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横浜食べ歩き」カテゴリーアーカイブ

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No.411 横浜最古の寺周遊(後編)

No.410で横浜市南区にある横浜最古の寺院「弘明寺」を紹介しました。
今日は
この弘明寺門前に拡がる賑わいのエリアを紹介しましょう。

【第一スポット】
「弘明寺公園」
●見晴らし最高
京浜急行「弘明寺駅」脇にある岡一帯が弘明寺公園です。
高さは約50m、その一番高いところにさらに展望台が設置されています。

展望台からの眺めは富士山の眺め、みなとみらい方面の眺めが最高です。
一周ジョギングコースにもなっています。

●撮影スポット
富士山と丹沢山系

京浜急行の撮影スポット
ランドマークやマリンタワー

●図書館
駅から1分の市内で一番駅に近い図書館です。
屋上がプールになっています。
ちなみに二番目は 実感値で
保土ケ谷図書館ではないでしょうか?(実測してません)

【第二スポット】
「弘明寺境内」
●歴史探索
「四代目橘家圓蔵」他
No.109 4月18日 品川の名人濱に死す
1881年(明治14年)6月24日(金)に開業した
関内を代表する割烹料亭「千登世」寄進の看板

No.176 6月24日(日) 関内の粋といやーー、ね。

【第三スポット】
「商店街巡り」

http://www.gumyouji-shoutengai.com
●横浜ハット
昭和24年に創業し、現在は2代目の店主が営む老舗の帽子の専門店です。
茶人帽(和装用の帽子)、船長帽、カウボーイハットなど、帽子の専門店ならではの品ぞろえの豊富さがすばらしい。一つ私も購入しました。

〒232-0055 横浜市南区中島町4-85
https://www.gumyouji-shoutengai.com/shop/yokohamahat.html
●藤方豆腐店
https://www.gumyouji-shoutengai.com/shop/fujikatatoufuten.html
そごう横浜店地下食品街にも横浜橋商店街横、大通り公園側に出店しています。

●マコト
レストラン マコト
https://www.gumyouji-shoutengai.com/shop/restaurantmakoto.html
ハンバーグランチを食べました。
ソースのさっぱり感が絶妙でした。とかく濃いめが多い中、
あっさりソースが肉の味をしっかり楽しめました。

●地元で噂のパン屋さん
デュークベーカリー
https://www.gumyouji-shoutengai.com/shop/dukebakery.html
種類の多さは驚きです。
あんぱんが美味しかったです。

●盛光堂総本舗
https://www.gumyouji-shoutengai.com/shop/seikoudousouhonpo.html
最中が人気です。

【第四スポット】
「大岡川」
●桜

●水辺周遊

【第五スポット】
「名人登場」
●街場の博士
酒学工房 川松屋の川松博士

※この川松屋さんでは なんと ルバイアートが置いてあります。
国産ワイン数々あれど、この「ルバイアート」は私が推薦して止まない逸品です。
中々横浜には置いてないんですね。
残念です。中々取扱店増えません。

●マイスター
印鑑なら国峰さんの彫りがおすすめです。
http://www.kunimineinbou.co.jp

【番外編】
弘明寺駅の貴重品
プロダクトデザイナー柳 宗理デザインの横浜市営地下鉄駅設備デザインを手がけました。

彼は、1970年に野毛山動物園歩道橋や看板もデザインしています。
現在、蒔田駅や弘明寺駅などに設置されています。
弘明寺は「背もたれサポーター」と「ベンチ」が現役で残っています。
もうひとつ弘明寺のお宝追加します。

昭和初期の公衆トイレという話しです。中は新しいですよ。

No.400 横浜洋食巡り

私は特にグルメ指向ではありませんので、
いわゆる定番スポットを意識的におさえていませんが、
今日は過去の横浜の食べ歩き記録から「ハマの食」紹介を少々。
洋食の歴史に付いて調べ出したら面白いので、今日はイントロを紹介します。

磯子「洗濯船」のタンシチュー

(洋食の歴史)
洋食といえば、幕末開港以降日本に上陸し一気に拡がります。
それ以前、日常的に洋食が存在したのは唯一外国人が駐留していた長崎の出島の中だけにとどまります。しかも交易が許されていた相手が、オランダ人(一部ポルトガル人)のみでしたから異国の食文化といえばオランダ経由でした。
江戸時代にも少しずつ洋食がカタチを変えながら生活の中に溶込んでいきますが、当時、外国人商館の調理場を手伝うなどして、西洋料理の技術を体得した日本人はごく少数でした。

(ペリーの黒船)
日本の洋食文化は「ペリーの黒船」から始まります。
まず横浜、神戸、函館の三港が開港し外国人居留地や各国の公使館が設けられ、働く日本人が増えていきます。
洋食料理店の歴史は、長崎から始まります。
日本人で最初の西洋料理店『良林亭』が1863年(文久三年)長崎に開業します。その後、明治維新の前後に、『良林亭』のような西洋料理店を開業する日本人が少しずつ現われます。『良林亭』はその後『自遊亭』『自由亭』と名前を変え、一部 長崎のグラバー邸の中に保存されていています。
個人が開業する一方で、日本の洋食文化の発信はホテル・レストランから始まります。
街中でごく普通に洋食メニューが登場するには、肉食の解禁が不可欠でした。
仏教思想の影響によるものか、江戸時代以前は獣肉を食べることを禁止または忌み嫌っていました。
※彦根藩では江戸時代から牛肉を食べていました。

(洋食の誕生)
日本人向けにアレンジが加えられた外国の食文化を「洋食」と呼ぶようになります。
最初は外国人洋館の食事から始まり、ホテルで提供され、個人の洋食店も開業するようになってきます。

 

「カレーライス」
「コロッケ」→いずれ特集します!
「カキやエビフライ」
「オムライス」
そして「ナポリタン」「ドリア」→別項で特集します。
「とんかつ」も洋食ですね。これもいずれ特集します!
「ハンバーグ」→ハングリータイガー大好きです。
No.254 9月10日(月)わが国初のファミレス誕生

庶民の洋食が 明治中頃にはもう華開きます。
さらに洋食文化に磨きをかけたのが「客船レストラン」です。
横浜港を出入りする多くの客船は、料理の腕前が重要なブランド戦略だったそうです。例えば氷川丸の「天麩羅」がチャップリンを虜にした話しは有名ですね。

■横浜といえば牛鍋
明治の庶民に洋食がブレイクしたのは、牛鍋屋の登場がキッカケです。
横浜で高橋音吉によって1868年(明治元年)に開かれた牛鍋屋が元祖だと言われています。(現在の『太田なわのれん』で少なくとも現役最古参)
1895年(明治二十八年)に荒井庄兵衛が開業した『荒井屋』は現在も横浜で営業しています。
江戸時代に肉食が忌避されていましたが、明治に入り国を挙げて肉食文化を導入していきます。その代表格が「牛鍋」です。
(写真探索中)
■サンマー麺
洋食ではありませんが、横浜生まれの食!といえば
生碼麺、生馬麺、三碼麺と書く細麺を使ったモヤシに片栗粉を溶いたあんで絡めて乗せた麺料理の発祥は横浜です。
伊勢佐木町の玉泉亭とされていますが、横浜中華街の聘珍楼との説もあります。どちらにしろ、中国料理から派生した「横浜オリジナル」です。

(写真探索中)

(ホテル発)
洋食の発信源の一つが「ホテル」ですね。
先にリストアップした代表的洋食の中で
ナポリタン
ドリア
共に 横浜 ホテルニューグランドから生まれた洋食です。
洋食レストランについても 別項で紹介したいテーマです。

No.271 9月27日(木)酒は国家なり

神奈川県史料をペラペラっとめくっていたら面白い通達が出ていました。
1876年(明治9年)9月27日(水)付けで
「第三十五 洋酒一杯売戸数制限之事」とありました。
今日は明治の酒場模様?をちょっと探索してみます。

本文とは関係ありません

神奈川県は第1大区内の洋酒1杯売業者の軒数を20店に限り、
営業許可する通達を出します。(たった20店です)
第1大区内とは、全国一律の戸籍を作るための準備として区割りした呼び名です。神奈川県の第一大区は当時の横浜町(中区一部)で、1878年(明治11年)に郡市区町村制が施行されるまで使用されました。
「一杯売」とはなんだ?ちょっと調べましたが(2012年9月27日現在)にわか調査では不明です。いわゆる酒屋さんに併設されている(た)立ち飲み屋さんのことなのか?
手元にある資料では「電気ブラン」の神谷バーの神谷さんが「一杯売」で資金を作ったとあります。「電気ブラン」は東京都台東区浅草にある神谷バーの創業者、神谷伝兵衛が作ったブランデーベースのカクテルで、現在もボトルで復活販売されています。
このお達しには、附則があります。「但、洋酒小売(瓶詰)営業戸数ノ儀ハ七年十二月十八日達洋酒小売規則〜」と別に規定していますから、恐らく“洋酒一杯売”は(私は)BARの走りではないか(全く確証はありません)と想像しています。

ミモザ

なんといっても、
日本の洋酒を日常飲むシーンは横浜から始まります。
江戸時代に珍品として飲まれていたレベルではなくビジネスシーンとして洋酒が街中で飲まれるようになったのは、居留地のあった横浜です。
記録に残る初めての輸入洋酒は、1870年(明治3年)のジンと言われています。
翌年の1871年(明治4年)に、横浜山下町にあったイギリス商館カルノー商会がウイスキー(ウスケなんて言ってました)を輸入した記録が残っています。初輸入のウスケは“肩張丸形”の瓶に入った「猫印ウイスキー」でその後、ジン、ウイスキーに続き、ヘネシーなど三種類のブランデー、ラム酒、ペパーミント、キュラソー、シャルトルーズ、マラスキーノの各リキュールが輸入されました。

本文とは関係ありません

いずれも明治初期の輸入量はごく少量だったようです。
値段も高く、販売ルートも限られていたため在留外国人の飲み物だったのでしょう。ところが、新もの好きのハマッ子、1871年(明治4年)には、早くも国産洋酒が登場しているのです。国産と言えばカッコいいですが、洋酒と言いながら、似て非なる「イミテーション」として登場します。
そこで、冒頭の「第三十五 洋酒一杯売戸数制限之事」のお達しが出たのではないでしょうか。

世界どこでも「酒」は国家を支えています。
酒飲み納税諸氏よ、もっと主張しろ!

1899年(明治32年)とちょっと後のデータになりますが、国税総額1億4,513万5千円に対し、酒税は4,900万9千円で、国税総額の34%も占めていました。
税収増は国家の最大関心事でナーバスです。(使い方は乱暴ですが)
新しい国家、明治政府の税収規則はめまぐるしく変更されます。施行しては反対にあったり、矛盾が生じ廃止・変更を繰り返しています。まあ税は国家の「個性」みたいなものですから初期の明治政府は憲法も無く混乱していたのでしょう。

1871年(明治4年)7月に「清酒、濁酒、醤油醸造鑑札収与並びに収税法規則」が制定されます。
これは、それまで日本の酒税の主流だった酒造株を廃止し、新規営業を自由とします。その代わり有料の「免許鑑札」を設けます。そこに免許税と醸造税(従価税)を課すことで税収を図ります。これによって酒造業の営業の自由が保証され、酒造メーカーが急増します。

おそらく、洋酒には関税以外に税がかかっていませんから「洋酒もどき」が増えるのは国税当局には不正と映ったのではないでしょうか?
なにせ、戦前の酒税の歴史は「どぶろく」規制の歴史でもあります。税がかかるなら自分で造る!それはまかりならぬ!という、現在の合成ビール課税騒動に続く狂想曲ですね。

横浜の洋酒文化をリードしてきたのは、なんといっても居留地の“ホテル群”でした。幕末から明治、大正頃まで外国人経営のホテルが生まれては消えていきました。これらのホテルには必ず「酒場」があり、カクテルも嗜まれます。横浜生まれの“カクテル”が幾つか生まれましたが、無名のオリジナルも生まれては消えていったのではないでしょうか。
このテーマをキッカケに一冊の本を読んでいます。
 横浜のホテルと界隈文化にも禁断の木の実のように興味がわいてきました。(今年中にはご紹介できるでしょう)

2月16日 ヨコハマグランドホテル解散

No.134 5月13日 必ず素晴らしい日の出が訪れる

No.66 3月6日 ラーメンがなくなる日

ラーメンは一世紀の時間を経て日本食になりました。大正時代に全国各地に広がり始めた「支那そば」「中華そば」は戦後になって、一気に華開きます。全国津々浦々、1ジャンルでこれほどに多様性のある食が現在も成長しているのは「ラーメン」だけではないでしょうか。
1994年(平成6年)のこの日、新横浜ラーメン博物館がオープンしました。
新横浜ラーメン博物館公式サイト

外観
以前大雪のとき訪問

ラーメンは日本食からさらに国際食として世界に「日本のラーメン」として伝播しつつあります。戦後の食文化を大きく変えた「ラーメン」の名は昭和33年に発売された日清の「チキンラーメン」の登場が大きく影響します。インスタントラーメンの大ヒットが、ご当地ラーメンの誕生のベースと成りました。
このインスタントラーメン文化の創造会社「日清カップヌードルミュージアム」も横浜に登場し、横浜は麺食の聖地になりつつあります。

新横浜に登場した「新横浜ラーメン博物館」(ラー博)は、オープン当時驚きを持って迎えられました。私もオープン一ヶ月後くらいに並んで入場して以来、のべ10回程度ですが思い立ったらラー博に向かっていることもありました。
まず驚いたのが、ラーメンを食べるのに入場券を買うことでした。(現在は入場料300円です)しかし全国のラーメンを一カ所で食べられる交通費と考えたら良いかなとそれほど抵抗無く入場しました。(年寄りにはかなりブーイングでしたが)入館してまず驚くのが館内のシカケです。ラーメンという名が全国区となった昭和33年「チキンラーメン」時代を再現した街がそこにありました。このコンセプトは今でこそ昭和レトロブーム“ALWAYS”などの成功がありますが、オープン当時40歳以下は異次元だったのではないでしょうか。

昭和33年を再現
2月2日から気仙沼カモメ食堂が復活を目指して出店

この昭和33年時代を再現した街並を「ラー博」は変えていません。ぶれていないということです。確かに数回入場した時に“まだこれ”と感じたことも事実ですが、その後時々の入場でしかありませんが仲間を連れて行く時の「コンシェルジュ」になっている自分がいます。

5年前?ごろのラー博

ラーメンをテーマにしたフードコートは全国に15以上も出現しました。街ぐるみでご当地ラーメンを開発しているエリアもあります。ラーメン文化がさらに成熟化すればするほど「ラー博」の存在が際立ってくるでしょう。頑張って欲しいと思います。
新横浜には他に観光施設が無いのが残念ですが、最近では世界各地からわざわざ「ラー博」を訪れています。

6カ国語パンフ

「新横浜ラーメン博物館」館長の岩岡さんは、ラーメンの画一化に危機を感じていると自著「ラーメンがなくなる日」で述べています。80年代以降ラーメンはメディアと融合し大ブームを起こしました。もうブームは去り、原点の郷土食にもどりつつあります。
カレーミュージアムは失敗しましたが、ラー博は常にラーメン世界の灯台になって欲しいと思います。
※余談
ちょっと苦言 一階の売店はどうにかなりませんか?レイアウトがその都度変わるのは構いませんが買いにくいのです。商品陳列、展開にもう少し本腰を!?

マイラーメン購入しました
かもめ食堂のミニです
つけ麺の登場しました
箸休めに喫茶も良いね
なつかし!レーシングカーだ。
外国人はコスチウム撮影が大好き 法被も人気ですよラーメンハッピ作っては?