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【横浜テーマ】横浜の〜」カテゴリーアーカイブ

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【番外編】 1月29日謎解き都橋

始めっから宣言しておきます。
大したことではありません。
今日は一枚の昔の地図を眺めていたら
不思議なことに気がつきました。
ちょっと謎解きしてみました。

nnA9231130下記のマップ、都橋近辺をご覧下さい。
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何か変じゃありませんか?
通りと橋の位置がずれています。
一つ上流の宮川橋の向きも変ですね。
単に作成上のミスなんでしょうか?
このマップは昭和四年八月の作成です。
それではこの時期に近い他の地図と比較してみよう
ということで昭和六年の地図が横浜市HPにありましたので
比較してみます。

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この地図では、
もう一つ都橋脇に小さな橋がありますね。
この小さな橋が関係しているのでは?
light_%e9%83%bd%e6%a9%8bpa311637真中の白い建物が交番、その左横に小さな橋の跡が現在も残っています。水道管の橋かなにかでしょうか、地図に掲載されている位置と一致します。

この地図では、湘南電気鉄道(京急の横浜・横須賀区間)桜木町駅直結予定の敷地がはっきり残っていますね。
逆に前掲のマップは湘南電気鉄道用地が途中までしかありません。
この二種類のマップの発表時期の差は2年ですが
測量時期はもう少し時間の開きがあったのかもしれません。

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震災復興関係の資料を見ると、都橋は震災で倒壊し木製の仮橋が架けられたとあります。その後、本架橋工事が始まります。
ここの交番も古いんですね、戦前からここにあります。震災の時に避難し助かった場所でもあるようですね。

ちょっと調べてみるだけで
小さな橋にも様々なドラマがあるようですね。
(2016年10月更新)

No.388 あらためて横浜市歌

このブログでも何回か「横浜市歌」を取上げています。
今日、あらためて横浜市歌をラジカルに紹介します。

現在の横浜市歌は原曲ではありません。
まずこの情報が広く明示されたのは何時からでしょうか?
少なくとも私の記憶では 比較的最近のことではないでしょうか。
(教育委員会には問い合わせていません)

 

横浜市歌は、開港50周年に制定されました。
作詞は森 林太郎(鴎外)
作曲は南 能衛ですが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/南能衛

一部変更を 小船幸次郎以下「市歌普及委員会」が行いました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/小船幸次郎
この編曲については小船幸次郎について書かれた文献「市民とオルガン」で一部触れています。他の情報もありますが、ここでは下記のみ掲載します。

(市民のオルガン 神奈川新聞社 刊)

良い悪いの問題ではなく、もう少しきちんと説明をする必要があると私は思います。
たしかに、教育委員会のHPにはPDFで一枚の説明書がリンクされていますが、少なくともオリジナルの提示とどこを変えたか横浜市は明示することが教育的な見地だと私は思いますが。(オリジナルが聞きたい!)
http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/gakusyu/sika/pdf/sikatebiki.pdf

とはいえ、全国3,447市町村ありますが、小学校からオトナまで歌っている市歌は 横浜だけですね。おそらく。
他府県の人は「うちの市では無い。市歌すら知らない」が大半です。

横浜市歌の真実

【番外編】横浜市歌の真実

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る前編

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る前編

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る 後編

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る 後編

No.183 7月1日(日) 7月のハマ?

No.332 11月27日(火)おやかた、濱で一振り。
No.334 11月29日(木)歌の横浜

http://www.youtube.com/watch?v=pGDGrZBr7tI
http://www.youtube.com/watch?v=wm81P7iRicc
http://www.youtube.com/watch?v=lUEjYuEBOig
http://www.youtube.com/watch?v=7Pg7-xw0vrE
http://www.youtube.com/watch?v=b5OdOaN8ejI

■あらめや音頭
http://www.youtube.com/user/masaruarameya
■横浜市歌ブルースバージョン  中村裕介
http://www.youtube.com/watch?v=R_Fu7Wf06wo

【番外編】 1月17日(木)横浜は坂ばかり

横浜の特徴は起伏に富んだ地形にあります。
谷戸の多い町だからこそ、丘があり緑が感じられますが、
結果、坂が多いんですね。
今日は 横浜の坂についてちょっと紹介。

急坂(西区)

(横浜で一番有名な坂)
横浜で全国に知れ渡っている坂は?
権太坂です。毎年テレビでも放映されています。
そう、お正月の箱根駅伝です。
箱根駅伝の正式名称は?
「東京箱根間往復大学駅伝競走」といいます。
1920年(大正9年)に始まったこの駅伝の名物区間が、
ごぼう抜きや大ブレーキが頻繁に起こる区間として有名になりました。
現在の「権太坂」は新道ですが、旧東海道の勾配度は半端じゃありません。

(名の在る坂は?)
坂の無い町はありません。でも “名前の付いた坂”というのは どこにでもあるというものではありません。坂の何は理由があります。
私がざくっと拾い出しただけでも
250にも及びます。
横浜の坂名一覧の資料があるのかもしれませんが、
力づくで調べたので
推測値では
500は越えるのではないか?と思います。
ご存知の方 教えてください。
市民グラフ・ヨコハマ NO.95には
横浜橋 めぐり坂あるき」特集があります。
がこの号、買ってあったかな。図書館に行かねば。

nnWV230132
見つかりました

(坂名)
保土ケ谷の権太坂に話しを戻します。
ここは日本橋を出発する東海道の街道筋最初の難関です。
道中 行き倒れも多かったようです。
権太坂の名の由来は幾つかあるようですが、
坂を造る時に尽力した藤田権左衛エ門の名からという説と
旅人がここは何と言う坂ですか?と尋ねたら
耳の遠い年寄りが自分の名を伝えたことから
という 微笑ましい由来とが有名です。

私の確認した「坂」を幾つか紹介しましょう。
■くらやみ坂
西区西戸部3丁目〜伊勢町3丁目あたり
※坂道標あり
島田荘司の小説にもなった(らしい)坂です。
■半僧坊坂
西区東ヶ丘坂
※坂道標あり
■フェリス坂(西野坂)
中区山手町にある「階段」です。
正式名称は「西野坂」で通学路から名付けられた坂です。

■ワシン坂
中区山手町
横浜に多いカタカナ坂の一つです。
由来説は多く、和親条約のワシン説、鷲見坂からワシン説(最有力)、ワシン(ウシン)という外国人が住んでいた説、降り際にわき水があり「ワキシミズザカ」が外国人たちの口によって「ワシン坂」となった説などです。

■見尻坂
中区山手町
※考えてみれば変な名ですね。昔男衆は褌に短い着物でしたから
下から尻が見える位急だ!ってことでしょうか。
急な坂だったため、前の人の尻がすぐ眼の先にくる、前の人の尻を見上る坂という意から命名されたという説もあります。

■馬坂
中区根岸台、その名の通り「うまざか」で競馬記念公苑“ポニーセンター”の入口あたり
(まさかの名は 磯子にあります)
■ビア坂
中区山手町と諏訪町・千代崎町1丁目の間
まさにビール発祥の地にふさわしい名です。

■ビール坂
保土ケ谷区桜ヶ丘1丁目〜神戸町
ここにはかつてビール工場があったので命名されました。
かなり急坂です。

■アメリカ坂
中区本牧和田
横浜市立本牧中の横を通る坂です。
本牧散策の時には登ってみましょう。さほど急坂ではありません。

■ハロー坂(愛称)
中区和田〜和田山
由来は米軍が本牧一帯を接収していた頃に付けられたのでしょう。

■水道坂
保土ケ谷区坂本町から川島町と仏向町の間まで
ここは、横浜が相模川水系から取水している水道の道から命名されています。
■紅葉坂
西区紅葉ヶ丘
この紅葉坂の石畳を登った記憶のある方も多いのでは?
残念ながら歴史ある「石畳」は
不評のため改修?されてしまいました。
この坂も物語が多くある坂ですので
チャンスがあれば 物語仕立てで紹介します。

■急坂
西区東ヶ丘
冒頭の写真です。野毛山に続く階段坂です。

No.382 1月16日(水)横浜と福井

この文章を作成中(14日)に横浜は豪雪?
で機能麻痺の状態です。

nnA1140034

今日は 横浜と福井の繋がりについて紹介しましょう。

(越前福井藩)
横浜は開港後、全国の商人・武士が集まり、
居留地の外国人達と開港場の日本人による寄合所帯で構成されていました。

開港場の情報は、いち早く全国に伝わり
歴史で学ぶ「尊王」「攘夷」他の様々な動きが横浜を情報源として活発になっていきます。
1858年(安政5年)7月に幕府は、開港場である神奈川と横浜の警備を
伊予松山藩と(坂の上の雲の素材となった)
越前福井藩に 命じます。
ところが、福井藩主松平慶永(春嶽)は拒否します。
理由は井伊政権への反発もありましたが、藩財政が逼迫していたことも大きかったようです。
逆に越前藩のブレーン橋本左内を中心に代替え案を検討させます。
これに激怒したのが時の大老 井伊直弼です。
1858年(安政5年7月5日)8月13日
一連の“安政の大獄”による松平慶永(春嶽)は言いがかりにも似た不時登城の罪を問われて強制的に隠居・謹慎となります。橋本左内もその後、獄中死し幕末の賢人を失います。


藩主が蟄居し、急遽新しく第17代福井藩主となったのが越後国糸魚川藩第7代藩主松平 茂昭(まつだいら もちあき)です。
この頃の徳川幕府は藩主に関して、現代のサラリーマン社会にも似た人事システムで動いていましたので、藩主ポストの異動で“お国の殿様”が決まったようです。
逆に徳川諸藩で江戸時代に藩主のお国替えがなかったのが井伊家の彦根藩でした。

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ひこにゃん

彦根城
国宝 彦根城
 

松平 茂昭は再度横浜警備の要請を受け、現実路線を選びます。
越前福井藩は幕府直轄領(天領)だった
武藏国久良岐郡太田村に19,000坪を借り受け
500人の常駐する陣屋を突貫工事で完成させます。

太田陣屋
太田陣屋

大岡川の沼地を開墾しての造成のためかなり苦労したようです。
ここが、現在の日ノ出町・黄金町一帯です。

昭和初期 市電が走り京急はまだの頃
昭和初期 市電が走り京急はまだの頃

明治14年迅速図 太田陣屋跡
明治14年迅速図 太田陣屋跡
 

しかし、藩の経済は逼迫していましたから
越前福井藩は開港場にいち早く、藩命による商館を建てます。
藩財政建直し策の重要方針として長崎と横浜に輸出商社を設立し、その収益を藩の収入に充てようと考えた訳です。
今でいう「県の物産店」みたいなものですかね。
横浜開港は、
全国諸藩とそのトップに立っていた幕藩体制に「情報」「経済」の波が押寄せます。
幕末、多くの藩が自前で「国防対策」を迫られ、貿易力の差が明治維新の原動力にもなっていきます。

横浜町五丁目 大通北側に
横浜村名主の一人だった石川徳右衛門名義で90坪の土地を借り
表間口6間、奥行き15間の大きさで
「石川屋」を開きます。
開店当初は 与助という人物を支配人に雇いますが
商売が発展するに伴い福井藩から警備で赴任していた人物が、
専任で
ビジネスに関わっていきます。
当時の「横浜錦絵」にも多く登場したということですから
大変賑わったのでしょう。商売は横浜も長崎も順調に発展していきます。
横浜の越前福井藩ショップ!を担当したのが 
越前屋金右衛門 またの名を
石川屋善衛門
本名を 岡倉 覚右衛門といいます。

ここでピーンと来た方もいらっしゃると思います。
彼の息子が 岡倉角蔵、後に岡倉覚三となり
一般的には 岡倉天心の名で 明治期に大活躍します。

No.280 10月6日(土)天心と三渓

No.9 1月9日(水)残した大正の財産

その後の「太田陣屋」は
1866年(慶応2年)に歩兵・騎兵伝習所
1870年(明治3年)には県吏員の子弟への漢学教授を目的とする文学所が設けられますが、
陸軍の用地として収用され
戦後 民有地となり問屋街として賑わいますが
時代の趨勢で 問屋は数軒を残すのみとなり
現在に至ります。
No.471 横浜・世田谷・彦根

No.381 1月15日(火)素材ベイブリッジ

昨年366話の中で、意外な大ネタが抜けていました。
横浜ベイブリッジを取上げるタイミングがありませんでした。
今日は、横浜のシンボル
ベイブリッジを紹介します。

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わが家の玄関先に飾っている絵もBBです。

ベイブリッジの兄弟、鶴見つばさ橋は12月21日(金)に「世界一の斜張橋」として紹介しました。
■世界一の斜張橋

■横浜ベイブリッジ
横浜観光のシンボルの一つです。
ブリッジ上の湾岸高速を走る時はいつも胸がドキドキします。
例えば、
リムジンで羽田や成田から横浜に帰る時、
鶴見つばさ橋からベイブリッジにかかるあたりで
横浜に帰ってきたな と感じます。
この風景は たった二十年の時間しか経っていませんが、懐かしい風景のようにも感じてしまいます。
(素材に最適)
ただスペックを紹介するだけでは
面白くないので
作品素材としての横浜ベイブリッジを探してみました。
まずは私のベイブリッジ写真から

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絵画の素材でもベイブリッジ工事が取上げられています。蒼々たるメンバーが工事中の風景を描いています。
今関一馬
東京都出身 東京大学中退。小山敬三美術賞、国画会展会友優秀賞など

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國領 經郎
横浜市生まれ、1986年日展で内閣総理大臣賞受賞。1990年日本芸術院賞受賞、1991年芸術院会員。

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田沢茂
岩手大学特設美術家講師、青森県 県文化賞受賞授章。

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福島瑞穂
広島県尾道市生まれ。女子美術大学大学院客員教授。

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斎藤カオル
神奈川県葉山町生まれ。第12回自由美術家協会展入選。社団法人春陽会理事長。代表作「源氏物語五十四帖」

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●小野肇
医師。浜口タカシに写真を学び生涯横浜の写真を撮り続けた。

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○相笠昌義
東京日本橋に生まれる。 東京芸術大学美術学部油絵科を卒業。第25回安井賞展で安井賞を受賞。多摩美術大学教授。損保ジャパン東郷青児美術館大賞を受賞。

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大きい作品ですので右の一部を紹介します

(スペック)
1989年(平成元年)9月27日に開通した2層構造の斜張橋です。長さは860m(中央支間長460m)で本牧埠頭A突堤(中区)と大黒埠頭(鶴見区)とを結んでいます。
設計は名港西大橋(めいこうにしおおはし)のデザイン案
名称はサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジを
参考にしたとされています。
当時横浜市が、建設省(現、国土交通省)に開港130年記念に際しこの橋の建設を強く働きかけ、難工事の末に開通したといわれていますが?
※まあ 与太話はいろいろありますが 全て薮の中です。

2層構造の上層部は首都高速湾岸線で、下層部は(一般)国道357号が15年後の2004年4月24日に暫定2車線として開通しました。

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しかも図面でも明らかなように、片側しか開通していません。この先どうなるのでしょう。

(高さ問題)
ベイブリッジの海面からの高さは約55メートルで、現在これがネックで大型客船が通過できず、門司港、神戸港に寄港地を奪われています。

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後5m高ければクリアできたのですが?
何故 この高さになってしまったのか?
当時国際港の橋の高さの標準は ゴールデンゲートブリッジで
66mだったはず。ただ間に合わせるために低く設定したのであれば、明治期の鉄道ゲージ以来の失策です。

遊歩道「横浜スカイウォーク」(有料)がありましたが、
これも2010年(平成22年)9月に閉鎖されてしまいました。

【番外編】もうひとつの9月27日

(略年表)
・1977年(昭和52年)8月一般国道357号・高速湾岸線都市計画決定
・1980年(昭和55年)11月高速湾岸線(横浜ベイブリッジ)着工
・1989年(平成元年)9月27日首都高速湾岸線開通
・1998年(平成10年)12月一般国道357号(大黒〜本牧区間)事業着手
・1999年(平成11年)8月臨港道路(大黒ふ頭・本牧ふ頭)
港湾計画決定・整備着手
・2000年(平成12年)3月一般国道357号(大黒〜本牧区間)着工
・2000年(平成12年)12月臨港道路(大黒ふ頭・本牧ふ頭)着工
・2004年(平成16年)4月24日下層部分の国道357号が開通

商品にもなっています。

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ありあけのベイブリッジサブレです
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No.371 1月5日(土)ノゲ的 (加筆修正)

今日は野毛。
この街は、読むより行くに限ります。

私はまだ野毛を語るには“飲み”が足りないかもしれませんが、
今日は野毛を紹介します。

(アジア人白神義夫さん)
神奈川新聞の名物記者、白神義夫さん。
彼は中華街と野毛のことを良く語っていました。
特に野毛の大通りを「税務署通り」と呼んでいた時代の話には
 熱い語りが止まりませんでした。
「野毛は悔恨の街である」と語り、本にも書いています。
野毛は“変わりつつ、変わらない”人気の定番商品のセオリーみたいな街です。
常連にも、ビギナーにも懐かしさと新鮮さを見つける事ができる街、
「野毛はデラシネの屋台から始まった」と白神さんは語る。
「そこには、米軍さんの匂いもあったけど、変わり身の早い日本という国への反権力の煙が漂っていた…。」

書く命家 平岡正明)
横濱文芸復興「野毛的」を読み返すと、
この街が持っている磁力というか粘着力みたいなものが感じられます。
東京は本郷湯島に生まれた彼が、
横濱に反東京の拠点を見いだしたのが「野毛」の磁力で、90年代に積極的にこの街と関わり、野毛の発信力となりました。
偶然とは恐ろしいもので、
私が初めて“野毛”に近づいたのが高校時代、日ノ出町の「山手英学院」夏期講習に通っていた頃の拉麺屋でした。
→現在も場外馬券場の隣のビルで営業していたことに感動しました。
(2014年末現在 残念ですが閉店して新しいお店になっています)

大学生時代、一冊の本を持ってセンターグリルの階段を登ったのが、野毛の街に侵入した初めての経験でした。

ランチでは無く現在お気に入りのオムライスです。

空いていた窓際の席に陣取り、大盛りのランチを注文し、
伊勢佐木の有隣堂で購入した本を開く。
何時もはカバーをかけない方ですが、今日は
この本の表紙に圧倒され「カバーをお願いします」と言ってしまった
「山口百恵は菩薩である」
知る人ぞ知る、「野毛的」の平岡作品である。

残念ながら、平岡さんは一度パーティの席で遠目にお会いしただけでした。
今、彼は亡くなられましたが、
生まれた街が変わりゆく新しいランドマークを何と評したでしょうか
 平岡さん。

(女流)
今の野毛を語るには二人の「女流」を欠かせません。
女流作家 山崎洋子さん
女流落語家 荻野アンナさん
土日の野毛にも、夕暮れの野毛にも
女性の姿が多くなりました。
ここにも
“変わりつつ、変わらない”野毛の磁力が働いているように感じます。


(コンテンツ塊)
野毛を本質を語る前段だけでも数十冊の本ができる街。
野毛はコンテンツの塊です。
開港時から現代まで、エッセイにしたいネタを
私流のタイトルを付けるなら
「松平陣屋事件貼」
 (越前松平藩と長谷川伸)
「野毛別宅物語」
 (野毛別荘史)
「時の野毛山」
 (時鐘と十全病院)

「老松小学校の悪童」
No.86 3月26日 老松小学校の悪童

「野毛で錦絵に会う」
 (高橋誠一郎の横濱)
「税務所通物語」
 (そこのけ闇市)
「美空ひばりと福島通人」
「山本周五郎 逃げる」

世の“物書き”は野毛でもう少し惑わして欲しいものです。

「暮らしの場に思いをよせ、
人々のふれあいが始まるとそこは「界隈」になる」

No.457 ザンギリ野毛

※野毛の床屋について書きました。

No.422 妙蓮寺と野毛

1968年(昭和43年)〜翌年にかけて
横浜を舞台にした人気テレビドラマ「三人家族」について紹介しています。
※世代がわかりますね。

No9 1月9日(月) 野毛カストリ横町立退き騒動

戦後間もなくの話しです。「櫻川」がまだ“川”だったころ
野毛桜木町駅近くにカストリ横町がありました。


No.424 琉球バル


No.323 11月18日(日)歓楽街の住まい方

No.370 1月4日(金)【横浜の河川】鶴見川 輪下り絶景

昨日が横浜の自転車史みたいな感じで展開しましたので、
しり取りではありませんが、
私のサイクリング案内から
鶴見川下りを紹介しましょう。

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横浜市内で最も長いサイクリングロードは鶴見川です。
上流は青葉区鉄町の寺家ふるさと村をかすめて、
都筑区、港北区、鶴見区を横切る約30キロのロングサイクリングが堪能できます。
私は、恩田川の合流地点近くの「落合橋」下から河口までツーリングを楽しみました。

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右側鶴見川、左側恩田川

これまで、大岡川、中村川、堀割川、柏尾川(一部)、帷子川(一部)、今井川(一部)を走破しましたが、市内では鶴見川サイクリングコースに勝るものはありません。

落合橋から河口まで約20キロあります。河口までなだらかな下りですから、逆に河口から「上り」狙いも面白いでしょう。
(橋オタクポイント)
橋には施工プレートが付いています。

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(ナビゲーション)
鶴見川は(有名な)距離ポストが設置されています。鶴見川流域をバクの形に“見立てた”想像力に敬服。古代ギリシア人みたいです。

(左岸か右岸か)
川の走りは、右岸・左岸の選択も大切なポイントです。予め地図を見ておくか、景色を見回して都度選択していくか?共に楽しいです。

(脇道に逸れる愉しみ)
まじめなサイクリングも良いですが、できれば適度な寄り道をするのが楽しみを倍増させてくれます。
■崎陽軒売店
現在「環状北線」工事中のため、アクセスが難しくなっていますが、第三京浜インターチェンジ近くから崎陽軒工場前に出ましょう。
崎陽軒の売店があります。(珍しくない!)と思うでしょ。
実はこの売店でしか買えない(ちょっと前は、現在未確認)

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昔は携帯ストラップもあったんですが、キーホルダーのみ

を売っているんです。
ここでお弁当や飲料を購入するのも良いのでは。
私は、ここでお弁当を買ってみる事にしました。

さあ崎陽軒売店を後に。
お弁当はどこで?
私は綱島の「大綱橋」近くでお弁当をいただきました。
鶴見川下りの時は、昨年の初夏でしたので、爽やかな風の吹く木陰を選びました。

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■IKEAにも立ち寄れます
(ちょっと離れていますが)

■面白風景
ビルが橋を食べている

実は水道橋が水道施設に直接架かっています

川があれば「橋」がある。
(橋オタクポイント)
橋のデザインはかなり個性的です。

森永製菓の森永です。
通学路みたいです

下流域では一部「川崎市幸区」と隣接しているエリアがあります。

下流域に入ってくると川幅が広がり目の前に拡がる景色も変わってきます。

(工夫ポイント)
季節に関係なく、水筒は持参しましょう。
チタン水筒がおすすめです。(ちょっと値段は張りますが)軽量で保温力が抜群です。夏は氷ひとかけらで「ギン冷え」数時間。
冬場も同じです。


(ガイド)
マップ、ガイドブックは用意しましょう。
私は“昔のガイドブック”を敢えて持参しました。


(激変風景)
現在、生麦と第三京浜を結ぶ「環状北線」工事が進んでいます。
http://www.yokokan-kita.com
移り行く風景を楽しむのも一興です。
■送電線技術に感服
鶴見川は 鉄塔ウォッチのベストポイントです。

送電鉄塔に関しては下記推奨ブログがあります。
http://blog.livedoor.jp/sawdensen/
(フィニッシュ)
残念ながら 鶴見川は河口まで自転車では行けません。
河口付近は工場敷地のため立ち入りができないからです。
ただ、迂回すればしっかり河口の絶景を堪能できます。
横浜市高齢者保養研修施設『ふれーゆ』
「ふれーゆ」まで自転車で行けます。
http://yfure-yu.com
高齢者保養研修施設とありますが、誰でも入場できます。実際子供からオトナまで幅広く利用されています。
サイクリングの途中に“入浴”“温泉プール”も最高です。冬場は湯冷めに気をつけてください。

リバーサイドアートも楽しめます。

作品は?実際に出かけて観てみましょう!他にも多数川辺にアート作品が。
ヒントこの橋あたりから散策してみては?

※このルートに「国道駅」も入っていますがディープな物語は別建てで!!
※もうひとつ 杉山神社巡りも鶴見川流域スポットの一つです。

No.353 12月18日(火)多文化建築の傑作

1939年(昭和14年)12月18日の今日、
山下公園で横浜在住インド人コミュニティ(インド商組合)が
インド水塔の市への引渡し式を行いました。

2006

最近、横浜はちょっとした“インド料理ブーム”です。
野毛・日ノ出町・吉田町近辺に10軒を越えるインド料理店が開店しています。
スリランカ、カシミール、パキスタン他お店によって味わいが異なるのも楽しいものです。
インドと横浜の関係は、幕末開港後英国人と共に多くのインド人が横浜に上陸したことに始まります。
1863年(文久3年)には、西インド中央銀行とチャータード・マーカンタイル銀行(ともにインド植民地銀行)が横浜に支店を開設しています。

日本最初遠洋航路開設は、日本郵船によって日本とボンベイ航路が1893年(明治26)年11月に開設します。インド綿が日本の重要な、綿紡績業の原材料となったからです。
逆に戦後は横浜の捺染産業が、大量のインド向け“サリー”を染め輸出した時期もあります。
一方、お茶貿易に関しては日本茶の強敵として立ちはだかります。

インドとの関係は、英国の植民地の影に隠れて明確な足跡は残されていませんが、横浜におけるインドの人たちとの関係はかなり信頼感の下にあったようです。その証が、
山下公園に建つ「インド水塔」です。このモニュメントが建った理由は、1923年(大正12年)に起きた関東大震災で、当時横浜に在住していたインド人116人が被災します。内28人が亡くなり、被災したインド人は住居を失い各地に離散します。復興が始まり、翌1924年横浜のインドと交易・交流のあった関係者は大阪・神戸方面に逃れたインド商家族を横浜に誘致します。
これによって、横浜のインド人は横浜での生活を再開する事ができるようになります。この好意に対し、横浜在住のインド人コミュニティ(インド商組合)がインド水塔を感謝をこめて贈られる事になったのです。
横浜市民への感謝の意と同胞の慰霊も含めインド風、イスラム風、日本風など様々な要素が組み合わされた見事なモニュメントです。

No.178 6月26日(火)孟買への道

6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け

アジアで初のノーベル賞を受賞したインドの思想家タゴールは尊敬する岡倉天心に招かれ、横浜三渓園に長期滞在します。

No.120 4月29日 庭球が似合う街

横浜にもう一つ、インドと横浜の歴史を繋ぐ樹木が山手公園にあります。
日本国内に拡がったヒマラヤ杉のマザーツリーです。
このヒマラヤ杉はヘンリ一・ブルックが1879年(明治12年)に
インドのカルカッタから種子を取り寄せ、山手公園に植えたのが始まりです。
その後、横浜植木が苗木を育成し30本を宮内庁に献上、100本を新宿御苑が購入して以来、全国に公園樹として普及していきます。
クリスマスにふさわしい「ヒマラヤ杉」も横浜とインドを結んでいます。

No.351 12月16日(日)戸塚踏切をなんとかしろ

横浜新道の旧戸塚有料道路区間(俗称吉田ワンマン道路)を
1964年(昭和39年)12月16日の今日、無料開放しました。

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オレンジ色が戸塚有料道路

自動車を運転される横浜市民なら一度は横浜新道を走ったことがあるでしょう。
横浜市内の国道1号のバイパス機能を持った国道です。
横浜新道はどこからどこまでなのか?
このテーマを調べるまで全く違う区間イメージを持っていました。

(横浜新道)
横浜新道は、“横浜市神奈川区立町”から“横浜市戸塚区上矢部町”までの区間です。
この区間内が一般道路と有料道路に分かれています。
起点の神奈川区立町、どこだか判りますか?
京浜急行「神奈川新町駅」近くで、
国道一号線は「東急 反町駅」経由して三沢から有料道路に入ります。

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横浜新道の経緯を追っていきます。
まず
1948年(昭和23年)に連合国軍最高司令官総司令部が「行政道路」として東海道(国道一号線)のバイパス化を指示します。
 (サブ年表1950年朝鮮戦争開始)
1952年(昭和27年)日本国主権回復(講和条約発効)
 同年 国内法で道路計画が策定されます。
 (サブ年表1953年朝鮮戦争終了)
1955年(昭和30年)に戸塚道路(不動坂交差点から大坂上まで)が有料道路として開通します。
1956年(昭和31年)に管理が日本道路公団に引き継がれます。
1957年(昭和32年)に日本道路公団が横浜市保土ヶ谷区常盤台から横浜市戸塚区上矢部町までの有料道路(横浜新道有料部分)の認可を受け着工します。
一方で、一般道の「横浜新道」区間(横浜市神奈川区立町から横浜市保土ヶ谷区常盤台)までが開通します。
1959年(昭和34年)10月28日に有料道路横浜新道が開通し戸塚道路と統合します。
横浜市神奈川区立町〜戸塚区上矢部町までの区間が「横浜新道」となります。
※横浜市戸塚区柏尾町から同区汲沢町までの区間は横浜新道戸塚支線に。

そして、
(旧戸塚有料道路区間無料)
横浜新道の旧戸塚有料道路区間(俗称吉田ワンマン道路)と横浜新道戸塚支線を1964年(昭和39年)12月16日の今日、無料開放することになります。

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昭和30年頃の地図には戸塚料金所が記載されています

(吉田ワンマン道路?)
横浜市戸塚区役所のHPには
「国道1号の不動坂交差点から大坂上までの道路は、通称ワンマン道路と呼ばれています。昭和28年、当時の吉田首相が開かずの踏切といわれる戸塚駅前の大踏切を避けるため、このバイパス道路を建設しました。吉田首相が「ワンマン宰相」と呼ばれていたことからこのように呼ばれるようになりました。」
と言われていますが、
「吉田ワンマン道路」は横浜新道全線を表現していると思っていませんでしたか?
正確には「不動坂交差点から大坂上の区間」だということです。
ただ、この“俗称ワンマン道路”にも若干?疑問を感じます。

戸塚有料道路と横浜新道は昭和20年代に計画されます。
この時期、日本国は米軍占領下にありました。
基地のある地域の“米軍”要求は
“渋滞をなんとかしろ”という項目から
「車を右側通行に」という日本の交通体系の根本改変まで要求されます。
これには、さすがの日本政府も徹底的に反対し
“英国流左側通行”が継続します。

たまたま、吉田ワンマンの自宅が大磯にあり、総理大臣自身も戸塚近辺の渋滞は不便だったかもしれませんが、背景には日米安保下の様々な政治的軋轢があったようですね。
確かに、吉田茂のワンマン所業は有名でしたから
彼も“戸塚踏切の渋滞をなんとかしろ!”と言ったのでしょう。

No.306 11月1日(木)戸塚駅東口小史
※吉田ワンマンの亡霊

 吉田元総理大臣が作ったワンマン道路???
 小田原厚木道路をワンマン道路という投稿まで出ています。
http://www.youtube.com/watch?v=00lmuO2Vq4k

(余談)吉田茂の天敵?
戦後、吉田内閣時代に首相を批判した技術官僚に
下元 連(しももと むらじ)という人物がいます。
大蔵官僚で建築家の彼は
横浜税関庁舎、
門司税関庁舎、長崎税関庁舎などのプロジェクトに携わります。

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吉田茂に対して
「大磯あたりにいてワンマン道路を造って通う(吉田元首相のこと)なんていうのは、けしからんこと」と辛辣な批評をしています。
ただ、首相公邸を設計したのが下元 連でした。
自分の設計した公邸を使わない吉田茂が腹立たしかったのではないでしょうか?
■(追伸→リクエストがありました)
今日、12月16日は「東京〜横浜間」で電信事業が始まった日ということで、記念日になっていますが、横浜新道にちょっと触れおきたくて敢えて別の日にしました。

No.348 12月13日(木)いっさつの本があれば

1909年(明治42年)12月13日(月)の今日、
開港五十周年に沸く中区伊勢佐木町に第四有隣堂が創業されました。

この第四有隣堂が、現在の株式会社有隣堂となります。
有隣堂の沿革史には
1909年(明治42年)12月13日
「松信大助が個人経営で横浜市伊勢佐木町1丁目7(現在の伊勢佐木町本店所在地の一角)に「第四有隣堂」を創業。間口2間奥行き3間、木造2階建ての店舗で、書籍・雑誌の販売を開始。」とあります。
現在創立百年を超える横浜を代表する企業です。
http://www.yurindo.co.jp/
書籍・文具販売の他、出版部門を持ち音楽関係の事業も行っています。

簡単に有隣堂前史を紹介します。
「有隣堂」の社名は論語の里仁にある「徳孤ならず 必ず隣有り」に由来しています。
創業者「大野貞蔵」は、新潟県柏崎出身の父「大野源蔵」の長男として横浜に生まれます。
1894年(明治27年)頃に「第一有隣堂」を当時のビジネススポット吉田町通りに開業します。
当時横浜の中心部(関内・関外)には東京に移った横浜生まれの「丸善」の他多くの競合店が進出していました。
大野貞蔵の弟、四男とした生まれた松信大助が、暖簾分けで伊勢佐木に「第四有隣堂」を創業し
1920年(大正9年)7月6日に「第一有隣堂」と「合名会社有隣堂」を吸収合併し「株式会社有隣堂」が誕生します。
有隣堂はかつて第九まであり、それぞれ第一有隣堂から暖簾分けしましたが、吸収合併や廃業に伴い現有隣堂のみ残っています。
(※横浜市西区藤棚に第七有隣堂が最近までありましたが廃業すみません、誤報です。

(出版部門)
全国の大手書店の中で、古くから丸善・紀伊国屋と並び出版部門を持つ有隣堂ですが一般分野の出版を手がけて来た他社とは一線を引き、有隣堂は現在も横浜関連の出版を基本にしています。

横浜を知るには「有隣堂」の出版物が不可欠です。中でも有隣新書は、記念すべき第一巻が1976年(昭和51年)発行の名著「港都横浜の誕生」石井孝著です。
現在出版界を牽引する“新書”の歴史は1938年創刊の岩波新書に始まりますが、地域出版としては草分け的存在といえるでしょう。紀伊国屋新書もありましたが、現在は復刻のみです。

また、私が最もお世話になっているのが
「横浜近代史総合年表」松信太助編、石井光太郎+東海林静男監修
です。開国期から昭和まで新聞・雑誌・書籍・チラシ等から丹念に史実を拾い出しコンピュータ普及以前の手作業でまとめあげた業績は大きいものがあります。当初は、故松信太助氏が20年に渡って個人的に整理し社内資料としてまとめていたものでした。ファイルカードの枚数は8万枚にも及んだそうです。
この知的集積を公開していく作業も書籍(現在ではネット)の大切な役割といえるでしょう。

(有隣堂の思い出)
有隣堂本店イセザキ店には、創業当時から“飲食コーナー”が併設されていました。戦前は有隣食堂として人気だったそうです。
戦後はいち早く洋食レストランが地下にオープンし、食事・喫茶を楽しむことができました。
また、一時期馬車道に「ゆーりん ファボリ」という文具のコンセプトショップがあり、そこには「くれーぷ屋」というこれまた当時としてはかなり斬新な喫茶レストランが併設されていました。記憶にある方も多いのではないでしょうか。

閉店時にいただいた“お宝”です。
見つけました。当時のマッチ!自分でも物持ちの良さに敬服。

文具が規格量産(不況)の時代に入り、閉店してしまいましたが
この「ファボリ」は今こそ“欲しい”文具・アートショップでしたね。
また、地域の子供達を対象にした「親子はかせセミナー」は、35年近く続いている地道な企画です。

(画期的)
有隣堂のPR史には画期的なCMが作られたことがあります。
テレビ神奈川(現 TVK)で流された「一冊の本があれば」です。
完全なイメージ広告で、その完成度がこれまた高いものでした。CMソングに企業名を一切入れない、コンセプトのみ伝えるという手法で歌を制作したそうです。口ずさんでもらえることを狙い、「歌いやすく“つぶやきやすい”ことが大切だ」と考えたと制作責任者だった大貫和夫(元取締役)氏からうかがいました。
歌手名を失念しましたが たぶん「小坂 忠こさかちゅう」です。
砂漠のシーンから始まった記憶があります。

(余談)
有隣堂で続けられていること
私はあまし選択しないのですが(気に入らない訳ではありません)有隣堂で文庫を購入するとブックカバーの色を選ぶことが出来ます。
これって「実用新案特許」も取得しているそうです。
ところが 調べたら 手元には6色ものカバー文庫が書棚に入っていました。さすがに「ピンク」は選べないなと感じていましたが
ありましたね「ピンク」も ブルーが二種類あって一番好きですね。

(余談の余談)
山手学院(横浜市栄区)は、有隣堂の運営する学校法人です。学校創設者は江守節子で、現社長の叔母にあたります。理事長は現在篠崎孝子で、江守節子の妹(元有隣堂社長)です。
http://www.yamate-gakuin.ac.jp/about/index.html