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第913話【時代判断の決め手】
昔の風景写真に出会ったとき、いつごろの時代なのか気になります。
展示会や、資料には推定年代が示されていることも多いので史料として役立ちます。
一方で、年代の分からない風景に出会うと、これまた別の意味で興味が湧いてきます。
「この風景は何時だろう?」
時代判断の決め手について紹介しましょう。
時代のランドマークが判るエリアはそれが基準となります。
戦前昭和期の関内エリアは「三塔」が鍵となります。
古い順に
今年150年を迎えた開港記念会館(ジャックの塔)、
1917年(大正6年)に竣工しますが震災で全焼し
1927年(昭和2年)に再建されます。
帝冠式の厳かな佇まいの神奈川県庁「キングの塔」が
1928年(昭和3年)10月31日に竣工します。
そして最後に1934年(昭和9年)3月竣工した
横浜税関の現 本関庁舎(クイーンの塔)を合わせて三塔と呼びます。
港に入ると横浜港にこの3つの塔がシンボルとして見えたそうです。この三塔によって微妙に時期がことなりますので
昭和2・3・9年で順を追うことができます。
今回紹介します風景は
この三塔の時差から税関(クイーンの塔)が見えないようです。
そこから昭和3年〜昭和8年ごろと時期が絞りこむことができます。
横浜関内外の風景は、
関東大震災で建物が大きく変わります。
そして戦災(横浜大空襲)と接収時代を経て
高度成長期となり、オリンピックの頃には人口爆発真っ只中で
横浜は都市基盤整備に日々追われることとなります。
大正から昭和にかけて、震災の被害は大きかったけれど復興に努力する短い時代が横浜にとっては数少ない良き時代だったのかもしれません。
第912話 【市境を歩く】長尾台町あたり
横浜側:長尾台、田谷
鎌倉側:玉縄、岡本
今年の春、市境踏破を目指しました。ほぼ全市境あたりを歩きましたので、第二ステップでは、市境をもう少し探ってみることにしました。
(長尾台)
大船駅西口から柏尾川に沿って上流に向かうと程なく「長尾台」のバス停があります。このあたりで川を背にすると目の前に切り立った高台とその周辺が長尾台です。
中世戦国時代に後北条氏伊勢盛時、後の北条早雲となったに武将によって築かれた玉縄城(たまなわじょう)の出城があった場所とされています。
この長尾台は東と南の方角を見据える良い立地で古くから小城(館)があったことが発掘調査で判っています。平安時代の武将、源義家に従って活躍した長尾次郎の名がこの地名の由来とされています。中世に北条氏の三浦攻めの拠点となった鎌倉玉縄城は、永正9年(1512年)に後北条氏伊勢盛時のちの北条早雲によって築かれます。長尾台は玉縄城の重要な出城で近くを流れる境川支流柏尾川が堀の役割をする絶好の要害の地でした。
現在も長尾台の丘陵部は人里離れた別天地の様相で、横浜に居ることを忘れてしまいそうです。
この長尾台と隣接する田谷の境界にはケモノミチがあり、この道を抜けると玉縄五丁目に出ることができます。
(夢を運ぶ)
この市境にはかつて、モノレールが走っていました。
この話にピンとくるかどうかで一つの世代を測ることができます。夢のように現れ、夢のように消えた「横浜ドリームランド」の消滅要因がこの横浜ドリームランドと大船駅を結ぶ”モノレールドリームランド線”のトラブルでした。モノレールが開通した翌年、1967年(昭和42年)に構造上の欠陥が見つかり早くも運行が休止され、送客できないことでドリームランド閉鎖の致命的要因となります。モノレールを担当した東芝は、責任を認めず、長い裁判となります。
※このドリームランドモノレール事件の裁判過程は実に興味深いのでじっくり読み解いてみたいテーマです。 池井戸潤の「下町ロケット」にも通じる、大手企業の<影>が見えてきます。
掲載の地図に引かれている路線図はかなり乱暴ですが、実際は長尾台・田谷付近の市境に沿って路線が引かれていました。すでに市街化していたこの地域に交通機関を設置する唯一残された空間だったのかもしれません。
(市境)
JR大船駅ホームの下を柏尾川の小派川「砂押川」が流れています。横浜市と鎌倉市の境、市境の決まり方としては一般的な「境の川」です。
「砂押川」が柏尾川に合流し市境も柏尾川に沿って400mほど北(上流)に伸び、柏尾川右岸側、西方向に入り込み長尾台西南の尾根筋が市境となっています。
現在の長尾台は古来「相模国鎌倉郡」で、1889年(明治22年)明治期最大の市町村再編成が行われます。この市町村合併は近世江戸の集落関係に関係なく様々な軋轢を残したまま実行されます。
柏尾川右岸の金井村・田谷村・長尾台村と小雀村が合併し現在の鎌倉市境、横浜市西部のかなりまとまったエリアが長尾村となります。
ところが、1915年(大正4年)に再編が起こます。
“広い長尾村”周辺が解体され、国道(東海道)沿いの小雀村・富士見村・俣野村・長尾村(一部)が大正村に
田谷村・金井村・長尾(台)が明治22年に柏尾川左岸でまとまった豊田村と大正4年に合併し大きな「豊田村」となります。
単純化すれば、川をベースにした農業エリア柏尾川両岸でまとまり、東海道筋経済圏で戸塚宿以南でまとまった新しい自治体を作り直したという構図です。
ただ、長尾(台)村は大船駅に近かったため、早くから大船村への合併を希望していましたが叶いませんでした。
(鉄道の時代)
明治に入り、街道の時代に加え鉄道の時代が始まります。
東海道線 大船駅は
1888年(明治21年)11月1日に開業。当時、駅の正面は西口の観音側でしたので、長尾台村にとっても重要な最寄り駅となっていました。
さらに翌年の1889年(明治22年)6月16日には横須賀線が大船駅〜横須賀駅間で開通し、鎌倉駅・逗子駅・横須賀駅も合わせて開業します。
戸塚町は明治中期以降、工業都市として急速に発展していきます。横浜市が昭和に入り「大横浜」を指向する中、柏尾川沿いの町は大横浜に入るのか、これまでのコミュニティを維持するのか、大きな選択を経て現在の横浜市域が誕生していきます。
改めて境界を歩くと長尾台から玉縄の台地を鎌倉時代、相模のもののふ達が去来した思いを馳せることができるでしょう。
第900話【舞台としての横浜】わが恋の旅路
900話となりました。
1000話までの通過点なので大ネタではなく行きます。
横浜の橋が登場する映画といえば?
ちょっとひねくれた質問になりました。
横浜港が登場する映画は数え切れません。私は横浜の<橋>が登場する映画を探しながら鑑賞しています。
今回は1961年公開の『わが恋の旅路』この映画を二度以上見る機会があれば橋に注目してください。最初はそんなこと気にせず鑑賞してください!!と言われると「橋」が気になりますね。
ストーリーの軸になるのが「港橋」です。市役所脇の派大岡川に架かていた橋で、現在は<痕跡>が残されています。以前「さらばあぶない刑事」上映で横浜ロケ地散策なるものが少し流行ったようです。空前のヒット作品「君の名は。」もロケ地めぐりが一大観光産業となったというから映画の舞台、ロケ地としての<横浜>もテーマに取り上げ観光資産になるというのもうなずけます。
単純に横浜を舞台にした映画作品名を上げるとかなりあります。
手元の数冊の資料化だけでも130作品にも及びました。
■『わが恋の旅路』を紹介します。
1961年公開 松竹制作91分まずスペックを紹介します。
監督 篠田正浩
原作 曽野綾子
脚色 寺山修司 、 篠田正浩
撮影 小杉正雄
キャスト
石橋潔 川津祐介 東千江 岩下志麻 宇佐美夫人 月丘夢路 他多数
リソース DVDでリリース中。アマゾン等で中古もあり。
ネット等で評価を検索してみると 作品評価は あまりよろしくありませんが、私は十分に堪能しました。映画評論の分野では「映画的には凡庸な作品」「オーソドックスなメロドラマ」といった評価が主流のようです。私の横浜風景論としての『わが恋の旅路』評価は上々です。評論家の中でも「1960年代初頭の横浜の街並みがあざやかに切り取られているのが、本作の最も価値ある点である。」(荻野洋一)「大岡川沿いを走る横浜の市電、大岡川を浚渫している船の向こうを走る京浜急行など貴重な映像が見られる。」(指田文夫)ということで、この「わが恋の旅路」に登場する風景について<大喧伝>したい。
■風景としての横浜
まず お断りしておきます。
ここではあらすじや役者に関しては殆ど触れません。あくまで映像としての横浜の風景に関して紹介します。これもネタバレ?と言われるのか判りませんが、ネタバレでもあります。
(港の風景が中心ではない)
良いですね。横浜を舞台とした映画といえば必ずお決まりの<横浜港>が登場します。『わが恋の旅路』でも当然、横浜港が多く登場しますが、無理がない。港ばかりではなく川の町・丘の町<横浜>を上手に取り混ぜながら描いている点で見応えがあります。普通に横浜を歩きまわれば普通に感じる<横浜感覚>が描かれています。映画監督篠田正浩は、自然に横浜の町を捉えているように私は感じました。
この映画は1961年封切りなので 1950年代の風景が切り取られています。お決まりの横浜港も登場しますが、氷川丸が係留されていない(山下公園)が新鮮に映ります。
※氷川丸は封切りされた1961年に横浜港開港100周年記念事業として係留され当初は「ユースホステル」として使用されました。
(川の町がちょっとカッコよく)
冒頭は鎌倉「大海老」そして横浜に舞台が移り<川の町、運河の町>横浜が登場します。派大岡川 吉田橋から吉田町商店街にある<都南ビル>隣、元河合楽器のあったビル(現在は空き地)に設定された喫茶店が登場。途中から市役所脇の派大岡川に架かっていた「港橋」が重要な場所となっていきます。このシーンでは工事中だった根岸線の橋脚が映っているので要チェックです。1964年(昭和39年)5月19日に桜木町駅〜磯子駅間 (7.5km) が延伸開業。なので、まさに路線工事が始まった頃にロケされたのでしょう。
映画に登場する「横浜タイムス」のあるビルも河辺にあり、記者たちが船で行き来するシーンはこれまでにない新視点です。
船を使って川を往来するシーンは他の作品でも時折登場しますが、殆どが裏社会系の裏ルート的な表現が目立ちます。現実、横浜の町は60年代まで川の町運河の街でした。また現在のくブラフ18番館>あたりから見下ろす派大岡川の輝きも素晴らしい!
(産業基盤としての川)
この映画では1950年代、横浜市内にあった運河、川を利用した産業が見えます。当時大きく<曲がり角>を迎えていた捺染産業の影にも少し触れている点、川沿いの看板から材木業や川の浚渫船の日常風景が写り込んでいます。(病院)
映画では二つの市民病院も登場します。
<市民病院>=浦舟の市大病院そして吉浜橋にある横浜中央病院(地域医療機能推進機構横浜中央病院)です。
<市民病院>は病室ばかりですが、横浜中央病院は全景が映り込み、前を市電が走る風景は、実に貴重な記録映像でもあります。
横浜中央病院は1960年に竣工していますから、映画では完成直後の姿が写っていることになります。
設計は 日本武道館や京都タワーを手がけた山田守(やまだまもる)(1894年4月19日〜1966年6月13日)
晩年の作品の一つで玄関車寄せ、ガラス張りの階段室が特徴的で改修されましたが現存しています。
(商店街)
伊勢佐木町通りの商店街がしっかり写り込んでいます。伊勢ビルの1階部分のテナントとして東京電力だったり、洋品店の様子も判り資料的にも面白いシーンが写っています。ちらっと弘明寺商店街の一部も登場しています。
(公園)
冒頭にも少し触れましたが<氷川丸>の係留されていない山下公園が登場します。またベタベタの横浜風景ではなくさりげなく「パイロット会館」や「大さん橋」周辺が登場することで港町を効果的に見せています。
現在のくブラフ18番館>周辺の公園が、映画ストーリーの鍵となっている点も仕立て方としては横浜の歴史的な物語を良く織り込んでいます。※余談冒頭 鎌倉「大海老」で流れるラジオ放送は<ラジオ関東>で野毛山から発信されていました。今日はここまで。
第895話 【横浜のミニ暗渠】新田間川緑道
横浜市内の小さな(短い)暗渠を紹介します。
今回はわかりやすい「新田間川緑地」です。
「新田間川緑地」は
帷子川支流の新田間川のさらに派川部分が暗渠になっています。
川の名称は運河となると少々面倒ですが、帷子川の派川の一つです。
ここは端から端まで簡単に暗渠探しできます。 起点(上流)は新田間川に架かる「新田間橋」脇の左岸から分岐し「新田間川緑地」の標識が設置されています。途中ビル街の合間を抜け、帷子川分水路出口にある「楠ポンプ場」まで暗渠となっています。ポンプ場の奥は「楠木町公園」、不思議な空間ですのでおヒマな時にお尋ねください。
話はそれますが、下水道局のポンプ場を探すとそこは<暗渠>のシグナルです。吉野町市民プラザ吉野ポンプ場(日枝神社大池)、桜木ポンプ場(桜川)などもかつては水路・池だった場所に設置されています。
もう一つ
新田間川(しんあらたまがわ)は、新田・間・川→新田と新田の間を流れる川という意味で名付けられたそうです。左岸側が岡野新田、右岸が安永新田・弘化新田にあたる場所です。まあ「しんでんあいだがわ」では呼びにくいですね。
この「新田間川緑地」はその昔、横浜駅西口一帯が埋め立てられた時期に排水路も兼ねて運河化しましたので「派新田間川」となりました。現在「北幸」と「鶴屋町」の境が運河で、上を首都高速三ツ沢線が走っています。
この「派新田間川」はある意味、嫌われ川で、何時暗渠化するのか<してほしい>という状況でした。
とは言え何年かに一度の<帷子川氾濫>への対策が求められる中、大規模の<分水路計画>が策定されます。
帷子川の中流部にあたる横浜市旭区白根1丁目付近で帷子川から分水し延長約 5.3kmのトンネルでつなぎ、ドブ川だった 旧派新田間川に接続、横浜駅東口あたりで帷子川本川に合流(総延長約 6.6km)する事業で 1997年(平成9年)に完成することで、死に体の「派新田間川」が生き返りました。
※それでも 帷子川はその後2度氾濫被害にあっていますので、自然は想定できないものだということを記憶しなければなりませんね。
※地図上の表記が「新田間川緑道」となっていますが、正しくは「新田間川緑地」です。訂正が面倒なもんですみません。
関連ブログ
【横浜風景】護岸・誤岸?
第890話【横濱の風景】西之橋からみる風景
ふと気がついた疑問をFacebookにアップしたネタですが、結構反応があり改めて確認してみると面白いのでブログアップします。
昔の絵葉書や地図を少しコレクションしていますが、
絵葉書とマップを比較することはほとんどありませんでした。
今回のテーマは
【中村川】横濱西ノ橋川岸雪ノ景
横濱の冬景色の絵葉書は少なく風情のあるいい風景です。
この絵葉書に関してこれまで
下記のキャプションを用意してきました。
「中村川と堀川そして埋め立てられた派大岡川が交わるあたりを西之橋から見た雪風景です。現在は石川町駅と首都高速が川の上にありこの風景の面影は殆どありません。今の西之橋は大正15年に再建された震災復興橋の一つで画像上流には、中村川に架かる亀之橋が見えます。昔の美しい景色が写る貴重な運河の風景です。」
ここで遠くに見える橋を中村川に架かる「亀之橋」とばかり思い込んでいました。根拠は「横浜絵葉書」関連書籍に同じ風景が収録されていて
説明文では「亀之橋」とあったので検証しなかったからです。
ところが実際「西ノ橋」袂に立ってみるとここから亀之橋を確認することはかなり厳しい角度にあります。
奥に見える高架は根岸線、その奥が 「石川町駅前歩道橋」です。
1960年代に首都高工事で「派大岡川」を埋め立てた際に少し中村川の川筋が変わった可能性もあるので、過去の地図を幾つか探し出してみることにしました。


見えないこともない?色々探してみると 発見したのがもう一つの橋でした。
「亀之橋」と「西之橋」の間にもう一つ橋が架かっている地図があったのです。
現在の根岸線の石川町駅前歩道橋あたりに架かっていたようです。
<ようです>というのは
この謎の橋が表記されていない地図もあったからです。戦前の地図、少なくとも橋に関しては、<謎の橋>が時折現れます。ここにもう一枚、陸軍測量部迅速図明治41年発行「横浜」を拡大しました。陸軍の迅速図の場合、要素が欠けている場合がありますが、余分な情報を付け加えることはありません。西ノ橋と亀之橋の間には橋が確認できます。
さて?
この橋の名は。地図上にも橋梁名が記されていません。
仮に<石川町橋>とでもしておきましょうか。
解明はこれからです。
さらにこの地図から新たなる疑問が。「堀川」ではなく「中村川」になっています。正式に堀川は何時から呼ばれるようになったのでしょうか。(2017.09追記)
また宿題が増えました。
【絵葉書の風景】中華街
この風景を手にした時、最初横浜中華街であるという確証が無かった。昔の横浜中華街を知っている方ならすぐにわかる風景も、初めての者にとっては不明となる。
よくある風景として長崎の風景とも考えられたが、拡大してみて、「山下町」等の文字を確認、横浜中華街の風景であることが確定した。
ただ、時代は戦前であること以外には確証が無い。
風景を読む
中華街大通りの風景。
左手には市会議員をつとめた沼田安蔵が経営していたという中華料理店の平安楼。右手手前のビルは「加賀ビル」でバー、ホルスタインビールの看板も見える。
奥には聘珍楼、左手には萬新楼の看板が確認できる。電信柱には「安楽園」の名も見えるが、この時代の面影は「安楽園」(明治36年創業、平成23年閉店)が最後だったかもしれない。
当時の一般的な看板として「仁丹」「森永牛乳」も確認することができた。
※「holsten beer」の看板
1879年5月24日創業のドイツビール銘柄。現在もある銘柄らしい。
【横浜の風景】元町百段坂を数えてみた!part2
関東大震災まで元町に「百段坂」がありました。
以前このブログで、
「百段坂」は俗称で実は?101段である。
実際元町百段坂を数えてみました
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9211
結果
やはり101段だろう という結論におぼろげながら達しました。
まあ「101段坂」よりはすっぱり「百段坂」が良いでしょうね。
今回
画像に不明な点もあったので新しい画像を元に
再度「百段カウント」に挑戦してみました。
元になった写真
これを拡大し階段を一つ一つ確認していくと
出てきた不明点があります。
(第一の不明点)
最初の一段はどこだ?
階段の始まり、小学生とおぼしき少年と愛犬らしき動物の後に段差があるように思えます。スロープににも見えますが、段にも。
ここは0段、グランドフロアみたいなものか?
以前Part1に使用した写真の0段付近を拡大してみることに。
段差があるようなないような。あるといえばある。
ただ、
Part1は明治初期(電信柱も電力柱も無い頃)と思われるので、階段下は整備されてまもなくのころで<登る人>も少なかったのではないか。
Part2の写真では30個の碍子「電信柱」が写っていますので明治中期以降だろうろ推理できます。
(第二の不明点)
ちょうど90段目あたりの段差が確認しにくいのですが、高くなればなるほど段差は狭く見えるはずなので91段目をカウントしました。
【結論】
結論はやはり101段が正解のようです。
なんだ! ということですが、百段坂の時代変化も少し確認できたので<良し>としておきます。
第886話【横浜の記念式典】復興記念横浜大博覧会
■復興記念横浜大博覧会
◎開催期間:
1935年(昭和10年)3月26日から5月24日
◎開催会場:
山下公園を含む山下町一帯(約10万平方メートル)
◎開催内容:
「大正12年の関東大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、山下公園約10万平方メートルを会場に開催した。風光の明媚と情緒随一の山下公園には、1号館から5号館まで各県と団体が出展、付設館として近代科学館、復興館、開港記念館のほか、正面に飛行機と戦車を描いた陸軍館と、1万トン級の巡洋艦を模した海軍国防館が作られ、館内に近代戦のパノラマがつくられ、戦時色の濃い内容であった。特設館は神奈川館のほか満州、台湾、朝鮮などが出展。娯楽施設は真珠採りの海女館、水族館、子供の国などがあり、外国余興場ではアメリカン・ロデオは、カーボーイの馬の曲乗りと投げ縄や、オートバイサーカスなどの妙技を見せ喝采を浴びた。この博覧会は百万円博といわれた。(乃村工芸)」
◎来場者数:
のべ3,299,000人
二ヶ月で約330万人が入場という記録がありますが、「山下公園一帯」に60日、一日あたり5万人以上の入場者があったということです。あくまで平均です。
新聞記事を探って、一日の入場者の動きを追いかけてみました。
3月26日(水)から5月24日(金)という曜日は土日を加味していませんね。
3月26日(水)から3月31日(日)62,340人
4月7日(日) 一日入場者65,000人
4月14日(日) 一日入場者75,043人
4月21日(日) 一日入場者78,000人
〜4月23日(火) 累計75万人を突破
〜4月29日(月) 昭和天皇誕生日(天長節)に累計100万人達成
5月1日(水) 一日入場者118,500人
5月2日(木) 一日入場者3万余人
5月5日(日) 一日入場者20万人突破
累計1,423,527人に。
5月7日(火) 午後一時延べ入場者150万人達成
5月19日(水) 一日入場者30万人
累計2,279,377人
最終結果
5月24日(金)
累計3,299,000人となっています。
実に残り5日間で100万人が入場ということですから、驚きです。
横濱市も予想を超える入場者に驚きを隠せない様子が報道資料からも読み取れます。

◎関連ブログ
第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント
(復興記念)
一概に比較できませんが、1923年(大正12年)に起こった関東大震災から12年後にこの「復興記念横浜大博覧会」が行われました。
<震災復復興宣言>は震災後7年目に行われます。
亡くなられた方に対し七回忌のタイミングに合わせたのか判りませんが、
内務省と東京府、東京市は1930年(昭和5年)3月に終結宣言し、横浜市は復興記念の日を4月23日と宣言し「復興記念祭」を開催することになります。
この時、昭和天皇からは
「お祭り騒ぎにならぬやう」と釘を刺されたそうです。
横濱では市役所、公立学校を休みとし、横浜公園他で式典が行われました。
東北の<復興宣言>は何時になるのでしょうか。
■まだまだ読み込んでいない興味ある資料があります。
横浜で開催された戦前最大級の<博覧会>ここで実施された<関連事業><関連イベント>を通して、四年後にこの国が開戦に至る歴史の<隘路>の断片が見えてくるように思います。
このテーマさらに追いかけます。
第885話【横浜の橋】都ぞ春
開港時から明治期にかけて、横浜開港場界隈に架かる<橋>数数あるなか
知名度なら「吉田橋(派大岡川)」でしょう。
明治初期、開港場付近の橋といえば?
辨天橋・大江橋・前田橋・西之橋・谷戸橋・湊橋・豊国橋 他
居留地と外を結ぶ<関門橋>があり、多くが現存(架替えていますが)しています。
中でも吉田橋は、関内外を結ぶ橋として一際注目されてきました。
横浜の重要な道を繋ぐという視点で<橋>を眺めてみると
「都橋」が横浜発展の要となっていたことに気がつきます。
「都橋」は
1872年(明治5年)7月
「野毛町一丁目往還北側茅屋を毀ち、道路を改修し、野毛橋を毀ち、更に北方へ凡そ三間位置を換へ、橋台を築造し、無杭木橋に改造し、都橋と改称す同月野毛橋の古材を太田村に移し、以て栄橋を架す。」
開港時「野毛橋」と称していました。
東海道から帷子川の越え、野毛坂を越え「野毛村」と突貫工事で切り開いた開港の道(横浜道)は「野毛橋」で大岡川を越え吉田橋関門へとつながる重要な橋の一つでした。
この「野毛橋」の架かる一帯の整備が行われ、
道路を改修、新しい橋に架け替えられます。
この時に、名称を「都橋(みやこはし)」と一新するのですが、
なぜ「みやこはし」となったのか?
オツな話が伝えられています。
古今和歌集56番
「見わたせば
柳桜をこきまぜて
都ぞ春の錦なりける」素性法師
“ここから眺めてみると、
柳の緑と桜の色とが混ざり合って、
都が春の錦のようであることよ”
といった美しい春の風景を詠っています。
見渡せばとあるので 何処か高いところから見下して詠ったものですので
野毛に置き換えれば<野毛山>からの眺めと重ねたのかもしれません。
実は
「見わたせば柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける」の
歌中にある<柳><錦>から
都橋下流の大岡川と派大岡川、桜木川(桜川)と川の十字路となっていたところに
「柳橋」と「錦橋」が架かっています。さらに明治初頭には「桜橋」が川の十字路を囲むように架かっていました。
この3つの橋と桜木川をかけて
ちょうどよい歌を引用し「都」橋と名付けたそうです。
鉄製のアーチ橋
現在の「都橋」
#大岡川の橋
第884話【今日の横浜】4月2日リベンジ横浜!
万治2年2月11日(1659年4月2日)
横浜の原点となった「吉田新田」の第二回鍬入れ(再開)の日です。 旧暦では2月11日ですが、ここではネタ用に西暦を使わせていただきます。
実は 吉田新田干拓計画はさかのぼるところ
1656年9月5日
明暦2年7月17日に江戸の吉田勘兵衛が江戸幕府から、埋立て・新田開発の許可を得て、入海の新田づくり鍬入れ式を行います。
ところが
1657年6月21日
明暦3年5月10日に新田工事の最中、13日まで大雨が降り続き
6月24日に潮除堤が崩壊し干拓工事事態が中止に追い込まれます。
これに屈すること無く、吉田勘兵衛は新田開発再開を決意、
万治2年2月11日(1659年4月2日)に
再開の鍬入れが行われました。この再開の決意がなければ現在の横浜はどうなっていたのでしょうか?
様々な想像ができます・
ただ、大岡川の隣を流れる帷子川に見られるように 大岡川河口もしばらくして複数の干拓事業が行われたでしょう。地権者が増えることによって このエリアの発展がスムースに進んだか? その後も沼地のままになったかもしれません。
今年は、「吉田新田完成350年」にあたります。
一人の事業者によっていち早くこの一帯が整備された意義は大きいのでないでしょうか。
吉田新田事業「土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島」から持ってきたそうです。
(吉田新田前史)
今から約350年以前の横浜エリアは、山手から砂嘴が突き出し、その内側には大岡川の河口から釣鐘形をした深い入り海が広がっていました。
このくちばしのような<砂嘴>の突先に 弁天様が祀られ
洲干弁天と称しました。 1170年代、12世紀の治承年間 源頼朝が伊豆国土肥(現・静岡県伊豆市)から勧進したと伝えられています。以降、850年近く経ちます。
■枕詞を疑え!!
少々余談となりますが、横浜史の枕詞(まくらことば)に
「入江の砂州上の寒村であった横浜村の更に先端にあり」
「戸数約100戸の半農半漁の寒村・横浜村(今の関内地区)」
と決まってペリー来航以前を<寒村>をしますが、
私は違和感を感じます。ここが<寒村>とするなら 日本中の豊かな村とはどんな村なのか?問いたい!
国語辞典にも「かん‐そん【寒村】 の意味 貧しい村。さびれた村。」
「洲干弁天社は開港前から景勝地として知られ、開港後は開港場の中心をなす横浜町の入口に位置することから、横浜名所の一つとなり、茶屋などが集まった。(開港資料館)」
と近年 横浜村周辺の表現が変わりつつあります。
→横浜村風光明媚論は追って書きます。
<簡単横浜の新田史>
1640年代(慶安年間)には元町1丁目の増徳院が別当となります。
1656年(明暦2年)吉田勘兵衛、江戸幕府から、埋立て・新田開発の許可を得ます。
1656年(9月5日)(明暦2年7月17日)吉田新田 鍬入れ式が行われます。
1657年(6月21日))明暦3年5月10日)から13日(6月24日)まで大雨で潮除堤が崩壊
★1659年4月2日(万治2年2月11日)
吉田新田 工事を開始 土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島から
1667年(寛文7年)吉田新田 完成
1669年(寛文9年)功績を称え新田名を吉田新田と改称
1674年(延宝2年)公式の検地、新田村となった。
1707年(宝永4年)宝永大地震の49日後に、富士山が中腹から大噴火
1761年(宝暦11年)検地を受け宝暦新田(大新田)<干拓洲>となる。
1779年(安永8年)検地を受け尾張屋新田<2町7反>となる。
1780年(安永9年11月)検地を受け安永新田<干拓洲>となる。
1817年(文化14年)検地を受け藤江新田となる。
1818年(文化15年)「横浜新田」の名が初見(完成は?)。
1830年(天保年間)程ヶ谷宿の豪商 平沼家と岡野家が大規模な埋め立てを開始。
1833年(天保4年)岡野新田鍬入れ
1839年(天保10年)検地を受け岡野新田となる。
1845年(弘化2年9月)検地を受け弘化新田となる。
1853年(嘉永6年)「太田屋新田」完成。
1854年 3月8日(嘉永7年)アメリカ海軍提督ペリーが黒船を率いて日本へ2度目の来航をし、横浜村へ上陸する。
1859年11月10日(安政6年)太田屋新田沼地を埋め立てて港崎町を起立し、港崎遊郭開業。
1859年6月2日(安政6年)横浜港が開港する。久良岐郡横浜村が「横浜町」と改称。運上所周辺には駒形町が、太田屋新田の横浜町隣接地には太田町
1864年(元治元年11月)野毛山下海岸を埋立て石炭倉庫6棟竣工。
1864年(元治元年)さらに検地を受け岡野新田拡大。
1867年(慶応3年)慶応の大火事の復興工事、町は和風から洋風への建て替えが始まり、石造りの洋風2階建ての「神奈川奉行所」完成。それを期に「横浜役所」へ名称変更。馬車道が開通する。
1868年8月(慶応4年)横浜町と太田町をあわせて二地区(上町・下町)に分け、5名の名主が担当した。
1869年(明治2年)洲干弁天社が移転。
1869年(明治2年3月)花咲町6丁目の内田清七、福島長兵衛ら県より請負い吉田橋北詰より野毛浦までの埋立てに着手。
1870年(明治3年)町屋の整った地域に長者町・福富町の二町が起立。
1871年7月(明治4年)横浜町と太田町の区域に正式に町名を付ける。本町・南仲通・北仲通・弁天通・元浜町・海岸通・堺町・太田町・小宝町・相生町・高砂町・住吉町・常盤町・尾上町・真砂町・港町・駒形町・羽衣町
1871年8月(明治4年)横浜関内各町を五区に分け、各々1名の名主が担当する。
1872年11月28日(明治5年)横浜役所は「横浜税関」へ名称変更。
1873年(明治6年)南一ツ目にあった遊水池(沼地)埋め立て、寿町ほか7か町が起立(埋地7か町)。
1873年5月1日(明治6年)神奈川県を20区に分け、区下に複数の番組を編成。横浜町は第1区1番組に編入される。
1873年5月1日(明治6年)平沼新田のうち、横浜道沿いの町屋が形成されていた箇所に平沼町が起立する。大区小区制により神奈川県第1大区3小区に属した。
1874年6月14日(明治7年)大区小区制に伴い、第1大区1小区に編入される。この頃伊勢佐木町ほか数町が起立
1874年8月1日(明治7年)堀割川開削完了。中村・大岡・吉田の各川に航路が開通。
1876年(明治9年)洋式の公園「横浜公園」が開園。
1878年(明治11年)郡区町村編制法により以前の新田村が復活し、久良岐郡平沼新田、橘樹郡岡野新田に戻るが、平沼町は横浜区に編入された。(久良岐郡より独立)
1878年11月21日(明治11年)郡区町村編制法に基づき、横浜区となる。(久良岐郡から分離)
1878年7月(明治11年)市街地化した南三ツ目・北四ツ目までが横浜区に編入
1880年(明治13年)南三ツ目に高島町遊廓が移転
1889年(明治22年)市制町村制が施行され、平沼新田は久良岐郡戸太村に、岡野新田は橘樹郡保土ヶ谷村に、平沼町は横浜市にそれぞれ編入される。
1889年(4月1日)明治22年 市制施行により関内全域が横浜市となる。久良岐郡吉田新田から久良岐郡戸太村大字吉田新田となる。
1894年(明治27年)横浜港鉄桟橋(現:大さん橋)が完成する。
1895年(7月1日)明治28年 町制施行により久良岐郡戸太町大字吉田新田に。
1901年(明治34年)戸太町(戸太村が町制を施行)と保土ケ谷町の一部が横浜市に編入され、西平沼町と岡野町が置かれる。
1901年4月1日(明治34年)横浜市に編入。大字吉田新田の地に南吉田町を起立。全域が市街地となる。
■ざくっと一覧にして
関内外エリアがあらためて 埋立ての町=運河の町であることがわかります。
No.701 運河の街誕生(序章)
番外編ですが
堀割川の話です。ちょっと力作(自分的には)
No.437 横浜ドラゴンズ、吉田さんに斬られる!