支えた派川(はせん)工事
(最近元気な吉田町)
最近元気になった「吉田町」に関しては
http://www.yoshidamachi.org
十六夜吉田町スタジオ
http://izayoiyoshidamachistudio.com/ja/
カクテルの世界チャンピオンのお店「ノーブル」も吉田町にあります。
No.134 5月13日 必ず素晴らしい日の出が訪れる
その他
吉田町商店街付近はまだまだ十話分以上のネタがありますが、
今日はこのへんで。またの機会に。
【番外編】吉田町雑景
No.352 12月17日(月)市民の財布を守った都南
1894年(明治27年)頃に「第一有隣堂」を当時のビジネススポット吉田町通りに開業します。
No.319 11月14日(水)東のヨコシネ(加筆修正)
今日は映画に因んだ話しを紹介します。
たまたま「ハマことば」(伊川公司)神奈川新聞社を読んでいたら
「ヨコハマシネマ」という項目が出てきました。
今日はこの「ヨコハマシネマ」こと「横浜シネマ商会」の話しです。
横浜シネマ商会は1923年(大正12年)に創業した現像・映像企業です。
現在は(株)ヨコシネ ディー アイ エー(英文名:YOKOCINE D.I.A. INC.)と商号を変更しています。
http://www.yokocine.com
(ヨコハマシネマ)
「ハマことば」(伊川公司)の「ヨコハマシネマ」の項には、
「戦前の記録映画とアニメーション映画には必ず「ヨコハマシネマ(横浜シネマ)」という文字があります。(中略)横浜市神奈川区の素封家に生まれた佐伯永輔という人が大正十二年(一九二三)年一月に横浜シネマ商会を創立し、同区栗田谷の土地一万三千二百平方メートルに現像所を新築して映画製作を始めたとあります。」
(創業者 佐伯永輔と仲間達)
横浜シネマは映画オールドファンにはよく知られた企業で、
映画黎明期に現像の世界で西の極東フィルム研究所(東洋現像所、現在イマジカ)、東の横シネと呼ばれていました。
横シネ創業者の佐伯永輔(さえきえいすけ)は米国留学後、
横浜市中区の都橋際で
1920年(大正9年)「都商会」という写真器材店を創業しました。
写真材料の「都商会」から映像(動画)制作・フィルム現像の企業を立ち上げ国内トップクラスに育て上げたのは彼の人柄から生まれた“出会い”からでした。
(風来坊)
横シネに欠かせない人がいます。
広島県出身でカメラ技術を独学で習得した後、
長谷川伸二郎(後の長谷川伸)の下で横浜毎朝新聞社の記者として働いていた“相原隆昌”という人物です。
ブッキラボウな彼は、広告の撮影をしながら個人でフィルムの現像、焼付けも行なっていたカメラマンでした。横浜毎朝新聞社を辞め、中央新聞横浜支局に転じ花柳界・演芸関係を担当しますがまもなく辞職し姿見町にしる粉店を開業します。
経営は上手くいかず1918年(大正7年)オデヲン座に就職します。
座主平尾榮太郎に見いだされた相原隆昌は、同座の仕切り場員に就き動画に深く関わることになります。
この頃、都橋の「都商会」に来店し いきなり佐伯永輔に
「活動写真をやっているそうだが、カメラを貸してくれないか」と持ちかけたそうです。佐伯は商売の機材として撮影機を扱ったことはあるが技術的には未熟だったためこのブッキラボウな相原隆昌からノウハウを入手しようと「現像現場」も見せてもらうことを条件に、貸し出します。
(風呂場で現像)
動画フィルムの現像技術を知るために相原の現像所を訪れると、「横浜シネマ商会」という看板のあるそこは病院の看護婦が使用する“お風呂場”だったそうです。場所はともかく現像の腕前は中々のものだったのでしょう、二人は意気投合し終生のパートナー上野幸清(カメラマン)と「合資会社横浜シネマ商会」を1923年(大正12年)1月に設立します。
同年5月に会社を神奈川区栗田谷に自宅兼現像所を置きます。
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Wikiより現在の社屋 |
その後、震災前にオデヲン座の絵看板やタイトル画家だった
天才アニメーター村田安司が加わり、アニメーションの世界にも進出します。
※村田安司(1896〜1966)は、動体の切り紙を背景画の上に載せて撮影する切り抜き漫画映画の名手と言われた。1923年に設立された横浜シネマ商会(現在は横シネDIA)に長く勤め、34年に切り紙とは思えない緻密で流麗な動きの代表作『月の宮の王女様』を制作したほか、数多くの作品を残した。
(アニメとドキュメンタリーのハマシネ)
「横浜シネマ商会」が制作する村田アニメ、
上野幸清の撮る報道映画は当時のオデヲン座始め全国で大ヒットします。
中でも報道ドキュメンタリー映画は当時各社競争の中、行動力が鍵でした。
例えば「横浜シネマ商会」の佐伯、上野コンビは 1936年(昭和11年)アマゾンとブラジル移民を現地取材します。
当時の新聞には
「先ずブラジルでは邦人のコーヒー栽培、ついでアマゾニア移住地に向い、小ボートでマナオス一帯の大処女林まで遡航し珍奇な土人の生活や猛獣、さては飛行機上からアマゾンの全貌を収める等の活躍をなし 更にこんど新たに我移民を送ることになったパラグアイ国その他ウルグアイ、アルゼンチン、チリー、ボリビア、ペルーの七ケ国を歴訪」(神戸新聞)
この取材は「南十字星は招く」(昭和13年)として発表され「海の生命線」(昭和8年)、「北進日本」(昭和9年)と併せて横浜シネマ三部作として歴史にその名を残します。
(戦後も独自技術を活かす)
戦後、1953年のテレビ放送開始に先立ってNHKは機動性や速報性を重視しし35ミリではなく16ミリフィルムを使うことを決めます。ところが16ミリフィルムの現像施設が少なかったことから、横浜・神奈川区に現像所と編集室を整備していた「横浜シネマ」が受託し東京・内幸町の放送会館と横浜とを自動車で往復してフィルムを運んだというエピソードが残っています。(その後NHK独自の設備が整備され特急受注はなくなります)
(シェアする心)
1936年(昭和11年)いち早く海外の最先端機器を導入し使いやすく機能アップの改善改造しその技術の普及にも貢献します。
この改善型は1955年(昭和30年)に新型が米国から導入されるまで日本国内の主流現像機として活躍します。
※長谷川 伸
(はせがわ しん、1884年(明治17年)3月15日〜1963年(昭和38年)6月11日)は日本の小説家、劇作家である。本名は長谷川 伸二郎(はせがわ しんじろう)。使用した筆名には他にも山野 芋作(やまの いもさく)と長谷川 芋生(はせがわ いもお)があり、またそのほか春風楼、浜の里人、漫々亭、冷々亭、冷々亭主人などを号している(筆名が多いのは新聞記者時代の副業ゆえ名を秘したためである)。
「股旅物」というジャンルを開発したのはこの長谷川であり、作中できられる「仁義」は実家が没落して若い頃に人夫ぐらしをしていた際に覚えたものをモデルにしたという。
この「横浜シネマ商会」は1923年(大正12年)1月1日創業で、戦後1950年(昭和25年)11月14日(火)の今日、「株式会社横浜シネマ現像所」として設立されます。
1993年(平成5年)CI導入と同時に株式会社ヨコシネディーアイエー
(YOKOCINE D.I.A. INC.)に商号変更されました。