【ミニミニよこはま】No.1 入海から新田へ
そもそもこのブログスタートのキッカケは
断片的にしか知らない横浜をもう少し知ってみたい、という自分自身の動機から始まりました。
現在600話を超えたこともあり再度原点に戻って
簡単な横浜を知る【いろはのい】を折々に紹介していきます。
(関内の誕生)
関内とは“関所の内側”という意味です。
「かんない」という地名、住居表示はありません。
※市県庁のあるエリアとしては珍しい?
開港によって、外国人居留地が作られそこに関所が設けられました。
現在のイセザキショッピングモールの入口あたりです。
急激に変化する「関内」ですが、
関内も、その外側に拡がる関外(大岡川と中村川に囲まれたエリア)も開港以前には沼地から新田干拓で作られたものです。
→関内=居留地の誕生は次回に
(開港前)
開港場ができ上がる前のこのエリアについて簡単に紹介しましょう。
開港前の横浜中心部は幾つかの集落と、田畑、神社のある深い入江に囲まれた村でした。
深い入江(入海)では、小舟による漁が行われ、
入江に突き出ている象の鼻ような(後の関内エリア)に小さな集落が点在し、
外海では帆の付いた比較的大きな舟が航行していました。
この横浜村は
江戸時代の主要街道であった“東海道”とは少し離れていましたが、「洲乾の湊」という小さな港からこの地域の中心となった湊「神奈川」や、対岸と小舟を使った交流・交易が行われていました。
陸路は主に「保土ケ谷宿」と繋がりがありました。
下記の図は、江戸後期の横浜村、神奈川宿周辺を描いたものです。
「吉田新田」がすでに完成しています。
神奈川湊の前に拡がる入江が大きく描かれています。
(吉田新田)
この深い「入海」を干拓しようとチャレンジした人物がいます。
江戸の材木商、吉田勘兵衛(吉田勘兵衛良信)です。
彼が、周辺の村民の賛同を得て1656年に幕府から許可を受け始めます。
埋立工事は、失敗を繰返しますが、十年後の1667年に完成させます。
吉田勘兵衛がこの「入海」を干拓する決意をした理由は
この<入海>が浅瀬だったことです。
漁場の役割が終わり、新田開発の方が地域にとってメリットが出てきたからでしょう。
「吉田新田」が登場することで、このエリア一帯が一気に活性化します。
ペリーが訪れる頃、干拓された吉田新田は集落や田畑ができるようになり、横浜村、野毛村、大田村と共に生活圏が形成され始めていました。
※ここまでの中で、
現在の関内エリアと大きく地形が異なっているところがあることにお気づきですか?
次回は、このあたりから紹介していきます。
No.468 横浜で学ぶ(神社編3)
神社編1、2に続き久しぶりですが
(神社編3)で、神社巡りの人気アイテム
狛犬(こまいぬ)を紹介しましょう。
狛犬全般、全国の狛犬紹介サイトはかなり多くあります。
ここでは限定的「横浜の狛犬」巡りを!
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皇紀2600に建てられた日枝神社の狛犬 |
まず、狛犬とは?
神社に奉納、設置された空想上の守護獣像で、
参道や拝殿の前に対(つい)で配置されています。
本来は「獅子・狛犬」といい、獅子と狛犬が対になっているのが日本独特の姿です。
神殿に向かって
右側が 口を開いた角なしの「阿像(あぞう)」で獅子、
左側が 口を閉じた角ありの「吽像(うんぞう)」で狛犬が設置されています。
この阿吽(あうん)の形は、日本独特のスタイルだそうです。
ところが、姿は阿吽共に“獅子”に、
逆に呼称は“狛犬”とする傾向にあります。
姿は凛々しく!呼び方は親しみやすく ということでしょうか。
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鞠を抑える阿像 |
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子どもと一緒の吽像 |
元々、インドから中国に伝わり、沖縄経由で日本に定着したようです。
中国の獅子像は一対になっているもの、単体のものありますが
対のものはほとんどが相似形で同じものが並んでいます。
※日本文化は、比較的左右非対称を好む傾向があるようです。
「左近の桜 右近の橘」
※参考サイト
http://www.asahi-net.or.jp/~dw7y-szk/bunrui0.htm
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凛と立つ牙をむき出しにする吽獅子 |
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吠える阿獅子 |
(狛犬だけじゃない)
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お稲荷さんでは「きつね」の場合も |
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ねずみが鎮座する「杉山神社」 |
横浜市西区中央にある「杉山神社」には対のネズミが神殿を守っています。
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かなり現代っぽい獅子像 |
No.427 横浜で学ぶ(神社編2) 「横浜で鳥居に出会う」
No.156 6月4日(月) 三ツ池公園「コリア庭園」開園
(狛犬の隣人?ヘッテ)
(中国の座獅子、風鎮)
中国の廈門、台湾の金門に多く建っている風の神様「風鎮」は
狛犬の原型?ともいわれています。
沖縄に伝わり「シーサー」となっていきます。
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金門島の風鎮 |
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金門島の風鎮 |
横浜年表ピックアップ【10月26日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
●1878年(明治11年)の今日
「北方の射的場で外国人の競走会開催。」
No.169 6月17日(日)私は武器を売らない
「北方の射的場」で「競争会」が開催されたことがポイントです。
●1887年(明治20年)の今日
「自転車入荷の広告が出される。」
No.369 1月3日(木)自転車乗ってますか?
●1938年(昭和13年)
「本市社会事業家渡辺たま子(81)が逝去した。
渡辺福三郎夫人で、横浜孤児院、女子商業学校を設立した。また婦人運動に活躍した」
※渡辺福三郎は渡辺治右衛門(銀行家・東京の大地主)の弟、横浜第一の地主。
※1900年(明治33年)南太田の庚耕地に横浜孤児院を創設
●1939年(昭和14年)の今日
「市では東京開港問題にたいし、本格的な反対運動をおこすことに決定した」
No.347 12月12日(水)横浜自立の原点
※港都横浜と帝都東京の都市間競争!
今私が最も関心のあるテーマです。
●1948年(昭和23年)の今日
第1回横浜市営戸塚競馬開催(〜11/2)。
No.306 11月1日(木)戸塚駅東口小史
横浜年表ピックアップ【10月25日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
●1878年(明治11年)の今日
「内務省所管の横浜製鉄所が海軍省所管となり横須賀海軍造船所に付属された」
「横浜製鉄所」に関していろいろ紹介しています。この横浜製鉄所は、
もう少し追っかけたいテーマです。明治初期の横浜を語る良い材料です。
No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語(一部加筆修正)
No.187 7月5日(木) 目で見る運河
●1898年(明治31年)の今日
岸田吟香(65歳)
「横浜に行き、羽衣座で開かれた横浜売薬業者による売薬増税不可の政談演説会で、客員として「貢病論」を演説する。」
No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者(加筆文体変更)
●1906年(明治39年)の今日
神戸で横浜のアマチュア倶楽部野球団 対 神戸クリケット倶楽部の第1回クリケット試合開催し横浜が勝利しました。
●1916年(大正5年)の今日
天皇が恒例観艦式のため、横浜に行幸。
●1916年(大正5年)の今日
本町横浜商業会議所跡を会館として借受け横浜YWCAが創立された
YMCAではありません。
横浜YWCAは1913年(大正2年)に誕生しました。
http://yokohama-ywca.jp
●1924年(大正13年)の今日
石井柏亭(42歳)横浜に行き、
関東学院で開かれた教員美術講習会で、「美術の本領」を講演する。
※石井 柏亭(いしい はくてい)
日本の版画家、洋画家、美術評論家。
1897年(明治30年)浅井忠に入門し、油絵を学び、
1900年(明治33年)に結城素明らが自然主義を標榜して結成した
「无声会」に参加し新日本画運動を推進しました。
●1925年(大正14年)の今日
日本基督指路教会の新会堂献堂式が行われた
※正式名称「日本基督教団横浜指路教会」
1874年、ジェームス・カーティス・ヘボンにより、ヘンリー・ルーミスを初代牧師として関内居留地に設立されました。
「指路」とは旧約聖書にある地名・人名のシロ(Shiloh)に由来、
またヘボンの出身教会名でもあります。
ノートル・ダム大聖堂に似たフランス初期ゴシック風教会堂で
横浜市認定歴史的建造物。
●1935年(昭和年)の今日
「婦人矯風会の久布自落実(くぶしろおちみ)
米国の売春事情、廃娼後の施設などの調査・研究を終え、
横浜港に帰国。」
※主に廃娼運動を行い
市川房枝らとともに婦人参政権運動にも参画しました。
●1972年(昭和47年)の今日
「交通局本局が、中区港町1丁目1番地の関内中央ビルに移転」
●1986年(昭和61年)の今日
「金沢自然公園にコアラ到着」
横浜年表ピックアップ【10月24日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
●1876年(明治9年)の今日
「外国人の競馬開催(11/1〜3)についての交通規制の広告が出される。」
どんな広告規制だったのか 見てみたいですね。当然、自動車規制ではありませんから、人?馬車?あたりだったのでしょう。
※記録では1860年(万延元年7月16日)9月1日に現在の元町ストリートあたりで競馬が行われた記録があります。
1876年(明治9年)は、横浜の乗馬クラブで内紛があり、団体が分裂した年ですから、開催側も少しナーバスになっていたのかもしれません。
●1916年(大正5年)の今日
「独亜銀行(Deutsch-Asiatische Bank)」横浜支店の営業が一部解除されます。
独亜銀行はドイツのアジア進出のために中国、上海に本店が創設された金融機関で、第一次世界大戦中連行国側であった日本はドイツ・オーストリアを中心とした同盟国側に対し経済制裁行いその一環として銀行業務の停止命令を出した後の緩和策の一つです。
●1922年(大正11年)の今日
石原純(41歳)横浜に行き、
県立第一中学校(現希望ケ丘高校)で開かれた、
五日会主催の相対性原理講話会で講演する。
アルベルト・アインシュタインが光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によってノーベル物理学賞を受賞したのが1921年(大正10年)
受賞によって世界にその名がとどろきました。
多くの物理学者が、彼の理論を理解しようと論文を読みあさった時代です。
※石原 純(いしわら あつし)は、アインシュタインらのもとで学んだ理論物理学者であると同時に『アララギ』の発刊に参加した歌人でもありました。
しかし、「アララギ」を揺るがす恋愛問題で脱会しますが、
“愛”を貫き通します。
戦争が終わった直後、自動車事故で重傷となりその後亡くなります。
自由な時代の到来直前の死でした。
●1982年(昭和57年)の今日
堀割川・中村川・大岡川でカヌーフェスティバル開催。
現在は、新しい水辺をたのしみながら考える「水辺荘」が様々な横浜の水辺へいざなうプログラムを提供しています。
http://mizube.so
横浜年表ピックアップ【10月21日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
今日は追跡してみたいテーマ満載です。
★マーク付けてみました。
●1870年12月13日(明治3年)の今日
「森有礼(23歳)横浜に出張し、アメリカ公使館にデ・ロング公使を訪ねる。」
12月13日がなぜ10月21日の話題に?
西暦1870年12月13日、旧暦では?
明治3年閏10月21日にあたりますので、今日にいれました。
森有礼がわが国の初代駐米外交官です。任命され、横浜の米国公使館に挨拶に出向いた日が今日です。
まさに1870年11月(明治3年閏10月)に海外駐在外交官の制度を初めて制定しイギリス、アメリカ、フランス、プロシア(現在のドイツ)に各1名の外交官が派遣されることになります。その1人が森有礼です。役職は少弁務使(代理公使、charge d’affaires)でワシントンに2年間在勤します。
外務大輔(がいむだゆう、現在の外務次官)や
英国公使などの要職を歴任しましたが、
1889年(明治22年)2月11日森は、文部大臣在任中に暗殺されてしまいます。
この日は、大日本帝国憲法が発布された日です。
★★
●1875年(明治8年)の今日
「金子喜一が横浜の笹下に生まれる。」(ちょっと長文です)
横浜市港南区笹下に生まれた金子喜一は、ジャーナリスト、社会主義者として米国で活躍した人物です。一般の人物資料には1899年(明治32年)米国に渡ったあとの活動が中心に紹介されていますが、彼が米国に発つ前の金子喜一の活動も調べてみると興味ある活動をしています。
まず米国での活躍に関して
渡米してハーバード大にまなび、社会主義に傾倒し様々な社会運動を起こしました。米国から日本の「万朝報(よろずちょうほう)」や週刊「平民新聞」などに寄稿し、後には「シカゴ-ソーシャリスト-デーリー」の記者となりました。現地で妻となったジョセフィン・コンガーは米国のフェミニズム運動家として活動し
夫婦で発行した「The Socialist Woman」は米国社会運動史上の残る先駆的なフェミニズム運動誌として評価されています。
金子は体調を崩し、
1909年(明治42年)に療養のため帰国しますが10月8日に34歳の若さで死去。
では、渡米前の金子喜一に就いて超簡単に紹介しましょう。
1876年(明治9年)金子喜一は、横浜市港南区笹下に富裕でリベラルな名主の家に生まれました。
横浜神学校で英語を学び、徳富蘇峰の書生となって文学を学びます。
この時期に、神奈川県久良岐郡日下村出身の小原輿三郎(金子の弟子)の仲介で、樋口一葉と出会います。以後、亡くなるまで思想・文学の分野で影響を与え合うことになります。
1896年(明治29年)11月26日に「一葉女史を悼む」という記事を毎日新聞に残しています。樋口一葉が(11月23日)に亡くなった3日後のことです。
「今夏七月、余が笹下の草庵に厭きて再び都に上らんとし、端なく君を訪れし時、女
史我を迎えていわく、君今より何処に住まわんとするか。いわく未だ決せざるなり。しからば本郷を選ばれよ、ねがわくは近く共に相語らんと。越えて八月、余が台町に居を移してより再び君を訪いしに、なんぞ図らん、君は既に病床に臥してありぬ」
彼は一葉の葬儀に数少ない参列者の一人として参列しています。
この葬儀の時に、樋口と少し交流のあった実業家で日印協会創設に関わり第2次世界大戦終結まで協会専務理事として日印親善に貢献した副島八十六と出会い、
副島は日記に後日彼のもとを訪れた金子を
「八時半まで快談にふける。彼は一種の抱負を有するもの、将来永く交るに値せり。特に彼は一葉女史の眞の知己たり。女史を追憶するの情更に一層切なるを覚ゆ。」
と書き残しています。
1898年(明治31年)徳富の紹介で「埼玉経済新報」の主筆となります。
この年、日本で初めて社会主義研究会が組織され入会を勧められます。
(活動の中心には片山潜、幸徳秋水、安部磯雄らがいました)
1899年(明治32年)米国に旅立ちます。
●1890年(明治23年)の今日
「川上音二郎(26歳)横浜に行き、蔦座で開かれた政談演説会で、「田中子爵に九寸五分を呈す」を演説し、中止を命じられる。」
政治的公演で物議は常連の川上音二郎です。
No2 1月2日(月) ニュース芝居、最先端劇場で上演
●1892年(明治25年)の今日
在留33年のヘボン博士夫妻が帰国しました。
帰国に先立ち10月15日には尾上町の指路教会で自らの人生を振返る講演会が開催されました。
その後、1909年(明治42年)の今日
尾上町の指路教会で「ヘボン博士来朝記念演説会」が開催され
植村正久(51歳)が「智者の夢」を講演
島田三郎も「ヘボン博士に就て」を講演しました。
※ある意味10月21日は横浜ヘボン記念日かもしれません。
No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者
★★★ジェームス・カーティス・ヘップバーン
ヘボンことジェームス・カーティス・ヘップバーンは一度まとめてみたい横浜人脈のキーマンです。
●1929年(昭和4年)の今日
「仮名文字会横浜支部第1回国字問題大講演会が開かれた」
→この記事、気になるんです。
横浜に支部ができたという記事ですが
この「仮名文字会」横浜に関係なく★★★★の話題です。
●1950年(昭和25年)の今日
横浜国際港都建設法公布
●1963年(昭和38)の今日
「市長への手紙」用ハガキを市内全世帯に配付
現在
「 横浜市は「市長への手紙」や「インターネット市政提案箱」などの広聴のあり方を見直し、 市民に身近な区役所を窓口とする「市民からの提案」制度となっています。」
●1963年(昭和38)の今日
内防波堤の白灯台撤去
この「白灯台」ネタはもう少し追っかけてみたいネタです!
★★★
No.105 4月14日 白の悲劇
●1978年(昭和53)の今日
商工会議所100年記念式典・全国商工会議所議員大会が開催される(22日、全国郷土祭)。
●1987年(昭和62年)の今日
上海の横浜経済貿易事務所開設
横浜年表ピックアップ【10月20日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
■トピックス
2013年(平成25年)の今日10月20日は、10月の第3日曜日にあたります。
10月第3日曜日は「新聞少年の日」「新聞配達の日」です。
この「新聞少年の日」は横浜ネタがあります。
No.157 6月5日(火) 半ズボンより長ズボンでしょ!
ここで紹介した「日本大通」にある新聞少年の像、
「長ズボン」なんです。だからなんだ!!について追っかけてみました。
※新聞週間中の日曜日を「新聞配達の日・新聞少年の日」と定めています。「新聞少年の日 」は1960年代に新聞配達の主力を担った少年たちの労をねぎらい、激励するとともに、 広く一般の理解を求めるために1962年に設置されました。
http://www.pressnet.or.jp/about/shimbun_shukan/gyouji/
●1875年(明治8年)の今日
「塚原渋柿園(27歳)田口十内の「讒謗律の疑ひ」を掲載したかどにより、編集長として罰金百円、禁獄十カ月に処せられる。」
新聞紙条例(1875年明治8年6月発布)に違反で摘発されたのは
塚原渋柿園が「横浜毎日新聞」に勤めていた頃です。
1874年(明治7年)に入社とありますから、まあ入社一年目で言論弾圧にあった!ということでしょう。これで“ひよった”(死語?)訳ではないでしょうが、1878年(明治11年)「東京日日新聞」に移り、新聞小説家として活躍します。
一方投稿した「田口十内」こと田口卯吉は頑張って時の権力を批判し続けます。
No.250 9月6日(木)やはり官僚には向かなかった?
●1885年(明治18年)の今日
横浜とは直接関係ありませんがメートル法条約に加入。
尺貫法は戦後まで併用されました。
●1913年(大正3年)の今日
神奈川県横浜市鶴見、総持寺で大梵鐘鋳造式が行われる。
●1986年(昭和61年)の今日
みなとみらい21熱供給会社設立。
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手前の白煙(水蒸気)を出している施設 |
(Wikiでは10月1日となっていますが創立総会と登記の差です)
この会社は、みなとみらい21中央地区のオフィスビル、商業施設、ホテル、コンベンションセンター、病院、マンションや地下鉄駅に熱供給事業を行う地域熱供給会社です。現在では日本有数の規模を誇る熱供給会社です。
http://www.mm21dhc.co.jp/index.html
●1938年(昭和13年)の今日
江ノ島電鉄株式会社、戦時統合により東京横浜電鉄(現東京急行電鉄)の傘下に一時期入りました。
●1944年(昭和19年)の今日
「綱島温泉駅」「綱島駅」に改称。
1926年(大正15年)2月14日「綱島温泉駅」として開業しました。
戦争が始まると同時に旅館業の廃業命令が出て、戦後復活するまで綱島温泉は休業状態になります。駅名の変更は“戦時命令”によるものでしょう。
戦後も東京近郊の温泉地「東京の奥座敷」として賑わいますが、
2008年3月15日宿泊施設として最後の温泉施設、
横浜市教職員互助会「浜京」が閉店し現在では「東京園」を残すのみです。
※「綱島」の地名の由来は、川の中州や湿地に浮かぶ島から来ているそうです。
横浜年表ピックアップ【10月19日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
今日は、軽いネタ中心でした。
●1876年(明治9年)の今日
横浜公園で西洋人156名によって
「鞠転がしの勝負」が行われた。
鞠転がし
※「日本へのサッカーの伝来は、1872年に神戸市の外国人居留地で行われた試合が最初という説と1866年横浜・山手でイギリス軍が行った試合が初という説がある。 1873年、東京築地の海軍兵学寮において、イギリス海軍少佐アーチボルド・ルシアス・ダグラスが紹介したのが最初とされる説がありはっきりしない。」(Wiki)
けれども、
「鞠転がしの勝負」がサッカーだと想像するなら、
横浜公園で、7から8チームが集まって、トーナメントか何かを行ったのではないか?
なんて考えるとロマンチックですね。
●1882年(明治15年)の今日
神奈川県少書記官「磯貝静蔵」が大書記官に任命されました。
幕末〜明治の職官制度は、年代わりのように変更されます。
1868年(慶応4年)1月制定 (三職七科制)
1868年(慶応4年)2月制定 (三職八局制)
1868年(慶応4年)閏4月制定 (太政官制Ⅰ)
1869年(明治2年)7月制定 (太政官制Ⅱ)
1871年(明治4年)7月制定 (太政官制Ⅲ、廃藩置県後)
1877年(明治10年)1月改定
1885年(明治18年)12月制定 (内閣制度)
1908年(明治41年)1月改定
1910年(明治43年)3月改定
※県の大・小書記官は1877年(明治10年)1月改定で制度化し
大書記官は奏任官第六等級職で現在の局長クラスですかね。
省庁は
大蔵省・陸軍省・海軍省・司法省・宮内省・外務省・工部省・文部省・内務省・開拓使
そして府と県が組織化されました。
ここに登場する 磯貝静蔵( いそがい せいぞう)
嘉永年に美濃生まれ大垣藩士で幕末期に起った天狗党の乱の鎮圧担当として辣腕をふるい平定した人物。幕長戦争に参加し戊辰戦争に従軍しました。
新政府となり横浜の税関吏から神奈川県小書記官・大書記官を経て
台湾統治下で知事を務めました。
1910年(明治43年)8月17日に61歳で死去。
彼は台湾で“鄭成功”に関する有名なエピソードを残しています。
関心のある方は調べてみてください。
●1906年(明治39年)の今日
「フェリス女学校の教職員生徒200名が江ノ島方面に遠足運動挙行。各地で注目される。」
※「遠足という言葉が一般に使用されるようになったのは、明治30年代後半」でフェリスの江ノ島遠足もこの時期にあたります。各地で注目されたのは
女学校だったからではないでしょうか。
制度行事として定着するのは
1924年(大正13年)11月3日の明治節に
「明治節を国民体育日と定める。諸学校とも記念行事を実施せよ。」と
文部省通達があります。これによって学校に運動会や野外授業、遠足などが盛んに行われるようになります。
●1943年(昭和18年)の今日
「阿久和町に原国民学校が創立された」
超マイナーですが、市内に約360の小学校がありますが、小学校沿革史の中で、国民学校令によって新設された小学校は三つしかありません。
矢向小学校
大道小学校
そして
原小学校です。
国民学校令は1941年(昭和16年)3月1日に公布され4月1日から従来の小学校が改組され国民学校が発足しました。
本来は、小学校の軍事体制下の管理強化が目的でしたが
地域のよって 新規に国民学校が創設された地域がありました。
原小学校
http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/es/hara/
校章の由来
「富士山に希望を託して,その姿を原のシンボルマークとして形どったもの」
※市内小学校校章で富士山モードは、富士見小学校以外で原小学校くらい?
あなたの母校の校章は覚えていますか?
校歌
http://www.youtube.com/watch?v=IkH1fQMj5-0
横浜年表ピックアップ【10月18日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
今日からピックアップは簡単にして、
テーマによる横浜紹介を中心にシフト(し始めます)
これまで約600話(番外編等を含む)アップしてきました。
まだまだ紹介することは沢山ありますが、
そろそろ 新しい切口で よりテーマ性が必要と考え 来週から新機軸で
行こう!と昨夜唐突に決めました。
●1901年(明治34年)の今日
伊藤博文(60歳)
横浜港から加賀丸で出航しました。
日露協商の交渉のため、アメリカを経てヨーロッパに向かいます。
翌年の2月25日に長崎へ帰着します。
※1901年20世紀に入った頃の伊藤博文は、すでに時の人ではなく、かなり体力も気力も衰えていましたが、多くの外交の場に引き出されます。この日露交渉も12月2日にロシア外相と交渉に入りますが、最終的には決裂し日露戦争へと進みます。
伊藤博文はロシアとの協調政策を図る日露協商派でしたが、時の政府は英国との接近を選び日英同盟を結び、ロシアそして親露政権となった朝鮮をめぐり対立が深まります。 この伊藤の対露交渉は 大きな時代の節目にあたります。
●1916年(大正5年)の今日
YMCA会館の開館式が行われました。
まさに 10月18日は現在の横浜YMCAの誕生日です。
1884年(明治17年)10月18日に「横浜海岸教会」の青年たちが中心となって横浜YMCAが誕生しました。
●1926年(大正15年)の今日
新山下球場で「ワシントン大」対「オールハワイ」の
野球戦が開催され3対4で「オールハワイ」が勝ちました。
「新山下球場」というのは、関東大震災で倒壊した(横浜)公園球場に代り作られた球技場です。
1929年(昭和4年)に横浜公園球場が新装オープンするまで、多くの公式戦がここでおこなわれたそうです。
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昭和初期の新山下エリア 球場らしき場所?わかりません。 |
●1933年(昭和8年)の今日
「6大都市特別市制促進協議会が東京会館でひらかれた」
1922年(大正11年)に「六大都市行政監督ニ関スル法律」が公布されます。
1932年(昭和7年)に「六大都市特別市制促進協議会」が設置され
何回か会合がもたれたなかの一回が上記の会議です。
6大都市とは、東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸です。
●1960年(昭和35年)の今日
リヨン市で姉妹都市締結式が行われました。
●1960年(昭和35年)の今日
横浜市民病院の開院式が行われました。
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三ツ沢にある市立市民病院 |
●1970年(昭和45年)の今日
地下鉄車両のデザインが新聞で発表されました。
【横浜雑景】グランモール公園
みなとみらいの中心部を南北に貫く都市公園グランモールが
整備されて四半世紀の時間が流れたそうです。
今日は、思い出の写真を含めて
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少々古いMMマップですが 。 |
グランモール雑景をランダムに並べてみました。
ランドマークプラザとクイーンズスクエアの中間部分にあたるヨーヨー広場から閉鎖された(る)GENTO YOKOHAMA手前まで、
約700mあります。
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フィルムを探していたら発見。美術館前から山手方向。先に何もありません。 |
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みなとみらい建設開始!の時期ですかね |
かつて ジャックモールというショッピングモールがありました。