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横浜の駅」カテゴリーアーカイブ

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No.411 横浜最古の寺周遊(後編)

No.410で横浜市南区にある横浜最古の寺院「弘明寺」を紹介しました。
今日は
この弘明寺門前に拡がる賑わいのエリアを紹介しましょう。

【第一スポット】
「弘明寺公園」
●見晴らし最高
京浜急行「弘明寺駅」脇にある岡一帯が弘明寺公園です。
高さは約50m、その一番高いところにさらに展望台が設置されています。

展望台からの眺めは富士山の眺め、みなとみらい方面の眺めが最高です。
一周ジョギングコースにもなっています。

●撮影スポット
富士山と丹沢山系

京浜急行の撮影スポット
ランドマークやマリンタワー

●図書館
駅から1分の市内で一番駅に近い図書館です。
屋上がプールになっています。
ちなみに二番目は 実感値で
保土ケ谷図書館ではないでしょうか?(実測してません)

【第二スポット】
「弘明寺境内」
●歴史探索
「四代目橘家圓蔵」他
No.109 4月18日 品川の名人濱に死す
1881年(明治14年)6月24日(金)に開業した
関内を代表する割烹料亭「千登世」寄進の看板

No.176 6月24日(日) 関内の粋といやーー、ね。

【第三スポット】
「商店街巡り」

http://www.gumyouji-shoutengai.com
●横浜ハット
昭和24年に創業し、現在は2代目の店主が営む老舗の帽子の専門店です。
茶人帽(和装用の帽子)、船長帽、カウボーイハットなど、帽子の専門店ならではの品ぞろえの豊富さがすばらしい。一つ私も購入しました。

〒232-0055 横浜市南区中島町4-85
https://www.gumyouji-shoutengai.com/shop/yokohamahat.html
●藤方豆腐店
https://www.gumyouji-shoutengai.com/shop/fujikatatoufuten.html
そごう横浜店地下食品街にも横浜橋商店街横、大通り公園側に出店しています。

●マコト
レストラン マコト
https://www.gumyouji-shoutengai.com/shop/restaurantmakoto.html
ハンバーグランチを食べました。
ソースのさっぱり感が絶妙でした。とかく濃いめが多い中、
あっさりソースが肉の味をしっかり楽しめました。

●地元で噂のパン屋さん
デュークベーカリー
https://www.gumyouji-shoutengai.com/shop/dukebakery.html
種類の多さは驚きです。
あんぱんが美味しかったです。

●盛光堂総本舗
https://www.gumyouji-shoutengai.com/shop/seikoudousouhonpo.html
最中が人気です。

【第四スポット】
「大岡川」
●桜

●水辺周遊

【第五スポット】
「名人登場」
●街場の博士
酒学工房 川松屋の川松博士

※この川松屋さんでは なんと ルバイアートが置いてあります。
国産ワイン数々あれど、この「ルバイアート」は私が推薦して止まない逸品です。
中々横浜には置いてないんですね。
残念です。中々取扱店増えません。

●マイスター
印鑑なら国峰さんの彫りがおすすめです。
http://www.kunimineinbou.co.jp

【番外編】
弘明寺駅の貴重品
プロダクトデザイナー柳 宗理デザインの横浜市営地下鉄駅設備デザインを手がけました。

彼は、1970年に野毛山動物園歩道橋や看板もデザインしています。
現在、蒔田駅や弘明寺駅などに設置されています。
弘明寺は「背もたれサポーター」と「ベンチ」が現役で残っています。
もうひとつ弘明寺のお宝追加します。

昭和初期の公衆トイレという話しです。中は新しいですよ。

No.410 横浜最古の寺周遊(前編)

今日は「弘明寺(ぐみょうじ)」を紹介しましょう。
721年開祖、武藏国久良郡(くらきぐん)の郡寺として
現在まで多くの参拝客、観光客を集める古寺です。

瑞應山蓮華院弘明寺は、インドの善無畏三蔵法師により開かれた横浜で最も古いお寺です。
本堂は寛徳元年(1044年)3月10日、光慧上人により建立され明和3年(1766年)に智光上人により再建されました。
1976年(昭和51年)に火災予防も兼ね茅葺より銅板葺に改修され現在にいたります。

(文化財)
国指定重要文化財の木造十一面観音立像(彫刻)
横浜市指定有形文化財の木造金剛力士立像(彫刻)
木造黒漆花瓶(工芸品)
弘明寺梵鐘(工芸品)

坂東三十三カ所の十四番札所です。
御詠歌は
「ありがたや
誓いのうみを
かたむけて
そそぐ恵みに
さむるほのやみ」
現在は京浜急行が寄進した「身代わり地蔵菩薩」が人気です。

(波乱の歴史)
弘明寺の現在の賑わいにも波乱の歴史がありました。
鎌倉時代には地元鎌倉武士の信仰を得、
江戸時代には観音信仰の場として鎌倉街道も整備され
弘明寺詣で賑わいます。
大きな転機は 明治維新でした。
弘明寺は「御朱印寺」として幕府公認の寺として保護されましたが
神仏判然令による廃仏毀釈運動で檀家の無い寺は特に経営が厳しくなります。
神仏分離は仏教排斥を意図したものではありませんでしたが、一種の民衆の廃仏運動に繋がります。
1901年(明治34年)に31歳の若き一人の僧が困窮の弘明寺住職となります。
彼の名は渡辺寛玉(老師)弘明寺中興の師として現在も語り継がれています。
彼は、寺を守るために 当時山手にあった真言宗準別格本山増徳院の役僧を務めます。平たく言えばアルバイトをしながら寺を守ったというところです。
この真言宗準別格本山「増徳院」といえば、
この寺の墓所をペリーの意向で外国人の墓地に提供したことから現在の「山手外国人墓地」が誕生します。
「増徳院」は、関東大震災で倒壊し平楽に再建され現在に至ります。

渡辺寛玉という方は、この増徳院で多くの有力者の知遇を得ます。
1907年(明治40年)に「弘明寺」の支援団体「勝保会」が市内の有力者の下で興されます。
弘明寺「勝保会」
会長が茶商 大谷嘉兵衛です。
彼は、伊勢山皇大神宮の創建にも尽力し、初代氏子総代となっています。
副会長には市内有数の質商として財を成した太田治兵衛がなり
メンバーには
原富太郎、石川徳右衛門、平沼亮三、野村洋三 他横浜の有力者が名を連ねます。
「勝保会」を軸に弘明寺は 地域振興も含め復興することになります。
その昔、手っ取り早い産業誘致に「花街」がありました。
特にお寺さんには「花街」がつきものでしたので
大変賑わったそうです。

(文教地区に)
1920年 (大正9年) に横浜高等工業学校「横浜高工」(後の横浜国大工学部)が設立され
弘明寺の環境が一変します。

お寺さんの表参道の真ん前に国立の学校が設立されたことで、
学校の横に「花街」は教育環境上ヨロシクない。
賑わいの観光資源?だった花街は井土ケ谷と大久保に分散してしまいます。
その代わりに、(通学用に)
1919年(大正8年)市電の終着駅として鎌倉街道沿いに「弘明寺駅」が完成します。

とは言え
弘明寺駅と蒔田駅周辺は、何もないノッパラと畑ばっかりで場末!の停車場でした。
その後、産業振興博覧会の「共進会」が蒔田近くで開催され(地名に共進の名が残っています)たり、

1930年(昭和5年)に京浜急行「弘明寺駅」が開業することで次第に賑わいを取り戻しはじめます。
この京浜急行「弘明寺駅」の敷地は「弘明寺」が提供したそうです。
昭和10年頃になり、弘明寺が敷地を提供し 市民公園「弘明寺公園」が誕生し
弘明寺商店街のベースが形成されます。

そして幸運にも戦災を免れることで 戦後の商品供給の市場として栄え現在の商店街が出来上がります。
戦後も「弘明寺商店街」エリアは、市電が廃止されるまでは地域最大の商業集積地でした。その後、上大岡の発展で地域一番の座を譲り渡しますが
当時、東洋一の全長270m(現在全長312m)のアーケード設置したり

最近では太陽光発電システムが設置する時代にしっかりとアンテナを張った商店街マネジメントで活性化しています。

■市民公園「弘明寺公園」散策
■弘明寺商店街おすすめの店
■お宝紹介  は(後編に続く)

No.404 横浜、駅を巡るとりとめもない話

ある方から「降り鉄」の名を頂戴しました。光栄です。
今日は、(今日も)横浜の駅を巡る“たわいのない”話しに終始したい!
ので、鉄道(駅)に関心の無い方 ごめんなさい。


普通、テレビ番組でもなければ目的無く知らない駅に降立つことはありません。私は、横浜市内全駅に降立つ“目的で”駅歩きをかなり前から始めました。
1990年から折々に市内全線全駅巡りをし、2008年に踏破しました。

 


No.385 【横浜界隈鉄道編】横浜の駅

ここで
※市内全線全駅踏破は、勿論全事業路線の改札を出る!ということでカウントしています。
と全駅巡りを定義しましたが、
改札を通過していない駅がありました。
「海芝浦」駅です。

車内が待合室?

No.177 6月25日(月) 出られない出口

No.385 【横浜界隈鉄道編】横浜の駅

ここで、(市内の駅の数)を紹介しています。
全路線をカウントすると168駅あります。
「横浜駅」のような複数路線乗入れのターミナル駅をまとめてカウントすると、
153駅となります。
と書きましたが、駅の定義によってカウント数が異なりますので
この数値は多用しないほうが良いでしょう。
(横浜駅は幾つ?)
横浜駅は一つですが、
路線別とすれば9路線ありますから「9駅」
会社別とすれば6社ありますから「6駅」
連絡改札をシームレスと考えれば「4駅」
 JR線と京急線
 東急線とみなとみらい線
 相鉄線
 市営地下鉄

(※同じ構内でも京葉線東京駅の距離は最悪です)
【京葉線東京駅】
乗り換え時間
日中に、京葉地下ホームからエスカレータや動く歩道は一切歩かずに計ったものです。朝や夕ラッシュ時、東京ディズニリゾートの帰宅客で混雑する時間帯だとこれよりもさらに時間を要します。一番近いのが東海道新幹線の改札。最も遠いのが総武線ホームである。
東海道新幹線改札・・・10分
東海道線・京浜東北線・山手線・中央線ホーム・・・12〜15分(中央線が最も時間がかかります。)
総武・横須賀線ホーム・・・20分
※改札外乗り換えで自由通路を通ると15分程度。乗り降り自由のフリーパスなどの切符を所持しているときは改札外での乗り換えが便利
http://www.geocities.jp/tibamakuharin/keiyousen/keiyoutoukyou.html

(駅舎間で分類?)
同じ駅でも駅舎が少し離れている駅が幾つかあります。
特に京浜急行とJR東は並走している路線なので、目立ちます。
■鶴見
JR鶴見駅と京急鶴見駅は少し離れています。
■新子安
■JR「東神奈川」と京急「仲木戸」
■JR「桜木町」と京急「日ノ出町」はちょっと離れすぎ
■杉田駅(新杉田)もね。
他の鉄道会社でも
弘明寺駅、金沢八景駅と探し出すと
少し離れた駅はけっこうあります。

(改札の不思議)
東急「長津田駅」とこどもの国線「長津田駅」
JR「鶴見駅」と鶴見線「鶴見駅」
この二つの駅に共通する“不思議”わかりますか?
(出先で原稿アップのため 写真 少々お待ち!!)
この二カ所に共通するのは
同じ会社経営ですが、路線事情で“改札”を通る必要があります。
つまり無人駅(改札)があるからです。

ちょっと前の写真ですが、こどもの国線は下車駅で精算という看板が出ています。


ということで、
今日はとりとめもなく 横浜市内の駅の話しになりましたが
おりに触れて 私のお気に入り「駅」「駅周辺」を紹介していきます。

No.379 1月13日(日)Y市の橋

横浜を描いた洋画家の一人、松本 竣介の作品展(世田谷区立美術館)が明日1月14日(月)に閉幕します。した。
この規模の彼の作品展は当分開催される事は無いでしょう。
今日を含め二日しかありませんが、「Y市の橋」8点を含めチャンスのある方はぜひご覧下さい。

松本 竣介は1912年(明治45年)4月19日〜1948年(昭和23年)6月8日という短い人生に加え、1925年(大正14年)に病気(脳脊髄膜炎)のため聴力を失う中、ほぼ戦中を東京で生き抜きます。
東京渋谷生まれですが、多感な子供時代を父の仕事の関係で岩手県花巻と盛岡で過ごします。
彼の名は佐藤俊介でしたが、1936年(昭和11年)に松本禎子と結婚して松本姓となり、1944年(昭和19年)制作の作品からは竣介と名乗るようになります。
松本 竣介の作品には、都会風景が多く描かれています。しかも、その作風が大きく変化していきます。
青のモンタージュ。
青系統の透明な色調のなかに無国籍的で他面的な都会風景や人物をモンタージュ風に描いた作品群があります。
茶と黒の時代。
茶系統(赤銅にも近い)のくすんだ色調で東京や横浜の風景を描いたものがあります。
戦時下、東京の空襲が激しくなる中、家族を疎開させますが松本は自宅にとどまります。第二次世界大戦中の1941年(昭和16年)に軍部による美術への干渉に関する雑誌記事に抗議し、当時の画家達の多くが沈黙する中、雑誌『みづゑ』に「生きてゐる画家」という文章を発表し「芸術の自立」を主張した数少ない画家の一人です。
松本竣介は、
昭和前期の近代洋画史に、一種独特の足跡を遺した画家として評価されています。私は時々絵を鑑賞する程度の専門家ではありませんが、この一連の作品群を一気に観て、その非凡さマルチな才能に驚かされました。
彼の人生がもう少し延びたら
彼は戦後の日本をどう描いただろう。
ただただ残念さを感じるのみです。
彼は、
風景画そして人物画を中心に描いています。
1月14日までの作品展では
油彩・約120点、素描・約120点、スケッチ帖や書簡などの資料・約180点が一気に公開され、その質は勿論、量にも圧倒されました。

「松本竣介展「生誕100年」」
世田谷美術館
2013年1月14日(月)まで
開館時間 10:00-18:00
東京都世田谷区砧公園1-2
http://www.setagayaartmuseum.or.jp

松本竣介が描いた横浜の風景と橋が10点数点出品されています。
中でも 多作の「橋」「運河」をモチーフにした作品群で
「Y市の橋」は代表的作品群です。
描かれた場所は「月見橋」で架け替えられていますが雰囲気は少し残っています。横浜市内を流れる帷子川水系の「新田間川」の派系で派新田間川に架かっています。

最初に架かったのが1928年(昭和3年)で、この作品が昭和40年代ですから比較的新しい橋ではないでしょうか。
現在この周辺は、日々変貌を遂げており、
横浜駅を東西に結ぶ「きた通路」の「きた東口」エスカレータを登ったところにあります。

きた東口広場

上を首都高速が走り、東海道線、京浜急行線の線路にほぼ隣接しています。

現在は情緒も面影もありませんが

松本竣介は、派新田間川の一つ下流に架かる「金港橋」からこの「Y市の橋」を描きました。

金港橋から月見橋

架設年は1926年(大正元年)で国道1号線の橋として1970年に道路拡張に伴い拡張されました。

この近辺は、戦前から戦後しばらく表玄関にあたります。
神奈川(現在の東神奈川)あたりの工場群や、造船所(現在のみなとみらい)へ向かう人々や車両で賑やかな都市空間だったようです。
現在は 横浜そごう、ベイクウォーターがあり当時の面影は殆ど残っていません。強烈な印象として『残っている」のが今閉鎖されたまま残されている鉄の歩道橋です。
しかも、「Y市の橋」では風景がデフォルメされています。
絵と見比べてみるのも面白いです。

わずか20年ほどの短い画歴の中で、
都市の一部にこの横浜東口に架かる橋を選んだ
松本竣介の気持ちに触れるべく 長い時間この作品群の前に佇んでいました。
やはり 実物を観ないと判らないことが多くあります。

No.328 11月23日(金)横浜駅東西戦争史

No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争

No.269 9月25日(火)河口に架かる橋

No.367 1月1日(火)この駅「日ノ出町駅」

あけましておめでとうございます。
今年2013年(平成25年)1月1日から一年、
よろしくお願いします。
正月だからまず何から始めようか?
初日の出ということで、今年は京浜急行「日ノ出町駅」からのんびり始めます。

プロローグ
(湘南と東京を結ぶ駅)
「日ノ出町駅」は1931年(昭和6年)12月26日 に「湘南電気鉄道」と「京浜電気鉄道」が結ばれ誕生した駅です。
前年の1930年(昭和4年)2月に「京浜電気鉄道」の高輪駅と横浜駅間が開通し、同年4月に「湘南電気鉄道」が黄金町駅と浦賀駅の間を結んでいました。
No.88 3月28日 京浜湘南電鉄連結地点

当初「湘南電気鉄道」は黄金町駅から大岡川に沿って「国鉄桜木町駅」まで延伸する予定でした。その名残が現在も日の出町、野毛の道筋として残っています。


「京浜電気鉄道」「湘南電気鉄道」軌間規格が異なる二社の決定的違いを乗り越えた開拓精神が、現在の京浜急行を誕生させることになります。


(トンネルを抜けて)

横浜駅から京浜急行下り線に乗り、戸部駅を過ぎると連なる三つのトンネルがあります。
御所山トンネル、上原トンネル、野毛山トンネルです。
横浜市西区南部の丘陵地帯を一気にくりぬいたトンネルを抜けると、崖にへばりつくように「日ノ出町駅」が出現します。


日ノ出町はカーブした駅で、しかも道路(県道)の上にプラットフォームがあるかなり無理をして造った駅のなごりが今も残っています。


二社の規格を揃え1933年(昭和8年)4月1日に品川と浦賀間の直通運転が実現し横浜市内南西部の重要な首都交通路線となります。

この駅の象徴、昔から残っているタイル模様の三浦半島。

1964年(昭和39年)に国鉄根岸線が桜木町駅から磯子駅まで延伸するまで、日ノ出町駅は伊勢佐木町界隈に出かける最寄り駅でした。

※昔、日ノ出町駅前には山手英学院という予備校がありました。駅前という便利さもあり横浜市内有数の独立系予備校でした。山手英学院は、港南台に「山手学院(中・高】」を作り、日ノ出町の英学院は有隣堂の経営を経て廃校となりました。

 この頃、予備校に通う生徒の食欲を満たした小さなラーメン店が「いろは」で、一時期ご主人が体調を崩し閉店していましたが、現在場外馬券売場「WINS横浜」横で復活しています。


(ぶらり散歩には最適)

京急日ノ出町駅はふだん目的が無い限りあまり降りない駅ですが、ぶらり降り立つにはかなり魅惑的な街です。
簡単に日ノ出町駅前ぶらり観光情報を紹介しましょう。
■聖俗アダルトからキッズまで
今、日ノ出町駅前は再開発計画がようやく実を結び、大改装中です。

駅前の「不二家」も無くなりました。現在整地が終了し、基礎工事が始まったところです。(2013年1月)


この街は、ストリップ劇場「浜劇」、アダルト専門映画館「横浜光音座」、場外馬券売場「WINS横浜」などがありその先には、福富町・野毛界隈が拡がるオトナの街です。

一方で、伊勢山皇大神宮、横浜市立中央図書館、野毛山公園、野毛山動物園、大岡川河畔などもあり聖俗混合の不思議な(本来の街?)味わいがある界隈です。

■記念碑

日ノ出町界隈には、美空ひばり、長谷川伸の記念碑があり昭和という時代を感じることができます。
1948年(昭和23年)5月に美空ひばりが横浜国際劇場会館一周年記念特別興行で前座として笠置シヅ子の「セコハン娘」を歌い大喝采を浴びます。この劇場支配人福島博との出会いから、横浜国際劇場の客員としてデビューし後に準専属となり大スターの道がここから始まります。
この横浜国際劇場は現在JRA場外馬券売場となっています。
一方の長谷川伸は昭和前期に活躍した日本の小説家、劇作家です。この日の出町で生まれました。


「股旅物」というジャンルを築き、彼の作品中の「仁義」を切るシーンは実家が没落して若い頃に横浜ドックで働いていた頃に覚えたものをモデルにしたというエピソードがあります。

彼の文学的評価は昭和の大衆小説に輝くものですが、もう一方で新鷹会という文学学校を主宰し村上元三、山手樹一郎、山岡荘八、戸川幸夫、平岩弓枝、池波正太郎、西村京太郎らを育てたことは特筆に値します。
※日本丸ドックの一角にも長谷川伸文学碑があります。

■アートの実験エリア
湘南電気鉄道「黄金町駅」から京浜電気鉄道「日ノ出町駅」の高架線周辺をアートで新しい街づくりを行っているゾーンがあります。
黄金町エリアマネジメントセンターが運営しています。
http://www.koganecho.net/
名称は「黄金町」ですが日ノ出町駅の方が最寄り駅です。
詳しく紹介したいところですが、別の機会にします。HP等で確認の上、イベントやショップに行ってみると良いでしょう。

■100円ワンコインバスなら日ノ出町

みなとみらい100円バスの赤レンガ倉庫行は、始発が日ノ出町駅前です。

 

No.328 11月23日(金)横浜駅東西戦争史

本日は国民の祝日の一つ勤労感謝の日です。
「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」のがこの日の趣旨だそうです。
1962年(昭和37年)11月23日に株式会社横浜ステーション・ビルが開業しました。
11年後の1973年(昭和48年)11月23日には横浜三越店が開業します。
この横浜東西戦争の話しは過去何回も紹介しています。
今日は自分の記憶に残る横浜三越店を軸に横浜東西開発史を簡単にまとめてみました。

横浜駅界隈地図

(横浜駅をめぐる開発競争)
■株式会社横浜ステーション・ビルの閉店に関して
No.87 3月27日 横浜駅のヘソが変わる 

■そごう出店と出遅れた三越

No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争

■髙島屋、相鉄

No.265 9月21日(金)ぺんぺん草の後に
■東急
No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)

No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争

で紹介した三越は完全に出店タイミングを逸します。
横浜駅西口の百貨店戦争の最後に登場したのが「三越横浜店」です。

三越横浜店

「岩崎学園」による「三越横浜店」誘致でしたが、横浜駅開発と三越は西口周辺を相鉄が開発に踏み切った時点から因縁がありました。
相鉄は、1953年(昭和28年)西口開発を始めるにあたりキーテナントとして最初に「三越」へ出店を依頼します。
この申し出を老舗「三越」は断り、髙島屋に交渉先が代わり苦難の末開店し結果的に大成功します。
これが西口開発の始まりです。
後から横浜進出となった「三越」、
 相鉄としては面白くないでしょうね。

1989年ごろの横浜駅西口

横浜駅西口発展年表をまとめてみました。
戦前戦後、現在の横浜駅周辺は「東口」が表玄関でした。
(重心は西へ)
 1950年代西口開発が始まります。
 1956年(昭和31年) 4月に横浜駅名店街が誕生します。
映画館と髙島屋ストアも開業し、横浜駅が東口から西口へ人の流れが変わり始めます。
 1957年(昭和32年) 相鉄文化会館オープン。
 1958年(昭和33年) 髙島屋仮店舗開業、横浜駅東西を結ぶ地下通路が完成します。
 1959年(昭和34年) 相鉄会館が完成し、髙島屋がグランドオープン。
(東口も対策協議会「横浜駅前復興促進会」を結成)
 1961年(昭和36年) 西口5番街完成
 1962年(昭和37年) 横浜駅西口に東急ホテルが開業し、
11月23日駅ビル(横浜ステーション・ビル→シアル)が開業します。
 1964年(昭和39年) 根岸線が(念願の)磯子まで延伸。
東海道新幹線開通と東京オリンピック開催
※横浜は三沢競技場(他)が使用される。
ダイヤモンド地下街(ザ・ダイヤモンド)開業
 1965年(昭和40年) 第三京浜の開業
 1968年(昭和43年) 横浜岡田屋開業
 1970年(昭和45年) 根岸縁洋光台まで延伸、そごう出店許可
 1972年(昭和47年) 県政総合センター完成、市営地下鉄部分開業
 1973年(昭和48年) この年は横浜駅にとってターニングポイントでした。
4月9日根岸線が全線開通します。
10月6日第四次中東戦争が勃発しオイルショックが始まる。
10月10日髙島屋増築(商工会議所百年史では10月11日開店)
11月20日相鉄ジョイナス完成
11月23日「岩崎学園ビル」完成と同時に三越が開店
12月25日横浜駅東口再開発起工
 1976年(昭和51年)市営地下鉄 横浜駅乗入れ

(1980年代はそごうの時代)
 1980年代に入り(大幅に着工が遅れた)そごう出店計画が現実化してきます。
 東口進撃の10年です。
 1980年には東口地下街が整備され、「新宿ルミネ」で大成功した駅ビル型ショッピングセンター「横浜ルミネ」が11月7日に開業します。同時にポルタも「そごう」を結ぶ導線上に開業します。

(二つの障壁)

横浜三越は結局、2005年に撤退しますが三越には二つの障壁があり、客導線を繋ぐことが結局できませんでした。
一つは 横浜駅西口の階段という丘
 中央改札を出て東口にはフラットにアクセスできますが、西口方面には一度(丘を)越えなければなりませんでした。(現在大改装中)

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一昔前のマップです

二つ目も地下街の階段
さらに地上は西口ロータリーを回り込み、地下街ルートも階段を上がるバリアフリーではないことが不便さの“気分”につながりました。不便さの“気分”は馬鹿にできません。店舗の狭さも三越の強みを発揮できなかった要因となってしまい、撤退となります。

横浜三越閉店の瞬間

http://www.youtube.com/watch?v=lroX1gbxpv4

2008年

三越は伊勢丹との共同持株会社「三越伊勢丹ホールディングス」を設立し百貨店業界は5大グループに再編成されます。
●セブン&アイ・ホールディングス
→横浜駅東口「そごう」
●J.フロント リテイリング
→横浜伊勢佐木から撤退「カトレアプラザ」に
●高島屋G→エイチ・ツー・オー リテイリングと提携
→横高が髙島屋Gに統合
●エイチ・ツー・オー リテイリング
→横浜センター北に「モザイクモール」
★三越伊勢丹ホールディングス
→クイーンズ伊勢丹横浜店(相鉄ビル)
※伊勢丹には、1970年代横浜駅東口に出店戦略を進めていましたが、どたんばで「そごう」にひっくり返された歴史があります。
江戸の敵を長崎で討つのでしょうか?

さらにJRグループの駅ビル・エキナカビジネスが怒濤の快進撃をしています。

★★エキサイトよこはま22 (横浜駅周辺大改造計画)
http://www.city.yokohama.lg.jp/toshi/tosai/daikaizou/

横浜駅ビル「横浜CIAL」が50年の歴史に幕/神奈川新聞(カナロコ)
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=492azj_dyKc
→「横浜CIAL」は「CIAL鶴見」に
http://www.cial.co.jp

No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催(YES89)


(余談)
横浜駅西口ロータリーに 建築界の巨匠の初期作品が
意外な場所にあります。さて?どこでしょう?

横浜駅西口 伊東豊雄「風の塔」
伊東豊雄の「風の塔」
夜景ははっきりしますが、昼間は殆ど判りません。
これは建築家 伊東豊雄の「風の塔」として業界では有名です。

No.289 10月15日(月)生き残った魅惑の迷宮(加筆修正)

今日は駅ネタです。
都市伝説風に書けば
(明治3年)1870年
 開港都市横浜と東京を結ぶ鉄道敷設のために測量・着工
(大正3年)1914年
 二代目横浜駅竣工
(昭和3年)1928年
 三代目横浜駅竣工
(平成3年)1991年
 空の港、成田空港駅が開業
ややこじつけですが
不思議と揃っていますね。
さらに、
三代目の「横浜駅」は
10月15日に開業しました。

Aは神奈川駅、Bは平沼駅(現在廃止)

「横浜駅」の位置は2回移動します。
今日はさよえる横浜駅の話しを紹介します。

現在の横浜駅は三代目です。
正確には三回の引越後、数回リニューアルが行われ、現在も工事中といった方が正しいでしょう。
(初代)
初代の「横浜駅」は現在のJR東日本根岸線「桜木町駅」で、
鉄道営業が日本で始まった駅であることは有名です。

No.288 10月14日(日)仮の借りを返す

東海道線の開通で、初代横浜駅が立地的理由から取り残されそうになります。

そこで「横浜駅」だけが東海道本線に接近する必要性から移転します。

最初の「横浜駅」
明治時代の横浜駅付近
県民共済ビルにある「横浜駅」を描いた錦絵パネルです

(二代)
二代目の「横浜駅」は
1915年(大正4年)8月15日
現在の横浜市営地下鉄高島町駅付近に建設されます。
遺構が残っていますので名残を見学することが出来ます。

二代目遺構

この場所も改めて現在の視点で眺めると東海道がカーブしていて無理があります。
二代目横浜駅は当時の駅舎建築としては見事なデザインでした。
この二代目横浜駅開設で「平沼橋商店街」が誕生します。
その後、横浜駅二回目の移動で寂れかかりますが、
1931年(昭和6年)12月26日に京浜急行「平沼駅」の開業でまた復活します。
1944年(昭和19年)11月20日に京急平沼駅が廃止されてしまいます。

(二代目焼失)
しかし、残念なことに“関東大震災”で「横浜駅」が焼失します。

明治時代の高島付近

(三代目横浜駅)
そうして震災復興計画で現在の(三代目横浜駅が
1928年(昭和3年)10月15日現在の場所に移動し開業します。

しかも表玄関は東口をで、西口はしばらくの間
「ぺんぺん草」の生える空き地でした。

No.265 9月21日(金)ぺんぺん草の後に

No.274 9月30日(日)巨大資本の東西戦争

(全国でも希有の駅移動)
横浜駅は二回位置を大きく移動しました。
小さな駅ならまだしも神奈川県内最大の駅を移動した訳ですから、良くあることなのか?
簡単に調べた範囲内でも
函館・千葉・博多には若干移動した記録がありますが2キロ移動した例はありません。
単に駅名で言えば
初代横浜駅を「桜木町駅」にせず「横浜駅」のままにし
新駅を「神奈川駅」にしても不思議では無いのですがね。
(そうなったら新幹線は新神奈川駅に)
鉄道は最も政治力の働く領域です!ので何か思惑があったのでしょう。
我田引鉄の世界ですから。

 鉄道と国家「我田引鉄」の近現代史

(大岡川を越えられない)
横浜は幕末に創られたベンチャー都市ですから
城下町、門前町のような町の核がありません。
江戸時代の「核」を持たない街が“横浜”です。
良い面とマイナス面がありますがこの駅の大移動は結果的に横浜を柔軟に活かしたことになります。
鉄道創世記の頃、
城下町に県庁・市庁所在地から駅が遠い事例は多くあります。
“鉄道忌避”で古い街程、城下町中心部を外して路線が敷かれました。
常々不思議に思っているのが関内に長らく駅が無かったことです。
横浜は1964年(昭和39年)まで国鉄が“大岡川”を越えることはありませんでした。
地元の人はあまり気がつかないようですが、横浜を訪れる人にとって横浜港(山下公園・大桟橋)や山手、中華街は奥座敷、特別な場所に入り込む“奥座敷”感覚があるように思えます。
大昔、関内エリアにコミュニティFMの可能性を探るために調査を行ったことがありますが、「中華街」「山下公園」「元町」「山手」が横浜のラビリンス(迷宮)感覚があるという聞き取り結果が出ました。
地域の核となる「横浜駅」が移動しても魅力を失うことなかったのも横浜の面白さの一つではないでしょうか。(先人はご苦労されたようですが)

(横浜は開港とともに幕末の経済特区)
No13 1月13日(金)幕府新規事業に求人広告

(横浜駅西口の変化)
No.87 3月27日 横浜駅のヘソが変わる

No.242 8月29日(水)そそっかしい!

1999年(平成11年)8月29日(日)の今日は戸塚駅〜湘南台駅間(1号線)が開業しブルーライン全線(あざみ野〜湘南台間)が開通しました。
延伸計画があるので、この全線という表現は微妙に不正確ですが、着工していませんので全線開通としておきます。そして、
この全線開通の日にもう一つの市営地下鉄の“できごと”がありました。


まずは、横浜市営地下鉄ブルーラインについてご紹介しましょう。
現在横浜市営地下鉄線は二つの系統があります。
海の近くを走る「ブルーライン」と丘の横浜を環状線で走る「グリーンライン」です。ブルー、グリーンの色で区分けする愛称は、2006年(平成18年)に公募で決まりました。

(ブルーラインの歴史)
1972年(昭和47年)12月16日に伊勢佐木長者町駅と上大岡駅間がまず開通しました。
市営地下鉄の管理部門は「伊勢佐木長者町駅」にあります。
この伊勢佐木長者町駅〜上大岡駅間を起点に延長工事が進められます。
1976年(昭和51年)に上永谷駅間〜横浜駅が開通します。
1985年(昭和60年)に市営地下鉄の“売り”になる「新横浜駅」まで開通し、関内・横浜駅からJRより手軽で早くアクセスできる事をPRします。この新横浜直結!の“売り”は、新幹線利用者には大変便利で、乗降客増につながったのではないでしょうか。
※当時、JR横浜線は”横浜”線なのに、東神奈川までしか行かない!ため乗換が不便でした。(今も直行以外はめちゃ不便ですが)

1989年(平成元年)横浜博覧会の会期中に戸塚駅が開通し、幹線駅との接続が実現します。
1993年(平成5年)に東急田園都市線と接続する「あざみ野」駅が開通します。当時、田園都市線は「たまプラーザ駅」の開発が進み、規模的にも地下鉄接続に相応しいのではないか?と素朴に考えましたが、東急電鉄と横浜市の思惑が合わなかったようで、急行の停まらない「あざみ野駅」乗換となってしまいました。


1999年(平成11年)8月29日にようやく湘南台駅〜あざみ野駅までが開通します。戸塚駅〜湘南台駅間の開通は、様々な方面に影響を与えます。泉区の交通アクセスが相鉄いずみ野線と合わせて一気に良くなり、生活環境が激変します。これに刺激される形で難航していた「戸塚駅前再開発計画」も前進します。


当初赤字借金路線と市民の大きな批判に晒された「市営地下鉄計画」ですが、横浜市18区全体の市民生活の向上には横浜駅から放射状にしか伸びていない鉄道網を環状で繋ぐ(特にグリーンライン計画)意味は大きいといえるでしょう。経営も黒字化し順調に乗降客数も伸びているようです。


話しは前後しますが、ブルーラインの横浜駅〜あざみ野駅間、グリーンラインの日吉駅〜中山駅間は「港北ニュータウン計画」に欠かせない路線でもありました。
No.240 8月27日(月)横浜で重い!場所

(そそっかしい?!)
本日の表題に入ります。
1999年(平成11年)8月29日のブルーライン開通に合わせ駅名の変更が行われました。
開通して25年くらいで駅名を変更するということは大きな理由が無ければ!普通はありえませんが、苦情が多かったのか?駅員が根をあげたのか?
「新横浜北駅」を「北新横浜駅」に改称します。

理由は、新横浜駅と間違える乗客が後を絶たなかったためなんですが、
実は私も一回居眠りで間違って飛び降りた経験があります。
車内放送「つぎは しんよこはまきた」より「つぎは きたしんよこはま」の方が間違え難いことは確かですね。
間違えやすいから駅名変更?も珍しいのではないでしょうか?
でも、
市営地下鉄には「三ツ沢下町駅」「三ツ沢上町駅」
金沢シーサイド線では「海の公園柴口駅」「海の公園南口駅」ってのがありますが、乗換重要度から行くと「新横浜北」に間違って降りた場合のダメージは大きそうですね。

No.233 8月20日 (月)相鉄線ミニ物語(加筆版)

駅にも誕生と廃止の歴史があり、それぞれにドラマがあります。
1934年(昭和9年)8月20日の今日開業し、
1957年(昭和32年)1月に廃業した「古河電線駅」から相鉄線の小さなエピソードを紹介します。

相模鉄道(本線)は、横浜駅と小田急線海老名を結ぶ
私鉄大手で最も短い営業距離を首都圏最大級の密度で運行するスーパー路線です。
過去に横浜市域の営業路線で廃止となった相鉄線の駅が四つありました。

開業日見比べると?不思議だと思いませんか?一駅毎に開設日が違います。

※相鉄線横浜駅開業は意外と後になります。このあたりの話しは相鉄創業の話しの時にご紹介します。

その中で、大工場用に通勤駅として開業したのが「古河電線駅」です。
この駅は現在の古河電工の横浜工場用にできました。

正確な場所は特定できませんでしたが、「tvkハウジングプラザ横浜」と「横浜イングリッシュガーデン」の間位でしょうか。
http://www.tvk-plazayokohama.jp/
http://www.y-eg.jp/

この古河電線駅は朝・夕のみ停車したそうです。
地図で確認すると、鶴見線の「海芝浦駅」と同じ性格を持った駅でした。
駅そのものが工場の敷地内にあり改札が“専用”だったようです。
当時の名残は全く見当たりませんが、現在帷子川に「電線橋」という名の橋が架かっています。
(以前写真探しています。再撮かな)
古河電線駅の歴史
1934年(昭和9年)8月20日当時の神中鉄道が平沼橋〜西横浜間に工場通勤用に開業しました。
1943年(昭和18年)4月1日に神中鉄道は合併により相模鉄道の駅になります。
戦時中から営業を休止し、基幹産業のため空襲を受けました。
1957年(昭和32年)1月に廃駅となりました。

No.177 6月25日 出られない出口

(古河電線の話し)
No.1275月6日(日)あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王

No.179 6月27日(水)電気が夢を運んだ時代?

かつてこのエリアにあった古河電工と横浜ゴムの関係について紹介しましたが、現在も「古河電工 横浜研究所」があります。
ここには名門サッカーチームがありました。
戦後からここのサッカー場を練習所として活躍しました。1946年に創設された「古河」で現在の「ジェフユナイテッド」(株式会社 東日本ジェイアール古河サッカークラブ)です。
ジェフユナイテッドは「ジェフユナイテッド市原」または「ジェフ市原」として千葉県市原市をホームグラウンドとして活躍していますが、横浜がルーツなんです。
なんていうと“波乱”が起こりそうですが、横浜に三つのチームができた可能性もあったんですね。
偶然だと思いますが、この「古河電線工場」のある島状の敷地を斜めに、相模鉄道とJR東海道線、JR横須賀線が走っています。元々は石崎川沿いに国鉄路線(第二横浜駅時代)があり現在も少しその雰囲気が残っています。
JRと古河は電線工場時代から関係が深かった?のかもしれませんね。

ここ古河電工サッカーチーム出身で「東洋のコンピューター」と呼ばれたブンデスリーガで活躍した奥寺康彦は、現在の株式会社横浜フリエスポーツクラブ(横浜FC)の会長です。
http://www.yokohamafc.com
彼は、横浜出身で日本サッカー界初のヨーロッパトップリーグで活躍した選手です。

この「裏高島」は運河に囲まれ、かつては電線工場、瓦斯工場、その他の製造工場が建ち並ぶ工場エリアでしたが近年、前述の「tvkハウジングプラザ横浜」と「横浜イングリッシュガーデン」が進出するようになって景色が変わり始めました。
川沿いにマンションも多くなり、工場街から住宅街に変わってきました。
「石崎川プロムナード」が一部に整備されていますが、今後もう少し魅力アップを図ると界隈性のある独特の街に育っていくでしょう。
(ただ、人道橋が欲しい!)どこに架けるかは議論があるとは思いますが…。

【相鉄線ミニ物語】
別立てにしようかなと思いましたがここに
簡単ですが相鉄の面白史を紹介しておきます。

 

相鉄線(神中鉄道)は
神中鉄道(株)は1917年(大正6年)
保土ケ谷区岩間町に創設されました。
一方、
相模鉄道(株)も1917年(大正6年)
茅ヶ崎市に創設されました。
現在の相模線(茅ヶ崎〜橋本)が相模鉄道として開通。
横浜線に接続しました。
1943年(昭和18年)に相模鉄道(株)が神中鉄道(株)を吸収合併します。
ところが 相模鉄道の本線である茅ヶ崎〜橋本他を国に吸収されてしまいます。
1944(昭19)のことです。
茅ヶ崎〜橋本からスタートした相模鉄道(株)が
吸収した神中鉄道(株)の海老名〜横浜の路線経営というのも
不思議な歴史の巡り合わせです。

No.223 8月10日 (金)奇跡の釘

1875年(明治8年)8月10日(火)の夕暮れ、ところは静岡県福島村。
近づく台風の様子を見に来た村人が沖を眺めた時、そこに見た事のない船が座礁している姿がありました。
かろうじて錨で流されないように帆をたたみ風に舞う帆船は明らかに異国の船でした。
しかも船上に人影が見え、この報を聞いた村は大騒ぎになりました。「黒船がここにも現れた!」
これが「ジェイムズペイトン号事件」のはじまりです。

座礁したジェイムズペイトン号を発見したのは福島村の責任者(戸長)の山田斧治郎とその長男の菊次郎、そして砂浜にいた村人の林蔵と治作の4人でした。
最初、単に異国の船が近づいているとした思わなかった彼らはすぐに様子がおかしい事に気がつきます。その船は遭難していたのです。
ここから、翌日にかけて村を挙げての救出劇が始まります。

(ジェイムズペイトン号)
1855年(安政2年)にイギリスのグラスゴーで建造されたジェイムズペイトン号は、三本のマストを持つ当時としては最速の貨物用帆船でした。積載量380トン 、全長135フィート(約41.14m) ロイド船級協会※1による船級はA1の格付けを持つスマートな船体で速度の早いクリッパータイプで、当時アメリカに遅れて始まったオーストラリアのゴールドラッシュ(1851年)で賑わうメルボルンを中心に運行していました。
※1 1760年に設立されたロイド船級協会は、大航海時代以降高まる遠洋貿易の船舶リスクを下げるために商人(荷主)や海上保険の会社らが第三者機関として設立した組織です。

大英帝国マップ

まさに世界に君臨するBritish Empire(イギリス帝国)の時代です。特にオセアニア、東アジアはイギリス一色に塗りつぶされつつありました。
高性能だったジェイムズペイトン号は、メルボルンだけでなく南米チリや香港、台湾、インドなどの諸外国を往復し様々な荷物と人も運んでいました。

ペイトン号の活躍した都市と国

日本が開国した、1873年(明治6年)ころから時々日本にも寄港するようになり、まさに世界を走り廻っていました。この時は座礁する二日前の1875年(明治8年)8月8日(日)ケヤキの角材56トンとバラスト143トンなどを積んで横浜から長崎へ出航します。船長とその妻、航海士3人、船員8人、コック1人、ボーイ1人の合計15人が乗っていました。
村民は、台風の余波で荒れた波に揺れる船と浜を一本の太い綱によって結び、船長以下、全員を奇跡的に救出することができました。

この事件の顛末は、イギリスやオーストラリアの新聞で、「thegreatest kindness(最大の親切)」「the great humanity(大いなる人道主義)」と賞賛されます。横浜で発行されていた8月14日(土)付けのJapan weekly mailにも速報の形で掲載されます。

救助した村民は勿論、駆けつけた役人も英語が話せませんでした。そこにたまたま見物に来た青年が英語を話せるということで通訳を買って出ます。彼の名は林幹造(1853年〜1928年)で静岡銀行の元になる西遠銀行を設立した人物です。英国政府は当時の領事パークスが異例の早さで対応し、直ちに日本政府に謝意を伝えます。
その後、関係者には英国政府から感謝の意として現金と記念品が贈られ現在も焼失を除き大切に保管されてます。
当時としては大変珍しいことだったようです。

救助の詳細は浜松市のHPにありますのでぜひ読んでください。
http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/ward/minamiku/chiikiryoku/jp/index.htm

(その後)
かろうじて座礁した船から一部荷物や装備品を回収することが出来ましたが、船体はしばらくして沈没してしまいます。
回収された機器や船体の銅板は(浜松で)米国の保険代理店によって競売にかけられます。落札したのが、武州横浜万代町(横浜市中区万代町)の村上喜代治らと林文吉でした。落札金額は1,540円、現在の価値にして1,540万円の高額だったそうです。彼らは釘屋で、当時の横浜の洋館建設ラッシュに銅板や鉄骨材は必需品でした。奇跡の救助と言う「ご祝儀もの」という付加価値もあったかもしれません。英国人の多かった当時の関内、山手には、ペイトン号の材料を使った洋館造りが当時ブームになったかもしれません。

(余談)
「ジェイムズペイトン号事件」のあった静岡県浜松市の福島海岸からJR浜松駅に向かう途中、JR東海浜松駅から南西に約1キロのところに地元でも有名な洋菓子工場があります。「横浜フランセ浜松工場」です。主に焼き菓子を中心に製造していますが、「横濱マドレーヌ」はフランセの人気商品の一つです。
http://www.francais.co.jp