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No.457 ザンギリ野毛
野毛界隈。
酔いにまかせて彷徨うと、床屋が多い?!
やたら床屋(理容院)のサインポールが目に入ります。
気のせいか?酔いのせいか?それとも真実か?
ちょっと調べてみました。
野毛界隈で、果たして何店床屋(理容室)はあるのでしょうか?
調査結果をお知らせする前に、横浜の床屋についてのエピソードを少々ご紹介しましょう。
No.80 3月20日 西洋理容発祥の地、横浜
1873年(明治6年)3月20日、
明治天皇は自ら範を示すということで断髪します。
これによって一気に「床屋」(理容室)が時の職業になっていきます。
横浜開港資料館発行「もののはじめ考」(第3版)によると
開港早々1864年(元治元年)横浜ホテルに外国人の理容師が開業した記事が掲載されているそうです。
日本人による理容室開業については中々誰が“はじめて”かどうか判っていません。
諸説あるようです。
少なくとも 開港した横浜港に入港する外国船向けに西洋理髪師を見習った日本人が散髪業を始めたのは自然の成り行きです。
日本人の間に「西洋理髪」が定着していくのは、
No.80 3月20日 西洋理容発祥の地、横浜
で紹介したように、法令で断髪令が施行されてからのことです。
「市史稿」では、
桜木町に「西洋髪苅所」を富岡浅次郎という人物が開業し
「理髪業の嚆矢」とする説に触れています。
この説に従えば???????
桜木町=野毛界隈に理髪業が多いのも?
野毛界隈に理髪業が目立つ理由は、
「場外馬券場」があるからでしょう。
縁起かつぎや、負け癖を切る!という理由から競馬人は床屋が好きだとか?
だから野毛界隈に「理髪店」が多いんですね。
(野毛界隈の理髪店)
完全ではないかもしれませんが
野毛界隈に理髪店は12店ありました。
以前営業していた店を1店知っていますので
13店も集中していたことになります。
範囲は JR線より内陸、大岡川、京急、紅葉坂に挟まれたエリアを
野毛界隈としました。
価格もバラバラです。
ここにさらに「美容院」が最近次々と開店しています。
野毛は現在 整髪激戦区となっているようです。
(余談 理容室は何時休み?)
理容業はを独占禁止法の例外業種に指定され、理髪店の業界団体である全国理容生活衛生同業組合連合会が、1996年ごろまで都道府県単位で定休日や営業時間などの基準を決めていました。最近は拘束されること無く自由な営業形態になっています。横浜は火曜日定休が多いのでは?
No.456 自由ハンザ都市ブレーメンの気風
7月1日は横浜が開港した日です。
現在横浜では6月2日が開港記念日ですが、
ここに幕末明治の「暦」事情が隠されています。
今日は この有名な昭和3年事件は置いといて…
開港一番に入港した外国人達の話しを紹介します。
列強五カ国との間に結んだ「通商友好条約」では各国との開港日がバラバラでしたが、1859年7月1日に統一します。
約束だけではなく 各国と交易を行う準備が必要となってきます。
日本政府は、各藩・地元民間の有力者に命じて「開港場」=居留地と横浜道の整備を命令します。かなりの突貫工事だったようです。
「横浜道」に至っては開港前日に完成したそうです。
なんとか 体裁が整い 7月1日に外国船を受け入れる準備ができますが
前日30日に横浜港に到着したのが亜米利加船籍の一団で、
ハリス公使以下外交団でした。
そこは 日本政府(徳川幕府)も条約を楯に明日(7月1日)まで待て!
と米国船団を横浜沖に留め置くことにし7月1日に「亜米利加一番」として手続きします。
亜米利加船とは異なり条約通り7月1日開港日に堂々入国したのが「阿蘭陀船」シキルレル号(Schiller)です。
幕府の認可番号は「阿蘭陀一号」で、250t 乗組員12名だったそうです。
五カ国の中で開港日に入国、入港したのは
亜米利加と阿蘭陀でした が
実際は 阿蘭陀船籍のドイツハンザ都市の船でした。
阿蘭陀船籍で偽装した背景にはこの時代のドイツ(プロシア)が抱える政治状況がありました。ここに乗船していたのはデュッセルドルフ出身自由ハンザ都市ハンブルグ商人のルイス・クニフラーでした。
到着早々、幕府の用意した外国人専用の貸家を申込早々に商館の開設に動き出します。
このルイス・クニフラーが横浜に初めて商館をオープンした外国人商人です。
福沢諭吉の自伝に
「五国条約というものが発布になったので、横浜は正(まさ)しく開けたばかりのところ、ソコデ私は横浜に見物に行った。その時の横浜というものは、外国人がチラホラ来ているだけで、掘立小屋みたような家が諸方にチョイチョイ出来て、外国人が其処に住まって店を出している。
其処へ行ってみたところが、一寸とも言葉が通じない。
此方の言うこともわからなければ、彼方の言うことも勿論わからない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙もわからぬ。何を見ても私の知っている文字というものはない。英語だか仏語だか一向わからない。居留地をブラブラ歩くうちに、ドイツ人でキニッフルという商人の店に打ち当たった。その商人はドイツ人でこそあれ蘭語蘭文がわかる。此方の言葉はロクにわからないけれども、蘭文を書けばどうか意味が通ずるというので、ソコでいろいろな話をしたり、一寸と買物をしたりして江戸に帰って来た。」
福沢が「英学」に方針転換した有名なカルチャーショックの一説ですが、
ここに登場する“キニッフル”こそルイス・クニフラーのことです。
蘭商キニフルとも呼ばれ武器商人としても活躍します。
冒頭にクニフラーをデュッセルドルフ出身ハンブルグ商人と紹介しましたが、この当時のドイツはブレーメン・ハンブルグを中心に独立性の高い都市国家(自由ハンザ都市)として世界を舞台に交易を行っていました。
そして、ハンブルグ商人クニフラーは、ブレーメン出身の優秀な人材を日本担当に起用します。
長崎で実績をあげ横浜進出責任者として赴任してきたのが
マルチン・ヘルマン・ギルデマイスター(GILDEMEISTER)です。
ギルデマイスターは、横浜で日本との通商条約締結に動きますが、最終的にプロシア王国の代表団として日普通商友好条約締結に奔走します。
ドイツ北部に位置する大都市「ブレーメン」といえば?
ブレーメンの音楽隊を思い浮かべる方も多いかもしれません。
ブレーメンはドイツに11あるヨーロッパ大都市圏の1つです。
正式名称は「自由ハンザ都市ブレーメン州」の州都です。
ドイツと日本の開国をめぐる関係は
No.413 あるドイツ人の見た横浜
でプロイセン王国の使節団による日普修好通商条約交渉団とその通訳にあたった森山栄之助のエピソードを紹介しました。
冒頭で紹介しました通り、ブレーメンは「自由ハンザ都市ブレーメン」と現在でも名のっています。
ギルデマイスターの業績
ギルデマイスターは、当初居留地横浜で少数派だったプロシア人(ドイツ人)を組織化しドイツ人倶楽部をまとめあげます。
最終的には在横浜プロシア名誉領事となります。
1868年(慶応四年)明治維新直前にアメリカ経由で母国ドイツブレーメンに帰国します。
■プロイセン王国とブレーメン
プロイセン王国は「十字軍時代の三大宗教騎士団の一つであるドイツ騎士団が13世紀にバルト海沿岸のプロイセン地方に植民を行って成立したドイツ騎士団領を基に発展し、16世紀に公国、18世紀初頭1701年に王国となった」国です。
ところが、ブレーメンはかつてハンザ同盟だったハンブルクとともに、1871年まで独立した都市国家として欧州経済をリードします。
1871年にドイツ帝国の一部となりますが、関税上(交易上)独立していました。
完全にドイツ帝国に組み込まれたのは1888年(明治30年)になってからのことです。
(余談)
ブレーメンといえば????
サッカー・ブンデスリーガに属するヴェルダー・ブレーメンのホームタウンです。ブンデスリーガ優勝4回を誇る強豪で、日本初のプロ選手である奥寺康彦も在籍していたチームです。
奥寺康彦がサッカーとで出会ったのが横浜市立舞岡中学校です。そして相摸工大付属高校から古河を経てドイツへ渡った日本初のプロ選手です。
現在、株式会社横浜フリエスポーツクラブ(横浜FC)取締役会長を務め横浜で頑張っています。
No.444 “Choshu five”NOMURAN,Yokohama
“Choshu five”と聞いて、直ぐに5人の名前が出てくる方はかなりの幕末通です。
映画にもなった幕末期の若者5人(長州五傑)
井上馨、山尾庸三、遠藤謹助、伊藤博文、野村弥吉 のことです。
今日はこの長州五傑の中で最も横浜と関係の深いNOMURANこと“野村弥吉”を紹介しましょう。
改めて、
明治に入り日本近代化の父と呼ばれそれぞれの分野で活躍した5人を簡単に紹介します。
●井上 聞多→馨(当時28歳)写真(下段左)
外務卿、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣などを歴任した「外交の父」
●遠藤 謹助(当時27歳)写真(上段左)
大阪にある造幣局の初代局長となって、有名な「桜の通り抜け」をつくった「造幣の父」
●山尾 庸三(当時26歳)写真(下段右)
帰国後に工部権大丞・工部少輔、大輔、工部卿として活躍、後の東京大学工学部の基礎をつくり、明治政府の盲聾教育施設の設立にも貢献した「工学の父」
最も著名な政治家となった
●伊藤 俊介→博文(当時22歳)写真(上段右)
初代、第5代、第7代、第10代と4回にわたり内閣総理大臣を務め明治憲法制定にも尽力した「内閣の父」
最年少の
●野村 弥吉 後の井上 勝(当時20歳)写真(上段中央)
日本鉄道会社を創設し、初代鉄道庁局長となった「鉄道の父」
(横浜から密航)
この5名は、藩の了解を取り付け
横浜で長州財政を支えた御用商人「大黒屋榎本六兵衛」の横浜支店にあたる横浜本町2丁目の「伊豆倉商店」から密航費用を調達しますが必要経費に全く届きませんでした。
そこで藩の重要な鉄砲調達資金から5,000両(今の数億円)を無理矢理理屈を付け借り受けたエピソードは有名です。
直談判の相手が村田蔵六(大村益次郎)。
若き五人は、自分たちは未来の武器である!俺たちに賭けろ!と説得して留学費用を調達したと伝わっていますが、理由はともあれ貸すほうも借りるほうもスケールがでかいですね。
伊豆倉商店は早くから居留地1番に居を構えるジャーディン・マセソン社と取引があり、5人の密航に必要な“洋銀”の準備も行います。特に尽力したのが番頭の佐藤貞次郎で、マセソン社とは長州藩の軍艦購入の手配を行った人物でした。
このあたりの顛末は多くの「長州ファイブ」エピソードとして紹介されていますのでぜひお楽しみ下さい。
http://shogiku.sakura.ne.jp/choshufive1.htm
(英国へ!)
1863年6月27日(文久3年5月12日)土曜日深夜
徳川幕府のルールを破り、横浜港※から英国船に乗込み密航を決行します。
※ここで簡単に横浜港としましたが、
この横浜港とは<東波止場=仏蘭西波止場>のことです。
その際、上記写真にもあるように、横浜居留地で髪を切り洋装になり乗船します。
→だから仏蘭西波止場付近に<ザンギリ碑>がある 訳ではありませんが偶然ですね。
(ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドン)
英国に無事到着した後、UCL(ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドン)教授アレキサンダー・ウィリアムソン夫妻の絶大な支援のもとUCLで学びます。
オックスフォード大学でもケンブリッジ大学でも無く
University College Londonに学んだことが、長州ファイブにとって重要な選択となります。
当時の英国では、1827年創設のUCLだけが、信仰、人種、国籍の違いを越えて、すべての学徒に開かれていた大学だったそうです。
※夏目漱石、小泉純一郎もUCLに学んでいます。
(横浜と野村弥吉と井上勝)
長州五傑の中で最年少、後に「鉄道の父」と呼ばれた野村弥吉(井上勝)は
1843年8月25日(天保14年8月1日)長州藩士井上勝行の三男として萩城下に生まれました。幼名は卯八、6歳で同藩の野村家養子となり、野村弥吉となります。
1868年(明治元年)英国から戻り、生家の井上姓に戻り「井上勝」と名のります。
※戦前まで、養子縁組は頻繁に行われていました。フルネーム変わってしまう場合もあり、歴史を調べる際に混乱する場合があります。
野村弥吉は、長州五傑の中で横浜と縁の深い人物です。
いち早く洋学に関心を持ち横浜の外国人居住地で英語を勉強します。
この無謀とも言える英国留学(密航)を決行した長州五傑の中で唯一片言の英語が話せた人物です。
1863年(文久3年3月)横浜で調達された長州藩艦船「癸亥丸(きがいまる)」の船将を命じられたのが野村弥吉で、測量方を務めたのが長州五傑の一人、山尾庸三です。
野村、後の井上勝が横浜を舞台に活躍したのが新橋駅〜横浜駅間の鉄道敷設事業の日本側責任者としてです。
彼は若いころからかなりの酒豪でもあったようで、
英国留学時代、仲間達に「呑乱(のむらん)」と呼ばれていたことを自分でも楽しんでいたようです。自らを「NOMURAN」と称し彼のUCL(ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドン)卒業証書にはMr.Nomuranと記される遊び心?もあったようです。
(鉄道ことはじめ)
1872年10月14日(明治5年9月12日)
日本初の鉄道路線である新橋駅〜横浜駅間が開業します。
明治新政府は1869年12月12日(明治2年11月10日)の廟議で
「幹線は東西両京を連絡し、枝線は東京より横浜に至り、又琵琶湖辺より敦賀に達し、別に一線は京都より神戸に至るべし」
という日本最初の鉄道建設計画を決定します。
枝線の東京横濱間から計画がスタートしますが、幹線計画は政府の危機的財政難で大幅に遅れます。
この日本初の鉄道路線計画の技術責任者がエドモンド・モレルです。モレルは日本の実情に即した提案、外貨の節約や国内産業の育成に貢献した外国人技術者(お雇い外国人)として日本鉄道史に足跡を残しますが、残念なことに夢半ば
1871年11月5日(明治4年9月23日)満30歳の若さで亡くなります。
Wikiでは
「1870年(明治3年)、イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任し、本格的工事が始まった。日本側では1871年(明治4年)に井上勝(日本の鉄道の父。鉄道国有論者としても著名)が鉱山頭兼鉄道頭に就任し、建設に携わった。」
と井上 勝に触れていますが、その評価は低すぎるような気がします。
モレルより3歳年下の同世代、モレルの母国イギリスで鉱山技術、化学等を学んだ井上とモレルのコミュニケーション無しに、この重要なミッションは成功しなかったでしょう。
当時、鉄道敷設反対派は暗殺も計画していた時代、全くスタンダードモデルのない日本に鉄道技術を根付かせるために、「現場主義」の井上は、横浜と東京間を何度も往復したに違いありません。
※井上はかなりの頑固者で、時の政府首脳ともかなり衝突したそうです。幕末に共に軍艦を運んだ「工学の父」山尾庸三とは真正面から衝突、辞表を叩き付けたエピソードも残っています。
No.288 10月14日(日)仮の借りを返す
(余談)
小岩井農場の井は井上のイです。
http://www.koiwai.co.jp
井上勝は視察で岩手県を訪れ、岩手山中腹にある温泉宿に泊まります。
この時に、この地を開拓して農場を造れないだろうかと考えます。
これが小岩井農場の出発点です。
日本鉄道会社副社長・小野義真
三菱社社長・岩崎弥之助
そして 井上勝、三人の頭文字から 「小岩井」となります。
(余談2)
鉄道のゲージ問題
線路の幅を決めるにあたって 日本は何故狭軌を選んだか?
「日本鉄道史最大の失敗」とも言われていますが
ここにも井上勝が大きく関わっています。
当時の判断で 狭軌の選択は 正しかったと
私は 評価している一人です。
No.403 スポチャン
スポーツチャンバラというスポーツがあります。
ご存知でしたか?エアーソフトの剣とアクリル製の防具によって安全性を確保したチャンバラですが、スポーツとしてルール化され国際大会もある競技です。
今日はこのスポーツチャンバラ、略してスポチャンを紹介しましょう。
まずは映像からスポチャンをイメージしてください。
Sports Chanbara -free battle/スポーツチャンバラ 練習映像
http://www.youtube.com/watch?v=g8UV3OD_DkQ
2012年スポーツチャンバラ世界大会二段長剣フリーハイライト
http://www.youtube.com/watch?v=4WWsRLqmgh0
■ルールを簡単に紹介しましょう。
まず試合用コートですが、6〜9メートル四方の正方形です。
試合時間は1分間で1本勝負(又は、3本勝負)延長が30秒間。
決勝戦といった特別な場合は3分3本勝負の場合もあります。
相打ちは、両者敗けとなりますが3本勝負の場合は、相方が1本づつ取ったことになり1本勝負として試合を行います。
剣が相手に触れれば一本ですが、一回だけ「かばい手」が許されます。
詳しくは
http://www.internationalsportschanbara.net/jp/
このスポーツチャンバラは、1969年に田邊哲人氏によって横浜で始められた新しい競技です。
ブンタイ「横浜文化体育館」で生まれ育った横浜発のスポーツです。
創始者の田邊哲人さんは、
子供の頃に棒切れを持って、村の神社の境内や野山を駆けめぐって遊んだチャンバラごっこを、健康で安全なスポーツにできないか?と考え始められましたが、
当初はガードマンの護身技術向上を目的に始まったものだそうです。
次第に裾野も広がり、現在では小学生からお年寄りまで幅広い競技人口の健康スポーツに育っています。
2011年(平成23年)時点で、世界選手権大会は第37回を迎えました。
イタリア、ロシア、韓国、フランス、ドイツ、エストニア等、海外の支部活動も盛んにおこなわれています。
![]() |
時々初心者用のイベントも開催されます。 |
田邊哲人コレクション
スポチャン創始者の田邊氏は真葛香山研究の第一人者でもありその数は3,000点に及びます。
コレクションの一部は、神奈川県立歴史博物館 常設展示室2階「真葛焼」に展示公開されていでいつでも見ることが出来ます。
http://www.tanabetetsuhito-collection.jp/index.html
No.401 短くも美しく
幕末から明治にかけて開港後の横浜の風景や風俗を描いた「横浜浮世絵」と呼ばれた版画(錦絵)がありました。
今日は、短くも見事な時代描写として歴史の一級資料となった「横浜絵」「ハマ絵」「横浜錦絵」とも呼ばれた「横濱浮世絵」を紹介します。
(変化を伝えるメディア)
初代イギリス公使オールコックは、変化する日本(横浜)を「魔法使いの杖の一振り」と表現しました。


(「横浜浮世絵」とは)
幕末から明治にかけて急速に発展・変化していった横浜の“開港場”で繰り広げられた現象や事物を題材とする「末期の浮世絵」のことです。
すでに長崎では江戸の長崎土産として作られていた異国趣味の「長崎絵」が、
「横浜浮世絵(横浜絵・ハマ絵・横浜錦絵)」としてご当地流行メディアにのってブレイクしたのです。
まさに開港という時代を反映した一連の横浜浮世絵は、当時のお土産物として人気があり浮世絵制作集団が横浜マーケットになだれ込みます。
浮世絵制作集団は、師岡屋や伊勢茂など少数の版元を除き、大半が江戸の版元でした。
(短期集中連作)
横浜浮世絵は、1860年(万延元年)〜1872年(明治5年)頃の約12年間だけ制作されました。作品総数は840点余りで作品の半分以上が横浜港開港直後の“2年間”に集中しています。
●港を中心とした外国船の出入りの様子
■貿易の有様、外国人とその珍しい風俗・習慣、横浜の賑わいや街並
●港町を中心として作られた遊郭の隆盛
□舶来物や渡来したサーカスや象などの見世物
★横浜の地図類や案内書など
集中して描かれましたがこの12年間の作品群から前期は人物中心、後期は建物中心のものが多く制作されました。
絵師は、当時江戸で活躍していた「横浜浮世絵の第一人者」と評される歌川貞秀を始め、
芳虎や芳員、
二代広重、三代広重など50人余りが活躍しました。
横浜浮世絵の特徴の一つに絵師や版元が明瞭である点があげられます。
日々変化し発展する対象物や時事の題材をニュース性に重点を置き制作されたために、作品の雑さを指摘する向きもありますが、歴史的価値は当代一級のものといえるでしょう。
その後、開港場が産業の場として落ち着く事で、東京を中心とした「開化絵」と呼ばれる新しい題材を描いた浮世絵へと移行していきます。
![]() |
開化絵に入る伊勢山下瓦斯会社の図 |
素材は文明開化の様子や風俗、西洋建築物、開通したばかりの鉄道などが多く人気は横浜から東京に移り、横浜浮世絵は自然消滅していきます。
代りにと言っては少々乱暴ですが、メディア「横浜浮世絵」は(横浜)新聞に、(横浜)世相芝居として、新しい文化を発信していきます。
横浜浮世絵
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/document/picture/02.html
http://ch.kanagawa-museum.jp/dm/ukiyoe/yokohama/m_yokohama01.html
http://www.odagiri-tsushin.net/ukiyoe/genre.php?genre=yokohama
ミニ番外編 2004年2月1日が誕生日
2004年2月1日はブルーダル(Blue Dal)の誕生日です。
ブルーダル?
誕生キャンペーンパンフレットを持っています!
って威張れるほど希少価値はありませんが、
水玉模様が
イメージカラー、インプレッションマークです。
その時(2004年2月)の馬車道です。
工事中でした。
水玉フラッグ見えますか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/ブルーダル
誕生日 : 2月1日
血液型 : O型
性別 : 男
好きな色 : 青
最初は リアルなダルメシアンでしたが、
現在はデザイン化して 人気キャラになっています。
2015 年2月1日は、
http://www.bluedal.jp/party2015/
開業54周年記念 ブルーダル展開催!
No.390 危なくない?デカ。
幕末の10年、そして明治以降の10年は日本の激変の20年でした。
特に開港場だった横浜はそのど真ん中です。
今日は、横浜から始まった明治の近代警察について簡単に紹介しましょう。
![]() |
加賀町警察 |
神奈川県警が発足して139年、来年2014年には140周年を迎えます。
起算の根拠は、1874年(明治7年)6月1日、横浜の堺町二丁目に当時29,000円余りの予算を使って邏卒本営(警察本部)が建てられたことに始まります。
この日を「近代警察 神奈川県警」の始まりとしています。
邏卒本営の建った横浜区堺町二丁目は現在の日本大通り横浜地裁と横浜公園の間あたり“日銀横浜支店”あたりではないでしょうか。
この邏卒本営(らそつほんえい)が
1877年(明治10年)1月25日に堺町警察署となり、
ここから加賀町、伊勢佐木などの警察署が分署していきます。
同じ年の翌2月に、長者町、松影町、戸部、高島町、山手に警察署が置かれ
堺町と合わせ最初の六分署がスタートします。
明治期に何回か統合・分離を繰り返しますが
戦後、概ね各区に一つずつ設置されました。
現在、横浜市内には21の警察署があります。
中区には歴史的背景から4つも警察署があります。
筆頭警察署として関内エリアを管轄とする
「加賀町警察署」は堺町警察署に統合される前は「居留地警察」でした。
映画「霧笛が俺を呼んでいる」や多くの映画に登場しています。
「山手警察署」は“ドラマあぶないデカの舞台”ともなった警察署で、居留地警察の分署だった時代もあります。
戦後 米軍基地を中心に管轄していたので「エリヤX」という謎の南区のエリアも管轄しています。
※余談
謎の「エリヤX」
横浜市南区 「山谷」および「平楽」のうち(在日米軍の住宅専用地区「根岸住宅地区」通称エリヤX)は南区の「南警察署」ではなく(エリアONEお得意の?)山手警察が管轄しています。→現在返還が決定しています。
関外エリアを管轄とする
「伊勢佐木警察署」は、堺町警察署の源流を組む署で、1882年(明治17年)に吉田橋南詰、現在の伊勢佐木タクシー乗り場あたりに設置されました。この時、長者町署が廃止され、伊勢佐木警察の管轄となりました。その後、山吹町に移転し現在にいたります。
そして港町らしい警察署が
「横浜水上署」です。
主に港湾内の警察業務を行いますが、
管轄は陸上エリアもあります。
中区内の大桟橋ふ頭、新港町、新港ふ頭、山下ふ頭、神奈川区内の瑞穂ふ頭、鈴繁ふ頭、山ノ内ふ頭等の一部
河川の大岡川、中村川、帷子川、入江川、鶴見川の一部も入っています。
「横浜水上署」も
「居留地警察」に似て、1868年(明治元年)に外国船を中心に警備する水上見張所がルーツとなる歴史在る警察署です。海の管轄区域は鶴見区から金沢区までの横浜港湾全域をカバーしています。
(邏卒)
最後にら邏卒(らそつ)について少々触れておきます。
ら卒とは、Patrolmanを訳した
「巡邏番卒」の略で、Wikiには
「1871年(明治4)10月東京府で3000名の邏卒を設けたのが最初。」とありますが、
「神奈川県警史(上)」には1871年(明治4年)8月に、睦奥宗光がこれまで使っていた県兵を止め、独自に3階級の取締役(呼称はポリス)を5区域に配置したとあります。これが名称こそ邏卒に変わりますが、近代警察のはじまりといえるのではないでしょうか。
全国的に、明治維新になりそれまでの全国諸藩が独自に警察権を行使していた制度を中央集権に改めようとしますが、かなり混乱が起きたようです。
横浜は、その点過去のしがらみもなく、かつまた多くの外国人(要人)を居留地にかかえていましたのでいち早く先駆的警察制度が整備されます。
初代県令だった陸奥宗光が、
優秀な部下二人「大江卓」「石田栄吉」に命じ、先進国の警察制度を研究し新しい制度設計を行い、警察組織の制度改革(制度導入)を政府に上申し認められます。
そして東京(日本政府)が近代警察制度を全国に整えることとなるのです。
※この時、陸奥を始め神奈川県は居留地外国人(主に英国領事)と、居留地内の警察権を巡って熾烈な議論となっていたこともいち早く外国制度を研究するキッカケとなったことはいうまでもありません。
別の項で紹介しますが
明治維新期、睦奥宗光、大江卓という卓越した行政手腕を持ったリーダーが横浜にいたことは、日本にとっても横浜にとっても最大級の幸運でした。
No.257 9月13日(水)司法とアジアの独立
No.350 12月15日(土)横須賀上陸、横浜で開化。
No.389 横浜の性愛空間
今日は、横浜のラブホについて紹介します。
日本最初のワンルーム・ワンガレージ型ラブホは横浜から始まりました。
“横浜初”のまえに、ラブホの現状について調べてみました。
![]() |
ここは鶴見市場のラブホで、横浜初ではありません。 |
ラブホテルと一般的に表現しますが、
変幻自在、時代や地域によってその名は変わります。
風営法では規定が一応ありますが、私たちはラブホを構造や経営形態では分類していません。
この分野に真正面から民俗学的に研究している第一人者がいます。
“金 益見(きむ いっきょん)”さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/金益見
彼女はラブホのような空間を「性愛空間」としました。
的確な表現ではありますが、直接的でもありますのでここではラブホとします。
ラブホ的空間は
江戸時代から「出会い茶屋」と呼ばれた商いがありました。
明治に入り「温泉マーク」「逆さクラゲ」
そしてストレートに「連れ込み」の表現で使用される時期が長く続きます。
戦後モータリゼーションの進展から、道路沿線に
モーテル、モテルと呼ばれる空間が登場するようになります。
一方で、駅裏や繁華街の一角に従来の旅館がスタイルを変え
アベックホテル、そしてラブホテルと表現されるようになります。
しばらくラブホ、ラブホテルの時代が続き
1984年の「風俗営業等取締法」全面改正あたりから
この業界の再編成が始まります。
カップルズホテル、レジャーホテル、ファッションホテル、
ブティックホテル、アミューズメントホテルと新しい呼称に変化していきます。
「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する条例」(いわゆる「風営法」)で、ラブホテルが全面的に規制の対象とされるようになり、年々県単位で条例が成立し新規開業が厳しくなってきています。
(最近ではこの風営法のもとのダンス禁止が議論を呼んでいます)
http://houmu.h-chosonkai.gr.jp/siryoukan/fukusisi%20jissenjyourei%208.htm
(横浜市内では)
横浜市内のラブホ数は?
正確にはわかりませんが、HPから横浜市内のラブホとされている
ホテルをピックアップたところ150ありました。
ざくっとマップ化してみました。
■立地
マップから分布特性から分類すると下記の3つに分けることができます。
●高速道路インターチェンジ立地
東名高速道路「横浜インター」周辺に集中
※1990年代に一度ラブホのオーナー取材をした経験があります。この時に何故インターチェンジ近くに<ラブホ>が集中しているのですか?と訪ねたところ
「隣町ニーズですね」と迷い無く返答されたことに驚いた記憶があります。インターチェンジ立地は高速道路ですから利用層は遠方からと想像しがちでしたが 圧倒的にご近所ニーズなんだそうです。どうやってご近所と確認したのか?正確に教えてはもらえませんでしたが、どうやら車のナンバーを記録してマーケティングリサーチをしたらしい…。
この他 色々伺いましたが、この話は別チャンネルにしましょう。
も一つ、インターチェンジエリアは出店規制が緩い、風営法上の制限をクリアできるからだという理由もあるようです。
●街道沿線立地
鎌倉街道沿いに多く立地
●駅裏・繁華街立地
新横浜駅周辺、横浜駅周辺に集中
■よこはまラブホはじめて物語
1968年(昭和43年)横浜に日本初のモテル型ラブホが登場しました。
横浜新道「国際ゴルフ橋IC」入口にオープンした「モテル京浜」です。
現在は環状二号線が交差する「今井IC」(2001年(平成13年)9月28日開通)になり「ホテルニュー京浜」となっています。
「国際ゴルフ橋IC」は名門“ゴルフ場”の入口インターチェンジとして横浜新道の開設と同時にオープンしました。
ここに開業した「モテル京浜」は、日本発のカップル型のモテルとして、一世を風靡します。
■オーナーはこの業界の伝説的人物
中嶋孝司氏
(1924年(大正13年)5月27日加賀市生まれ2003年(平成15年)12月22日に死去)
で、中学校教師、ダンス教師を経てモーテルを経営し風俗研究家、健康評論家そして推理小説家としても「日本推理作家協会」メンバーとして作品を残す多才な事業家でした。
元々、中嶋孝司さんはアメリカ型モーテルであるワンルーム・ワンガレージ型の第一号を導入します。
1963年(昭和38年)地元、石川県にオープンした「モテル北陸」は、一人(シングルルーム)から家族まで多様な宿泊ニーズに応える客室を用意し、長距離のトラック運転手や、当時盛んになりはじめた“自動車旅行”のニーズを見込んでの事業展開だったそうです。
事業は大成功し、行列ができるほどの盛況となりますが、利用者のほとんどがカップルだったことに着目し日本発のカップル型のモテルの開設に踏み切ります。
1968年(昭和43年)7月5日 横浜新道が第三京浜と繋がります。
環状八号線野毛から横浜を結ぶ第三京浜道路との連絡路が開通し、湘南と東京が結ばれることで、ドライブ層が一気に増加します。
No.351 12月16日(日)戸塚踏切をなんとかしろ
中嶋孝司さんの読み通り、切り通しの新道にひときわ目立つ「モテル京浜」はモテルブームの火付け役となり、全国にワンルーム・ワンガレージ型が拡がります。
■警察と住民と
その後、ワンルーム・ワンガレージ型は売春・犯罪の温床にもなりまた住宅環境も悪化することからモテル側と規制の追いかけっこが始まります。
郊外型は、一般街道から姿を消しつつ高速道路のインターチェンジ付近に集まるようになります。
一方で、駅裏・繁華街系も陰のイメージから豪華さや快適さを競うようになります。
「カップルズホテル、レジャーホテル、ファッションホテル、
ブティックホテル、アミューズメントホテル」等など
一時期は、資金回収率の良さからファンドの投資対象にもなりますが、新規開店が厳しくなった現在、既存のラブホの吸収・系列化が進んでいるようです。
No.373 1月7日(月)THE JAPAN PUNCH
現在ジャパンコンテンツの一つ、漫画が世界を席巻していますが、日本最初の“漫画雑誌”「THE JAPAN PUNCH」が一人の英国人によって横浜で発刊されました。
“この時代を冷静に風刺した漫画雑誌”「THE JAPAN PUNCH」は、英国人チャールズ・ワーグマン(CharlesWirgman、1832年(天保3年)8月31日〜1891年(明治24年)2月8日)によって創刊、不定期ではありましたが1862年(文久2年)から1887年(明治20年)の25年間にわたって発刊されました。
人生の多くを横浜で過ごし、横浜で亡くなった彼の生涯を簡単ですが紹介しておきましょう。
![]() |
弟の描いたワーグマン |
(ワーグマンの生涯)
ワーグマンの日本に来るまでの生い立ちはほとんど不明です。
ロンドンに生まれ、20歳の時にパリで絵の勉強をしますが、画家ではなく軍人として陸軍大尉まで昇進します。22歳の時に除隊し、「イラストレイテッド・ ロンドン・ニュース」紙の特派員として中国は広東に派遣されます。
当時、日本を訪れた外国人は中国大陸を訪れた後に来日するパターンが多かったようです。特にイギリス・フランス人は、中国侵略に血道をあげていた時代です。
ワーグマンは、広東でアロー号事件、北京侵攻に同行した後、1861年(文久元年)に長崎に来日します。
香港で初代駐日総領事に任命されたサー・ラザフォード・オールコックに随行し、江戸に二ヶ月かけて上京します。
おそらく、オールコックは日本国内を着任前に自分の目で見ておきたかったのでしょう。ワーグマンも多くのスケッチが残されています。
この日本国内を縦断する長旅が終わった時に、ワーグマンの人生を変える大事件に遭遇します。長崎からの旅を終え、仮の英国公使館となった品川の東禅寺に泊まった翌日、水戸浪士による「東禅寺事件」が起ります。
静かな日本の生活を実感してきたワーグマンにとって、
この事件に関する記録が、ワーグマン来日の初仕事になります。
この襲撃事件の時、ワーグマンは床下(縁の下)に隠れ、腹這いになりながら「イギリス民衆の為に、この特筆すべき事件の情景を描写していた」と生き残った書記官が書き記すジャーナリスト魂を発揮します。
開国の混乱期、最も攘夷のテロが多く起った時期にワーグマンは江戸の地を踏む事となったのです。
(ベアトとの出会い)
ほぼ、ワーグナーと同時期の1863年(文久3年)にインド、中国を経て来日した英国人戦場カメラマンがフェリーチェ・ベアトです。
ワーグマンは絵画、ベアトは最新技術の写真で日本文化を克明に記録した“対照的な”二人が出会います。
フェリーチェ・ベアト
http://ja.wikipedia.org/wiki/フェリーチェ・ベアト
二人は横浜で急速に接近し、「Beato & Wirgman, Artists and Photographers」を設立し、共同経営の下で報道写真と報道絵画のビジネス展開をします。
1863年にワーグマンとベアトは、スイス全権大使アンベールに同行して外国人遊歩区域外の日本を記録に残します。
べアトは、横浜、下関、 鎌倉、金沢村ほか京都や江戸の規制区域内を撮影し、ワーグマンも詳細なスケッチを残します。
No.364 12月29日(土)小国の独立力
写真は銅版画に起こされてワーグマンが特派員だった「イラストレイテッド・ ロンドン・ニュース」紙にも掲載されます。
二人は対照的な人生を歩みます。
ベアトは、中国で取材活動中から「商館」を経営し、日本でも写真家から貿易商・不動産業に転身し「横浜グランドホテル」の共同オーナーを始め賃貸住宅のオーナーにもなるというビジネスマンとして活躍します。
一方のワーグマンは
1862年(文久2年)から始めた「THE JAPAN PUNCH」を不定期ながら発刊し続けながら、日本人女性の小沢カネと結婚し、日本人に西欧絵画の技法を教え続けます。
1865年に「五姓田義松」がワーグマンの許に入門し後に日本を代表する洋画家となります。
翌1866年には近代洋画の開拓者と呼ばれた「高橋由一」が入門します。
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高橋由一作品、鮭の絵が有名です |
また1874年には明治浮世絵の三傑の一人「小林清親」が入門しようと尋ねた記録があります。
しかし、明治初期、西欧画を排除する時代に入ります。「THE JAPAN PUNCH」も運営が厳しくなり、洋画の発表の場も失われていく中で、ワーグマンは画家・アーティストとして生きようともがきますが、筆折れ
1887年(明治19年)に当時人気急上昇のジョルジュ・ビゴーへの(バトンタッチの)挨拶を含めた最終号を発刊します。
イギリスに発表の場を求め帰国し、弟ブレイクとロンドンで展覧会を開いた後、再び来日(帰国?)しますが病に倒れ、長い闘病生活の後1891年(明治24年)58歳で亡くなります。
彼は横浜外国人墓地(イギリス16区9)に葬られ、毎年命日の2月8日には「ポンチ・ハナ祭り」(ワーグマン祭)がワーグマンの墓前にて開かれ、現在まで彼の人生が偲ばれています。
(余談)
この時期に流行した「ポンチ絵」はワーグマンの「THE JAPAN PUNCH」からきています。
このコラムを書こうと思ったのは、先日実家を整理していたら、古いダンボール箱の中から、よれよれの紙が出てきたからです。
そっと開いてみると、これがなんと
「THE JAPAN PUNCH」1875年OCT版だったのです。彼の代表作はありませんでしたが、実物の迫力に感動し、このネタに触れてみました。
19世紀後半、写真の時代が到来する中、
ワーグマンとベアト。二人の英国人の対照的な人生を、機会があれば掘り下げてみたいテーマです。
No.372 1月6日(日)横浜ランドマークタワー
今日は「ランドマークタワーの見える風景」と題して紹介していきたいと考え、写真を探していましたが、
言い訳がましいのですが、あまり掘り出しものがありませんでした。
地元には“見慣れて”しまった!
あまりに定番ですが、Yokohama Landmark Towerの風景を紹介しましょう。
(ランドマークタワー)
正式には「横浜ランドマークタワー」
http://www.yokohama-landmark.jp/page/
三菱造船の跡地に始まった「みなとみらい計画」の中核ビルとして建設された超高層ビルです。
No.37 2月6日 都市デザインの実践場
No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催
(建設計画の頃)
当時実施された「YES89」横浜博覧会が終了した後、1990年3月20日に着工され、1993年7月16日に開業しました。
工事が始まると、次第に高くなっていく姿が地元の「観光資源」にもなりよく出かけたものです。
高さは296.33mあり、現在(2013年)超高層ビルとしては日本一の高さを誇ります。
残念ながら2014年に大阪にトップの座を譲ります。
ただ、“横浜市民”として言い訳をいわせてもらえば
当初は高さ300mの超高層ビルとなる計画でした。
みなとみらい地区が東京国際空港の標準出発経路(SID)と重なったために高度制限が発生し、296.3mとなったという理由があります。4mがなぜいけないのか?
不思議といえば不思議です。
単純に高さで競えば(現在)東京スカイツリー(634m)、東京タワー(332.6m)、明石海峡大橋(298.3m)に次ぐ4番目の高さです。
アメリカの建築家、ヒュー・スタビンス(Hugh Stubbins)よる基本設計に基づき、三菱地所が実施設計を行いました。彼は日本の鳥居をモチーフにデザインしたという話しもあり、じっくり眺めてみると
見えない事も無い?!
この「横浜ランドマークタワー」が着工しはじめた頃、私事ですが横浜に転入してきました。たまたま 「横浜ランドマークタワー」が見える位置に住居がありましたのでこの頃の写真が 下手ですが残っています。
記録感覚で残したものです。
以降時折、撮影の脇役に「横浜ランドマークタワー」が入ってきますが、当然の風景になっていることに
今回テーマにしてみて気がつきました。
地元こそ、もっと「横浜ランドマークタワー」を横浜のランドマークとして再評価しなければなーーー。
「横浜ランドマークタワー」の紹介したいネタも
結構あることにも改めて思い出しました。
超高層ビル建設現場のエピソード、太郎と花子の物語とか
トイレの話しとか
??知りたい?
建設のエピソード、ビル内、展望ルーム「スカイガーデン」については 別の日に譲ります。
(余談)
全日本タワー協議会
http://www.japantowers.jp/home/index.html
全日本タワー協議会は、全国20のタワーで運営されていますが、
この「横浜ランドマークタワー」と「東京スカイツリー」
いわき市の「いわきマリンタワー」
http://www.iwakicity-park.or.jp/misaki/
は入っていません。