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横浜の駅」カテゴリーアーカイブ

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【ミニミニ今日の横浜】3月4日

今日は簡単に

1947年(昭和22年)の今日
「野毛にマッカーサー劇場(実演と映画封切り)開場」
野毛の一角に戦後一時期占領軍司令官<マックアーサー>の名の劇場が野毛にありました。
位置は現在の桜木町JRAあたりで
美空ひばりが本格デビューを果たした「横浜国際劇場」に隣接した場所に同時期開館しました。 ※横浜国際劇場 5月5日開館

「マッカーサー劇場」は地図・写真記録等から<マックアーサー劇場>となっていましたが、記録ではマッカーサーとなっています。
Douglas MacArthur 確かにマックアーサーと読むのが素直ですが、スコットランド・ゲール語で息子を意味する<アーサーの子MacArthu>は一般的にマッカーサーと表記されています。
http://www.hamakei.com/photoflash/816/

野毛の「横浜国際劇場」は日本映画・演芸・歌謡ショー中心の劇場で
「マッカーサー劇場」は洋画専門館としてオープンしました。
(占領の時代)
1945年(昭和20年)に戦争が集結し、米軍が横浜市域の多くを接収します。米国駐留軍は軍事施設を初め、住宅施設・補給施設そして文化施設を横浜に設置します。
特に住宅が多かったためか<映画館、劇場、スポーツ等>の文化施設が横浜中心部に開設します。
占領文化施設の一部を下記に示します。
「横浜赤十字クラブ」「バンカー ズ・クラブ」「ゴールデ ンドラゴン・クラブ」「ク ロスロード・クラブ」「ゼブラ・クラブ」「コロニアル・クラブ」「セブ・メス・ホール」「ルー・ゲーリックスタジアム(平和球場→横浜球場)」
伊勢佐木町に開設された「オクタゴン劇場(横浜松竹劇場の跡廃止)」
開港記念会館は「メモリアル・ホール」
松屋伊勢佐木町店は「横浜PXメインストア」

米軍施設ではない「マッカーサー劇場」は、アメリカの民間企業が建てたものなのか?
当時の神奈川新聞では
「其の名も”マッカーサー劇場”元帥を讃へ横濱野毛に開館」とタイトルが書かれていますので、戦後日本が占領軍司令官を多く<讃え>た施設の一つといえるでしょう。
戦後の日本、アメリカに対し<節操が無い>のか<日本独特の柔軟性>なのか議論の別れるところですが、占領軍へのプレセンスをいち早く行った横浜市民の受容性には感服します。
「一般からその館名を公募してゐたところ、廳募は1万7千通に上った。二十三日にその審査を開催、堀内敬三(音楽家)北林透馬(作家)中山富久(作曲家)橘正禄(舞踊家)青木純二(神奈川新聞文化部長)平古壽次(瑞穂興業社長)などが厳選入選候補としてマッカーサー劇場、ミューズ劇場、希望劇場、セントラル劇場、オリンパス劇場などが残った、さらに審査の上で確定するが、進駐軍当局の認可を得てマッカーサー劇場と命名されると、日本では最初のマックアーサー元帥を讃える劇場が横濱に誕生するわけ、尚この劇場では横濱で最初のダンシングチームや市民演劇團も育成していくといふ。
(昭和21年9月26日付神奈川新聞)」

ちなみにこの1947年(昭和22年)時代
横浜市役所は、マッカーサー劇場から徒歩5分
五代目市庁舎(1944 年~1950年)として旧老松国民学校(老松中学校)にありました。

(関連ブログ)
No.139 5月18日 マッカーサーに嫌われた男
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=476

No.252 9月8日(土)横浜終戦直後その3
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=352

No.243 8月30日 (木)横浜の一番長い日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=363
(3月4日関連過去ブログ)
No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=555

【横浜雑学録】昭和21年地形図の謎(改訂版プラス)

2019年正月、加筆修正しました。
ブログ作成をきっかけに<横浜関係の資料>を収集するようになりました。
主な歴史資料としては古書・絵葉書そして地図です。その中で、現在手元に横浜エリアの地形図が何枚かあります。
改めて 整理してみると些細なことですが 気がついたことがありますので紹介しておきます

(地形図5万分1 昭和21年発行「横濱」)
昭和21年発行の5万分1
図域名:「横濱」を複数枚入手しました。
一見して全て同じ地形図ですがよくよく見ると 中に表記の異なるものがあるからです。
昭和21年、日本は敗戦後の占領体制の時代です。特に横浜はGHQの重要施設があったこともあり、変化の真っ只中にありました。
この年に発行された地形図、
「発行年月」はまったく同じで<発行日>と<価格>、<内容>が微妙に異なるものが見つかりました。
「国土地理院」のデータによると
5万分1図名:「横浜よこはま」の昭和21年版については下記の情報があります。国土地理院「横浜」一覧リストでは
※昭和7年測量二修正版が昭和21年8月31日に発行。
ところが現物では「昭和7年測量二修正版昭和21年発行」でありながら
内容の異なるものが5種類もありました。

3円50銭
内務省地理調査所3円50銭
8月30日10円
地理調査所8月30日発行10円
8月30日15円
地理調査所8月30日15円

大きくは8月30日地理調査所発行のものと8月31日内務省地理調査所発行のものに分かれます。
さらに異なった価格設定が行われています。
◎その1

昭和21年8月30日発行 「地理調査所」版 定価10円と15円
◎その2
昭和21年8月31日発行 「内務省地理調査所」版 定価2円と3円50銭
◎その3
昭和21年8月31日発行 「地理調査所」版 3円50銭
地図右肩にある区分指定や凡例にも違いがあるようなので比較してみました。

<発行所>
発行所は
「内務省地理調査所」「地理調査所」の二種類
「内務省地理調査所」は終戦2週間後の
1945年(昭和20年)9月1日付けで文民組織である内務省地理調査所が新たに発足し、
1948年(昭和23年)1月1日に建設院(建設省)地理調査所となり
1960年(昭和35年)7月1日に国土地理院となります。
<発行日>
発行の月日は 8月30日と8月31日の二種類あります。冒頭でも紹介したように
国土地理院データでは昭和7年測量二修正版昭和21年8月31日発行のみとなっています。
<頒布価格>
定価2円・3円50銭・10円・15円
改訂版が発行された昭和26年版までの5年間に組織や経済環境が急激に変化していることがこのデータからも読み取ることができます。
物価推移から調べてみると
昭和21年から昭和26年までの間に
(山手線初乗り)
20銭→50銭→3円→5円→10円
(鉛筆1本)
50銭→2円→5円→10円
(白米<農政米>価格)
36円→150円→357円→405円→445円→620円
1946年(昭和21年)2月に新円切替が行われました。
右肩境界確定 右肩境界未確定<区分>
神奈川県武蔵国・相模国
鶴見区・神奈川区の境界未定
地図本体の中身に違い! は?
鶴見区と神奈川区は1927年(昭和2年)10月1日に区制施行により横浜市に編入されますが、昭和期に急速に拡大した埋立て地の境界が未確定の時期の原図を使ったものだと推測できます。境界

この地図の元となったのが
<昭和7年測量二修正版>とあります。
以降発行された
昭和21年まで戦争直前から戦中を経て、戦後最初の発行となったものが今回謎多き地形図です。
この昭和21年版、内容は昭和7年時点のままの部分が多数あります。細部まで確認していませんが、顕著な例は鉄道路線の延伸時期です。
神中鉄道神中鉄道が横浜駅まで乗り入れていませんので1933年(昭和8年)以前、
湘南電気鉄道と京浜電気鉄道の<連結前>の図であることも昭和初期の時点ということが推測できます。

東京急行東横線
東京急行東横線
西区・中区 分区
西区・中区
東京横浜電鉄
東京横浜電鉄
湘南電気鉄道
湘南電気鉄道
京浜急行 南区
京浜急行 南区

 その他は?
根気強くエリアをチェックしますか    。

No.695【横浜路線バスの旅】市民に最も利用されている路線は?

最近、路線バスに少しハマっています。
市内で最も広く・多くの市民に愛用、利用されている路線バスはどこだろう?と考えました。
私の直感的推理では<旭23系統>と考えています。
乗降者総数では他にナンバーワン路線があると思いますが“広く・多くの市民に愛用、利用”となるとこの<旭23系統>でしょう。
理由は至ってシンプルで「運転試験場」と「がんセンター」があるからです。
<旭23系統>=二俣川駅〜運転試験場〜二俣川駅の循環バスです。

神奈川県警察運転免許試験場、多くの利用者には「二俣」または「二俣川」で通じるでしょう。
light_運転試験場 light_運転試験場入口二俣川運転免許試験場、1963(昭和38)年10月に開設していらい半世紀50年が経っていることになります。
https://www.police.pref.kanagawa.jp/mes/mes83001.htm
統計からアバウト計算すると、神奈川県の年間免許交付数が約97,000人(平成24年度)ですから半世紀で人口変動や書き換え等の利用者も加味し約500万人位?
内横浜市民が人口比から200万人位の利用かな?
冒頭にも書きましたが
人数は別にして、市内全域から市民が利用するバス路線はここしか無い!
と思っているのですがどうでしょう。

「運転免許試験場」のある横浜市旭区中尾周辺は<旭区神奈川県>
と呼んでも良いくらい県有地と県関係の施設が集中しています。

行政用語でいう「広域利用圏をもつ公共施設」が多く立地しています。
このエリアの県有地は総面積で約26.7haもあるそうです。
●神奈川県立産業技術短期大学校
●神奈川県立二俣川看護福祉高等学校
●神奈川県立よこはま看護専門学校
●神奈川県立公文書館
●神奈川県国際研修センター
●県立保健福祉大学実践教育センター
●神奈川県立がんセンター
●がんセンターあゆみ園
●神奈川県ライトセンター
●県立がんセンター医療従事者公舎
●災害救助用備蓄物 資保管倉庫
●公益財団法人神奈川県少年少女育成指導協会
※日本ボーイスカウト神奈川連盟事務局
※公益社団法人ガールスカウト神奈川県連盟
※一般社団法人神奈川県子ども会連合会事務局
■県職員二俣川アパート

ざくっと探しただけですのでこの他にもあるかもしれませんが、行政機関集中地区です。ここへの利用者も加味すると、<旭23系統>は広範囲の利用率が高い路線バスといえるのではないでしょうか?
その割にといってはなんですが、バス利用が不便ですね。二俣川ライフ(駅ビル)の一階にバスターミナルがありますが、初めての方にはちょっと探しにくい場所ですね。
light_運命の分かれ道駅ビルの途中で この案内指示を見逃すと彷徨ってしまいます!!!!
light_二俣川かい札改札には大きく掲示されていますが?出て見ると 一瞬わからなくなります。

この「二俣川駅」
開業は神中鉄道時代の1926年(大正15年)5月12日と古く、交通の要衝でもあったため歴史的にも面白いエリアです。現在は相鉄いずみの線との分岐点です。

神奈川県施設集中の中で地味ですが気になっていたのが
「神奈川県ライトセンター(指定管理者:日本赤十字社)」です。
http://www.kanagawalc.org

light_神奈川県ライトセンターここでいう“ライト”が視覚障害福祉のための“ひかり”を表すものだったとは知りませんでした。
「ライトセンターは神奈川県内の視覚障害福祉の向上のために、日本赤十字社の基本理念である「人道」「公平」を掲げ視覚障害の皆様のために、視覚障害援助ボランティアの皆様のために、積極的に業務を行わせていただいています。」
「神奈川県ライトセンター」は県内の視覚障害者に対して、「点字・録音図書」などの情報提供や各種相談・指導を行っている施設です。
さらに視覚障害者へのボランティア活動を志す人達の育成・指導なども行ってるそうです。設立は1974年(昭和49年)4月、運営は日本赤十字社が指定管理者として行っています。この神奈川県ライトセンターの特徴の一つが“視覚障害者を対象とした点字図書館と体育館・プール等の利用施設機能を併設したセンター”で他県には例がないと言われています。
現在の建物は1993年(平成8年)10月に竣工し現在に至っています。
(バリアフリー商店街)
もう一つ「二俣川銀座商店街」は90年代に「地域と人にやさしい躍動感あふれる街づくり」をコンセプトに、高齢者や障害者にもやさしい街づくりを推進し別名”フラット通り”商店街としていち早くスタートしましたが、完全にバリアフリー化まで達していません。これは商店街の責任ではありませんが、せっかくパイオニアとして”フラット通り”商店街を推進したのですから、ライトセンターとコラボし もっとやさしい街づくりを推進して欲しいですね。
light_二俣01※バスはまだまだ 高齢者や障害者には厳しい乗り物です。
ベストは<低床車両>ですがこれに関しては抜本的計画が必要になってきますね。
(南口再開発)
二俣川駅というのは何気なく利用していますが、断崖絶壁中腹に線路があるって感じの駅です。
駅南口は改札を出て登り!
駅北口は改札を出て降り。
南側には「グリーングリーン」というショッピングビルがありましたが、2014年9月に閉店し、目下再開発が始まるところです。
light_二俣川南口light_201411140066新線計画も進んでいるところですので もう少し伸びるか?
注目しておきたい駅です。
路線バス<旭23系統>から少し離れましたが、追々市内路線バスも紹介していきます。

【番外編】消された地図

今日は 簡単ですが ある歴史の断片を紹介します。

ここに二枚の地図を提示します。
この二枚の地図の大きな違いと、それぞれの制作年代は何時頃か?
おわかりでしょうか。
lig_S5年新港埠頭 lig_新港埠頭S15年

最初が昭和5年に制作された横浜市街地図の湾岸部を切り抜いたものです。
二枚目が昭和15年に発行された同じ範囲を切り抜いたものです。

明らかに昭和15年に発行された地図(下の方)には不自然な箇所が多数あります。
新港埠頭まで走っている鉄道網が消えています。しかも駅名だけ残っています。
昭和15年、米国との開戦を念頭においた情報統制のために軍事施設等の掲載が禁止されていた時期です。
消された鉄道網と横浜船渠の施設に隣接して「フォード工場」が記載されているのがなんとも不思議な地図になっています。
lig_S15横浜駅東付近
たった数年前まで(恐らく昭和7年から8年)自由に表記できたマップに、インフラまで掲載禁止にすることで、逆にここには「軍事」関係の重要施設があるということを白日に晒しているようなもので、戦争に向かう“余裕の無さ”をヒシヒシと感じてしまいます。

(終戦直後)
同じように、戦後は地図製作の現場がかなり混乱していた様子がうかがえます。
下記の二枚の地図は 昭和21年と昭和28年にそれぞれ印刷されたものですが、昭和7年を元に新しいデータを全く反映していません。
lig_S7baseS21.jpg lig_S7baseS27.jpg

しかも、昭和21年に発行された地図は、(昭和7年)をベースにしているとされていますが、
京浜急行が繋がっていません。
1931年(昭和6年)12月26日湘南電気鉄道と京浜電気鉄道延長線が接続されています。
lig_mapdata2.jpg lig_mapdata1.jpg

日本の主権が回復されたのが1952年(昭和27年)4月28日ですが、
翌年発行された 地図には戦後の姿がまだ反映されていません。
この時期 まだ多くの米軍接収地を抱えていた「横浜」は、事実を反映させる事を避けていたのかもしれません。


【閑話休題】横浜の風景、ここはどこでしょう?

今日は、場所当てクイズです。
かなり解りにくい風景です。でもヒントはちゃんと隠れていますよ。
lig_ここはどこだ129
写真No.1<ノーヒントです。気がつくとかなり目立ってます>
lig_霧のMM4
写真No.2<ノーヒントです。どこかというより、何か見えないものありませんか?>
lig_ここはどこだ90121
写真No.3<京急のある駅です>
lig_ここはどこだ70077
写真No.4<バードウォッチング用の覗き穴です>
lig_ここはどこだ40099
写真No.5<最近デビューした古民家です>
lig_ここはどこだ20185
写真No.6<鉄系なら おわかりですね>
lig_ここはどこだ10538
写真No.7<ノーヒントです>
lig_ここはどこだ10102
写真No.8<これもノーヒントです。>
lig_ここはどこだ9516
写真No.9<ノーヒントです。>
lig_ここはどこだ4337
写真No.10<一瞬 ルーブル?ってわけないか>
lig_ここはどこだ3992
写真No.11<下流に向かって撮影しています>
lig_ここはどこだ2859
写真No.12<ノーヒントです。>
lig_ここはどこだ1907
写真No.13<ノーヒントです。>
lig_ここはどこだ1723
写真No.14<ちょっと解りにくいかもしれません。遠景に閉鎖されたシアターが見えます>
lig_ここはどこだ0806
写真No.15<右上の建物がヒントです>
lig_ここはどこだ693
写真No.16<画像に施設名が見えます。お気に入りの設計です>
lig_ここはどこだ677
写真No.17<この撮影場所はもう無くなってしまいましたがどの辺か?わかりますか>
lig_ここはどこだ602
写真No.18<花見の名所です>
lig_ここはどこだ0575
写真No.19<ノーヒントですが、かなりの繁華街です。>
lig_ここはどこだ161
写真No.20<ノーヒントです。>
lig_ここはどこだ0004
写真No.21<海岸に近い、元同潤会があったあたりの公園です>
lig_ここはどこだ06
写真No.22<ノーヒントです。>
lig_ここはどこだ0010
写真No.23<江戸時代に橋があった場所ですって>
lig_ここはどこだ30
写真No.24<ノーヒントです。駅まえです。>
(写真差し替え中)
写真No.25<タイルに特徴があります。県庁ではありません。公園です>
lig_ここはどこだ77
写真No.26<橋の無い親柱だけの風景>
lig_ここはどこだ0156
写真No.27<ここがわかったらかなりの橋マニア>
ligここどこ762
写真No.28<プレートがヒントです>
********************************************

【横浜市電域考】5市電域の終着駅 六角橋

このシリーズでは、横浜市電域というテーマでかつて横浜市電が走っていたエリアに限定し、このエリア内を考えてみます。

横浜市電に限らず、鉄系のネタには少し緊張感がありますが諸先輩の数々の資料をひも解きながら、少し違った角度でフォーカスをあて
【橋物語】とも連動しながら 市電の走ったエリアを追います。

lig_六角橋近辺

(六角橋線の開通)
市電六角橋線は1928年(昭和3年)12月28日に東白楽〜六角橋間が開通し横浜駅と繋がります。
これによって、
(最盛期は)六角橋から「弘明寺」間を往復する循環線「1系統」、
浜松町を経由し久保山越えし阪東橋から浦舟町までを走る「9系統」、
高島町からメイン路線尾上町・麦田町・本牧間門を経由して芦名橋までを走る「11系統」の起点となります。

市電域の最も北側の終着点となる「六角橋」は、古くから大綱村と神奈川湊を繋ぎ、また南北に走る小机〜神奈川宿間の“旧綱島街道”筋の村として物流の中継点でした。明治に入ると、生糸の道としても栄えますが、六角橋が商業地として存在感を持つようになるのは 1917年(大正6年)綱島温泉が誕生し、東京都横浜(神奈川)を結ぶ綱島街道の利用客の急増が要因として挙げることが出来ます。
1926年(大正15年)2月14日東急東横線「丸子多摩川〜神奈川」間が開通し「白楽」駅が開業しさらに
1928年(昭和3年)12月28日市電が開通、
1930年(昭和5年)に「横浜専門学校(現:神奈川大学)」の移転することで
六角橋は「学園」の街に変貌していきます。

lig__9145936.jpg

六角橋商店街は、
「横浜橋通商店街」「洪福寺松原商店街」「大口通商店街」と並び、戦前から続く市内有数の商店街と呼ばれてきました。
六角橋は幾つかの商店街が輻輳していますが
旧綱島街道に並行して木造のアーケードに覆われた「仲見世通り商店街」が
昭和30年代を感じる貴重な風景を残しています。
http://www.rokkakubashi.jp
六角橋商業協同組合
http://www.rokuchan.com

※木製のアーケードは、磯子の「浜」マーケットと「六角橋仲見世通り」にしか現存していませんが、共に火災に遭遇し維持に苦労しています。

(六角橋風景)

lig_六角橋通り01
lig_六角橋商店街
lig_大学の街
lig_P2090404.jpg
lig_P2090282.jpg

【横浜市電域考】4市電域の終着駅 生麦

このシリーズでは、横浜市電域というテーマでかつて横浜市電が走っていたエリアに限定し、このエリア内を考えてみます。

横浜市電に限らず、鉄系のネタには少し緊張感がありますが諸先輩の数々の資料をひも解きながら、少し違った角度でフォーカスをあて市電の走ったエリアを追います。

20140217021833556

(横浜市電生麦)
横浜市電[子安線]が開通したのは
1928年(昭和3年)6月1日のことです。
開設路線は、現横浜駅前の「金港橋」から「生麦」です。
「金港橋」
1926年(大正15年)派新田間川に架かる長さ30.1mの橋です。
金港とは横浜港を指し、神奈川区の地名と首都高速の「金港ジャンクション」にその名が残っています。
※この橋から派新田間川上流方向に「月見橋」が線路脇に架かっています。この橋は松本竣介「Y市の橋」のモチーフとなったところで、作品と見比べてみる楽しみがあります。

[子安線]の走る神奈川から鶴見にかけての海岸線は、昭和に入り京浜工業地帯として急激に工業化が進んだエリアです。
<京浜工業地帯の進展>

201402170215103cd

1926年(大正15年)4月
麒麟麦酒横浜工場が生麦に開業します。関東大震災で山手の工場が倒壊したことと、設備刷新のために新しい工場用地を求め、この生麦に進出しました。
※本店を横浜市から東京に移したのは1965年(昭和40年)のことです。

1929年(昭和4年)
小倉石油横浜製油所操業→後の日本石油(新日本石油)創業の地です。

1931年(昭和6年)
RCAビクター横浜工場開場→現在の日本ビクターが横浜と関係の深い企業であること、意外と知られていません。1927年(昭和2年)に日本ビクター(設立時は日本ビクター蓄音器株式会社)はビクタートーキングマシンカンパニーの日本法人として設立として設立し、当時東洋一と呼ばれた蓄音機・レコードを製造する第一工場を横浜に建設します。

1932年(昭和7年)
日本アルミナ工業所設立→(現:昭和電工横浜事業所)戦前は森コンツェルンの中核企業として明礬石を原料にしアルミナの生産開始します。

1935年(昭和10年)
日産自動車株式会社横浜工場操業→横浜生まれの日産自動車はここから戦前多くの車輛を製造し送り出しました。

1938年(昭和13年)
日本カーボン 横浜海岸工場建設
古くは1915年(大正4年)に神奈川区浦島ヶ丘に設立したのが始まりで天然黒鉛電極製造を開始します。その後事業拡大の一環として「電刷子等高級炭素製品用素材」を生産するために横浜海岸工場を建設します。

以上簡単に湾岸進出した大企業の工場を紹介しました。市電[子安線]は京浜急行・国鉄と共に工場の発展とともに歩み始めます。

上記の工場以外にも大小様々な工場が海岸線を埋め尽くしていきます。
東海道を境に丘陵部には住宅地が形成され、戦後は地域最大級の大口商店街が誕生します。
国鉄・京浜急行・市電という3系統が走るこのエリアは、関東大震災復興を境に発展し、昭和初期の誕生した数々の工場と共に歩んできたエリアです。

(生麦魚河岸通り周辺)
工業化が急速に始まる中、このエリアの東、鶴見に近いエリアに「生麦魚河岸通り」があります。

20140217021453b5e

「生麦」といえば歴史教科書に必ず登場する「なまむぎじけん」が起こったところですが、ここでは省きます。(記念碑・資料館があります)

江戸時代の頃このエリアは
横浜沖を広く漁場とする漁業の中心地でした。江戸前と良く言いますが、江戸の魚介類は江戸近郊の漁業が支えていました。
特に生麦は江戸湾(東京湾)八カ所の幕府認定専用漁場の一つで市場も立ちました。
この生麦の魚介類を扱う市場が
明治以降、埋立ての歴史に翻弄されながらも
このエリアで多く水揚げされたノリ・貝・魚の専門店街として生き残りました。
通称「生麦魚河岸通」と呼ばれています。

lig_P1190639

かつては貝殻の多く混じった砂利道だったそうです。
県内全域から「寿司や」「小料理や」がここにネタ探しに訪れました。
流通の変化で 県央の客筋の激減、チェーン展開による集中仕入で寿司店の仕入れがなくなります。
現在では かろうじて魚河岸通の雰囲気を残している程度です。
再生は(少なくとも生き残る)最後のチャンスかも知れません。

20140217021450109<昔の面影をちょっぴり残してある貝殻浜>

(生麦〜鶴見)
戦争が激しくなった頃、軍用工場が密集していた京浜・鶴見地域の労働者を運ぶために急遽、子安線の延長が決まります。
1944年(昭和19年)に建設が始まり、戦争が終わった1945年(昭和20年)10月30日に進駐軍の命令で廃止されたたった一年の短命線がありました。

【横浜市電域考】3震災を乗越えて

このシリーズでは、横浜市電域というテーマでかつて横浜市電が走っていたエリアに限定し、このエリア内を考えてみます。

横浜市電に限らず、鉄系のネタには少し緊張感がありますが諸先輩の数々の資料をひも解きながら、少し違った角度でフォーカスをあて
【橋物語】とも連動しながら 市電の走ったエリアを追います。

lig_震災マップ

(関東大震災)
1923年(大正12年)9月1日(土)午前11時58分に起こった関東大震災は、神奈川県相模湾北西沖を震源とするマグニチュード7.9規模の大震災でした。
横浜の関東大震災
http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/library/shinsai/
ここでは被害の詳細を省きますが、
東京における大火災による被害が大きかったこと、報道も東京の惨状に偏ったこともあり東京の地震だと思っている人が多いのですが、
関東大震災は“神奈川”を中心に災害が広がった地震です。

lig_震災震源地被災図

例えば、横浜市と東京市の住家全潰棟数を比較してみましょう。
1923年(大正12年)当時の横浜市人口は約42万人でした。
一方
東京市人口は約220万人で 規模的には横浜の5倍規模程度でした。
ところが
横浜市の住家全潰棟数は約1万6千棟。
東京市の全潰棟数は1万2千棟ですからその被害の大きさが分かると思います。
特に「大岡川」「中村川・堀川」に挟まれた埋立地
関内外では、全潰率が80%以上に達するところが多くありました。
倒壊と比例関係にありますが、火災の発生場所も全潰率の高いこの地域に集中し約290か所から出火します。東京市における出火箇所数の2倍以上で、密度に置換えると数倍以上の被害です。
横浜は「関東大震災」で中心市街地が壊滅しました。
一瞬にして、開港以来65年築いてきた都市機能が失われたのです。

(インフラ整備を急げ)
横浜の復興は、帝都東京とある意味競合しながら予算取り合戦となっていきます。予算が無ければインフラの整備が遅れるのは必然で、横浜市の復興計画は予算と時間との戦いでした。
最大の課題が「橋」の復旧で、現在現役の主要な橋の多くが(戦災復興を除き)震災復興後に架けられてものです。
横浜の震災復興で有名な事業が「公園整備」で、山下公園、野毛山公園、神奈川公園は震災復興公園と呼ばれました。
ホテルニューグランドも震災復興のシンボルとなりました。
重要なのはインフラの復旧で道路、橋梁、水道、瓦斯、産業・市民生活の動脈となる交通網の整備が急がれました。
「震災復興誌」によると
市電の
「軌道は全部破壊され特に神奈川・横濱間、吉田橋・駿河橋間、市役所・元町隧道間、塩田・日本橋間の被害が最も激しく軌道、道路、橋梁が壊滅」状態でした。

以下復旧までの日程と開通路線を一覧化しました。
■震災後〜10月1日まで全面運転休止
■10月2日
神奈川〜馬車道
■10月10日
馬車道〜日本橋
■10月15日
税関線
■10月20日
馬車道〜本牧
■10月26日
弘明寺線・戸部線
10月2日から26日までに既存路線を全て復旧させますが、
一部、川・運河沿いの道路の再整備に応じてルートの変更が行われます。

特に関外の中心部を貫通する「吉田川」に沿って走っていた「羽衣線」は、川沿いを避け新しい道路整備を受けて路線が陸地部分に入り込みます。

関内ゾーンの路線も大きく周遊するルートに変更されます。

その後、間門線を皮切りに7年の間にほぼ最盛期の路線が完成します。
大正13年4月1日→間門線(本牧〜間門)
大正14年4月1日→杉田線(八幡橋〜磯子)
大正14年11月5日→杉田線(磯子〜聖天橋)
(昭和2年)
昭和2年2月17日→杉田線(聖天橋〜杉田)(修正)
昭和2年3月30日→千歳線(千歳橋〜花園橋)
昭和2年9月26日→長者町線(長者町五丁目〜車橋)
★昭和2年10月30日大演習観艦式 開催
昭和2年12月20日→浅間町線(青木橋〜洪福寺)
(昭和3年)
昭和3年5月15日→久保町線(塩田〜久保町)
昭和3年5月29日→野毛坂線(西平沼橋〜野毛坂)
昭和3年6月1日→子安線(金港橋〜生麦)
昭和3年6月16日→杉田線(中村橋〜吉野町三丁目)
昭和3年6月16日→千歳線(千歳橋〜睦橋)
昭和3年6月21日→柳町線(神奈川西口〜東神奈川西口)
昭和3年8月27日→久保山線(阪東橋〜南四ツ目)
昭和3年8月27日→長者町線(車橋〜山元町)
昭和3年9月5日→羽衣町線(羽衣町〜尾上町三丁目)
昭和3年9月5日→本牧線(桜木町〜真砂町一丁目)
昭和3年10月25日→太田町線(尾上町〜本町三丁目)
昭和3年11月8日→長者町線(長者町五丁目〜野毛坂)
★昭和3年12月4日御大礼特別観艦式 (昭和天皇即位式)開催※史上最大60万人動員
昭和3年12月11日→六角橋線(東神奈川西口〜東白楽)
昭和3年12月21日→万国橋線(本町四丁目〜万国橋)
昭和3年12月21日→本町線(山下町〜桜木町)
昭和3年12月28日→日の出町線(吉野町三丁目〜日の出町)
昭和3年12月28日→六角橋線(東白楽〜六角橋)
(昭和4年)
昭和4年6月11日→青木橋線(神奈川〜青木橋)
昭和4年7月10日→日の出町線(日の出町〜桜木町)
(昭和5年)
昭和5年6月25日→平沼線(高島町〜浅間下)
昭和5年10月1日→浅間町線(浜松町〜浅間町車庫)
昭和5年12月28日→保土ヶ谷線(道上〜保土ヶ谷駅)

(この時代)
関東大震災後から昭和5年頃の横浜はどんな時代だったのでしょうか?
1930年(昭和5年)から翌1931年(昭和6年)にかけて昭和大恐慌により危機的な状況が日本を襲います。順調に復興してきた横浜も昭和5年ごろまでは、上記「市電網」も充実し、復活の手応えを感じ取りはじめていました。
横浜市は明治以来6回市域を拡大しますが、
1927年(昭和2年)に第三回目の市域拡張を行います。
市電域はこの第三回目市域拡張後、
昭和5年の路線拡張でストップします。
「横浜市電域」原型は1911年(明治44年)に拡張した第二次拡張市域で
以降路線を大きく延ばすことはできませんでした。

(予備資料)
★市域拡張
→(第3次市域拡張)
1927年(昭和2年)
■久良岐郡
屏風浦村、大岡川村、日下村
■橘樹郡
鶴見町、城郷村、大綱村、旭村、保土ケ谷町
■都筑郡西谷村を編入します。
区制施行で市域が5区に分けられます。
横浜最初の区の登場。
鶴見区、神奈川区、中区、保土ケ谷、磯子
(※西区は神奈川区と中区の一部から分離します。)
(※南区は中区から分離します。)

→(第4次市域拡張)
1936年(昭和11年)10月1日
鎌倉郡永野村を中区に
久良岐郡金沢町、六浦荘村を磯子区に編入します。

→(第5次市域拡張)
1937年(昭和12年)4月1日
橘樹郡
日吉村大字駒ケ橋(下田町)、駒林(日吉本町)、箕輪(箕輪町)、矢上、南加瀬の各一部(いずれも日吉町)を神奈川区に編入します。
※日吉分割騒動
(日吉村の他地区は、川崎市へ編入します)
3月31日 自治体国取り合戦勃発

→(第6次市域拡張)
1939年(昭和14年)
■都筑郡
都岡村、二俣川村、新治村、田奈村、中里村、山内村、川和町、中川村、新田村を編入します。
■鎌倉郡
戸塚町、中川村、豊田村、川上村、大正村、本郷村、中和田村を編入します。
●神奈川区から港北区を分区し、上記を除く都筑郡域を編入します。
都筑郡都岡村と二俣川村は保土ケ谷区に編入します。
鎌倉郡域(中区上永谷町・下永谷町・野庭町、磯子区朝比奈町を除く)を編入し戸塚区とします。

次回から 市電域の特徴あるエリアを 個々に紹介していきます。

【横浜市電域考】2創業期の時代

(街道の力)

商業集積は今でこそ
関内、横浜駅 その周辺になりましたが、
明治期はまだまだ
神奈川(東神奈川)・生麦・鶴見が東海道の街道拠点として
重要な産業集積地でした。

lig_明治の神奈川宿

横浜電気鉄道開通当時
「神奈川〜大江橋間」は東京と横濱を結ぶ京浜電車と連絡し、沿線利用者も多く
十分採算が合う市場が路線沿線に存在していました。

lig_京浜電鉄神奈川発着所

第一期の「大江橋〜神奈川」は 当時最も妥当な路線だったようです。

(よくよく見れば)
第一期線(神奈川〜大江橋)開業時の路線は 往時とは異なったルートを走っていました。

lig_横浜電鉄桜木町付近

鉄道省(国鉄)の横浜・東京間の路線に対し、第一期線(神奈川〜大江橋)は海側を路線に沿って走り、横浜駅(現桜木町)に近づくと大きくカーブし廻り込む形で大江橋近くに停車駅を設置ます。
その後、国鉄路線の変更に伴い桜川に沿って路線が変更になります。
理由は
路線開通の条件として、道路拡張工事の必要があったことや、
国鉄と高島近辺で立体交差ができなかったからです。

【大江橋を通っていない!】
一年後の
1905年(明治38年)7月24日
第二期線(大江橋〜西之橋)が開通します。神奈川と西之橋(元町)が繋がります。
当時のマップをじっくり眺めると
路線は「大江橋」を渡らず
大江橋脇の下流川に鉄道専用の橋を架け馬車道方面に向かっています。

lig_大江橋

これまで 初期の路線を注意深く観察していなかったので 電車は当然大江橋を通過しているものと思い込んでいました。
この発見は 個人的に驚きでした。
※単に注意力散漫だったということですが。

lig_大江橋1

当時の大江橋の絵葉書にも しっかり「大江橋」下流に別の橋が写り込んでいます。
鉄道と一体化したのは震災後の架け替えからです。
大江橋に市電が走るようになったのは、1922年(大正11年)の架橋架け替えに伴い路面軌道となります。直後に震災により被災することになりますが、いち早く復旧しました。現在の「大江橋」は1973年(昭和48年)に立て替えられたものです。
「大江橋」1872年(明治5年)5月に架設され関内開港場と桜木町(横濱駅)を結ぶ重要な橋で日本初のガス灯が灯った橋でもあります。
この「大江橋」の名は当時の県令(県知事)だった大江卓(おおえ たく)の名をとっています。大江卓、当時大活躍していますので関心のある方はぜひ調べてみてください。代表的な事件は、
「マリア・ルス号事件」です。
No.257 9月13日(水)司法とアジアの独立

(明治・大正初期の路線延伸)
第一期・二期以降の「横浜電気鉄道」新路線開設と
この間にあった(人が移動する要因となる)出来事を併せて年表化しました。
1905年(明治38年)12月25日 税関線(住吉町〜花園橋)開通
1905年(明治38年)12月25日 住吉線(馬車道〜住吉)開通
1906年(明治39年) 5月1日 三渓園  開園
1909年(明治42年) 7月2日 横浜開港50周年開催
1909年(明治42年)10月1日 横浜電気鉄道(のち横浜市電)と連絡運輸を開始します。
1911年(明治44年)12月25日 本牧線(花園橋〜本牧)開通
1911年(明治44年)12月25日 羽衣線(馬車道〜駿河橋)開通
1912年(明治45年) 4月13日 滝頭線(駿河橋〜八幡橋)開通
1912年(大正1年)11月12日 大演習観艦式 開催
1913年(大正2年)10月1日 横浜市勧業共進会(〜11月19日)開催
「駿河橋」は現在の(吉野町一丁目)で、大正2年の大きな博覧会「横浜市勧業共進会」会場を結びました。
1914年(大正3年)  9月19日 弘明寺線 (駿河橋〜弘明寺)開通
1916年(大正5年)10月31日 戸部線 (戸部六丁目〜日本橋)開通
この戸部線(部分)開通を最後に、私鉄「横浜電気鉄道」は路線延長する資金力を失います。
※資料「路面電車のあゆみ」

(駿河橋〜弘明寺)
民営時代最後の拡大事業となった
1914年(大正3年)9月19日に弘明寺線が開通し、横浜市電域西のエッジにはじめて路線が到達します。
一方、1916年(大正5年)10月31日に戸部の丘陵地を越える戸部線(戸部六丁目〜日本橋)に着手しますが、貫通することなく横浜市に買収されるまで未完路線となります。

弘明寺線は前年に開催された「横浜市勧業共進会」に62万人もの入場者が訪れかなり多くの路面電車利用があったことが延伸計画を後押しします。
【芋づる横浜物語】縁は異なもの味なもの2
http://tadkawakita.blog.fc2.com/blog-entry-25.html

【芋づる横浜物語】縁は異なもの味なもの3
http://tadkawakita.blog.fc2.com/blog-entry-26.html

【横浜側面史】 観艦式

(民営から市営へ)
「横浜電気鉄道」が経営難陥り、横浜市が事業を引き継ぐことになります。
横浜市は
1921年(大正10年)4月1日に横浜市電気局を置き、
「横浜電気鉄道」路面電車事業を買収します。

lig_電車市営化市長挨拶

「いよいよ電車市営を実施するにあたり従来の経過ならびに将来につき諸君の懇情を求めんがため一言述ぶる処あらんとす。
回顧せば約一年前の昨春4月中旬横濱電気鉄道会社は東京この他の例にならい乗車賃値上げを企画し市との報償契約に基づき市の同意を求めきたれり。
この値上げは当時における物価騰貴の影響・従業員待遇の向上等に起因し一応やむをえずと認めたるも(略)
都市における交通機関は市営を妥当とする原則並びに都市計画事業この他と同様市において実施するを穏当と信じかつ東京・京都・大阪・神戸等の市営計画に比し遅れ居るを遺憾としむしろこの機会に於いて特許命令この他に準拠して買収市営の断行を企画せり。」
当時の久保田市長は、メディアを前に市営化の意義を挨拶で述べます。

(公営化の流れ)
民間鉄道から始まった全国の電気電車(路面電車)は、公共性と安定経営を理由に公営化が順次進められます。
1911年(明治44年)
東京市が東京鉄道を買収。東京市電気局を開設し、東京市電となる。
1912年(明治45年)
京都市電気軌道事務所(後の京都市交通局)発足。民営と競合時代。
1918年(大正7年)
京都電気鉄道全線を京都市電の路線として編入。
1917年(大正6年)
神戸電気を買収、神戸市電気局として市営軌道事業開始。

1921年(大正10年)4月1日
ここに初めて「横浜市電気局」(後の交通局)を設置し、
鉄道畑の技術官僚 青木周三を電気局長としてトップに置きます。

lig_青木周三

この青木を局長にした人事が 横浜市電の運命を決める人事でした。
青木周三は山口県生まれ、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業後、鉄道書記となり鉄道畑を歩み始めます。
この年、1921年(大正10年)に後藤新平の懐刀だった長尾 半平(ながお はんぺい)が東京市電気局長に就任します。
※長尾は、越後長尾家の末裔
同時期に、鉄道省きっての俊才二人が横浜と東京の電気局トップとなります。
続編でも紹介しますが
初代電気局長となった青木周三はその後、関東大震災復興に尽力し鉄道省に復帰、鉄道次官を1935年(昭和10年)まで務めます。※途中 貴族院議員のため辞任
1935年(昭和10年)横浜市長となり1941年(昭和16年)まで在任します。

1923年(大正12年)9月1日に起きた 関東大震災で
横浜の公共交通は大きく変わります。

(【横浜市電域考】3震災を乗越えて に続く)

【雑記録】鉄道技師モレル

(以下の記述はJR桜木町駅が改装される前のものです)
普段は全く気にも留めていなかったところで発見。

桜木町駅改札前のサインボード表示に
「エドモンドモレル記念碑」だって?
頻繁に利用している割に気がつかないものだ。

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あのこと?
「エドモンドモレル記念碑」
これ自体はかなり有名なのでご存知の方も多いだろう。
改札前のサインボードにこの「エドモンドモレル記念碑」
という表記があったことに気がついたことから
改めて「エドモンドモレル記念碑」を探ってみた。

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(少し調べてみた)
この記念碑
それにしても落ち着かないところに設置されている。コインロッカーのスペースに鎮座しているが、一昔前は通路だったのでここに「エドモンドモレル記念碑」は無かった。
一時期駅舎内に掲示され(保管されていた時期もある)この「記念碑」は、日本最初の駅舎(汐留と並んで)だったことの“なごり”なのだろうか。

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大昔のモレルレリーフ

現在の碑にある説明版には
「1865年、英国土木学会員に選ばれる。1870年、鉄道敷設を計画していた日本政府は初代鉄道建築師長として雇用し、10数名の技術者とともに日本に招いた。
1872年を目標に新橋〜横浜間の鉄道事業はモレルの監督のもと着手されたが、日本の鉄道開通を見ずに1871年29歳で他界。イギリス人。
横濱開港150周年を記念して
 東日本旅客鉄道株式会社 横浜支店 2009年6月」
とある。

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No.288 10月14日(日)仮の借りを返す

No.164 6月12日(火) JR JR

元々の碑には十河信二氏によって銘が刻まれている。

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十河信二(そごう しんじ)
第4代日本国有鉄道(国鉄)総裁で
「新幹線の父」の名でご存知の方も多いだろう。関東大震災(1923年)の時、復興のために設立された帝都復興院に出向し“オオナタ”を揮う予定が疑獄の中失脚。満鉄に勤めるが1938年(昭和13年)に辞職し戦後しばらく鉄道から離れるが、1955年(昭和30年)5月14日に71歳の高齢で国鉄総裁に就任する。
当時、大きな鉄道事故が連続し加賀山之雄、長崎惣之助 両総裁が辞任。
立て直しのために4代総裁に就任した。

十河信二は戦前、標準軌にこだわった人物でもある。
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/404.html