No.347 12月12日(水)横浜自立の原点
今年も残すところ20日になりました。
1日1話、今日という日から“横浜”をモザイクのように紡いできました。
最初は断片的でしたが、この作業を通じてステンドグラスの模様のように新しい“横濱”が像を結び始めました。350話近い断片を改めて見直していくうちに触れておきたいテーマが幾つか確認できました。今日はその一つ、東京開港について紹介します。
1940年(昭和15年)12月12日(木)「東京開港」を進める政府と東京市に対し、横浜市は鶴見区・中区・磯子区・保土ケ谷区・戸塚区の各区で東京開港反対の“区民大会”を開催しました。
(錦の御旗“帝都の関門”)
この区民大会は、東京開港反対のごく一部の出来事でした。横浜は「東京開港」に対し“帝都の関門”を御旗に猛烈な反対運動を展開します。
幕末以来、首都圏の国際港として発展して来た「横浜市」にとって、東京開港は“死活問題”です。しかし、東京開港は粛々と進行し1941年(昭和16年)5月20日東京港が開港します。
そこには時代の渦に翻弄され「帝都の関門」だった“よこはま”が自立、脱皮する瞬間でもありました。
(私は東京開港が横浜自立の第一歩だと考えています)
東京開港は、横浜港開港から80年の時が過ぎていました。それまで、東京の港湾機能は充実していましたが、国際港ではありませんでした。
“税関”が無かったのです。
状況が大きく変化したのは大正末期に起った「関東大震災」です。311同様、災害は歴史を大きく変化させます。
震災によって東京と横浜は都市機能を失います。
政府は首都機能の回復のため“帝都東京復興”を優先しますが、皮肉にもそのための資材が“横浜港”経由では捌ききれず停滞します。
外国船(主にアメリカから)届いた救援、援助物資や災害復興用の資材・建築材などを芝浦桟橋に降ろすことが許されなかったのです。“東京税関”が無いため通関できなかったからです。
(それこそ特例で実行すれば良かったのですが、昭和初期の日本は短命内閣が続く今に似ていて“決めることができない”時代に突入)
1923年(大正12年)9月2日に22代山本権兵衛内閣(128日)以下(157日)(597日)(2日※)(446日)(805日)(652日)(244日)(156日)(11日※)(774日)(611日)(331日)(123日)(581日)(238日)(140日)(189日)(93日)(1,009日)(260日)1945年(昭和20年)8月17日42代鈴木貫太郎内閣総辞職(133日)まで、20代内閣が変わります。<※総理大臣死亡による臨時首相>
(余談ですが、大政翼賛会政府は長続きしません。大連立も短命に終わります)
(横浜がネックだ)
さらに、横浜港に届いた物資は、鉄道で運搬されましたが汐留駅でスタックし東京に出入りする捌ききれない貨物が山積み状態になっていきます。
大正以降、東京にも国際港をという経済界の強い要望が高まっていました。
1938年(昭和13年)しびれを切らした東京市は5月に「東京開港促進協議会」を設立します。翌年の1939年(昭和14年)12月には東京府本会議で東京開港促進に関する建議」を採択し政府に圧力をかけます。
東京開港に舵を切ったのが35代平沼騏一郎内閣(1939年1月5日
〜1939年8月30日)、その後 阿部信行内閣(140日)、米内光政内閣(189日)と短命内閣が続きます。横浜復興どころではありませんでした。※横浜市長だった平沼亮三と騏一郎は全く関係がありません。
(復興費用が無い)
復興にはスピードと資金が必要です。震災後、横浜市はいち早く政府に復興支援を陳情します。その時の内務大臣が大胆な首都復興プランを描いていた後藤新平でした。帝都復興が中心になっていましたが、横浜にも僅かながら復興予算がつくことになります。震源に近い被災地小田原は復興予算皆無でした。
横浜復興計画の陣頭指揮にあたったのが有吉忠一市長。
ちょっと癖のある市長でしたが、その行動力、決断力は評価できます。
インフラ整備等の基本復興計画は1929年(昭和4年)約5年で完了し、いち早く次の港都横浜再生計画推進体制に入りますが、この復興予算、横浜市は(政府内務省の強引な指導もあり)アメリカから借金することになります。
その額、米貨公債で約2,000万ドルにも及びます。ところが、この米貨公債で横浜市は財政破綻寸前にまで追い込まれてしまいます。
※東京は英国から(ポンドを)借金します。
(為替リスク)
1929年(昭和4年)に始まった世界経済不況、世界恐慌で大幅な円安に陥ります。1$=2円が1$=5円の円安となりアメリカに頼っていた生糸の輸出が急激に落ち込み、明治以来の輸出の柱が危機的状況に陥ります。
当然、生糸輸出の中心地だった「横浜」の打撃は深刻でした。
横浜の通常予算は年1,000万円ぐらいでしたが、米貨公債返済額4,000万円が1億円に膨れ上がる計算ですから、税収は激減するは、借金は増えるは、身動きできない財政状態に陥ります。
そこに、東京開港問題が起って来た訳ですから、横浜も“必死”です。「百万市民の死活問題」として市、市会、経済界、市民のレベルまでかなり一致団結して反対運動を繰り広げます。
(政府は何をしているんだ!!)そう思うでしょう。市の借金も「日本の借金」ですよね。なぜ、市単位で外国から借金するのか?
これって戦後も行われていて、横浜市も戦後かなり外国から借金しています。とはいえ、震災復興という国家にとっても一大事に、横浜の借金地獄が起ったのか?当時の金融政策の影が落ちていますがここらあたりは別の機会としましょう。<金本位復活の罠にはまった日本>
(横浜モラトリアム)
港湾関係、特に貿易関係に絶対的権力を持っていた大蔵省が、横浜市に妥協案(懐柔案)を提示します。借金チャラにしてあげます、だから東京開港を認めなさい。と当時の大蔵大臣「河田 烈(かわだ いさお)」がもちかけます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/河田烈
実は東京開港に大反対していた横浜市長「青木周三」に代わり同い年で帝大・内務官僚出身の半井清が市長になったことも大きかったようです。
※第12代横浜市長「青木周三」も歴代市長研究として興味ある人物です。青木周三は、鉄道畑で横浜市電気局(現交通局)初代局長、助役、鉄道省次官となり請われて“人選一任を条件に就任”した横浜独立中興の祖?ではないかと思っています。→調べたい(掘り起したい)人物の一人です。
市長は同意、市会議長も説得に応じて
東京開港に横浜が同意します。ただし、東京港は横浜税関の下に置き、原則として満州国・中華民国及び関東洲との就航船に限るという条件付きでした。
ようやく横浜市は借金地獄から開放され、横浜独自の産業育成に取りかかりますが、戦争に突入し頓挫することになります。
No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる
No.298 10月24日(水)法廷は横浜へ
1886年(明治19年)10月24日(日)に
紀州沖で起ったノルマントン号座礁沈没事故が、日英間の大事件に発展しました。
四年後同じく
紀州沖で座礁したトルコ軍艦(エルトゥールル号)救出劇は(事件にはならず)
両国友好の美談となります。
この二つの事故の違いには治外法権の大きな壁がありました。
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二つの外国船事件の学校教材 |
横浜の外国人居留地は“治外法権”でした。
しかも、江戸幕府が1859年(安政4年)に結んだ安政五カ国条約(アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスとの通商条約)は、関税自主権が無く、領事裁判権を認めたほか、片務的最恵国待遇条款を承認する典型的な「不平等条約」でした。
明治政府になっても列強各国はこの不平等条約を改定することを拒み続けます。
このような状況の中で、このノルマントン号事件が起ります。
(ノルマントン号事件)
1886年(明治19年)10月24日午後8時ころ、
横浜港から日本人乗客25名と雑貨をのせて神戸港に向かったマダムソン・ベル汽船会社所有のノルマントン号(Normanton)240トン(英国船籍)が、
航行途中暴風雨によって紀州沖(和歌山県串本町潮岬沖)で難破、座礁沈没します。
この時、ノルマントン号船長ジョン・ウイリアム・ドレーク以下英独の乗組員達は全員救命ボートで脱出し、漂流していたところを沿岸漁村の人びとに救助されて手厚く保護されます。
事故は美談に終わるはずでしたが、日本人の乗客25名の生存がありませんでした。
座礁事故が事件になったのは、外国人乗組員が日本人の救命活動を一切しなかったのではないかという疑惑が起ったからです。
明治政府、時の第1次伊藤内閣の外務大臣井上馨は事実究明の命令を発します。
沈没船を探しますが明確な証拠は出ませんでした。
しかし乗務員が無事で乗客の日本人が全員死亡というのは明らかにオカシイということで、政府は神戸領事館に海難審判を請求します。
船長ドレークは「船員は日本人に早くボートに乗り移るようすすめたが、日本人は英語がわからず、そのすすめに応じずに船内に籠もって出ようとしなかったのでしかたなく日本人を置いてボートに移った」と主張、これを認めて船長以下全員に無罪判決を下します。
この判決を知って日本世論が沸騰します。
緊急時に言葉がわからないからといって逃げない人間がいる訳が無い!!
新聞や演劇で一般に伝わり世論が盛り上がります。
義援金は集まる、無名作家により「ノルマントン号沈没の歌」という歌が作られ市民に大流行し「不平等条約撤廃」「国権回復」の圧力となっていきます。
(領事裁判権)
外務大臣井上馨は鹿鳴館を作るなど欧化政策を進めていましたが、これをキッカケに井上外交「媚態外交!」「弱腰外交!」「外交の刷新」「条約改正(不平等条約撤廃)」と政治状況も緊迫します。
そこで井上外相は、本国に帰国しようとしていたノルマントン号乗員を政府は出船停止処置とし、兵庫県知事名で横浜領事裁判所に殺人罪で告訴させます。
横浜を出港したノルマントン号乗員は、横浜に戻り「領事裁判」を受けることになります。
領事裁判権とは
「在留外国人が起こした事件を本国の領事が本国法に則り裁判する権利」のことです。
現在に置換えれば沖縄の米兵婦女暴行事件の裁判権がアメリカ政府にあるという状態のことをさします。
冒頭でも触れましたが、
そもそも日本国が
1858年に締結した各国の「修好通商条約」に
領事裁判権の定めを認めてしまったところに起因します。
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五カ国条約は微妙に各国異なります。 |
横浜の領事裁判所判事は、
二代目ニコラス・ハンネン(任期1881年〜1891年)が担当します。
彼はこの後1891年から1897年まで上海総領事を務めます。
裁判官とはいえ、領事館のスタッフですから、
判決が母国有利に働くことが多かったようです。
判決は禁固3ヶ月の有罪、しかし死者への賠償金請求は却下されます。
開港以来、日本国内の英国人に関わる重要訴訟は中国上海の租界にある英国高等領事裁判所で行っていました。
1879年(明治12年)に
横浜領事裁判所(The British Court for Japan)が設立されようやく日本国内で裁判が行われるようになります。
事件当時国(横浜)で裁判が行われただけでも、大きな進歩だったといえます。
領事裁判権は1894年(明治27年)睦奥宗光による治外法権の撤廃実現まで続き、完全な不平等条約撤廃は小村寿太郎による1911年(明治44年)の関税自主権の完全回復達成までかかる半世紀にも及ぶものでした。
因みに横浜領事裁判所のあった場所は?
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旭日旗のように見える国旗が英国領事館の場所です |
現在の横浜市開港資料館の場所です。
このノルマントン号事件、調べて驚きました。全国の多くの小中学校で歴史教材のテーマとして使われている事件なんですね。
紛争は避けなければなりませんが、
国家主権をいかに外交で守るか!
政治家の重要な仕事ですね!
「番外編」10月17日こら!ちゃんと仕事せい!
No.159 6月7日(木)強い日土友好の原点
No.285 10月11日(木)武装セル芸術
第二次世界大戦直前の
1940年(昭和15年)10月11日(金)の今日、
帝国海軍、最後で最大の「観艦式」が快晴の中、横浜沖で行われました。
「観艦式とは多くの軍艦を一港湾に集め,その威容を元首等が観閲する儀式で、国家の祝典あるいは海軍最大の記念行事の一つとして行われる軍事プレゼンスです。」
日本の観艦式は明治元年に始まり戦前は18回実施されました。
第一回は大阪天保山沖で行われ、以降“横浜沖”が最も多く9回、次いで6回“神戸沖”で実施されました。
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明治38年日露戦争凱旋観艦式 |
昭和に入り、観艦式には“航空機”によるデモンストレーションも欠かせない要素となります。帝国日本軍は空軍が陸海各軍に所属し独立していません。
陸軍には「陸軍飛行戦隊」、海軍には「大日本帝国海軍航空隊」がそれぞれ航空部隊として編成されていました。
昭和期に観艦式は6回、内4回が横浜沖で実施されました。
観艦式が横浜・神戸で多く実施された理由は明記されていませんが、陸上からその様子を見やすい(効果的)からだと推察しています。
資料を調べていた所、この観艦式の陪観者(見学者)に向けて配布したマップがありました。
当然招待客のみですが、陪観者は鶴見臨港線の終着駅「新芝浦駅」で下車し、特設桟橋から「戦艦榛名」にピストン輸送したようです。
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地図は現在のものです。 |
1940年(昭和15年)10月11日に行われた観艦式の正式名称は
「紀元二千六百年特別観艦式」と呼ばれ、艦船98隻、航空機は史上最多の527機という規模でした。
※紀元二千六百年とは神武天皇の即位を紀元とする日本固有の紀年法で明治以降(明治5年太政官布告第342号)採用されるようになりました。
(戦争への道)
1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮会議
1931年(昭和6年)満州事変
1932年(昭和7年)血盟団事件・五一五事件
1936年(昭和11年)二・二六事件
1940年(昭和15年)9月27日 日独伊三国同盟
1940年(昭和15年)10月11日 紀元二千六百年特別観艦式
1941年(昭和16年)12月8日 未明、真珠湾攻撃による日米開戦
3月4日 日本初の外国元首横浜に
ロンドン海軍軍縮会議における外交的勝利も、興奮するナショナリズムによって国家の理性を失わせます。
回を重ねる毎に肥大化する昭和の「観艦式」は、麻痺するメディアと経済界、そして政界への不信感が「負の沸点」に達していきます。
時代が混迷し、政治が迷走すると暴力温度が上昇していきます。
国家という湯槽で「茹で蛙」になっていることに気がつかなくなる怖さを私たちは歴史に学ばなければなりません。
観艦式一覧
1868年4月18日(明治元年3月26日)、大阪天保山沖。
1890年(明治23年)4月18日、神戸沖。
1900年(明治33年)4月30日、神戸沖。
1903年(明治36年)4月10日、神戸沖。
1905年(明治38年)10月23日、横浜沖。日露戦争終結
1908年(明治41年)11月18日、神戸沖。
1912年(大正元年)11月12日、横浜沖。
1913年(大正2年)11月10日、横須賀沖。
1915年(大正4年)12月4日、横浜沖。
1916年(大正5年)10月25日、横浜沖。
1919年(大正8年)7月29日、横須賀沖。
1919年(大正8年)10月28日、横浜沖。
1927年(昭和2年)10月30日、横浜沖。
1928年(昭和3年)12月4日、横浜沖。
御大典記念
1930年(昭和5年)10月26日、神戸沖。
1933年(昭和8年)8月25日、横浜沖。
1936年(昭和11年)10月29日、神戸沖。
【日本海軍最後の観艦式】
1940年(昭和15年)10月11日、横浜沖。
紀元二千六百年特別観艦式
No.270 9月26日(水)ノーマライゼーションの先駆け
今日は障がい者教育の先駆者達の話しです。
1889年(明治22年)9月26日の今日、
アメリカ人社会事業家Charotte. P. Draper夫人が
現在の横浜市南区中村町に民家を借り“盲人福音会”を設立しました。
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青山墓地に眠るドレイパーファミリー |
シャロッテ・P・ドレーパー(Draper, Charlotte Prinkney )女史は、
1881年(明治14年)に宣教師の夫とともに先に来日します。
先に宣教師として横浜で活動している息子夫婦を追ってアメリカから来日したのです。シャロッテは1889年(明治22年)に異国の地で夫ギデオン・ドレーパーを失いますが、彼女は一転日本の地で“社会事業家”として自分の生きる道を切り開きます。
明治時代、女性によるソシアルビジネスを一から始めた彼女は、当時殆ど関心のなかった障がい者支援(盲人教育)の道を切り開きます。
その第一歩が、
1889年(明治22年)9月26日現在の南区中村町の民家を借り、身寄りの無い盲人を三名引き取り教育環境を整えた「盲人福祉会」設立でした。
全くノウハウ、経験値ゼロからの事業でした。
数年後、宣教師の息子夫婦の北海道転勤の都合で、ドレーパーファミリーは北海道函館に移り住みます。
シャロッテは、この地函館でも横浜の経験値を活かし函館訓盲会の創立を息子の妻マイラと一緒に進めます。彼女はこの地、函館で亡くなりますがマイラが義母の志を引き継ぎます。函館から最初の地 横浜に戻ると立ち消えになっていた「横浜盲人福祉会」を再建し軌道に乗せます。
この横浜盲人会が、現在の“社会福祉法人 横浜訓盲院”の前身となります。
■社会福祉法人 横浜訓盲院
http://kunmou.jp
(父と息子は宣教師)
母と義理の娘は社会事業家として二代にわたり横浜で盲人教育に尽します。
宗教の力を超えた人間愛といえるでしょう。
http://www.ii-idea.com
(今 これら明治の外国人の墓所が危機に陥っています)
(訓盲院の歴史)
盲人を学校として教育するしくみづくりは
1875年(明治8年)5月東京でイギリス人医師宣教師と日本人によって訓盲院「楽喜会」設立が最初です。
1878年(明治11年)5月には、京都で日本人の手で「盲唖院」が設立されます。
1886年(明治19年)には新潟県高田町で「訓盲談話会(高田盲学校の前身)」が発足します。
そして1889年(明治22年)に「盲人福祉会」が創設されます。
実は、シャロッテ女史が「盲人福祉会」を創設する二年前の1887年(明治20年)、
一人の日本人眼科医が個人的に横浜で盲人教育を始めていました。
医師の名は浅水進太郎(十明)、眼科医ヘボンと教育者バラの影響を受けた彼は1882年に関内“尾上町”で眼科医を開業、87年に野毛に移転すると同時に職を失った元鍼灸術師の盲人に“医学”を講義します。
その後、この医学指導が発展し盲人の職業的な自立に対する支援の「鍼治揉按医術講習学校」の看板を掲げるようになります。これが後に、“横浜市立盲学校”となっていきます。
シャロッテ女史の「盲人福祉会」が0からの自立支援、
浅水進太郎の鍼治揉按医術講習学校」は職業訓練の役割を担っていたようです。
震災や戦災で風景を失った横浜ですが、
明治の息吹を現在まで大切にしている先取の精神は
これからも大事にしていきたいものです。
最後に
盲人の社会生活、コミュニケーションに欠かせない「点字」の
豆知識を
点字表記は身近なところにありますが、必要としないと見過ごしてしまいます。日本語の点字が導入されたのは1890年です。
現在は6点点字と呼ばれ、横2点縦3点の計6個の点の組み合わせでカナ、数字他を表します。
早速点字で文章を作ってみました。
最後に、点字ブロックの上に自転車やモノを置くのは止めましょう!
大変危険な行為です。
No.268 9月24日(月)維新の内乱を悼む
昨今“維新”がキーワードとなっていますが、
これが明治維新をイメージしたものであるのなら、
はなはだ危なっかしいネーミングだということを念頭に置く必要があるでしょう。
わが国最大にして最後の内乱「西南戦争」が終結した
1877年(明治10年)9月24日から一年後の今日、
1878年(明治11年)9月24日「西征陣亡軍人の碑」を伊勢山皇太神宮内に建て、
式典が挙行されました。
維新後新政府政策に対する不満による“乱”(抗議運動)が全国で起ります。その最大級の乱が「西南戦争」です。
一般的には政府内での「征韓論争」に破れ下野した西郷隆盛と
新制度に不満を持つ士族が結集し決起した“暴動”とされている場合が多いようですが、
必ずしもそれだけではなさそうです。
史実は殆ど謎のままです。(ここは西南戦争論義の場ではないので別にて議論します)
西南戦争は九州全域を戦場とし
1877年(明治10年)2月15日〜9月24日までの約七ヶ月に渡って薩摩軍、政府軍併せて12,000人が戦死、20,000人の負傷者がでました。
新政府誕生後行った徴兵による軍隊と、かつて戦う事を職としていた“武士”との総力戦でもありました。
この戦争で、政府の戦費は約4,100万円にのぼり、当時の税収4,800万円のほとんどを使い果たします。
政府は戦費調達のため不換紙幣を乱発し、インフレーションが発生し、日本国の経済破綻寸前まで追いつめられます。
話しを横浜に戻します。
神奈川県内で徴兵されて西南戦争で戦死した十数名の為に忠魂碑を建てようという(全国的な)動きの結果
三条太政大臣の揮毫により「西征陣亡軍人」の碑建立計画が進行します。
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碑の脇に建つ灯籠には「茂木 惣兵衛」の名が |
式典は西南戦争終了記念日である
9月24日に行われる事になり、当日は県知事、政府関係者を始め、戦死者遺族らが参拝し、陸海両軍による奏楽や琴、撃剣、囃子等の催しまで行われたそうです。市内には各戸軒に提灯を掲げたとありますから、かなり派手にお祭りが行われたようです。
東京から送られた政府軍は横浜港から出港したこともあり当時の市民は複雑な気持ちで出兵を見送り、提灯を掲げたに違いありません。
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横浜から西南戦争に行く兵士達(Wiki) |
この戦争で亡くなった西郷軍の死者は、全て賊軍となりました。
戊辰戦争から10年目のことです。
(横浜洋銀取引所)
ほぼ国家予算を使い切った日本は、経済金融制度が未熟な中、大量の不換紙幣発行を行ったため、為替価値が下がり外国貿易の中心地「横浜」に大打撃をもたらします。
金銀相場が急騰し貿易ができない状態まで追いつめられます。
そこで横浜経済界は「横浜洋銀取引所」を創立し貨幣相場の安定に務めます。
2月18日 過去に学ばないものは過ちを繰り返す
また、このインフレが、外為銀行「横濱正金銀行」設立のキッカケになります。
(もう一つの忠魂碑)
神奈川区三ツ沢公園内に「戦没者慰霊塔」が建っています。
No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園
この慰霊塔は「西南戦争」から「第二次世界大戦」までの神奈川県出身戦死者を慰霊するために建立されたものです。
No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!
ここでも何回か紹介しましたが、
咸臨丸についてその実像が意外と知られていません。かくいう私もほとんど知りませんでした。
咸臨丸の波濤の生涯に出会うキッカケはバーでした。
北海道、夕張に出かけた帰り、札幌のバーに立ち寄った時にバーテンダーから
カウンターで一冊の本を紹介されました。
旅先の情報を知るには「バー」がもっとも知的でエキサイティングです。
1咸臨丸は遣米使節団ではありません。
2咸臨丸の最後は北海道。函館沖に沈んでいます。
3咸臨丸は5,000日現役でがんばりました。
4咸臨丸は最初太平洋横断には使用されない予定でした。
5咸臨丸はオランダ生まれで、欠陥品でした。
6九州対馬にもロシア船掃討作戦のために出動しています。
7静岡清水港で新政府軍に攻撃され咸臨丸乗組員全員が死亡します。
この清水港事件が起ったのが
明治元年9月18日(1868年11月2日)の今日です。
最初の活躍は“太平洋横断”です。
遣米使節団一行がアメリカ軍艦ポーハタン号にて太平洋を横断するにあたり、幕府の正使に万一の事が起きた場合に備え提督役に「軍艦奉行木村摂津守」、艦長役に「勝海舟」を任命し「ポーハタン号」に随伴させる事にしました。
咸臨丸には計107名の乗組員が乗船、
勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎らがいました。(日本人96名、米国人11名)
No.34 2月3日 (金) ポサドニック号事件で咸臨丸発進
※この間、咸臨丸はかつて英米が領有権を宣言した「小笠原諸島領有権」確保のために諸島に派遣されています。(この辺は現在の問題とも重なり面白い史実があります)
1868年(明治元年)に最後の幕府軍と新政府の戊辰戦争が起こり、咸臨丸は幕府の艦船として他の艦船と行動を共にします。
幕府軍 海軍副総裁榎本武揚(えのもとたけあき)は降伏を拒否、品川から旧幕臣とともに開陽、回天、蟠竜、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦から成る旧幕府艦隊を率いて脱出します。
ボロボロの“咸臨丸”は銚子沖で暴風雨に遭い榎本艦隊とはぐれてしまいます。下田まで流されますが、榎本艦隊の一隻蟠竜丸(ばんりゅうまる)に曳航され清水港に避難します。(この時既に、咸臨丸は戦闘を諦め、新政府側に降伏するために清水港に向かったという説も有力です)
清水港で修理にあたりますが、傷みが酷く蟠竜丸は咸臨丸を残して先に北海道へ向かいます。
(長い前段はここまで)
9月2日に清水港に避難した咸臨丸は船体を修理するため、武器弾薬や器械等を陸揚げします。
清水といえば、15代将軍徳川慶喜が大政奉還し国許に蟄居した場所です。静岡藩徳川家は驚天動地、対応に苦慮します。
旧幕府の軍艦が入港した訳ですから。
静岡藩は「咸臨丸乗組員に一夜の宿も貸してはならぬ。匿ったりした事が後日解ったら、匿った当人はもちろん五人組の仲間や村役人までも処断する」と通達を出します。
そこに、新政府軍の追っ手が清水港に入ってきます。
富士山丸、飛龍丸、武蔵丸という当時最新の軍艦です。
※富士山丸はアメリカ製で、幕府が注文した新品を新政府軍が獲得した船です。
軍艦には柳河藩(福岡県柳川市)兵30名・徳島藩(徳島県)兵30名が乗込み、陸路は肥前佐賀藩兵に警戒するよう司令を出します。
9月18日清水港内で、新政府軍は咸臨丸を発見、アメリカから納品されたばかりの富士丸は発砲しながら咸臨丸に接近、船上で斬り合いが始まりますが、咸臨丸に残っていた乗員は全員死亡します。
(ここからが?)
死亡した咸臨丸乗員は湾内に放置され、新政府軍は立ち去ります。
静岡藩が江戸(東京)に打診した降伏交渉がもう少し早ければ、戦闘中止となり乗員の生命は失われなかったかもしれません。
とにかく、反乱軍に関わるな!と新政府から命令が出され、しかも静岡藩は別の難題を抱え、新政府とは事を荒立てたくない切迫した事情がありました。多くの旧幕臣の駿府への移住と再就職問題です。
徳川藩側は、一部危険分子のことを考えている余裕など無かったのです。湾内に放置された咸臨丸乗員、春山弁蔵、春山鉱平、今井幾之助、長谷川清四郎、高橋与三郎、加藤常次郎、長谷川得蔵の七人の遺体を引き上げ、弔った人物がいます。
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壮士の墓 |
山本長五郎、一般的には「清水次郎長」の名で有名です。
次郎長親分は、その日の内に、遺体を引き上げ「死ねば皆仏官軍も賊軍も無い」という名ゼリフを残し清水向島の土左衛門埋葬地、通称土左衛門松の根元に葬ります。清水町妙生寺の住職乗暹により、浄土三部経を石に書き供養します。
山本長五郎、映画や芝居、小説になってイメージができ上がり過ぎですが、彼の人生は確かに若い頃の“ヤクザ”な生活がありますが、幕末から明治にかけて、廻漕業、三保の新田開発、巴川の架橋、相良町の油田開発、英語学校の設立、又蒸気船による海運会社の設立を手がけた実業家でした。山岡鉄舟との出会いが彼の生き方を変えたのかもしれません。山岡は良き次郎長の相談相手だったようです。
明治期、清水と横浜の航路開発や、高島嘉右衛門と新田開発を計画したり、横浜と清水の関係を深めた人物でもあります。
その後の咸臨丸は、悲劇で終わります。
清水港事件からちょうど4年後の1871年(明治4年9月19日)、仙台白石城主 片倉邦憲の旧臣401名を移住させる目的で北海道小樽へ向け出航。輸送途中に北海道木古内町泉沢沖で暴風雨により遭難し、サラキ岬で破船し沈没します。
当時、旧幕臣達は北海道に多く移住しましたが、今の札幌市白石区の名は、片倉氏の旧臣達が作った白石村から続くものです。
(余談)
咸臨丸乗員の碑が興津の清見寺にあります。
この碑をめぐっては、福沢諭吉が榎本武揚と咸臨丸に同乗した勝海舟を非難した「痩我慢の説」が有名です。
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清見寺にある碑 |
最後まで函館で戦って破れた榎本武揚は、明治政府の要人に変身、清見寺に建つ慰霊碑に「食人之食者死人之事」と残します。
その後の榎本は大活躍しますが、(過去の反省無き態度に)福沢は節操がない!と非難します。
「痩我慢の説」
面白い文章ですのでぜひ一読をお勧めします。
勝に関して、咸臨丸同乗以来確執があり、咸臨丸の最後に関わった榎本を非難した福沢にとって<咸臨丸>は鬼門だったようです。
http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/20111201/1322665564
(原文 青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/card46826.html
No.257 9月13日(水)司法とアジアの独立
明治5年9月13日(1872年10月15日)の今日、
横浜港から229人の「清国難民」が解放され母国へ帰国の途につきました。
司法の独立をかけたマリヤ・ルス号事件の第一幕が降り、第二幕への幕間となった歴史的瞬間でした。
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神奈川県庁、手前が横浜地検・地裁 |
マリヤ・ルス号事件は横浜港内で起りました。
明治5年(1872年)に横浜港に停泊中だったペルー船籍の「マリア・ルス号」から一人の清国人が海へ逃亡しイギリス軍艦(アイアンデューク号)が救助したことが発端でした。
3年にも渡るマリア・ルス号事件の第一幕の幕開きです。
マリヤ・ルス号には清国人苦力(クーリー)が231名乗船していました。
契約上は移民でしたが事実上の人身売買“奴隷”として母国を離れた者たちでした。
※中国 苦力(クーリー)は、主に南北アメリカに向け、奴隷制が廃止され、黒人奴隷が解放されたあと労働力を移民に求め、中国人移民が導入されます。事実上のアジアの奴隷だった苦力(クーリー)として導入された中国人の数はペルーだけでも1850年から1880年の間に10万人を越えました。
苦力の一人が、過酷な待遇から逃れる為に逃亡し、身柄を預かったイギリス船はマリア・ルス号を「奴隷運搬船」と判断します。
ただちにイギリス領事館は日本国政府(副島外務大臣)に対し清国人救助を要請、副島は当時の神奈川県参事(副知事)大江卓に調査の命令を出します。
大江は横浜居留地取締局ベンソンと「マリア・ルス号」を訪れ直接清国人から事情聴取します。
逃げた清国人は「マカオで誘拐に遭い、無理矢理やり連れてこられた」旨訴えます。
※当時横浜居留地は、治外法権エリアで外国人が横浜居留地取締を行っていました。
No.185 7月3日(火)実録「居留地警察」
当事者の話し、移住約定書や船貸渡書等の確認を行い政府に報告し、ペルー船を調査のため出港差し止めにしますが、「マリヤ・ルス号」船長は無視しようとします。
当時、日本とペルーには二国間条約が締結されていませんでした。
日本の主権独立を主張し大江は、清国人全員を(強制)下船させます。
これは画期的というか人道的“英断”といえる行為でした。
当然、ペルー側(マリ・アルス船長)は、「移民契約」を楯に“移民とともに”出港を要求します。
さらには、フランス、ポルトガル、ドイツ、アメリカ、イタリア、ベルギー、ポルトガル、オランダ、デンマーク領事連名で
「海賊の所為を除く外、公海上のことは、日本政府の処断するところではなく、例え、船が賣奴を乗せたとしても海賊ということではない。」
と強烈な圧力をかけてきます。
「賣奴の一件は、日本法律及び規則上にかつて禁制するところにあらず。清國船客と約書上に記入する人と結ぶところの約定は、各国にて平常のことなり」
見事に日本の弱点を撞いています。
さらに厳しかったのは、法体系も未整備でした。
憲法すら無い状態でした。(明治憲法は明治22年制定)
しかし、日本政府は現行の法律を元に
神奈川県庁に特別裁判所を設置し、二度に渡って裁判を行います。
裁判長は大江卓(25歳)でした。
一方で、指摘された芸者の売買に関する国内法の整備を急ぎ
「人身売買」を禁止する太政官295号を発布します。(明治5年10月)
※泥縄という感じもしますが、行わないより良い。
ペルー(船長)側には、居留地の各国の圧力、そしてイギリス人ディケンズが代言人(弁護人)となります。
清国人の奴隷は問題だが日本はそれ以上出しゃばるな!という状況でした。
列強の圧力同様に、
日本の遊女制度は娼妓という「人身売買」である、だから奴隷売買を非難する資格は日本にないと主張します。
大江は、国際法に照らしても今回の契約は通常のものではないと断じ、清国人の解放を条件に出港差し止めを解除する と判決を下します。
清国政府は日本の処置に対し謝意を表明します。
(実は)この時期、日本と清国も沖縄を巡って紛争中で、微妙な国際バランスの上にあったことは事実ですが、大江卓の法律的な判断、国家としての威厳を国内外に示したことは
欧米列強にアジアの新興国の司法の独立を認識させた事件として、
極めて重要な意味をもっています。
しかし、国内法によって神奈川権令大江卓が裁いたこの事件には、第二幕が待っていました。
(第二幕は、番外編で)
No.390 危なくない?デカ。
No.255 9月11日(火) 謎多き尾上町の女将
その女性は横浜を舞台に登場し、多くの謎を残した女傑です。
彼女の名は「斎藤 たけ」1837年(天保7年)江戸に生まれ、1910年(明治43年)9月11日の今日、横浜で73歳の生涯を終えました。彼女の墓は横浜市西区赤門町にある高野山真言宗「東福寺」にあります。
書きたいことが多くここでは何に絞ろうか?迷いました。
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長谷川伸家の墓もここにあります |
”斎藤 たけ“東京をも圧倒した横浜の待合「富貴楼のお倉」といったほうが判る方が多いかもしれません。
彼女の評は“坂本龍馬のような女”、“伊藤、井上、大隈、山県等の大官を手玉にとった女”、“女政商”いろいろです。
お倉像は、伝聞・傍証ばかりで“なぞ”の部分が多いのです。ここが波瀾万丈の人物像を生み出している理由かもしれません。
超簡単にまとめると
「苦労して全国各地を転々としますが実業家(田中平八)と政治家(伊藤博文)との出会いで横浜に関東有数の待合「富貴楼」を作り、そこの女将として明治初期の政治家・実業家の密会舞台を仕切った」ことで成功した“実業家”ということでしょうか。
この時代 明治初期の同時代人のキーマンは殆どが『利用」したといっても過言ではないでしょう。
(富貴楼に関係する人物)
文中に名前が出てくるだけでも
大久保利通、岩倉具視、田中平八、三条実美、陸奥宗光、伊藤博文、高島嘉右衛門、井上馨、大隈重信、山県有朋、松方正義、小泉 信三、高橋誠一郎 らがお倉人脈です。
参考資料
中区役所 昭和51年「横浜のおんなたち」(PDF)
http://www.city.yokohama.lg.jp/naka/archive/reference/document/1977-01.pdf
鳥居民の「富貴楼 お倉」(草思社)
ハマの風富貴楼お倉物語
Wiki 他ネット評論等
微妙に資料の史実が異なっています。
例えば彼女が生まれた場所に関しては、江戸谷中茶屋町と浅草松葉町の2説あります。個人的には谷中茶屋町だったら雰囲気あるな!と思いますが江戸と現代では環境も激変しているでしょう。
※谷中茶屋町は十軒程度しかない極めて狭い場所です。谷中墓地のすぐ近くにある職人の多く暮らしていた町だったようです。
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左側が茶屋町で、右側が霊園です。 |
浅草松葉町あたりは現在の合羽橋あたりです。
Wikipediaではシンプルです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/富貴楼お倉
富貴楼お倉(ふうきろうおくら 1837年(天保7年)12月24日-1910年(明治43年)9月11日)は、明治の実業家。本名は斎藤たけ。
江戸に生まれ、芸者や遊女などを経たあと、明治4年に横浜の相場で財産を築いた田中平八から資金を得て、現在の横浜市中区尾上町に料亭(待合)の「富貴楼」を開いた。
この料亭には田中平八をはじめ、井上馨、陸奥宗光、伊藤博文らの重鎮が出入りしたことから、明治初期の政治の駆け引きの舞台となったと言われる。
とだけあります。もう少しわくわく感で説明しているのが、松岡正剛さんの鳥居民の「富貴楼 お倉」評のコーナーです。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0323.html
ここでは
ちょっとひねくれて考えてみました。
【富貴楼はどこに?】
新橋芸者をビビらせたという富貴楼の場所はどこか?
鳥居民さんの「富貴楼 お倉」(草思社)では、裏表紙に「富貴楼」のあった場所をマップで示しています。
本文では
尾上町5丁目あたりとしています。
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裏表紙の富貴楼マップ |
中区役所 昭和51年「横浜のおんなたち」でも
『明治六年相生町から発した大火で富貴棲も類焼して尾上町に移転。二〇〇余坪の敷地に豪壮な旅館兼料亭を新設し(今の神奈川県中小企業会館のあたり)、伊藤博文揮毫の「富貴楼」 の看板をかかげて再出発した』
とあります。
素直に神奈川県中小企業会館のあたりかと思ったのですが、待てよ?ここは尾上町ではなく「湊町(現在 港町)」ではないか?
そこで、明治の地図にあたってみました。
富貴楼のあった場所は、神奈川県中小企業会館ではなく通りを挟んで反対側 泉平の一角ではないか? 明治24年の絵地図でもなんとなく200坪余700平米あるって感じですよね。
簡単に判る資料があるのに どうして?湊町方向になったのでしょうか?もう一つ「富貴楼 お倉」(草思社)では、船で富貴楼に入ったという記述があるので(出典不明)、これに引きずられたのかもしれません。
※富貴楼の近くに「六道の辻」がありここがまた歴史ドラマの舞台なんですね!!!
まだまだ謎解きは沢山ありますが 今日はこの辺で。
★これらの資料には、明治の怪商「高島嘉右衛門」がほとんど登場しませんが、高島も料亭「高島屋(デパートとは全く関係ありません)」を幕末明治初期に尾上町に作り“料亭政治”に使いました。二人は知合いですが、つながる傍証が見当たりません。どこかで判ってくると面白くなると思います。
(番外編)
”斎藤 たけ“さんにはどうしようもなくだらしない旦那(夫)がいたのですが、二人には子供が無く 養女を迎えます。その養女のために桜木町駅(旧横浜駅)二階に食堂「川村屋 」を開設します。一時期は二代目横浜駅などに出店し有名になりますが、関東大震災、戦災等で店じまいし、現在は桜木町駅構内の「立食い蕎麦 川村屋」として営業を続けています?? 店内に張ってある説明には「斎藤 くら」とありますが、判りにくいからこう表現したのでしょうか?正確には「斎藤くら」ではないですね。 (おじさんのいちゃもんでした)
でも 2008年位から美味しくなりましたね。以前神奈川立食い蕎麦ワースト10に入っていた時代がありますから。
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時にうるさいくらいの元気なおばちゃん達が仕切っています |
No.252 9月8日(土)横浜終戦直後その3
今日は、横浜のGHQ最終話です。
1945年(昭和20年)9月8日(土)の今日、
GHQを横浜から東京に移すためにマッカーサー元帥は「第一生命館」を視察、自ら進駐軍本部に決定します。
No.243 8月30日(木)横浜の一番長い日
No.246 9月2日(日)90年後の横浜
の最終話として、GHQ横浜から東京へ移る際の小さなエピソードを追います。
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第一生命館 |
「第一生命館」
所在地: 千代田区有楽町1
建築年: 昭和13年11月
設 計: 渡辺仁 松本与作
構 造: 鉄筋鉄骨コンクリート造8階
東京の建築資産として残る名建築の一つです。
簡単にGHQ横浜進駐のおさらいをします。
1945年(昭和20年)8月30日(木)に、厚木基地に降り立ったマッカーサーは、簡単な記者会見の後 当初予定していた葉山ではなく横浜に向かいます。(ある程度事前に決まっていたようです)
山下公園にあるかつて泊まったことのあるホテルニューグランドに3泊したあと、戦前スタンダード石油社長の自宅だった邸宅を宿泊所に決め、9月15日まで使用します。
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推測です。この辺はミシシッピーベイと呼ばれた根岸湾を臨める場所 |
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ちょうどこの場所行ってきました。マッカーサーハウス FOR RENT?ほんとかな? ※現在は マンションとなり存在しません。ここも 歴史的資産が無くなった? |
この間GHQは横浜税関に置かれ、接収事務と同時に、東京へ本部を移す下調べを行います。
進駐軍が要求していたのは、
★最高司令官のためには
「相当ノ造作ト家具」を備えた住宅を
★10名程の将官用には「相当ノ造作及家具ヲ有シ最高司令官住宅ノ近隣ニアル適当ナル住宅」
★600名の士官用にはホテルまたは同等の宿舎
★2,300名の兵員宿舎
★司令部用の建物、倉庫、150台の乗用車・バス25台・トラック50台とかなり具体的であったようです。(江藤淳『占領史録』第一巻、講談社、一九八一年)
9月6日(木)に、GHQ用庁舎候補の一つとして「第一生命館」に対しGHQから図面や資料を提供を求められます。
9月7日(金)に、GHQ参謀副長イーストウッド代将と工兵隊司令官であるケイシー少将が第一生命を訪れGHQ用庁舎として第一生命館を使用することを伝えますが、マッカーサー執務室の入る本部としては未定でした。
9月8日(土)にマッカーサーはアイケルバーガーとハルゼイ提督を同乗させ横浜から東京のアメリカ大使館を訪れ国旗掲揚を行います。この模様は“ラジオ中継”されたそうです。
昼になり、帝国ホテルを視察がてら食事に向かいますが、その際「第一生命館」が目にとまり部下たちだけで検分する予定を変更し自ら足を運ぶことにします。
前日ここを訪れていたイーストウッド代将と第一生命の幹部の案内で、
6階の社長室、貴賓室などを視察します。
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現在も保存されている執務室 |
マッカーサーはここが気に入り、他の下見予定を全てキャンセルし横浜に帰ります。
マッカーサーという人物は万事このような感じのパフォーマンス重視の司令官だったようです。第一生命にはイーストウッド代将から口頭で通告され、9月15日(土)に引き渡しが行われました。
10日くらいでビルまるごと引越せよというのですから敗戦国とはいえ大変だったと思います。
No.243 8月30日 (木)横浜の一番長い日
No.246 9月2日(日)90年後の横浜
9月15日 正午をもって「第一生命館」はGHQに引き渡され、6年10か月にわたり接収されることになります。
では、横浜に住んでいたマッカーサーは、横浜から通ったのかといえばそうではありません。千代田区赤坂のアメリカ大使館内に住まいを移し、執務にあたりました。彼の日課は午前10時30分に大使館を出て、第一生命ビルGHQに向かい午後になると大使館に戻り昼食後、軽い昼寝をした後に再びGHQに戻り夜遅くまで連日休暇もとらずに執務していたそうです。
当初、マッカーサーの住まいを「旧前田侯爵邸洋館」にする計画でしたが、治安上の理由?から大使館になったそうです。実は気に入らなかったのではないか?とも言われています。
1945年(昭和20年)9月に接収された旧前田侯爵邸洋館は、エニス・C・ホワイトヘッド(Ennis C. Whitehead)第五空軍司令官の公邸として使用され、 マッカーサー司令官が解任された後任のマシュー・バンカー・リッジウェイ(Matthew Bunker Ridgway 1895-1993)司令官の官邸となりました。
現在は 開放され無料で見学することができます。
これで、横浜から進駐軍の中枢が東京に移りますが、横浜・神奈川自体の接収地返還は遅々として進まず(沖縄返還前では)日本最大の占領地を抱えた街として戦後復興期を迎えることになります。
No.139 5月18日 マッカーサーに嫌われた男
No.148 5月27日 決裂前夜のこけら落とし
No.172 6月20日(水) 階級差なく埋葬
No.190 7月8日(月)パブリック・ディプロマシー
これ以降、終戦直後の横浜はテーマがあり次第【番外編】で紹介していきます。
No.248 9月4日(火)坂の上の星条旗(後)
元米国18代大統領ユリシーズ・グラント一行が、
2年4ヶ月の世界一周旅行に出発し、最後の訪問国日本に到着したのが
1879年(明治12年)6月21日(土)長崎でした。
9月3日(水)横浜港から帰国の途に就くまでの約2ヶ月の間、ユリシーズ・グラント将軍は日本政府及び各地の大歓迎を受けます。
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歓迎を受けるグラント一行 |
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横浜での歓迎 |
今日は、横浜・東京滞在中のグラント一行の様子を紹介します。
No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)
グラント将軍は、アメリカ最初の国賓クラスの訪日でした。
横浜港で大歓迎を受けたグラント一行は、
汽車で横浜から東京に入り浜離宮の延遼館に滞在します。
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浜離宮から汐留を眺める |
浜離宮は江戸時代、徳川将軍家の別邸として使われていました。
幕末は幕府海軍伝習屯所として活用され、
1869年(明治2年)に「延遼館」が完成し鹿鳴館が完成するまでは迎賓館として使用された豪華な施設でした。
その後、宮内省の管轄となり名前も離宮と改められ明治天皇お気に入りだったそうです。
明治天皇は、グラント将軍に信頼をよせます。
滞在中の8月10日には、天皇自らグラントの滞在先「延遼館」を訪れ、日本国家が抱える課題について率直に尋ねます。会談は2時間にも及んだそうです。
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汐入の池 |
天皇は侍従長を始め関係者を全て退け、
三条実美と通訳の吉田公使だけでグラントとの会談がもたれました。
話題は多岐に渡りましたが、まず政治制度、選挙制度の話しから始まり経済、外交問題に及びました。
清国との沖縄を巡る領有権に関しても日清の軍事力に触れ「日本は軍事物資,陸軍,海軍ともに清国に勝っている。
清国は日本に手も足も出ない、と言ってもいいくらいだ。
清国が日本に損傷を与えることなど不可能である」と述べていたグラントですが天皇には融和的な態度を求めました。
実は、グラントはこの旅で日本の前に清国を訪れた時、清国摂政と李鴻章から“沖縄問題”で仲介役を依頼されていました。グラントは、この問題は両国外交上の問題で“自分”が介入するべき問題ではない。だが日本の国際的な状況と傷ついた清国同志の争いは避けるべきだと「日清両国」に説きます。
問題にすべきは
中国をめぐり利権に血まなこになるヨーロッパ列強であると英仏を批判し、
戦争による介入や
「外国からの借金ほど、国家が避けなければならないことはない」と
列強が融資を通じて支配をもくろんでいることを警告します。
また、不平等条約改正にも理解を示し、諸外国は改正に応ずるべきだとも述べます。
グラントを含め、アメリカがピュアな時代でした。このグラントが忠告したことをその後、星条旗の国が行ったことは歴史の皮肉です。
(日米の共感)
1879年(明治12年)の日本政府は、神風連の乱、秋月の乱他国内の新政府に対する不満を押さえ込んだ直後に起った、
明治政府最大の危機、西南戦争がようやく沈静化した状況でした。
明治天皇は、規模は異なりますが、明治維新、西南戦争にアメリカの独立と南北戦争を重ねたのかもしれません。
グラント一行は、公式日程の合間に
東京を軸に日光、箱根などを巡り各界の歓迎会に出席するという濃密なスケジュールをこなします。
そして帰国が近づいた8月26日(火)
最後の歓迎園遊会(ガーデンパーティ)に出席します。
会場は、横濱居留地234番地の横浜亜米利加領事館でした。
ヨコハマプレスによれば、居留地の催しでこれほど成功を収めたものは無かったと報道されるほど華やかなパーティが開かれます。
居留地の代表、政府閣僚、財界人、領事館員、外交団、県庁などの役人、士官等が集まり夜を徹して行われました。
園遊会の開催されたアメリカ領事館はその後、
横濱山下町6番地に移動します。
この跡地に今は無き「ザヨコ The Hotel Yokohama」が建ちます。
現在はホテルモントレになっています。
全ての日程を終えたグラント将軍は、
宮城に天皇を訪ね“暇乞い”を済ませ帰国の準備をします。
最後の送別夜会が9月2日(火)に「延遼館」で開催され翌日、新橋駅より特別列車に乗り横浜駅に向かいます。汽車道には見送りの人々で埋め尽くされ、港には多くの高官が見送りました。
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横浜港風景 |
戦前、日米関係が最良の瞬間でした。