No.318 11月13日(火)横浜戒厳令
国際会議は開催地にとって重大なミッションです。
近年、横浜で開催された最大の国際会議は
2010年(平成22年)11月13日(土)14日(日)に開催された
22回APEC2010首脳会議 in Yokohamaです。
横浜が数ヶ月厳戒態勢になりました。
エイペック(APEC)は
アジア太平洋経済協力(Asia-Pacific Economic Cooperationのことです。
「環太平洋地域における多国間経済協力を進めるための非公式なフォーラム」と位置づけられていますが、重要な経済会議です。
1978年、日本の大平正芳総理大臣が就任演説で「環太平洋連帯構想」を呼びかけたことに始まり太平洋経済協力会議(PECC)が設立されます。
No.189 7月7日(日) ぼくは日本人を信じます
この議論の舞台が発展してAPECとなりました。
1989年(平成元年)に日本・アメリカ合衆国・カナダ・韓国・オーストラリア・ニュージーランド及び当時の東南アジア諸国連合 (ASEAN) 加盟6か国の計12か国でスタートします。
※この後、日本はバブル崩壊で経済的にも政治的にも混迷の時期を迎え、
APECの主導権を得る最大のチャンスを失います。
第22回APEC2010 in Yokohamaには21の国と地域が参加しました。
詳細に関しては
不思議なことに「外務省」と「経済産業省」が独自に報告のHPをアップしています。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/apec/2010/
http://www.meti.go.jp/policy/trade_policy/apec/index.html
■過去のエイペック日本開催は
1995年(平成7年)11月19日大阪で開催されました。
(地元の大騒動)
APEC開催は11月13日(土)14日(日)と表記されますが、一年かけて予備会議等々が展開します。横浜だけでも11月7日から始まりました。
2009年
12月日本APECシンポジウムならびに非公式高級実務者会合(東京)
2010年
2月第1回高級実務者会合(広島市)
5月〜6月第2回高級実務者会合及び貿易担当大臣会合(札幌市)
6月エネルギー大臣会合(福井市)
8月成長戦略ハイレベル会合(別府市)
9月第3回知的財産権専門家会合及び高級実務者会合(仙台市)
10月中小企業大臣会合(岐阜市)
10月食料安全保障担当大臣会合(新潟市)
10月電気通信・情報産業大臣会合(名護市)
11月財務大臣会合京都市
11月7日〜8日
最終高級実務者会合(横浜市)
11月10日〜11日
第22回APEC閣僚会議(横浜市)
11月13日〜14日
首脳会議(横浜市)
(厳戒横浜)
APECは
横浜で決勝戦が行われる感じで
全国で予選が行われます。
決勝戦のある横浜では首脳が来日(横浜)することもあり、
我々が日常都市生活の中にAPECが現実のものになってきたのが夏頃でした。
全国から応援の警察官が交代で横浜に駐屯し市内警備にあたりましたが、
観光客や外来者にいろいろ尋ねられているのが大変そうでした。
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野毛でも24時間検問 |
横浜市民ですら、乗換の説明は四苦八苦する街です。
ご苦労様でした。
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気がつくと視線が… |
街中に開催のフラッグがたなびきます。
タクシーに乗ると殆どの運転手から
「APECなんか誘致されたおかげでエラい迷惑」と愚痴られます。
確かに市内中心部は厳戒態勢で交通規制が敷かれています。
走りにくいと思います。
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封印されたコインロッカー |
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桜木町駅近辺 |
(横浜を売込め)
この機会を活かして
APEC開場の中に日本と地元横浜をPRするコーナーが設置されました。
期間中、お菓子の試食提供が記者団に行われましたが、この時横浜発信のマークが使われました。
食事の禁忌に配慮した「食材ピクトグラム」です。
このマークは、大川印刷(横浜市戸塚区)と大阪市のNPO法人が食材ピクトグラムを提言したものです。
http://www.ohkawa-inc.co.jp/new_project/pict.html
お土産にも横浜記念をプレゼンテーションできました。
横浜といえば、捺染技術がトップクラス。
地元捺染企業「濱文様」がグッドデザイン賞を受賞した
「てぬぐい本」がAPEC仕様で関係者に贈られました。
http://www.hamamo.net/shopbrand/069/X/
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会期を終えて市長記者会見 |
No.317 11月12日(月)「GRⅥ」
1970年(昭和45年)11月12日(木)の今日、中区山手にある旧英国総領事館公邸をイギリス館として整備し一般開放しました。地味な洋館ですが、この地「トワンテ山」に建つ渋く良質な「洋館」です。
(残すちから)
山手地区は横浜を代表する景観スポットです。中でも「港の見える丘公園」周辺は、季節を問わず多くの観光者、地元の散策者が訪れる場所です。この「港の見える丘公園」一帯は、地域住民と横浜市が“努力”して創り上げた景観地区です。いい場所は“占領者”が離しません。根岸の森林公園周辺同様、このエリアを公園として保全するには厳しい道程があったようです。
山手地区に“洋館”といえば定番のように思われがちですが、戦後山手地区で保全された洋館は少なく意図的に整備されたものです。
洋館保全に関しては神戸エリアが量的にも質的にも圧倒的しています。(神戸では異人館と表現しています)
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神戸異人館マップ |
神戸に対し、横浜山手には「(財)緑の協会」が管理している7つの洋館と、民間が公開してる幾つかの洋館が代表的なものです。
数は少ないですが質、周辺環境との一体感は全国でもトップクラスでしょう。
その代表格を(私は)イギリス館だと思っています。
(代表的西洋館)
※解説は割愛します。一部のみ記載。
■イギリス館(英国総領事公邸を譲渡・整備)
横浜市指定文化財→後半で紹介
■山手111番館(譲渡・整備)
設計者はJ.H.モーガン。
■山手234番館(譲渡・整備)
1989年(平成元年)に横浜市が歴史的景観の保全を目的に取得したもの。外国人向けの共同住宅(アパートメントハウス)として構造が面白い。洋館好きの方必見。
■エリスマン邸(解体・移築・再現)
1925年(大正14年)から1926年(大正15年)にかけて山手町127番地に建設。その後解体・移築・再現。
■ベーリック・ホール(譲渡・整備)
イギリス人貿易商B.R.ベリック氏の邸宅として、1930年(昭和5年)にJ.H.モーガンが設計。戦後、2000年(平成12年)まで、セント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用されていました。
■外交官の家(移築・復元)国の重要文化財
※人気度一番
■ブラフ18番館(解体・移築・再現)
元町で製作されていた当時の横浜家具を復元展示しています。
●えの木亭(店舗使用)
山手234番館と同じ朝香吉蔵の設計
ここの洋菓子は、業界人もよく来るという逸品。
●岩崎博物館(復元)
●山手資料館(移築)
●ブリキのおもちゃ博物館(改装)
●山手聖公会教会(修復)
(港の見える丘公園エリア整備史)
■1962年(昭和37年)港の見える丘公園 開園
No.129 5月8日 ヒット曲の公園
■1970年(昭和45年)11月イギリス館 会館
■1972年(昭和47年)6月フランス山公園 開園
No.175 6月23日 フランス軍港があった丘
■1978年(昭和53年)大佛次郎記念館が開館
→大佛次郎記念館
http://www.yaf.or.jp/facilities/osaragi/
■1984年(昭和59年)神奈川県立近代文学館開館
→神奈川県立近代文学館
http://www.kanabun.or.jp/
■1999年(平成11年)山手 111番館に再整備
→ローズガーデンと山手 111番館
http://www2.yamate-seiyoukan.org/seiyoukan_details/yamate111/
(イギリス館)
幕末から明治期にイギリスがフランスと並んで駐屯したエリアの一角にあった「旧横浜英国総領事公邸」を整備したもので、山手地区の洋館整備の先駆けとなった歴史的建造物です。
※山の手一帯を英仏が占領するキッカケとなったのが「生麦事件」だそうです。
このエリア一番乗りはフランスで、イギリスは遅れてフランス軍を上回る陣容で「山手」に乗込みます。
この時の部隊名が「第20連隊」で、この名から「トゥエンティ」を「トワンテ」と呼ぶようになり「トワンテ山」と長らく呼ばれていました。
イギリス軍駐屯地跡に、
1937年(昭和12年)上海の大英工部総署により英国総領事公邸が建てられます。
コロニアルスタイルで、当時の英国都市建築を象徴しています。
玄関横には時代を象徴する王冠と、その下には「GR」と「IV(ローマ数字の6)」(ジョージ六世(George VI))との合わせ文字、さらにその下に「1937」の文字を刻んだ銘板が取り付けられています。
この一体が公共空間となったのは比較的最近のことです。
1969年(昭和44年)に横浜市が買収し、翌年市民利用施設として開館しました。
旧英国総領事公邸はイギリス館ですが、旧英国総領事館は現在、横浜市開港資料館旧館です。
コンサートや会議室として利用できますが、
横浜市イギリス館は改修工事が行われるため来年平成25年1月から平成25年3月末まで休館するのでご注意ください。
http://www2.yamate-seiyoukan.org/seiyoukan_details/Igirisukan/
(12月がおすすめ)
山手の洋館群はクリスマス時期がおすすめです。
様々な企画が満載で、夕暮れのイルミネーションがすばらしいです。
No.316 11月11日(日)みなゆず 頼み
商店街に未来はあるのか?
今、日本中の商店街の多くが“瀕死”“瓦礫”状態です。
生き残るには何が必要なのか?
消え行くのみか?
方法論は異なるでしょうが、過去に生き残りをかけた商店街戦略が従前の常識を打ち破りました。一つの事例を紹介します。
1978年(昭和53年)11月11日(土)の今日、イセザキ・モールの完成記念式典が挙行されました。
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イセザキイルミネーション |
(屋根のある商店街)
現在全国各地に見られるようになった「ショッピングモール」(アーケードの無い買物公園)は1970年代では特異なスタイルでした。
賑わう商店街は、店の軒先に屋根を架けるか、道路に“がさっと”アーケードを重ねるのが現在でも主流です。
雨の多い、夏の日射しが強い日本では商店街に「屋根」は悲願の集客設備です。
伊勢佐木町商店街も、戦後長らく軒先アーケードの商店街でした。
この「アーケード」いざ造ろうとすると、極めて不自由な建築基準法における道路制限を乗り越えなければなりません。道路に突き出して構造物を設置してはいけないからです。アーケードは「商店街のステイタス」でもありました。
(空のある商店街)
イセザキショッピングストリートには屋根がありません。
一丁目から七丁目まである伊勢佐木町商店街がまとまってアーケードと電柱を取り去り、歩行者専用(一部優先)道路にする方針に舵を切るには大変な決断を必要としました。
この決断が、地盤沈下していたこのエリアを救う大きなインフラになったことは間違いありません。「ショッピングモール」(アーケードの無い買物公園)化が全ての課題への回答ではありませんが、結果として伊勢佐木がイセザキになり多くの老舗が生き残ることになります。
(中心地シフト)
開港以来横浜の商業中心地だった「イセザキ」を含む関内・元町エリアは、横浜駅の発展によりその座を失います。
No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争
横浜市中区にある「伊勢佐木町通り」に連なる商店街は、開港に伴い居留地を中心とした関所内“関内”の日本波止場から馬車道を通じ、吉田橋から関所外“関外”の居留地バックヤードとして発展します。
No.85 3月25日 日本の運命を変えた男横浜に入港
1906年(明治39年)に横浜を訪れた銀行家Jacob Henry Schiffは、夕食後伊勢佐木に繰り出し、人の多さに驚いています。
鉄道は、隣町桜木町(初代横浜駅)まで。そこからは「横浜電気鉄道」後の「市電」が都市部を縦横に連結した機動性のあるコンパクトシティが形成されていました。
ザキでの買物は 横浜人の“ハレ”でもありました。野澤屋で買物し博雅亭で食事といった図式は、東京銀座に匹敵する当時の流行でもありました。
しかし、横浜駅が東西が競うように発展するに従い、商業の中心部は横浜駅に移っていきます。1966年(昭和41年)から市電路線の廃止が始まり人の流れは大きく変化していきます。根岸線が桜木町以降大船まで延伸することで、関内エリアはさらに空洞化していきます。
(個性化)
横浜市と地元商店街が危機意識を持ち、個性ある商店街への道を模索し始めたのは「馬車道商店街」が最初でした。
1975年(昭和50年)4月に馬車道商店街街づくり協定が締結されます。
市営地下鉄関内駅が開業するにあたって、海からの重要な軸線(当時はまだみなとみらい線計画は協議の遡上に上がっていませんでしたが…プランはあった)を活かす馬車道モール計画が提案され、地元の推進で一気に完成します。
「歩くことが楽しい通り」という現在の常識が実現します。
電柱埋設は当時、強固な障害を幾つも乗り越えなければなりませんでした。この馬車道プランに強く影響された伊勢佐木1・2丁目商店街が多くの反対を説得し最後には全会一致でモール化に踏み切ります。
1978年(昭和53年)11月11日(土)の今日となります。
1982年(昭和57年)11月に3・4丁目のモールオープン
5・6丁目は平成に入って1991年(平成3年)オープン
7丁目のモールがオープンし一丁目〜七丁目までモールでつながったのが1994年(平成6年)のことです。
果たして 効果が上がったのか?イセザキは個性的になったのか?
時間がかかりすぎ タイミングを逸したという意見もあります。
まだこの通りには可能性がある と頑張っている人たちもいます。
1968年(昭和43年)横浜市の人口は驚愕の増加で200万人を突破し、「ブルーライトヨコハマ」と「伊勢佐木町ブルース」が大ブレークし、横浜認知度が急上昇します。
伊勢佐木通りの戦後の黄金時代となります。
時代の当事者は中々、次への舵を切ることが出来ません。
馬車道、イセザキの場合、そこに情熱と未来を見据えたリーダーがいたことが成功の道筋でした。
今イセザキは 「ゆず」の登場でその認知度を高めています。
青江三奈からゆずへ 自力の個性化はどこへ?
その次の一手が 後手後手になっているように感じるのは私だけではないでしょう。
No.18 1月18日 三度あることは四度ある
No.30 1月30日 MATSUYA GINZAのDNA
No.41 2月10日 不二屋伊勢佐木町店新築開店
No.137 5月16日 全店サマークリアランスセール開催中
No.176 6月24日(日) 関内の粋といやーー、ね。
No.190 7月8日(月)パブリック・ディプロマシー
No.281 10月7日 (日)場所探しの悦
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新しくオープンしたカトレアプラザ |
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佐藤忠良の作品(1978.11.11) |
No.315 11月10日(土)オンリーワンEV
先ほどまで“横浜市営バス運行が始まった日”で原稿をすすめていましたが、
記念日一覧で思い出したことがあってこちらに急遽します。
11月10日はいろいろな記念日になっています。
その中から横浜に因んだ記念日を紹介します。
「11月10日エレベーターの日」です。
日本エレベーター協会が1979年(昭和54年)に制定しました。由来は1890年(明治23年)の今日、東京・浅草の「凌雲閣」に日本初の電動式エレベーターが設置され一般公開された日に因んでいます。
(エレベーターといえば)
横浜にも創業90年の歴史を誇る「横浜エレベータ株式会社」という会社があります。この会社、数ある大手エレベーター会社には無い「オンリーワン」で勝負しています。
www.yokohama-elevator.jp
創業は1923年(大正12年)エレベーターの専業メーカーとして神奈川・東京首都圏を中心に全国各地に多様なエレベーターを納入しています。
特に荷物用・油圧式エレベーターに強みを持つ会社です。
「2007年にはかごの中をガラス張りにし、油圧ジャッキのみの昇降路とガイドレールをなくした『テレスコ式』エレベーターを制作納入。特許を得ているほか、業界誌『Elevator World』(エレベーターワールド)Project of the yearを受賞している。」(Wiki)
このガラス張りエレベータが最も似合う場所が「横浜国際客船ターミナル」で米国の業界紙「エレベーターワールド」主催のコンテストで1位になった実績があります。
2009年『Elevator World』
Category 1: Elevators, New Construction (tie)
Nicolas G. Hayek Center — Yokohama Elevator Co., Ltd.
http://www.elevatorworld.com/Extras/01_09/extras.html
1923年 – 横浜エレベータ商会として創業。
1946年 – 富士美興業株式会社設立。戦後、GHQより日本全国のGHQ施設のエレベーターの復旧工事と性能検査を受託することにより事業を発展させ、今日の基礎を固めた。
1949年 – 横浜エレベータ富士美興業株式会社に社名変更。
1952年 – 自社製エレベーター開発、販売開始。
1959年 – 横浜エレベータ株式会社に社名変更。
1963年 – パウルシュミット社(ドイツ)と販売技術提携。
1966年 – 油圧エレベーターの開発、販売開始。
1976年 – 寶組勝島倉庫に積載量50トンの油圧式エレベータを納入。
1995年 – エスカレーター販売開始。
2004年 – 横浜国際客船ターミナルに納めたエレベーター(ガラス張り・ガイドレールレス)が米国の業界紙「エレベーターワールド」主催のコンテストで1位に。
(実績)
横浜高速鉄道みなとみらい線 日本大通り駅(乗用/機械室レス、シースルー)
大さん橋国際客船ターミナル(人荷用/シースルー、テレスコフレーム)
磯子区総合庁舎(乗用)
横浜市交通局立場駅地下鉄1号線(乗用)
横浜市営勝田住宅 (住宅用/階段室型エレベーター)
横浜市立大学医学部付属市民総合医療センター (寝台用/ヘリポート)
かながわ労働プラザ(乗用/3台群管理)
http://www.zai-roudoufukushi-kanagawa.or.jp/~l-plaza/
横浜市営 勝田住宅第7期1工区 (住宅用/階段室型エレベーター)
神奈川県警察 港北警察署 (乗用/機械室レス・トランク付)
横浜ランドマークタワーロイヤル (人荷用)
川崎市立岡本太郎美術館 (乗用)
横須賀市美術館(乗用/シースルー)
金沢21世紀美術館 (乗用/シースルー、テレスコフレーム)
津久井赤十字病院 (寝台用)
東京都現代美術館 (乗用/シースルー)
羽田空港 第1旅客ターミナルビル (乗用)
東京ドームシティMEETS PORT (荷物用/3枚戸上方開き)
東京ドームシティMEETS PORT (人荷用/機械室レス、3枚戸横開き)
※さすがにエレベーターに関しては撮影していないものだ!と実感。
観察力アップしないと反省しきり。
No.314 11月9日 (金)薩長なんぞクソクラエ
司馬遼太郎が『坂の上の雲』でほとんど取り上げなかった人物に
秋山 好古の大親友がいます。
その名は加藤恒忠(拓川)、直接横浜には関係ありませんが、
今日はちょっと脱線します。
1883年(明治16年)11月9日の今日、24歳の“加藤恒忠”は、フランス留学のために横浜港で若き友人達と別れのひと時を過ごしたあと、10日早朝フランス郵船「タイナス号」でパリに旅立ちました。
加藤 恒忠は伊予松山で1859年2月24日(安政6年1月22日)に大原有恒の三男として生まれます。
1870年(明治3年)に12歳で藩校明教館に入り1875年(明治8年)に東京に出て翌年9月には司法省法学校に入る実力を発揮しますが、少々正義感が強すぎ学校長に対し反抗します。
1879年(明治12年)2月、ついに校長の運営に反対し退学届けを出し学校を去ります。「賄い征伐事件」(寮の料理賄いへ不満を抱き、校長を排斥しようとした事件)
この間に大原家から父の実家加藤家を再興し「加藤恒忠」を名乗ります。
司法省法学校校長があまりに藩閥の威を嵩にきたため伊予人としては我慢がならなかったのでしょう。
この時一緒に憤慨して退学届を出した人物がいます。
後の日本新聞社長、弘前出身の「陸羯南(くが かつなん)」
総理大臣となった盛岡出身の「原敬(はら たかし)」
漢詩で名を挙げた仙台出身の「国分青崖(こくぶ せいがい)」らです。
加藤 恒忠は、彼らとは終生友人として親交を温めます。
タンカ切って辞めた加藤 恒忠は、明治の思想家、中江兆民の塾に入り学びフランス語とフランスの近代思想に出会います。
そして1883年(明治16年)11月加藤 恒忠25歳の時、
旧伊予松山藩主久松定謨に随行して渡仏します。
この時、法学校を蹴飛ばした親友陸羯南(26歳)国分青崖(26歳)
そして、甥っ子の正岡子規(16歳)、子規の従兄弟 藤野古白(12歳)らが渡仏する加藤 恒忠を横浜まで見送ります。
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仏郵船会社のあった居留地十番、現在はホテルニューグランドが建っています。 |
加藤 恒忠はフランス滞在中に外交官試補になり、33歳の時に帰国します。ベルギー駐在特命全権公使、ジュネーヴの万国赤十字会議に全権として出席しますが、伊藤博文と対立し職を辞します。
その後、新聞記者を経て国会に登壇します。衆議院議員、ジュネーブ会議全権大使、松山市長などを歴任します。最後まで「正義の下で」闘った人生でした。同い年で同郷の日本騎兵の創始者「秋山好古」とは終生竹馬の友であり、相談相手でした。
正岡子規にとって叔父、加藤 恒忠は兄であり父にも近い存在でした。加藤も子規亡き後の正岡家を支援します。
(興津の風)
静岡県清水市興津に正岡子規の句碑が建っています。平成14年子規100年の忌日に建てられました。
結核となった正岡子規は弟子の伊藤左千夫に勧められて、興津で病気療養する予定でした。弟子の加藤雪腸や河東碧梧桐の手配により興津本町の松川医院(現、河村医院)に入院する予定でしたが、周囲の反対にあい、興津での療養は断念せざるをえなくなりました。子規自身は興津をお気に入りだったようで、ここに移るかどうか、そのメリット・ディメリットを書簡にして叔父加藤 恒忠に送っています。
子規は 興津に行きたかったのでしょうね。
「つきの秋 興津の借家 尋ねけり」
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訪れた時には野菊がきれいに咲いていました。 |
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奥の山裾が清見寺です。 |
2年後の1902年(明治35年)に36才の若さで亡くなりました。
第837話 正岡子規の7月2日
No.313 11月8日(木)遊女の涙
商売繁盛。いよー!手打で〆て来年も頑張ろう。
2012年の今日11月8日(木)と20日(火)は酉の日でした。
今日行けない人は、20日(火)近くの(おおとり)神社へGO。
2013年は、
11月3日(日)一の酉
11月15日(金)二の酉
11月27日(水)三の酉
近くの(おおとり)神社へGO。横浜といえば!
11月の酉(とり)の日には、商売繁盛の神様である全国の大鳥神社
(おおとりじんじゃ)、鷲神社(おおとりじんじゃ)や鷲妙見大菩薩の開帳日として賑やかな祭礼が昼過ぎから夜半まで行われます。
「酉の日」は、十干十二支を当てて定める日付け法で「酉」に当たる日のことです。「酉の市」縁起は神道と仏教の両説あるため、寺社でも神社でも行われます。
「ねうしとらう〜」と十二支が12日おきに巡ってきます。
日の巡り合わせにより、11月の「酉の日」は2回の年と3回の年があります。最初の酉を「一の酉」次を「二の酉」3番目を「三の酉」と称してこの日に祭りを行います。
俗に「三の酉」まである年は火事が多いと言われていますが
統計上はそのような傾向は無く迷信です。
ただ、火事は江戸時代最大の災害で「火の用心」が心がけられたことと結びついたのでしょう。
熊手
「酉の市」には縁起物を飾った「縁起熊手」を売る露店が立ち並びます。
寺社からは参拝に来た信者に小さな竹熊手に稲穂や札をつけた「熊手守り」が授与されます。熊手は福徳をかき集め、鷲づかむという意味が込められる縁起ものです。
商談が成立すると威勢よく手締めが打たれる光景が「酉の市」の風物を現しています。
(熊手の買い方)
お店によってデザインが違いますよ!選びましょう。
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購入したら壊れないよう高く挙げるのが流儀 |
欲しい“熊手”が決まったら、売り手(熊手商)とお客は掛け合いで値切り交渉を行います。
まず、お店を見つけて店の前に立ちます。
店からすぐに威勢のいい掛け声が飛んできます。
(ここでひるんだら来年の商売は上手くいきませんよ)
予算を決めておきます。熊手は1,000円位からありますが縁起物ですから10,000円位でどうでしょう!(1万〜5万が売れ筋だそうです)
予算よりも低めの金額を提示してみます。
お店も相場より小さいものを見せてきます。
より大きいもの要求したり、予算提示を少しアップさせたり、買った(勝った)まけた(負けた)と交渉を楽しみます。
商談が成立したら予算内でご祝儀を出し
めでたしめでたしとなります。
最近では 小降りの家庭用の「小物熊手」もありますからこれは縁日感覚で買ってみてはいかがでしょう。
(屋台勢揃)
もう一つの愉しみが通りの露天屋台の数々です。特設テントの居酒屋から、元々あるお店が出す屋台まで様々。
屋台には「時代性」もありますから眺めて歩くのも面白いものです。最近は古典の復活とご当地屋台ですかね。
(横浜で酉の市)
といえば、横浜市南区真金町にある「金毘羅 大鷲神社」です。隣接する横浜最大級の賑わい「横浜橋商店街」もついでに覗いてみましょう。
ここは、開国開港の街に相応しく創建は1859年(安政6年)です。
港崎遊郭の岩亀楼主人である岩槻屋佐吉が讃岐国象頭山 金比羅大権現を勧請し、港崎町(現在の横浜公園の地)に祭祀したのが始まりでその後二度の移転を経て1882年(明治15年)この地に遷座されました。
現在の社殿は1988年8月に再建されたものです。
この「横浜酉の市」は横浜市地域無形民俗文化財にも指定されています。
この地、眞金町に「お酉さま」がある背景を語るには横浜の遊郭の歴史をひも解かなければなりません。短くも華やかで悲しみも織込んだ横浜遊郭の話しは<別の機会>に紹介しましょう。
アウトラインだけ。
遊郭の火事は遊女の“死”を意味しました。商売繁盛だけではなく、冬に起った失火による焼失防止は遊郭経営の最大願望だったために江戸の吉原に習って祀られました。
この地には「遊女の涙」がこぼれていたことでしょう。
http://www.city.yokohama.lg.jp/minami/70minamiru/72event/723autumn/723004.html
→南区案内(情報が古い)
2013年は、
11月3日(日)一の酉→終了
11月15日(金)二の酉
11月27日(水)三の酉 です。
No.312 11月7日(水)裕次郎だけじゃない
1911年(明治44年)11月7日の今日、
曹洞宗の大本山總持寺が能登国櫛比庄(現在の石川県輪島市)から鶴見に移り移転式が行われました。(鶴見区史)鶴見總持寺といえば、石原裕次郎の墓があることで有名ですが、…
今日は總持寺を紹介しましょう。
(曹洞宗大本山)
曹洞宗は鎌倉時代に宋に渡り1226年に帰国した道元に始まった禅宗の一つです。(道元は禅宗の呼称も拒否したそうです)
曹洞宗には二つの大本山があります。
福井県にある道元禅師開祖の永平寺と、横浜市にある瑩山紹瑾が開いた總持寺です。両寺は永平寺派の有道会と、總持寺派の總和会をそれぞれ組織し輪番制で「曹洞宗宗務庁」のトップを選び活動を行っています。
http://www.sotozen-net.or.jp/sotosect/honzan.htm
(總持寺の歴史)
總持寺は道元から四代目の瑩山紹瑾が1321年(元亨元年)石川県輪島市門前町門前にある寺(現在は總持寺祖院)を禅林として改め、總持寺と命名し開山したことに始まります。1615年(元和元年)には徳川幕府より法度が出され、永平寺と並んで大本山と呼ばれるようになります。
以来能登の曹洞宗大本山として法燈を守り続けますが、1898年(明治31年)4月13日の夜、大祖堂より出火し瑩山を祀る伝燈院、経蔵といくつかの小施設を除いた全てが焼失します。
再建にあたり、これを機に宮城(東京)近くに移転すべきだという意見とこの地で再建すべきだという意見が分かれます。
1905年(明治38年)に再建されますが、大本山に相応しい場所への移転の声もさらに高まります。
能登の地元では移転反対の運動も起りましたが、總持寺第4世石川素堂(牧牛素堂 大圓玄致禅師)の決断により候補地を探し、神奈川県横浜市鶴見村の成願寺境内に移転を決定します。
1907年(明治40年)3月9日に石川県から鶴見に移転の認可が下り移転が始まり
1911年(明治44年)に遷祖式が行われます。
以降能登の總持寺は「總持寺祖院」と呼ばれるようになります。
当時、總持寺には放光堂しか無く、仏殿が1915年(大正4年)に建立、その後戦前戦後を通して造営が行われ現在に至っています。
http://sojiji.jp
No.149 5月28日 「鈍翁」の偉業を偲ぶ
(墓マイラー)
有名人のお墓巡りまでブームになっているとか。
「墓マイラー」なんて言うらしいが、
まあマナーを守ればそこそこ楽しい趣味になりそうです。
總持寺といえば石原裕次郎墓参であまりに有名ですが、境内のシツラエが見事です。
伽藍のスケールもなかなかです。ぜひ見学をお勧めします。
■石原裕次郎
俳優・歌手ですね。
■黛敏郎
作曲家
■浅野総一郎
京浜工業地帯の父・「明治期のセメント王」です。駅名、学校名にもその名が残っています。
■芦田均
第47代 内閣総理大臣 第76・77代 外務大臣
※首班指名選挙で吉田茂と熾烈な闘争劇があった
■伊東忠太
山形県生まれの建築家、研究者。築地本願寺の設計で有名。
(おみやげ売場)
見学の後は お土産売場がおすすめです。
しぐれ煮が良い!!
らくがんは抹茶味
横浜かりんとう
http://www.hamaraku.com
(曹洞宗の原点を読む)
「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)
私のおすすめは
※正法眼蔵とは全九十五巻からなり、佛法の真理・修行のあり方・宗門の規則・の他、只管打坐(ひたすら座禅)・本証妙修(本来覚っているものの座禅)・修証一如(座禅そのものが覚り)・行持道環(座禅を通じて佛と一体になる)等仝膨大な著作である。
(總持寺踏切)
JR東日本東海道本線(京浜東北線)鶴見駅と新子安駅の間に設置されていた通称日本一長い踏切?。
あまりに遮断時間が長いため時間を区切った通行規制(通行止め)が行われていましたが、2012年4月1日をもって廃止(完全通行止状態)されました。
これによって総持寺参道(本山前通り)が消えることになります。
日中の本数が少ない時間帯でも5分近く閉まり続けることが多く、開かずの踏切として有名でyoutubeにもアップされているくらいです。
開かずの踏切 vol.1 総持寺踏切
※気の長い方はご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=guaajGWw4Hg
この踏切、JRのみで東海道、横須賀、JR貨物、京浜東北各上下線があり京浜急行とJR鶴見線は高架になっています。
No.311 11月6日(火)18区誕生
横浜市は現在18の区で構成されています。
1994年(平成6年)11月6日(日)の今日、17番目と18番目の区が誕生しました。
(横浜北部の再編成)
横浜市の北部地域の港北区と緑区の2区を併せて検討し
港北区・緑区・都筑区・青葉区の4区に再編成されます。
(横浜市区誕生の歴史)
●1889年(明治22年)4月1日横浜市誕生。
●1901年(明治34年)4月1日第1次市域拡張。
●1911年(明治44年)4月1日第2次市域拡張。
●1927年(昭和2年)4月1日第3次市域拡張。
●1927年(昭和2年)10月1日区制施行で
→【鶴見区】【神奈川区】【中区】【保土ケ谷区】【磯子区】の5区が誕生します。
●1936年(昭和11年)10月1日第4次市域拡張。
●1937年(昭和12年)4月1日第5次市域拡張。
●1939年(昭和14年)4月1日第6次市域拡張
この拡張で現在の横浜市域がほぼ固まります。
→神奈川区から【港北区】が分区して新設されます。
→新たに横浜市に編入された地域が【戸塚区】として新設されます。
●1943年(昭和18年)12月1日
→中区から【南区】を分区して新設されます。
→神奈川区の一部が中区に編入されます。
●1944年(昭和19年)4月1日
→中区から【西区】が分区し新設されます。
●1948年(昭和23年)5月15日
→磯子区から【金沢区】が分区し新設されます。
●1956年(昭和31年)9月1日「政令指定都市」に指定されます。
●1969年(昭和44年)10月1日
→南区から【港南区】が分割されます。
→戸塚区から【瀬谷区】が分割されます。
→保土ケ谷区から【旭区】が分割されます。
→港北区から【緑区】が分割されます。
※港北区の一部が保土ケ谷区に編入されます。
●1986年(昭和61年)11月3日
→戸塚区から【栄区】と【泉区】に分割されます。
●1994年(平成6年)11月6日
→港北区と緑区を再編し【港北区】【緑区】【青葉区】【都筑区】を新設します。(18区誕生)
(青葉区)
http://www.city.yokohama.lg.jp/aoba/
区名は公募で選ばれました。
2,948種類18,995件の応募があり第一位が「青葉」(1,916)第二位が「田園」(1,332)、第三位が「北」(916)となり第一位が選ばれます。横浜市田園区というのも良い感じですね。
面積は35.14km2で総人口は2012年6月1日推計で306,910人です。
東急田園都市線沿線に沿って発展した区です。
最も大きい街は「たまプラーザ」です。
東急が戦後まもなく描いた「田園都市構想」をいち早く着手してきたエリアで、重層的住宅環境が形成されてきましたが、近年住民の高齢化、戸建て離れによる“空き家”問題が顕在化しつつあります。
市営地下鉄のあざみ野以北延伸、慶応義塾の進出で新しいステージが始まろうとしています。
※一時期、横浜都民と表現されましたが「丘の横浜」として市民としての帰属意識は次第に高まっているようです。
北部には寺家(じけ)ふるさと村、こどもの国など自然環境を活かしたゾーンが広がっています。
(都筑区)
http://www.city.yokohama.lg.jp/tsuzuki/
「横浜の北西部一帯は、奈良時代から昭和14年まで「都筑郡」と呼ばれていました。「都筑区」の名称は、この歴史的に由緒ある地名を受け継ぐとともに、これからの街づくりが新しい「都を筑(きず)く」という、区民の総意で進むことを願って、つけられたものです。」
面積は27.88km2で、総人口は2012年6月1日推計で206,329人です。
いわゆる港北ニュータウンを軸に区内を市営地下鉄2線がクロスしています。新しく開発された街と遺蹟、城趾、富士塚などが点在する“グリーンマトリックスプラン”を実践している地域です。
都筑区は起伏の多い丘陵地帯に宅地が広がっています。道路と歩道の分離が徹底され、水辺を活かしたグリーンベルトの公園が住宅ブロックの緩衝地帯となっています。植生も四半世紀を経て豊かな緑地に成長し成熟した宅地を形成しています。
(面白いお店が一杯)
青葉区、都筑区には話題の店、隠れ名店含めいろいろなお店があります。
※都筑区
■青空キッチン T.M.O. ピクニック
http://picnic.chips.jp/index.html/
■インド家庭料理 ラニ (RAANi)
■スイーツガーデンユウジアジキ (SWEETS garden YUJI AJIKI)
■ジューンベリー (Juneberry)
青葉区
■グラティア (GRATIA)
■ピュイサンス (PUISSANCE)
■パンステージ プロローグ (PAIN STAGE Prologue)
■ベッカライ徳多朗(2011年に移転しましたよ!)
場所はそれぞれ探してください!(ちょっと冷たく)
(青葉・都筑雑景)
No.310 11月5日(月)倉庫業は近代経済の秤
近代日本を象徴する企業の一つが「倉庫業」で近代経済のバロメーター(秤)です。
特に貿易港のある街には明治以降新しい倉庫業が起業されていきます。
1897年(明治30年)11月5日高島町にある中央倉庫株式会社が開業、私設保税倉庫の営業を始めます。(横浜税関百二十年史)
現在倉庫業は倉庫業法で「倉庫業を営もうとする者は、国土交通大臣の行う登録を受けなければならない」と規定されています。倉庫業の定義は
http://www.mlit.go.jp/seisakutokatsu/freight/butsuryu05100.html
でご覧ください。
(倉庫業が意外な背景)
近代倉庫業が登場した背景には廃藩置県があります。
江戸時代、全国の藩は藩内の商品流通の保管という役割も担っていました。幕藩体制の崩壊で、藩屋敷や蔵のある藩邸の接収等でこれらの保管場所を失ってしまいます。そこで、官設倉庫もできますが民間で独自に倉庫業が明治時代に誕生します。横浜中央倉庫が開業した1897年(明治30年)には全国で110社の倉庫業が営業していました。
特に国際港のある街には前に述べた“江戸時代の蔵屋敷”とはことなる「近代保税倉庫」として倉庫業がスタートします。
全国に現在も観光資源として残る「赤レンガ倉庫」はその産業遺産です。
横浜赤レンガ倉庫の正式名称は?
「新港埠頭保税倉庫」です。1号館と2号館が残っていますが、2号館の方が古く1911年(明治44年)、1号館は1913年(大正2年)に竣工しました。
No.103 4月12日「新港埠頭保税倉庫」から「赤レンガ」へ
(明治から大正へ)
明治時代、国際港横浜の大手倉庫業は
冒頭に紹介した中央倉庫株式会社(緑町)が1895年(明治28年)に創業し翌年の1897年(明治30年)11月5日に高島町で倉庫業を開始します。規模は28,099坪で、港に面した堀割をもった本格的な港湾倉庫でした。
他には
株式会社横浜貿易倉庫(堺町) 明治24年開業 1,400坪
WMストロン株式会社横浜支店 明治30年
合名会社横浜商品倉庫(海岸通)明治38年開業 規模不明
横浜倉庫株式会社(神奈川)明治39年
その後大正に入って三菱。三井を始めとする倉庫企業が雪崩を打って横浜港エリアに進出してきます。
(中央倉庫のその後)
実は、中央倉庫株式会社は1895年(明治25年)に創業した時点から「中央倉庫株式会社上屋」として免税品及び輸入砂糖・鉄類を陸揚・蔵置業を営んでいました。
横浜における(私設上屋のはじまり)と言われていますが、明治30年に法律ができて倉庫業が明確になった時点で新しく7月に免許申請し11月5日に高島町に近代倉庫を建て営業を開始します。
その後、1910年(明治43年)に中央倉庫株式会社は横浜船渠株式会社と合併します。
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今も残る横浜船渠のマーク(ドッグヤードガーデン) |
この横浜船渠株式会社も1935年(昭和10年)三菱重工業に吸収され、三菱重工業株式会社横浜船渠となります。
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三菱G変遷史 |
ここから氷川丸 、秩父丸(鎌倉丸)他数々の船が誕生しました。
No.283 10月9日 (火)三角菱のちから