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No.63 3月3日 日本初の外交交渉横浜で実る

あのペリー提督が、予定よりも早く再来港し開港を求めたとき、交渉場所が中々決まりませんでした。
ようやく、幕府は「横浜村」に決めます。ここがまさか<1859年の開港場>になるとは予想もしていませんでした。
交渉は約一ヶ月にわたり、延べ四回の交渉が行われます。
嘉永7年(1854年)のこの日、合意に至り日米和親条約が調印されました。

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たまくす広場

この交渉場所が、現在の開港資料館「たまくす」のある広場です。
隣接して「開港広場」が当時の様子を記念して整備されています。
この日米和親条約は、後に神奈川が開港場所に決まる「修好通商条約」(安政五カ国条約)に対して蔭が薄くなりがちですが、日米関係にとって重要な外交交渉コトハジメでした。
東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリーは、(武力行使無しで)開国せよという本国指令はあったものの、二回目の交渉からかなり楽天的に考えていました。
錦絵などにも描かれているペリーからのプレゼント「電信機、模型の蒸気機関車、大砲」などを交渉中に将軍献上します。しかも調印前に幕府の交渉関係者を招いて「パーティ」も開催します。
この交渉、終始友好的に進められたことが分かります。

ペリー上陸の図をラベルにした横浜ゆかりのワイン

ペリーに対し、日本側全権は林復斎(大学頭)です。
日米の交渉は漢文で行われました。朱子学者、復斎は卓越した漢文力と国際情勢の広い知識を買われ、交渉をほとんど任されました。ペリーも林とのやりとりで、直ぐに彼への信頼を確かなものにしたようです。ペリー以前にロシアやオランダと通商交渉はしていましたが、基本的に幕府は開港を望んでいませんでした。ペリーの片思いでした。

開港広場

アジアに列強が押し寄せていることを幕府は認識していましたが、戦争を伴わない交渉で2カ国条約を結んだことは日本外交史の画期的できごとであったといえるでしょう。
一般的に日米和親条約が米国側だけ最恵国待遇を得た「片務性」をもって不平等条約とみなす場合もありますが、日本側が最恵国待遇を辞退した可能性も否定できません。
この一連の重要な外交交渉は、日本側全権代表 林復斎(大学頭)の甥に引き継がれます。総領事タウンゼント・ハリスに絶大な信頼を得た「幕末三俊」の一人、日米修好通商条約に尽力した岩瀬忠震です。

そして、歴史の皮肉というか、岩瀬忠震を安政の大獄で失脚させた時の大老 井伊直弼が、大雪の降る桜田門外で暗殺された日が
安政7年(1860年3月23日)の3月3日でした。
この井伊直弼も、横浜と関係の深い人物です。

井伊直弼ゆかりの彦根ひこにゃん

※時々、桜田門外の変を万延元年とする記述がありますが、間違いです。3月18日万延元年に改元されました。

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英文日米和親条約

No.62 3月2日 みらいと歴史をつなぐ道

 桜木町駅前から新港地区、山下公園を通り、港の見える丘公園まで横浜港の水際線3.5キロを楽しむことができる遊歩道が、
2002年(平成14年)の今日、完成しました。

2012年で開通10周年です。
この道が街の魅力を変えました。
これからの季節、暖かくなりますので散策にぜひどうぞ。(自転車はご遠慮ください)

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作図は私ですので正確ではありません

戦後、横浜港の水際を自由に散策できるようになったのはつい最近のことです。現在、横浜最大の人気スポットみなとみらいエリアは造船所でした。また、新港埠頭(カップヌードルミュージアム、赤煉瓦倉庫他)や象の鼻エリアは港湾施設と貨物線がありオフリミット、一般の人は近づくことができませんでした。
唯一の横浜港を楽しむゾーンは「山下公園」位しかありませんでした。しかもそこには1961年本牧ふ頭の倉庫のために新港埠頭から貨物線が延長されました。

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ニューグランドの前にも高架橋がありました
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水の守護神、貨物線、中華街

No.303 10月29日(月)オカピ外交 

今考えれば驚きますが、横浜の観光資源といえば元町中華街(山手)しか無かったのです。「みなとみらい」の開発計画が1960年代に計画されようやく1989年の横浜博をスタートラインにして開発が始まります。まだ、みなとみらから山下公園ゾーンまで「繋がっていない」横浜がそこにありました。横浜の賑わいが開港場(大桟橋)付近で分断されてしまうのです。

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「街の魅力は人が楽しく歩ける道があることです。」「現在過去未来をつなぐことで横浜はもっと魅惑的になる」とアーバンデザイナーの国吉直行さんは横浜の二つの核ゾーンを繋ぐ重要性を語っています。桜木町から赤レンガ倉庫まで繋ぐ「汽車道」そして、「横浜港駅」から「象の鼻」を経由して山下公園、山手へ向かう山下臨港線プロムナードを一本につなぐ。
「車に影響されず自由に徒歩で移動できる」軸線が完成したのです。
2009年開港150周年、ここを訪れた数十万人たちがこの道を体感しました。
現在、「象の鼻」エリアにとっての高架橋の是非が今議論されていますが、どちらにも横浜の魅力を伝える力があると思います。議論を広くじっくりして欲しいと思います。風景はもどりません。

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今後、横浜ベイエリアは、さらにウェストベイエリア(ポートサイド地区)に広がりつつあります。そして東は新山下、貯木場エリアがどうなっていくのか?興味津々です。

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湾岸の魅力はまだまだひろがりそうです。

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No.61 3月1日 成田山横浜別院延命院復興

1925年(大正14年)のこの日、関東大震災で被害のあった成田山 横浜別院 延命院(真言宗)本堂の復興落成が行われました。

現在新本堂建設中です。この風景はありません。

成田山横浜別院延命院は、通称野毛不動尊と呼ばれ初詣日本一の成田山新勝寺(千葉県)の別院です。(いよ!なりこまや!)
成田山には8つの別院がありますが、延命院はその1つで真言宗智山派、不動明王を本尊としています。
横浜の怪商、高島易断の始祖、高島嘉右衛門がこの延命院建立に尽力しました。ここにも高島嘉右衛門が関わっていますね。といってもすぐ横に瓦斯工場、学校を建てた訳ですからこの場所の安寧を祈願したいという気持は当然のことでしょう。
平成24年に開創145年を迎えます。現在本堂の建て替え、境内の再構築が始まっています。野毛の別院の山裾は新栄講の水行場がありかなり整備がすすんでいます。別院の山裾を下りると、「横浜新栄講花咲町水行場」と呼ばれる新栄講の水行場がありました。現在本殿立て替えのため大きな再編成が終わったところです。男子水行場は解体復旧無し、女性用は移築し他の目的で使用されるようです。この新築工事で、整理される部分も多く、残念な気もします。

地元の人たちに伺うと、新しくなることによって失われて行く風情を残念に感じている方々も多いようです。昔は「横浜新栄講」といった信者団体が多くの寄進や、布教イベントを推進してきましたが、現在ではこういった「講」も数少なくなってしまいました。この「横浜新栄講」大きかったようです。大きな碑が建っています。(移動中のようです。まさか無くなる?)

2012年3月現在の記事です。
目下 新造営中です。