暦で語る今日の横浜【9月4日】
●1886年(明治19年)の今日
「オランダ人シュネル(Edward Schnell)の借地料不払に対し、県では知事の名をもつて、オランダ領事庁裁判局判事宛に訴状を出した 。シュネルは明治6年10月県から借りうけた外国人居留地169番の借地料を期限がすぎても払込まなかつた。」
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現在の港郵便局あたり? |
ここに登場するオランダ人シュネルが幕末期の武器商人“スネル兄弟”の弟かどうか調べていませんが
“スネル兄弟”だとすると
弟シュネル=スネルは、会津藩家老梶原平馬が河井継之助を仲介してEdward Schnellからライフル銃780挺と2万ドル相当の弾薬を購入。河井継之助自身も数百挺の元込め銃とガトリング砲を2挺購入しています。兄・John Henry Schnellは梶原平馬の仲介で会津藩の軍事顧問を務めます。戊辰戦争で破れても
兄・John Henry Schnellは、に会津若松の人々約40人と共にカリフォルニア州へ移住し「若松コロニー」という名の開拓地を建設します。
弟共に、スネル兄弟は謎多き二人です。まだまだ新資料で実像が見えてくるかも知れません。
No.169 6月17日(日)私は武器を売らない
※居留地169番というと、1863年(文久3年)に来日したジェラールの事務所があった所と同じ地番です。
No.58 2月27日(月)政治家が辞めるとき
この辺、にわか調査ですので 何れ調べてみます。
●1915年(大正4年)の今日
画家 五姓田義松(ごせだ よしまつ)が横浜市中村町打越の自宅で亡くなります。
享年60歳です。
1936年(昭和11年)3月に横浜の日野墓地にも墓が建てられます。
五姓田はチャールズ・ワーグマンに師事し
1874年(明治7年)川上冬崖の推薦で陸軍士官学校に図画教師として勤務します。
1876年(明治9年)工部美術学校に入学しアントニオ・フォンタネージに師事しますが、翌1877年(明治10年)に退学します。
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アントニオ・フォンタネージ |
1880年(明治13年)25歳にして宿望のパリ留学を果たしレオン・ボナに師事、日本人初のサロン・ド・パリ入選作家となります。
晩年は酒に弱れ奇行に走り寂しい生涯を送ります。
※画家フォンタネージhttp://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/1977/126.htmlフォンタネージは、イタリアの画家。わが国最初の美術学校である工部美術学校の開設とともに、画学教師として政府から招聘されて約2年間教鞭をとっています。58歳のときでした。(Antonio Fontanesi, 1818年2月23日〜1882年4月17日)
●1942年(昭和17年)の今日
「横浜市史稿」の生みの親、市史料調査委員会嘱託“弦間冬樹”さんが22年の勤続に対し市の表彰をうけました。
※横浜市嘱託として大正・昭和戦前期の市史編纂事業に関わった弦間冬樹さん(1879年〜1945年)の資料は横浜開港資料館で閲覧できます。横濱市町名沿革誌、横浜事物起源などの自筆原稿が閲覧できます。
●1976年(昭和51年)の今日
地下鉄
伊勢佐木長者町〜横浜間
上大岡〜上永谷間が開業しました。
地下鉄運賃が改定され1区40円→60円
それまで地下鉄伊勢佐木長者町と県庁を結ぶ連絡無料バスが廃止されます。
というか?なんで無料だったのでしょうね?
No.248-2 9月3日 坂の上の星条旗 改題
清水港パフォーマンス
「長崎港を出たグラント一行は、7月2日に静岡の清水港で漁師達の投網漁のパフォーマンスを見て短時間ですが上陸します。このサプライズにグラントは感激します。このパフォーマンスを担当したのが山本長五郎、清水の次郎長でした。この“仕立て”には米国に渡った咸臨丸・咸臨丸を攻撃した米国製の蒸気戦艦富士山丸、それを斡旋した米国公使プルインのエピソードがあり、グラントはおそらくパフォーマンスの背景を聞いて大声を挙げて笑ったに違いありません。(別掲予定)」
をもう少し詳しく紹介します。
このエピソードには 二隻の艦船と二人の人物が登場します。
●幕府軍艦 咸臨丸
●蒸気戦艦 富士山丸
●米国駐日公使プルイン
●米国駐日公使ジョン・アーマー・ビンガム(John Armor Bingham)
再度整理します。
日本を訪れたグラント将軍(元大統領)は、
静岡県清水に上陸し漁師達の投網漁のパフォーマンスを楽しみます。
そのパフォーマンスを用意したのが
グラントの盟友、米国駐日公使ジョン・ビンガムです。
母国ではホイッグ党(共和党)議員として 共に南北戦争を戦います。
グラントは将軍として北軍を率い 勝利に導きます。
パフォーマンスを仕切ったのが
清水の次郎長(山本長五郎)です。
明治に入り、かつての任侠は清水の町で英語塾を開くなど
地域の発展に大活躍します。
ここに登場したのが明治新政府と戦った幕府残党の乗る軍艦「咸臨丸」です。
「咸臨丸」が一番知られていますね。
1860年(万延元年)に木村摂津守以下に本チームが太平洋を横断した船です。
1860年(万延元年)はまさに南北戦争前夜で、
咸臨丸・ポーハタン号に乗船した日本人メンバーは、
アメリカ史上最悪の内戦直前のアメリカを視察することになります。
咸臨丸は
幕末期に江戸幕府が保有していた蒸気船で初期の軍艦として20年間幕府艦船として活躍しました。
1868年(明治元年)9月咸臨丸は清水港沖で、
新政府の最新鋭軍艦「富士山丸」に追いつかれ攻撃を受けます。
この「富士山丸」
1862年10月14日(文久2年閏8月21日)幕府が米国に発注し
1866年1月23日(慶応元年12月7日)で横浜に到着した軍艦です。
殆ど戦争には使用されず
1868年(慶応4年)幕府が大政奉還に際し
明治政府へ「朝陽丸」「翔鶴丸」「観光丸」と共に上納されます。
この「富士山丸」実は納品直前に起った「下関事件」で
“差し止め”を受け納品が大幅に遅れます。
当時 初代米国公使タウンゼント・ハリスに代り
1861年、エイブラハム・リンカーン大統領はロバート・ヒューソン・プルインを第2代駐日米国公使に任命します。
1862年10月14日幕府がプルインを通して軍艦を発注します。
「富士山丸」はほぼ完成し、納品寸前の
1863年(文久3年)に長州藩が「下関事件」を起こし英仏米蘭との戦争に発展します。
結果は長州の完全敗北となりますが、この戦争の賠償金は“幕府”が負担することになります。
※背景には攘夷思想以外に国内の物価が高騰や大量の金流出による幕府の経済失政がありました。
No.466 19世紀の「ハゲタカファンド」
→欧米4カ国に莫大な賠償金を支払うことになりますが、米国のみこの賠償金を国庫に入れず「債券」として貯金し、明治に入って“不当に得たもの”ということで日本政府に返還します。
幕末の転換期となった「下関戦争」は、米英の外交官にとっても転換期でした。下関攻撃を主導した英国公使オールコックは、本国の命令前に攻撃命令をだしたため、更迭されます。一方、米国駐日公使プルインは英国とは一線を画し日本情勢を冷静に分析します(〜1865年)。
この下関戦争返還金が横浜港の築港整備費用に充てられ、大さん橋ふ頭等が1894年(明治27年)に完成します。
グラント元大統領の対応に当たった駐日公使
ジョン・アーマー・ビンガムに関しては、近年詳細な記録が発見されました。
「ビンガム・ペーパーズ」と呼ばれ 現在資料分析が進んでいます。
ビンガム公使は
1873 年(明治6年)9月25 日、夫人(アマンダAmanda)及び2人の令嬢(エンマ
Emma及びマリーMarie)と共に着任します。
1885年(明治18 年)7月21 日に離任するまで12年間、歴代駐日外交官としては最も長い任期を務め上げました。
在任中は特に「不平等条約」の改正に尽力し日本政府を強力に『バックアップ』し、当時の英国公使パークスと徹底的に衝突した人物です。明治天皇は離任直前のビンガム公使を午餐に呼ぶなど信頼も厚かったようです。
ちょっと説明が下手で 判りにくかったかもしれません。
機会があれば もう少し判りやすく さらに背景も説明したいと思います。
今回はこれにて 御勘弁下さい。
暦で語る今日の横浜【9月3日】
●1879年(明治12年)の今日
「午前八時三十分、グランド氏並夫人・令息の一行、横浜停車場に着、神奈川県庁の馬車に乗車して、元弁天東海鎮守府に暫時休憩、同所海岸より小蒸気船にて米国郵船シテーヲフ東京号へ乗船、同十一時発錨す、此時、神奈川砲台及碇泊の各国軍艦より祝砲を発す、此日其神奈川に至るや、内田町に於て煙火を打揚げ、其通路市街、日米国旗を掲げ祝意を表す、着車の際は内外送迎の官員・紳士・紳商、夥敷縦覧、人は停車場より本町六丁目迄立錐の余地なく群集す、為めに一時往来を止む、又祝砲の響を聞き海岸へ走るあり、或は船を雇ふて海面に浮ぶるあり、恰も海岸に人垣を築きし如く、人々別を惜みて汽船の進航を望見して解散せり」
No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)
No.248 9月4日(火)坂の上の星条旗(後)
●1921年(大正10年)の今日
当時皇太子であった裕仁親王(昭和天皇)がヨーロッパ各国を歴訪し、予定通り横浜港に到着した日です。
この皇太子ヨーロッパ訪問は、当時の大問題になります。
日本の皇太子が欧州に訪問することは初めてのことで、賛成・反対で大きな議論となります。この時すでに大正天皇は病中にあり、国政も余談を許さない状況でした。
そこに派閥政争のファクターも加わり混迷の昭和時代に突入する前夜ともいえる状況でした。欧州洋行を推進したのが山県有朋で松方正義や西園寺公望、原敬首相も賛意を示します。
一方宮中内保守派は反山県派と共に“大正天皇の病中に外遊に出ることは不敬である”等の理由から猛烈な反対運動を繰り広げます。
※詳しくは皇太子の洋行問題、是非!調べてみてください。
関係者の同意を取り付け
1921年(大正10年)3月3日から9月3日までの間、皇太子(裕仁親王)はイギリス領の香港に始まり、イギリスとスコットランド。フランス、ベルギー、オランダ、イタリアを訪れます。
9月3日午前9時15分、皇太子(裕仁親王)を乗せた「香取」は航海を終え
横浜港に入港します。
埠頭から淳宮雍仁親王、光宮宣仁親王(高松宮)、閣僚、報道陣が乗る四隻のランチが皇太子を迎えました。
横浜市内も祝賀ムードで「帰朝記念花電車3両も運転」「花火の打上」も実施されました。
出迎えの中に、帝室博物館総長、森林太郎(鴎外)がやや前かがみに歩く姿がありました。
林太郎、晩年の1917年(大正6年)
帝室博物館総長兼図書頭に任命され、在任中は誠実にその職務を務め地味ですが多くの功績を残します。
1921年(大正10年)この日も病気をおして横浜へ向かい皇太子を迎えます。
1909年に横浜市歌を作詞したときの思い出も過ったかもしれません。
そして林太郎は翌年の1922年(大正11年)に亡くなります。60歳でした。
歌人木下利玄(35歳)も「横浜に行き、東宮帰朝の港を見物し、夜の花火を見て帰る。」と日記に残しています。
●1934年(昭和9年)の今日
「株式会社日本飛行機製作所」(横浜市金沢区昭和町3175番地)
発起人総会が開催され10月11日に設立されます。
http://www.nippi.co.jp
根岸競馬場・大桟橋・新港両埠頭が米軍の接収を受けます。
暦で語る今日の横浜【9月2日】
●1896年(明治29年)の今日
アララギの歌人であり、斎藤茂吉、島木赤彦などと親交があり同時代に活動した築地藤子(つきじふじこ)が横浜に生まれます。築地は神奈川県立第一高等女学校(現、横浜平沼高校)出身です。息子の別所直樹も詩人、評論家として活躍します。太宰治との親交がありその死までの5年間を師事し太宰関係の著作も多く発表しています。
1993年(平成5年)6月6日没。
No.81 3月21日 猛女養成学校出身
●1916年(大正5年)の今日
インドの詩人タゴールが三渓園に長期滞在後日本を去ります。
No.171 6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け
この日、9月2日に離日した理由は
1913年(大正2年)9月2日が岡倉天心の命日だったからです。
No.280 10月6日(土)天心と三渓
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福井市内にある天心像 |
●1923年(大正12年)の今日
関東大震災で被害を受けた市庁舎を桜木町の中央職業紹介所に仮市庁舎として移動します。三代目市庁舎となります(1923年(大正12年)〜1925年(大正14年))
No.256 9月12日(火)どこも本庁舎引越は大問題
この他 震災翌日の記録を一部紹介します。
→治療班本部が桜木町の海外渡航検査所に置かれた
→政府は非常徴発令を発布した→戒厳令が布かれた
→臨時震災事務局の官制が布かれた
→県庁仮事務所が海外渡航検査所内に設けられた
→陸戦隊が上陸、市民の救護をはじめた
→税関仮事務所・県港務部が港内コレア丸に置かれた
→飛行隊が出動した
→横浜公園で食料配布
将校・軍属・下士官などの家族住宅を建てる名目で「山下公園」が接収されます。
No.181 6月29日(金) オーシャンビューの35棟解体この他1945年(昭和20年)は
→アメリカ第8軍主力上陸瑞穂・高島・山の内各埠頭接収
→横浜港から米第一騎兵師団などが上陸
→GHQ指令第一号によって軍事施設の保全が命ぜられる
→戦艦ミズーリ号上で降伏文書調印
No.246 9月2日(日)90年後の横浜(加筆修正)
→マーシャルGHQ・AFPAC副参謀長が
占領軍の東京進駐と三布告を
鈴木九萬横浜終戦連絡委員会委員長に提示
●2001年(平成13年)の今日
(第一回)「横浜トリエンナーレ2001」が開幕します。(〜11月11日)
No.196 7月14日(土)きもかわいい
暦で語る今日の横浜【9月1日】
●1956年(昭和31年)の今日
横浜市は「政令指定都市」になりました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/政令指定都市
歴史を振り返ると【9月1日】は出来事の記録が多い日です。
年表を整理したら
140項目にも及びました。
●1874年(明治7年)の今日
「この日より洋酒一杯売営業者から免許税、密売者に対しては過怠謝金をそれぞれ徴収することになった。」と神奈川県史料にありました。これは面白そうだったので
No.271 9月27日(木)酒は国家なり
で 取上げました。
●1882年(明治15年)の今日
吉田健三(兼造)や竹内明太郎らが日刊の自由党機関紙「絵入自由新聞」を創刊します。
吉田健三は吉田茂元首相の養父です。
英学者であり、明治初期は太田村に醤油醸造業をいとなみ財を築き板垣退助の自由党を物心両面から支援しました。
1882年(明治15年)4月板垣退助が遊説中に暴漢に襲われ負傷した(岐阜事件)のさい、吉田は英一番館(ジャーディン・マセソン商会)横浜支店長、ただちに三井銀行の電報為替で100円の見舞金をおくつた逸話が残っています。
No.72 3月12日 シルクセンター完成式典挙行
高知県宿毛市出身の明治・大正期の実業家・衆議院議員。
小松製作所(現・コマツ)、唐津鉄工所の創立者。
早稲田大学理工学部の設立者としても活躍しました。
吉田茂の長兄で、麻生太郎財務大臣の大伯父にあたります。
日産自動車の前身の快進社等を設立した竹内明太郎の頭文字Tが
国産第1号車のダットサン(DAT)のTであることは有名。
日産は横浜本社となりましたから 少なからず縁がありますね。
※このエピソードは ブログにはアップしていません。
別の機会に 資料、画像を合わせて紹介します。
●1889年(明治22年)の今日
大衆文学の巨峰といわれた白井 喬二(しらい きょうじ)が横浜で生まれました。
当時父が官吏として横浜市に奉職中でしたが 父の転勤生活に伴い青梅、甲府、浦和、弘前と小学校を転々としますが最終的に父の出身地鳥取県米子市の小学校に転入し中学まで鳥取で過ごします。
●1909年(明治42年)の今日
「横浜共同電灯会社」が「箱根水力電気会社」を吸収合併し、「横浜電気株式会社」と改称しました。
No.197 7月15日(日)老舗ホテルを支えた横浜
ここで(余談)として「箱根水力電気」を紹介しています。
「横浜電気株式会社」に関しては かなりブログに登場しています。
No.365 12月30日(日)横浜初の発電所
●1912年(大正元年)の今日
大日本水道木管株式会社(資本金500,000円)が神奈川町に設立され昨年100周年を迎えました。
この大日本水道木管株式会社は現在も神奈川区(鶴屋町)に本社を置く木槽及び工業用冷却塔の製造販売大手。
http://www.nihon-mokuso.co.jp
●1932年(昭和7年)の今日
「横浜美術協会」が誕生しました。
会長は大西一郎
顧問に原富太郎
委員は洋画家、日本画家21名で構成されました。
●1952年(昭和27年)の今日
神奈川体育館アイススケート場が開場しました。
2013年4月
財団法人・神奈川体育館と公益財団法人・横浜市体育協会が統合
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1304250055/
神奈川スケートリンク
http://www.kanagawaskaterink.com/index.php
●1973年(昭和48年)の今日
洋光台第三小学校が開校し
洋光台第二小学校に第四分校が開校します。
●1997年(平成9年)の今日
バス運賃が改定されます。200円→210円
地下鉄運賃も改定1区180円→200円
バス短距離定期券新設
地下鉄昼間割引回数券新設→これは使い方でお得!!ですよ。
http://www.city.yokohama.lg.jp/koutuu/kyoutuu/kaisuuken.html