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No.157 6月5日(火) 半ズボンより長ズボンでしょ!

【微修正しました202310】あなたは半ズボン派?それとも長ズボン派?
横浜市中区日本大通の日本新聞博物館で
2004年(平成16年)6月5日(土)、
日本新聞販売協会が創立50周年を記念して寄贈した
「新聞少年の像」の除幕式がありました。
ここの新聞少年像は長ズボンでした。

新聞配達は、日本独特のシステムです。
朝晩、各家庭の戸口まで新聞を届ける戸別配達網は、戦後の経済発展とともに拡大し今日に至っています。
その一翼を担ったのが“新聞少年”と呼ばれた多くの子どもたちです。
高度成長期、配達部数の伸びに対し人手不足が解消されない中、
1957年(昭和32年)以降、新聞の関係団体が“新聞配達を通して働く少年たち”を保護育成する活動が始まりました。
その一環として「新聞少年の像」が各地に建てられていったそうです。
その中で一番新しいものが横浜市中区の日本大通り脇にある像で、もともとみなとみらいにあったものがここに移築されました。

■新聞少年といえば
昭和40年に山田太郎さんの
「ぼくの名前を知ってるかい。朝刊太郎と言うんだぜ?♪」の歌声が全国に流れ大ヒットとなって親しまれました。(世代的には私がギリギリ?)
山田太郎 新聞少年 1965年リリース
新聞少年(個人収録なのでいずれ削除されるかも)
https://www.youtube.com/watch?v=EifhiViCtOA

最近は、少年はめっきり減り
高齢化した配達員?が多くなってしまったようです。

(新聞少年の像探し)
現在全国に幾つ像が残っているのか?
調べてみたらありました
http://www.nippankyo.or.jp/products/topics/2011/06/post-7.html
現存する「新聞少年の像」は11箇所で一覧になっています。
話しはここでは終わりません。
新聞少年の像 他には無いのか?
ちょこっと調べたら新たに2カ所発見しました。
全部で13カ所確認。
ところが、
ほとんどが半ズボンなんです。

二カ所だけ長ズボンでした。
1957年(昭和32年)にこの像建設が始まった仙台の河北新報前に建てられたものと横浜の像です。(311以降確認していませんが無事でしょうか。)
最古と最新が長ズボンというのは何故なんでしょうか?
そういえば
最近子供の半ズボンを見かけませんね。

ショートパンツは女性に人気ですが!?
半ズボンはどうしたのでしょう。

■新聞少年の像一覧

①東京港区有栖川宮記念公園
(昭和33年5月31日建設)半ズボン
http://tokyopasserby.blogspot.jp/2011/02/blog-post_06.html
新聞配達少年像除幕式 新聞配達の少年保護育成の会が、少年達に誇りをもたせるため、朝倉響子に依頼した新聞配達の少年像が完成し、31日港区麻布の有栖川記念公園で除幕式が行われました。

②岡山県岡山市西田町西川畔(西川緑道)
(昭和33年10月24日建設)半ズボン
朝倉響子「新聞を配る少年像」

③和歌山県和歌山市市民会館
(昭和37年11月3日建設)半ズボン
http://www.qualia.ne.jp/civic-hall/

④京都府京都市円山公園
(昭和37年11月3日建設)
https://kyoto-maruyama-park.jp

⑤和歌山県日高郡JR南部駅前
(昭和38年1月25日建設)半ズボン

⑥広島県広島市中央公園
(昭和38年10月20日建設)半ズボン
朝倉響子
http://www.hiroshima-park.or.jp/park.html

⑦富山県富山市城址公園
富山市本丸1-62
(昭和38年10月建設)半ズボン

⑧兵庫県神戸市王子公園
兵庫県神戸市灘区王子町3-1
(昭和40年5月23日建設)半ズボン

⑨徳島県徳島市藍場浜公園
“希望の像”
(昭和41年10月16日建設)半ズボン
http://ja.wikipedia.org/wiki/藍場浜公園

⑩宮城県仙台市河北新報社新社屋前
宮城県仙台市青葉区五橋1-2-28
(昭和32年7月建設)長ズボン
http://www.kahoku.co.jp/

⑪(番外編1)聖蹟公園
東京都品川区北品川2-7-21
「夜明け」(昭和42年)半ズボン
http://asp.netmap.jp/map/2500212670.html

⑫(番外編2)世田谷区立八幡小学校校庭
東大講師の小金丸幾久氏の制作
(昭和41年7月19日)半ズボン
http://school.setagaya.ed.jp/yata/

■役に立たないクイズ
有栖川、岡山、広島の新聞少年像作品は
朝倉響子さん作ですが、馬車道に彼女の作品があります!
「ニケとニコラ」という名前です。さあどこにあるでしょう????
答えは明日にしておきましょう。

No.156 6月4日(月) 三ツ池公園「コリア庭園」開園

桜の名所として名高い横浜市鶴見区の三ツ池公園の中に「コリア庭園」があります。
1990年(平成2年)6月4日、曜日も今年と同じ月曜日に開園しました。
「神奈川県」と「韓国京畿道」との友好提携を記念して造られたものです。
近年日韓関係はぎくしゃくしていますが、互恵の心を忘れず大人のつきあいをして欲しいものです。
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(神奈川県と友好提携)
京畿道(キョンギド、けいきどう)は、大韓民国北西部(朝鮮半島中西部に位置する行政区です。1990年(平成2年)4月に友好提携されました。
「京畿道」からソウル特別市と仁川広域市を除いた地域がエリアですが、何故神奈川県と提携都市になったか?
“穿った見方”だと

京畿道は、神奈川と立場が似ているからでしょうか?
「神奈川県」は政令指定都市を3つも抱え、
「京畿道」も特別市や広域市を抱えてメインどころは独立されてしまっているから?真偽のほどはわかりません。
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(神奈川県立三ツ池公園)
「三ツ池公園」を紹介します。
その名のとおり、園内には3つの池(上の池、中の池、下の池)があります。

35品種1,000本を超える桜が植えられています。
残念ながら開花時期にはいつも機会が無く別な季節ばかり訪れていますが、日本さくら名所100選の一つに選定されている総合公園です。
公園整備が行われ開園したのは1957年(昭和32年)です。園内にある3つの池は江戸時代の1787年(天明7年)に、農業用水のため池として浚渫・整備された歴史ある池だそうです。
※三ツ池公園のランドマークはTVKの放送塔です。
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(コリア庭園)
パンフレットによれば、「友好提携を記念し、在日韓国・朝鮮人の方々が「故郷」を感じ。まや多くの県民が朝鮮半島の文化に対する関心と理解を深める場となるよう整備しました。」
「コリア庭園」は前苑、前庭、主庭、後庭、後苑の五つの庭から構成され三ツ池公園の大自然の中に李氏朝鮮時代の邸宅が佇むという趣です。
「韓流」ドラマの1シーンに入り込んだような雰囲気が漂っています。
解説パネルも丁寧に設置されているので、狭いながらもじっくり園内を楽しむことができます。
私が訪れた時にはちょうど桜と梅が同時に咲いていました。
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(狛犬の隣人?ヘッテ)
朝鮮半島に伝わる守護神とされる想像上の動物です。
獅子に似て、たてがみの中に鹿に似た角が一つあるのが特徴だそうです。狛犬は高麗から来ているという説もあるように、沖縄のシーサー、台湾の風獅爺とも多くの共通点を見いだすことが出来ます。
善悪を判断し、人の争いを見ると、正しくない方を角で突き、火事や災いを退治する役割を持っているそうです。
形もいろいろあるそうですが、ここにある「ヘッテ」はお茶目!な感じですね。
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コリア園のヘッテ
韓国旅行の際に訪問宅の門前に建つヘッテ
(通友斎)
主庭に建つ「別堂」は来客を迎える部屋を京畿道スタイル風に再現したものです。
堂名は友好の意味を持つ「通友斎」と命名されています。
高床の室内を見学できます。
床に座り外の景色を眺めるひと時はなかなか良いものです。
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公園ともども入場無料ですので、まだの方は是非来園を。

No.155 6月3日(日) パリ万博と神奈川沖

ここに一枚の絵があります。
葛飾北斎の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」です。
1831年(天保2年)頃描かれたものです。
今日は 「フランス月間シリーズ2」です。

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描かれた場所は、現在の神奈川区大黒ふ頭近くと推察できます。
※専門家のサイトでは、本牧沖となっている推論が多いようです。
 富士山の形から推理している方もいます。
北斎は見聞イメージをデフォルメする天才でしたから、この周辺としか確定できないようです。
現代なら?と合成してみたのが下記の写真です。

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「神奈川沖みなとみらい」合成

この「神奈川沖浪裏」を含め、日本の版画が欧州の芸術にインパクトを与えた事は有名です。特にゴッホやマチスらに影響を与えました。
海外と殆ど区流のなかった日本で独自に発展した文化と欧州の文化が出会った舞台が当時頻繁に開催された博覧会です。
中でもパリの万国博覧会は
 1855年(5月15日から11月15日)34ヶ国が参加(嘉永4年)
 1867年(4月1日から11月3日)42ヶ国が参加(慶応3年)
   ※日本が幕末に初参加しました。
 1878年(5月20日から11月10日)36ヶ国が参加(明治11年)
   ※シャイヨー宮を建設
 1889年(5月6日から10月31日)35ヶ国が参加(明治22年)
   ※エッフェル塔を建設

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 1900年(4月15日から11月5日)(明治33年)
  ※グラン・パレとプティ・パレを建設
  ※日本政府は法隆寺金堂風の日本館を出展しました。
 1925年現代産業装飾芸術国際博覧会
    (4月28日から11月8日)(大正14年)
 1937年(5月25日から11月25日)44ヶ国が参加(昭和12年)
と6回(プラス国際博覧会)行われています。
これに参加した事で産業振興の刺激を受け、国内でも東京上野や京都で内国博覧会が開かれるキッカケとなります。
そもそもフランスの万博は1851年に開催された「ロンドン万国博覧会」に対抗しナポレオン3世の威信をかけた博覧会でした。
この万博がキッカケとなってボルドーワインの格付けが始まりました。

(日本、パリ万博に参加)
第二回パリ万国博覧会1867年(慶応3年)は日本が初めて参加した国際博覧会です。
江戸時代は、いわば合衆国みたいな統治機構でしたので江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ出展しました。
(とはいえ江戸幕府の衰退を現すものでもありました)
出品内容は浮世絵や、陶器、漆器、金細工などの工芸品が中心でした。
この第二回パリ万国博覧会に 浮世絵を含めた「版画」が展示され、当時のパリ在住のアーティスト達の衝撃を与えたことは有名です。
「ジャポニスムの教科書」と呼ばれた『北斎漫画』はモネ、ゴッホ、ロートレックなど、多くの画家が影響を受けました。
さらに、第三回パリ万国博覧会1878年(明治11年)では、前回に引き続き日本館に注目が集まり、パリ美術界のジャポニスムに拍車をかけます。
1889年エッフェル塔建設で話題となった第四回パリ万国博覧会では、
国内で廃仏毀釈、江戸文化排除の影響で評価が下がります。
多くの「浮世絵」が日本人画商の手で輸出され、欧米でもこれらの浮世絵を入手することができるようになりました。
そして最も日本政府が力を注いだのが第五回パリ万国博覧会1900年「アール・ヌーヴォーの万博」とも呼ばれた“19世紀最後の大博覧会”です。
政府は殖産興業の威信をかけて法隆寺金堂を模した日本館を建設し、日本美術の展示を行いましたが、皮肉にもこの展示が日本美術の国外流出に一役買った事は皮肉な事です。エンターテイメントでは川上音二郎・貞奴夫妻の(ゲリラ公演)も行われ、貞奴は「マダム貞奴」としてパリ社交界にデビューする事になります。

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暦で綴る今日の横浜 1月2日 ニュース芝居、最先端劇場で上演

(ジャポニスムは多分野へ)
吉田秀和に「独断的でさえあるかも知れないドビュッシーに、本当の天才を感じ」ると評させたクロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy, 1862年8月22日 – 1918年3月25日)も当時の画壇と呼応し印象派の音楽家と言われました。
彼もゴッホ達同様に日本・アジアにカルチャーショックを感じました。1889年の第四回パリ万国博覧会で出会ったジャワ音楽のガムランや、日本館で展示されていた版画に影響を受けました。
1905年に作曲した管弦楽曲
La Mer, trois esquisses symphoniques pour orchestre
はスコアの表紙に冒頭の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」をアレンジしたデザインを採用します。

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■La Mer

■Debussy: La Mer / Abbado ? Berliner Philharmoniker
Claude Debussy: La Mer / Claudio Abbado, conductor ? Berliner Philharmoniker / Recorded at the Berlin Philharmonie, 24 May 2009
http://www.youtube.com/watch?v=4240QMQ1jhU

■Debussy – “La Mer”: “Play of the Waves”
Second movement of Claude Debussy’s “La Mer” (“The Sea”): “Jeux de vagues” (“Play of the Waves”).
http://www.youtube.com/watch?v=3o8uUP0lS9c

直接この絵に曲が影響されたかどうかは議論があるようですが、ドビュッシーにとって浮世絵、そして“マダム貞奴”の妖婉さは、当時のパリの東洋趣味を象徴するものであったことは確かなようです。

(フランス月間2012)※終了しています
ボルドー音楽祭
Musiques Festiv’ in 横浜 2012 ドビュッシー・イヤー
http://www.institut.jp/ja/evenements/11882
■6月30日(土)16時
会場:トレッサ横浜
入場無料
■7月2日(月)19時
会場:横浜みなとみらいホール
料金:会員3,800円、一般4,000円

No.154 6月2日(土) 華麗なる居留地ビジネス

フランス月間シリーズ1
今日は横浜で一番人気のある日です。
巷は有り余る「開港記念」の情報とイベントで賑わっています。
花火まで打ち上げられます。
(以下2012年の記事)

ここでは、少し目線をシフトしたテーマをご紹介します。
今日6月2日(土)から、横浜各地でフランス月間が始まりました。(〜7月15日)
ということで横浜とフランスを巡る居留地時代のエピソードを少々。

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※2013年は6月1日から開催しています。
 http://www.institutfrancais.jp/yokohama/events-manager/mois-de-la-france/

■外国人居留地
横浜が開港し居留地と呼ばれる治外法権エリアが1859年(安政6年)以来1898年(明治32年)まで約40年間、現在の関内・山手地区にありました。
【居留地概要】
★居留地の外国人数
1878年(明治11年)の横浜居留地外国人数
( )は商社の数です。
 イギリス:515人(54)
 アメリカ:300人(34)
 ドイツ:175人(23)
 フランス:120人(34)
 オランダ人:59人(3)
 中 国:1,850人
各国の通弁や使役のために横浜に暮らした中国人を除き、横浜居留地では圧倒的に英米人でしたが、フランスは商社の数から分かるようにビジネスの分野で深く横浜と関わっていました。
フランス人無しでは完成しなかった幕末の「横須賀製鉄所」の存在も大きかったのではないでしょうか。
現在、山手の「フランス山」の名に当時の名残を残していますが、開港時は様々な分野に影響を与えた重要な国であった事は間違いありません。bloP3179438★横浜居留地総面積
関内地区の半分と、山手を含むエリアの約108ha
現在の関内、山手地区の総面積が294ha(埋立て等も含む)ですから
かなり広い面積であったことが推測できます。blo-E5-B1-85-E7-95-99-E5-9C-B0-E3-83-9E-E3-83-83-E3-83-95-E3-82-9A41【居留地の仏蘭西】
居留地の仏蘭西人の活躍といえば ホテルと料理(レストラン)です。
横浜居留地に初めて仏蘭西人経営のレストランがオープンしたのが1864年6月1日開業の「ア・ラ・ヴェリー」です。フフナゲールが始めた「横浜ホテル」を買い取った新オーナーがホテルの一角にテナントとして導入したレストランです。
ここで出されたアイスクリームや本場フレンチは国籍を問わず居留地外国人の評判となりました。(残念ながら1866年の大火事「慶応の大火」で全焼し再建される事はありませんでした)
このように、居留地では仏蘭西人の手によるレストランやホテル経営が多く、最も多かった英国人達を相手にこの分野は圧倒的にフランス流でした。
1878年(明治11年)に来日し、7ヶ月の短期間に驚異的な旅行を達成したイギリス人イザベラ・バードが横浜港に着いた時、彼女の宿泊先としてイギリス領事館が推薦したのが後の「グランドホテル」オーナーである仏蘭西人ボナが経営する小さな「オリエンタル・ホテル」でした。

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居留地時代多くのホテルがオープンしました。
ただ、当時の居留地でのホテルレストラン経営は中々成功せず、一二年で撤退または転売されることが多かったようです。
1874年頃居留地164番にオープンした「オテル・デュ・ルーブル」という小さなホテルも仏蘭西人コックのラプラスがオーナーです。
数年しかオープンしていませんでしたが、料理が自慢のホテルだったそうです。
奇遇ですが福沢諭吉がパリに滞在したとき泊まったホテルの名と同名です。(母国の有名なホテル名を名乗ったのかもしれません)
1862年(文久2年)に、文久遣欧使節団(開市開港延期交渉使節)の一員として20日間ほどパリに滞在したとき泊まったホテルが「オテル・デュ・ルーブル」です。
ルーブル美術館の前にあるこのホテルとオーナーは全く異なりますが、パリの「オテル・デュ・ルーブル」は現在も一流ホテルとして健在です。

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居留地80番には1875年(明治8年)に人気の仏蘭西菓子店「ペィル・フレール商会」がオープンしました。順調に業績を伸ばし広い店舗として居留地84番に移転します。
そこでパイや洋菓子店と一緒に喫茶室「ホテル・ペィル・フレール」を併設し東京でも有名なレストランとなります。
1875年(明治8年)に14歳でアメリカから横浜に来たクララ・ホイットニーにとってもお気に入りのお店で、このペィル・フレールでの食事を楽しみにしていたそうです。
※クララ・ホイットニーは後に勝海舟の三男・梅太郎と国際結婚します。
(まだまだ続きますが 本日はこの辺で。明日は パリ万博と横浜の関係について紹介します。)

【資料編】
お雇いフランス人の果たした役割
★法律 特に民法
ボアソナード(刑法、刑事訴訟法、民法、司法省法学校教員)
※太政官法制局御用掛、元老院御用掛、外務省事務顧問、国際法顧問等を歴任
★建築
ジュール・レスカス(建築家、鉱山技師)
※明治初期に活躍した在日フランス人建築家。明治4(1871)年に来日。官営生野鉱山に勤めたのち、横浜に建築事務所を開設しました。代表作は西郷従道邸宅)
★造船、灯台、製糸工場
アンドレ・ルッサン(横浜製鉄所 責任者)

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E・A・バスチャン(横須賀製鉄所・富岡製糸場などの設計)
ポール・ブリューナ(富岡製糸場の首長(責任者)、建設から近代製糸技術の導入まで)
※ヴェルニーは横須賀製鉄所の技術責任者でした。
★メディア
ジョルジュ・ビゴー(漫画家、風刺画家)

【関連】
これまでのブログでフランスに関係するものをピックアップ
4月3日 横浜弁天通1875年
※モーリス・デュバール

1月27日 ニッポン、国際コンペに勝つ
※フランス人技術者 プレグランについて

2月3日 ポサドニック号事件で咸臨丸発進
※横須賀製鉄所(ちょっと)

4月17日 活きる鉄の永い物語
※横浜製鉄所

2月16日 ヨコハマグランドホテル解散
※イギリス人が建て、フランス人が買い取り経営した居留地ナンバーワンホテル

3月25日 日本の運命を変えた男横浜に入港
※ジェイコブ・ヘンリー・シフが気に入ったホテルがグランドホテルでした。

No.153 6月1日(金) 天才と秀才

いよいよ6月に突入しました。
最近切れ味が悪くなったという超個人的なメッセージも頂戴しております。
確かにちょっとパターン化して普通の横浜紹介ブログになっているようですが?
との指摘も。
ちょっと自覚してます。
さて、今日ですが1889年(明治22年)6月1日、25歳だった二人の俊才がフェリス女学校の大講堂で演説を行いました。
明治期のフェリス女学院のエネルギーを伝える若松賤子(島田かし子)と同じく中島湘烟(岸田俊子)の短くも激しい人生を追います。

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(英語の秀才誕生)
日本で内乱が起った幕末、幕府を最後まで支持したことで悲劇の道を辿った会津藩士達にも家族がいました。
藩士松川勝次郎正義の長女として会津若松市宮町に生まれた“松川甲子”は、父が青森へ(強制移封)され
母を病気で失う逆境の中で
その後の人生を変える出会いがあります。
横浜から一人の商人が仕入れのために会津若松を訪れました。
横浜南仲通3丁目で広く織物商を営んでいる山城屋和助の店の番頭大川甚兵衛でした。
大川はそこで出会った少女の聡明さに驚き養女として貰い受けます。
横浜に移った彼女は理解ある養父のもと、近くにあった
「キダーおばさんの学校」7歳で通い始めます。
後に“若松賎子(わかまつしずこ)”というペンネームで名訳を残す語学の秀才と
フェリス女学院創始者メアリー・E・キダー Mary E.Kidder (1834〜1910) との出会いです。
「キダーおばさんの学校」には神奈川県令陸奥宗光夫人を始め様々な人々が通っていましたが、純粋に生徒としてキダーに学び卒業した第一期生は若松賎子、だだ一人でした。
若松賎子はフェリス女学院第一回卒業生としてその名が刻まれています。
フェリス女学院
http://www.ferris.ac.jp/

※彼女程、名前の変わった人物も少ないと思います。
松川勝次郎正義の長女として、会津藩城下に生まれます。
後の若松賤子の名は「会津若松」の若松を名のります。
 “松川甲子”→養女で大川かし→養父死亡で実父の隠姓「島田」を名のり島田かし子→ペンネームが若松賤子です。結婚し巌本かしとなります。

(天才・神童の出現)
若松賎子の半年前(文久3年)に京都の呉服商の長女として生まれた「岸田俊子」は、小さい頃から神童と呼ばれた俊才でした。
1870年(明治3年)6歳で下京第15校に入学、
1875年(明治8年)中学に進みます。
1879年(明治12年)15歳で昭憲皇太后(当時34歳)に「孟子」などの漢書講義を担当する事となった訳ですからその「俊才」ぶりが伺われます。
いじめられのかどうかはっきりしませんが、名誉職を1年で辞退し“自由民権運動”に目覚めていきます。
1882年(明治15年)4月大阪道頓堀の政談演説会で最初の演説デビューとなった岸田俊子の「婦女の道」は、世間をあっと言わせます。
あでやかな容姿、弁舌口調は視聴者を魅了します。
全国各地で彼女の演説は人気を博しますが、時代は言論封殺、明治の暗黒時代に入ります。滋賀県大津の演説で官史侮辱罪で投獄され、方向転換を迫られ演説から寄稿による言論に変わっていきます。
この時期活動を共にしていた18歳年上の自由党副総裁中島信行と結婚(後妻)します。
若き日の中島信行は、坂本龍馬、睦奥宗光ら土佐藩士と共に討幕運動に参加した海援隊メンバーの一人で、死別した最初の妻は睦奥宗光の妹でした。
睦奥宗光、中島信行は共に神奈川県令を務め、中島は第一回の衆議院選挙で神奈川4区で当選した横浜ゆかりの人物でもありました。
※神奈川第1区は島田三郎

(二人の出会い)
ちょうどこの頃、結婚して中島俊子(中島湘烟)となったころ、明治女学校を経営し『女学雑誌』の編集人をしていた巌本善治の紹介でフェリスの教師となります。
フェリスを卒業後も、助教としてフェリスと深く関わっていた若松賤子と中島湘烟がここで出会う事になります。
1889年(明治22年)中島湘烟(25歳)は、教員としてフェリス女学校の大講堂献堂式兼開校14年祝賀会で祝賀演説を行い、若松賤子(25歳)は卒業生として「昨日と明日」という英語演説を行うことになります。『フェリス女学院100年史』
中島湘烟をフェリスに紹介した巌本善治は、この大講堂献堂式兼開校14年祝賀会の後かねてより交流のあった若松賤子の婚約を破棄させて1889年(明治22年)横浜海岸教会で結婚します。
(彼女がすでに肺結核に罹っているいることを知った上での結婚でした)

バーネットの『小公子』の名訳で知られる英語の秀才若松 賤子(巌本嘉志子)は1896年(明治29年)2月10日に心臓麻痺を起こして亡くなります。
31歳でした。
結核を病みながらも強靭な意思で家事と三人の子供の育児と執筆を続けますが、亡くなる5日前に起った夫の経営する明治女学校が炎上したことに大きなショックを受けていました。死因はそれによる心臓麻痺ともいわれています。

一方、中島湘烟も1893年(明治26年)9月にイタリア公使になった信行ともに結核を発病、日本に帰国し治療に専念します。
1899年(明治32年)3月26日、信行が肺結核のため53歳で亡くなり、
1901年(明治34年)5月25日一年後追うように中島湘烟、肺結核のため28歳で逝去します。

近代日本が一番自由で希望に溢れていた時代は、この時だったかもしれません。男も女も、明日の日本を夢見た時代が明治前期でした。

治安維持法以上にご都合主義の弾圧法が次々と生まれ、維新の自由な芽生えは現実主義の前に封殺されていきます。
1887年(明治20年)公布「保安条例」。
1887年12月25日に制定、発布され、即日施行された条例

No.146 5月25日 学園祭に行こう!