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金玉均(キム・オッキュン)

今日のテーマは一時期横浜に滞在した金玉均(キム・オッキュン)についてです。
1886年(明治19年)7月26日
「朝鮮の亡命志士金玉均が神奈川県で拘留された」という簡単な記事を元に数日前から資料を読んでいますが、<明治以降の朝鮮と日本>に関しては異論の多いこと。
なので 事実関係を紹介する程度に留めました。ある程度理解した時点で改めてまとめてみたいと思います。
朝鮮、革命の志士「金玉均」は日本との関係が深く四回来日しています。
(最初の来日)
金玉均は1851年2月23日に忠清南道公州市で生まれました。スクリーンショット 2015-11-07 13.38.35俊英だった彼は22歳で科挙に合格、中堅官僚として近代化を推進するために開化思想に目覚めていきます。
1882年(明治15年)年2月から7月にかけて初来日し大阪に滞在、福沢諭吉ら多くの支援者と出会います。既に朝鮮からは前年の1881年(明治14年)に2名の留学生が慶應義塾で学び、1名が同人社に入学していました。

(二度目)
1882年(明治15年)9月から翌年3月にかけて金玉均は日朝間で締結された済物浦(チェムルポ)条約批准の修信使の顧問として二度目の来日を果たします。この時、彼は横浜正金銀行から17万円の借款を得ます。

(三度目)
1883年(明治16年)6月、金玉均は国王の国債委任状を携え、日本での三百万円の借款を得ようとして来日します。
残念ながら借款には失敗し翌年の5月に失意の帰国となります。

(四度目)
1884年(明治17年)12月4日に 金玉均ら数名は日本公使館も加わりクーデター(甲申事変)を起こしますが清国の介入で失敗。井上角五郎らによって日本に亡命(密航)します。<亡命中>日本政府冷遇の中、玄洋社の頭山満ら多くの支援者に出会うことになります。
https://kotobank.jp/word/甲申政変-261601
クーデターに失敗した金玉均は本国の刺客にも狙われ、日本国内の支援者を頼ながら亡命生活を送ります。
1886年(明治19年)に入り日本国政府は、冷遇はしていましたが、庇護状態していた彼の存在が外交上の<お荷物>という評価に変わり対応が大きく変わり始めます。
6月2日 警視総監命で国外退去を口頭で伝えます。
6月4日 東京にいた金玉均は列車で横浜に向かい
この頃、まだ治外法権だった横浜居留地のグランドホテルに滞在します。

light_20150409161611 6月9日 内務大臣であった山県有朋は書面でグランドホテルの金玉均に対し退去命令を執行するように要請します。
6月12日 神奈川県令から本人に退去命令が令達されますが、本人は“国外退去の金が無い”という理由で拒否します。
そして
7月26日
<国外不退去>の金玉均をグランドホテルより拘致、野毛山(伊勢山?)の三井別荘に連行、強制抑留します。
(その後)
勾留した金玉均を日本政府は”国外追放“できませんでした。
井上馨外務大臣は山県内相に「内地ヨリ隔然セル小笠原嶋二送置」を要請し、
8月8日に身柄を神奈川県から東京府に移します。
その後 事実上の<島流し>である小笠原に送られ保護観察となった金玉均はしばらく小笠原で生活し、その間日本の友人が彼の元を訪れています。
しかし気候風土が合わなかったのか 体調を崩し 北海道に転送されます。
明治23年に北海道から<内地>で暮らすことを認められ、国内で多くの支援者と交流します。
明治27年周囲の制止を振り切り上海に渡りますが 暗殺されその生涯を終えます。
(最初の亡命者)
当時の日本政府にとって金玉均の取り扱いは<初めての政治亡命受入>だったそうです。
この時に彼を支援した福沢諭吉をはじめ、大アジア主義者と呼ばれた玄洋社の頭山満、孫文や蒋介石を支援した宮崎滔天らの行動が脈々と民間の手で受け継がれ、孫文やボーズの支援に繋がっていきます。
※孫文の初期日本滞在<横浜時代1897年〜1907年>を支えたのも華僑や民間の日本人でしたね。

正岡子規「墨汁一滴」

正岡子規「墨汁一滴」

 鮓の俳句をつくる人には訳も知らずに「鮓桶」「鮓圧(お)す」などいふ人多し。昔の鮓は鮎鮓(あゆずし)などなりしならん。それは鮎を飯の中に入れ酢をかけたるを桶の中に入れておもしを置く。かくて一日二日長きは七日もその余も経て始めて食ふべくなる、これを「なる」といふ。今でも処によりてこの風残りたり。鮒鮓も同じ事なるべし。余の郷里にて小鯛、鰺、鯔など海魚を用ゐるは海国の故なり。これらは一夜圧して置けばなるるにより一夜鮓ともいふべくや。東海道を行く人は山北にて鮎の鮓売るを知りたらん、これらこそ夏の季に属すべき者なれ。今の普通の握り鮓ちらし鮓などはまことは雑なるべし。(七月二日)

正岡子規は1865(慶応3年)に生まれました。

同世代(慶応3年生まれ)に夏目漱石、幸田露伴、尾崎紅葉、内藤湖南、狩野亨吉、白鳥庫吉、黒田清輝、藤島武二、伊東忠太、宮武外骨、豊田佐吉、池田成彬、平沼騏一郎らがいます。

さらに年齢の枠を数年広げるだけで、近代日本を築いたあらゆる分野の重要人物が<ごろごろ>登場します。

この「墨汁一滴」は明治34年1月16日から7月2日まで、新聞『日本』に途中四日休載はありましたが、164回にわたって連載されました。

1900年(明治33年)8月に大量の喀血を起こした子規、かなり病状も良くない中 病魔と闘いながらの執筆でした。最後となった7月2日は<寿司>の話をテーマに軽妙に俳句論を語りますがこれで連載を止めることになります。

連載の始まった1月16日からの前半部には、力強い彼の歌論が展開されていますのでぜひご一読ください。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/1897_18672.html

この新聞『日本』と彼の連載を楽しみにしていた女性が子規同様に病気に倒れた中島 湘煙です。

中島 湘煙は夫で神奈川県令などを務めた中島信行とともに天下の悪法「保安条例」違反で<東京ところ払い!>浜流しにあった一人です。

横浜に流された中島信行はハマから政治家を志し神奈川県第5区から立候補、議員として活躍します。

https://ja.wikipedia.org/wiki/中島信行
1899年(明治32年)3月26日に信行が肺結核のため53歳で亡くなり、
1901年(明治34年)5月25日
一年後追うように中島湘烟も、肺結核のため38歳で亡くなります。ちょうど同時期に子規の「墨汁一滴」が連載されていました。
※新聞「日本」は1889年(明治22年)〜1914年(大正3年)末まで発行された日刊紙でした。創設者は陸 羯南(くが かつなん)、正岡子規はここの記者として一時期働き、その後支援を受けていました。
中島 湘煙について
No.475 点・線遊び「足利尊氏からフェリスまで」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10

正岡子規について
No.253 9月9日(日)子規、権太坂リターン
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=351
No.314 11月9日 (金)薩長なんぞクソクラエ
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=279

甲乙2種の記念絵葉書(アーカイブ再掲)

1909年(明治42年)6月28日(月)
「横浜開港50年史」上下2巻ならびに甲乙2種の記念絵葉書を発行する。(横浜商工会議所百年史)」

「横浜商業会議所発行」

※上記絵葉書は記念絵葉書の一部です。

この他
★「開港五十年記念博覧会の開会式が挙行された(横浜歴史年表)」
★「開港記念史料展覧会が万国橋内でひらかれた(横浜歴史年表)」
★「開港記念史料展覧会税関新埋立地で開催(〜7月5日)(総合年表)」
★「五十年祭に参列の英艦マンモウス号入港(総合年表)」
と開港記念日前にプレイベント的に様々な催しが行われます。
メインイベントは
1909年(明治42年)7月1日(木)に式典が行われました。

No.183 7月1日(日) 7月のハマ?

No.183 7月1日(日) 7月のハマ?


有名な話ですが、昭和3年まで開港記念日は7月1日に行われ、

その後

6月2日に変更され現在に至っています。
No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更

No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更


この日に合わせて「井伊直弼像」の開幕式を元彦根藩のメンバー他、薩長土肥の藩閥政治に不満をもつ人達の手で挙行する計画でしたが<時の政府>には中止命令を受けます。

横浜の商業会議所(後の商工会議所)発行の絵葉書にはしっかり井伊直弼像がペリーと一緒に描かれていますから、横浜は薩長土肥出身者とは一線を画していたのかもしれません。
※「横浜開港50年史」上下2巻は
近代デジタルライブラリーでダウンロードできます。
http://kindai.ndl.go.jp
(風景を読みとく)
明治から大正にかけて 世界は絵葉書の時代でした。日本も年に<億>単位の絵葉書が国内外に流通し市民メディアとして多くの状況を伝えました。
ある時代の重要な映像資料となりますが、<複製>も多く、正確な年代推定が難しい資料であることもありつい最近まで<歴史資料>としては中々認知されませんでした。
その浜で、「横濱絵葉書」は火災・震災・戦争・接収等を経て街の風景がめまぐるしく変化していることもあり、<時代資料>としての絵葉書研究が早くから行われてきました。
この商業会議所発行の「開港五十年記念絵葉書」、
写された<税関桟橋>の時代推定に重要な判定基準となってきます。
絵葉書に見る<税関桟橋>の変遷は別立てで 紹介します。

井伊掃部頭の銅像除幕式

1909年(明治42年)6月11日
「井伊掃部頭の銅像除幕式行われる。(横浜商工会議所百年史)」
以前「神奈川県庁設計問題」でも少し触れましたが、横浜を舞台にした開港騒動は明治に入ってからも長く続くことに。
まず「1909年(明治42年)6月11日井伊掃部頭の銅像除幕式行われる。(横浜商工会議所百年史)」
これは誤記と思われます。
正しくは1909年7月11日ではないでしょうか。

尊皇攘夷の空気が強まる中、時の大老「井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)」がペリーと日米修好通商条約を調印します。
その前にペリーが来航した時は老中“阿部 正弘”が日米和親条約で開国の実質的調印をし、後任の井伊直弼が例の<安政の大獄>で徹底した弾圧をしたために後世恨みを買う事になるわけです。
まあ 幕末史で彼ほど極端に評価の別れる人はいないでしょう。
井伊直弼が弾圧なら 吉田松陰はテロ首謀者ってことにもなりますから歴史の議論はこれからでしょう。
とにもかくにも歴史は大事件後少なくとも二世紀位は敗者に不利です。
弾圧された側が<政治権力>を握る。当然粛清が行われます。
薩長土肥を中心に尊王・勤王・攘夷・開港・佐幕・倒幕といった考えの交雑のなか明治維新となっていきますからまあややっこしいことこの上なし。
このあたりをテーマにするとこれまたこじれそうなので シンプルに
「井伊掃部頭の銅像除幕式」騒動を紹介しておきます。

横浜市西区掃部山公園図

この「井伊掃部頭の銅像除幕式」は横浜で行われました。その場所が現在の「掃部山公園」です。

この文面だけだとなるほど、幕末の大老が開港の舞台となった「横浜」に大きく関係があったから銅像が建った、と普通は思います。
当時の薩長藩閥組が強かった明治政府の下で、弾圧された張本人の顕彰碑を建てるなんて“もってのほか”と考えるのが<官軍>側で、
一悶着あったのがこの銅像事件です。
井伊直弼は彦根藩藩主で、現在も滋賀県彦根市では尊敬されていますから、彦根市の記述には
「開港50周年を迎えようとしていた横浜では、開港の生みの親でもある直弼を顕彰しようとする動きが盛り上がました。直弼の宮位にちなんで、掃部(かもん)山と名づけた地に直弼像が建立され、明治42年(1909)開港 50周年記念式典で像の除幕式が挙行されました。翌43年(1910)、直弼没後50年に、彦根でも護国神社近くにあった尾末公園に直弼像が建立されました。(彦根市)」と書かれています。
これ<正確>ではありません。井伊直弼像、開港 50周年記念式典での除幕を計画していましたが神奈川県知事から中止勧告があり1日から11日に延期して<強行>した経緯があります。これを開港 50周年記念式典の中に入れるかどうか?
まあ常識的に考えて 入らない。でもこの除幕式の意味するところは大きいのでしっかり研究して欲しいと望みます。
簡単に井伊直弼像建立顛末を年譜で追います。
1860年(安政7年3月3日)3月24日
三月三日桜田門外の変で脱藩した水戸藩士他18名が井伊直弼を殺害。
世田谷豪徳寺に葬られた井伊直弼の墓には毎年関係者が墓参に。
1881年(明治14年)11月
井伊直弼死後20年を経てそろそろ23回忌のこともあり
井伊直弼像、在東京建碑委員が選定されます。当初は銅像ではなく<建碑>案だったようです。建碑場所として横浜戸部不動山を候補に挙げられますが東京案の方が多数を占めます。
1882年(明治15年)10月
上野東照宮境内案を申請。11月に内務省内で議論されますが否決され不許可を通知。
1883年(明治16年)11月
横浜戸部不動山鉄道局所有地(現在の掃部山公園)の払下げを願い出、許可されます。
1884年(明治17年)1月
横浜戸部不動山の地所開墾に着手します。
1884年(明治17年)3月22日
「東京・横浜の紳商60人、佐野茂で会合、野毛山に井伊直弼 記念碑建設を決定」
1886年(明治19年)3月27日
豪徳寺で二十七回忌が行われます(26日〜28日)
1888年(明治21年)3月20日
神奈川一区選出の暴れん坊議員となった島田三郎(『東京横浜毎日新聞』社長)が
『開国始末』を発刊。(付録 井伊掃部頭直弼伝)ここで井伊直弼を擁護する。
1891年(明治24年)
「大老銅像建碑委員会」が発足。
1892年(明治25年)3月27日
井伊直弼の三十三年祭を世田ヶ谷豪徳寺で開催。
1893年(明治26年)
旧臣が集まり「旧談会」を発足。
1893年(明治26年)8月
佐賀藩出身の中野 健明神奈川県知事は 遺勲碑建設に関し内務省に問合せた結果、長州藩出身の井上馨大臣は拒否。(当たり前といえば当たり前)
1899年(明治32年)5月19日
「日比谷公園内に直弼顕彰碑計画を立てる」案が内務省却下。
この時の内務大臣は第2次山県内閣の西郷従道。
1907年(明治40年)2月
遺勲碑から銅像に変更し戸部山に建設を決定し設計に着手します。
土台の設計者は妻木頼黄。→彼が神奈川県庁設計から突然のスキャンダルで外されます。
1909年(明治42年)6月26日
銅像が竣工。
1909年(明治42年)7月1日
開港五十年式典が開催されます。横浜市章・市歌発表。
これに合わせて挙行予定だった銅像除幕式を神奈川県知事(周布公平)、横浜市に中止を申し入れ、中止延期となる。
1909年(明治42年)7月11日
除幕式を強行します。式典にはいったん政界を引退した元総理の大隈重信、英国総領事ら出席者は600人にも及びました。
1910年(明治43年)
彦根に井伊直弼像を建立
1914年(大正3年)11月7日
野毛山の土地・銅像は一旦井伊家に寄贈され、整備後横浜市に寄付(8月)、掃部山として開園します。
1923年(大正12年)9月1日
関東大震災で銅像上部が回転、転倒せず。公園は被災者の避難所に。
1935年(昭和10年)3月2日
「天照義団掃部頭銅像の首を狙う」事件発覚
1940年(昭和15年)4月10日
「井伊直弼朝臣顕彰会」横浜で開催。
1943年(昭和18年)6月16日
銅鉄押収「応召」となる。
1954年(昭和29年)5月20日
二代目井伊直弼像 完成。
1954年(昭和29年)6月2日
開港百年祭に際し二代目井伊直弼像 除幕式。
1958年(昭和33年)5月10日
開港百年祭実行員会、開港功労者31人を顕彰。井伊直弼も
1968年(昭和43年)9月29日
「開港の恩人井伊大老を偲ぶ110年祭」掃部山公園で開催
1989年(平成元年)
YES89掃部山公園再整備
2012年(平成24年)3月28
横浜市認定歴史的建造物に認定
2014年(平成26年)
区制70周年と掃部山公園開園100周年、掃部山公園再整備
※この年表は 各種資料から集めたもので ここの真偽は確認しておりません。
若干時系列で 矛盾しているかのように見える点がありますがそのまま掲載しました。

※何故誤って6月11日となったか推論
わからないでもありません。このブログでも何回も触れていますが、開港祭は昭和に入るまで7月1日に行われていました。そのため前述の延期騒動をそのまま現在の6月開港祭の前提で6月11日としたのではないでしょうか。

1月31日 朝吹英二

横浜に関係のある一人の人物を紹介します。
1918年(大正7年)の今日、実業家の朝吹英二が71歳の生涯を終えました。
「朝吹 英二(あさぶき えいじ、嘉永2年2月18日(1849年3月12日)〜大正7年(1918年)1月31日)は、日本の実業家。幼名は萬吉、鐵之助。」(wikipedia)
このwikipediaでは彼の紹介に「横浜」の項目はありません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/朝吹英二
彼は幕末に生まれ、明治・大正期に実業家として活躍します。
若い頃のエピソードとしては、尊皇攘夷思想だった朝吹は同郷の開明派「福沢諭吉」を暗殺しようと企てますが失敗しこれをキッカケに慶應義塾に学び、福沢の元で働くようになったそうです。実業家として頭角を現し三菱商会から三井に転じ、「三井の四天王」の一人と呼ばれるほど<三井>の重鎮として活躍します。
1880年(明治13年)7月20日から業務を開始した「貿易商会」横浜支店の責任者として朝吹英二は横浜を舞台に活動します。
この「貿易商会」は、社長が丸善の創業者である早矢仕有的で朝吹は役員として横浜支店を任されます。「貿易商会」は本店を東京に置き、横浜の本町四丁目に支店を開設します。取り扱った業務内容は生糸の輸出・茶・煙草・雑貨・米などの輸出と鉱物・皮革類・魚類等の輸入等でした。
「貿易商会」にとって「横浜支店」は特別な存在でした。
資本金二十万円の内、十五万円が「横浜支店」の事業資金として振り分けられ、主に<生糸の輸出>を専門とし支配人として朝吹英二が着任しました。
いわば特別プロジェクトの性格を帯びた「横浜支店」でした。
この「横浜支店」設立の背景は、単にビジネスチャンスというだけではなく、当時の横浜を舞台に行われていた貿易の<問題>がありました。

日本は開港後欧米列強と結んだ不平等交易条約(修好通商条約)の影響で、貿易を管理・統制することがほとんど不可能な状態にありました。
明治初期の貿易は殆ど外国(欧米)の商社が独占していました。
1867年(明治10年)の輸出額の94%、輸入額の95%を外国商社が独占。
しかも、居留地の外国商館は<悪辣な手段>を使い、差別的で一方的な交易で暴利を上げていました。特に横浜を舞台にした生糸交易は取扱額も大きく日本経済の要でもあったため<フェアトレード>は日本経済界・政府の重要な課題でした。
「貿易商会」横浜支店設立には、貿易のバランスを回復する(自主貿易の確立する)ことも大きな目的でした。「貿易商会」の設立趣意書の一部を商会します。
「我国人ハ在港ノ外人二依頼シテ貿易ノ事ヲ行ヒ既二幾分ノ国損ヲ致シ、又其物品ノ代価ヲ受授スルニ当テ為替ノ事ヲモ彼ノ「パンク」二任スルガ故二、輸出入ノ景況二従テ為替ノ相庭(相場)ヲ昂低スルモ、全ク彼レノ意中二存シテ、内国ノ商人ハ恰モ其制御ヲ仰キ、昂低共二常二彼レニ便利ニシテ、我二不便利ナラザルハナシ、金権ノ主客、処ヲ異二スルモノト云う可シ」

結果は残念ながら 1876年(明治19年)倒産、失敗に終わります。
朝吹英二は生糸直輸出事業の大損失を一身に背負って日本一の借金王と呼ばれたりしました。「貿易商会」に限らず、多くの日本企業が不平等交易に立ち向かい、粘りつよく条約改正に至るまで要求と実践を繰り返していきます。
明治以降、日本の急速な経済発展と表現されますが外国商社との条件闘争と試行錯誤を繰り返していきます。

横浜で大失敗した朝吹英二は、その責任をとって放浪生活に入ります。
そんな朝吹英二がある時、かつての知り合いだった第3代日本銀行総裁 川田小一郎を訪ねます。川田は朝吹に自分の給料袋をそのまま渡し、再起を支援。
これがキッカケとなって朝吹は経済界に復帰、当時危機に瀕していた鐘淵紡績の立て直しに貢献します。
その後、三井財閥の基盤確立に尽力するとともに日本経済界の重鎮として多くの足跡を残します。
「生涯
豊前国(現在の大分県)中津藩宮園村(現在の大分県中津市耶馬溪町大字宮園)の大庄屋の跡取として生まれた。
日田の咸宜園や中津の渡邊塾・白石塾に学ぶ。尊皇攘夷思想に染まり、維新後の明治3年(1870年)、開明派の福澤諭吉暗殺を企てるが、転向し福澤とその甥 中上川彦次郎の庇護を受け、彦次郎の妹と結婚する。慶應義塾に学び、明治11年(1878年)、三菱商会に入社。明治13年(1880年)、貿易商会に入って取締役となる。
また、大隈重信に近い政商となり、三井財閥に転じて、明治25年(1892年)に鐘ヶ淵紡績専務、明治27年(1894年)に三井工業部専務理事に就任。明治34年(1901年)、中上川が死去すると、益田孝により中上川の工業化路線は一旦は止まったが、それでも明治35年(1902年)に三井管理部専務理事に就任し、王子製紙会社では役員を務めて会長となり、また、芝浦製作所、堺セルロイドなど王子と共に業績不振とされたこれら企業の建て直しを担当することとなった。このように三井系諸会社の重職を歴任し、「三井の四天王」の一人と言われた。
中上川の後任の最有力候補であり、かつ慶應閥の筆頭とも目されていた朝吹だったが、上述のように、後見の中上川の死去にともない、益田が三井財閥の実権の座を握ることとなり、明治40年(1907年)には、益田が引退に際して團琢磨を推挙したため、退任を余儀なくされることとなった。
江戸時代において悪人とされていた石田三成の顕彰事業にも熱心で、歴史学者渡辺世祐に委嘱して『稿本石田三成』を書かせ、その墳墓発掘にも力を尽くした。」

(関連ブログ)
No.31 1月31日 さよなら路線廃止に沢山のファン

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【今日の横浜2015】1月28日・7月24日

1891年(明治24年)の今日
「日本最初の石鹸製造者の堤磯右衛門(59)が没した。彼は明治初年横須賀造船所請負人代理で現場監督中当時輸入品だけであつた石鹸に注目し、フランス人写真技師ボイルからその基本的製法を学び研究の結果、明治6年三吉町4丁目に初めて石鹸製造所を設け、海外に輸出するまでになつた」(横浜歴史年表)
横浜もののはじめ<代表格>石鹸の堤磯右衛門(磯子)が亡くなった日です。
このエピソードは有名な話なので 今日は別ネタで一捻りします。

1917年(大正6年)1月28日の今日
作家となって間もない芥川龍之介が三渓園の原善一郎を訪ね、善一郎が歓待します。
そのお礼状を芥川は善一郎に送ります。
「拝啓 昨日は松井老人同道にて参上 色々ご馳走になりありがたく御礼申し上げます。瑞魔天を見たことは一生忘れません。あんな甚大な感動を受けたことは今まで殆ど無いと言って良い位です。
ああいう所へ行かなければ駄目です。少なくとも行こうとしなければ、
尤も行こうと言っても 今の人間には行かれないのかもしれませんが
なにしろ大変なものです。また 三渓園小集の時には上がりたいと思っております。
三渓園そのものの冬枯も甚だ面白く思いました」(一部句読点読み付加)
笹鳴くや横笛堂の眞木材
と即興の俳句を添えています。
※「瑞魔天」は新井恵美子「原三渓物語」では「閻魔天」となっています。light_20150404125316龍之介と善一郎とは東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)時代の同級生で友人でした。ご存知、横浜の大生糸商の原富太郎(原三渓)の長男として生まれた善一郎は早稲田大学に進み、家業を継ぐことを運命付けられ卒業後アメリカに留学します。一方の芥川は、中学から第一高等学校一部乙類(文科)に成績優秀が優秀だったため無試験入学します。
その後、東京帝国大学文科大学英吉利文学科に進み学生時代に『新小説「芋粥」』で文壇デビューします。
中学時代の二人は友人として互いに影響し合い、芸術を愛した善一郎が愛読していた歌誌「心の花」を薦めます。これをキッカケに芥川は同誌に短歌を寄稿するようになります。
さらに、文芸誌「心の花」第18巻第4号に「柳川隆之介」の名で短編『大川の水』が掲載され文学者の道を歩み出します。
https://www.youtube.com/watch?v=rCQARXjTuuM
『大川の水』

芥川が「三渓園」を訪れた1917年(大正6年)は、作家芥川にとって
第一短編集『羅生門』「戯作三昧」連載 第二短編集『煙草と悪魔』「或る日の大石内  蔵之助」など作家活動にギアが入った一年でもありました。
この年の暮れ11月23日
芥川は 善一郎の結婚披露宴に出席します。善一郎の妻寿枝子は、団琢磨(59歳)の四女で、会場は移築が完了した三渓園臨春閣(りんしゅんかく)でした。
披露宴には芥川の他に
哲学者、美学者、作家の阿部次郎(当時34歳)
哲学者、倫理学者、日本思想史家の和辻哲郎(当時28歳)
哲学者、教育者、政治家の安倍能成(当時33歳)らの若き仲間達が集いました。
その後芥川も善一郎も それぞれの道を歩みます。
芥川は
1927年(昭和2年)7月24日に服毒自殺します。
そして原善一郎が
1937年(昭和12年)8月6 日に脳溢血で突然亡くなります。
父原三渓は箱根で息子の死を知ります。病気がちの三渓にとって追い打ちをかける悲報でした。
昭和恐慌、東京開港の難題を抱える中、
原三渓は
1939年(昭和14年)善一郎三回忌の祥月命日が過ぎた8月16日、70年の生涯を閉じます。

(1月28日関連ブログ)
No.28 1月28日 高島嘉右衛門と福沢諭吉(加筆)

No.28 1月28日 高島嘉右衛門と福沢諭吉(加筆)

渡辺福三郎とその妻 たま。

(素案レベルです。今後加筆修正される予定です)

1901年(明治34年)と1904年(明治37年)1月25日に
市議会議長に渡辺福三郎が選出されたと「横浜市会の百年」の年表に記載されていました。

(渡辺福三郎の議長任期は1893年(明治26年)〜1905年(明治38年)で、市会の議長選挙は概ね明治期は1月に行われていました)
この市会議長を10年以上歴任した渡辺福三郎という人物について
今日は紹介しましょう。
《渡辺福三郎》
1855年(安政2年)1月〜1934年(昭和9年)
明治から昭和前期に横浜を舞台に活躍した実業家です。明治の時代、茂木・原・若尾と並ぶ横浜の豪商と言われた実業家です。
福三郎、江戸は日本橋の老舗海産物業「明石屋」の家に生まれました。
彼の父にあたる「明石屋」7代目福秀の時に横浜が開港を迎えます。
開港場の交易を推進するため幕府の勧めもあり元浜町に「明石屋分店」を構え巨額の投資を行います。
江戸で商っていた軍用石炭を横浜でも扱い、その他に海産物・蚕糸を取り扱いました。福三郎の代になり横浜支店は本格的に外国船の石炭や、輸出用の海産物を扱い「石福商会」の看板で事業を拡大していきます。
彼が関わった横浜の事業は多岐にわたりました。幾つか紹介しましょう。
神奈川・八王子間の「横浜鉄道(現在の横浜線)」の発起人・経営者の一人として尽力します。また「横浜電気鉄道」の設立にも関わり<取締役>に就任し経営に参画します。
1912年(明治45年)には渡辺銀行を設立、馬車道入口の本店は地域のランドマークとして威風を放ちます。
渡辺銀行は経済恐慌の影響を受け残念ながら昭和13年に第一銀行に買収され消滅しますが、戦前の横浜経済の重要な役割を担ってきました。

さらに
<渡辺福三郎>の妻 「たま」という女性を紹介しようと思いましたが、
実業の福三郎とはまったくジャンルの違う分野で大活躍した横浜の女傑!です。
彼女に関しては 別仕立てでぜひ紹介したいと思っています。

No.25 1月25日 馬車道の華

No.25 1月25日 馬車道の華


「横浜宝塚劇場」が改装オープンし「市民ホール」となった日です。

No.391 謎解き馬車道

No.391 謎解き馬車道

【保土ケ谷区】歌人 荒波孫四郎

1903年(明治36年)2月23日
「保土ケ谷の歌人荒波孫四郎(66)が没した(横浜歴史年表)」という記事に出会いました。荒波孫四郎という人物、初めて聞く名前でした。いかなる人物なのだろう?
歌人とあるので、文学で作品を残した方か?と思い調べてみました。
保土ケ谷区史を調べたところ、何ヶ所かに登場します。
1883年(明治16年)保土ケ谷の東海道線敷設に伴う新道開墾事業資金に高額寄付を行っているリストが登場しました。また、初期の学校制度では、地域が学校を支えることになっていて、程ケ谷(小学校)の世話人として荒波孫四郎の名がありました。
※程ケ谷(現在の保土ケ谷小学校)学舎
明治6年5月5日創立、6月5日開校
明治6年の学制に従って保土ケ谷他3ケ町の有志により設置。軽部庫次郎宅敷地に新築、第一大学区第七六番小学程ケ谷学舎として創立。(学校沿革誌より)

地域の名士であることは分かりました。
歴史年表では「保土ケ谷の歌人荒波孫四郎」とありますが文化人のところで<歌人>として登場してきません。歌人ではなかった?
ということで、もう一つの郷土史、「保土ケ谷区郷土史」を探ってみると 簡単な生い立ちと地域への貢献について記述されていました。

「保土ケ谷の歌人荒波孫四郎」が地域貢献?
そもそも荒波孫四郎は何故資産家なのか?
資料を読む限りでは 荒波家は先祖が伊勢国津市原町(現在の三重県津市)の出身で、江戸神田三河町に暮らした後、保土ケ谷(岩間)に移り住みます。軽部清太夫に就いて学び、また独学で知識を身につけ戸長になります。
「才気よりも徳望の人にして(中略)町政を掌るや能く衆議を容れて雅量を示し、寛厚以って事を処したり」
ここに登場する荒波孫四郎は天保に生まれ、1903年(明治36年)の今日66歳で亡くなりますが、家業は不動産業(土地活用)と資料では読めます。
「山林を買取り之に植林して十周年の経、横濱の発展と共に地価大に騰貴し来る。」横濱の発展に伴い材木需要が高まり<林業>で財を成したのではないか?と推測できますが、資料不足です。

ただ 半端な資産家ではなく<超>大金持ちであったことは、社会貢献、社会事業への関わり方で理解することができます。
前段で紹介しました「程ケ谷学校」への資金援助
道路改修への資金提供、程ケ谷駅新設に奔走し、自分の土地も提供します。
この他
久保山の共同墓地を作るにあたって、広大な敷地を譲渡しますが、代金は<墓>の売上にから分割返済するシクミにすることで町の財政負担軽減をはかります。
保土ケ谷を貫通する<水道道>の鉄管整備工事にも自分の土地以外の地主との交渉役も引き受けています。多方面にわたる地域貢献に心がけた篤志家、実業家だったようです。
明治時代の保土ケ谷発展に大変寄与した人物だったことが分かります。
1903年(明治36年)の今日亡くなり保土ケ谷旧東海道脇の天徳院に眠っています。
歴史年表に歌人とあったのは、風流人として晩年を送った孫四郎を偲んだ表記だったかもしれません。
※曹洞宗寺院の天徳院
神戸山天徳院と号する。正元年(1573)に創建、文久年間(1861-1864)に満願寺を合寺しています。横浜市保土ヶ谷区神戸町102

神奈川県公文書館に貴重な地域資料が遺族の意向で寄付があり、「荒波孫四郎家旧蔵絵図資料」が所蔵されています。
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f1040/p10485.html

■明治三陸地震
1896年(明治29年)6月15日午後7時32分30秒、岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖200km(北緯39.5度、東経144度)を震源として起こった、マグニチュード8.2-8.5レベルの巨大地震が起こりました。
地震に伴う当時の観測史上最高(本州)海抜38.2mを記録する津波が発生。
新聞報道で被災内容が全国的に報道されるようになり、<義援金>が集まるようになった災害としても災害史に残しました。
この地震被害に対し全国で義援金が集まりますが「神奈川縣橘樹郡保土ヶ谷町有志」も義援金を募り多くの人びとが寄付します。そのリストが「東奥海嘯罹災救助義捐金」として「横浜毎日新聞」に掲載、デジタルアーカイブされています。
金十圓 岡野欣之助
金七圓 荒波孫四郎※
金五圓 岩田岩次郎
このリストの二番目に荒波孫四郎の名があります。当時の寄付金は、その地域の名士度に従って金額が決まってきますので荒波孫四郎が保土ケ谷町内会の有力者であったことが推察されます。
http://tsunami-dl.jp/…/Yokoha…/YokohamaMainichiM29_July24_05
参考
<保土ケ谷区郷土史下>に登場する郷土の人物
第十一章 郷土の人物
一 苅部清兵衞翁
二 岡野勘四郎翁
三 岡野欣之助翁
四 荒波孫四郎翁
五 金子泰吉翁
六 清墨庵先生
七 木村坦乎先生
八 宮本清寛先生
九 鈴木玄清先生
十 孝女さく子
十一 孝子金作
十二 孝子湯澤シヅエ
十三 節婦金子ナカ

(2月23日関連過去ブログ)
No.54 2月23日 麒麟麦酒株式会社創立
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=567
(番外編)
番外編 重箱の隅の快楽(追記・修正)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=545

主な寄贈資料一覧 – 神奈川県ホームページ
神奈川県立公文書館が収蔵する資料の一部を写真とともに紹介しています。

1915年(大正4年)6月4日

時折断片的な史実がつながり始めることがあります。
点が線に線がある形になっていく時に背中がゾクゾクッとします。
これまで900話位の史実をさがす横浜ブログを書いていますが、ゾクゾクッとすることは中々ありません。
今日のネタは調べている過程で少しゾクッとしました。
三人の詩人が横浜で出会った様子を<小説>のように書いてみました。
1915年(大正4年)6月4日(金)
当時藤棚の山頂にあった<神奈川一中>に通っていた熊田 精華(17歳)は、学校で知り合いになった一歳年上の北村 初雄(18歳)の自宅を初めて訪ねました。
中区住吉町に暮らしていた熊田 精華の自宅から 南太田にあった北村 初雄の家まで約2.3キロ、開通したばかりの路面電車に乗ったかどうかわかりませんが徒歩でも40分位の距離は熊田にとって通学路より平坦で楽だったに違いありません。
※神奈川一中は現在の希望が丘高校light_PC130603 北村の住む南太田は、”久良岐郡太田村”として古くからの村でした。
開港後急速に宅地化し、1913年(大正2年)10月1日から11月19日まで「神奈川県横浜市勧業共進会」が近くで開催され、その後共進町となっていきます。
light_横浜勧業共進会3熊田が訪れた北村 初雄の父 北村七郎は日本大通りに竣工したばかりの三井物産横浜支店長でしたので、丘の上の洋館に暮らしていたかもしれません。
一方の熊田 精華の自宅は海岸にほど近い入船通りで父熊田源太は耳鼻科の開業医でした。三井物産ビル

大正期の日本大通り
日本大通りを海岸側から見る

light_20150501三井倉庫6 この二人を結びつけたのが<詩>でした。すでに露風詩会に参加していた 北村 初雄に熊田が強く影響されたのかもしれません。
北村 初雄は中学時代から詩人三木露風に師事し「未来」に属し露風門下生で三木と同じ歳で兄のような存在の<柳沢健>と横浜で出会います。
北村は1917年(大正6年)7月に中学卒業記念詩集として『吾歳と春』を刊行、<推薦文(序文)>を三木露風が贈り<詩人>としてデビューします。彼は“父の意向で”神奈川一中卒業後 東京高商(現在の一橋大)に進み卒業時(大正9年)にも卒業記念詩集「正午の果実」を刊行します。若さを前面に出した詩風は当時の萩原朔太郎と対比され詩壇に登場します。light_スクリーンショット 2015-06-04 6.03.13 light_スクリーンショット 2015-06-04 6.02.57 残念なことに北村は25歳の若さで結核に罹り夭逝します。
彼が残した詩集は4冊しかありません。
中学卒業記念のデビュー作『吾歳と春』、大学の卒業記念詩集『正午の果実』、死後に発刊された遺稿詩集『樹』
そして1918年(大正7年)11月に柳澤健と 熊田精華と三人で出した共同詩集『海港』の4冊でした。

詩集『海港』に寄せた
北村 初雄21歳の作 「印度洋」から
心地よい朝の日光を浴びて、
Laughter(ラフター)と云う遊戯を行なってゆく、
輪を圍んだ子供達が笑って居る、
空に投げられた手布(はんけち)が地に落ちる迄。

僕は將棋の駒の王様といふ風に、
細長い顔を四角張らせて、身動きもせず、
この庭の薔薇の葉の間から見透かされる、
青い海をば みつめて居る、
其處には確(きっ)と嬉しさうに泳いで居るに違いない、
竹麥魚(はうぼう)や■(かさご)や帯魚(たちのうを)や鯛の群れ。
※■は旧字で表示
栂(とが)の角(かど)ばった葉が日光(ひ)に映えて、
僕を全(すっか)り愉快に.ならせる、彼(あ)の子供達の笑ひ聲。
僕は黙って其れを聞き分けてゆく、
風を孕んだ帆の滑車(せみ)の軋りや櫓の音から。

「初雄さん、遊ばない?」此時、
芝生づたひに走り寄って来る、
真白な真白な可愛い子。
僕はその手を取ながら、静かに尋ねる、
「君のお父様は船乗だってね?」

「ああ僕のお父様は大きな汽船の船長だったの、
だけれどお父様が汽船に乗って、
印度洋を渡って居られるときにね、
お酒を澤山頂いて直ぐにお風呂に入って、
脳充血と云ふ病気に罹って死んで仕舞ったの。」
子供の眼に這入る青筒(ブリュファンネル)の大きな汽船たち、
其は青い空の上に、大きな雲と成って懸って居る。

ああ、巨(おおき)い海洋(うみ)! 巨い海洋!
そうだ、僕が一橋を卒業して、
里昂(リヨン)の会社(みせ)にでも勤務(つとめ)る様に成ったなら、
僕は印度洋を渡って行かう、
そうして、汽船が船長の水葬された所を通過(とほ)るとき、
僕は帽子を脱って挨拶しよう!
「僕は貴君(あなた)の可愛いお子様のお友達で、
姓なら北村、名ならば初雄と申します。」

薔薇の花の揺(ゆす)れが止まった。海は凪いで居る。
子供の眼からは曇りが去った。
僕は自分が話し始めるお伽噺の世界に引込まれて、
青い潮流や人魚のむれや薄紫の貝殻の中で、
印度洋と子供の顔とをじつと見較べる。

●実に素直な 青春詩という感じです。
ここで北村の兄弟子で共同詩集を出した柳澤健について触れておきます。
柳澤健は福島県会津若松市に旧会津藩士の長男として生まれ、一高、東京帝国大学仏法科を経て逓信省の官僚になります。詩人三木露風門下には大学時代に参加し、横浜郵便局長心得在職中に北村と出会うことになります。
1918年(大正7年)11月に
互いに親交を深めた三人 北村 初雄、柳澤 健、そして熊田 精華は最初にして最後の詩集を刊行します。
柳澤健はこの詩集を出した翌年の
1919年(大正8年)4月に逓信省を辞職し大阪朝日新聞社に入社、その後外務省に勤務。フランス、イタリア、メキシコ、ポルトガルなどに駐在し退官後は日本ペンクラブの創設や評論家として活躍すると同時に詩人としても多くの作品を発表しました。
1953年(昭和28年)5月29日没。

エピローグ
熊田 精華は第一中学校を卒業後上智大学哲学科へと進み詩人として活動し、昭和19年には長野県飯山高女で教職につきます。
この間に、一つ年上の山名 文夫と親交を深め、終生の親友となります。

熊田 精華 <七月>
アンナベルリイの午后(ひる)の寝顔に
風が落す淡紅色(ときいろ)の花・
身軽に逃げる小魚(こうを)の後をおひまわして居る私の手・
可愛い猫・一羽の鸚鵡(あうむ)・
それに沢山の糖菓(キャンディ)と
チョコレェトとをのせて居る、
合歓(ねむ)の葉かげの白いボオト。

緑色の「コロンビア」と
形姿(かたち)のいい「エンプレスオブエイシア」・
桟橋のカッフェの卓子(テイブル)では、
帽子をまげたアメリカ人と陶器(せともの)の様な支那人との
切れめの多いのろい会話・
間のびな音をひびかせるNYKの汽艇(ランチ)の笛。

川口の石崖(いしがけ)・警視所の屋根・
広い芝生をのぞいている、
海軍病院の病室(へや)の窓に一つ置かれたアマリリスの花・
旗竿(ポール)をとりまく木椅子の群・
ユニオンジャックをゆるがす風・
RとFを組みあはせた仏蘭西(フランス)領事館の門の金具が、
まぶしい程にうつる水。

ボオトの中にはいま醒(お)きたアンナベルリイの
可愛い瞳(め)・ふりかかる髪をはらひながら
陽にむけておくる優しい微笑(えみ)・
私の両手に音たてる櫂(かい)・
海鳥(みづどり)たちのゆるいはばたき、
その時に山をこぼれて来るクライストチャーチの鐘の響。

水先案内(パイロット)の船の小さな旗と、
グランドホテルの日徐(ひよけ)の影をよりあはせては
踊らす波・海堡の口にならんで居る赤い燈台と白い燈台・
帆(カンバス)の上にもたれる雲・示午球の柱・
碧い海・鸚鵡(おうむ)の声が長く引く、
GO AHEADにおどろく猫。

(七月が二人の前に笑ひ、喜びあふれた、
おお、その時。
世界を両手にささへながら、
私たちは二人は幸福でした。
私たちは二人は幸福でした。
眼には涙があったけれど。
・・・・・・     )
(詩集『海港』から)

熊田 精華には10歳以上離れた年の弟<五郎>がいてとても可愛がります。
親友の山名 文夫に弟を紹介し、弟<五郎>はデザインの道に入り、後に
世界の熊田千佳慕としてアートの世界に大きな足跡を残します。25E7-2586-258A-25E7-2594-25B0-25E5-258D-2583-25E4-25BD-25B3-25E6-2585-2595-25E5-25B1-2595

No.44 2月13日 熊田と土門

No.44 2月13日 熊田と土門


1981年(昭和56年)のこの日、熊田 千佳慕が70歳でイタリア・ボローニャ国際絵本原画展に出品

(以上、ここには若干私の想像も含まれています。
セミフィクションとしてご理解ください)

(その他の6月4日)
1983年(昭和58年)6月4日
県内で最初の緩衝緑地,金沢緑地がオープン[横浜の埋立] 
1983年(昭和58年)6月4日
金沢産業振興センター完成(36)[横浜市会の百年] 
1983年(昭和58年)6月4日
都市計画道路「新横浜・元石川線」開通(36)[横浜市会の百年] 

1870年(明治3年)6月4日
山手公園が居留地の外国人によって整備されます。
No.120 4月29日 庭球が似合う街
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=496light_P3271119No.156 6月4日(月) 三ツ池公園「コリア庭園」開園

No.156 6月4日(月) 三ツ池公園「コリア庭園」開園


1990年(平成2年)6月4日に開園した桜の名所として名高い横浜市鶴見区の三ツ池公園の中に「コリア庭園」を紹介します。

4月25日のセツッルメント

今日はどちらかというと苦手なジャンルからの紹介なので手探り文になっています。
1931年(昭和6年)4月25日
「浦島町に関東学院セツッルメントが開館した(横浜歴史年表)」
「関東学院セットルメント献堂式(横浜近代史総合年表)」
セツッルメント、セットルメント?
開館、献堂式とあるので 教会のある形式か?
私の理解しているsettlementなら
「定住」とか「開拓」といった意味合いですが、このsettlement
中々幅広い<言葉>で、
「定住」転じて弱者に対して援助を与え、自力による生活の向上など定住を促進する社会活動を指すそうです。
他の辞書には
1 解決。決着。
2 宗教家や学生が、労働者街やスラムに定住して、住民との人格的接触を図りながら、医療・教育・保育・授産などの活動を行い、地域の福祉をはかる社会事業。また、その施設や団体。隣保事業。セッツルメント。
また、
「セツルメントとは,もともとは知識人がスラムに住み込むsettleという語意であり,日本では隣保事業という場合もある。ソーシャル・セツルメントの考え方を最初に明らかにしたのはE.デニソンといわれている。彼は19世紀後半の慈善・博愛事業が金品を供与して貧民救済をしていることの弊害を批判した。そして貧困を除去するために社会改良が重要であるとし,このために知識人がスラムに住み込んで貧困についての人々の認識を改めさせると同時に,スラムの人々との知的および人格的接触を通して,その自覚を促していく必要を主張している。」

関東学院とセツルメントの関係について 簡単ですが調べてみました。
キリスト教主義の元に設立された関東学院のモットーは校訓に「人になれ 奉仕せよ(Be a Man and Serve the World)」とあります。
冒頭に確認した「settlement」の「宗教家や学生が、労働者街やスラムに定住して、住民との人格的接触を図りながら、医療・教育・保育・授産などの活動を行い、地域の福祉をはかる社会事業。また、その施設や団体。隣保事業。セッツルメント。」の意をもってこの事業をいち早く設置したのが関東学院でした。
残念ながら日本初ではありませんでしたが、私学で初めて開設し全体でも一番最初に設置した東京帝国大学に次いで二番目でした。
1931年(昭和6年)4月25日に鶴見区浦島に「セツルメント」を開設します。
※当初は南太田に開設しその後浦島に移転。
地域の問題に<入る>には<そのコミュニティに定住する>ことが必要であり、全てはそこから始まることが基本条件(理念)でした。
この関東学院セツルメントの創始者の中心となった社会事業部の教授だった渡部一高氏は
1.”Not alms, but friends”(慈善ではなく、友情を)
2.”Not to invite, but to go”(招くのでなく、(我々が)出て行こう)
3.”Every activity educational”(すべての活動は教育的であるべき)
4.“The center not in an office but on the field”(中心となるべきところは事務所でなく、現場である)
5.”Work without enthusiasm and an ideal is vain”(熱心さと理想のない仕事は、意味がない)。
とセツルメントのポイントを5つ述べています。
この五か条は、ボランティア活動のみならず、地域に生きる全てのことに共通する原則だと思います。
鶴見の浦島に設立された関東学院セツルメントは「前進館」と命名され、同時期に全国的に巻き起こった学生キリスト教運動に連動するようになり、昭和初期の政治状況の中で強い弾圧を受け1935年(昭和10年)に解散の経過を辿ります。
ここまで調べている内に<ある関連性>を思い出しました。
資料には 関東学院の最初のセツルメントは南太田で開始されたとあります。
(第一隣保館)
南太田といえば 昭和初期の地図に「第一隣保館」があった事を思い出しました。南太田駅前昭和初期隣保はセツルメントの日本語訳にあたります。この「第一隣保館」が関東学院の最初のセツルメントであったかどうか現在の資料では不明ですが、深く関係があったことは間違いないでしょう。
この「第一隣保館」はその後「市民館」となり
1943年(昭和18年)南区誕生とともに区役所となります。南太田駅前醤油工場11174857_971938726183565_2924761509171288488_nこの南区役所が花之木に移転し、婦人会館(現在のフォーラム南太田)となっています。
南区役所は平成28年1月にまた移転する予定です。
そもそも 関東大震災により生じた社会不安、社会的弱者への社会福祉事業として起こった運動です。当時は組織だって福祉活動を行っていく社会事業への理解が希薄だったのかもしれません。

(過去の4月25日ブログ)
No.116 4月25日 紺地煙突に二引のファンネルマーク