第977話【横浜の道】国道16号線
国道16号は現在、起点:西区桜木町〜終点:西区桜木町という珍しい道路です。
歴史は新しく1963年(昭和38年)4月1日に幾つかの路線が統一されて16号となりました。
横浜界隈的に起点から16号を辿ります。
ルート16は
帷子川支流「石崎川」近く、元「桜川」のあった場所を起点に初めて鉄道が始まった初代横浜駅・新橋間の鉄道路線に沿って大江橋へ続きます。




<大江橋> 横浜市内では珍しい人名の橋です。(大江卓)
関内大通と交わる尾上町の交差点を右折、羽衣橋を渡ると旧吉田新田の背骨、中央部を吉野町まで。このルートは関東大震災まで狭い道でしたが、吉田川沿いを通っていた市電のルート変更を行い、広い道路として新規整備されました。
吉野町の交差点を左に。
中村川の「睦橋」を越え、堀割川に沿って磯子方面に。

<八幡橋>際を右折し横須賀方面に曲がります。
ここから16号線は旧海岸線でした。
磯子駅を通過し、新杉田駅を過ぎると内陸部に入り込み、富岡からほぼ京浜急行線と並行して金沢文庫まで走ります。泥亀あたりで少し京急と分かれ、また金沢八景で並走します。京急と国道16号線は馬堀海岸までほぼ並走しています。
その後16号線は国道の中でも数少ない海の国道を経て、房総半島に上陸し千葉県を縦断、埼玉県、東京都下八王子からかつて絹の街道として盛んな往来があった八王子街道となった横浜市旭区に入ります。保土ヶ谷バイパスと旧道に分かれ、旧道はほぼ「帷子川」の沿って横浜中心部に入り、終点に向かいます。
(歴史)
横浜に海軍鎮守府(東海鎮守府)が1876年(明治9年)に短期間ですが設置されます。
1884年(明治17年) 12月15日、東海鎮守府は横須賀に移転「横須賀鎮守府」となります。この時から横浜と横須賀との道路整備が行われ、1887年(明治20年)に鎮守府に至る国道として「国道45号線」となりました。
戦後の
1952年(昭和27年)12月4日に施行された新道路法に基づく路線指定でこの区間が「一級国道16号」に指定されます。これが国道16号のはじまりです。
その後、延長を重ね、他の国道を取りまとめ環状線となって現在にいたります。
旭区から終点に至る16号線は、江戸時代から八王子街道として開け、保土ケ谷区と西区の区境(洪福寺松原商店街はずれ)に東海道と八王子街道(旧道)の<追分>があります。この主要街道は神奈川往還とも呼ばれ、保土ケ谷宿への重要街道でした。幕末からは繊維(絹)街道として遠くは山梨商人の道として賑わいました。
第969話 【市電ニュースの風景】1931年 №39・40


何回かに分けて読み解いている。
※「市電ニュース」は、車内吊り広報紙で、市内で開催される講演会、音楽会、展覧会、祭り、野球などの情報や、市政情報を乗客に伝えるメディアサービスとして掲載した。
№39は
1931年(昭和6年)9月26日(土)から9月27日(日)まで
№40は
1931年(昭和6年)10月3日(土)から8日(木)まで 【市電ニュースキーワード】
№39
■磯子 市電埋立地(磯子 濱)

汽船「ヱム・カナダ」号にて来日
この国名、わかりますか?現在のタイ国です。タイ国が暹羅國と表記された所以は略します。ここでは 疑問点を一つ提示しておきます。
通過予定 生糸検車所前午前十時二分・阪東橋前午前十時七分
※分単位でかなり細かく設定しています。
生糸検査所(馬車道交差点)から阪東橋まで五分とはかなりの移動速度です。
単純に距離計算しても、約2km。時速24km.当然ノンストップです。走り抜けるという感じですね。
どこを目指したのでしょうか? ■私立(旧制)本牧中学校
本牧町に私立の中学校があった?
確かに戦前の地図上では「本牧中学校」があった。
資料でも発見。

1923年(大正12年)4月に天徳寺で開校し
戦時中の空襲で消失、一時期北方国民学校を借りていましたが
1947年(昭和22年)6月
本牧中学校廃校により全校生徒479名は
現在金沢区にある横浜高等学校・中学校に転入学が許可されました。
この時代の記憶としては
野球殿堂入りしたハワイ移民の家庭でハワイ生まれの若林 忠志が一時期籍を置き、その後大学プロ野球で活躍した選手です。
苅田久徳(元読売ジャイアンツ)劉瀬章(元南海)も本牧中学校出身らしい?(正確な資料不足)追って調べます。
このように「本牧中学校」は戦前、野球の名選手を輩出していた運動の盛んな学校でしたが、文系でも活動が盛んで、「神中」を競うほどの「文芸活動」が行われていました。 ■元町弓道場
1931年(昭和6年)に五人立ちの道場として建てられ、当時としてはかなり立派な道場だったそうです。増改築され現在も現役で使われています。 (懸賞標語)
吊革を目標に腰を順にかけ(矢部政一君) №40
■満蒙問題講演会
和田亀治 元第1師団帳陸軍中将
(わだ かめじ)大分県出身、陸軍士官学校(6期)陸軍大学校(15期)
日露戦争に第1師団参謀として出征。
1928年(昭和3年)8月29日、予備役へ。帝国在郷軍人会副会長。
市電ニュース№36では
磯子・立野・豊岡を巡回講演会
№40では
平沼・戸部・程ヶ谷・子安・本牧・三吉の各小学校で実施。
1931年(昭和6年)の満州事変状況は 市電ニュース№36では
9月9日に
磯子・立野・豊岡を巡回し講演会が実施されています。
9月18日に
満州事変が起こった。
№40では一気に講演会場が拡大され
10月4日から10日までの一週間、
平沼・戸部・程ヶ谷・子安・本牧・三吉の各小学校で実施され時代の急変を感じることができます。 ■桜木町横浜興産館
下記ブログで詳しく紹介しています。
第694話【一枚の横浜絵葉書】「桜木町横浜市授産所ノ偉観」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6063 ■横浜専門学校
現在の神奈川大学です。
詳細は別途 資料整理中です。
創設は
1928年(昭和3年)
米田吉盛、桜木町に「横浜学院」創設。
1929年(昭和4年)
専門学校令により「横浜専門学校」設立が認可。
1949年(昭和24年)
学制改革により「神奈川大学」設置 ■桟橋 B発
横浜港大桟橋B埠頭のことです。

磯子線「濱」バス停磯子区役所前
女流飛行士 木部しげの(シゲノ)・宮森美代子 出場
このイベントは<すごい!>でもこの予告が実施されたのか?
中止になった可能性が高いようです。確認中。 木部しげの(シゲノ)は
NHKの連続テレビ小説『雲のじゅうたん』のモデルのひとりで「男装の令嬢」と呼ばれ大人気となった女性パイロットの草分け。
彼女は横浜と縁がある。パイロットの訓練は橘樹郡潮田町(現・横浜市鶴見区)にあった第一航空学校に入学し
1924年(大正13年)第一航空学校を卒業
1925年(大正14年)三等飛行機操縦士免状を取得
その後 各地で飛行演技や講演会を行う。 宮森美代子は
会津出身の女性で、日本初の女性パラシューター
1931年(昭和6年)3月7日
津田沼海岸の伊藤飛行場で、女性として日本初の落下傘降下をした。
当時19歳。靴メーカーのイラストポスターにもなり、写真も中々の美しい方。
http://www.webmodelers.com/201706katoucolumn.html <欄外>
神中鉄道会社沿線の
・芋掘会(大和駅付近)
・栗拾・茸狩(鶴ヶ峰駅付近)
市電「水道道」にて乗換
No.233 8月20日 (月)相鉄線ミニ物語
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=374
神中鉄道は目下資料整理中です。
改めて紹介します。 1931年(昭和6年)10月25日
西横浜駅・平沼橋間開通。 (懸賞標語)
お客は好意 車掌は誠意(磯見利子君)
第967話 【市電ニュースの風景】1931年 №37・38


※「市電ニュース」は、車内吊り広報紙で、市内で開催される講演会、音楽会、展覧会、祭り、野球などの情報や、市政情報を乗客に伝えるメディアサービスとして掲載した。
№37は
1931年(昭和6年)9月13日(日)から9月18日(金)まで
№38は
1931年(昭和6年)9月18日(金)から24日(木)まで
【市電ニュースキーワード】
№37
■元町横濱プール
前回紹介
■山王町日枝神社(お三の宮)大祭
第968話【絵葉書の風景】お三の宮
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11786
「関外総鎮守お三の宮日枝神社」
http://www.osannomiya-hie.or.jp ■全国特産品國際市演芸開始
=芝居、茶番、洋楽、舞踊
※茶番=こっけいな即興寸劇。
江戸歌舞伎の楽屋内で発生し、18世紀中ごろ一般に広まった。口上茶番と立ち茶番とがある。茶番狂言。
■四号岸壁へ
明治後期から大正にかけて建設・整備されてきた「新港埠頭」には12号まで岸壁が設置されていた。その中でも外海に最も近く接岸しやすかったのか、四号岸壁が客船用に多く利用された。



=東京三越本店四階にて=
現在も東京で地方PRブース、物産展が開催されるが戦前も県物産展が開催された。
何が展示されたのか、知りたい! №38
■暁鳥 敏(あけがらす はや)
1877年〈明治10年〉7月12日〜1954年〈昭和29年〉8月27日
真宗大谷派の僧侶、宗教家
http://www.city.hakusan.ishikawa.jp/kankoubunkabu/bunkasinkou/senzin/akegarasu.html
■横浜公園
横浜公園は、開港してまもなく遊郭ができた空間(港崎遊郭)が慶応の大火で消失し遊郭は移動。その跡地はしばらく放置、居留地の外国人から生活環境改善要求があり、土木技師リチャード・ブラントン設計による海岸から日本大通・横浜公園一帯が整備された。本質的な狙いは<防火帯>だったが、本格的な近代公園として、現在まで残る貴重な公共空間である。横浜公園は開園当時、我も彼もという意味で「彼我公園」と呼ばれた。園内には外人居留地運動場、噴水、回遊歩道などが整備された。
1931年(昭和6年)当時は※音楽堂 ※球場があり多くの人々に利用された。
No.78 3月18日 横浜公園に野球場完成
第956話【横浜真景一覧図絵徹底研究】第一話
■■関連ブログ
第966話 【市電ニュースの風景】1931年 №35・36
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11764 第920話【市電ニュース】市電域と市電ニュース
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10847 【市電ニュースの風景】第一号その1
1930年(昭和5年)12月25日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7276 【市電ニュースの風景】1931年 №21
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7482
第966話 【市電ニュースの風景】1931年 №35・36


1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を
何回かに分けて読み解いている。
※「市電ニュース」は、車内吊り広報紙で、市内で開催される講演会、音楽会、展覧会、祭り、野球などの情報や、市政情報を乗客に伝えるメディアサービスとして掲載した。
№35は
1931年8月29日(土)から9月4日(金)まで
№36は
1931年9月4日(金)から10日(木)まで
【市電ニュースキーワード】
■元町横濱プール
元町横濱プールは1930年(昭和5年)5月20日に完成、6月1日(日)に開場式が行われた。夜間施設を持っていたので開場の翌月(7月)には日本初の夜間水上競技会が開催された。現在は「元町公園プール」と呼ばれている。
水源は井戸水を使っていたためにかなり冷たく真夏でも凍る!プールで有名だったが現在は<水道>で温かい?!。
戦後1946年(昭和21年)3月1日に米軍に接収され「オリンピックプール」とネーミングされ1952年(昭和27年)に解除、返還された。

■9月1日は震災八周年記念日 久保山で慰霊祭
記念日はめでたいものに対するものだと思っていたが、記念とは忘れないぞ!ということなので震災を忘れないぞ!ということだろう。
■日本郵船 日枝丸出航
新港埠頭 四号岸壁 シャトルへ(特別シャトル便のことか)
■4日 朝鮮音楽と舞踊の会
第二隣保館

■横濱洋画展覧会 横濱興産館
第694話【一枚の横浜絵葉書】「桜木町横浜市授産所ノ偉観」
■満蒙問題講演会
和田亀治 元第1師団帳陸軍中将
(わだ かめじ)大分県出身、陸軍士官学校(6期)陸軍大学校(15期)
日露戦争に第1師団参謀として出征。
1928年(昭和3年)8月29日、予備役へ。帝国在郷軍人会副会長。
■日本郵船 秩父丸
大桟橋C発 桑港へ
秩父丸は1939年(昭和14年)1月に鎌倉丸と改名。
詳しい本文は画像で確認お願いします。
★同時期の出来事
8月29日(土)
濱口雄幸 前首相告別遥拝式 民政党県本部で執行
※1931年(昭和6年)8月26日 東京駅で銃撃され、それが遠因で死亡。
横浜市、市内9箇所でルンペン※調査実施。
(総数224人。内女性4人、子供3人)
※浮浪者。また比喩的に、失業者。本来《ぼろ切れの意》
9月2日(水)
<朝鮮古代音楽と舞踏の会>横浜公園音楽堂で開催。
※市電ニュースで告知の「朝鮮音楽と舞踊の会」第二隣保館
と同じものか? 会場変更になったのか 別のものか不明
9月4日(金)
銀座のカフェ・バー<クロネコ>が女給150人を引き連れ伊勢佐木町に進出
9月5日(土)
第1回女子中等学校水上競技大会開催。
9月6日(日)
戸塚町矢沢に野球場が新設された。
9月7日(月)
空の英雄、リンドバーク夫妻来浜。市民の熱狂的歓迎を受ける。
夫妻は数日間、東京で過ごす間、日本政府機関との打ち合せの合間をぬって、リンディ夫妻は横浜市民の好意に感謝の意を伝えるために訪れた。
■■関連ブログ
第920話【市電ニュース】市電域と市電ニュース
【市電ニュースの風景】第一号その1
1930年(昭和5年)12月25日
【市電ニュースの風景】1931年 №21
1931年(昭和6年)5月21日から27日まで
第963話 8月3日(金)
戦前の歴代市長に関して自分の記憶の整理をします。
まず戦前期の歴代横浜市長一覧
開港50周年記念事業を担当。市章、市歌の制定。
(12代市長 青木周三)
横浜市が横浜電気鉄道を買収。電気局を発足。

第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント
紀元(皇紀)二千六百年特別観艦式(横浜)
第946話【横浜史の節目】後半
1923年(大正12年)9月1日
関東大震災で横浜市域は多くの人命、財産を失います。
実質、東京より被災度が大きかった横浜は、帝都東京を復興するという最優先の下
独自の震災復興を目指さなければなりませんでした。
多くの企業が横浜を去り、港都の機能が麻痺、蚕・絹を中心とした貿易産業は壊滅状態となります。
横浜は元々
幕末、江戸開港を避けた結果として、<港都横浜>が誕生します。
関東大震災が起こる頃、横浜は現在の10分の一にも満たない<小横浜>でした。
1901年
第1次市域拡張 面積24.80km2
1911年
第2次市域拡張 面積36.71km2
1927年
第3次市域拡張 面積133.88km2
廃墟からの脱却を復興だけではなく
<発展><産業転換>という新しいベクトルで推進したのが
【最強の市長】有吉 忠一でした。
湾岸の埋立、港湾機能の高度化、産業誘致を推進し
<大横浜>を目指しました。
※市域拡大
【番外編】市域拡大は元気なうちに!?
1923年から戦後まで横浜は波状的な破壊・復興を繰り返しました。
震災後の横浜は横浜大空襲でまたまた壊滅。
終戦、当時沖縄を除き、日本最大の<占領・接収>時代を迎えます。
※関東大震災
No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる
※横浜の空襲
「写真でみる横浜大空襲」web版
http://www.city.yokohama.lg.jp/somu/org/gyosei/sisi/web-air-raid/
※占領下の横浜
第905話 【占領下の空】
長い占領・接収時代が続きます。
戦後接収解除と人口急増が重なり、横浜は爆発的に拡大する<東京>のベッドタウン化していきます。
■1968年(昭和43年)
人口200万人都市となります。この年、ブルーライトヨコハマ、伊勢佐木町ブルースという空前の大ヒット曲が生まれ、横浜市の大PRとなりさらに人口が急増します。
1968年をテーマに
No.422 【舞台としての横浜】妙蓮寺と野毛
■市電の時代の終わり
1966年(昭和41年)に生麦線、中央市場線を廃止したのを皮切りに廃止路線が増えて行きます。
1972年(昭和47年)市電とトロリーバスが全廃されその姿を消しました。
同時期、関内外の運河が消えてゆきます。
■1980年代、横浜は政治の嵐
No.357「今保守を問う」
■1989年バブル崩壊前夜のお祭り
No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催
■1996年防災ボランティア元年
No.237 8月24日(金) 防災は体で覚える!
■2002年はワールドカップサッカー
No.161 6月9日(土) 日本、ロシアに勝利!
後半はリンクばかりになってしまいました。
第920話【市電ニュース】市電域と市電ニュース
1930年(昭和5年)の暮、横浜市が震災復興に一つのメドがついた頃
市電社内刷りPRとして「市電ニュース」が発行されました。
ちょうどこの頃、横浜市内の市電網が最も精力的に整備され、市域トラフィックの軸となっていきます。
当然ですが元気な商店街はこの時期に拡張された市電域と重ねることができます。
六角橋商店街・洪福寺松原商店街・弘明寺商店街・杉田商店街・横浜橋商店街・浜マーケット・かつての生麦魚河岸通り・藤棚商店街 他
横浜の都市形成を考える上で 市電域の研究は必須です。
と宣言しつつ 途中までですが 下記のシリーズも継続していきます。
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それぞれの写真キャプション未整備です。(ハガキ、写真は個人蔵)
第898話 【横浜・大正という時代】その2 大正時代
横浜の歴史にかるーく関心を持って10年、資料を調べ始めて5年。
腰を据えなければ!と思って3年になりますが 0からの学びは広すぎますね。
ということで
歴史の初学者として先生に<ご指導>をお願いしているのですが、
「あなたは初学者ではない。社会経験は歴史学に必須条件です。もうすでにこの条件はクリアしている」と息子のような歳の師に慰められています。
なぜ歴史学に<社会経験>が必要なのか おいおい紹介していきますが
今日は 横浜史を学ぶにあたって 時代区分が大切ですよ!!という話。
歴史書、歴史の教科書に目を通すと、時代区分がされています。
●●時代という区分です。今回も【横浜・大正という時代】としました。
一般的な歴史区分を大事にしながらも
自分なりの歴史区分を考えなさい!ということです。
テーマによっても歴史区分が変わってくるからです。
(一般的な区分)
・暦で分ける
19世紀から20世紀にかけてとか
大正から昭和にかけてとか
1930年代とか
※時系列比較するときに便利です。
・事件で分ける
戦間期(第一次と第二次世界大戦の間)
戦前・戦中・戦後(第二次世界大戦を指すことが多い)
革命以前以後とか震災前後 事件後、
※時代を変えた事件を軸に歴史を区分することは<事件>を捉える上で大切です。
(横浜を区分する)
横浜を考える上で、開港は外せません。特に開港の舞台となったことも大きいでしょう。
横浜史を<事件前後>二つに分けるとしたら?異論なく開港でしょう。
次に、私は「関東大震災」が横浜に与えた様々なインパクトは大きい要素だと考えています。
震災前後で横浜の人々の生活は大きく変わりました。災害の内容も東京や神奈川近郊とも異なる部分があり、横浜としての被災前後の政治・経済・社会はその後の横浜復興計画・都市間競争を踏まえながら変化していきます。
※東日本大震災も 震災前後として歴史を捉える時期が来るでしょう。
というところで、横浜史を学びながら<時代区分>を考える中、
(横浜・大正という時代)
ようやく本題に入ってきました。横浜を元号区分で俯瞰すると
大正時代は濃い時代です。
1912年(大正元年)〜1926年(大正15年)の15年間を大正時代と呼びます。
この間、1923年(大正12年)に起こった関東大震災は大転換期でもありました。
日本史において 大正時代の重要事項は
<大正デモクラシー>
<第一次世界大戦>
<ロシア革命>
<関東大震災>
横浜は被災地
などが代表的事件とされます。
横浜でも上記の歴史的要因の影響を大きく受けますが、特徴ある横浜での重要項目を列挙しました。
■横浜大正期(明治末期以降)の重要事項
横浜の大正期は近代化に伴う都市整備が始まった時期にあたります。
●都市計画の始まり
→小横浜から大横濱への計画が立案されます
1919年(大正8年)久保田周政(きよちか)市長は市区改正局と慈救課を設置し、都市計画と社会福祉を設置
1920年(大正9年)市区改正局→都市計画局 慈救課→社会課
横浜市の都市計画が本格的に検討されたのが大正初めのことでしたが、計画半ばで大震災が起こり挫折、0からの復興計画が始まります。→有吉忠一の横浜復興
■横浜市の大正期三大公営事業<水道><瓦斯><電気>
現在電気と瓦斯は民営事業となっていますが、横浜市は全国でもいち早く<瓦斯>を公営化、さらには電気鉄道も公営化します。
共に横浜の実業家高島嘉右衛門・安田善次郎らの事業を横浜市が引き継ぐことになります。
●横浜市内の水道第二次拡張工事期
→明治期に水源を山梨に求め、多摩川での水源紛争を避けた先見性のある横浜市でしたが
都市の急膨張は想定外でした。拡張に伴い、市民の飲料水の確保と何回も横浜を揺るがしたペスト・コレラ対策のための上下水道整備も急務となっていました。
No.217 8月4日 (土)わがひのもとの虎列刺との戦い
●瓦斯エネルギーの転換期
市営瓦斯事業の整備
平沼瓦斯製造所(横浜市西区西平沼町 5-55)が1908年(明治41年)に完成、
現在相鉄線・東海道線沿線の平沼にある<ガスタンク>は明治に完成。大正時代の瓦斯供給を担います。
第二次世界大戦中に現在の東京瓦斯と新しい瓦斯会社を設立し
1944年(昭和19年)に瓦斯局が廃止されました。(市史Ⅱ)
平沼の瓦斯工場稼働により高島嘉右衛門に始まった<花咲町瓦斯工場>が配給所になります。→現在の中区本町小学校
●市電網の拡充
1921年(大正10年)に横浜市は経営難の「横浜電気鉄道」を620万円で買収し市営化を図ります。
市営化により第一期の設備投資が行われますが、関東大震災により設備の大半を失ってしまいます。事業としては初期設備投資と復興事業の二重負債を負うことになり、市電網の拡充に遅れが生じたことは否めません。
■民間経済の発展と挫折
●横浜開港五十年祭の開催
1909年(明治42年)に横浜は一つの節目を迎えます。
市を挙げて「開港五十周年」の式典を行います。ここにはもう一つの「開港五十周年」がありました。
明治期の薩長藩閥政治に不満を持つ人達と旧徳川家に関わってきた人達の動きの一つが「井伊直弼像」建立の動きでした。
開港の地、横浜で開港記念日に藩主井伊直弼の像を建立する計画が旧彦根藩士を中心に持ち上がります。詳しくは別な機会に紹介しますが、
政府(薩長出身)の大反対を受け開港記念日の除幕式は断念しますが、遅れて盛大に挙行されます。何故?横浜の地で「井伊直弼像」は建立できたのか?
横浜の大正時代を考える一つの出来事でしょう。
●民間の物流インフラの整備
横浜鉄道、横浜倉庫 他
→1905年(明治38年)
私鉄では京浜電気鉄道(後の京浜急行)が
品川(現・北品川)〜神奈川間開通します。
→1906年(明治39年)
横浜倉庫 横浜鉄道の姉妹会社として設立
→1908年(明治41年)
東神奈川駅〜八王子駅間(現在の横浜線)横浜鉄道が開業します。
●太平洋電信網の完成
横浜商工会議所(特に生糸商)が切望の日米電信網が完成します。
1906年(明治39年)8月1日
太平洋が通信線で繋がる。
第879話【時折今日の横浜】3月27日日米接続
No.22 1月22日 大谷嘉兵衛を追って(加筆)
●工業化
京浜エリアの工業化 横浜は繊維貿易を基盤にした経済都市からの脱皮、
重工業都市への転換を図るため大正期から湾岸の埋立が急加速していきます。
第894話 【横浜・大正という時代】その1 新港埠頭
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9975
第883話【時折今日の横浜】4月1日年度初め
4月になりました。“新”の多く付く時期です。
新学期、新入社員、新年度、新しい職場等。
4月1日は新制度や、新設の多い日なのでブログネタには困りません。
ここで
横浜の4月1日にふさわしいエイプリルフールネタ無いか?
と探しましたが時間切れ。
ということで 今日は「横浜誇張史」モトイ「横浜拡張史」にします。
横浜を知るベイシックテーマでもありますので
基本を押さえる感じで紹介します。
横浜市は市が誕生してから6回市域を拡張します。
その内、5回が年度初めの4月1日に行われました。
【市域拡張日】
(横浜市誕生)1889年(明治22年)4月1日
(第1次) 1901年(明治34年)4月1日
※10年後
(第2次) 1911年(明治44年)4月1日
※16年後
(第3次) 1927年(昭和 2年)4月1日
※9年後
(第4次) 1936年(昭和11年)10月1日◎
※一年後
(第5次) 1937年(昭和12年)4月1日
※2年後
(第6次) 1939年(昭和14年)4月1日
こう並べてみると第4次が気になりますよね!
さらに拡張の間隔で比較すると
第3次拡張まで38年
その後の6次拡張まで10年となります。
10月1日の市域拡大
唯一10月1日に拡張した◎の(第4次市域拡張)は
<旧相模国>鎌倉郡永野村が中区になり
<旧武蔵国>久良岐郡金沢町、六浦荘村が磯子区に編入したイレギュラーな拡張でにあたります。
武蔵国だった横浜市が<律令時代>を超えて、相模国の領域を初めて編入します。
過去ブログで簡単な市域拡張を紹介しました。
【番外編】市域拡大は元気なうちに!?
<人口膨張>
6回の市域拡張に面積と人口を重ねてみます。
(横浜市誕生)1889年(明治22年)4月1日
面積 5.40km2 人口121,985 人
(第1次) 1901年(明治34年)4月1日
面積24.80km2 人口 299,202 人
(第2次) 1911年(明治44年)4月1日
面積36.71km2 人口 444,039 人
(第3次) 1927年(昭和 2年)4月1日
面積133.88km2 人口 529,300 人
※10月に区制となり最初の5区誕生
第二次・第三次の頃と最盛期の市電域が重なります。
(第4次) 1936年(昭和11年)10月1日
面積168.02km2 人口 738,400 人
(第5次) 1937年(昭和12年)4月1日
面積173.18km2 人口 759,700 人
(第6次) 1939年(昭和14年)4月1日
面積409.97km2 人口 866,200 人
※7区になります。
1942年(昭和17年)人口1,015,900人(百万人突破)
1945年(昭和20年)人口 624,994 人
1952年(昭和27年)人口1,013,075 人(百万人回復)
1968年(昭和43年)年度中に200万人突破
約16年で100万人増加
1985年(昭和60年)年度中に300万人突破
約17年で100万人増加、戦後40年で約240万人増加
ここに鉄道網を重ねてみると
横浜は、「横浜駅」を軸に放射状に成長し戦後は環状線を目指してきたことがよく分かります。
少子高齢化のこれから、この巨大都市はどうなっていくのでしょう。
(4月1日の過去ブログ)
No.92 4月1日 横浜市交通局ブルーライン大人200円
第877話【時折今日の横浜】3月25日
1929年(昭和4年)の今日
横浜市営交通八十年史の年表に
「神中鉄道と連絡運転開始(連絡駅は社線は西横浜駅、市電は水道道停車場)」
時代は、横浜市の関東大震災復興計画が仕上げの時期に来ている頃です。
横浜の街(関内外特に伊勢佐木あたり)にも“にぎわい”が戻りつつありました。
神奈川の鉄道関係者にとって、昭和初期は苦難と希望の時期に当たります。
この年表にあった「神中鉄道と市電の連絡運転開始」を元に、当時の「西横浜」停留所の意味を考えてみます。
<神中は程ケ谷を目指す>
神中鉄道、現在の相模鉄道にとって「西横浜」停留所開業は重要な意味がありました。神中鉄道は厚木から始まり、当初は国鉄「程ケ谷駅」近くで東海道線につなげる計画で延伸してきたからです。まだ、横浜駅が二代目(高島町)のころです。
1927年(昭和2年)5月に「北程ケ谷(現:星川)」停留所を開業し、さらに国鉄東海道線を目指します。この年、保土ケ谷エリアは念願の横浜市に編入「保土ケ谷区」となり区役所も国鉄保土ヶ谷駅近くに開設します。
いよいよ東海道線との接続を実現するため「西横浜」停留所までの延伸計画を進めますが、震災で甚大な被害を受けた二代目横浜駅が廃止、三代目(現在の場所)となり、東海道線も弓なりだった路線が平沼を抜けほぼ真っすぐ程ケ谷駅と結ぶ新線が1928年(昭和3年)に完成します。
そこで、市電網の充実を復興計画の一環として計画していた横浜市は、神中鉄道「西横浜」開業に伴い、接続駅「水道道」停車場を1929年(昭和4年)3月25日に開業します。
これによって、
関内に竣工した新県庁にもまた市役所にもアクセスが確保できることになります。
1929年(昭和4年)2月14日に開業したこの「西横浜」停留所と3月25日開業の市電「水道道」停車場の<乗り継ぎ接続>は重要なポイントでした。
以降、神中鉄道は計画線を変更し、新しい東海道線に沿って
新しい「横浜駅」を目指します。
(相模鉄道延伸)
現在の相模鉄道の前身神中鉄道、延伸史をまとめてみました。
[厚木]〜大正15年5月12日〜[二俣川]
[二俣川]〜大正15年12月1月〜[星川](現:上星川)
[星川]〜昭和2年5月31日〜[北程ケ谷](現:星川)
[北程ケ谷]〜昭和4年2月14日〜[西横浜]
[西横浜]〜昭和6年10月25日〜[平沼橋]
[平沼橋]〜昭和8年12月27>〜[横浜]
<相鉄の簡単な歴史>
http://sotetsu-kids.jp/sotetsu/rekishi.html
(その他の3月25日)
■1959年(昭和34年)3月25日
「大黒町埋立完工式〔1.33〕(横浜の埋立)」
「大黒町地先埋立工事竣工式(横浜市会の百年)
「大黒町埋立工事竣工式(横浜税関百二十年史)
■1981年(昭和56年)3月25日
「市が開発した水の缶詰発売(横浜市会の百年)」
水の缶詰・・現在も横浜市水道局各営業所で販売(350ml入り50円)しています。
この缶詰は5年間保存可能で、缶入りなので遮光されています。
透明のビニール袋等に入れておくと、保存中に飲み口がほこりなどで汚れることがありません。
http://www.city.yokohama.lg.jp/…/life-inf/mizu/hozonsui.html
応急給水拠点
水道水の缶詰は
横浜市が全国で初めて昭和48年水道水の缶詰に製造計画に着手し
「全国に先がけて、昭和52年に災害備蓄用の保存飲料水として「水の缶詰」を販売しています。(水道局)」
■1989年(平成元年)3月25日
市政100周年・開港130周年記念「横浜博覧会」開幕
<開催期間は1989年(平成元年)3月25日〜10月1日>
開会式は3月24日です。
横浜博覧会関係はこのブログでも3月24日で紹介しています。
No.431 「みなとみらい」地鎮祭開催
「横浜博覧会」開幕と一緒に横浜美術館も開館しています。
(3月25日関係ブログ)
No.85 3月25日 日本の運命を変えた男横浜に入港