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No.241 8月28日(火)駅を降りたら、国際港 復活(その2)

現在国際空港行き専用急行便が走っているように、
かつて横浜港と東京を結ぶ専用路線(臨港鉄道)がありました。
1920年(大正9年)7月23日に運行開始、戦争とともに廃止されます。
戦後、国際港から太平洋航路が復活とともに短い期間でしたが1957年(昭和32年)8月28日から1960年(昭和35年)8月27日まで東京駅〜横浜港駅間にボート・トレインが復活しました。


横浜の港湾施設と東京を結んだ「臨港鉄道」についてはこれまで何度か紹介しています。
No.205 7月23日 (月)駅を降りたら、国際港

No.62 3月2日 (金) みらいと歴史をつなぐ道

ここでは、ボート・トレインの1920年(大正9年)7月23日から1960年(昭和35年)8月27日までの歴史の中で、復活の3年間に注目します。

(北太平洋航路の復活)
1953年(昭和28年)7月22日に横浜港から一隻の客船が、北米・シアトルに向けて出港しました。北米航路の女王とよばれた「氷川丸」の復活です。戦争前夜の1941年(昭和16年)の夏に航路が休止されてから、12年ぶりのことです。黄金時代の北米航路は「平安丸」「日枝丸」と合わせて3隻で運行されていましたが、この2隻は戦時徴用で沈没し「氷川丸」だけが生き残ります。


■最後の氷川丸
1953年(昭和28年)6月三菱造船で復帰のために大改装されます。
  7月22日に横浜〜シアトル航路に定期貨客船として復帰します。
1953年(昭和28年)〜1960年(昭和35年)多くのフルブライト交換留学生を乗せました。
1959年(昭和34年)7月26日第52次航で宝塚歌劇団北アメリカ・カナダ公演のメンバーが乗船し桟橋は五千人を越えるファンで埋め尽くされました。
寿美 花代(すみ はなよ)、浜 木綿子(はま ゆうこ)他
演目は「花の踊り」「四つのファンタジア」「宝塚踊り」だったそうです。
そして
1960年(昭和35年)第60次航をもって運航を終了します。同時に日本郵船もシアトル航路から撤退することになります。
■氷川丸を支えた臨港鉄道


「氷川丸」復活で日本郵船から国鉄に要請があり、1957年(昭和32年)8月28日から「横浜〜シアトル間」の航路に接続して復活運行されたのが「東京駅〜横浜港駅間」の横浜臨港線でした。
氷川丸出入港に合わせて運行されるので、時刻表には掲載されていなかったそうです。
東京駅10番ホーム〜横浜港駅間を約40分で結びました。東京駅10番ホームは現在も東海道本線特急急行用ホームとして利用されています。


通常はC58蒸気機関車に4両編成で運行されていましたが、1959年の宝塚歌劇団の時には10両編成にしてファンに備えたそうです。

東京駅10番線発車メロディー
http://www.youtube.com/watch?v=wlBlQEjWt2k

【もうひとつの8月28日】
1970年(昭和45年)8月28日
大岡川分水路建設工事起工式が挙行されました。

No.192 7月10日(火)もう一つの大岡川

No.187 7月5日(木) 目で見る運河

 

No.219 8月6日 (月) チェックメイトキング

横浜港周辺散策に横浜三塔は欠かせません。
キングの神奈川県庁本庁舎
クイーンの横浜税関
ジャックの横浜市開港記念会館
三塔それぞれにドラマチックな物語があります。
今日は三塔の中で引越と再建を繰り返してきた「さまよえる庁舎」神奈川県庁本庁舎の歴史を紹介します。

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現在の本庁舎は4代目です。
関東大震災で焼失した旧(三代目)県庁舎を再建したものです。建築工事費約275万円を費やして1928年(昭和3年)10月31日に完成しました。
ではなぜ?今日8月6日なのか?さまよえる庁舎の歴史を簡単ですが紹介しましょう。

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(野毛山時代)
1859年(安政6年)の開港に際し野毛山に神奈川奉行所(戸部役所)を建てます。マップ①
まだ徳川幕府の時代です。

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直後に、奉行所の出張所(神奈川運上所)を桟橋近くにを建てます。マップ②
(記念碑あり)
1866年(慶応2年)10月に横浜史で最も有名な“歴史を変えた”大火災が起ります。「豚屋火事」→「慶応の大火」と呼ばれ、役所の殆どを焼失します。
急ぎ 初代運上所のはす向かい、現在の横浜地方裁判所と検察庁のある場所に2代目運上所を設置します。マップ③
1868年(慶応4年)4月11日に、神奈川奉行所は「横浜裁判所」と名称変更されます。
※ここで注意しなければならないのがこの裁判所は現在の司法機関ではなく行政機関の名称で、後に司法機関名となったので混乱しがちです。
またまた、幕府は「横浜裁判所」を一ヶ月で「神奈川裁判所」に名称変更します。(1868年5月12日)
さらにそれから3ヶ月後の8月、「神奈川府」に変更します。
1868年10月23日(明治元年9月8日)から明治時代が始まりますが、改元直後の1868年11月5日(明治元年9月21日)に
「神奈川県」となります。現在の神奈川県域になるにはまだ20年以上かかりますが、ほぼこの時期に落ち着きます。

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(またまた大火事)
1882年12月(明治15年)に起った大火事で、県庁は焼失します。そこで、横浜町会所(ジャック、現在の開港記念会館の場所)に仮庁舎を建てます。マップ④

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これを機会に施設を大きくする必要もあり、新県庁の候補地を探します。
ここでクイーンが登場します。横浜税関です。
本町1丁目(昔の町名、現在は中区日本大通1丁目)にあった横浜税関に移転計画が立てられます。

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そこで、横浜税関が移転した跡地に新県庁を建設することが決まります。
現在の県庁の場所です。
1883年(明治16年)8月6日の今日
「神奈川県庁が横浜税関跡に移転(横浜税関百二十年史)」

その後、1907年(明治40年)に老朽化と狭隘化が問題となり、建直しが検討されます。
1909年(明治42年)開港50周年の年に新県庁建設のために「横浜公園」に臨時庁舎を建て、引越します。

(三代目庁舎)
1913年(大正2年)5月に、3年半をかけて三代目県庁が完成します。設計は明治の三大建築家といわれた片山東熊(かたやま とうくま)でした。彼は、長州藩騎兵隊出身、 工部大学校同期には今話題の東京駅設計の辰野金吾がいました。片山はジョサイア・コンドルの弟子で赤坂離宮(迎賓館)、奈良、京都国立博物館が代表作品です。

(関東大震災)
1923年(大正12年)の関東大震災でなんとか倒壊を免れましたが、耐震上建直しが決まり、4代目となり現在に続きます。

※三代目庁舎建築を巡っては、かなり面白いエピソードが隠されていますが、これは
No.193 7月11日(水) Hi Come on!
ともからんでいます。改めて(小説仕立てで)紹介しましょう。

No.70 3月10日 310

No.420 3月10日(日)横浜三塔に思う

No.375 1月9日(水)残した大正の財産

No.218 8月5日 (日)夢の夢の夜夢覚め

墓碑や歌碑を巡る旅と言えば江戸や京都のお寺さんが常道ですが、ご当地横浜にも「お寺さん」コンテンツがいろいろあります。
今日は、横浜市保土ケ谷区岩井町にある臨済宗 建長寺派「福聚寺」というお寺に墓誌のある「五返舎半九」をちょっとだけ紹介しましょう。
ちょっとだけというのは、この「五返舎半九」を語り出すといろいろ広がってきます。少しややっこしいところもありますが関心のある方はぜひ「福聚寺」をスタートに“半九”めぐりをどうぞ。

五返舎半九、本名を府川重次郎、屋号が「桔梗屋」と称した幕末の戯作者です。なんで戯作者名の他に屋号があったかと申しますと、彼二足のわらじを履いておりまして、生業が江戸で繁盛したお菓子屋だったそうです。1784年(天明4年)江戸に生まれ
昨日紹介した1858年(安政5年)のコレラパンデミックで8月6日に亡くなっています。
No.217  8月4日 (土)わがひのもとの虎列刺との戦い

五返舎半九(ごへんしゃはんく)とはちょっと変わった名です。
十返舎一九という名を挙げれば“関係あり!”と想像できそうでしょ。
五返舎は、江戸の人気作家『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』で一躍有名になった十返舎一九の弟子の一人です。
師匠「十返舎一九」の十返の半分で五返舎とし、一九の半分で半九と称して命名したそうです。
彼の他にも十字亭三九、九返舎一八といった師匠の名をもじった門人というか弟子がいましたが結構適当な弟子が多かったそうです。
その中で、五返舎半九はまともな方だったようです。
彼は活動の舞台が江戸でしたから何故横浜に墓誌があるのか、正確な資料がないため残された資料で推測するしかありませんが、五返舎半九の子供の一人、娘の“きく”さんが関内の港町(みよざき)遊郭「橋本楼」の橋本家に後妻となり その菩提寺がここ保土ケ谷の「福聚寺」ということから1880年(明治13年)の祥月命日8月5日(二十三回忌)実父の墓も橋本家の墓地の一角に建てたというのが理由のようですから親孝行な話しです。
前述の通り、五返舎半九は“コロリ”で亡くなりますが、当時コレラで亡くなった場合、埋葬制限が厳しくまともな葬式もできなかったのかもしれません。
最後に
彼の作品を少々

雲母坂くもと見る時しぐれけり

扇もてまねくも見えつたび人の
あとやさきなる熊谷の土手

むらさ紀は江戸の土なり秋茄子
※彼は茄子が大好物だったそうです。

ぬば玉の夢の夢の夜夢覚めて
獏の尿とも悟りてしかな

(余談)
また彼の子供、孫は「府川一則」(初代から三代)を名乗り、画家・彫金家・七宝家等で名を残しました。
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/hukawa_k.html

臨済宗 建長寺派「福聚寺」
http://www.fukujuji.or.jp

最後に、谷中墓地や青山墓地のような霊園は別にして、一軒のお寺さんを巡るときは静かにそして“お賽銭”のひとつも用意して参るのがマナーというものです。できれば一声断ってからめざすお墓に向かったほうが良いでしょう。

No.216 8月3日 (金)この道は金港に続く

通称「京濱國道」現在の国道15号が
1925年(大正14年)8月3日の今日、
六郷橋から生麦までの区間の改修工事が完成しました。
今日は、国道15号の横浜区間の紹介をしましょう。


(歴史)

1885年(明治18年)に国道整備が行われ、旧東海道の日本橋 – 神奈川を経由し横浜港(開港広場前交差点)に至る幹線を「明治1號國道」と呼びました。
その後関東大震災後、復興改修が行われ、「明治1號國道」の日本橋 – 神奈川間が通称「京濱國道」となり、昭和に入り第一京浜、国道15号となりました。まさに東京と横浜を結ぶ“開港の道”が国道15号線です。

青木町交差点

(路線巡り)
国道15号の横浜区間スタートは西区の青木町交差点です。
【青木橋】ここは国道一号(第二京浜)との分岐点でもあります。

①青木橋、橋の上にバス停があります。(橋上バス停ありそうで少ないんですよ。普通は橋のたもとに設置します)
ここから神奈川新町まで神社仏閣が点在します。
②州崎神社
③慶雲寺 フランス領事館跡 記念碑 亀の像があります。
④熊野神社 神奈川郷の総鎮守8月17日が例大祭です。
⑤笠のぎ稲荷神社 明治2年に遷座。この神社に土団子を供えれば病が治るそうです。
⑥出田町 なんと読む!?正しくは「いずたちょう」です。
横浜鉄工所の出田孝之氏の姓から命名されたもの。
国道表示「でたまちふとう」は明らかに誤記。は一般化されています。
→このあたりは再 追っかけ!中(2013年5月)
 このふ頭を利用する業界では読みやすいということで
 「いでた」とか「でたまち」と呼ばれていました。
 その呼び名が使われるようになった  らしい???  

(東急東横線 青線部分は地下になり遊歩道に変身)

【新子安近辺】

①大口商店街最南端 相応寺 門前に子育地蔵が並ぶことで有名
②国道一号と県道111号が交差(特にどうってことありません)

③オルトヨコハマ 「駅前庭園都市」といわれています?
④子安「子供の遊び場」 横浜市が昭和30年代に整備した公園
No.215  8月2日 (木)継続は力なり

⑤遍照院 門前が線路です。

⑥キリンビアビレッジ(無料休憩スポット)
または生麦地区センター
⑦生麦事件の碑 
以前より少し移動しています

【鶴見駅付近】

①花月園跡地
現在競輪場になっていますが広大な緑地が広がっています。
②国道駅
昭和レトロで再評価。人気の駅になっています。

③旧東海道
国道駅は旧東海道にも面しています。
④魚河岸通り
ここには魚問屋街があり、特に貝類の専門店があります。(水曜日定休日多し)
⑤総持寺 ご存知、石原裕次郎の墓があります。映画にも使われています。
⑥鶴見名物よねまんじゅう  駅周辺の和菓子屋さんで販売しています。「御菓子司 清月」がおすすめ。
⑦鶴見区役所(無料休憩スポット)
⑧ヨコハマビエンナーレ
 鶴見川沿いの遊歩道にアート作品が設置されています。
⑨鶴見神社  古来、杉山大明神(杉山神社)といわれた。
⑩鶴見橋 1925年(大正14年)8月3日改修完成
⑪響橋(めがね橋) かながわの橋100選の一つ

【鶴見市場付近】

①市境(ゴム通り入口)横濱護謨製造(現ヨコハマゴム)工場から命名
②自由の女神? ラブホテルのオブジェですが地域のランドマークになっている。

③鶴見市場駅 かつては京浜工業地帯の工場群に勤める人たちで賑わった駅です。
④熊野神社
 http://753.jp  クリック注意!ちょっと音がうるさいかも
もともと市場小学校があった場所で記念碑があります。
⑤鶴見スポーツセンター(無料休憩スポット)
⑥森永橋 地元企業の名がついた橋です。
⑦第二京浜 国道一号(昭和に造られました)
夜霧の第二国道と歌われた曲で有名に
⑧tvk鉄塔(三ツ池公園) この地域のランドマークになっています。

(余談)

この区間の国道15号線はサイクリングに向いています(ほぼフラット)。
国道一号線は避けた方が良いかもしれません。
かなりアップダウンがあります。

No.213 7月31日 (火)金日本、銀日本

1895年(明治28年)7月31日(水)の今日、
京都岡崎公園で終了した第4回内国勧業博覧会で
横浜の梶野仁之助が自転車製造で有功賞を受賞しました。


今日は自転車をテーマにしました。
最近自転車ブームですが、私たちが乗る自転車の構造デザイン、百年前にはほぼ完成していました。
すばらしいことです。ちょうど日本の幕末明治の頃が自転車構造の転換期にあたります。

幕末明治の頃、初期自転車デザインは実用的ではありませんでした。実用性のある三輪自転車がごく一部で使用されていましたが、構造が複雑で高価だったため普及しません。
今日のような実用的な交通手段に生まれ変わるのが20世紀の時代に入る頃でした。


当時、最先端技術情報が集まった「横浜」でいち早く自転車に関心を持ち
英米の最先端自転車の輸入ビジネスを始めた“先駆者達”がいました。

1894年(明治27年)創業の貿易商石川 賢治、石川商会(後の丸石自転車→現在丸石サイクル)を弁天通に創業。
(後に尾上町移転)

1896年(明治29年)創業の根津商店 根津 酒造蔵(相生町)
1903年(明治36年)石川商会から独立し相生町で英国製自転車の輸入を始めた 金輪社の松浦 精一郎(後に尾上町移転)
ゴムタイヤの米国製自転車をいち早く輸入し成功した喬盛館の高木壽次(真砂町)
彼らは、輸入商として画期的な移動手段となった「自転車」を輸入した先見性のあった人物です。


一方、自ら「自転車」を造ろうと試みた日本人も全国に多数いました。
その中で、日本最初の自転車企業を創設したのが梶野 甚之助です。


日本の自転車史には必ず登場する梶野は神奈川県津久井の出身で、横浜に来て時計商を営む中で機械に魅了されていきます。ごく一部の遊興用に輸入された自転車を見て、自作を試みます。1879年(明治12年)には蓬萊町に自転車工場をオープン、その後本格的な工場を高島町5丁目に開設します。
梶野の国産自転車は、その後国内で評判になります。

国内工業技術の発表の場となった「内国勧業博覧会」に第三回から最後の五回まで出品し、第四回では有功賞を受賞します。
1891年(明治24年)には初の海外、中国に輸出します。
1897年(明治30年)に大日本自転車製造株式会社を設立、日本最初の自転車製造企業が誕生します。
最盛期の明治40年頃には職人40名で梶野ブランド「金日本号」「銀日本号」を販売し海外にも支店を持つまでに発展しました。
その後、宮田工業(本社茅ヶ崎)を含め現在の日本を代表する自転車メーカーが誕生します。(自転車部門は㈱ミヤタサイクルに)

(余談)
日本で自転車製造に着手した人物は福島県の鈴木三元という人物で、1876年(明治9年)一人乗り三輪車「大河」を開発しました。横浜の石川商会は1910年(明治43年)英国製自転車トライアンフの不正コピー警告の広告を掲載したことで話題になったそうです。

No.179 6月27日(水)電気が夢を運んだ時代?

<20140730加筆修正>

No.201 7月19日(木)港を感じる絶景ポイント

横浜港のある東京湾は、船舶の航行が集中するポイントにあたります。
船舶通航信号所として
1986年(昭和61年)7月19日(金)「横浜港シンボルタワー」が完成しました。

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「横浜港シンボルタワー」のある本牧埠頭D突堤は、横浜港と東京湾との境界に位置します。
横浜港に入出航する船舶の管制を行う役割と、東京湾を航行する船舶へ海上交通情報を提供する航路標識としての役割を担っています。
この「横浜港シンボルタワー」は、航路管制標識と同時に市民公園として一般公開されています。
市内都市部と隔絶された独特の空間です。
タワーは高さ58.5m(アンテナ部含む)で、4階部分地上36.5mの高さに展望台が設置され横浜港湾の様子を眺める事ができます。
入場無料です。
エレベーターもありますが約140段の階段を歩いて登るのも一興です。

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また、散策を楽しむことができる緑地公園は多目的広場として、フリーマーケット、コンサート、ショーなど各種イベントを行うことができます。
※売店もあります。

■横浜港シンボルタワー
http://www.y-stower.com/
利用時間は
開場は9:30で季節により閉場時間が変わります。
【11月1日 〜  2月28日】〜16:00
【3月1日 〜  7月20日】〜17:30
【7月21日 〜  8月31日】〜20:00
【9月1日 〜10月31日】〜17:30
※シンボルタワー展望室は閉場時間の30分前で入場制限
公園及び駐車場には閉場時間の40分前に閉まります。
休業日は
年末年始(12月30日 〜 1月3日)と5月、9月、1月の第2火曜日(国民祝日の場合はその翌日)です。

●横浜港シンボルタワーへのアクセス方法
横浜市営バス26系統「横浜港シンボルタワー」行き終点です。
主な路線は、
横浜駅 – 桜木町駅 – 大さん橋 – 山下ふ頭入口 – 小港橋 – 本牧ふ頭入口 – 海づり桟橋
26系統はシンボルタワーの営業時間にあわせて運行しいるので、営業時間外は、ひとつ手前の停留所『海づり桟橋』発着です。休業日も終日『海づり桟橋』発着です。

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タワーの位置(D突堤)とロイヤルウイング航路

●もう一つの楽しみ方
横浜大桟橋からロイヤルウイングに乗船すると海側からシンボルタワーが見えます。
http://www.royalwing.co.jp/cruise/course/index.shtml

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タワーがコンテナヤードに囲まれているのが良くわかります

(余談1)
26系統は利用客が少ないため 横浜市交通局が撤退検討路線として検討されたそうです。
港湾施設なのでスカイウォークのように閉鎖なんてことにはならないでしょうが、このシンボルタワー広場活用アイデアみんなで考えてみましょうポイントの一つです!
良い場所なんですがね。

(海釣り公園)が手前にありますが、ここは殆ど自動車、自転車利用客です。

(余談2)
横浜市内の幾つかの施設では商用撮影等が有料の場所がありますが、ここシンボルタワーも有料です。
映画撮影、その他これに類する動画撮影をする場合1日  20,000円、広告写真等のスチール写真撮影は1日  10,000円かかります。
(観光用の撮影は関係ありませんが、
 何を商用写真というか難しい時代に不適合だと思います)

(豆知識)
横浜港に文字が表示される港内航行信号塔が数カ所設置されていますが、横浜港に入る最初の信号がこの横浜港シンボルタワーです。道路の信号は三色表示ですが、港の場合は【文字(アルファベット)】で、国際標準です。知っておくとちょっと自慢できます。

【Iの文字の点滅】→ 入航してよい。
総トン数500トン以上は出航禁止。
【Oの文字の点滅】→ 出航してよい。
総トン数500トン以上は入航禁止。
【Fの文字の点滅】→ 総トン数15,000トン未満の船は入出航してよい。
【Xの文字及びIの文字の交互点滅】→まもなくIの点滅に切り替わる。
航路内の船は航行してよい。
【Xの文字及びOの文字の交互点滅】→まもなくOの点滅に切り替わる。
航路内の船は航行してよい。
【Xの文字及びFの文字の交互点滅】→まもなくFの点滅に切り替わる。
航路内の船は航行してよい。

【Xの文字の点滅】→まもなくXの点灯に切り替わる。
航路内の船は航行してよい。
【Xの文字の点灯】→ 指示された船以外は入出航禁止。

※横浜港で身近な航行信号は山下公園脇に建っています!!!探してみましょう!!

No.198 7月16日(月) 最後で最後の

2012年の今日は“ハッピーマンデー”「海の日」です。
海の日は、元々20日でしたので「7月20日」に横浜の海がらみで紹介しましょう。
1959年(昭和34年)7月16日(木)の今日、横浜市交通局が日本で最も遅くトロリーバスを(最後に)導入しました。
ほとんど消えてしまった昭和遺産の一つに<トロリーバス>があります。横浜市内にも短い期間でしたが、横浜の公営交通の一翼を担いました。

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しかも、
公営交通の中で、一番遅くに導入し、
廃止も一番遅く1972年(昭和47年)3月31日(金)まで、
都市型としては最後まで残ったトロリーバスです。
“トロリーバス”といいますが、法令上は「無軌条電車」線路の無い電車として扱われます。
横浜では市電路線の延長線に限定路線として開通しました。

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“トロリーバス”のメリットディメリットは、Wikiを参照願います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/トロリーバス

1964年の東京オリンピックで活躍するなど、このトロリーバス路線は黒字運営でしたが、他都市のトロリー路線撤退や、横浜市電が全廃されたことで車両部品の調達や施設関係のマネジメントに支障を来たすことが予測されたため廃止となりました。

当時のトロリーバス路線は
現在の【202系統(201系統)】で体験できます。
停留所も変わっていません。
今回は、トロリー時代の写真がないので

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路線バスの旅!
【202系統(201系統)】散歩といきましょう。
【横浜駅西口】(11番乗場)
 ハマボールイアス
 No14 1月14日(土) ハマボール閉鎖
 
 東急ハンズ
【岡野町】
 ちょっとしたラーメンスポットです。
 何時も並ぶ家系ラーメン元祖「吉村家」、「横濱屋」「山頭火」

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アフリキコ(ちょっと歩きますがガーナのお店です)ジャンベ教室も開催しています。
No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王

【浅間下】
 浅間神社
【浅岡橋】
【浅間町車庫前】
 浅間町車庫は西区スポーツセンターがあります。
 旧東海道と八王子道との分岐点“追分”があります。
【洪福寺】
 洪福寺松原商店街

激安のみならず新鮮なネタで連日行列の店が多く並びます

【宮田町】
【峯小学校前】
 一品香

(本社工場が近くにある???)本店は長者町です。

【峰岡町】
【常盤園下】
【和田町】
【和田町交差点】
【常盤園前】

【横浜新道】
 横浜国立大学
【岡沢町】

【市民病院下】

 三ツ沢公園
No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園

【三ツ沢西町】
豊顕寺(ぶげんじ)

【三ツ沢上町駅前】
 エス山本繊維加工(注染てぬぐいの小さな工場があります)

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【三ツ沢小学校前】
 せせらぎの小径
【三ツ沢中町】
 せせらぎの小径
【三ツ沢下町駅前】
【島田橋】
【ガーデン下】
【松本】
 反町駅(東急東横線)
 フランセ


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フランセ 発祥の店です

【泉町中央】
【泉町】
 横浜市防災センター
 http://www.city.yokohama.lg.jp/shobo/bousai/
【鶴屋町3丁目】
【横浜駅西口】

No.168 6月16日(土) 6月のカナチュウ(加筆修正版)

どこかで紹介しておきたかった神奈川中央交通株式会社。
6月に因縁のある会社です。勿論横浜とも深い関係があります。
創業記念日が6月5日(1921年(大正10年))。
東海道乗合自動車に社名変更が6月16日(1939年(昭和14年))。
神奈川中央乗合自動車に社名変更も6月16日(1944年(昭和19年))。
現在の「神奈川中央交通株式会社」への社名変更が6月29日(1951年(昭和26年)と6月に脱皮してきた日本最大のバス会社です。

(弘明寺生まれ)
神奈川中央交通株式会社(県民の愛称はカナチュウ)
現在神奈川県平塚市に本社を置く、
事業エリア路線規模において日本最大のバス会社です。
このカナチュウの創業地は
横浜市南区大岡町(現在の弘明寺近く)です。

昭和29年頃の弘明寺営業所(社史より)

平塚本社となったのは1953年(昭和28年)のことです。
社史90年の中で、横浜本社時代が約30年ありました。
(さらに6月変身)
2012年6月1日から創業90周年を節目にロゴの変更を行いました。
(新ロゴ)

(旧ロゴ)
いかにも交通関係の会社というロゴですが、この社章が制定されたのも1944年(昭和19年)6月16日でした。

(えらいぞカナチュウ11系統
桜木町駅前から保土ヶ谷駅東口をつなぐ11系統というバス路線があります。
この11系統はかつて「横浜市営バス」が同じ11系統として営業していた路線です。
市があきらめた路線?
カナチュウが運行しています。
私のおすすめ路線バスルートの一つです。
210円でたっぷり横浜の観光地を堪能できます。
※休日はかなりの交通渋滞があり時間がかかりますが、これがまた路線バスの愉しみです。
(主な経路)
保土ケ谷駅・井土ヶ谷下町・中村橋・打越橋・港の見える丘公園・日本大通り駅県庁前

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このルートは
「横浜を知るルートバス」
「横浜の尾根ルートバス」としてもおすすめです。
●中華街、元町、港の見える丘公園、イタリア式庭園から見る、山下町、関内、MM地区、ポートサイド地区は抜群です。
移築した外交官の家も見ながらしばらくは、観光地横浜の顔を巡ることが出来ます。
山手カトリック教会、司教館、フェリス女学院などなど並ぶ山手の狭いながらも魅力ある横浜を楽しむことができます。
山手の背骨(尾根)を走り、ちょっと下町の香りがする蒔田・井土ケ谷を過ぎると保土ケ谷の歴史街道(切り通し)を抜け 江戸時代の東海道宿保土ケ谷へ。
歴史街道にも触れることができます。

珍しいバス専用表示灯

※バス専用表示灯はかなり珍しい存在です。

(返還の決まった)米軍基地が、ベストビューポイントにあります。

神奈川中央交通株式会社
http://www.kanachu.co.jp/

No.152 5月31日(木) もう一つの近代水道発祥の地

今日も昨日に引き続き「横浜市の水道」ネタを紹介します。
1987年(昭和62年)5月31日の今日、横浜水道100年に際し横浜市保土ケ谷区川島町(西谷浄水場敷地内)に「横浜水道記念館」をオープンし開館式典が行われました。

全国自治体数々あれど、自分の街の水道に関してこれほど自慢できるところはないのでは!
良く知らない!という方は
一度は行こう!横浜水道記念館!
http://www.city.yokohama.lg.jp/suidou/kyoku/torikumi/suidou-pr/kinenkan/
横浜市民の皆さん。
横浜水道記念館に行きましょう。野毛山だけでは駄目ですよ!
横浜水道の誇り高き歴史はもちろんですが、敷地内から見る風景も最高です。

さらに記念館の最上階の展望室からの眺望は真冬でも真夏でも大丈夫ですよ。
※駐車場がありません!!(相鉄バスを利用するか、上星川駅から歩きましょう)
私は自転車で行きましたが、最後の旧坂には閉口しました。

そもそもここになぜ水道記念館なんか建っているのか?
この西谷浄水場は、昨日紹介しました横浜市と山梨県南巨摩郡道志村を繋ぐ重要な中継点にあたります。
No.151 5月30日 100年前の先見性

■水道道の不思議
水道は“水道管”を使って導水されます。
明治から大正と言っても50万人近い人口の水量を運ぶインフラが必要になります。

当時最新鋭の水道技術が導入され、山梨県から横浜市の港近くまで水道管が敷設されました。この水道管の本管が埋設されている上にある道を「水道道(すいどうみち)」といいます。民家、私有地に通す事が(保安管理上)できません。そこで横浜市内には「水道道(すいどうみち)」と呼ばれる道明治期から走っています。
下記の図は西谷浄水場から野毛山貯水場跡(現在の野毛山公園)をつなぐ水道道マップです。近代水道発祥の地(野毛山貯水場跡)と良く言われますが、西谷の浄水場こそが近代水道発祥の地の心臓部にあたります。

(西谷浄水場近辺の水道道)

①旧西谷浄水場
②浄水場から野毛方向に一直線に続く水道道
③旧計量所跡(指定文化財)
④水道道

(相鉄線西横浜駅近辺の水道道)

①西横浜駅から西谷浄水場方向
②西横浜駅前から野毛山方向

■当然北(道志村)にも続いています。
この水の道を散策(アップダウンありますがサイクリングの方がベストかな?)するのも面白いでしょう。

さあ「水道記念館」を簡単に紹介しましょう。

■横浜水道記念館
近代水道の創設時代からの歴史、水道の分かりやすい基本知識を解説しています。

■水道技術資料館
水道に関する技術的な資料と技術の移り変わりを解説したコーナーが設置されています。

■記念館敷地内には、水道の歴史を語る使用された水道管、ポンプ、逆流防止装置等が野外展示されています。

■「横浜のおいしい水」検定に挑戦してみましょう。
(郵送で検定参加できます)
http://www.city.yokohama.lg.jp/suidou/oishi/kentei/#kenteigaiyou
当たり前と思っている水道というインフラテロ対策まで必要な時代になっていますが、蛇口をひねって得られる安心に喜びを感じたいと思います。

No.129 5月8日 ヒット曲の公園

「開港の道」山下臨港線プロムナードの終着地点となっている「港の見える丘公園」は
1962年(昭和37年)5月8日(火)に開園しました。

 
 
  

港の見える丘公園テラス


「港の見える丘公園」は市内の人気公園の中でも比較的新しく整備されたものです。
観光公園として大変人気があり、連日多くの観光客が訪れています。
人気の理由は、なんといってもネーミングの勝利です。
「港の見える丘公園」ちょっと長い名前には横浜らしい雰囲気が漂っています。
http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/kichitaisaku/shiryo/taiikukan.wvx
5月8日 横浜市中区山手「港の見える丘公園」当日の映像では比較的港が見えています。

※開園の日に関して 10月25日説もあります。
 No.299 10月25日(木)10月25日10月25日
私は 5月8日を採用しました。

(港が見えない公園?)
現在は 残念ながらここからいわゆる横浜港はちょっとしか見えません。
ブログ等では“ベイブリッジが見える丘”と揶揄されていますが、横浜の重要な港湾産業の見える丘であり美しく丁寧に整備された横浜を代表する公園であることは間違いありません。


まずは終戦直後の代表的な流行歌をお聞きください。

平野愛子さんが唄うこの曲は1948年に大ヒットしました。
http://www.youtube.com/watch?v=7K_EuScGmgU
「港が見える丘」がヒットした終戦直後、この公園一帯は進駐軍に接収されていましたが、戦前も一般者が立ち入ることが出来ませんでした。

この丘一帯は、横浜港を見下ろす重要な軍事ポイントでした。

開港時、いち早く外国軍、特に英仏の軍隊が監視所兼駐留場所として駐屯した場所です。「港の見える丘公園」は英国軍の駐屯地イギリス山と仏軍の駐屯地フランス山から構成されています。

 
港の見える丘公園図


「港の見える丘公園」はかなり広い公園です。

元町に近いフランス山から緑豊かな森を抜け、展望ゾーンに出ます。
そこからローズガーデンと山手 111番館(1999年再整備)、大佛次郎記念館(1978年開館)、神奈川県立近代文学館(1984年開館)とゆったりとした散策ルートとなっています。
■ローズガーデンと山手 111番館
http://www2.yamate-seiyoukan.org/seiyoukan_details/yamate111/
■大佛次郎記念館
http://www.yaf.or.jp/facilities/osaragi/
■神奈川県立近代文学館
http://www.kanabun.or.jp/
私のお気に入りは「斎藤茂吉展」でした。


ふもとのフランス山一帯には鉄柱の変わったオブジェが建っていますが、この鉄柱はフランスから贈られたものです。1973年まで100年余り存続したパリ中央市場(レ・ アール)の地下の一部です。

ちょっと古い写真ですが
追加写真です

設計者の名を取ってパビリオン・バルタールと呼ばれたこのパリ中央市場は、フランス「鉄の時代」初期の貴重な産業遺産で1980(昭和55)年に復元設置されました。

No.175 6月23日 フランス軍港があった丘
(参考)

3月2日 みらいと歴史をつなぐ道

No.317 11月12日(月)「GRⅥ」

(余談)
戸部と保土ケ谷駅前に店があるスイーツの「ふらんすやま」の名は、この「港の見える丘公園」フランス山から命名しています。
http://www.franceyama.com

「山手111番館」の地下1階にある「ローズガーデンえの木てい」もまさにバラにこだわったラウンジです。休日はかなり混み合っていますから地元は平日を狙いましょう。

http://www.rosegarden-yokohama.jp/