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横浜の駅」カテゴリーアーカイブ

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No.142 5月21日 戸塚は鎌倉?(加筆修正)

今日は金環日蝕。
皆さん目撃できましたか?

奇跡的に横浜は雲が切れました!!!(2012年)

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(本題に)
横浜には18の区があります。
東京23区との大きな違いは?
横浜18区は区によって様々な個性があるところでしょう。
横浜市の西、江戸時代に整備された五街道の一つ東海道に添って広がる戸塚区は1939年(昭和14年)の今日、横浜市7番目の区として誕生しました。

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と 戸塚区マークです

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“戸塚区”は誕生当時も現在も横浜で最大面積を持つ区です。
誕生当時は現在の「瀬谷区」「泉区」「栄区」も戸塚区の一部でした。

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横浜市西部は全て戸塚区でした。との字に似ていますね!

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歴史的には鎌倉時代・江戸時代に栄えた街道の区です。
南北に瀬谷区から栄区まで鎌倉往還が通り、鎌倉時代の重要な交易路でした。東西には東海道が通る街道に添って戸塚宿がありました。
(大学駅伝の戸塚中継所でも有名です)

■文明開化の名産品
現在の「戸塚区」は昭和初期まで鎌倉郡でした。
そこで生まれた名産品が「鎌倉ハム」です。
(鎌倉ハム)
1876年(明治10年)鎌倉郡上柏尾村の戸塚街道に面した外国人向けホテルでイギリス人技師ウィリアム・カーティスが製造販売したため「鎌倉ハム」と呼ばれました。
現在“鎌倉市ブランド”になりつつありますが、横浜市戸塚生まれの鎌倉ブランドということになります。
もし「柏尾ハム」と呼ばれていたら?

(農工商の街)
戸塚区は農業、工業、商業バランスの取れたエリアといえるでしょう。
横浜農産物ブランド 「はま菜ちゃん」の重要な生産地です。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/nousan/brand/
中でも横浜特産の「浜なし」は戸塚区の特産で中心生産地となっています。
■舞岡へ行こう!
戸塚区には、
平成2年に指定された102.6ha(農地 35.2ha、山林 24ha、その他 43.4ha)に及ぶ市内最大級の環境保全地域『舞岡ふるさと村』があります。
たっぷり大自然(決してオーバーではありません)を楽しむことが出来ます。

たっぷり一日過ごせます。谷戸の風景が現役で残っています

『舞岡ふるさと村』虹の家
http://www1.c3-net.ne.jp/nijinoie/
【ハム工房まいおか】
舞岡の北見畜産で生産された豚肉を使用したハムを作っています。
http://www.hamumaioka.co.jp/

■今も?日立村
戸塚駅、東戸塚駅周辺は日立製作所の工場、関連企業群が多くあり“日立村”と呼ばれました。(現在は移転等で縮小しています)
その他、ブリヂストン、山崎製パン、第一パン、ポーラ化粧品他大手企業の工場が操業しています。
地元企業(本社機能のある企業)の拠点もあります。
紳士服のコナカ
http://www.konaka.co.jp
大倉陶園
(ショップもおすすめ)
http://www.okuratouen.co.jp/
横浜文明堂
(お店は伊勢佐木です)
http://www.yokohama-bunmeido.co.jp/
大川印刷
(創業132年目です)
http://www.ohkawa-inc.co.jp/

■ようやく始まりました(2012年現在)
横浜市内の西の拠点、戸塚駅の西口再開発事業が
半世紀かかってようやく事業が始まりました。
横須賀線、東海道線、市営地下鉄の通る戸塚駅ですが、
駅前の不便さは「関東随一!!?」でした。
現在 商業施設トツカーナが完成し 今年(2012年)の秋に戸塚区役所(新庁舎)が移転、完成します。(しました。→2013年5月時点)
トツカーナ
http://totsukana-mall.net

工事中の風景
全景大きく入口写真ですみません
現在の区役所。創設当初の石碑があります

No.306 11月1日(木)戸塚駅東口小史

No.351 12月16日(日)戸塚踏切をなんとかしろ

■柏尾川流域の桜
(写真がありませんが、戸塚区をドーーンと横切る柏尾川沿いの桜は見事です)

川沿いの木々は桜です

■地図で何時も不思議発見
深谷町に広大な在日米軍深谷通信所(送信施設)があります。国内屈指の米軍通信施設で、空から(地図で)見ると不思議な空間に見えましたが、全面返還が決定しています。

(余談)
学生時代のアルバイト先が戸塚駅前にあった
日立システム開発研究所でした。
当時の駅前空間は狭くタクシーも旋回が難しいような狭隘空間でした。
でも俗称“闇市”「旭町通商店街」や「さくらモール」でのレトロな飲みニュケーションが懐かしい。

バスゾーンを除いた程度のスペースしかありませんでした

No.107 4月16日 かみ(お)おか ひとだんらく(修正)

急膨張を続ける人口(住宅地)を背景に、
横浜西の拠点上大岡駅前周辺の整備が急がれていました。
まず京浜急行の立体化と駅舎周辺道路の再整備が行われ、
1997年(平成9年)に「ゆめおおおか」が完了し、引き続き「camio」、
そして2010年(平成22年)の今日、
「上大岡C南地区第一種市街地再開発」miokaがオープンしました。
20年以上懸案だったこのエリアの整備が“ひとだんらく”しました。

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2003年(平成15年)に「camio」ができ、
2010年(平成22年)に「mioka」ができました。
残っているのが「O」?わかります?
 camio mioka=kamio oka

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再開発ビルの地上33階、地下2階建ての内、地下1階から地上6階までが商業施設でミオカ(英文名称:mioka)といいます。

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地上7階から33階までの部分は高層住居で「上大岡タワー ザ レジデンス」です。隣にあったショッピングセンターも同時にリニューアルし、「リストガーデンスクエア」から「miokaリスト館」と名称も変更しました。

上大岡駅前エリア開発は 

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地権者の合意形勢が出来ず当初の計画通りには行きませんでしたが最終的に三地区の開発が行われました。
A地区
上大岡駅改修と「ゆめおおおか」ビル
ゆめおおおかビルは、パブリックアートが随所に展開されています。世界的アーティスト奈良祥智の作品群を含め、100点以上設置されています。この作品探検も面白いですよ!

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B地区
横浜上大岡ショッピングゾーンカミオ

そしてC地区が「mioka」です。

上大岡エリアは、港南区周辺の宅地開発による急激な人口増加に対処が必要でした。
昭和45年を100とすると、平成2年の港南区人口は215%と倍以上に膨れ上がります。横浜市全体の伸び率が144%ですからいかに急激な伸びか おわかりかと思います。駅の横を走る「鎌倉街道」は常時大渋滞で、商業機能も手詰まり状態でした。
とにかく航空写真を見てもびっしり住宅密集地が広がっています。

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いびつで不完全ではありますがこの駅前開発で、上大岡はポテンシャルを回復します。
当然テナント間の競争はし烈化しますが、商圏は港南台、洋光台、磯子にまで拡大します。
今だ一区画地権者の不同意で全く手つかずのゾーンがあります。
旧街道沿いや、川沿いに下町風情も残っていますが、まだまだ変化する町にどうなっていくのか気になるところです。

上大岡エリアは横浜市の拠点づくり計画の重要なゾーンの一つになっています。

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(簡単年表)
1963年(昭和38年)に京浜百貨店が完成、開業
その後

1965年(昭和40年)富士スーパー開業
1969年(昭和44年)東光ストア(後の東急ストア)開業→閉店
1971年(昭和46年)ダイエー開業→閉店
1972年(昭和47年)横浜市営地下鉄の上大岡駅が開業
1974年(昭和49年)イトーヨーカ堂上大岡店開業
1975年(昭和50年)長崎屋上大岡店開業→閉店
1980年(昭和55年)三越上大岡店開業→三越エレガンス→閉店
1988年(昭和63年)2月14日 上大岡駅前再開発協議会設立
1996年(平成8年)10月1日ゆめおおおか(駅ビル)
2003年(平成15年)12月6日camio(カミオ)開業
2010年(平成22年)4月16日mioka(ミオカ)開業

   ※2013年年表4月加筆修正

(余談)
一昔前、駅近くのスナックでペンギンを飼っているところがあり、時々街中を散歩していましたが現在も元気?なんでしょうかね。

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No.90 3月30日 環状鉄道の夢

路線図を見れば明らかですが、
370万人都市にしては横浜の鉄道網はまだまだ未完成です。
横浜駅を中心に放射状に延びる路線網に対し、環状線が未整備のため不便さが際立っています。
環状線の整備は市民の利便性、アクセスを高める重要な要素です。
利便性の確保は1960年代から計画されていましたが2008年(平成20年)の今日、環状鉄道の一部である市営地下鉄グリーンラインが開業しました。

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新幹線を除いてあります。

市営地下鉄グリーンライン(全長13.1km、地下区間10.7km、地上区間2.4km)は東急東横線「日吉駅」とJR横浜線「中山駅」を結ぶ「横浜環状鉄道」の一部です。
建設コストダウンのため一般的な地下鉄より小型化しリニア方式を導入しているので「ミニ地下鉄」とも呼ばれ全国の政令指定都市の公営地下鉄に多く用いられています。
このグリーンラインは最高速度80km/hを出し、鉄輪式リニア方式のトップクラスの速度を誇ります。リニア鉄道というと、581km/hを出したJRの東海道リニア計画が有名ですが、東海道リニアは磁気浮上式でグリーンラインで採用している方式とは異なります。

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同形式最高速のリニア地下鉄10000形

(余談)この磁気浮上式で日本初の営業運転は、
1989年(平成元年)の横浜博覧会開場を縦断したYES’89線です。

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中央通りの右側をリニアが走っています。

このリニア誘導モータは従来の方式に比べ、消費電力が増えるため311以降この方式の優位性が下がっています。
今後はドイツ ストラスブールで有名な低床LRT(次世代型路面電車システム)に代わっていくでしょう。
この「横浜環状鉄道」の一部であるグリーンライン線は当初、鶴見駅から日吉駅経由、中山駅から二俣川駅、東戸塚駅、上大岡駅、根岸駅方面へ延伸する計画が組まれました。
さらには現在開通している「みなとみらい線」と繋がる計画でしたが、路線規格が異なるため横浜環状の夢は崩れました。
現在、市営地下鉄グリーンラインの一日平均乗降客数は208,178人(平成22年度)で事業計画時に想定した平均利用者数を越える事業実績を達成していますので、新たな延伸計画が持ち上がる日もそう遠くないでしょう。

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環状計画含め鉄道計画予想図(現状とかつての計画を重ねました2010現在)

最近ブルーラインの延伸計画が急浮上していますので、どちらが先になるのか?
沿線住民は気になるところです。

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飛鳥田市長時代の交通網計画

鶴見・日吉間も捨てがたいものがあります(すでにインフラ競争が始まっているような?個人感)。
横浜市内の環状鉄道計画は、都市設計者の夢です。既に、相鉄線から新横浜経由日吉計画が実施されていますが日吉駅経由東横線のキャパシティもあります。
東京への導線をどうするか?

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東急日吉駅

鉄道計画とは息の永い事業であることは間違いありませんね。
(2012年3月)以降かなり新線計画は進展しています。

No.88 3月28日 京浜湘南電鉄連結地点

1930年(昭和5年)の今日は、
黄金町を起点に三浦半島へ路線を展開する「湘南電気鉄道」の一部が完成した日です。
湘南電気鉄道、元祖「湘南電車」の登場です。
黄金町から浦賀まで、途中金沢八景から六浦、新逗子を結ぶ現在の京浜急行の南路線の完成です。
当初は全く別会社としてこの計画が始まりました。
※開通は4日後の4月1日ですが、この4月1日は話題満載一日なので、路線工事竣工の日をネタにしました。

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三浦半島を現したタイルの柱です。湘南進出を記念して?でしょうか。

写真の「日ノ出町」駅はこの時、まだ開業しておりません!
1931年(昭和6年)12月26日に京浜電気鉄道と結ばれます。

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京急の赤ボディです。

今日の話しは、二つの鉄道会社が相互乗り入れをするかしないか、事業の分かれ目が現在も地図上に残っているというお話です。余裕があれば波瀾万丈の鉄道会社の国取り物語をご紹介したいところですが【番外編】の機会に譲ることとします。
さわりを少々。
日本の鉄道網は多くの夢多き実業家の挑戦と競争、M&Aを繰り返しながら合従連衡の歴史を歩んできました。
最初は思い思いの線路幅で使用する電車の規格もバラバラの状態で他の会社と競争しながら路線設計が行われてきました。現在、品川(泉岳寺)を起点に三浦半島まで走る京浜急行電鉄は、元々東京と横浜を結ぶ大師鉄道を母体に生まれた「京浜電気鉄道」という会社で、帝都東京の奥深くまで進出する計画を持っていました。
南方面は、黄金町から浦賀を結ぶ「湘南電気鉄道」が新規事業を展開しようとしていました。ところが状況の変化が、若干ライバル関係にあった二社を結びつけます。
関東大震災のために事業計画が行き詰まった「湘南電気鉄道」を「京浜電気鉄道」が事業支援をします。それでも基本は別会社ですから「湘南電気鉄道」は浦賀から桜木町へ路線を設計し土地も確保します。
その名残が現在も地図に残っています。

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川沿いに二本の桜木町に向かう道が残っています
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明治にはありません

最終的に、この二つの路線は相互乗り入れを決定し、1931年(昭和6年)12月26日日ノ出町で繋がります。
現代では基本規格が整理されていますので相互乗り入れができるようになりましたが当時は違ったので大変だったと思います。これによって、現在の京浜急行電鉄の路線原型が完成します。京浜急行の帝都進出は都営地下鉄・京成電鉄との相互乗り入れで実現し関東を縦断することで実現しています。

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かつての計画では逗子線と久里浜線が繋がるイメージ

野毛を歩いていると緩やかなカーブのある道があることに気がつきますが、そこが元々鉄道の敷地だったことに気がつくことはありません。計画変更から90年近くなりますが、歴史の名残を感じながら千鳥足で飲み歩く野毛界隈の愉しみもまたオツなものでしょう。

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これがあるから迷う?
京浜急行日ノ出町、野毛山トンネルをめぐる謎を徹底的に糾明したサイトです。

No.87 3月27日 横浜駅のヘソが変わる

たまには未来について書いてみます。
横浜駅西口と駅ビルがこの10年で大きく変わり、東西商業バランスの重心が若干北の駅中心部に移ります。
「エキサイトよこはま22」(横浜駅周辺大改造計画)の始まりです。
この計画は2011年(平成23年)の今日半世紀の歴史に幕を閉じたCIAL(横浜ステーションビル)と、奇しくも1961年(昭和36年)の今日オープンし、3月末に閉店したエクセル東急ホテルの跡地を中心に展開します。

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全国屈指のターミナルビル横浜駅界隈の商業戦争が始まったのはそう昔のことではありません。1950年代まで横浜駅の表玄関は東口で、西口は「ペンペン草の生える砂利置き場」でした。そこに?島屋が進出し、東急ホテルと西口側に駅ビル、ダイヤモンド地下街、横浜岡田屋、相鉄ジョイナスと西口開発ラッシュが続きます。そのヘソとなったのが「横浜ステーションビル」後のCIALです。

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相鉄ジョイナス、地下でおかだや、ダイアモンド地下街と連結し、東急線の上り改札が設けられました。
その後、東口側の開発ラッシュとなります。ポルタ、ルミネ、そごうがオープンします。
まだまだポテンシャルのある横浜駅は北に延びます。ポートサイド地区の開発、ベイクウォーターのオープンで人の流れが変わります。それでも横浜駅はモザイク状態の商業地で回遊性に欠けていました。

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東急線の地下化と駅ビル老朽化を機に、JRと東急が横浜駅大再開発に踏み切りました。
プランとしてはかなり前から計画が水面下で練られていましたが、ようやく実施段階に入ることになりました。

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「エキサイトよこはま22」(横浜駅周辺大改造計画)は、
約8年の工期で2019年度に完成予定です。
既存の駅ビル、ホテルを解体して跡地に超高層の巨大複合ビルを建設します。これは横浜駅界隈のランドマークになるでしょう。1972年(昭和47年)12月に建設された天理ビルが101m、横浜ベイシェラトン ホテル&タワーズが115mですから、180mの高さはかなり景観が変わります。

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さらに、約19,700平方メートルの商業地域に「駅前棟(地上33階・地下4階、約195メートル)」、「線路上空棟(地上8階・約50メートル)」、「鶴屋町地区(地上9階・地下1階、約40メートルの駐車場)」を建設する計画です。

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当然エキナカ「横浜エキュート」も登場するでしょう。
北口界隈も再開発の勢いが出てきました。
北西側は、かつての東急線線路跡地を活かした「高島山トンネル」効果が、鶴屋町開発で出てくるでしょう。

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北東側は、ベイクウォーターへのアクセスが改善され導線が変わります。
東口もさらに開発が進んできます。
この先、日本有数の商業集積地ができ上がっていく変身を何時までウォッチできるのか?愉しみです。
※東急ハンズ 横浜店が駅前に移転するため「閉店」します。(2013年5月現在)
「7月15日(月・祝)をもって東急ハンズ横浜店(神奈川県横浜市西区)の営業を一旦終了」
http://yokohama.tokyu-hands.co.jp

No.32 2月1日 みなとみらい線開通

さあ二ヶ月目に突入です。この間励まし ありがとうございます。
平成16年のこの日横浜と元町中華街を結び、東横線で渋谷に繋がる「みなとみらい線」が開通しました。4.1Kmの短い路線ですが、東急東横線の横浜駅〜桜木町駅間に代わり作られた路線です。
1985年(昭和60年)に提出された運輸政策審議会答申に基づき、横浜高速鉄道株式会社が設立され着工しました。

みなとみらい線の駅についてエピソードをご紹介します。「みなとみらい線」の特徴は、「横浜」「新高島」「みなとみらい」「馬車道」「日本大通り」「元町・中華街」の6駅のデザインが全て違うことです。路線の駅舎デザイン設計は統一感をもたせるのが一般的ですが、「みなとみらい線」は、デザイン委員会が各駅毎に選定した建築設計事務所が行いました。
「新高島駅」は山下昌彦氏(UG建築設計)

「みなとみらい駅」は早川邦彦氏
「馬車道駅」は内藤廣氏
終点「元町・中華街駅」は伊藤豊雄氏が担当しました。

途中「日本大通駅」は鉄道施設・運輸施設整備支援機構※が担当しました。
※みなとみらい線の工事を担当した組織です。
それぞれ異なる設計者ではありますが、全体的に吹き抜けのある大空間を活かした開放的なデザインは横浜らしい雰囲気をかもしだしています。「駅」自体が観光の重要な空間になる楽しい路線となっています。

No.31 1月31日 さよなら路線廃止に沢山のファン

1月31日はこのテーマしかありません。路線廃止です。
平成16年(2004年)のこの日、71年の歴史に幕が降ろされました。
廃止決定に当たっては、様々な騒動も起きました。
高架線下の名物落書きも消えました。廃線後の線路道はまだ再利用されていません。
本日はこれにて終了、にしようと思いましたが、この日もう一つ廃止になった交通機関があります。1972年(昭和47年)横浜市電がこの日全線廃止となりました。
市電について少し調べてみました。東横線はyoutubeをご覧ください。

「さよなら東横線桜木町横浜」
http://www.youtube.com/watch?v=4hm6BujSBkc
http://www.youtube.com/watch?v=PPuG953IZyc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=acm8d67gWEk&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=7Lt0Gmteo_k&feature=related
【横浜市電】

 
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(市電保存館より)

「さよなら東横線桜木町横浜」
関連

No.394 フラワー全開!

横浜電気鉄道)

1904年(明治37年)7月15日民間会社の横浜電気鉄道が市内初の路面電車営業を開始しました。区間は神奈川〜大江橋(現在の青木橋から桜木町)です。1921年(大正10年)に横浜市が横浜電気鉄道路面電車を買収します。横浜市電気局の誕生です。1946年(昭和21年)に横浜市交通局になります。
路面電車は軌間(線路の幅)が標準軌で1,435 mmです。関東大震災後、多くの車両が焼失し、不足に陥りました。そこで、現在の京王線(京王電気軌道)から車両を購入します。当時京王線からどうやって車両を運んだか?
京王線の新宿追分駅までまず車両を移動し、市電(都電)との連絡線を経由し、品川まで移動。京浜電鉄経由で生麦まで運んだということですから驚きます。
規格は統一しておくとコストダウンにつながる良い例ですね。運んだ時間帯は不明です。
昭和30年代に最盛期を迎えます。

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市電保存館HPより

1966年(昭和41年)に生麦線、中央市場線を廃止したのを皮切りに廃止路線が増えて行きます。そして1972年(昭和47年)市電とトロリーバスが全廃されその姿を消しました。

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最終日には「花電車」が走行し、かつての車両もデモで走ったそうです。省エネ時代どこか可能な所を復活させても良いのでは?と思います。

No.20 1月20日 鶴見線「73型電車サヨナラ運転」

「オタク」最近では「熱中人」という名の不思議な人たちがいます。私もその一人かもしれません。興味外の者にとって「そこが好き、夢中になる」理由が全く分からなりません。
1980年(昭和55年)の今日
鶴見線「73型電車サヨナラ運転」があり別れを惜しむ多くの「鉄男君」に見送られました。鶴見線自体もかなりマニアックな路線ですが、ここに最後の姿を求めて鉄道ファンが押し寄せました。

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まず鶴見線を紹介しておきましょう。
「鶴見線」普段はまず乗ることの無い路線です。ここ20年は鉄道ファンの人気路線となっていますが、最近では現代アート展が行われたり、廃止となった旧式車両の展示会を行ったりしています。
鶴見線のおすすめは超有名な「国道駅」そして「海芝浦駅」です。国道駅も海芝浦駅も駅ごとに語りだしたら止まらないほどエピソードたっぷりの駅です。
「海芝浦駅」の敷地は元々“東芝”(東京芝浦電気)の私有地で、改札から外には社員、関係者以外降りることができません。それでも一般客(マニア)が絶えないのは、駅構内に海芝浦駅に隣接する私設公園「海芝公園」があるからです。東芝京浜事業所が敷地の一部を使用し、東芝によって「海芝公園」が運営・管理されています。
入園無料、開園時間は9:00〜20:30でここから見る風景はすばらしいので未体験の方は必見でしょう。(特に工場夜景で人気沸騰、夕景もおすすめ)

(海芝公園)
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(海芝浦駅はまさに海の中にある駅のようです)

もともとJR鶴見線は私鉄でした。
「鶴見臨港鉄道株式会社」が経営する路線で戦前、京浜工業地帯の鶴見川崎エリアの工場に貨物や人を運ぶために開かれました。1943年(昭和18年)に戦時買収され、保有する鉄道路線が国有化となり現在に至ります。
その時にこの「鶴見臨港鉄道株式会社」は<鉄道部門>を切り離したまま事業を継続し不動産を中心にした事業で現存しています。
もう一つ、鉄男君系エピソード。
この臨港鉄道の系列会社だった「鶴見川崎臨港バス」は1938年(昭和13年)12月に合併し「川崎鶴見臨港バス」と社名が入れ替わるという面白い社名変更をしました。現在は京急の系列会社になっています。

鶴見線のマップを下記に紹介します。駅名に注目してください。

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(路線図)

「鶴見小野は地元大地主の小野信行、浅野は浅野財閥の創設者で、鶴見臨港鉄道の設立者でもある浅野総一郎、安善は安田財閥の安田善次郎、武蔵白石は日本鋼管(現在のJFEスチール)の白石元治郎、大川は製紙王の大川平三郎から取ったものである。扇町も浅野家の家紋の扇に因む。また、国道15号が近くを走るから「国道」、昭和電工扇町工場が近くにあるから「昭和」、石油精製所の近くにあったことから「石油(後の浜安善)」、曹洞宗の大本山である総持寺の近くにあったことから「本山(廃駅)」など、あまりにそのままな命名がされた例もある。」(wikipedia引用)

若干前置きが長くなりましたが
表題の「73型電車」がなぜファンの心をつかんで離さないのか紹介しましょう。
73型とは“モハ73(後のクモハ73)、中間電動車に改造されたモハ72型”を総称して73型電車といいます。
モハ?クモハ?
鉄道車両には製造番号と型式番号がついています。
これがまたファンにはたまらない。
いろいろ詳しいものがあるがこれが簡単で分かりやすいので
http://asuzuki.la.coocan.jp/hp3/train41/tetumame.htm参照してください。

この73型は戦争直後の旧型通勤電車を代表する型式で、限られた資材と設備の中で最大限に効率的な電車を量産するために設計された車両です。
73型製造のキッカケは1951年(昭和26年)に起きた桜木町事件(4月24日)です。桜木町構内で起った車両火災事故が原因で死者が106名、負傷者96名という多くの犠牲者を出した鉄道事故史に残る大事故となったことと人災でもあったため事件と称されています。
この教訓として急いで改造が行われたのが72系です。
戦後の復興期を代表する車両でした。高度成長が進むに連れて、新規車両が登場します。運ぶ機能から快適を指向し始めます。したがってどんどん廃車になって行きます。
そして、鶴見線で走っていた「最後の車両72型」が消える!
ということで鉄道ファンを集めました。

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(表情がちょっと可愛い、食パンのような窓)

72系引退そして新101系の投入を記念して、鶴見線全線と南武線浜川崎支線が乗降自由となる「鶴見線フリー乗車券」が発売されました。
価格は大人200円・小人100円で、乗車券は発売日当日のみ有効。鶴見駅・浜川崎駅・川崎新町駅・尻手駅で発売されたそうです。
冒頭にも紹介したように
現在鶴見線は昭和を感じる観光路線にもなっています。
日曜日には臨時電車も出ているようなのでレトロ路線の旅、ぜひ一度お試しあれ!

No.177 6月25日(月) 出られない出口