9月 19

【番外編】9月17日のある事件

●1946年(昭和21年)9月17日
横浜市戸塚区東俣野町である事件が起りました。
これは「別掲テーマ」で詳細をドラマ仕立てにしてみます!!!
と暦で語る今日の横浜【9月17日】で予告しましたので

ここにまとめてみました。出来は??

(以下若干想像が一部含まれています)
事件は、ある少女が藤沢市鵠沼海岸にある乃木高等女学校から校名を変更したばかりの湘南白百合高等女学校から帰宅途中に起ります。
住友財閥16代当主、住友吉左衛門(住友 友成)家の長女で、
白百合高女6年のK子さん(当時12歳)が、何者かに誘拐されます。

当時、住友家は1939年(昭和14年)横浜市戸塚区東俣野町に建てた「東京別邸」に暮らしていました。
※湘南白百合学園
http://www.shonan-shirayuri.ac.jp/about/

残念なことに、「旧住友家俣野別邸」は国の重要文化財に指定されていましたが、横浜市が整備中の2009年(平成21年)3月15日未明、不審火による火災で全焼し、「重要文化財」の指定を返上し、別の計画で再建が進められています。
再整備が完了し、現在は一般開放しています。
俣野別邸庭園

石積みにも迫力があります

ここからの富士山の眺めが絶景で、眼下に境川と田園風景が広がり晴れた日には丹沢山系、箱根、そして富士山が一望できる場所です。
現在でこそ、藤沢バイパスが走り便利になりましたが、当時は周囲にほとんど住宅も無く、山岳リゾートの感すら漂う林間地でした。

東俣野陸橋の奥が別邸正門

■旧住友家俣野別邸(きゅうすみともけまたのべってい)

1939年に住友財閥の創業者一族である住友家が建築させた和洋折衷の住宅である。現存しない。旧住友家俣野別邸は、1939年(昭和14年)に当時の住友家当主であった16代住友吉左衞門が発注した住宅で、住友家の東京本宅の別邸として現在の神奈川県横浜市戸塚区東俣野町の丘陵地に建築された。設計者は佐藤秀三であった。

基本的には当時の大財閥一家が生活するために、使用人の居住区も備えた大規模な西洋風建築であるが、設計に際し北欧の伝統的な建築様式である柱や梁を露出させる様式を基本としながらも、屋根に日本瓦をのせるなどの伝統的な和風様式も取り入れている。建物はY字形で、昭和時代初期に流行したモダニズムの影響を受けており、和洋と現代建築が融合し折衷した建築物であった。1998年ごろまでは住友家に縁の者が生活していたが、2000年に相続税として国に物納され、政府に所有権が移った。※現在無償で貸し付けを受けて横浜市が管理2004年7月に国の重要文化財に指定され、保存と一般公開に向けて2008年(平成20年)1月から修復工事が進められていたが、2009年(平成21年)3月15日に焼失した。

(事件)
1946年(昭和21年)9月17日午後、
「警察の者ですが、お父さんのことで重大事件がおきたので、あなたにお尋ねしたいことがあります」
と一人の男に声をかけられます。声をかけたのは東京生まれの鉄道機関助手だった樋口芳男でした。
樋口には誘拐の前歴があります。
戦中の1944年(昭和19年)にも女子学習院付属初等科5年生だった松平子爵令嬢(当時12歳)に「お父さんに渡す大切なお金を渡すから一緒に来てください」と声をかけ誘拐し都内を連れ回しますが、数日後に逮捕されます。
彼は戦時強制猥褻罪で刑務所に拘置、「3日間連れて歩いただけ」と主張しますが取り調べで厳しい拷問を受けるなど、警察に反感を持つようになります。
※誘拐犯罪そのものは許されない犯罪ですが、犯人樋口芳男に関してはネット上で誘拐暴行の常習犯としてデータがコピペされ流布されていますが、真偽が不明です。要人誘拐ありながら軽い罪状からも安直に信じることはできません。

樋口は半年間に及び取り調べを受け、懲役3年の実刑判決を受けます。
八王子の少年刑務所に収監されますが「過酷な刑を受ける言われはない」と終戦目前の7月30日に看守の目を盗んで脱走します。終戦の混乱期だったため、各地を転々とすることが出来、終戦と共に偽名を使い自由な生活を送ります。
樋口芳男にとって少女誘拐は“営利”としてではなく、小さい頃からの女性へのコンプレックスの顕われとして常習化します。
戦争の終わった1946年(昭和21年)3月、日本女子大の付属に通う日本帝国工業専務の長女Kさんを誘拐し、連れ歩きます。兄妹と名乗って安宿を転々としますが、
被害者の少女も決して恐怖や不快な感情は持つことはありませんでした。彼女自身から進んで食料を調達したり、逃亡生活を続けますが定職に就ける訳も無く資金が枯渇します。そこで少女Kさんは意外な行動に出ます。
母親のもとに、Kさんからお金を無心する手紙を書きます。娘の消息を知った家族は驚き、警察は“受取り指定”の築地本願寺周辺に張り込みをします。
約束の時間に金を受け取りに現れたのは、なんと被害者であるはずのKさんだったのです。母親の合図で、刑事が走り寄って犯人に手錠をかける手筈となっていましたが、母親は合図も忘れ犯人を逃してしまいます。

それから半年後の9月17日に樋口芳男は、あらたに少女誘拐を企て今回の事件が起ります。
この誘拐事件ははじめ脅迫状や身代金の要求がなく犯人の目的がわからなかったため戦後初の公開捜査となります。
逃亡の足跡を追います。
9月17日
学校の近くの江ノ島から横須賀へ行き、千葉県津田沼に泊ります。

 翌日18日には千葉県の稲毛に宿泊します。
19日に上野発直江津行きの夜行列車に乗り車中で泊ります。
20日には篠ノ井経由で松本に到着しますが公開捜査のため山奥に逃走しようと考えます。
21日中央線で名古屋へ向かいます。
22日名古屋に着き中津川へ向かいますが、
公開捜査で木曽の山奥に逃げこもうとしますが途中で列車に乗りこんできた老婆に通報され
23日朝、岐阜県恵那郡付知町の宿泊先で逮捕され、事件は収束します。
この時も、被害者であった少女住友K子さんは、樋口にほとんど警戒心を持たず、新聞記者の取材に

『あの人(犯人の事)と、千葉で映画をみた。とても楽しかったわ。映画を見たのは、生まれて初めてで・・・ あの人が、「あなたは、命を狙われている。わたしが守ります。」と 言われ、その言葉を信じていたわ。 それに、あの人が わたしの兄で・・名前は本多良男。 わたしは、あの人の妹で・・一緒にいて 本当のお兄さんの様に 思えてきの。千葉では、お化粧品 一式を買ってくれた。 名古屋ではスカート。わたしが退屈すると お人形さんを 作ってくれたり、とても優しくしてくれて 淋しいなんて 思わなかったわ。あの人が そんな悪い人とは思えない。』

と答えますが、
記事の内容は「ただもう怖くて、一刻も早くお家に帰りたくて・・・」
と変更されました。

事件後、住友家には5通の脅迫状が届きました。
全て公開捜査情報を悪用した別人によるいたずらでした。

事件解決の翌日の9月24日、GHQは財閥解体の具体方針を発表し三大財閥(三井、三菱、住友)の所有する証券類を持株会社整理委員会へ移管するよう命じます。

しかし、当時の住友吉左衛門(住友 友成)は住友財閥における住友家、特に15代目吉左衛門友純以降の「君臨すれども統治せず」の立場をとっていたため、終戦直後すでに関係会社の役職を辞任し一切の役職に就くことはありませんでした。
住友 友成は歌人としても秀作を多く作り
「泉幸吉」としても有名です。歌集に『樅木立』(私家版、1973)があります。
「泉幸吉」の名は、住友家の屋号「泉屋」に由来するそうです。

この東俣野別邸公園近くには運動施設の充実した「東俣野中央公園」があり、ここからの富士山、丹沢山系、境川流域風景は絶景です。

公園から旧横浜ドリームランドが見えます。(望遠)
テニスコート、運動場、野球場

※交通手段
 「別邸」は戸塚駅前(バスセンター)から藤沢行き「鉄砲宿」下車5分
 「中央公園」は同じく「諏訪神社前」下車5分

9月 19

暦で語る今日の横浜【9月19日】

横浜の年表から
 今日起った出来事をピックアップしました。

今日は「千島艦事件」を中心に紹介します。
●1895年(明治28年)の今日
「千島・ラヴェンナ号事件が、横浜のイギリス法廷で解決した」

千島・ラヴェンナ号事件は「千島艦事件」と呼ばれ、
明治時代の日本軍艦の沈没補償をめぐる日英間の紛争事件です。
日本政府が訴訟当事者として外国の法廷に出廷した最初の事件ですが、その裁定結果を巡り日本国内の国会・世論を巻き込んだ一大事件となり、決着まで3年かかった事件です。
ここに簡単な経緯を紹介しておきます。
事件は
1892年(明治25年)11月30日に日本海軍の水雷砲艦千島がイギリス商船と衝突、沈没し乗組員74名が殉職します。

東京青山墓地にある千島艦乗員の慰霊碑

この年の8月8日には第2次伊藤博文内閣が成立、外務大臣は陸奥宗光、大山巌は陸軍大臣に復帰し、この事件に関わることになります。

この事件を陸 羯南(くが かつなん)は早速新聞に掲載します。

<軍艦千島号の沈没 既に電報欄内にも記せしが如くなるが尚ほ海軍省に達したる電報に曰く今朝五時頃伊予和気郡堀江沖に於て我軍艦千島号は英船ラベナ号と衝突し千島は遂に沈没せり生存するもの十六人なりと又た神戸通信者より我社に達したる電報に拠れば其要左の如し千島号の溺死者は七十四名なり摩耶、武蔵、葛城の三艦は当港を出発して直に千島遭難地に向ひたりとあり右に付海軍大臣は宮中に伺候して事の次第を上奏したり。海軍大臣の官邸には伊東次官、山本大佐、村上書記官を初しめ相会して協議せり。千島は去月二十八日神戸へ向け出発したるものにして我か新造の軍艦なり>(明治25年12月1日)

日本海軍がフランスに発注していた砲艦千島(750トン)が仏国ロワール造船所で竣工し日本に回航、長崎港を経由して神戸港に向かう途中、愛媛県和気郡沖の瀬戸内海で、イギリスのP&O所有のラヴェンナ号と衝突し「千島」は沈没、乗組員74名が殉職します。
ラヴェンナ号も損傷を受けますが軽微なものでした。
当時の日本はいまだ不平等条約下にあり、
安政五カ国条約によって領事裁判権が設定されていました。
イギリス商船に関する裁判は横浜のイギリス領事裁判所で第一審が開かれます。
●1審は反訴のみが却下され、日本側の実質勝利
双方とも不服を抱いて上級審にあたる上海のイギリス高等裁判所に控訴。
●2審ではP&Oの全面勝訴
この判決をめぐって 国内・国会が紛糾。
政府は2度にわたって衆議院解散を断行
英国本国の枢密院に上告を決めます。
1895年(明治28年)7月3日
英国枢密院は上海の判決を破棄して横浜領事館への差し戻しを命じるとともに、P&Oに日本側の訴訟費用約12万円の負担を命じます。
1895年(明治28年)9月19日
日本政府とP&Oの間で和解が成立します。
※P&Oは1万ポンド(日本円で90,995円25銭)の和解金と日本側の訴訟費用全額を負担する代わりに日本政府は一切の請求権を放棄。

「もののふの河豚にくはるる悲しさよ」

正岡子規は1892年(明治25年)12月2日の新聞「日本」に、俳句時評「海の藻屑」と題し、千島艦沈没を句で評しました。

二審で千島艦事件日本敗訴がきっかけとなり「対外硬派」が誕生し
「内地雑居反対・対等条約締結・現行条約履行・千島艦訴訟事件詰責」を主張、政党も同調し、日清政争への序曲となっていきます。

(岡村輝彦)
この千島艦事件を日本代表の弁護士として英国と法廷で戦ったのが岡村輝彦です。
彼は後に中央大学第3代学長(英吉利法律学校から数えると4人目)となり日本の民法典整備に重要な役割を果たした法律家です。
岡村輝彦なる人物、横浜少し関係がありますので紹介しておきます。
学生時代の岡村の性格は豪放不罵、ナポレオンを崇拝し、また北海道開拓に関心を抱き、同級生から「岡村ナポレオン」「岡村北海」などと呼ばれたそうです。
成績不良のため1875年(明治8年)の第1回国費留学生の選に外れますが、なんとか第二回で渡英、ロンドンのキングス・カレッジからミドル・テンプルに進み、アトキンスの弁護士事務所でも実務経験を積みます。
留学中に一時、勉強のし過ぎでノイローゼになりますが、日本から留学した中で5人目のバリスター(英:barrister)となります。バリスターとは法廷弁護士(ほうていべんごし)のことで、当時法廷で弁論、証拠調べ等を行うことができる弁護士として事務弁護士(ソリシター、solicitor)とは別に分業が行われていました。
日本に戻り、行動派の法律家として裁判所判事、弁護士を歴任します。
1885年(明治18年)8月横浜始審裁判所長
この頃から、東京大学・東京法学院・明治法律学校で講義を担当します。
1891年(明治24年)2月に官職を辞し、代言人=弁護士となり東京・横浜の2か所に事務所を開業します。
開業した翌年、この「千島艦事件」に遭遇します。
日本人として初めて横浜の英国裁判所に出廷し見事な法廷交渉を展開し勝訴判決を得ます。ところが、上告時は司法省御雇外国人カークウッド
が担当し上海の上等裁判所での控訴審は日本側が敗訴します。
その後、国内で紛糾した後、ロンドンの英国枢密院における上告審の訴訟代理人を依頼され渡英、勝訴判決を得て凱旋帰国します。
※この裁判にかかった経費は 最終的に日本が得た和解金を上回ってしまいましたが、政治的勝利は日本国の重要な成果でした。
1913年(大正2年)3月から翌3年6月まで中央大学の学長を務めました。

ベトナム戦争を撮影した報道写真家「岡村昭彦」は岡村輝彦の孫です。
http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/library/okamura_bunko/

●1914年(大正3年)の今日
横浜市電、大岡川線の一部「お三の宮」〜「弘明寺間」が開通しました。