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「横浜界隈・境界」カテゴリーアーカイブ
No.414 競争共栄商店街
今日は「洪福寺松原商店街」を紹介します。
商店街は【番外編】で紹介する事が多かったのですが
横浜市内の名物商店街の中で外的環境の変化に対し
闘ってきた点で特筆しておきたい商店街ということで本編で紹介しておきます。
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一昔前の商店街の核「魚幸」現在は新店舗でさらに混んでます。 |
洪福寺松原商店街に一歩足を踏み入れると、
ある種の“めまい”と“エネルギー”を感じます。
平日の昼間だというのに、どこから客が集まるのか?
とにかくいつでも混んでいます。
戦後生まれの新しい商店街で、コンセプトは「超安売り」
(歴史)
洪福寺松原商店街は横浜の下町を代表するエリアの一つです。
1949年(昭和24年)接収解除
洪福寺松原商店街が誕生したエリアは米軍車輛置場として接収されていましたが解除となります。住宅はほとんどありませんでした。
1950年(昭和25年)萩原醤油店が開店
現在の洪福寺松原商店街の核ともいうべき萩原醤油店が(現在の商店街中心部に)開店します。
1952年(昭和27年)その後八百屋、乾物店、魚屋などがあいついで開店し商店街を形成します。当時18店舗が集まります。
現在「洪福寺松原商店街」のリーディングショップとなっている
「魚幸商店」はこの頃から、三崎魚港や北海道各地から直接鮮魚を仕入れて安く売る話題の店として成長します。
1954年(昭和29年)車両通行禁止の交通規制を行い歩行者天国を実施します。
その後、シールサービスの導入、街路灯、有線放送の設置。
会報の発行、商店街事務所開設、松原音頭制作、店頭装飾コンクールの実施。
オイルショックの時にも、団結し「危機突破総決起大会」を開くなど、商店街の結束力を高めます。積極的に横浜市の支援・指導も取り入れ
「横浜市街づくり市街地型モデル商店街」の指定も受けます。
来店者無料大型駐車場のあるショッピングセンターの登場に対しても下町商店街の性格を持ちながらもいち早く“来街者用駐車場”を整備します。
近くに「ニチイ」出店計画が発表されてからも、単なる反対運動だけではなく
受けて立つことを決めます。
現在、イオンGに統合された大型SCをも凌ぐ集客力を持ち、
下町風情は維持しつつ、積極的に新しい時代への対策を売っていく姿勢が、今日の賑わいを創り上げています。
「同業種店の新規参入歓迎」
この商店街の特徴は、競合店の塊。
八百屋・魚屋・総菜店他、ライバルの無い業種は逆に客が入らない程
商店街内に同業種店が共存ではなく競争共栄状態にあるのも特徴です。
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昭和初期の天王町、松原周辺 |
昭和20年代には、市電の基地「浅間町車庫」(現在のバス基地)まで遠くは鶴見区から市電を乗り継ぎ買物客が訪れたそうです。
このエネルギーは現在も変わっていません。
単純に 町を新しく整備するのではなく 必要なモノ・コトは積極的に
変えないものは「軽々に変えない」ことが今日の賑わいを生んでいます。
しかし、この商店街にも時代の変化が押寄せています。
高齢化による商圏の縮小
新顧客層の取り込み 他
課題が山積する中、
新しい若いエネルギーを導入し
横浜国立大学のプロジェクトと連携事業も行うなど
チャレンジも忘れていません。
「洪福寺松原商店街」のヘソ
賑わいの十字路に立つと 何時も
ある種の“めまい”と“エネルギー”を感じます。
商店からは大きな声が響き、安売りに集まる人たちの熱気が伝わります。
この商店街も「観光気分」で訪れるにはもってこいの
横浜を代表する下町商店街です。
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市内随一のダンスシューズを置いている靴店、個性で勝負。 |
一度 お試しあれ!
※買物秘伝
安いが量が多い!
そんな時には 積極的に
周囲の人に「分けません?」と声がけ
シェアショッピングもこの商店街の特徴のようです。
【番外編】磯子区濱
横浜市内にある名物商店街の一つ「浜マーケット」
何が名物か?
このあたりを謎解きしながら紹介しましょう。
「浜マーケット」
名物その一
第一印象は、その佇まい。
昭和レトロな感じです。
横浜市内にある「六角橋商店街」と並ぶ戦後生まれた商店街です。規模は「六角橋商店街」が大きいですが、濃密さは五分五分です。
名物その二
近くに鉄道駅が無い!にも関わらず賑わっている。
その訳は、お店が頑張っている!
これが「浜マーケット」の最大の特徴だと思います。
浜マーケット
http://hama-market.com
名物その三
日曜日でも休む時は“休み”
そうなんです。週休ではなく9の付く日が定休日。
日曜でも9日ならお休みです。
名物その四
話題の店がある。
三角コロッケ、ガチコロの「カネヒラ」
総菜の「はまや高木食品」
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ちょっと昔の高木食品 |
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小分けの宝庫、色々楽しめます。 |
うなぎの「小島屋」
放火で焼失しましたが、復活したうなぎ屋さんです。
昔のお宝画像を一部紹介します。
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おばあちゃんの釜焚き飯 |
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この桶から美味いお新香が生まれました |
(商店街周辺にも)
レストラン洗濯船のタンシチュー
季節感を感じる和菓子が人気の「磯子風月堂」
ここで
ちょっと浜マーケット周辺の歴史を
■以前はここが中心商店街!
「浜」の戦前戦後マップ写真比較
明治の頃
昭和初期
戦後
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磯子 偕楽園あたり? |
浜マーケット 未体験の方 おすすめですよ。観光気分でも構いません!
でも財布も緩めておいたほうが 尚 楽しいですよ。
No.411 横浜最古の寺周遊(後編)
No.410で横浜市南区にある横浜最古の寺院「弘明寺」を紹介しました。
今日は
この弘明寺門前に拡がる賑わいのエリアを紹介しましょう。
【第一スポット】
「弘明寺公園」
●見晴らし最高
京浜急行「弘明寺駅」脇にある岡一帯が弘明寺公園です。
高さは約50m、その一番高いところにさらに展望台が設置されています。
展望台からの眺めは富士山の眺め、みなとみらい方面の眺めが最高です。
一周ジョギングコースにもなっています。
●撮影スポット
富士山と丹沢山系
京浜急行の撮影スポット
ランドマークやマリンタワー
●図書館
駅から1分の市内で一番駅に近い図書館です。
屋上がプールになっています。
ちなみに二番目は 実感値で
保土ケ谷図書館ではないでしょうか?(実測してません)
【第二スポット】
「弘明寺境内」
●歴史探索
「四代目橘家圓蔵」他
No.109 4月18日 品川の名人濱に死す
1881年(明治14年)6月24日(金)に開業した
関内を代表する割烹料亭「千登世」寄進の看板
【第三スポット】
「商店街巡り」
http://www.gumyouji-shoutengai.com
●横浜ハット
昭和24年に創業し、現在は2代目の店主が営む老舗の帽子の専門店です。
茶人帽(和装用の帽子)、船長帽、カウボーイハットなど、帽子の専門店ならではの品ぞろえの豊富さがすばらしい。一つ私も購入しました。
〒232-0055 横浜市南区中島町4-85
https://www.gumyouji-shoutengai.com/shop/yokohamahat.html
●藤方豆腐店
https://www.gumyouji-shoutengai.com/shop/fujikatatoufuten.html
そごう横浜店地下食品街にも横浜橋商店街横、大通り公園側に出店しています。
●マコト
レストラン マコト
https://www.gumyouji-shoutengai.com/shop/restaurantmakoto.html
ハンバーグランチを食べました。
ソースのさっぱり感が絶妙でした。とかく濃いめが多い中、
あっさりソースが肉の味をしっかり楽しめました。
●地元で噂のパン屋さん
デュークベーカリー
https://www.gumyouji-shoutengai.com/shop/dukebakery.html
種類の多さは驚きです。
あんぱんが美味しかったです。
●盛光堂総本舗
https://www.gumyouji-shoutengai.com/shop/seikoudousouhonpo.html
最中が人気です。
【第四スポット】
「大岡川」
●桜
●水辺周遊
【第五スポット】
「名人登場」
●街場の博士
酒学工房 川松屋の川松博士
※この川松屋さんでは なんと ルバイアートが置いてあります。
国産ワイン数々あれど、この「ルバイアート」は私が推薦して止まない逸品です。
中々横浜には置いてないんですね。
残念です。中々取扱店増えません。
●マイスター
印鑑なら国峰さんの彫りがおすすめです。
http://www.kunimineinbou.co.jp
【番外編】
弘明寺駅の貴重品
プロダクトデザイナー柳 宗理デザインの横浜市営地下鉄駅設備デザインを手がけました。
彼は、1970年に野毛山動物園歩道橋や看板もデザインしています。
現在、蒔田駅や弘明寺駅などに設置されています。
弘明寺は「背もたれサポーター」と「ベンチ」が現役で残っています。
もうひとつ弘明寺のお宝追加します。
No.406 今無い風景に思いを寄せて
人間の記憶というのは不思議なもので
ある日突然空き地になった場所に立ち
以前ここに何があったのか
思い出せないことが往々にしてあります。
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ここはどこ? |
今日は、何気なく撮った写真から
今無い風景を何点か紹介しましょう。
【1】汽車道からパナソニック
この風景も記憶のある人が少なくなっていく部類に入ります。
良く写真をご覧下さい。
パナソニックの「皿メディア」の乗っかっている建物の壁に一幅の絵が描かれているように見えませんか?
これは、壁に伸びた蔦が“絵”のように見えているので、季節によっても色合いや絵柄が微妙に変わっていくために壁絵らしく感じたのかもしれません。
この場所は倉庫として使用されていましたが、再開発が決定し取り壊され、駐車場になってしまいました。現在再開発が始まり新しい街の表情が誕生することでしょう。
※このパナソニックの広告を掲出した担当の方、敬意を表します。
広告効果、このエリア一番ではなかったでしょうか。
汽車道
1911年に開通し1987年に廃止されるまで東海道貨物支線(横浜臨港線)として使用されていました。
東横浜駅〜横浜港駅間約500mを1998年に遊歩道(開港の道)の一部として整備し「汽車道」と命名しました。
桜木町から三基のトラス橋を経て新港地区を結んでいます。当時使用されていた線路も歩道の一部としてそのまま活かされています。
この三基のトラス橋港(1号橋梁〜港3号橋梁の3橋梁)は、横浜市認定歴史的建造物に認定されています。
No.205 7月23日 (月)駅を降りたら、国際港
No.62 3月2日 みらいと歴史をつなぐ道
【2】伊勢佐木界隈
ヨコハマを代表する繁華街の一つ伊勢佐木町通り。
明治後期には、東京の浅草・大阪の千日前と並ぶ盛り場として繁盛していた地区です。
その後、
関東大震災、横浜空襲も乗り越え、横浜の商業中心地が横浜駅界隈に移る中でも努力を重ね賑わってきました。
残念ながら開港と共に歩んできた伊勢佐木もこの10年を捉えても大きく様変わりしています。
近年一番の変化は「松坂屋」(旧野澤屋)の閉店でしょう。
ここは「ゆず」のデビュー空間として有名になりました。
現在は建物も新しくなり「カトレアブラザ」となっています。
その他、時代の趨勢でしょうか、なじみの店が消えていくのは寂しいものです。
思い起こせば、この30年時々しか利用できませんでしたが
伊勢佐木のお店も かなり変わりました。残って欲しい店、まだまだあります。
頑張って イセザキ。
No.137 5月16日 全店サマークリアランスセール開催中
1月30日 MATSUYA GINZAのDNA
【3】旧ヘルムハウス跡地の遺構
以下をもって説明とさせていただきます。
ある日!気がついた時には、消えていました。
No11 1月11日(水) KAAT開場
【4】その他の風景
JR関内駅近くに関外エリアを縦断する「大通公園」があります。
かつては 沼地を吉田勘兵衛という方が生涯をかけて埋め立てた土地の真ん中に残した「水路」でした。この水路を埋立て、その下を市営地下鉄が走っています。
その関内側(市役所側)に建っていたモニュメント?ですが数年前に撤去されました。
No.214 8月1日 (水)開港場を支えた派川(はせん)工事
今まさに 再開発中。
日ノ出町駅前が大きく変わりつつあります。
http://www6.ocn.ne.jp/~hinode-a/
みなとみらいの四半世紀は、別立てで追いかけることにします。
(他に)
紅葉坂の石畳!
野毛のミモザの怨念!
も材料が整えば 紹介したいところです。
今日は ここまで。
No.397 横浜「座・樓・亭」探し
ブログを書くために資料を探していると
横浜市内の「会場」が多く出てきます。
幕末から大正あたりまで、横浜の輝きを示す傍証として
劇場、料亭の存在は重要になってきます。
今日は、ざくっと 横浜の「座・樓・亭」探しの
中間報告をします。
横浜の「座・樓・亭」探し
最初は簡単にリスト化する程度で済ませよう
と軽く考えていました。
ところがどっこい、重要な役割を演じた会場がかなりありました。
(開港と共に料亭政治開始)
横浜に限った事ではありませんが、
横浜開港と共に新しい「談合場所」が登場します。
横浜は元々半漁半農の小さな村でしたから、城下町や門前、宿場のように
宿泊施設も食事、会合場所もありませんでした。
そこで、劇場・料亭・旅館・会館が開港後、多く開業します。
教会や寺院も会合、講演場所に使われました。
「談合華やかに」
幕末明治の政商、高島嘉右衛門は、
現在の尾上町近くに旅館『高島屋』を開業し、
要人の料亭政治の場を提供し情報力を得ます。
※百貨店「高島屋」とは全く関係ありません。
もう一人
「お倉」なる女将も同様に「富貴楼」を舞台に料亭政治の中心となります。
No.255 9月11日(火) 謎多き尾上町の女将
明治に入り、盛んに料亭政治が行われますが
一方で
お寺、教会、劇場、料亭等が
“市民メディアの役割”を果たすようになります。
世の中の出来事が芝居や義太夫、講談で伝えられます。
代表的人物は横浜でデビューした川上音二郎です。
日清戦争をいち早く戦争劇に仕立てた「壮絶快絶日清戦争」「川上音二郎戦地見聞日記」は空前のヒットとなります。
このように
報告会、時勢講演会等が頻繁に開催されます。
No.208 7月26日 (木)ザ・みなとの劇場
No.176 6月24日(日) 関内の粋といやーー、ね。
名料亭も生まれます。伝説の
割烹料亭「千登世」や現在も現役の料亭「田中家」
芝居小屋は現在の伊勢佐木界隈に集中して開業します。
羽衣座・相生座・粟田座・勇座・太田楼・喜楽座・雲井座・佐野茂・蔦座 他
例えば、
羽衣座は関外の大門外(現在の関内駅前国道16号線の並び、東京ガス営業所辺り、羽衣町バス停近く)にありましたが1915年(大正4年)に廃止されます。
No18 1月18日(水) 三度あることは四度ある
No.293 10月19日(金)Citizen of No Country
新富亭
No.109 4月18日 品川の名人濱に死す
(教会も情報発信基地)
芝居小屋はビジネスですが、
政治運動や社会運動のプロパガンダに
教会も多く利用されました。教会というと保守的に感じますが
どっこい かなり過激な講演会も開催されています。
→今年中に在る程度まとめてみたいと思っています。
■羽仁もと子(46)横浜に行き、尾上町の指路協会で開かれた、日本基督教会婦人伝導会社主催の基督教婦人大講演会で、「十字架を負う者は誰」を講演する。植村正久も「十字架周辺の婦人」を講演する。
■島田三郎(68)横浜に行き、尾上町の指路教会で開かれた、横浜文化学会主催第一回講演会で、「内外の形勢とその政治策」を講演する。
■荒畑寒村(17)横浜の海岸教会牧師館で横浜平民結社
(7月25日結成)の茶話会を開く。
■武者小路実篤(36)横浜に行き、蓬莱町のメソジスト教会で開かれた「新しき村」横浜支部の講演会で講演する。
教会はコンサート会場にもなっています。
No.332 11月27日(火)おやかた、濱で一振り。
日本のオーケストラにとってパイオニア的存在といわれた音楽家、近衞 秀麿が1926年(大正15年)11月27日の今日、横浜市の指路教会で新交響楽団の指揮を執りました。
今日はランダムに
横浜の「集会場」を紹介しました。
おいおい この中から 時代の現場となった 物語を紹介していきたいと思います。
No.395 水中地下街
今日は地下街の
「ザ・ダイヤモンド」について紹介します。
(地下街は商店街)
地下街は商店街の一つで新しいカタチです。
日本国内には消防白書(H23年版)では75カ所にあるそうです。
私は“意外と少ない”印象を持ちました。
地下街はコストがかかり導線の太いエリア
都市部(駅に接続して)作られるため
利用機会が多いためかもしれません。
神奈川県内、もちろん横浜市内で最も広い地下街は
横浜市西区の横浜駅西口にある「ザ・ダイヤモンド」です。
http://www.thediamond.gr.jp
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かなり前の撮影です。 |
横浜駅西口広場の地下部分にあり、バス乗り場に直結しています。地下4階まであり2〜4階は駐車場となっています。
1964年(昭和39年)12月1日 に「ダイヤモンド地下街」として開業しました。
その後、
1974年(昭和49年)11月 、1980年(昭和55年)9月に一部増築(増床)しますが、近隣エリア(川崎アゼリア)と横浜駅東口(ポルタ)開発に対抗する為に
1984年(昭和59年)9月「ダイヤモンド地下街」「ザ・ダイヤモンド」に改称しリニューアルします。
(横浜駅西口)
横浜駅西口界隈の地下街は「横浜駅開発」の歴史と共に歩んできました。
No.87 3月27日 横浜駅のヘソが変わる
No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)
(地下街ベスト10)
1位 大阪府大阪市「クリスタ長堀」1997年5月開業81,765平米
2位 東京都中央区「八重洲地下街」1965年6月開業73,253平米
3位 神奈川県川崎市「川崎アゼリア」1986年10月開業56,704平米
4位 愛知県名古屋市「セントラルパーク地下街」1978年11月開業56,370平米
5位 大阪府大阪市「ディアモール大阪」1995年10月開業42,977平米
6位 神奈川県横浜市「横浜ポルタ」1980年11月開業39,133平米
7位 神奈川県横浜市「ザ・ダイヤモンド」1964年12月開業38,816平米
8位 東京都新宿区「新宿サブナード」1973年9月開業38,364平米
9位 大阪府大阪市「なんばウォーク」1970年3月開業36,475平米
10位 福岡県福岡市「天神地下街」1976年9月開業35,250平米
ベストテンの中で、1960年代に開業した地下街は
第2位の「八重洲地下街」1965年6月開業
第7位の「ザ・ダイヤモンド」1964年12月開業
です。
開業当時「ダイヤモンド地下街」は
延べ床面積比較で日本一のスケールを誇りました。
ベストテンの中に、神奈川県の地下街が3カ所、
しかも横浜駅東西に二つあるのは、このエリアの商業集積度を表しています。
地下街の向こうには「百貨店」「ショッピングビル」の地下商店街が繋がっていますので、なお広く感じるのかもしれません。
※日本の法規では、道路・駅前広場・都市公園などの公共用地の地下に店舗・通路があるものを地下街、店舗部分が民有地で通路部分が公共用地の地下のものを準地下街、店舗・通路とも民有地の地下のものを地下階という。また、百貨店の地下階にある食品売り場を中心とした商店街をデパ地下と呼ぶこともある。
横浜「ザ・ダイヤモンド」の特徴は、厳しい地盤環境に
60年代という地下街ラッシュ初期に作られた地下街だということではないでしょうか。極端な表現をすれば、
四方水に囲まれている沼地に街を埋め込んだ
水中商店街といっても過言ではありません。
(地下街事故)
地下街は万全な防災体制をとっているはずですが、
事故は起っています。
1965年6月開業の全国第2位「八重洲地下街」が
1970年11月27日に浸水事故を起こしました。
1980年8月16日の静岡で起きた爆発事故も大きな事故でした。
「ザ・ダイヤモンド」を含め、想定外の水害事故が起っている昨今
横浜市市内の地下街もさらなる 防災体制の充実を望みます。
(歴史発見)
昔のフィルムを探していたら
1984年(昭和59年)9月
「ザ・ダイヤモンド」開業の記録が出てきました。
ダイヤモンド地下街が20周年でリニューアルされた時です。
この時に、「ザ・ダイヤモンド」入口に
「魁の像」が建てられ除幕式が行われましたが、
現在は“じゃまもの”扱いされているようで 残念です。
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現在 |
この時に、テレビモニターを使った
新しいメディア(ニューメディアと言い尽くされました)も登場
それから
まもなく30周年を迎える「ザ・ダイヤモンド」
もう一皮 剥けて 古くも新しい 地下空間を
創造してください。期待しています。
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横浜西口雑景 左の青い塔は伊東 豊雄作品です。 |
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横浜西口雑景 |
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横浜西口雑景 |
No.394 フラワー全開!
東横フラワー緑道をご存知ですか?
横浜市神奈川区広台太田町から反町3丁目付近と
神奈川区台町を結ぶ約1.4kmの歩行者専用道です。
今日はこの「緑道(公園)」を紹介しましょう。
(東横線の地下化)
1932年(昭和7年)以来、桜木町と渋谷を結んできた東急東横線は「みなとみらい21線」開業に伴い一部区間が廃止され「東白楽駅〜横浜駅間」が地下化されました。
その内の地下化によって生まれた跡地と鉄道構造物(トンネルと高架橋等)の再活用事業として完成したのが「東横フラワー緑道」です。
(貴重な都心部の空間)
東急東横線は惜しまれながらも2004年(平成16年)1月31日に「桜木町駅」が廃止されました。同時並行して、地下化工事が行われ翌日の2月1日に「みなとみらい21線」と接続し「元町・中華街」まで延伸することになりました。残念な思いもありますが、これによって、貴重な都心部の公共空間を得ることができました。
No.31 1月31日 さよなら路線廃止に沢山のファン
(新しい道)
2011年(平成23年)4月16日に開通した「東横フラワー緑道」は、様々な恩恵を地域の人々にもたらしました。
東横線の難所?だった「高島山トンネル」が遊歩道になったことで横浜駅がぐっと近くなり、逆に横浜駅から高島山近辺へのアクセスが格段に良くなりました。
開通前は、反町駅周辺から横浜駅に徒歩で移動する場合、神奈川区内有数の“高島山丘陵”を越えるか、大きく迂回する必要がありました。
「東横フラワー緑道」と名付けられ約1.4 キロメートルの鉄道用地再整備でこの地区の回遊度が一気に高まりました。
このエリアは、開港の歴史資産が凝縮されていますから
新たな「観光資源」として横浜駅北方向が楽しくなります。
(新太田町駅)
ちょっと余談になりますが
「東横フラワー緑道」の真ん中あたり、現在の東白楽駅と反町駅の間に駅がありました。「新太田町駅」です。
1926年(大正15年)路線の開業と同時に開設され1946年(昭和21年)5月31日に廃止されますが、戦後一時期臨時駅として復活しました。
神奈川公園で開催された「日本貿易博覧会」のために臨時駅「博覧会場前駅」(1949年(昭和24年)3月15日 〜6月15日)として利用されました。
No.75 3月15日 JAPAN FOREIGN TRADE FAIR
「東横フラワー緑道」整備に伴い遺構が無くなってしまったことは残念ですが、記念碑が残されています。今後、東急東横線の歴史と、神奈川区・横浜復興の歴史とともに語り継ぐ空間といえるでしょう。
(歩く楽しさ)
街は歩く楽しさが大切です。
ビジネスや買物で賑わう「横浜駅」ですが、
少し裾野が広がることで横浜駅の懐が深くなり神奈川県のヘソ、横浜市の交通網の要の“文化度”があがるのではないでしょうか。
ぜひ、暖かくなったら白楽駅か横浜駅あたりから、この「東横フラワー緑道」を通り、開港の新しい歴史道をぶらりされることをお勧めします。
※観光キーワード
高島嘉右衛門と高島山
本覚寺とアメリカ領事館
戦災復興と反町公園
【番外編】 1月29日謎解き都橋
始めっから宣言しておきます。
大したことではありません。
今日は一枚の昔の地図を眺めていたら
不思議なことに気がつきました。
ちょっと謎解きしてみました。
何か変じゃありませんか?
通りと橋の位置がずれています。
一つ上流の宮川橋の向きも変ですね。
単に作成上のミスなんでしょうか?
このマップは昭和四年八月の作成です。
それではこの時期に近い他の地図と比較してみよう
ということで昭和六年の地図が横浜市HPにありましたので
比較してみます。
この地図では、
もう一つ都橋脇に小さな橋がありますね。
この小さな橋が関係しているのでは?
真中の白い建物が交番、その左横に小さな橋の跡が現在も残っています。水道管の橋かなにかでしょうか、地図に掲載されている位置と一致します。
この地図では、湘南電気鉄道(京急の横浜・横須賀区間)桜木町駅直結予定の敷地がはっきり残っていますね。
逆に前掲のマップは湘南電気鉄道用地が途中までしかありません。
この二種類のマップの発表時期の差は2年ですが
測量時期はもう少し時間の開きがあったのかもしれません。
震災復興関係の資料を見ると、都橋は震災で倒壊し木製の仮橋が架けられたとあります。その後、本架橋工事が始まります。
ここの交番も古いんですね、戦前からここにあります。震災の時に避難し助かった場所でもあるようですね。
ちょっと調べてみるだけで
小さな橋にも様々なドラマがあるようですね。
(2016年10月更新)
No.391 謎解き馬車道
昨年の1月25日のブログで「No.25 1月25日 馬車道の華」と題して、
横浜 馬車道を紹介しました。
今日は、馬車道本通から脇に入った小さな通りを紹介しましょう。
(横浜ツウの通)
馬車道の面白さは、本通りは勿論ですが、クロスする通りと裏通りに魅惑的なお店が多くあるのが“良いですね”
馬車道あたりを自在に飲み歩く方は、本当の横浜ツウかもしれません。
紹介したくない良い店も多くあります。
バー、ジャズ、焼鳥、ミシュラン、串焼き、小料理、うなぎ
キリがありません。
お勧めできる!超有名どころを紹介します
食事なら
「勝烈庵」棟方志功でも有名!
http://www.katsuretsuan.co.jp
スイーツとティータイムには
「馬車道十番館」
http://www.yokohama-jyubankan.co.jp/basyamichi/
意外?「半どん」
http://www.yokohama-jyubankan.co.jp/handon/index.html
ビールと食事なら
「驛の食卓」(横浜ビール)
http://www.umaya.com
※他は狭いエリアです。じっくり探してください。
いい店50軒は下りません。
馬車道関連ブログ
No.25 1月25日 馬車道の華
(プロローグ)
では馬車道を紹介?
http://ja.wikipedia.org/wiki/馬車道_(横浜市)
読んでください。なんと乱暴な。
でも簡潔にまとまってますので、馬車道歩きにはこの位の知識は頭に入れておくと
酒も食事も、街歩きも楽しくなります。
wikiに無い馬車道情報を少し追加しておきます。
(馬車道の登場)
馬車道が登場したのは、横浜の大火がキッカケでした。
1866年11月26日(慶応2年10月)に末広町の辺りで火災が発生し、折の大風に煽られ大火となります。これが俗に言う「豚屋火事」と表記されてきましたが、近年→特定の職業や人名ではなく時代や場所で「慶応の大火」と表記します。
この火災で日本人街の大半、外国人居留地の一部を焼失します。当時、横浜公園あたりは大遊郭ゾーンで、その数は15軒、当時331人の遊女が勤務していたと伝わっています。この遊郭ゾーンは、この火事で完全焼失します。
この火災を重く見た外国人が、木造建築の危険性を指摘し、防火ゾーンや道路等々のルールを日本に求め、慶応2年の12月29日に「横浜居留地改造及び競馬場墓地等約書」そういう約書が外国との間に締結されます。
この約書が日本の近代都市経営の始まりと言われています。大火後の街づくりが始まり、現在の関内地区の原型が出来上がります。海岸通から吉田町まで幅員60フィートに拡張された道路を計画し、1867年(慶応3年3月)に馬車道が完成します。
この道路を外国人たちの珍しい馬車が行き交い、1869年(明治2年)には吉田橋わき、現在の真砂町4丁目に、成駒屋(なりこまや)と称して、乗り合い馬車の発着所が開業するなど交通の要衝にもなります。
横浜、東京、日本橋間を4時間で結んだそうです。
最盛期には御者が25人、馬が60頭で営業しますが、明治5年の鉄道開通で廃業することになります。
これが乗り合い馬車の始め、馬車道が一番“馬車道らしい”時代だったかも。
当時は、外国人客が波止場(新港埠頭)、センターピアーから萬国橋を通ってまっすぐに来られるので、当時は海岸からの縦軸(馬車道)と、横軸(ウェルカム弁天通)が横浜一の高級商店街でした。
鬼瓦を葺いた2階建て黒塗りの土蔵造りが見事に家並みをそろえて、街並みの中央を貫く砂利道の馬車道の両側には柳の木が植えられ、夜にはガス灯に明かりがつき、また馬車の鉄の車輪からも火花が出て、夕闇迫るころはなかなか風流な街の情景がさらに人を引き寄せました。
明治元年、下岡蓮杖が太田町に写真館を開き、町田房造が5丁目に氷水店を開業し「アイスクリン」が登場した通りでもあります。
ちょっと長くなってしまいました。
(裏辻の物語)
さて、裏通り物語ですが いろいろあります。
恐らく、馬車道と裏通り関係で数冊の本が作れるのではないでしょうか?
今日は「馬車道六道」を紹介しましょう。
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地図上は7叉路になってますが。日本では七より六の方が深い! |
馬車道の一本裏通りに、「六道の辻」という一角があります。
その名の通り、当時六差路(正確には七)がありこの名が付いたと思われます。
「六道の辻」で有名なのは京都の古刹、「六道珍皇寺」の門前です。
毎年8月におこなわれる京都の六道詣りは有名です。
六道というのは仏教用語で、冥界と現界との分かれ道を現し、
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上への分かれ道が「六道の辻」にあたります。
ある意味で彼岸とでもいいましょうか、世界の分かれ目の意味合いもあったのではないでしょうか。
六道の辻は現世とあの世の境目、人はそこを通ってまた生まれ変わる。
堅実?に生きる日常から離れ、
酒と宵闇が非日常の空間を作り出す
別な角度からは、居留地(外国)と日本人街の境目、関内と関外の境目あたり
という意味でもこの馬車道裏が「六道の辻」というのは偶然でしょうか。
もう一つ、因縁があります。天然理心流の剣豪、近藤勇が率いる「新選組」が会津京都守護職の信任も厚く「誠」の旗風堂々と一剣をもって王城の治安を守り、特に池田屋事変で勇名をとどろかせた話は良く知られています。
そのメンバーの一人に川村三郎という人物が居ました。
新撰組では「近藤 芳助」と名乗っていました。
22歳で新選組に入隊し階級は伍長でした。彼と馬車道には細い糸の関係があります。
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/essay/pdf/asadayasuo.pdf
これによると
元新撰組伍長は、戦い破れ官軍に捕まり静岡藩預かりとなった後、京都へ送られて取り調べの後1870年(明治3年)に釈放されます。
文明開化の横浜市南大田町に暮らし代言士(後の弁護士)を開業します。
明治二十四年十二月刊行の交詢社「第二版日本紳士録」には、土地家屋賃貸業、(株)横浜四品取引所、(株)横浜株式米穀取引所の各理事、横浜商業銀行および横浜時事新報の各役員を務め、また横浜三争件の一つ共有物問題の追及で名をあげたと記されています。
1887年(明治20年)当時少数派の自由党に籍を置き、民権家として活躍する一方神奈川県議会の横浜区補欠選挙に初当選し、県会議員四期、横浜市会議員五期を歴任した人物でもあります。
彼は高島嘉右衛門とも親交が厚く、
高島は「ガス事業(灯)」、
川村は「水道先生」のあだ名を持ち水道事業で活躍したそうです。
勝烈庵さんの前には水道局の獅子栓が設置されています。
現在「六道の辻の記念碑」が建っていますが、すこし“移動”した位置になっています。
碑のある角にある勝烈庵の前には「ハマの街灯点火の地」の碑があり、この川村氏の子孫が関内六道の辻近くに「川村歯科医院」を開いていました。
(写真検索中 後日アップ予定)
現在は移転されたのでしょうか、見当たりません。
(夜な夜な馬車道)
昼間のしがらみを忘れ!
天道を目指し 地獄に落ちる 馬車道六道の辻あたり
最近“渡って”いませんので 黄泉渡りを再会しますか。
(新撰組と六道)
この辺りの六叉路を自然に「六道の辻」と読んだことで「ろくどうのつじ」となったのが命名の理由とのことですが、
不思議なことに新撰組と六道は関係深いのです。
栃木県宇都宮市に戊辰戦争の戦死者を弔う神社があり
この辺りを「六道の辻」と呼びます。
※行ってきました
六道之辻(戊辰之役戦死墓)
宇都宮城
※宇都宮は慶応4年4月(1868年5月)には戊辰戦争の戦地となり、宇都宮城の建造物は藩校修道館などを残して宇都宮の町並み共々焼失した(宇都宮戦争)。
この時、宇都宮城下戸数約3,000戸のうち8割以上の約2,000数百戸が焼失し、また寺町群も48寺院が全半焼したと伝えられる。