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No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者(加筆文体変更)

岸田 吟香(きしだ ぎんこう)という人物を知っていますか?
開港、そして「はじめて物語」では欠かせない横浜ゆかりの人物です。
1880年(明治13年)のこの日、
岸田 吟香は日中間の薬事業拡大のため横浜港から東京丸で中国上海に向かいます。
その後1890年代まで、毎年のように上海に出向き、
日中間の薬事ビジネスを成功させた異色の実業家です。
単に横浜港から出発した有名人をテーマにすることは避けたいと思っていましたが
この日の渡航が彼にとって重要な旅立ちだったので
岸田 吟香の「この日」を紹介します。

Ginko_Kishida
(三省堂「画報日本近代の歴史5」より)

幕末明治期には破天荒な人物が多く輩出しています。
ギンコウも代表的な豪傑の一人と言えるでしょう。
岸田 吟香は1833年(天保4年)美作国久米北条郡垪和村に生まれ、
19歳で江戸に出ますが病気で郷里に戻ることになります。
故郷で英気を養い、再度23歳で大坂へ向かいます。
大阪では漢学を学び、翌年には江戸の藤森天山に入門しますが、師匠の天山が幕府に追われる身となり、ギンコウも上州伊香保へ逃れることになります。
決して順風ではなかった彼にチャンスが訪れます。
1863年(文久3年)4月
ギンコウ、眼病を患い横浜にヘボンを訪ねたことから彼の人生が変わります。
ヘボンと“ウマが合った”ギンコウは
横浜で“居留地”を隠れ蓑に匿名新聞を創刊し自由な意見を展開し成功します。
これが「横浜新報 もしほ草」新聞です。
1868年(明治元年、慶応四年)に米国人バン・リードEugene M.Van Reedが主宰し岸田吟香が共同で横浜居留地内で発行した(ことになっている)新聞で、週2回刊で記事のほとんどは岸田吟香が執筆したものでした。
リードの名は吟香が筆禍(言論弾圧)を免れる為の隠れ蓑的存在で、
実際新政府の検閲を逃れ、自由な発言を行います。

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「もしほ草」は木版刷り、半紙四つ折、四六判、
一行20字詰め、一面10行、唐紙片面刷りの袋表紙、
萌黄色の絹糸二箇所綴じ出版デザインとしても素晴らしいものです。
広告記事が一切無く、仮名混じりの平易な文で書かれています。
「…余が此度の新聞紙は日本全国内の時々のとりさたは勿論、アメリカ、フランス、イギリス、支那の上海、香港より来る新報は即日に翻訳して出すべし。且月の内に十度の余も出板すべし。それゆゑ諸色の相場をはじめ、世間の奇事珍談、ふるくさき事をかきのせることなし。また確実なる説を探りもとめて、決して浮説をのせず。…」

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その他、ギンコウは様々なビジネスに関係していきます。
汽船事業、骨董玩具店、氷の販売店開業とビジネスの目利き感覚は冴え渡ります。
自分の目の病気治療で出会ったヘボンとは意気投合し、
日本初の「和英辞書」を彼と恊働編纂、
上海で9ヶ月かけて印刷して販売し第三版まで発刊する売れ行きを示します。
ジョセフ・ヒコの“はじめての国産新聞”を手伝い、
日本初の従軍記者として文筆活動の傍ら
ヘボンにヒントを得た眼薬「精錡水」の販売で大成功します。
さらにジャーナリストから足を洗い薬業に専念しますが、
日中交流事業の草分けとして日中交流、初期アジア主義の組織化にも尽力します。
また盲学校作りにも情熱を注ぎ教育者としても多大な功績を残しました。

眼薬「精錡水」を軸に吟香は銀座に楽善堂という薬業店を開業します。
この出店も成功し中国進出(上海支店オープン)のため横浜港から上海に渡った日が、
1880年(明治13年)1月21日です。
その後、楽善堂上海支店も順調に実績を上げます。
この時代、アジア主義も岸田が意図した興亜の方向から、
いわゆる脱亜の方向に向かって行くことになる転換期ともなります。

岸田 吟香の四男は洋画家で有名な「岸田劉生」です。

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(おじいちゃん似だよね)

No.20 1月20日 鶴見線「73型電車サヨナラ運転」

「オタク」最近では「熱中人」という名の不思議な人たちがいます。私もその一人かもしれません。興味外の者にとって「そこが好き、夢中になる」理由が全く分からなりません。
1980年(昭和55年)の今日
鶴見線「73型電車サヨナラ運転」があり別れを惜しむ多くの「鉄男君」に見送られました。鶴見線自体もかなりマニアックな路線ですが、ここに最後の姿を求めて鉄道ファンが押し寄せました。

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まず鶴見線を紹介しておきましょう。
「鶴見線」普段はまず乗ることの無い路線です。ここ20年は鉄道ファンの人気路線となっていますが、最近では現代アート展が行われたり、廃止となった旧式車両の展示会を行ったりしています。
鶴見線のおすすめは超有名な「国道駅」そして「海芝浦駅」です。国道駅も海芝浦駅も駅ごとに語りだしたら止まらないほどエピソードたっぷりの駅です。
「海芝浦駅」の敷地は元々“東芝”(東京芝浦電気)の私有地で、改札から外には社員、関係者以外降りることができません。それでも一般客(マニア)が絶えないのは、駅構内に海芝浦駅に隣接する私設公園「海芝公園」があるからです。東芝京浜事業所が敷地の一部を使用し、東芝によって「海芝公園」が運営・管理されています。
入園無料、開園時間は9:00〜20:30でここから見る風景はすばらしいので未体験の方は必見でしょう。(特に工場夜景で人気沸騰、夕景もおすすめ)

(海芝公園)
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(海芝浦駅はまさに海の中にある駅のようです)

もともとJR鶴見線は私鉄でした。
「鶴見臨港鉄道株式会社」が経営する路線で戦前、京浜工業地帯の鶴見川崎エリアの工場に貨物や人を運ぶために開かれました。1943年(昭和18年)に戦時買収され、保有する鉄道路線が国有化となり現在に至ります。
その時にこの「鶴見臨港鉄道株式会社」は<鉄道部門>を切り離したまま事業を継続し不動産を中心にした事業で現存しています。
もう一つ、鉄男君系エピソード。
この臨港鉄道の系列会社だった「鶴見川崎臨港バス」は1938年(昭和13年)12月に合併し「川崎鶴見臨港バス」と社名が入れ替わるという面白い社名変更をしました。現在は京急の系列会社になっています。

鶴見線のマップを下記に紹介します。駅名に注目してください。

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(路線図)

「鶴見小野は地元大地主の小野信行、浅野は浅野財閥の創設者で、鶴見臨港鉄道の設立者でもある浅野総一郎、安善は安田財閥の安田善次郎、武蔵白石は日本鋼管(現在のJFEスチール)の白石元治郎、大川は製紙王の大川平三郎から取ったものである。扇町も浅野家の家紋の扇に因む。また、国道15号が近くを走るから「国道」、昭和電工扇町工場が近くにあるから「昭和」、石油精製所の近くにあったことから「石油(後の浜安善)」、曹洞宗の大本山である総持寺の近くにあったことから「本山(廃駅)」など、あまりにそのままな命名がされた例もある。」(wikipedia引用)

若干前置きが長くなりましたが
表題の「73型電車」がなぜファンの心をつかんで離さないのか紹介しましょう。
73型とは“モハ73(後のクモハ73)、中間電動車に改造されたモハ72型”を総称して73型電車といいます。
モハ?クモハ?
鉄道車両には製造番号と型式番号がついています。
これがまたファンにはたまらない。
いろいろ詳しいものがあるがこれが簡単で分かりやすいので
http://asuzuki.la.coocan.jp/hp3/train41/tetumame.htm参照してください。

この73型は戦争直後の旧型通勤電車を代表する型式で、限られた資材と設備の中で最大限に効率的な電車を量産するために設計された車両です。
73型製造のキッカケは1951年(昭和26年)に起きた桜木町事件(4月24日)です。桜木町構内で起った車両火災事故が原因で死者が106名、負傷者96名という多くの犠牲者を出した鉄道事故史に残る大事故となったことと人災でもあったため事件と称されています。
この教訓として急いで改造が行われたのが72系です。
戦後の復興期を代表する車両でした。高度成長が進むに連れて、新規車両が登場します。運ぶ機能から快適を指向し始めます。したがってどんどん廃車になって行きます。
そして、鶴見線で走っていた「最後の車両72型」が消える!
ということで鉄道ファンを集めました。

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(表情がちょっと可愛い、食パンのような窓)

72系引退そして新101系の投入を記念して、鶴見線全線と南武線浜川崎支線が乗降自由となる「鶴見線フリー乗車券」が発売されました。
価格は大人200円・小人100円で、乗車券は発売日当日のみ有効。鶴見駅・浜川崎駅・川崎新町駅・尻手駅で発売されたそうです。
冒頭にも紹介したように
現在鶴見線は昭和を感じる観光路線にもなっています。
日曜日には臨時電車も出ているようなのでレトロ路線の旅、ぜひ一度お試しあれ!

No.177 6月25日(月) 出られない出口

No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢

1953年(昭和28年)のこの日、
東急電鉄会長、五島慶太は大山街道沿いの地主58名を招き「城西南地区開発趣意書」を自ら発表した。
五島慶太(1882年(明治15年)〜1959年(昭和34年))が語った「城西南地区開発趣意書」は今読んでも新鮮な中々の名文である。
トップセールス、プレゼンテーションドキュメントとしてもかなり質が高いものとして評価されている。
この説明会後、
五島は神奈川県北東部を中心とした地域の多摩田園都市開発に次々と着手する。

まず簡単に「強盗慶太」こと五島慶太について紹介しておく。
「西の小林・東の五島」と呼ばれた五島慶太、
西の小林とは「阪急の小林一三」のことである。
西の小林とは対照的な経営手法で、次々と東急をまとめあげ最終的に東京急行電鉄を最大手の私鉄企業に育て上げた。
強引な手口から「強盗慶太」の異名をとったが、鉄道事業の経営手腕は歴史に残る評価を得ている。
東京帝国大学時代、大正期に活躍した外交官で横浜とも関係が深い政治家、加藤高明の息子の家庭教師をしていた時期もある。
大学卒業儀、鉄道官僚となった五島は平凡な仕事に我慢できず、
 役所を辞め「武蔵電鉄」の常務となる。
転機のキッカケは西の小林からもたらされた。
当時、実業家の渋沢栄一らによって設立された「田園都市株式会社」が経営不振に陥り、再建を阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)総帥の小林一三に依頼された。
ところが小林が多忙のため代わりに五島が推薦されたことが大東急の出発点となる。
東京府荏原郡の田園調布や洗足等に分譲用として45万坪の土地を購入していた田園都市株式会社は「荏原電気鉄道」を設立していたが、事業が頓挫した。
五島はその荏原電気鉄道に目をつけた。元鉄道官僚の慧眼だった。
目黒蒲田電鉄と変更し事業を開始するが関東大震災が起る。
震災後も決してあきらめず
1924年(大正13年)に全線開通させた結果、関東大震災で被災した人々が沿線に移住し始めたため一気に沿線が郊外化したのである。
この勢いを受け目黒蒲田電鉄の経営が好転することになる。
ここで得た利益を勤め先であった「武蔵電鉄」の株式に投入、過半数を買収し実質の経営者になる。
この時点で、名前を「武蔵電鉄」から「東京横浜電鉄」と変え、
渋谷〜桜木町間を開通させる。東急の背骨「東横線」の登場である。
昭和恐慌(1930年(昭和5年)〜翌1931年(昭和6 年))のため
業績は悪化するが、五島は誘致計画を立案し長期的な視点で経営を行った。
例えば、東横沿線に学校を誘致し「学園都市」としての付加価値をつける戦略である。
大学を中心に、多くの学校を沿線に誘致するという当時大胆な計画が功を奏する。
東京工業大学を蔵前から目蒲電鉄沿線の大岡山に誘致
日本医科大学武蔵小杉駅近くの土地を無償で提供し誘致。
東京府立高等学校八雲に誘致
慶應義塾大学日吉台の土地を無償提供し誘致。
東京府青山師範学校を世田谷・下馬に誘致
自らも東横商業女学校を設立、
武蔵高等工科学校(現東京都市大学)、
東横学園女子短期大学(現東京都市大学へ統合)を創設する。
さらに五島は、駅に百貨店等の商業機能を直結させる。(渋谷駅開発)
しかし五島は成功ばかりではない。
数多くの失敗も重ねている。
当時の財閥「三井・三菱」を相手に闘いを挑んだが大敗北する。
長年の夢だった“伊豆の開発”も決して成功したとは言えない。
 ※西武とも東西戦争も有名だ。

特に
この「城西南地区開発」構想した時代の10年、決して上手く事業が進んだとは言えない。
しかし、後継者によって実を結んだ「五島慶太の夢」が城西南地区開発構想である。
五島慶太の基本プランはかなり大風呂敷だが、
田園都市構想を現実にした偉大な都市プランナーである。

■城西南地区開発構想での開発予定地域(1953年当時の地名)
地区名:対象地区
宮前:川崎市字馬絹・字梶ヶ谷・字野川・字有馬・字土橋・字宮崎(旧宮前村)
中川:横浜市港北区中川町・南山田町・北山田町・牛久保町(旧中川村)
山内:横浜市港北区元石川町・荏田町(旧山内村)
中里:横浜市港北区寺家町・鉄町・鴨志田町・成合町・上谷本町・下谷本町・西八朔町・北八朔町・市ヶ尾町・黒須田町・大場町・小山町・青砥町(旧中里村)
田奈:横浜市港北区恩田町・奈良町・長津田町(旧田奈村)
新治:横浜市港北区十日市場町・新治町・三保町(旧新治村)
都田:横浜市港北区川和町(旧都田村)
「城西南地区開発」は、まずこれらの地域内に核となる街区を建設する事から始め、これらの北部地域を貫通する交通機関(高速道路または鉄道)と、渋谷から開発対象地域の東部を貫通して、小机、横浜駅西方を経由し湘南方面を連絡する高速道路を建設して、一気に新都市を建設するという大構想(ターンパイク(有料道路)プラン)※であった。
現在の「田園都市線沿線の開発」「港北ニュータウン構想」の出発点がここにある。

No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)
※ターンパイク(有料道路)プラン

渋谷〜江ノ島間の一般自動車道「東急ターンパイク」(昭和29年免許申請)
小田原〜箱根間の一般自動車道「箱根ターンパイク」(昭和30年免許申請)
藤沢〜小田原間の一般自動車道「湘南ターンパイク」(昭和32年免許申請)
と次々と有料道計画を立てるが
ことごとく「建設省プラン」と競合する。
箱根のみ実現する。「箱根ターンパイク」は日本初のネーミングライツ道路「TOYO TIRES ターンパイク」となっている。(現在は営業譲渡)

No.18 1月18日(水) 三度あることは四度ある

幕末から明治にかけて横浜は東京と肩を並べる芝居の中心地だった。横浜には大小合わせて20以上の劇場があった。大正4年1915年のこの日、横浜で最も歴史のある劇場「羽衣座」が四度目の焼失を受け再建を断念、半世紀の歴史に幕を降ろした。

羽衣座は、文久元年に創業された下田座と佐野松が合併されて羽衣町、厳島神社横にオープンした。前身を含めると最も歴史ある芝居小屋だった。東京・関西の一流役者を多数受けいれ歌舞伎を始め有名人の大芝居を興業した名門劇場である。

(かつてのイシマル電気の裏あたり?)

演目は歌舞伎が中心だったが、新派はもちろん、ボクシングの試合も行われた。
1909年(明治42年)に羽衣座で、英国人のボクシングチャンピオン、スミスと柔道家の昆野睦武(こんのつかのり)の「柔道対ボクシングの国際試合」が行われたという記録が残っている。英国海軍の艦隊がその威容を誇るため横浜に寄港した際に講道館に申し込んだというから面白い。明治のK1だ。昭和の「猪木・アリ戦」??
結果は?
ボクシングなど全く知らなかった昆野睦武だが、激しい戦いの応酬の末、肋骨を2本折られながらも7勝1敗で世界一のスミスを破った。英国と言えば当時ボクシングは国民的スポーツだぜ。
当時、ライバルであった喜楽座と競いながら人気を分けてきたが、
明治32年8月12日に起った関外大火事で全焼する。この関外大火事で、伊勢佐木界隈の多くの劇場が店をたたんだが、羽衣座は再建。
翌年の10月に今度は自分の所から火を出し焼失する。それでもめげないで新築する。
明治36年にこれまた焼失するが再建。
そして大正4年に焼失し 再建を断念する。この頃、芝居小屋の主流は喜楽座に移っていた。

(喜楽座が建っていた場所)
喜楽座成功の特徴は、19世紀末から娯楽の世界に参入した活動写真(映画)を活かし芝居も行ったことだ。また九世団十郎・五世菊五郎・初世左団次等、明治期に人気役者が没した後も一流役者たちののぼりを上げたことであった。
横浜の芝居小屋は、明治32年の関外大火事と大正12年でほとんどを失う。その後現在まで、芝居の中心地としてのエネルギーは失われたままだ。
長くなるが
今年の新春歌舞伎は、歌舞伎座が改築中のため、新橋演舞場で「め組の喧嘩」が上演された。ストーリーは「ふとしたことから、江戸火消し「め組」の鳶と、場所中の相撲取りの喧嘩がはじまり、お互い意地の張り合から ・・ 江戸を沸かせた大喧嘩となった。命知らずの火消と力自慢の力士達の舞台いっぱいの喧嘩の大立ち回りが見せ場・・・。」これは文化二年(1805年)に、実際にあった事件を河竹黙阿弥が芝居にしたもの。
ただの喧嘩が時の三奉行を巻き込んだ(役人の縦割りや揶揄?)大事になるという芝居だ。
歌舞伎の定番、新春にも良くかかるこの演目は、羽衣座とも少なからぬ縁がある。明治34年5月横浜市羽衣座で世話物が得意の二代目尾上菊次さん(昭和45年に亡くなる)が初舞台を踏んだ作品が『め組の喧嘩』だ。
歌舞伎とは「傾く」(かぶく)からきているとか。時代の空気を表現した「歌い舞う芸妓」が皮肉にも「め組の喧嘩」をかけるとは、どこかのマツリゴト師にも見て欲しいものだ。

No17 1月17日(火) 本日芥川賞発表

(速報)芥川賞、円城塔『道化師の蝶』と田中慎弥『共喰い』の2作が受賞

(17日朝)本日、第146回芥川龍之介文学賞が発表される。前回は該当者無しだった。過去に横浜出身の芥川賞受賞者はざっと調べた所では6名いた。最初は第9回受賞の保土ケ谷出身、半田義之の「鶏騒動」である。
第84回尾辻克彦(赤瀬川原平)の「父が消えた」、第105回荻野アンナの「背負い水」、第116回柳美里の「家族シネマ」が有名な所だが、第67回宮原昭夫の「誰かが触った」と第68回郷静子「れくいえむ」も忘れてはならない。今日は、中でも郷静子について紹介しておく。

芥川賞とは、純文学の新人に与えられる文学賞。大正時代の文学者を代表する芥川龍之介の業績を記念して友人の菊池寛(文藝春秋社創始者)が昭和10年(1935年)に直木賞と共に創設した。
年二回を原則に選考委員の議論で決まるが応募方式ではない点が特徴だ。現在の選考委員は石原慎太郎・小川洋子・川上弘美・黒井千次・島田雅彦・高樹のぶ子・宮本輝・村上龍・山田詠美の各氏。選評は公開される。

郷静子は1929年に横浜で生まれ、鶴見高等女学校(現・鶴見大学附属鶴見女子中学校・高等学校)卒。1972年、戦時中の体験(特に横浜大空襲)を描いた中編『れくいえむ』を『文學界』に発表、同作で第68回芥川賞を受賞した。一冊のノート(日記)を軸に末期の戦争、特に横浜大空襲を生きる軍国少女が体験する終戦を描いている。
文庫化された文春文庫では芥川賞の先輩第67回受賞の宮原昭夫が解説を書いている。この中で、宮原は
「青春にしか許されない、ひたむきな正義感が、ある時代には「立派な軍国少女」たらんと刻苦することに当人を追いやるしか無い、ということの、この無惨さ。」と評している。
9人の文学賞選考委員の中で、中村光夫は
「推しました。素人くさい粗雑さが構成にも文章にも指摘され、リアリズムの観点から見れば、破綻だらけといってよいのですが、結局読ます力を持ち、最後まで読めば、強い感銘をうけます。」「こういう混沌とした強さは、とくに新人に望ましいのですが、近ごろはこれと反対の傾向が幅をきかせています。」「ともかく、欠点がそのまま魅力になったような、この一作は珍重すべきでしょう。」と強く評価した。
一方、舟橋聖一は「二八〇枚の力作だが、芥川賞の銓衡内規では、枚数超過で、寛くみてもスレスレのところにある。長すぎることが、この作品をより素人っぽくしていることは否み難い。」「あくまで戦中の体験と事実に立脚した小説であるのに、主人公節子を殺すことが嘘だと言っては過酷なら、小説作りのための御都合主義だという点が、私がすっきり出来なかった理由である。」と辛辣だ。こういった選考は難しいものだ。
昨今の文学状況では一体どのような評のもとで誰が受賞するのか、愉しみである。
発表されたら少しコメントを加えるかもしれない。
文藝春秋社

第146回芥川龍之介賞候補作品(平成二十三年度下半期)
石田千「きなりの雲 」(群像十月号)
円城塔「道化師の蝶」(群像七月号)
田中慎弥「共喰い」(すばる十月号)
広小路尚祈「まちなか」(文學界八月号)
吉井磨弥「七月のばか 」(文學界十一月号)

第146回直木三十五賞候補作品(平成二十三年度下半期)
伊東潤「城をませた男」(光文社)
歌野昌午「春から夏、やがて冬」(文藝春秋)
恩田陸「夢違」(角川書店)
桜木紫乃「ラブレス」(新潮社)
葉室麟「 蜩ノ記」(祥伝社)
真山仁「コラプティオ」(文藝春秋)

No.16 1月16日(月) 指路教会建つ

開港をキッカケに多くの宣教師が来日しました。
そして教会、学校を軸に布教活動を拡げ多くの文化を伝えました。
特に横浜は開港の地であったこともあり歴史ある教会も多い。
1892年(明治25年)のこの日、指路教会の大会堂が現在の尾上町6丁目85番地に新築されました。

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       (写真は大正15年に建替えられたもの)
正式には日本基督教団横浜指路教会といいます。
(しろきょうかい)の名は
旧約聖書にある地名・人名のシロ(Shiloh)に日本語の指路を当てたものです。
この教会を設立する中心人物がジェームス・カーティス・ヘップバーン(James Curtis Hepburn)です。
ローマ字表記で有名なヘボンといったほうが分かりやすいでしょう。

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1859年にアメリカから来日した宣教医J・C・ヘボン博士は、神奈川区の成仏寺を仮住まいにしていました。
日本に来て3年目の秋、近くのアメリカ領事館(本覚寺)から役人が血相を変えて飛び込んできました。寺に重症患者がいる、街道筋で英国人が薩摩に切られたというのです。江戸から京都に帰る島津久光の行列と英国人グループがトラブルを起こし、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した生麦事件が起ったのです。
この時ヘボン医師は他国(イギリス)の事件でしたが幕府役人にも信頼が厚く、応急処置を強く依頼され任に当たります。
生麦事件の後、ヘボンは横浜居留地39番(現在の横浜地方合同庁舎あたり)に医療施設と学校(ヘボン塾)を開設しました。
このヘボン塾が発展して明治学院大学になります。
女子校として最も古い歴史を持つフェリス女学院もヘボン塾内で宣教師メアリー・E・キダーが創設(1870年)した学校です。

学校も軌道に乗り、そろそろ布教の拠点としての教会を設立する機運が高まります。
教会は居留地39番から尾上町、太田町、住吉町と転々としますが、冒頭の通り明治25年(1892年)のこの日、尾上町に赤レンガの教会堂が完成しました。
設計者は、サルダ( Sarda, Paul)フランスの建築家で、海軍省横須賀造船所付属学校の機械学教官として来日します。東京帝国大学教師、三菱の技師を経て横浜で建築家として開業することになります。
山手のゲーテー座、「極東一のすばらしい名建築のひとつ」と母国に報告されたフランス領事官邸、グランドホテル新館などを設計しました。
残念ながらこれらの全ての建物は関東大震災で倒壊してしまいました。
 指路教会は震災後復興計画のもと、大正15年に再建され戦災はうけたものの修復し現在に至っています。
指路教会は横浜市認定歴史的建造物に指定されています。
※毎年クリスマスには 教会前で合唱団が賛美歌を歌うセレモニーがあります。
だれでも参加できます。私も何回か参加したことがあります。

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※余談2  指路教会は過去 野口雨情が講演したり、近衛文麿が楽団の指揮をして音楽会を開催したり、結構多目的にも使われていたようです。

No.15 1月15日(日) マリンタワー開業

マリンタワー誕生日おめでとう。
横浜開港100周年記念事業の一環として昭和33年(1958年)に計画され昭和36年(1961年)のこの日マリンタワーが開業した。高さ106m、12,000トン、タワー最上部は灯台機能が設置され、地上高世界一の灯台としてギネスブックに認定された。
経営不振のため2006年12月25日に終了し横浜市が「マリンタワー再生事業」に基づき改修し、公募された事業者が借り上げる形で外観のリニューアルや屋内の改装などが行われた。灯台機能は2008年に廃止され全面改修を経て2009年にリニューアルオープンした。運営事業共同体は
リスト株式会社を代表に、ゼットン、FM横浜、TKスクエアである

横浜市民は必ず見るべし!(意外と「灯台!元暗し」で上ってない人多いんじゃない)
戦後復興のシンボルマリンタワーの歴史を少々。
横浜大空襲、戦後接収という二つのダメージから復活しつつあった横浜は、昭和30年代に入りようやく開港100周年を祝う余裕が出てきた。
「横浜らしいモニュメント」を創ろうという市民発の要望から様々なプランが提案される中、展望塔、海洋博物館、レストハウスを併せ持つ横浜海洋文化センターとして計画が具体化する。海運会社や貿易会社などが発起人となって昭和33年10月に横横浜展望塔株式会社が設立された。主力株主は日本郵船株式会社、横浜市も10%以上の株式を保有する。設置場所は、昭和電工、日本郵船などが所有していた山下公園に隣接する土地を買収して建設地となった。

(展望階からの眺めです。360度ランドマークタワーとは違った遠景がすばらしい)
昭和35年(1960年)5月に愛称の公募が行われ、2,470人の応募があり「ヨコハマ・マリンタワー」と決定した。
タワー最上部には灯台が設置され、地上高世界一の灯台としてギネスブックに認定された。国内に建つ多くの塔は4角型で建設されているが、10角型のスタイルとなった。設計デザインの段階で20種類以上の案が提出された結果、海上からでも陸上からでも、どの角度からも同じ姿に見えるというメリットから10角型のスタイルが選ばれたという。2009年にリニューアルオープンし、シルバーメタリックが基調で、夜間はライトアップされ山下地区のランドマークとなっている。特別な日はライトアップカラーが変わるらしい!
全日本タワー協議会に加盟している。

(周辺の取り壊し中の写真)
※私の好きな「いわきマリンタワー」が何故か全日本タワー協議会に入っていない。高さが足りない?(塔屋59.99m)のかもしれないがそのシンボル性、見晴らし度(海抜106mの展望室から、いわき一円が一望)からいって入ってしかるべきだと思うが、頭固いのかな。応援もこめて特別会員にしてはどうだろうか。
全日本タワー協議会
http://www.japantowers.jp/web/01_what’s_this/index.html

No14 1月14日(土) ハマボール閉鎖

昭和45年(1970年)開業以来約40年間市民に愛されてきたハマボウルは、2007年のこの日建て直しのため閉鎖された。そして新規事業として「HAMABOWL EAS」が立ち上がるが、残念なことに311で壊滅的打撃を受け再開のめどが立たず昨年(2011年)4月11日にボウリング部門が閉鎖された。ここでは311による閉鎖ではなく地域に愛された昔ながらの「ハマボール」を中心に西口界隈について紹介する。

幕末から日本に伝わったボウリング、1970年前後に一大ブームとなる。「ハマボール」もこの時期にオープンした。一時期下火になったが、1979年頃から人気が再燃。現在も根強い人気があり横浜市内に10近いボウリング場が営業している。この浮き沈みの中でも変わることの無い営業を続けてきたのが「ハマボール」だ。スケート場、アーチェリー、ビリヤード、ゴルフ、バッティングセンター、卓球、カラオケなどを備える総合レジャー施設の草分け的存在だった。長続きした要因は、親会社の息の永いエネルギー事業者としてのミツウロコの経営姿勢にあったのかもしれない。
創業は大正8年、大正15年には三鱗石炭と三井物産との合弁で三鱗煉炭原料株式会社となり業界屈指の企業となった。ライバル会社には品川燃料(シナネン)、十全などがある。戦後財閥解体、エネルギー転換が始まる中、昭和36年東京煉炭、横浜煉炭、栃木三鱗、永沼燃料、湘南燃料を合併し、株式会社ミツウロコに社名変更する。
LPガスを中心とするエネルギー事業、風力発電やその他新エネルギーによる発電、電力供給のクリーンエネルギー開発事業、不動産事業等を広く手がけている。富士の宝物バナジウム63天然水で有名な「富士清水」もミツウロコ傘下にある企業だ。
煉炭といえば、最近では自殺ツールに使われていささかイメージが悪いが、画期的省エネ燃料として登場した。横浜とも深い関係にある。
横浜経済を支えた生糸の主力生産地であった群馬県で、養蚕室の保温にこの練炭が果たした役割は絶大だった。煙が出ず火災の恐れが少ない練炭の普及が安全であり、無駄な火付け用木炭の節約になったからだ。

話しを戻そう。「ハマボール」は横浜近隣の都市型レジャー施設の役割を十分担った。その土壌は、1953年(昭和28年)相鉄の西口開発着手に始まる。終戦時、ぺんぺん草、砂利置き場の西口と言われた裏駅を繁華街に変える一大事業だった。?島屋ストアが進出し大成功をおさめる。そして1964年にダイヤモンド地下街が開業することで横浜駅西口の吸引力が一気に増大する。横浜駅の表玄関になった。
1962年に横浜ボーリングセンターが横浜ステーションビル内に開業1963年に横浜ハイランド(反町遊園地)が開園するなどレジャー施設のニーズが高まって行く。そこに1968年横浜スカイビル(初代)と横浜国際ヘルスクラブオープンがオープンし横浜駅東西戦争が始まった。
1970年「ハマボール」がオープンする。そして2007年にその幕を閉じる。
「ハマボール」の歴史は横浜駅西口界隈繁栄の側面史でもある。

No13 1月13日(金) 幕府新規事業に求人広告

安政6年正月13日 己未 甲申 先勝(1859年2月15日)のこの日、幕府開港決定にともない地域限定の自由貿易により出稼ぎの奨励がある。
「同月、神奈川(2月に横浜に変更)・長崎・箱館三港、近々開港、出稼ぎ・移住者の勝手商売を許可、希望者は港役人に紹介する。」

横浜は開港とともに幕末の経済特区になった。
諸外国と国交を開き経済活動を認めることになった徳川幕府は、開港を決定する。
この政策転換は全国の商人(商人を目指す人々)にとって衝撃的情報だった。
相模原市(旧津久井郡)城山町には安政6年正月16日、「神奈川・長崎・函館の三港が開かれることになったので、右の場所へ出稼ぎ、また移住して自由に商売をしたいと思う者は、その港の奉行所に届け出て許可を受けること」と資料にある。甲斐国では甲府勤番支配や三分代官を経て開港の情報が町方から在方へもたらされた。若干の時差があったが概ねこの時期に各地に伝わったようだ。
横浜に近い神奈川県内、山梨県、群馬県は地の利や主力商品を持っているため多くの起業家達が横浜を目指している。開港の決まった安政6年6月までに横浜に進出した商人は71名。約半数は江戸商人だった。半年以内で意思決定するスピード感はみごとだ。ビジネスはスピードという原則は今も昔も変わらない。
幕末から明治にかけて横浜で起業した商人達。
甲州屋 忠右衛門 (山梨県)若尾 幾造 (山梨県)雨宮 敬次郎(山梨)平沼 専蔵 (埼玉)早矢仕 有的 (岐阜)原 富太郎(岐阜)茂木 惣兵衛(群馬県)中居屋 重兵衛(群馬県)伏島 近蔵(群馬)高島 嘉右衛門(江戸)田中 平八(長野)大谷 嘉兵衛(三重)浅野 紘一郎(富山)安部 幸兵衞(富山)増田 嘉兵衛(富山)等々まだまだいる。
成功、失敗、悲喜こもごもだが、皆 足跡功績を多く残している。
私が特に個人的関心がある人物は鉄道王、雨宮 敬次郎(山梨)とマルチ商人 高島 嘉右衛門(江戸)の二人だ。また直接横浜進出はしていないが山本 長五郎(清水次郎長)もかなり面白い。一般的に作られたイメージとはかなり違った実像の人たちの真実に迫ることは驚きと喜びにつながってくる。おいおい紹介して行きたい。

No12 1月12日(木) 磯子偕楽園

明治大正期の記録には今は無い集会場(会堂、料亭、芝居小屋等)の名が多く出てきます。

残念ながら関東大震災以後、横浜の集会場は激減しました。
磯子駅前に「偕楽園」という料亭がありました。ここで1913年(大正2年)のこの日、金子新太郎らが開催する社会主義運動を志す同士の新年会に荒畑寒村、大杉栄らが合流参加した記録をもとに今日のブログを始めます。

現在のUR磯子駅前三丁目団地

横浜偕楽園は震災と戦災をくぐり抜けながら昭和45年ごろまで現在の磯子駅前の三丁目団地の二号棟付近にありました。
大正11年の関東大震災で被災し全壊します。
横浜市震災誌第二冊(大正15年発行)によると
「崖崩れの最も激しかった所は、料理屋偕楽園の付近であった。同園の裏には七間もの崖が切り立っていたが、大震が起ると同時に、恐ろしい地響き立てて長さ約七十間・幅十数間・坪数約一千坪の断涯(ママ)が崩壊し、偕楽園の一部である三棟の家屋を押し潰した。」
震災誌2磯子死者16名、崩壊面積が約4,000坪あったためしばらくの間手が付けられなかったとあります。
1328(嘉暦3年)開創の「金蔵院」には偕楽園の大震災横死者碑が建っています。

昭和33年の磯子駅周辺図

この偕楽園で大杉栄と新年会に参加した荒畑寒村(本名荒畑勝三)は
横浜市南区永楽町の生まれ、港南区野庭で育った横浜出身の社会運動家です。幸徳秋水に影響を強く受け、大正・昭和初期の社会主義運動家として堺利彦、大杉栄、山川均らとともに同時代を生きた中心人物の一人でした。戦後は全金同盟の委員長に就任するとともに日本社会党の結成に参加し衆議院議員を2期勤めたが、3期目落選以降評論活動に専念し1981年(昭和56年)3月6日没。

そして“大物”大杉栄は、1919年(大正8年)5月4日にもこの偕楽園を会合に使用している記録が残っています。
※ここでは長くなってしまうので触れませんが、
一時期寒村を支えた管野スガ(かんの すが)という女性の生き様がこれまたすごい。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa050528.html
大正の女性は逞しい!