ホーム » 国際
「国際」カテゴリーアーカイブ
【閑話休題】
を三回に分けて書きましたが、結果消化不良になってしまいました。
この事件は、偶然書店で購入した「ミシンと日本の近代」の中で横浜中央店を舞台にした労働争議の模様が実に詳しく書かれていたので、簡単に紹介してみようと思い立ちました。
「シンガーミシン争議」は横浜市史に書かれていたので概要は知っていましたが、
歴史や市場背景に関しては追いかけていませんでした。
なぜ”ミシン”で乱闘事件が起こったのか?
詳しくは「ミシンと日本の近代」を!

確かに軍服という近代の象徴はうなづけます。ここに日清・日露戦争による未亡人・女性の自立があったり、女性の総合教育の機能を担ってきた背景があります。
一方で企業のグローバリズム化による初期資本主義の弊害をここにみることができます。 横浜を素材に日本の近代化(異文化の受容)を考えてみたい。
これが現在の私のテーマです。
異なったこと、違うモノを受け入れる際の「受容と拒否」が近代化の日常でした。異なったことを<新しいこと>に置き換え、新しいことは<良いこと>という物語を維持しながら、日本は比較的スムースに近代化の道筋を歩んできたように思います。
開港開国以降、明治維新を経て、日本の近代化はある意味”節操の無い”程の積極的受容を試みます。歴史家の中では「不平等条約」を撤廃するための受容だった、と分析している方もおります。
異文化導入をテコに、武士政権から天皇を軸にした立憲君主的な政治構造への変革を遂げるには近代化の需要は必須だったのかもしれません。
日本人はアジアの中で早く近代化の道を歩み始めます。時期的にも 受容の速度としても早かったことは事実です。 横浜の明治から大正期の人通りから 横浜でも圧倒的に女性は和服だということが分かります。
当時の服装を絵葉書から眺めてみます。







第935話横浜を歩く点と線「イタリア」
前回、山手の外国<エリア>を紹介しました。
フランス山(フランス領事館)
アメリカ山(米国公使館ゆかり?)
イギリス館(英国総領事公邸)
※「港の見える丘」一帯はイギリス山
イタリア山(イタリア領事館)
英米仏に比べ、イタリア?
ちょっと印象が薄いようですが、
伊太利亜!
実は横浜と結構深ーーーい関係にあります。
イタリア山公園はかつてここにイタリア領事館があったことから、ここを整備する際に水路や花壇を幾何学式に配したイタリア式庭園として「イタリア山」と命名します。
イタリア領事館は
1880年(明治13年)から1886年(明治19年)に設置されました。
http://db.nichibun.ac.jp/ja/d/GAI/info/GP006/item/018/
イタリアは欧州の中ではイタリア語圏で小国が雑居する中、
1861年(万延2年)にイタリア王国が建国され統一が図られます。その後、
1866年(慶応2年)にヴェネツィア、
1870年(明治3年)にローマなどの教皇領の残りを併合し、一応の半島の統一を見ます。まさに此の時に、イタリアは日本との国交樹立を断行します。
統一が実現した1866年(慶応2年)
日伊修好通商条約を締結のためにヴィットリオ・F・アルミニョン氏がイタリア海軍のコルヴェット艦「マジェンタ号」に乗船し来日します。
14代将軍徳川家茂あてのイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(VittorioEmanueleII)よりの親書を携え<締結>を急ぎます。この時、フランスと近かったイタリアはレオン・ロッシュの支援で8月25日(慶應2年7月16日)に綱渡り調印を成功させました。
なんと、調印から僅か4日後に将軍家茂が死去し、様々な政治課題が停滞する直前の離れ業でした。おそらくこのチャンスを逃したら、日本の歴史、横浜の歴史は変わっていたかもしれません。
なぜ、ここまでしてイタリアは日本との通商条約を急いだのでしょうか。
話は、二年遡ります。
井土ヶ谷事件に端を発した外交問題が起こります。
横浜居留地の警備のため山手に駐屯していた、フランス陸軍のアフリカ連隊付少尉アンリ・カミユ(J.J.Henri.Camus)が2人の同僚士官と共に乗馬を楽しむ際、居留地から馬で井土ヶ谷村へさしかかったこの場所で浪士2名によって襲撃を受けます。
先頭に居たカミユは即死の状態で絶命します。襲撃した浪士は逃走し、神奈川奉行並合原猪三朗が捜査を開始しますが、犯人逮捕に至りませんでした。
この事件はその後日仏関係に大きな影響を及ぼします。
(井土ケ谷事件とパリ)
この井土ケ谷事件を解決するために
1864年(元治元年)池田長発(いけだながおき)が率いる横浜鎖港談判使節団がフランスを訪れている時に、フランス駐在イタリア大使が使節団に接触し、通商条約締結の打診を行い情報を確認し特使を日本に派遣します。
※池田長発の渡航も横浜と深い関係にあります。(別途紹介します)
当時イタリアは
オーストリア帝国と戦火を交えている最中で結果壊滅的な敗北を喫していました。一方でオーストリア帝国は北西で隣接するプロイセンの圧倒的な軍事力に屈服するという複雑な関係にありました。
イタリアはオーストリア帝国に大敗したにも関わらず、ナポレオン三世の仲介で弱るオーストリア帝国から奪われたヴェネツィアとヴェネト州を返還することに成功します。
イタリアの統一が実現しイタリア王国が建国されたタイミングで、イタリアは重大な経済危機を迎えます。それは「微粒子病」(ペブリン)の蔓延でした。
(欧州最大市場)
イタリアは当時、欧州のシルク産業の中心地でした。
「蚕種の輸出額は日本の輸出総額の23%以上を占める年もあり、そのおよそ7〜8割はイタリア市場に流れるものだった。この貿易関係は養蚕製糸業に依存するイタリア経済を支えながら、日本が近代化を成し遂げるために必要としていた膨大な収入を確保させていたため、両国にとって極めて有利で、重要なものだった。」(ベルテッリ・ジュリオ・アントニオ)
何故イタリアは極東アジアの日本から蚕種を輸入するする必要があったのでしょうか?
「微粒子病」(ペブリン)の流行でした。「微粒子病」は蚕の生糸生産力を著しく低下させ、現在も治療不可能な難病です。原因を突き止めた研究者の一人がルイ・パストゥールで効果的な予防法(顕微鏡検査)により劇的な改善がみられるようになります。
ただ、イタリアを含め同じくシルク生産・消費国だったフランスも予防法の普及が始まったのが1869年(明治2年)以降になります。解決策はまだ感染していない地域で無病の蚕種を輸入するしかありませんでした。その為、イタリアの養蚕ハンターは遠く極東に無菌の蚕を発見しました。
幕末の幕府財政、明治の初期にかけて日本の養蚕が発展し、その後の横浜経済、日本の経済を支えたキッカケを作ったのが イタリアとの交易でした。
しかし、イタリアは 英国の介入で横浜(日本)において急速にその地位を失っていくことになります。
イタリア山には1880年(明治13年)から1886年(明治19年)の短い間ですが領事館が開設され、日本とイタリアの交流に努めました。
この場所はその後所有者が変わり、歴史を経て横浜市が管理し、貴重な洋館を移築し庭園とともに山手の洋館群の要となっています。
(つづく)
第934話 横浜を歩く点と線「居留地を見下ろす国」
横浜の山手には、欧州の国名の付いた空間が多数あります。
フランス山(フランス領事館)
アメリカ山(米国公使館ゆかり?)
イギリス館(英国総領事公邸)
※「港の見える丘」一帯はイギリス山
イタリア山(イタリア領事館)
山手の各国の名に因んだエリアは実に見事だと思います。
ここにオランダとドイツ、さらにロシア・スイスなどがあれば完璧!?
山手で横浜開港史が語れます。
欧米各国とは初期に外交関係を結びます。
●日米修好通商条約 1858年7月29日(安政5年6月19日)
●日蘭通商修好条約 1858年8月18日(安政5年7月10日)
●日露修好通商条約 1858年8月19日(安政5年7月11日)
●日英修好通商条約 1858年8月26日(安政5年7月18日)
●日仏修好通商条約 1858年10月9日(安政5年9月3日)
この五カ国が通商条約を皮切りにその他の欧州やアジア各国と外交関係を樹立していきます。
開港のキッカケはアメリカでしたが、南北戦争という内政問題で一時期外交が手薄になり、英国がイニシアチブを握るようになります。欧州では、プロシア(ドイツ)、オーストリア、フランスを巻き込んだ緊迫した状態が続き、
1853年〜1856年 クリミア戦争
1861年〜1865年 南北戦争
1866年 普墺戦争(イタリア参戦)
1870年〜1871年 普仏戦争
1877年〜1878年 露土戦争
この間、英国は後にいわれたSplendid Isolation「栄光ある孤立」で大国間の摩擦を回避し中国・インドにおける権益を確保しながら帝国主義へとシフトしつつありました。
幕末から明治にかけて、日本には 世界情勢の縮図が展開されます。
例えば
築港・土木で オランダ(背後にプロシア)と英国がしのぎを削り
対立こそ表面化しませんが居留地での米英対立や
お雇い外国人による国内モジュール競争も熾烈になっていきます。
話を横浜山手に戻しましょう。
横浜開港を契機に列強の一つフランスは横浜居留地に住む自国民の保護と居留地の防衛を目的にイギリスより一年早く山手に軍隊駐屯を決定します。
1863年(文久3年)にフランス海兵隊が“山手186番”に駐屯を開始し軍兵舎を3棟建設します。これがフランスの横浜駐留のはじまりです。
その後、英国が山手山頂に大軍隊を駐留させます。
居留地の人口構成は、一般外国人より圧倒的に<駐留軍>の方が多かったのです。
英仏含めた外国軍が日本に駐留していたのは
1875年(明治8年)3月まで。
約12年間駐屯地として使用されてきました。
No.175 6月23日 フランス軍港があった丘
(山手からの風景)
第922話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆
この絵葉書、まだ結論が出ていませんが謎解きしてみます。
タイトルは
「有栖川大将宮殿下同妃殿下横浜桟橋御上陸之光景」
タイトル最後の方は 判読不能で推測しました。
撮影場所はおそらく「横浜桟橋(鉄桟橋)」でしょう。
中心に写っている人物が”有栖川宮威仁親王と妃殿下”
先導するヒゲの人物はだれでしょうか?
大臣クラスと思われます。大隈重信かなと推理しましたが、どうやら時代が合いません。
素人ですがわかる範囲で読み解いてみます。
「有栖川大将宮」
写真の中心人物有栖川大将宮に該当する人物は戦前明治以降の皇族の中で二人います。
■有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)
1877年(明治10年)10月10日 陸軍大将となります。
熾仁親王は1895年(明治28年)1月15日に亡くなりますので
大将として写真に写っている期間は1877年(明治10年)から1895年(明治28年)となります。
■熾仁親王の弟が有栖川宮威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう)
イケメン皇族!と言われています。
1862年2月11日(文久2年1月13日)〜1913年(大正2年)7月5日
威仁親王は
1904年(明治37年)に海軍大将昇進します。日露戦争終了の年です。
●撮影時期
舞台となった「鉄桟橋」は1894年(明治27年)に完成しますので、
撮影年はこの年以降となります。兄の熾仁親王は1895年(明治28年)に亡くなりましたので
鉄桟橋竣工後ギリギリで該当しますが、ご高齢です。
弟の威仁親王は1913年(大正2年)に亡くなり、
1904年(明治37年)に海軍大臣、海軍大将となります。
結果、威仁親王夫妻は
1904年(明治37年)〜1913年(大正2年)の間に鉄桟橋を利用した線が可能性として高いようです。
「鉄桟橋」は国際港として竣工しますので、
威仁親王夫妻は外国からの帰国模様と思われます。
鉄桟橋には多くの群衆が夫妻を取り巻いています。桟橋上にはほとんど建造物が見られませんので初期の「鉄桟橋」だと言えるでしょう。
威仁親王夫妻の洋行。
有栖川宮威仁親王と妃の二人は精力的に海外を視察しています。
妃は加賀金沢藩主前田慶寧の娘で慰子(やすこ)で
1880年(明治13年)に威仁親王妃となりました。
前田慰子は外国人教師から英語やフランス語をしっかり学び、流暢に会話ができる才女でした。
夫となった威仁親王も国際派で英文で日記を書くほどの語学力をもっていました。二人は早くから欧米視察を強く希望し、渡航に消極的だった明治天皇に反対されながらも自費で欧州への旅を実行します。
シルクロードの最果ての国、ほとんど知られていなかった<極東>の国を欧米各国の皇帝や政府高官を始め国民にしっかり知らしめた
”最初の成功した皇室外交”となりました。
威仁親王 最初の洋行は
1889年(明治22年)2月16日
横浜発の僅か3,500tクラスの客船に乗り、米国を皮切りに、欧州を巡りました。サンフランシスコから大陸を横断し大西洋を渡り,仏・露・スペイン・オランダ・デンマーク・スェーデン・ベルギー・英・独・伊など10ヶ国を巡ります。
威仁親王は訪問先の海軍の実情を的確に調査し
1890年(明治23年)4月に横浜港に帰港する予定を変更し神戸に帰港します。
※この時タイミングよく観艦式が神戸沖で開催予定だったので、変更したそうです。
この桟橋風景には該当しません。
そろそろ画像の時期を絞り込んでみたいと思います。1907年(明治40年)
嘉仁親王(後の大正天皇)は大韓帝国を訪れます。この時に同行したのが威仁親王夫婦でした。親王夫婦はその後、休む間もなく欧州に向かいます。 おそらく、この絵葉書は 欧州からの長旅から帰国した時の<光景>だったのではないでしょうか。
この1907年洋行は少し確証が持てないため 再調査することします。
次回に。
それにしても すごい群衆です。特別にガードしている感じでもありません。
第879話【時折今日の横浜】3月27日日米接続
1901年(明治34年)の今日
「太平洋電線敷設に関する建議書を提出する。(横浜商工会議所百年史)」
日米の通信(太平洋の電線敷設)は、明治初期からの懸案事項でした。
日本における国際通信の歴史は意外に古く
1870年(明治3年)10月
日本政府はデンマークの電気通信事業会社「大北電信会社(グレート・ノーザン・テレグラフ株式会社)」に免許状を発行し、
1871年(明治4年)8月に事業が始まります。
まず長崎と上海が海底ケーブルで結ばれ、通信ビジネスが始まりますが、当時最も貿易量が多かった日米間の通信は中国から欧州経由で国際電報によって行わなければなりませんでした。
日米直結の太平洋ケーブル計画は、通信が欧州からアジアに開通した明治初期からの念願で、
特に国内最大の対米貿易都市横浜にとって「太平洋ケーブル敷設」は悲願でもありました。
実はデンマークの電気通信事業会社「大北電信会社(グレート・ノーザン・テレグラフ株式会社)」が日本に通信ケーブルの陸揚げ申請をした時期に米国も日本政府に対し通信ケーブルの陸揚げ申請が出されています。
何故米国の通信事業が実現しなかったのか?
最初の申請がワシントンと函館等を結ぶものだったため<明治政府>は、横浜・長崎以外の接続(陸揚)を認めませんでした。
<明治政府の反応は江戸時代と変わらない発想ですが、米国もなぜ弱気の北米経由だったのか?>
日米間のケーブル通信が実現にはその後 かなりの時間を必要としました。
(日米接近)
日本の経済界にとって、特に横浜経済界にとって日米のダイレクトな通信回線設置は悲願でした。
1881年(明治14年)
日本国最初の外国首脳訪日となったハワイ王カラカウア王一行の正確な到着時間も(欧州経由)電信で伝えられ日本政府は歓迎の準備ができ、その有効性を実感しました。
来日したハワイ国王とも太平洋通信計画が話し合われたそうです。
No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に
(大谷嘉兵衛の奮闘)
1899年(明治32年)
横浜商工会議所会頭 大谷嘉兵衛は米国フィラデルフィアで開催された
第一回国際商業会議所会議に出席、日本代表として米国に建議書を渡します。
この建議書は、国際商業会議において<決議>され米国政府、米国議会に提出され、日米通信の機運が高まります。
米国では1901年までの二年間で約18の太平洋通信の議案が提出されますが、政治的思惑や経済的なリーダーシップの対立でことごとく廃案となってしまい実現することはありませんでした。
<アジア特に日本は欧米間と比べ空白地帯でした>
その後、米国政府の決定を見ぬまま
補助金無しでハワイ〜マニラまで
民間資本によって<ケーブル敷設事業>が開始されます。
1903年(明治36年)
太平洋通信回線がサンフランシスコ〜ハワイ〜マニラまで開通。
その後マニラ〜グアム〜父島間の回線とを繋ぎ
1906年(明治39年)8月1日
最終的に
太平洋が通信線で繋がることになります。
No.26 1月26日 横浜東京間電信通信ビジネス開始
(大正のロッキード事件)
大正時代にはこの通信回線を使った一通の電信が大問題となる
大正のロッキード事件「シーメンス事件」です。
この事件も横浜が舞台でした。
No.23 1月23日 大正の正義
※絵葉書画像「日米海底電信直通紀年」
1906年(明治39年)8月1日の記念スタンプ
No.345 12月10日(月)Tea or Coffee?
日清戦争後、
日本国内でも大北電信会社に依存する状態を懸念する動きがでてきます。
政府レベルとは違う民間の視点でも日米通信の実現を強く希望したのが横浜でした。
第843話 1898年(明治31年)7月8日開港港則公布
1898年(明治31年)7月8日の今日、
開港港則が(勅令)公布されました。
第一条 左ニ記載スル外国通称ヲ許シタル諸港ノ経界ハ左ノ如ク之ヲ定ム
「横浜ノ港界ハ、十二天(マンダリン・ブラフ)ヨリ燈船マデ、夫ヨリ正北ニ向イ鶴見川口ノ東岸マデ引キタル一線内ニ含マル」と規程されました。(勅令第百三十九号)官報7月8日
港湾に関する原則的なことを決めた国の法律です。
第一条には、上記の通り、横浜港の範囲が明記されました。
「境界線は鶴見川河口域から真南に下ります。」
「南端は本牧十二天、小港のあたりです。」
横浜“港はどこからどこまで”というごく当たり前のルールが初めて規定されました。
外国との港湾に関する規則は
1869年5月(明治2年)に大阪を国際港と認め開港する際に4カ国領事と協議し「大阪港規則」を決定し布告します。明治政府になって初めての<港則>の成立です。
ところが、この「大阪港規則」は、曖昧な部分が多く、例えば港の境界が示されていませんでした。つまり外国船が入港する際の停泊地<碇泊位置>に関する規定が無く、乱暴に言えば何処に停泊しても規制できないものでした。
当然、様々なシーンで日本と外国、そして外国同士の紛争が多発します。ルールが曖昧なゆえに各国の思惑がまかり通る、緊迫した港湾行政が全国の<開港場>で行われ、特に最大の開港場であった横浜居留地がクローズアップされます。
当時明治政府は、不平等条約を抜本的に改定することを目的としていたため、港湾規則に関しても、現行ルール(不平等条約下)での運用で紛争を乗り切ろうとしていました。
現実に起こる紛争は国レベルから港の直接管轄者である<県>に預けてしまいます。
横浜港を例に取れば 港湾行政に神奈川県・税関(大蔵省)・外務省・内務省、(後に横浜市)など関係者が関わっている状態が長く続きます。
ここに、居留地内の諸外国のパワーバランスが加わり、事態はかなり複雑な様相を呈します。
幕末、南北戦争で日本(横浜)で静かにしていたアメリカが明治に入り、俄然発言力を増してきます。明治初頭、居留地自治をめぐりイギリスとアメリカの主導権争いは明治横浜の様々な政策に影響を及ぼします。
明治期の<神奈川県令・知事>は日本の外交政策の最前線に立たされた役職なので、個々に追っていくと知事によって個性も出て面白い。
港の規則に話を戻します。
港の範囲を示す国内のルールは1870年(明治3年)に「横浜港内規則」によって規定されていましたが、あくまで列強が<参考>にしていたルールで、暗黙の了解、慣例化されていたルールだったようです。
ところが事態はこの慣例が次第に破られていきます。
いろいろ調べてみると、諸外国の商船が勝手に貿易を始める<税関>から見れば密貿易・脱税にあたりますから 当然対処しようと考えます。税関にとって港の境界は生命線でもありますから、当然国の問題として政府に何とかしろ!と上申します。
ところが、政府は事態を明確にせず、不透明なまま問題を先送りします。これは政府が怠慢であった訳ではなく、天下の不平等条約を元から改定したい政府にとって、不平等の一部で諸外国と交渉し<妥協>を強いられることを嫌ったからです。ここで港湾規則制定が転機を迎えます。
外務大臣に大隈重信が就任します。
彼は、港湾ルールの早期確定(制定)のため<不平等条約撤廃>とは分離して交渉にあたります。
これが横浜港<大築港計画>のキッカケになりました。
大隈は、かねて懸案であった横浜港の整備を国が責任をもって行うから、港の使い方も同時に考えましょう!
という方策を示します。
→第一期横浜港築港計画が1890年に始まります。
この横浜港築港計画に関しては、国内問題として内務省と外務省、さらには横浜税関(大蔵省)・神奈川県を巻き込んだ論争(と抗争の間くらい)があり
日本各地の築港計画に関わったオランダとの競争があった結果、英国のパーマー設計で築港計画が行われます。
時代は、開港以来30年もの時が流れ、世界の海運状況が劇的に変化していました。
大型商船が世界各国で増産され、大海運時代が到来していたのです。
港湾ルールの早期確定を狙った大隈のチャレンジは国内外の議論沸騰と<大隈の襲撃事件>によって挫折します。しかし、一度始まった港湾ルール策定の流れは国内外のニーズとも合致し、
1898年(明治31年)7月8日の今日、
開港港則 勅令 という形で結集することになりました。
そしてこの「開港港則」にもとづき「横浜港規定」が設定されさらに詳細な港のルールが明文化されていきます。
少し後半端折った感があります。「開港港則」制定への道のりは実に興味深い事項です。ここには作家有島武郎の父、横浜税関長有島武や実は明治以降にも大活躍した後藤象二郎らも登場し、さらに資料を読み込んでみたいエピソードです。
また、この「開港港則」における<横浜港の範囲>が後の東京・横浜開港闘争!?にも重要な役割を担ってきます。
今日はここまでとします。
(過去の7月8日ブログ)
No.190 7月8日(月)パブリック・ディプロマシー
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=417
1958年(昭和33年)7月8日の今日
伊勢佐木から横浜公園に移築された米軍用の室内運動場フライヤー・ジムの …
(参考資料)
■開港港則は
港内における船舶交通の安全と整頓を図ることを目的として制定された法律(1948公布)。本法制定以前に存在した旧開港港則(1898年公布の勅令)が,開港のみを対象とし,また関税や検疫事務に関する規定を含んでいたのに対して,本法は,その内容を交通警察的見地からの規定に純化するとともに,その適用対象を開港以外の港も含め港一般に拡張した。適用対象となる港およびその区域は政令(港則法施行令)によって定められることとされており,1997年現在その数は500余港となっている。
■開港港則中改正
明治31年勅令139号として開港港則が制定されました。本則は開港(海外との貿易が可能とされた港)における船舶交通と衞生上の安全を図ることを目的としていました。また、開港の指定が同則の第1条でなさえていたことから、開港の指定は、同則の改定として実施されました。
第831話 1950年(昭和25年)6月25日朝鮮戦争勃発
1950年(昭和25年)6月25日の今日
「朝鮮動乱が勃発する。この戦争はわが国経済に多大な「特需」をもたらした(横浜商工会議所百年史)」
「朝鮮戦争勃発。(横浜市史)」
Wikipediaでは
「朝鮮戦争(ちょうせんせんそう、1950年6月25日-1953年7月27日休戦)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡り北朝鮮が、国境線と化していた38度線を越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争。」
です。
朝鮮戦争は市内中心部が米軍により接収されていた横浜にとって大きな影響を与えました。そこには<光と影>があり、占領下の日本<横浜>の現実が鮮明になった戦争でもありました。
関内エリアは大半が占領地でした 横浜にとってこの戦争による最初の影響は横浜に司令部のあった「米国第八軍司令部」が韓国に移動します。在韓米軍は編成替えを行い極東を統括していた第八軍司令官ウォルトン・H・ウォーカー中将が朝鮮派遣アメリカ地上軍司令官に就任。
第八軍は横浜から大邱(テグ)へ司令部を移すことになります。
大邱市内
この第八軍は現在もソウル特別市竜山(ヨンサン)基地に司令部があります。
第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)6月10日にロバート・アイケルバーガー中将の指揮下に編成された部隊でダウンフォール作戦の相模湾(茅ヶ崎)上陸作戦を行う予定でした。 このダウンフォール作戦の本土上陸作戦が実施される前に日本が降伏したことにより、第八軍は終戦後司令部を横浜市(横浜税関本庁舎)に設置し東日本(実質日本全体)の占領任務に就きます。
No.243 8月30日 (木)横浜の一番長い日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=363
No.252 9月8日(土)横浜終戦直後その3
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=352
この第八軍は横浜を中心に様々な施設を接収していました。戦後接収時代を知る世代の方々は、市内のいたるところに「第八軍マーク」を見た記憶があるそうです。
第八軍マーク
朝鮮戦争、朝鮮を舞台にした米ソの代理戦争となり日本は「国連軍」の支援という立場でこの戦争に関わることになります。横浜は「朝鮮戦争勃発にともなって横浜は国連軍の兵站基地となった。(高村直助「都市横浜の半世紀」)」ことだけでなく、過剰なレッドパージも行われ、他方 広範囲で公職追放されていた戦前の要職者の追放解除も行われることになります。
その後 1951年(昭和26年)9月8日 サンフランシスコ講和条約が結ばれ、ようやく国権を回復することになります。
No.246 9月2日(日)90年後の横浜(加筆修正)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=358
No.177 6月25日(月) 出られない出口
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=431
「海芝浦」の話です。
第828話 1889年(明治22年)6月22日杉村濬
1889年(明治22年)の今日
初代の<在バンクーバー日本国領事館(現在総領事館)>に杉村濬(すぎむら・ふかし)領事が着任します。
正確には彼を長としてカナダで初めて領事館が開設されました。
当時、カナダの在留邦人は200名程度で悲惨な状況だったそうです。
このカナダ領事時代の体験が杉村濬のブラジル移民政策に大きく影響を与えました。
杉村濬は<ブラジル日本移民の端緒を開いた人>といわれています。
盛岡出身
「杉村濬(幼名:順八)は1848年(弘化5年)1月16日,岩手郡仁王村大沢川原小路4番戸(現:盛岡市大沢川原)にて盛岡藩士杉村秀三,ナカの次男として生まれた。父秀三は剣術に優れ,濬も明治期の作人館で剣術を教えていた。濬は明治初期から外交畑で活躍し,のちにはカナダやブラジルへの移民事業に努めた。(盛岡市サイトより)」
1875年(明治8年)横浜毎日新聞論説記者となり編集長兼主筆として<朝鮮に関する論策>を中心に活躍しました。
1880年(明治13年)に外務省に出仕、京城公使館書記官、釜山浦領事館、台湾総督府事務官等を経て外務省通商局長として海外移民計画を立案するポジションに立ちます。ここから彼の移民政策を中心とした外交官人生がはじまりました。
カナダには2年赴任します。その後も主に日朝関係の諸問題を担当し最後は自ら希望したブラジルのリオデジャネイロに赴任、1906年(明治39年)5月19日に亡くなるまで移民事業促進にあたります。
横浜とバンクーバー、そしてブラジルは現在も深い関係にあります。バンクーバーはいち早く横浜と航路が開通した町です。
バンクーバー港と横浜港は姉妹港です。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kowan/guide/shimaiko/
移民に関しては
「海外移住資料館」が新港埠頭にあります。
http://www.jomm.jp
お勧めです。レストランは特にバラエティに富んだ各国の料理を<都度>楽しむことができます。
夏は最高のビアレストランです。
ブラジルは<神戸市>と友好姉妹都市で、残念ながら横浜はなっていません。
おそらく ブラジル移民船第一号「笠戸丸」が神戸港から出発したからかもしれません。
ブラジルでは現在約150万人の日系人が暮らしています。
彼らの家族の中には横浜から旅だった方も多いと思います。なぜ 彼らは日本を離れたのか、そして今 国とは何か?
「海外移住資料館」を訪れる度に 考えさせられます。
(過去の6月22日ブログ)
清水市と横浜市は開港以来関係の深い町です。
No.174 6月22日(金) しみずみなとの名物は?
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=434
1897年(明治30年)6月22日(火)
外国との貿易に欠かせない横浜税関清水支署が設置されました。
これによって、清水港の国際化の歴史が大きくかわります。
【芋づる横浜】輿地誌略(後編)
幕末から明治に至る開国直後の日本は劇的な変化が起こります。幕末の幕府、明治以降の政府関係者はもちろん、多くの人々が外国の情報を広く求めました。「輿地誌略」もまた、当時の国民の知的欲求やニーズに見事応えた内容でした。
【芋づる横浜】輿地誌略(前編)
(洋才の時代)
19世紀後半、欧州は産業革命後の技術革新の荒波に大きく揺れます。産業革命にによる技術革新の国威発揚が各国の「万国博」でした。国威発揚の現場に遭遇した最初の政府使節団は
1862年(文久二年)遣欧使節団が現地で(第二回)ロンドン万博に出会ったことに始まります。
引き続き
1867年(慶応三年)の(第二回)パリ万博開催に際し日本も早速参加表明します。ただ、徳川幕府・薩摩藩・佐賀藩はそれぞれ別々に参加することになりました。幕府の弱体化・瓦解寸前の万博参加でした。
日本使節団が万国博にで会う直前、後に「輿地誌略」を編纂した内田恒次郎が15人の留学生と共にオランダに向かいました。幕府海軍の軍艦「開陽丸」を回航するためでした。途中の1862年(文久2年)9月11日でトラブルに遭いますが無事1863年(文久3年)4月にオランダに到着します。
15人の留学生は以下の通りです。
榎本釜次郎(榎本武揚)、澤太郎左衛門、赤松大三郎、田口俊平、津田真一郎、西周助(西周)、古川庄八、山下岩吉、中島兼吉、大野弥三郎、上田寅吉、林研海、大川喜太郎(現地で病死)そして伊東玄伯らです。明治以降要人として活躍した人物も多く含まれています。
この中であまり知られていないエピソードを紹介しておきましょう。
日本人で最初に欧州で電信を利用したと言われているのが医師として留学していた医師「伊東玄伯」でした。1867年(慶応三年)10月17日に留学生仲間の「赤松則良」の処へ「明日お訪ねするするからお待ち下され」という内容の電信をオランダ語で送っています。
この電信技術も、二年後の明治二年にイギリスから通信技師を招いて、横浜燈台役所と横浜裁判所に日本で初めての電信回線を開通させました。<ちょっと横浜に関係しました>
幕府がオランダに発注した軍艦「開陽丸」が現地で進水したのが1865年(慶応元年)9月14日
全ての艤装が完了した1866年(慶応2年)10月25日にオランダを出港し日本(横浜)に向かいます。
この三年半のオランダ留学中に、メンバーの中で身分も高かったリーダー格の内田恒次郎は前編でも紹介したように、様々な欧州の基礎資料を収集し持ち帰ります。また、同時期にフランスやイギリスにも入国し、パリ万博参加の幕府側出品交渉役や<横浜鎖港談判使節団(完全に失敗)>の現地調整役も担い国際舞台で大活躍します。
※横浜鎖港談判使節団は池田使節団とも呼ばれ、スフインクスで写真を撮ったことでも有名。
オランダより軍艦「開陽丸」に乗り母国に戻り地位も軍艦頭にまで昇進しますが、幕府は消滅寸前でした。幕府が瓦解し明治政府となった時点で、幕府の役人だった立場に<こだわり>内田恒次郎は全ての職を辞め名前を内田正雄と改名します。
維新後、政府から彼の得た知識を活かすよう「大学南校」に勤めることを勧められます。「大学南校」は当時<洋学教育>を中心に人材育成する機関で、彼はここで知見を活かし『輿地誌略』他多数の教科書となる書籍を著します。
1873年(明治六年)墺国(ウィーン)博覧会に日本が参加する際事務局へ出向し博物局長で東京国立博物館の初代館長となった町田久成をサポートし美術品の鑑定に関わります(日本初の文化財調査とされる壬申検査)。
この時の記録係の一人が油絵画家の高橋由一です。1873年(明治六年)墺国(ウィーン)博覧会に深く関わる<横浜ブランド>があります。現在も横浜を代表するシルクスカーフのパイオニア椎野正兵衛です。
『当時の日本では、「博覧会」という概念そのものが、一般には知られていなかったらしい。参加者を募っても意義が理解されず、政府は大変な苦労したことが、澳国博覧会事務局が残した刊行物に詳しい。事務局では道具の目利きなどを各地に派遣し、海外に披露するに足る特産品や工芸品、美術品を収集、購入した。
美術品と書いたが、明治初期の人が考える「美術品」とは、現代の人が考える「芸術作品」とは様子が大分違っている。工房や商店の製造した実用品であっても、美的な装飾や価値の高いものは「美術品」に括られた。作家が製作し署名したものが美術品とは限らないので注意が必要だ。
椎野正兵衛は、この渡欧使節団に選ばれ、弟の賢三を伴い19世紀のヨーロッパを目の当たりにした。正兵衛34歳、賢三は、若干23歳だ。』(日本初の洋装絹織物ブランド S.SHOBEY より)
まさに事務局で全国の<美術品>を探していたのが内田正雄でしたので、両者に接点があった可能性が高いと推理できます。
(博覧会の時代)
明治初期、日本政府は全国で博覧会を実施し、多くの人々に<文明開化>のインパクトを与えました。
1871年(明治四年)から1876年(明治九年)までの六年間で府県主催による博覧会は32回も開催されます。
1871年(明治四年)5月には西洋医学所薬草園にて大学南校主催「物産会(博覧会)」開催。10月京都博覧会(京都博覧会社主催)
1872年、3月湯島聖堂にて「勧業博覧会」を開催。
東京をはじめ、京都・和歌山・徳島・名古屋・金 沢・木曽福島・大宰府など全国各地で様々なテーマで展開しました。
第一回内国勧業博覧会
1877年(明治十年)8月〜東京・上野公園454,168人
第二回内国勧業博覧会
1881年(明治十四年)3月〜東京・上野公園823,094人
第三回内国勧業博覧会
1890年(明治二十三年)4月〜東京・上野公園1,023,693人
第四回内国勧業博覧会
1895年(明治二十八年)4月〜京都・岡崎公園1,136,695人
第五回内国勧業博覧会
1903年(明治三十六年)4月〜大阪・天王寺今宮4,350,693人
東京大正博覧会
1914年(大正三年)3月〜東京・上野公園7,463,400人
平和記念東京博覧会
1922年(大正十一年)3月〜東京・上野公園11,032,584人
万博に関する「横浜ブログ」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=345
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5810
大正・昭和を経て現在まで
博覧会開催熱は冷めていませんが、国民の関心はどうでしょうか?
【横浜オリジナル】カクテル・ミリオンダラー
横浜グランドホテル支配人、ルイス・エッピンガーは二つの横浜カクテルを発案したことでその名を今に残している。
その名はバンブーとミリオンダラー。
標準的なレシピは
(バンブー)
ドライ・シェリー : ドライ・ベルモット = 2:1
オレンジ・ビターズ = 1dash
(ミリオンダラー)
ドライ・ジン:40ml
パイナップルジュース:15ml
スイート・ベルモット(ドライ・ベルモット):10ml
レモンジュース:10ml
グレナデン・シロップ:1tsp
卵白:1/2個
<スライスしたパイナップルを飾る>
※ベルモット:フレーバードワイン
イタリア発祥のスイート・ベルモット
フランス発祥のドライ・ベルモットとがある。
【レシピ2】
ビーフィータージン:45ml
チンザノベルモット ロッソ:15ml
パイナップルジュース:15ml
グレナデンシロップ:1tsp
卵白:1個分
バンブーに関しては、当時ニューヨークで大ヒットした「アドニス」をエッピンガーがアレンジした<姉妹カクテル>だ。 このバンブー誕生に関しては推論だけ簡単に記しておく。
カクテルうんちく界では 日本らしさを表すために<バンブー=竹>としたとある。
私は<竹>そのものの話題性に着目した。
同時期 <発明王エジソンが電球フィラメントに日本の竹を短期間だが使用した>背景があるからではないか?
と推理している。
また竹の物語とアドニスの物語にも一捻りありそうだとも考えている。
さて本日の主題、ミリオンダラー
ルイス・エッピンガーはミリオンダラーレシピをどのような背景でイメージしたのか?
ジンとベルモットが基本になっているので<マティーニ>のアレンジカクテルと言っても良いかもしれない。
ミリオンダラー最大の特徴は パイナップル及びパイナップルジュースだ。
このパイナップルはアメリカの誕生期に重要な意味を持っていたフルーツである。
「植民地時代のアメリカではパイナップルはとても珍しい果物だったため、特別なお客様のいるテーブルに置くのは最上級のおもてなし」というエピソードも残っている。このスタイルはその後のゴールドラッシュに酔った49年組(フォーティナイナーズ)によって開拓された<西海岸>のホテルでもおもてなしのシンボルとしてパイナップルが使われたに違いない!この時エッピンガーは18歳だった。彼がどのような仕事に就いていたかどうか不明だが、ドイツ系アメリカ人だった彼らの多くは<金鉱探し>のバックヤードで雑貨商や食品、酒の販売を営んだ。ドイツ系移民の一人リーバイ・ストラウスが金鉱で働く人々の愚痴話からあの<ブルージーンズ>を商品化したことは有名だ。
贅沢=成功の象徴だったパイナップルはコロンブスがアメリカ大陸から持ち帰り、めずらしさと栽培の難しさから当時「王の果実」とも言われた。パイナップルに<ミリオンダラー>一攫千金の夢をエッピンガーは重ね合わせたのかもしれない。
「原産地はブラジル、パラナ川とパラグアイ川の流域地方であり、この地でトゥピ語族のグアラニー語を用いる先住民により、果物として栽培化されたものである。15世紀末、ヨーロッパ人が新大陸へ到達した時は、既に新世界の各地に伝播、栽培されていた。 クリストファー・コロンブスの第2次探検隊が1493年11月4日、西インド諸島のグアドループ島で発見してからは急速に他の大陸に伝わった。 1513年には早くもスペインにもたらされ、次いで当時発見されたインド航路に乗り、たちまちアフリカ、アジアの熱帯地方へ伝わった。当時海外の布教に力を注いでいたイエズス会の修道士たちは、この新しい果物を、時のインド皇帝アクバルへの貢物として贈ったと伝えられる。 次いでフィリピンへは1558年、ジャワでは1599年に伝わり広く普及して行った。そして1605年にはマカオに伝わり、福建を経て、1650年ごろ台湾に導入された。日本には1830年東京の小笠原諸島・父島に初めて植えられたが、1845年にオランダ船が長崎へもたらした記録もある。(wikipwdia)」
ここからも判るように、20世紀初頭には東南アジアと交易が盛んになっていた日本でもパイナップルを入手できたようだ。
インド洋から東南アジアの海洋覇権を握っていた英国と、太平洋の覇権を握ろうとしていた米国の衝点となっていた日本=横浜には多くの一攫千金の夢を持った商人が集まってきていたのだろう。
1889年(明治22年)に新生会社組織に生まれ変わったヨコハマグランド・ホテルのスタッフとして着任したルイス・エッピンガーはこの時すでに58歳だった。(支配人に就任したのは60歳)
この年、英国人技師パーマーによる築港計画が着工する。この時の神奈川県横浜築港担当が30代の若き三橋信方(後の横浜市長)だった。
新しい国際港の時代到来に備え、グランドホテルは海軍省の招きで来日していたフランス人建築家サルダに新館(別館)設計を依頼する。これによってヨコハマグランド・ホテルは客室は100を超え、300人収容の食堂、ビリヤード室、バーが整備された。
恐らく新館竣工期にオリジナルカクテル「バンブー」「ミリオンダラー」のどちらかまたは両方がお披露目されたのではないだろうか。
この時期、京都岩清水で採取されエジソンの白熱電球に採用された日本の竹は1894年(明治27年)まで輸出されていたので、<バンブー>が当時の話題に上がっていたに違いない。
また1894年(明治27年)に完成した「鉄桟橋」を含めた横浜築港財源が米国より返還された賠償金であったことも、狭い居留地では大きな話題となっていただろう。アメリカ人エッピンガーにとっても誇りに思っていた出来事だったに違いない。
日露戦争が始まった翌年の1905年(明治38年)、
74歳になった彼は、ホテルマネジメントの最前線から退き、マネージング・ディレクターとなり後任の支配人H.E.マンワリング(Manwaring)を母国アメリカから招聘する。
1906年(明治39年)に新しい支配人が着任した後の1908年(明治41年)6月14日
ルイス・エッピンガーはその生涯を終え、外国人墓地に眠る。
このニュースはすぐさま彼の出身地サンフランシスコに伝えられ、新聞にも訃報が掲載された。77年の生涯、後半の約20年を日本で過ごしたことになる。 関東大震災で焼失するまで横浜のフラッグシップホテルだったヨコハマグランド・ホテル。そこに関わった二人の支配人ルイス・エッピンガーとH.E.マンワリングは共にサンフランシスコと深い関係にあった。
1871年(明治4年)に横浜港を旅だった岩倉使節団が最初に訪れた外国、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコで宿泊したホテルがミリオンダラーホテル「グランド・ホテル」であった。 オーナーはこの街で大富豪となったチャップマンこと「ウィリアム・チャップマン・ラルソン」というオハイオ州生まれのアメリカンドリームを実現させた男だった。岩倉使節団一行を自宅のゲストハウスに招いた様子が「米欧回覧実記(久米邦武)」にも記されている。
もしかするとミリオンダラーはサンフランシスコグランドホテルにあやかったものとも推理できる。このテーマは今後も追いかけて行きたい。