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【幕末明治の横浜】」カテゴリーアーカイブ

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No.310 11月5日(月)倉庫業は近代経済の秤

近代日本を象徴する企業の一つが「倉庫業」で近代経済のバロメーター(秤)です。
特に貿易港のある街には明治以降新しい倉庫業が起業されていきます。
1897年(明治30年)11月5日高島町にある中央倉庫株式会社が開業、私設保税倉庫の営業を始めます。(横浜税関百二十年史)

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現在倉庫業は倉庫業法で「倉庫業を営もうとする者は、国土交通大臣の行う登録を受けなければならない」と規定されています。倉庫業の定義は
http://www.mlit.go.jp/seisakutokatsu/freight/butsuryu05100.html
でご覧ください。
(倉庫業が意外な背景)
近代倉庫業が登場した背景には廃藩置県があります。
江戸時代、全国の藩は藩内の商品流通の保管という役割も担っていました。幕藩体制の崩壊で、藩屋敷や蔵のある藩邸の接収等でこれらの保管場所を失ってしまいます。そこで、官設倉庫もできますが民間で独自に倉庫業が明治時代に誕生します。横浜中央倉庫が開業した1897年(明治30年)には全国で110社の倉庫業が営業していました。
特に国際港のある街には前に述べた“江戸時代の蔵屋敷”とはことなる「近代保税倉庫」として倉庫業がスタートします。
全国に現在も観光資源として残る「赤レンガ倉庫」はその産業遺産です。
横浜赤レンガ倉庫の正式名称は?

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「新港埠頭保税倉庫」です。1号館と2号館が残っていますが、2号館の方が古く1911年(明治44年)、1号館は1913年(大正2年)に竣工しました。

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No.205 7月23日(月)駅を降りたら、国際港

No.103 4月12日「新港埠頭保税倉庫」から「赤レンガ」へ

(明治から大正へ)
明治時代、国際港横浜の大手倉庫業は
冒頭に紹介した中央倉庫株式会社(緑町)が1895年(明治28年)に創業し翌年の1897年(明治30年)11月5日に高島町で倉庫業を開始します。規模は28,099坪で、港に面した堀割をもった本格的な港湾倉庫でした。
他には
株式会社横浜貿易倉庫(堺町) 明治24年開業 1,400坪
WMストロン株式会社横浜支店 明治30年
合名会社横浜商品倉庫(海岸通)明治38年開業 規模不明
横浜倉庫株式会社(神奈川)明治39年
その後大正に入って三菱。三井を始めとする倉庫企業が雪崩を打って横浜港エリアに進出してきます。

(中央倉庫のその後)
実は、中央倉庫株式会社は1895年(明治25年)に創業した時点から「中央倉庫株式会社上屋」として免税品及び輸入砂糖・鉄類を陸揚・蔵置業を営んでいました。
横浜における(私設上屋のはじまり)と言われていますが、明治30年に法律ができて倉庫業が明確になった時点で新しく7月に免許申請し11月5日に高島町に近代倉庫を建て営業を開始します。
その後、1910年(明治43年)に中央倉庫株式会社は横浜船渠株式会社と合併します。

今も残る横浜船渠のマーク(ドッグヤードガーデン)

この横浜船渠株式会社も1935年(昭和10年)三菱重工業に吸収され、三菱重工業株式会社横浜船渠となります。

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三菱G変遷史

ここから氷川丸 、秩父丸(鎌倉丸)他数々の船が誕生しました。
No.283 10月9日 (火)三角菱のちから

No.38 2月7日 鎌倉丸をめぐる4つの物語
No.116 4月25日 紺地煙突に二引のファンネルマーク

No.308 11月3日(土)対米初の特許は横浜花火

TPPで知的財産権のことが議論されていますが、
対米初の特許は「横浜花火」でした。
江戸時代に開花する花火は明治に入り“彩色光剤”が外国から輸入されると江戸の伝統と開化の技術が融合し世界一といわれる日本花火の基礎ができ上がります。
1877年(明治10年)11月3日(土)
太田町の「平山甚太」が“外国人居留民”を意識して横浜公園で花火を300発打ち上げます。
これが横浜の名物となり海外進出にまで発展します。

花火の歴史は古くから伝わっていますが、
現代花火の基礎ができ上がる時期は明治時代です。
特に外国との接点が強かった横浜では「花火需要」が高かったようです。
横浜太田町四丁目で花火師として活躍した平山甚太は、居留地の外国人からも祝日の興業用に注文が殺到します。
平山甚太は、神奈川県権令・野村靖に宛て書簡を送っています。
「横浜居留の英国商人から注文を受けて若干数の煙火を渡したら英国で模倣され、輸出できなくなって困っている」という内容です。
当時なら逆のケースが良くありそうですが、
日本の技術を英国商人が真似するので困ると主張していることには驚きます。

(知的財産権)
平山甚太は英国政府に対し
英国での煙火の専売権利(特許権)申請ができないかどうかと
1877年(明治10年)11月、明治政府に問い合わせています。
同時期に横浜公園(彼我公園)で花火を300発打ち上げた訳ですから、
英国と明治政府へのデモンストレーションだったのではないでしょうか。
当日の様子は

「天長節の祝日に際し、太田町四丁目(旧豊橋藩)平山甚太、横浜公園内に於て大煙火を施行す、当日午後、内外の観客、園の内外に群集す、同三時頃より夜半に至る迄大小三百余を打揚ぐ、昼の煙火中、著しきは双竜上下して玉を争ふが如き、錦鱗の遊泳、白鷺の群飛、大国旗・達摩等にして、其奇巧妙術、観者感賞せざるはなし、夜は其数更に多く、紅雨連星青珠又赤珠を吐くが如き、其光彩絶妙枚挙に遑あらず、内外の観客喝采の声湧くが如く、為めに山壑も拆くる計なり、爾来、平山煙火の名声四方に伝播し、陸続注文あり、因て内田町に煙火製造場を建築し、(後に吉田新田へ移す)盛に之を製造し、海外に販路を開くに至れり」
と「横浜沿革史」に記録されています。

英国領事館からの返事は
煙火(花火)は英国専売法(Statute of Monopolies)でいうところの「新遊戯」の類に属しますが、英国内では「新遊戯」は専売特許の対象にはならないので
特許申請は難しいということでした。
平山は英国への特許申請を断念し、
毎年アメリカ独立記念日にグランドホテル前の会場で
花火打ち上げの注文がある米国への「特許権取得」を目指します。
1881年(明治14年)に平山は米国ニューヨーク・ボストン・フィラデルフィア等の諸都市に職工5人を1年間派遣し技術の吸収と実際に打ち上げ米国マーケットの調査に努めます。1882年(明治15年)に日本国内で専門家に依頼し横浜の米国領事の手を経て米国政府に対し花火の「専売免許」出願します。

以下登録までの経過です。
1883年(明治16年)3月15日 米国で特許が出願されます。
 4月17日 拒絶の理由が通知されます。
 公的申請書の表記場の不備だと思います。
 4月24日 手続の補正を行います
 6月25日 手続補正(宣誓書再提出)
 6月29日 特許査定通知
 7月19日 登録料納付
 8月7日 に特許が正式に登録されます。

特許内容は
■取得者は花火師・平山甚太(1840年〜1900年)。
■特許取得当時は横浜太田町(現在の横浜市中区太田町)在住。
■特許日は1883年(明治16年)8月7日。
■特許の対象となった発明の名前は「昼花火(Daylight Fireworks)」
■「昼花火」:花火玉の外皮の中に火薬の他に軽くて柔らかい素材で作った人形や鳥形などを詰めておき、打ち上げた際に外皮が割れて中から人形などが飛び出して、フワリフワリと空中を漂う花火。
この証明書の写しが、
2010年の横浜で開催されたAPECの時にオバマ大統領が管首相にプレゼントしました。

特許となった「昼花火」とは字の如く昼間の花火のことで、打上った花火から空に浮かぶ人形や金魚、風船、国旗などが舞って落下してくる様が特許となったのポイントだそうです。


http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/library/central/hirayama.html

日米桜寄贈100周年事業の「昼花火」
2012年3月25日(日)
日本政府により西ポトマック公園で
日米桜寄贈100周年事業イベントの一環として全米桜祭り開会式に先立ち、
「日米桜寄贈100周年事業」における日本文化発信事業の一環として
1883年に平山甚太が日本人で初めて米国での特許を取得した「昼花火」の復刻版花火が約7分間にわたり打ち上げられ約150人の招待客の喝采を受けます。
花火文化も日米交流の架け橋になっていたのです。

平山甚太との意外な関係

No.419 落胆の身を江湖にさらす

(11月3日は良いネタばかり)
●1880年(明治13年)
「君ケ代」の曲譜が制定された日です。
※国歌「君が代」発祥の地は幾つかありますが横浜が有力ですね。

●1976年(昭和51年)
馬車道通りが完成し記念の「馬車道まつり」が開催されました。
商店街のストリートデザインの草分けです。この馬車道モール化から、伊勢佐木、元町へと商店街の空間デザインが実現していきます。

●1983年(昭和58年)
三菱重工横浜造船所跡地が「みなとみらい21」と命名されフェスティバルが開催されました。

●1986年(昭和61年)
戸塚区が分区し栄区と泉区、そして新戸塚区が誕生しました。

栄区マーク
泉区マーク

●1993年(平成5年)
エコライフチケット制度が開始します。(当初毎週水曜日使用)
現在はファミリー環境1日乗車券に
大気汚染の防止を考え、マイカーにかわり市営バスをご利用いただけるよう、同居のご家族5人までご乗車になれる市営バス1日乗車券です。
発売額 1,000円
土・日・祝日、8月12日〜8月16日、12月25日〜1月7日
http://www.city.yokohama.lg.jp/koutuu/kyoutuu/ichinichi.html#sub1

●1998年(平成10年)
日本一になった横浜ベイスターズの優勝パレードが行われ、交通局提供のオープンバスが人気となりました。

No.307 11月2日(金)日本波止場に万国橋

橋は新しい世界を繋ぐ道です。
橋梁設計は土木の中でも花形です。
橋ほど個性的な設計が自由に許される「公共事業」はありません。
横浜市内には約1,700の橋があります。
その中でも撮影ポイントとして人気の高いビュースポットが「万国橋」です。

万国橋からみなとみらい
万国橋から横浜税関方向

1940年(昭和15年)11月2日の今日、
新港埠頭を繋ぐ横浜税関管轄の万国橋が改装され渡れるようになりました。
「万国橋」は“かながわの橋100選”に選ばれたコンクリートアーチ橋で、中区海岸通四・五丁目と新港一・二丁目を結んでいます。橋上から見る“みなとみらいエリア”はこのエリアを映し出す絶好のビューポイントとして人気があります。
この万国橋、外国航路を利用する際の
重要な橋でしたので国税庁(横浜税関)の管轄でした。
かつて、開港場には三つの波止場がありました。

「仏蘭西」「英吉利」そして国内航路の拠点として栄えた「日本波止場」です。
日本波止場から居留地(関内)を通り、関所(吉田橋)から(関外)に抜ける道が「馬車道」です。ところが、これらの「波止場」は吃水が浅く大型船を係留できませんでした。多くの外国船は沖に停泊し小型船で港まで運ばれてきました。

「番外編」10月17日こら!ちゃんと仕事せい!

明治政府の緊急課題は、横浜に国際級の「埠頭」を造ることでした。

日本波止場時代に新港埠頭を重ねました

1906年(明治39年)に完成したのが「新港埠頭」です。

最初は「万国橋」が唯一の連絡橋でした。
鉄道が埠頭まで開通します
昭和初期の万国橋付近

この新港埠頭を結ぶ橋が国際港の窓口「万国橋」でした。

light資料絵葉書015017ここで開港50年式典も行われます。
鉄のアーチを囲って<城>のハリボテを作っています。
light201504281万国橋6その後、新港橋ができ、鉄道が開通します。
横浜が誇る国際港「新港埠頭」には現在の成田空港のように鉄道で乗り付けることができたのです。
No.2057月23日(月)駅を降りたら、国際港

No.241 8月28日(火)駅を降りたら、国際港 復活(その2)

No.62 3月2日 (金) みらいと歴史をつなぐ道

その後、旅客船は新しくできた大桟橋に移りますが、
新港埠頭は国際貿易の舞台として活躍します。

万国橋も車両が多くするようになり、
強度を高くした新橋に
1940年(昭和15年)改装され11月2日の今日開通することになります。

(その他の11月2日)
1973年昭和48年中央卸売市場南部市場が金沢区鳥浜町(根岸湾ハ地区)に完成しました。
http://www.city.yokohama.lg.jp/keizai/happyou/h22/220726.html
http://www.s-nakaorosi.or.jp
http://www.yokohama-smp.com/event.html

【番外編】横浜の橋物語
横浜市内に1,700橋がありますが橋の数が一番多い区はどこでしょうか?
一番橋の少ない区は?
答えは番外編で。

【横浜の橋】No.12 万国橋(新港埠頭)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8519

No.301 10月27日(土)三つの日清

横浜生まれの創業者、横浜の基幹工場、横浜のミュージアム。
ここに三つの「日清」という企業を横浜というキーワードで結ぶことができます。
日清製粉、日清製油(現NISSHIN oillio)、日清食品
皆現在の日本食品業界を牽引するビッグカンパニーですが三社は全く別の会社です。1900年(明治33年)10月27日(土)の今日は三つの日清の一つ「日清製粉株式会社」が創業した日です。

大正初年の群馬県館林


「日清製粉株式会社」
三つの日清の中で最初に群馬県館林町で創業します。創業時の社名は「館林製粉株式会社」で創業者は横浜生まれの正田貞一郎です。
正田貞一郎は、群馬出身の横濱商人 正田作次郎の長男として1870年3月29日(明治3年2月28日)に生まれます。
父、正田作次郎は当時の岸田吟香らと共にヘボンの下で英語を学び“目薬”の販売にも関わりますが、若くして亡くなり正田貞一郎は郷里群馬に戻り育ちます。

1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者

1900年(明治33年)に「館林製粉株式会社」を設立し、その後、1908年(明治41年) 横浜に工場建設中の「日清製粉株式会社」を合併し、社名を「日清製粉株式会社」と改め本社を「東京市日本橋区小網町2丁目11番地」に移転します。「日清製粉株式会社」の名は横浜が起源です。(知らなかったでしょう!)
http://www.nisshin.com

(日清精油)現NISSHIN oillio


1907年(明治40年)に明治経済界の重鎮、大倉喜八郎と横浜高島町に本店を置く穀物輸入商社「松下久治郎商店」の松下久治郎らにより「日清豆粕製造株式会社」が設立されます。

 

その後、
1918年(大正7年)に「日清製油株式会社」と商号を変更し多角化を推進します。戦前戦後を通してリーディングカンパニーとして食油業界を牽引します。
2002年(平成14年)日清オイリオ(NISSHIN oillio)に変更し現在に至ります。磯子にある横浜工場は「日清オイリオ」のメイン工場として重要な生産拠点となっています。また、地域企業として高い評価の地域貢献活動も継続的に行っています。
http://www.nisshin-oillio.com

(日清食品)

1948年(昭和23年)9月4日大阪に創業したインスタントラーメンを中心とした世界最大級の食品加工会社です。カップヌードルといえば知らない人はいません。
1965年(昭和40年)に横浜工場を稼働し、関東の拠点となります。(現在閉鎖)
その後、国内は元より、世界カップヌードルに成長していきます。一方で横浜ではラーメン博物館への支援など地域支援も積極的に行ってきました。


そして、2011年(平成23年)3月11日にファン待望の関東圏に「カップヌードルミュージアム」がオープンし連日老若男女問わず多くのファンが訪れています。
http://www.nissinfoods.co.jp
http://www.cupnoodles-museum.jp

(余談)
10月27日といえば、1984年(昭和59年)10月27日に横浜市大倉山記念館が開館します。


大倉山記念館は大倉精神文化研究所の本館として竣工されたものです。
創設者は製紙業として成功した大倉邦彦。同じ大倉姓の日清製粉創設「大倉喜八郎」とは全く関係ありませんが、共に日本実業界の重鎮として多方面に活躍します。
大倉山記念館は現在改装が行われています。


http://o-kurayama.com

No.294 10月20日(土)防災道路を造れ!

横浜の災害史に登場する最初の事件は
1866年11月26日(慶応2年10月20日)(月)の
今日起った関内の大火“豚屋火事”です。
近年では「慶応の大火」と表記することが多くなってきましたが
ここでは「豚屋火事」を使用しますのでご了承ください。
このエピソードを書き始める直前、
困った事態が発生したため
ネットや自宅の資料をひっくり返す大騒ぎになってしまいました。

(記述が異なる)
今日のテーマは簡単に終わるだろうと思っていましたが、
深夜に基礎資料の確認をするのは想定外でした。
本来書きたかった「日本大通」のエピソードは簡単にしています。
ブラントンについては12月に書きます。

No.362 12月27日(木)彼も我も公園に集う

本題へ
この関内大火“豚屋火事”は手元の資料では、
慶応二年十月二十日と表記されていたので、
そのまま気にせず資料を整理していました。
ところが

さあ本番でと確認のためネットでWikiで調べたところ、
http://ja.wikipedia.org/wiki/豚屋火事
「旧暦の慶応2年10月21日午前8時頃、
港崎遊郭の南(現・神奈川県横浜市中区末広町)にあった豚肉屋鉄五郎宅から出火。」
関連データの「横浜公園」にもWikiでは
http://ja.wikipedia.org/wiki/横浜公園
「横浜港が開港された時代、関内であったこの場所には当時港崎遊郭があった。しかし1866年11月26日(慶応2年10月21日)の大火「豚屋火事」によって焼失」

と「慶応2年10月21日」説が記述されていました。他のネット記事でもこの「慶応2年10月21日」説が多く出現しました。私が確認したブラントンの本の間違いか?
手当たり次第に年表や記述を調べたところ、横浜市の中区史含め
1866年11月26日(慶応2年10月20日)横浜慶応の大火「豚屋火事」が有力のようです。
というかWikiは明らかに誤記したのではないでしょうか。

当時の資料からも「慶応二丙寅年十月二十辰の中刻」とありますからまず20日で間違いないと考えます。

(大火の概要)
「慶応二丙寅年十月二十辰の中刻」ですから午前九時頃です。
末広町の豚肉業を営んでいた鉄五郎方より出火した火事が折からの強風で運上所・改所・官舎など日本人街の3分の2、英一番館など居留地の4分の1を焼失しします。
この火事で写真家ベアトのスタジオと資材が焼失するなど、横浜開港場に深刻な被害をもたらします。

(開港場再起の条件)
居留地の外国人は、この大火によって木造住宅から煉瓦住宅に変える動きが加速します。居留地の日本人街に対しては、「彼我ノ境界ナルヲ以テ塗家ニアラサレハ建築スルヲ許サス」として防火帯を要求してできた通りが現在の日本大通りです。ただ、日本大通がすぐできた訳ではありません。
居留地の外国人達は第3回目地所規則変更を求めます。
「横浜居留地改造及び競馬場・墓地等約書」という
(かなり大掛かりなインフラ整備)要求を幕府に提出します。
大火から一ヶ月後の11月23日に締結され、幕府はインフラ整備に入りますが、慶応二年といえばもうすでに「徳川幕府」は“問責決議”から不信任案議決までいってましたから完全に履行することが出来ず新政権に引き継がれます。

明治になってから再度「横浜居留地改造及び競馬場・墓地等約書」の履行を求める要求が出され、山手公園、横浜公園、根岸競馬場、外国人墓地含め居留地の整備が行われました。

この時に中央車道60フィート、歩道・植樹地帯左右各30フイートの近代的な道路を設計したのが英国人技術者ブラントン(Richard Henry Brunton)です。彼はそもそも灯台づくりのために「お雇い外国人」として日本にやってきましたが横浜の都市計画に関わり多くの功績を残します。美しい「日本大通り」は防災道路だったのです。

No.292 10月18日(木)横浜初拳闘会

1974年(昭和49年)10月18日(金)の今日、
横浜に一人の世界チャンピオンが誕生した瞬間でした。
WBA世界フライ級王座に5回挑戦し、
王座を獲得した横浜出身で横浜のボクシングジム所属の花形進(はながたすすむ)です。
ボクシングは、
あのペリー提督が開港場で披露したことに始まる
横浜に由縁のあるスポーツです。
今日はこの辺から横浜を紹介していきましょう。

【R1】師弟世界チャンピオン

ボクサー花形進は62戦目にしてWBA世界フライ級王座に就いた遅咲きボクサーでした。
一度聞いたら忘れない「花形」の名は、
当時の人気漫画「巨人の星」に登場する花形満とも重なって華やかに取り上げられましたが、花形進は地味なスタイルでKO勝ちは41勝中わずか7つしかない耐え忍ぶタイプでした。
翌年4月の初防衛戦でフィリピンのエルビト・サラバリアに15ラウンド判定負けを喫してしまいます。
(判定が不公平と会場が騒然としました)
花形進、半年の世界チャンピオン時代でしたが、
引退後横浜にボクシングジムを開設し、
ジム所属の星野敬太郎が2000年12月6日WBA世界ミニマム級王者となり、
日本初の師弟世界チャンピオンが実現しました。
星野 敬太郎も横浜出身、入場曲はディープ・パープルの“smoke on the water”でした。
Smoke on the water
http://www.youtube.com/watch?v=2WX_4FNoto4

花形ボクシングジム 花形進
http://www.youtube.com/watch?v=V-311SRgKcI

WBC世界Mm級TM_アギーレvs星野敬太郎
http://www.youtube.com/watch?v=h0bP8EqiH34&feature=relmfu

花形進さんはこんなことにも参加しています。
袴田事件
世界王者10人が集い、袴田巌支援チャリティTシャツお披露目イベント開催!2007年9月
http://www.youtube.com/watch?v=YHqBSG4zMWg

【R2】トンカツボクサー
WBA世界ミニマム級王者となった星野敬太郎は
現在岐阜県各務原市に「コパン星野敬太郎ジム」を開設しています。
http://homepage3.nifty.com/minimini-champion/jymtop.html
横浜出身の星野敬太郎は、
小学校時代からボクシングトレーニングを師匠花形進の所属していた名門「横浜協栄ジム(現・オーキッド・カワイ・ボクシングジム)」で受けていました。
そして花形のジムで世界を目指した現役ボクサー時代、
横浜市内のとんかつ店「美とん・さくらい」上大岡店の料理長を務めていたことは広くテレビ等でも報道され有名です。
http://www.biton-sakurai.com
この「美とん・さくらい」の社長堀内強美(ほりうち つよみ)もかつて世界チャンピオンを目指した宮崎出身のボクサーでした。
現在はリングをショップに換え、
横浜市内でトンカツ店や食材を提供する会社を経営されています。
「美豚濱ジャーキー」は「さくらい」の超人気商品です。

堀内強美社長は第14期平成21年度選定の横浜マイスターにも認定され“後継者”育成にも力を注いでいます。

ビールを頼むとジャーキーが出てきます
さくっと油が少ない釜焼きがおすすめ

【R3】ボクシングは横浜から
1896年(明治28年)米国帰りの元柔道家 齋藤虎之助と友人のジェームス北條の2人が横浜市石川町に日本初のボクシングジム「メリケン練習所」を開設したという記録があるそうです。2007年の横浜検定に出されたとのこと。ちょっとマニアックすぎません?!
ボクシングの試合は何時行われた?のか
1902年(明治35年)に横浜山手公会堂(パブリックホール)でボクシングの試合が行われました。
「目下横浜市山下町グランドホテル滞在中なる拳闘家スラヴィン氏と同市喜楽座に演芸中なる怪力家ルシフアー氏との拳闘仕合は既報の如く愈々本日午後五時三十分より同市山手町パブリックホールに於て開会せらるゝ筈にて、当夜は本邦駐在英国公使マクドナル氏も見物する由」(時事新報)

異種格闘技としてボクシングが登場したのは、ペリーが1854年2月(嘉永7年1月)水兵のアメリカ人ボクサー1名とレスラー?2名と相撲の大関・小柳常吉による3対1の格闘技試合の様子が記述されています。なんで3対1だったのか?それほど小柳常吉が強そうだったのか?不思議です。
(結果は力士・小柳常吉が勝利したそうです)

有名になったボクサーと日本人の格闘試合は
1909年(明治42年)横浜羽衣座で行われた英国人ボクシングチャンピオンのスミスと柔道家昆野 睦武の国際試合です。

No18 1月18日(水) 三度あることは四度ある

この試合は、その後東京新富町新富座で第二回戦が行われました。結果は三十二対三十二の同得点でドローでしたが、採点基準が曖昧なため入場者の不満が残ったと新聞には書かれています。

【場外】
横浜のボクシングジムを一覧にしました。
現在女性にボクシングが人気種目だそうです。
番外編 横浜のボクシングジム


(リングサイド)
No.258 9月14日(金)横濱で詩闘開催 。

No.291 10月17日(水)横浜水要日!

10月17日は水道の日です。
1887年(明治20年) 10月17日のこの日、横浜市に日本初の近代的な上水道が完成します。
水量の豊富な相模川と
道志川の合流する場所から
野毛山にある貯水池まで導管を敷き
この日、横浜市街に給水が開始されました。

道志の取水口

水道の話しは何回か紹介しています。
No.152 5月31日(木) もう一つの近代水道発祥の地
1987年(昭和62年)5月31日横浜市保土ケ谷区川島町522に横浜水道記念館がオープンし開館式典が行われました。

No.151 5月30日 100年前の先見性
1916年(大正5年)5月30日付けで道志村水源林を横浜市が買い上げる契約が結ばれた日です。

そして、
横浜が自信を持って誇れる時代に先駆けて近代水道が稼働した日が 10月17日です。
この偉業が無ければ、横浜の発展は完全に望めなかったでしょう。
この日を横浜市は「水道の日」としました。
(ところが 国の決めた水道の日「水道週間」は6月1日から6月7日までの1週間です。所管は厚生労働省です)
http://www.jwwa.or.jp
※ちなみに東京都は1898年(明治31年)12月1日に通水しました。

良質の水が無いところに街は発展しません。
衰退するのみです。
世界中の国際港で良質の水源が(殆ど)無かった「港」は横浜だけでした。
※天沼の湧水。

ジェラールの造った貯水槽

「開港以来数年間、横浜市中の堀井は概ね塩気を含み、且、汚濁にして飲用に足るものは只二ケ所のみ、其一は町会所裏「現今本町一丁目一番地」(開港記念会館)
一は本町二丁目三井組「現今本町四丁目三井物産会社支店」前の堀井なり」

(水戦争)
開港場として 横浜は膨張しますが、水がありません。
居留地では水確保騒動が毎日のように起ります。
さらに居留地の周辺部でも人口増に水が確保できずに不衛生な状態が続きます。
当然「伝染病」が一度起ると一気に伝染し、横浜市は近代水道が完成するまでに何度も「コレラ」が発生し、ネズミによる「ペスト」も頻発します。世界一不衛生な港の烙印を押される寸前まで来ていました。

明治元年には二俣川より引水を試みますが、失敗します。
多摩川上水からの取水のために簡易水道を数年で完成させますが、不具合が多発し安定した給水は望むべくもありませんでした。
 そこで専門家「パーマー」のアドバイスを仰ぎ、多摩川ではなく相模川上流に水源を求め、道志から野毛山まで40キロを超える工事に入ります。

当時の水道栓と同形のもの(道志村)

そして、1887年(明治20年) 10月17日に
市内の水道栓から初めて水道水が溢れ出て街は歓喜に包まれました。

No.290 10月16日(火)文士の大家さんは法律家

1892年(明治25年)10月16日の今日
「帰化米人小林米珂(ベーカ)が市役所へ出頭、納税の手続きをした。
帰化人納税のはじめである」(横浜歴史年表)とありました。
帰化米人「小林米珂(ベーカ)」はいかなる人物なのか?
調べてみると 意外や意外。面白い方向に展開していきました。

小林米珂(こばやし べーか)「横濱成功名誉艦」に出ていました。(上記)
株式会社鎌倉海浜院ホテル取締役で父の名が“ニコヲ二マラ”で文久の生まれ、神奈川士族小林南峰氏の養子になり山下町70番に法律事務所兼英国法律顧問を開き名声がある「日本における帰化外人中の古参」として有名とあります。
小林米珂は、
帰化前の名がJoseph Ernest de Beckerで、1863年(文久3年)7月に子爵ニコラ・デベッカーの三男としてイギリスロンドンに生れました。
アメリカ合衆国に渡り法律の教育を受け
1887年(明治20年)に来日し横浜を中心に活動します。
士族小林南峰の娘と結婚し、養子となり
1891年(明治24年)7月29日に婚姻届けを出し日本国籍を取得します。
外国人が日本国籍を取得するには日本の名が必要ということで「小林米珂」を名乗り、妻の実家であった神奈川県久良岐郡中村1,549番地に住まいを設けます。
外国人居留地に近い丘の中腹に位置します。

明治初期のマップで探してみました。

オフィスを山下町70に設け、「 代言人(だいげんにん)」現在の弁護士業と、日本文化の研究者として多くの著作を残します。

小林米珂の代表的な著作は「不夜城」(Nightless City)というタイトルで明治時代の東京吉原にある遊郭の現状を丸善から出版します。(当然英文です)
この「不夜城」を含め、明治初期の遊郭に関する一級資料として現在も研究者の基本文献となっています。

発刊当時は、かなり海外で批判があり論争の的となったようです。
読者の好奇心をいたずらに刺激するような偏見を避け、
日本的な“売春制度”を冷静に社会学的な視点で分析している点が人身売買肯定と解釈されたためのようです。
『不夜城』は当初
「英国社会学者(By an English student of Sociology)」として
1899(明治32)年6 月、横浜丸善書店より匿名出版されました。
次第に評価が高まり、現在でも版を重ねています。(版元は変わっています)

この「不夜城」の学術的評価は、著者のde Beckerが『嬉遊笑覧』『洞房語園』『吉原大鑑』『吉原大全』『江戸花街沿革誌』など50冊以上の文献を参考にし多角的に基本調査が行われている点です。
一方、日本の法律を数多く翻訳し海外に紹介した功績も大です。
法律もまた国際理解の基本であると同時に、国際紛争解決の重要な手段となります。
彼の足跡を調べている過程で、弁護士「小林米珂」が日本史上に残る大事件の弁護士を担当していたことが判ります。
シーメンス事件です。
ドイツシーメンス社側の代理人として弁護に立った記録が残っています。
外国人側の弁護士団の一人ではありますが、日本語が堪能な国際弁護士は当時少数だったと思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/シーメンス事件

1月23日 大正の正義

小林米珂は明治40年ごろ経済拠点を鎌倉に移していたようです。
鎌倉海浜院ホテル取締役の他、鎌倉で不動産業を始めています。

鎌倉海浜院H コンドルの設計

※鎌倉での活動にも興味が尽きません。
米珂屋敷と呼ばれる九軒の賃貸住宅を経営します。この米珂屋敷は当時の鎌倉に居を構える文学者に人気があり多くの作家が利用します。ドイツ語学者の菅虎雄(すがとらお)は、小林米珂との交流を通じて米珂屋敷に暮らした一人でした。
彼の推薦で高浜虚子大佛次郎が米珂屋敷に暮らします。

大佛次郎(野尻清彦)の下宿届け

親友だった夏目漱石、教え子の芥川竜之介、菊池寛らも菅虎雄家を訪れ、
鎌倉文士村形成に大きな役割を果たします。
大佛次郎は、鎌倉をこよなく愛し、鎌倉の景観保全活動の草分けとして活動したことは有名です。
横浜には「大佛次郎文学館」がありますが、彼が一時期暮らした米珂屋敷と関係があったとは意外でした
中々素敵な場所にありますからまだの方は是非どうぞ。

外国人が日本国籍を取得する「帰化」の手続きは大変な作業です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/帰化
国民の要件についても今回 考えさせられました。

日本の新聞黎明期に活躍したJ・R・ブラック
No.163 6月11日(月) 反骨のスコッツ親子

No.164 6月12日(火)JRJR

No.288 10月14日(日)仮の借りを返す

今日は「鉄道記念日」です。
いや「鉄道の日」です。
休日ということもあり巷では様々な「鉄モード」でございます。
ここでは、少々マイナーで軽くいきます。
1967年(昭和42年)10月14日
桜木町駅敷地内の“隅っこ”に鉄道発祥記念碑が建てられました。

(碑文)
「我が国の鉄道は、明治5年(1872年)旧暦5月7日、この場所にあった横浜ステイションと品川ステイションの間で開通し、その営業を開始しました。わたくしどもは、当時の人の気概と努力とをたたえ、このことを後世に伝えるとともに、この伝統が受け継がれて、さらにあすの飛躍をもたらすことを希望するものであります。」
昭和42年10月14日
社団法人横浜市観光協会
鉄道発祥記念碑建設特別委員会

この碑は読んだ内容通り、
横浜駅(現:桜木町駅)と品川駅の間で開通したことを記していますが、
何か変?
だと思いませんか?
10月14日に
1872年6月12日(明治5年5月7日)水曜日の記録が刻まれています。
では、「鉄道の日」は何故?10月14日なんでしょう。
結論から言うと、明治5年5月7日は仮営業、明治5年9月12日は本営業ということです。

冒頭で「鉄道記念日」「鉄道の日」と表記しましたが、共に同じ日のことです。
「鉄道記念日」は
1872年10月14日(明治5年9月12日)に“正式開業”した鉄道が、1921年(大正10年)10月14日に開業50周年を記念して東京駅の丸の内北口に鉄道博物館(初代)が開館したことがキッカケです。
翌1922年(大正11年)から「鉄道記念日」として鉄道省により制定されます。
戦後も日本国有鉄道の記念日として継承されます。
時は流れて、
1994年(平成6年)に
「運輸省(現・国土交通省)が「『鉄道記念日』のままではJRグループ色が強い」という提案」?で「鉄道の日」と改称したそうです。

(仮営業)
明治5年5月7日の仮営業について少々説明しておきます。
仮とはいえ、この日から営業が始まりました。
初日は2往復運行し、翌日の8日には6往復運行します。
9月の本営業時は9往復になり横浜・新橋間53分でした。
桜木町駅敷地内の片隅にある記念碑裏面には
鉄道列車出費時刻及賃金表
上り 横濱張車 午前八字 品川到着 午前八字三十車分
午後四字 午後四字三十五分
下り 品川璧車 午前九字 横濱到着 午前九字三十五分
午後五字 午後五字三十五分
車ノ等級 上等 片道 壱囲五拾銭
※「午前八字」の字は誤字ではありません。

「初めて」にこだわるハマッ子としては
昭和42年10月14日に
1872年6月12日(明治5年5月7日)が“初めて鉄道営業が始まった”日としての記録(証)を残しておきたかったのでしょう。

No.164 6月12日(火)JRJR

(余談)
10月14日といえば2000年のこの日から
2008年3月14日まで、導入された短い鉄道系磁気カードが「パスネット」です。
現在はSuicaとPASMO(関東)に収斂されていますが、iOカード、オレンジカード、マリンカードとまあいろいろ出ては消えましたね。
これって収支どうだったのでしょう?
読み取り機器メーカーが繁盛しただけですかね?

blogsc003
マイ コレクション

No.286 10月12日(金)初の空中PR横浜で (加筆修正)

1890年(明治23年)10月12日(日)の今日
イギリス人スペンサーが横浜公園内で軽気球に乗り飛行ショーを行いました。
これが結構ハチャメチャで面白い事件なんです。


パーシバル・スペンサー(SPENCER, Percival Green 1864年〜1913年)は
1864年11月11日ロンドンに生まれ祖父から軽気球の製造を生業にしている
生粋の Professional balloonistです。
8歳の時から軽気球に乗り家業を手伝っていましたが、彼は活躍の舞台を新しい国々に求めました。
シンガポール、バタビヤ、香港など当時のイギリス植民地を中心に軽気球ショー巡業の途中1890年(明治23年)に来日し横浜を手始めに八回実施します。
【巡業日程】
1890年(明治23年)
10月12日(日)横浜公園
10月19日(日)横浜公園(第二回)
11月 1日(土)神戸居留地
11月12日(水)天覧(二重橋外)
11月24日(月)上野公園
11月30日(日)大阪今宮眺望閣東
12月14日(日)京都御所博物会場前
(日時不明) 長崎
第一回と第二回の横浜公園での「軽気球乗」の模様を簡単に紹介します。
その前に、スペンサーは来日しグランドホテルに宿泊し、日本政府に対し飛行計画の申請を行います。申請書類が現在も残されています。

和文に訳され提出された気球ショー申請書

興業の認可を受け、明治23年10月12日(日)に横浜公園で第一回飛行が行われます。
事前に午後2時飛行と予告が行われ、横浜公園には仮観覧場が設けられました。当時の浅田徳則神奈川県知事、後の市長となった三橋書記官以下来賓が招待された他、観覧場には有料席が設けられました。料金は一人50銭〜二円といいますから高額の入場料だったようで売上は芳しくなかったようです。それでも800円の売上が記録されています。
音楽隊の演奏が流れる中、直径二十八尺(約9m)あまりの気球にガスを充填する作業が行われます。充填の間に獅子、虎、象、亀、魚の形が描かれた紙製のミニ気球を打ち上げ“間”を繋ぎます。大量のガス充填が完了した4時48分に気球は一気に上昇しあっという間に上空3,500フィート(約1,000メートル)に到達したとありますが実際にはもう少し低かったと思われます。
気球で上昇したスペンサーは、パラシュートで飛び降り、「太田水道貯水地近傍」に降り立ちます。そこからすぐさま横浜公園の会場に帰り、観衆の前に現れ大喝采を受けます。

(第二回は日程変更)
第二回飛行は17日(金)に実施される予定でしたが、19日(日)に変更されます。
入場券はスペンサーの泊まったグランドホテルと会場入口で販売されますが売上は伸びません。しかも19日は天候条件が悪く、上手くいきません。
何回かトライの後上昇しますが、一回目のようには上がらず途中で落下し始める始末。気球は真砂町一二丁目近くに舞い落ちます。
入場券の売上は伸びませんが、観覧席以外は第一回より観客が集まり警察官が規制に入る程でした。気球を眺めるのに真下の観覧席である必要は無く、ハマッ子のしたたかさが見て取れます。

当時の錦絵に登場する気球:幕末から錦絵には気球が登場

実はこの気球ショーを企業広告に早速使った人物がいます。
今泉秀太郎、時事新報社に勤めていた彼は、スペンサーに気球から広告チラシを撒くよう交渉します。最初は断られますが、アメリカに留学していた今泉秀太郎は、バルーン設置作業の日本人スタッフとの通訳をし「広告」を認めさせます。当時の時事新報の記事には
「人々片唾を呑んで今や遅しと待ち構へ居る折柄、忽然彩色燦爛たる一個の小軽気球、下には赤色の紙に白く筆太に時事新報と記したる牌(ふだ)を付けて舞ひ揚れり。珍らしくも美しかりければ、観客賞賛の声暫しは鳴りも止まず。」と自画自賛?します。
二回目興業は芳しくありませんでしたが、スペンサーと今泉秀太郎の出会いが、その後の東京他のショーにも活かされ、さらに「時事新報空中PR」は大成功します。
わが国最初のPRチラシ空中散布は横浜公園上空で行われました。


今泉秀太郎なる人物は、画号「今泉 一瓢」明治期の錦絵師、漫画家で、『時事新報』紙上で日本で初めて「漫画」という語を使い始めた人物として知られています。
秀太郎は福澤諭吉の義理の甥(諭吉の妻・錦の姉・今泉釖の長男)で、秀太郎の母は、若くして夫を失いますが福沢の勧めで近代的な産婆学をアメリカ人医師シモンズ(横浜市大医学部の祖)に学び自立した女性として名産婆として活躍しながら秀太郎を育てます。

No.162 6月10日(日)日本よさようならである。

一方息子の秀太郎は、
福沢諭吉に才能を認められ、
慶應義塾本科に進み卒業後、
渡米サンフランシスコの美術関係の貿易商社
甲斐商店に幹部として出資し経営参加します。
このスペンサーとの出会いは1890年(明治23年)に帰国し時事新報に勤めた早々のことでした。