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「横浜の近代建築」カテゴリーアーカイブ
No.353 12月18日(火)多文化建築の傑作
1939年(昭和14年)12月18日の今日、
山下公園で横浜在住インド人コミュニティ(インド商組合)が
インド水塔の市への引渡し式を行いました。
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2006 |
最近、横浜はちょっとした“インド料理ブーム”です。
野毛・日ノ出町・吉田町近辺に10軒を越えるインド料理店が開店しています。
スリランカ、カシミール、パキスタン他お店によって味わいが異なるのも楽しいものです。
インドと横浜の関係は、幕末開港後英国人と共に多くのインド人が横浜に上陸したことに始まります。
1863年(文久3年)には、西インド中央銀行とチャータード・マーカンタイル銀行(ともにインド植民地銀行)が横浜に支店を開設しています。
日本最初遠洋航路開設は、日本郵船によって日本とボンベイ航路が1893年(明治26)年11月に開設します。インド綿が日本の重要な、綿紡績業の原材料となったからです。
逆に戦後は横浜の捺染産業が、大量のインド向け“サリー”を染め輸出した時期もあります。
一方、お茶貿易に関しては日本茶の強敵として立ちはだかります。
インドとの関係は、英国の植民地の影に隠れて明確な足跡は残されていませんが、横浜におけるインドの人たちとの関係はかなり信頼感の下にあったようです。その証が、
山下公園に建つ「インド水塔」です。このモニュメントが建った理由は、1923年(大正12年)に起きた関東大震災で、当時横浜に在住していたインド人116人が被災します。内28人が亡くなり、被災したインド人は住居を失い各地に離散します。復興が始まり、翌1924年横浜のインドと交易・交流のあった関係者は大阪・神戸方面に逃れたインド商家族を横浜に誘致します。
これによって、横浜のインド人は横浜での生活を再開する事ができるようになります。この好意に対し、横浜在住のインド人コミュニティ(インド商組合)がインド水塔を感謝をこめて贈られる事になったのです。
横浜市民への感謝の意と同胞の慰霊も含めインド風、イスラム風、日本風など様々な要素が組み合わされた見事なモニュメントです。
アジアで初のノーベル賞を受賞したインドの思想家タゴールは尊敬する岡倉天心に招かれ、横浜三渓園に長期滞在します。
No.120 4月29日 庭球が似合う街
横浜にもう一つ、インドと横浜の歴史を繋ぐ樹木が山手公園にあります。
日本国内に拡がったヒマラヤ杉のマザーツリーです。
このヒマラヤ杉はヘンリ一・ブルックが1879年(明治12年)に
インドのカルカッタから種子を取り寄せ、山手公園に植えたのが始まりです。
その後、横浜植木が苗木を育成し30本を宮内庁に献上、100本を新宿御苑が購入して以来、全国に公園樹として普及していきます。
クリスマスにふさわしい「ヒマラヤ杉」も横浜とインドを結んでいます。
No.351 12月16日(日)戸塚踏切をなんとかしろ
横浜新道の旧戸塚有料道路区間(俗称吉田ワンマン道路)を
1964年(昭和39年)12月16日の今日、無料開放しました。
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オレンジ色が戸塚有料道路 |
自動車を運転される横浜市民なら一度は横浜新道を走ったことがあるでしょう。
横浜市内の国道1号のバイパス機能を持った国道です。
横浜新道はどこからどこまでなのか?
このテーマを調べるまで全く違う区間イメージを持っていました。
(横浜新道)
横浜新道は、“横浜市神奈川区立町”から“横浜市戸塚区上矢部町”までの区間です。
この区間内が一般道路と有料道路に分かれています。
起点の神奈川区立町、どこだか判りますか?
京浜急行「神奈川新町駅」近くで、
国道一号線は「東急 反町駅」経由して三沢から有料道路に入ります。
横浜新道の経緯を追っていきます。
まず
1948年(昭和23年)に連合国軍最高司令官総司令部が「行政道路」として東海道(国道一号線)のバイパス化を指示します。
(サブ年表1950年朝鮮戦争開始)
1952年(昭和27年)日本国主権回復(講和条約発効)
同年 国内法で道路計画が策定されます。
(サブ年表1953年朝鮮戦争終了)
1955年(昭和30年)に戸塚道路(不動坂交差点から大坂上まで)が有料道路として開通します。
1956年(昭和31年)に管理が日本道路公団に引き継がれます。
1957年(昭和32年)に日本道路公団が横浜市保土ヶ谷区常盤台から横浜市戸塚区上矢部町までの有料道路(横浜新道有料部分)の認可を受け着工します。
一方で、一般道の「横浜新道」区間(横浜市神奈川区立町から横浜市保土ヶ谷区常盤台)までが開通します。
1959年(昭和34年)10月28日に有料道路横浜新道が開通し戸塚道路と統合します。
横浜市神奈川区立町〜戸塚区上矢部町までの区間が「横浜新道」となります。
※横浜市戸塚区柏尾町から同区汲沢町までの区間は横浜新道戸塚支線に。
そして、
(旧戸塚有料道路区間無料)
横浜新道の旧戸塚有料道路区間(俗称吉田ワンマン道路)と横浜新道戸塚支線を1964年(昭和39年)12月16日の今日、無料開放することになります。
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昭和30年頃の地図には戸塚料金所が記載されています |
(吉田ワンマン道路?)
横浜市戸塚区役所のHPには
「国道1号の不動坂交差点から大坂上までの道路は、通称ワンマン道路と呼ばれています。昭和28年、当時の吉田首相が開かずの踏切といわれる戸塚駅前の大踏切を避けるため、このバイパス道路を建設しました。吉田首相が「ワンマン宰相」と呼ばれていたことからこのように呼ばれるようになりました。」
と言われていますが、
「吉田ワンマン道路」は横浜新道全線を表現していると思っていませんでしたか?
正確には「不動坂交差点から大坂上の区間」だということです。
ただ、この“俗称ワンマン道路”にも若干?疑問を感じます。
戸塚有料道路と横浜新道は昭和20年代に計画されます。
この時期、日本国は米軍占領下にありました。
基地のある地域の“米軍”要求は
“渋滞をなんとかしろ”という項目から
「車を右側通行に」という日本の交通体系の根本改変まで要求されます。
これには、さすがの日本政府も徹底的に反対し
“英国流左側通行”が継続します。
たまたま、吉田ワンマンの自宅が大磯にあり、総理大臣自身も戸塚近辺の渋滞は不便だったかもしれませんが、背景には日米安保下の様々な政治的軋轢があったようですね。
確かに、吉田茂のワンマン所業は有名でしたから
彼も“戸塚踏切の渋滞をなんとかしろ!”と言ったのでしょう。
No.306 11月1日(木)戸塚駅東口小史
※吉田ワンマンの亡霊
吉田元総理大臣が作ったワンマン道路???
小田原厚木道路をワンマン道路という投稿まで出ています。
http://www.youtube.com/watch?v=00lmuO2Vq4k
(余談)吉田茂の天敵?
戦後、吉田内閣時代に首相を批判した技術官僚に
下元 連(しももと むらじ)という人物がいます。
大蔵官僚で建築家の彼は
横浜税関庁舎、
門司税関庁舎、長崎税関庁舎などのプロジェクトに携わります。
吉田茂に対して
「大磯あたりにいてワンマン道路を造って通う(吉田元首相のこと)なんていうのは、けしからんこと」と辛辣な批評をしています。
ただ、首相公邸を設計したのが下元 連でした。
自分の設計した公邸を使わない吉田茂が腹立たしかったのではないでしょうか?
■(追伸→リクエストがありました)
今日、12月16日は「東京〜横浜間」で電信事業が始まった日ということで、記念日になっていますが、横浜新道にちょっと触れおきたくて敢えて別の日にしました。
No.241 8月28日(火)駅を降りたら、国際港 復活(その2)
現在国際空港行き専用急行便が走っているように、
かつて横浜港と東京を結ぶ専用路線(臨港鉄道)がありました。
1920年(大正9年)7月23日に運行開始、戦争とともに廃止されます。
戦後、国際港から太平洋航路が復活とともに短い期間でしたが1957年(昭和32年)8月28日から1960年(昭和35年)8月27日まで東京駅〜横浜港駅間にボート・トレインが復活しました。
横浜の港湾施設と東京を結んだ「臨港鉄道」についてはこれまで何度か紹介しています。
No.205 7月23日 (月)駅を降りたら、国際港
No.62 3月2日 (金) みらいと歴史をつなぐ道
ここでは、ボート・トレインの1920年(大正9年)7月23日から1960年(昭和35年)8月27日までの歴史の中で、復活の3年間に注目します。
(北太平洋航路の復活)
1953年(昭和28年)7月22日に横浜港から一隻の客船が、北米・シアトルに向けて出港しました。北米航路の女王とよばれた「氷川丸」の復活です。戦争前夜の1941年(昭和16年)の夏に航路が休止されてから、12年ぶりのことです。黄金時代の北米航路は「平安丸」「日枝丸」と合わせて3隻で運行されていましたが、この2隻は戦時徴用で沈没し「氷川丸」だけが生き残ります。
■最後の氷川丸
1953年(昭和28年)6月三菱造船で復帰のために大改装されます。
7月22日に横浜〜シアトル航路に定期貨客船として復帰します。
1953年(昭和28年)〜1960年(昭和35年)多くのフルブライト交換留学生を乗せました。
1959年(昭和34年)7月26日第52次航で宝塚歌劇団北アメリカ・カナダ公演のメンバーが乗船し桟橋は五千人を越えるファンで埋め尽くされました。
寿美 花代(すみ はなよ)、浜 木綿子(はま ゆうこ)他
演目は「花の踊り」「四つのファンタジア」「宝塚踊り」だったそうです。
そして
1960年(昭和35年)第60次航をもって運航を終了します。同時に日本郵船もシアトル航路から撤退することになります。
■氷川丸を支えた臨港鉄道
「氷川丸」復活で日本郵船から国鉄に要請があり、1957年(昭和32年)8月28日から「横浜〜シアトル間」の航路に接続して復活運行されたのが「東京駅〜横浜港駅間」の横浜臨港線でした。
氷川丸出入港に合わせて運行されるので、時刻表には掲載されていなかったそうです。
東京駅10番ホーム〜横浜港駅間を約40分で結びました。東京駅10番ホームは現在も東海道本線特急急行用ホームとして利用されています。
通常はC58蒸気機関車に4両編成で運行されていましたが、1959年の宝塚歌劇団の時には10両編成にしてファンに備えたそうです。
東京駅10番線発車メロディー
http://www.youtube.com/watch?v=wlBlQEjWt2k
【もうひとつの8月28日】
1970年(昭和45年)8月28日
大岡川分水路建設工事起工式が挙行されました。
No.192 7月10日(火)もう一つの大岡川
No.187 7月5日(木) 目で見る運河
No.219 8月6日 (月) チェックメイトキング
横浜港周辺散策に横浜三塔は欠かせません。
キングの神奈川県庁本庁舎
クイーンの横浜税関
ジャックの横浜市開港記念会館
三塔それぞれにドラマチックな物語があります。
今日は三塔の中で引越と再建を繰り返してきた「さまよえる庁舎」神奈川県庁本庁舎の歴史を紹介します。
現在の本庁舎は4代目です。
関東大震災で焼失した旧(三代目)県庁舎を再建したものです。建築工事費約275万円を費やして1928年(昭和3年)10月31日に完成しました。
ではなぜ?今日8月6日なのか?さまよえる庁舎の歴史を簡単ですが紹介しましょう。
(野毛山時代)
1859年(安政6年)の開港に際し野毛山に神奈川奉行所(戸部役所)を建てます。マップ①
まだ徳川幕府の時代です。
直後に、奉行所の出張所(神奈川運上所)を桟橋近くにを建てます。マップ②
(記念碑あり)
1866年(慶応2年)10月に横浜史で最も有名な“歴史を変えた”大火災が起ります。「豚屋火事」→「慶応の大火」と呼ばれ、役所の殆どを焼失します。
急ぎ 初代運上所のはす向かい、現在の横浜地方裁判所と検察庁のある場所に2代目運上所を設置します。マップ③
1868年(慶応4年)4月11日に、神奈川奉行所は「横浜裁判所」と名称変更されます。
※ここで注意しなければならないのがこの裁判所は現在の司法機関ではなく行政機関の名称で、後に司法機関名となったので混乱しがちです。
またまた、幕府は「横浜裁判所」を一ヶ月で「神奈川裁判所」に名称変更します。(1868年5月12日)
さらにそれから3ヶ月後の8月、「神奈川府」に変更します。
1868年10月23日(明治元年9月8日)から明治時代が始まりますが、改元直後の1868年11月5日(明治元年9月21日)に
「神奈川県」となります。現在の神奈川県域になるにはまだ20年以上かかりますが、ほぼこの時期に落ち着きます。
(またまた大火事)
1882年12月(明治15年)に起った大火事で、県庁は焼失します。そこで、横浜町会所(ジャック、現在の開港記念会館の場所)に仮庁舎を建てます。マップ④
これを機会に施設を大きくする必要もあり、新県庁の候補地を探します。
ここでクイーンが登場します。横浜税関です。
本町1丁目(昔の町名、現在は中区日本大通1丁目)にあった横浜税関に移転計画が立てられます。
そこで、横浜税関が移転した跡地に新県庁を建設することが決まります。
現在の県庁の場所です。
1883年(明治16年)8月6日の今日
「神奈川県庁が横浜税関跡に移転(横浜税関百二十年史)」
その後、1907年(明治40年)に老朽化と狭隘化が問題となり、建直しが検討されます。
1909年(明治42年)開港50周年の年に新県庁建設のために「横浜公園」に臨時庁舎を建て、引越します。
(三代目庁舎)
1913年(大正2年)5月に、3年半をかけて三代目県庁が完成します。設計は明治の三大建築家といわれた片山東熊(かたやま とうくま)でした。彼は、長州藩騎兵隊出身、 工部大学校同期には今話題の東京駅設計の辰野金吾がいました。片山はジョサイア・コンドルの弟子で赤坂離宮(迎賓館)、奈良、京都国立博物館が代表作品です。
(関東大震災)
1923年(大正12年)の関東大震災でなんとか倒壊を免れましたが、耐震上建直しが決まり、4代目となり現在に続きます。
※三代目庁舎建築を巡っては、かなり面白いエピソードが隠されていますが、これは
No.193 7月11日(水) Hi Come on!
ともからんでいます。改めて(小説仕立てで)紹介しましょう。
No.129 5月8日 ヒット曲の公園
「開港の道」山下臨港線プロムナードの終着地点となっている「港の見える丘公園」は
1962年(昭和37年)5月8日(火)に開園しました。

「港の見える丘公園」は市内の人気公園の中でも比較的新しく整備されたものです。
観光公園として大変人気があり、連日多くの観光客が訪れています。
人気の理由は、なんといってもネーミングの勝利です。
「港の見える丘公園」ちょっと長い名前には横浜らしい雰囲気が漂っています。
■http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/kichitaisaku/shiryo/taiikukan.wvx
5月8日 横浜市中区山手「港の見える丘公園」当日の映像では比較的港が見えています。
※開園の日に関して 10月25日説もあります。
No.299 10月25日(木)10月25日10月25日
私は 5月8日を採用しました。
(港が見えない公園?)
現在は 残念ながらここからいわゆる横浜港はちょっとしか見えません。
ブログ等では“ベイブリッジが見える丘”と揶揄されていますが、横浜の重要な港湾産業の見える丘であり美しく丁寧に整備された横浜を代表する公園であることは間違いありません。
まずは終戦直後の代表的な流行歌をお聞きください。
平野愛子さんが唄うこの曲は1948年に大ヒットしました。
http://www.youtube.com/watch?v=7K_EuScGmgU
「港が見える丘」がヒットした終戦直後、この公園一帯は進駐軍に接収されていましたが、戦前も一般者が立ち入ることが出来ませんでした。
この丘一帯は、横浜港を見下ろす重要な軍事ポイントでした。
開港時、いち早く外国軍、特に英仏の軍隊が監視所兼駐留場所として駐屯した場所です。「港の見える丘公園」は英国軍の駐屯地イギリス山と仏軍の駐屯地フランス山から構成されています。

「港の見える丘公園」はかなり広い公園です。
元町に近いフランス山から緑豊かな森を抜け、展望ゾーンに出ます。
そこからローズガーデンと山手 111番館(1999年再整備)、大佛次郎記念館(1978年開館)、神奈川県立近代文学館(1984年開館)とゆったりとした散策ルートとなっています。
■ローズガーデンと山手 111番館
http://www2.yamate-seiyoukan.org/seiyoukan_details/yamate111/
■大佛次郎記念館
http://www.yaf.or.jp/facilities/osaragi/
■神奈川県立近代文学館
http://www.kanabun.or.jp/
私のお気に入りは「斎藤茂吉展」でした。
ふもとのフランス山一帯には鉄柱の変わったオブジェが建っていますが、この鉄柱はフランスから贈られたものです。1973年まで100年余り存続したパリ中央市場(レ・ アール)の地下の一部です。
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ちょっと古い写真ですが |
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追加写真です |
設計者の名を取ってパビリオン・バルタールと呼ばれたこのパリ中央市場は、フランス「鉄の時代」初期の貴重な産業遺産で1980(昭和55)年に復元設置されました。
No.175 6月23日 フランス軍港があった丘
(参考)
3月2日 みらいと歴史をつなぐ道
(余談)
戸部と保土ケ谷駅前に店があるスイーツの「ふらんすやま」の名は、この「港の見える丘公園」フランス山から命名しています。
http://www.franceyama.com
「山手111番館」の地下1階にある「ローズガーデンえの木てい」もまさにバラにこだわったラウンジです。休日はかなり混み合っていますから地元は平日を狙いましょう。
http://www.rosegarden-yokohama.jp/
No.78 3月18日 横浜公園に野球場完成
最近モバゲー(DeNA)が球団オーナーとなったことで話題になった横浜ベイスターズの本拠地が横浜公園にある「横浜スタジアム」ですが、この球場ができるまでには(も)様々なドラマが待ち受けていました。
1929年(昭和4年)のこの日、横浜公園に本格的野球場と野外音楽堂が完成しました。
「横浜公園」は日本人に開放された日本最古(最初)の西洋式公園です。
1875年(明治8年)外国人も日本人も自由に使用できる(本来の)公園として港崎遊郭の跡地に土木技師リチャード・ブラントンが設計し、造園されました。当時は「被我公園」とも呼ばれました。外国人(彼ら)と日本人(我ら)の利用できる公園という意味がこめられました。
「横浜公園」の6年前に「山手公園」が完成していますが居留地の外国人しか利用できませんでした。
この二つの公園は、共に居留地の外国人から強い要求があり造園が行われました。「山手公園」はスムースに完成しましたが「横浜公園」造園は紆余曲折あり設計に2年、完成までに4年以上かかります。
なぜ時間がかかったのか?
開港から大正期まで日本をとりまく世界情勢は、米英の対立と英露の緊張関係が深く日本に関わってきます。
特に横浜居留地では英米間の熾烈な対立がありました。居留地の防災対策として防火帯を設けるという要求は諸外国一致した日本政府への要求でしたが、歴史ある国が数歩リードします。日本のお雇い外国人はイギリス6,177人に対し、アメリカは2,764人と二番目でしたが、ハード系は圧倒的にイギリス勢でした。
イギリスからは鉄道開発、電信、公共土木事業、建築、海軍制度などインフラ整備には強く、アメリカからは外交、学校制度、近代農事事業・牧畜、北海道開拓など…わかりますよね。
横浜公園を巡っては、リチャード・ヘンリー・ブラントンRichard Henry Brunton(1841〜1901)設計ですが、彼は1868年に明治政府から英国政府に要請され招かれたお雇い外国人の第1号となります。「日本の灯台の父」と呼ばれているブラントンは26基の灯台設計をはじめ、日本初の電信架設の他、道路舗装・公園設計・鉄道建設・築港などインフラ系の父でもありました。
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最初のブラントン設計案 |
その彼が設計する公園で「クリケット場」が英米の意見衝突のネタになります。
英国案ではクリケット場が中心を占めていました。
クリケットは英国の国技で米国は「野球」ですね。
すったもんだの末、クリケットのできる総合運動場に落ち着きます。明治期クリケットの試合も野球の試合も行われます。
妥協の産物?ではないと思いますが折衷案となります。
その後、関東大震災で被災し1929年(昭和4年)の今日、園の復興整備として「野球場」と「野外音楽場」が新しく造られます。第一次世界大戦で欧州が疲弊し、次第にアメリカ文化が欧州文化を圧倒していく象徴かもしれません。
横浜公園野球場は戦後「ルーゲーリック・スタジアム」になり、接収解除後「平和球場」そして全面建替を行い「横浜スタジアム」となります。音楽堂も取り壊されました。戦前の名残は公園中央の「噴水」というところでしょうか。
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昭和改築時に設置された三代目噴水 |
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花園橋側(こちらが正門?って感じしません?) |
※(余談)
横浜公園の地主は財務省です。
住所は横浜市中区横浜公園で人口は0人無人です。
※(余談2)
横浜公園にプロ野球仕様の「スタジアム」を造る際、都市公園法がネックでした。
(公園施設の設置基準)
第四条 一の都市公園に公園施設として設けられる建築物(建築基準法 (昭和二十五年法律第二百一号)第二条第一号 に規定する建築物をいう。以下同じ。)の建築面積(国立公園又は国定公園の施設たる建築物の建築面積を除く。)の総計は、当該都市公園の敷地面積の百分の二をこえてはならない。ただし、動物園を設ける場合その他政令で定める特別の場合においては、政令で定める範囲内でこれをこえることができる。
つまり建ぺい率が2%ってことです。現状は約25%、都市公園法違反建築物です。
(当然 特例です 誤解なきよう)