No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)
元米国18代大統領ユリシーズ・グラント一行は、
1879年(明治12年)9月3日(水)の今日、
横浜港からPacific Mail Steamship Companyの蒸気船「City of Tokyo」号に乗り母国に向け出港しました。
2年と4ヶ月の長い旅の中で、グラントの日本滞在は
若き日本の指導者にとって
“まことに小さな国が開化期を迎える”力となった出会いでした。
元米国18代大統領ユリシーズ・グラント(1822年4月27日〜1885年7月23日)は、歴代米国大統領の中では周囲の汚職スキャンダルに悩まされ低評価でしたが
軍人として南北戦争を戦い最終的に北軍に勝利をもたらした偉大な司令官(将軍)として後世に名を残します。
グラントは二期大統領を務めた後、三選を諦め世界一周の旅に出ます。
イギリスを皮切りにヨーロッパ諸国を歴訪、さらにエジプト、インド、シンガポール、タイ、清を経て最後の訪問地が日本でした。
簡単にグラント将軍の日本での行動を紹介します。
1879年(明治12年)6月長崎到着。
日本側から伊達 宗城伯爵が出迎え、接遇担当としてグラントの信頼を得ていた駐米公使 吉田 清成を米国から呼び戻しました。
当時、5代目にあたる駐日公使ジョン・ビンガムも彼の到着を待ちわびていました。
ビンガムはかつてアメリカ議会で共に共和党議員として活躍した仲間でした。
6日間の歓迎行事を終え、次の寄港地は神戸を予定していましたが関西圏で発生した「虎列刺」(コレラ)が大流行の兆しを見せます。
ビンガムは神戸寄港を中止させますが、接遇担当の吉田 清成がサプライズメニューを用意します。
長崎港を出たグラント一行は、7月2日に静岡の清水港で漁師達の投網漁のパフォーマンスを見て短時間ですが上陸します。このサプライズにグラントは感激します。このパフォーマンスを担当したのが山本長五郎、清水次郎長でした。この“仕立て”には米国に渡った咸臨丸・咸臨丸を攻撃した米国製の蒸気戦艦富士山丸、それを斡旋した米国公使プルインのエピソードがあり、グラントはおそらくパフォーマンスの背景を聞いて大声を挙げて笑ったに違いありません。(別掲予定)
静岡で楽しんだグラント一行は、7月3日に横浜港に到着し大歓迎を受けます。
出迎えた日本側の要人は、岩倉具視、伊藤博文、寺島宗則ら当時の政府側最高幹部達でした。
横浜に到着した彼らは汽車で移動し新橋に向かいます。
新橋駅では、岩倉遣米使節団の一員だった福地源一郎が歓迎の辞を伝えます。
翌日の7月4日、御所での天皇謁見が用意され、訓練された儀仗兵がアメリカ合衆国の初代国歌である「コロンビアをよぶ」で出迎えました。
Hail Columbia
http://www.youtube.com/watch?v=WoSsjfHHhKs
http://www.youtube.com/watch?v=FyIqvZSuptk
1879年(明治12年)7月4日は、103年目のアメリカ独立記念日にあたり、若き明治天皇は
「今日ハ貴国独立ノ期日ニ当リ候ヨシ此日ニ於テ初面会ヲ遂げ右ノ歓ヲ申候ハ別テ目出度事ニ存候」と述べます。
謁見後、夜には上野精養軒で東京在住のアメリカ人による歓迎レセプション
8日には東京府民主催の歓迎夜会(工部大学校)16日 新富座で観劇会8月1日 横浜居留地外国人主催夜会(山手公園)5日 渋沢栄一主催の晩餐会(飛鳥山)25日 上野公園に明治天皇臨席のもと歓迎会26日 横浜駐在アメリカ総領事主催夜会(渋沢栄一資料から)
渋沢関連の民間財界側の歓迎プログラムだけでもこれだけ行われました。
政府公式行事も続きます。
日光では、精力的に日本政府代表と琉球の領有をめぐる日清間の対立問題ほか国際情勢について意見を交わします。
特に明治天皇のグラントへの信頼関係は強く、8月10日の天皇・グラント会談は
後の日本の方向を占う重要なアドバイスでした。
“老獪な英国”と共に南北戦争を戦ったグラント将軍、
英国嫌いの駐日公使ヒンガムの正義感、
なんとか南北分裂を避けることができたアメリカのピュアな時代に、
日本のキーマン達は出会ったのです。
(後編に続く)
No.246 9月2日(日)90年後の横浜(加筆修正)
1945年(昭和20年)9月2日(日)は?
多くの日本人はピンとこない日かもしれません。
今日は、横浜沖で日本が降伏調印を行い“停戦”が成立した日です。
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戦艦ミズーリ上の日本代表団 |
終戦の日は?と尋ねると、
日本人は1945年8月15日(水)と答えますが、
アメリカ人は9月2日と答えます。
確かにあのポツダム宣言を受け入れる玉音放送があらゆるドラマやドキュメンタリーの素材に使われてきましたから、私たちにとって8月15日は特別な意味だと知らされてきました。
しかし、現実に休戦条約に調印するまでの半月の間に“戦闘”は一部で起っていましたし戦死した人たちもいたことを忘れてはならないでしょう。
1945年(昭和20年)年9月2日(日)
日本の代表団として重光葵外相以下9名は
横浜港からアメリカ艦船に乗り“あるポイント“に停泊している
ミズーリ戦艦に向かいました。
※マシュー・ペリーが横浜沖に係留したポイントです。
降伏調印式は午前9時頃から始まり、数分後には降伏文書の署名も終了予定でした。
■日本側全権 重光葵外相、梅津美治郎参謀総長
■連合国側 アメリカ、中国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの9カ国。
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調印文書 |
この調印で、1939年(昭和14年)9月1日(金)ドイツのポーランド侵攻に始まった第二次世界大戦が約6年で終了します。
日本にとっては1941年(昭和16年)12月8日(月)から3年10ヶ月の時が流れました。
調印式の時、すでに横浜に進駐していたGHQのマッカーサーは、あからさまに勝利者としての演出に凝ります。
その象徴が米国国旗の掲揚でした。
マッカーサーが、ポケットに手をつっこんだまま調印式に参加する背後には、二枚のアメリカ国旗が掲揚されていました。
1枚は5年前、真珠湾攻撃時にホワイトハウスに飾られていた物で、
もう1枚は90年前の1853年、
ペリー提督の旗艦「ポーハタン号」が浦賀来航の際に掲げていた物でした。
さらに、調印が行われた戦艦ミズーリの停泊位置は、まさに1853年ポーハタン号が停泊していたあたりにしたのは“第二の開国”をかなり意識したのでしょう。
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1853年当時の星条旗 |
歴史の皮肉でしょうか?
ペリーもシンガポールから中国、沖縄を経て横浜に入りますが、
マッカーサーのアメリカ軍も同じようなルートをたどり横浜に達します。
調印式は 味気なく終了する予定でした。
マッカーサーの数分の演説を除いては。
一般的に調印文書は正副2通作成されます。
この降伏文書も各調印者は2枚の文書にそれぞれ署名をします。
ところが片方の調印文書にカナダ代表コスグレーブ大佐が署名する際、自国の署名欄ではなく1段飛ばしたフランス代表団の欄に署名してしまいます。
次の代表であるフランスのルクレール大将は(これに気づかず)オランダ代表の欄に署名し、 続くオランダのヘルフリッヒ大将は間違いを指摘しますが、マッカーサーはそのまま調印を続けろと指示します。
ヘルフリッヒ大将は渋々ニュージーランド代表の欄に署名し、最後の署名者であるニュージーランドのイシット少将もアメリカ側の指示に従い欄外に署名することとなり、
カナダ代表の欄が空欄となった調印文書ができあがります。
この不備?な方が日本側に渡されたそうです。
ところがオランダ代表のヘルフリッヒ大将がこの不備を終戦連絡中央事務局長官で日本側代表団の岡崎勝男に伝えます。日本代表の重光に伝え各国代表の署名し直しを求めます。連合国側(米国)が拒否、押し問答がありましたが最終的に
サザーランド中将が間違った4カ国の署名欄を訂正して日本に渡します。
(上掲の写真は正本だそうです)
ここでしっかり異議を唱えなかったら 屈辱的調印書が残ったことになります。
岡崎 勝男
1945 年(昭和20 年)8 月26 日
連合国軍最高司令官より示された中央連絡機関設置の要求に応じて、外務省外局に終戦連絡中央事務局が設置されました。その長官となったのが終戦時外務省調査局長だった岡崎 勝男です。岡崎は横浜生まれ、スポーツマンで1924年(大正13年)のパリオリンピックに陸上競技代表として参加しています。(成績は途中棄権)
開港時、ペリーと交渉に当たった林復斎(大学頭)とは交渉背景が全く異なりますが、この敗戦の調印書の不備を交渉できる冷静さで
その後マッカーサー命令と対等な交渉を行った岡崎 勝男のエピソードを紹介しておきましょう。
3月3日 日本初の外交交渉横浜で実る→“林復斎”
この日の午後、事態が急変します。
GHQは日本政府に対し「明日(9月3日)に三布告を発表し、明日から「軍政」を始める」と通告します。
wikiより一部編集
「ミズーリ号艦上での式典が終わって数時間後の午後4時過ぎ、終戦連絡委員会の鈴木九萬公使はGHQのマーシャル参謀次長より、翌9月3日に告示する予定の「三布告」について告げられた。
その内容は
布告第一号:
立法・行政・司法の三権は、いずれもマッカーサーの権力の管理下に置かれ、管理制限が解かれるまでの間は、日本国の公用語を英語とする。
布告第二号:
日本の司法権はGHQに属し、降伏文書条項およびGHQからの布告および指令に反した者は軍事裁判にかけられ、死刑またはその他の罪に処せられる。
布告第三号:
日本円を廃し、B円と呼ばれる軍票を日本国の法定通貨とする。
の各布告から成っていた。
完全な直接軍政である。
知らせを受けた外務省はすぐに岡崎 勝男を横浜のホテルニューグランド(占領当初のGHQは現在の横浜税関に置かれた)に派遣し、2日深夜マーシャルに面会の上三布告の公布差し止めを要請、同意取り付けに成功した。翌日には重光外相とマッカーサーの会見により、間接統治の方向で妥結をみた。なぜGHQ側が簡単に布告案を撤回したかについては良くわかっていない。日本側の出方を探るためではなかったかと言われている。」
重光外相の交渉成功、岡崎 勝男の直談判なしに、今の日本はありえないといわれています。
今ごろ英語を話し、ドルを使っていたかもしれません。
「三布告」は占領軍(米軍)が、その国の政治・経済・司法制度をすべて変えることを宣言するもので国際的にも考えられない布告であったのですが、Wikiに書かれているようにマッカーサーのスタンドプレイだったかもしれません。(だったようです)
1945年(昭和20年)9月2日(日)の今日、
横浜沖とホテルニューグランドの一室で
日本の運命が決まるドラマが起っていたのですね。
No.243 8月30日 (木)横浜の一番長い日
その後
1951年(昭和26年)9月8日(土)に署名されたサンフランシスコ条約で日本はようやく戦争状態を停戦から終結になりますが、この時すでに始まっていた冷戦状態を受け
ソ連と中華民国が調印に不参加となり問題が先送りされます。
この時に締結された条文を巡って
今 竹島 尖閣 北方四島が領土問題として現在まで引きずる結果となります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本国との平和条約
この重要な交渉を成功させた岡崎は
吉田茂の側近として政界に進出します。
1949年(昭和24年)1月23日
第24回衆議院議員総選挙で旧神奈川県第3区から民主自由党公認で出馬し
43,818票を獲得しトップ当選します。3期当選しますが
吉田茂退陣の影響を受け
1955年(昭和30年)第27回衆議院議員総選挙で敗北
1963年(昭和38年)第30回衆議院議員総選挙に自由民主党から出馬
次点落選し政界を引退しますが外交では国連大使を務めました。
No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる
今日は防災の日。
改めて東日本大震災で亡くなられた方のご冥福と被災された方々へのお見舞いを改めて申し上げます。
1923年(大正12年)9月1日の今日、関東大地震が起りました。多くの命を奪い国家と都市の運命も大きく変えた大災害でした。今改めて関東大震災も検証しておくべき歴史的事実です。
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ほぼ中心市街地全てが焼失しました。 |
今日をテーマにするにあたり、改めて多くの資料に出会いました。若干防災には関心が高い自分だと“自負”していましたが、災害の持つ現実の厳しさに「地震は忘れなくてもやってくる」ことを再認識させられました。
近年、関東大震災は巨大な揺れが三度発生した「三つ子地震」であることが判ってきました。
1923年(大正12年)9月1日11時58分 M7.9規模引き続き12時01分にM7.2さらに12時03分 M7.3の揺れが発生します。相模湾北部を震源とする海溝型の巨大地震が起りました。
被災規模
死者:10万5千余人
住家全潰:10万9千余棟
半潰:10万2千余棟
(死者数は142,807人ともいわれ、不明な点も多い)
焼失:21万2千余棟(全半潰後の焼失を含む)
地震の直接被害は震源に近い神奈川の相模湾をのぞむ地域、横浜・小田原・国府津・大磯・茅ヶ崎・鎌倉・房総の千葉(特に那古・船形・北条・館山)が甚大で、沿岸部の木造家屋30%が一瞬で倒壊、震源近くの地域では70%以上の倒壊率でした。
(横浜では)
ここでは横浜、神奈川にテーマを絞らせていただきます。
関東大震災後、横浜市はいち早く新聞を出します。
正しい情報発信が求められていたからです。
関東大震災は流言飛語という別の被害も甚大なものでした。
(このテーマは別途 取り上げるに十分なものです)
そして昭和に入り復興計画が進む中、膨大な震災の記録を残しています。
『横浜市震災誌』全五冊 横浜市役所
1926年(昭和元)4月〜1927年(昭和2)12月
これらの資料は全て下記から入手できます。一読をお勧めします。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/library/shinsai/
投げかけたいテーマ
■横浜市はなぜ?
このような詳細な震災報告書を総力をあげて作成したのでしょうか?
このブログのために資料を読んでいた中でも出てきた疑問です。
横浜地域にとって、この震災は重要なターニングポイントでした。
横浜史を知る上での「開港」「震災」「戦災」「進駐」という4つのターニングポイントの一つでもありました。
(震災記録から)
被災後の様子が様々な資料から見えてきます。
この小さなスペースで紹介できる範囲を遥かに超えています。ぜひ
http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/library/shinsai/
をご覧ください。
■ピックアップポイント
横浜市の動きだけ 簡単に
9月1日・横浜公園に市役所仮事務所設置
9月2日・横浜公園で食糧配給開始
9月3日・中央職業紹介所(桜木町)に市役所仮事務所を移設
横浜公園は市役所出張所とする
9月6日・十全仮病院(野毛山)開院
9月11日・市役所仮事務所にて市会開会
横浜市発行の「横浜市日報」発刊
→震災後2週間で水道が復旧しはじめます。
(主な避難所状況 9月7日時点)
①お三ノ宮・日枝小学校 約3,000人
②掃部山公園 約3,000人
③県立第一中学校 約2,000人
④中村町字中村 約2,000人
⑤横浜商業学校 約1,200人
⑥北方早苗幼稚園 約1,200人
⑦県立高等女学校 約1,200人
⑧横浜公園 約1,100人
⑨根岸競馬場 約1,100人
⑩稲荷台小学校 約1,100人
⑪中村町字西 約1,000人
(海からの救援)
震災当時、横浜港に停泊していた多くの船舶が救済の重要な役割を果たします。
被災者の治療、物資の搬送等はもちろん
例えば日本郵船の「三島丸」には12日〜28日まで横浜税関の仮事務所が、14日〜29日まで神奈川県港務部の仮事務所を設置し事務の復旧にあたります。
■外国からの支援
アメリカ海軍省は9月2日夜の時点でアジア艦隊司令長官に対し艦隊を日本へ派遣するよう命じ5日には軍の貯蔵品や医療機械、薬品などを搭載した駆逐艦4隻が救護人員とともに横浜港へ入港し救済にあたります。
以後、救援物資を載せた軍艦、民間の多くの商船が入港し、乗組員による陸揚作業も行われました。
20日にはアメリカ陸軍野戦病院の救護班が到着、新山下町埋立地に病院を建設します。国籍を問わず多くの傷病者の治療にあたります。この病院施設はその後日本に寄付されます。(後日談もありますのでどこかで紹介します)
イギリス海軍省は、9月5日、10日、20日に軍艦が横浜港に入港し 米、毛布、薬品、衛生材料などの救援物資を(駐留中の支那艦隊が)中国から運び入れます。
フランス政府は、東洋艦隊がに食糧・衛生材料などを積み込み、横浜港へ派遣し9月7日に入港します。米3トンと麦粉10トンが横浜市民に配布されます。
イタリアは、9月9日に横浜港へ入港し米と衛生材料を寄贈します。
中華民国からは、救護班が横浜入りし、新山下町、山下町、本牧、八幡橋を拠点に巡回治療を行います。
残念なことに、ソ連より来航したレーニン号は治安維持を理由に入港を拒否し退去します。
(さいごに特筆しておきたいこと)
鶴見警察署長・大川常吉さんの話
多くの人々が、震災後復興に尽力を尽しますが残念なことに一部流言飛語による悲劇が起ります。災害と流言飛語・デマに関しては311でも起っています。
※参考文献
荻上 チキ『検証 東日本大震災の流言・デマ』(光文社新書、2011)
中でも、新聞と電報が中心だったメディアの麻痺がデマの流布につながりました。
「東京(関東)全域が壊滅・水没」
「津波、赤城山麓にまで達する」
「政府首脳の全滅」
「伊豆諸島の大噴火による消滅」
「三浦半島の陥没」など 事実に反するデマが流れます。
これらの情報に混じり「朝鮮人が暴徒化した」「朝鮮人が井戸に毒を入れ、また放火して回っている」といった流言飛語から端を発し、新聞にまで報道されるに及びます。9月2日から9月6日にかけ、大阪朝日新聞、東京日日新聞、河北新聞等で根拠の無い情報が報じられ、リンチ事件が多発します。
このような状況下、当時鶴見警察署長だった大川常吉がデマに動揺した地域住民の朝鮮人等300人に対するリンチを防ぐために保護、約1,000人の群衆に対峙
「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返します。
「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干しパニックを鎮めたという事件があります。
この事実を記録した「記念碑」が潮田三丁目の東漸寺に建てられています。任務とはいえ、身を挺した保護は震災直後の混乱時 大川さんの人間性を推察できる良い話しです。
これは個人的美談ですが、今後私たちはいかに正確な情報を入手し、また逆に「デマ」と戦うか?
災害時に関わらず 日常生活のメディアリテラシーの大切さを考えさえられます。
No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命
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横浜上空のツェッペリン伯爵号 |
(LZ-127号)
飛行船『ツェッペリン伯号(はくごう)』はドイツのツェッペリン社によって開発された当時最先端技術を集めた大型旅客硬式飛行船の船名です。
飛行船による大航海の時代は、1900年に始まり
このツェッペリン伯爵号の世界一周でピークに達します。
1937年(昭和12年)のレークハーストで起きた世界最大飛行船ヒンデンブルク号の爆発炎上事故で死者36人を出す事によって終りを告げます。緊迫した大戦前夜の悲劇ともいえる事故でしたが、1920年代から1930年代にかけてアメリカ、イギリス、イタリアおよびソ連でも盛んに製造されました。
一般的に飛行船をツェッペリンと称することが多かったようですが
ツェッペリン社製の飛行船はLZ-126号とLZ-127号、LZ130号に代表される数隻に過ぎません。
あまりにツェッペリンのインパクトが強かったため当時の一般名詞となったそうです。
(飛行船の時代)
日本にツェッペリンが飛来した1929年(昭和4年)8月は米国に始まるウォール街の大暴落直前の好景気に酔っていた時代です。
一次大戦で債務国から債権国となり覇権国家に躍り出たアメリカ。
逆に敗戦国の債務に苦しみファシズムが台頭するドイツ。
未知の共産政権ソビエトの登場。
そして日本は 関東大震災の復興に苦しんでいました。
中でも横浜は東京に集中した首都復興政策に取り残されそうになっていた時でした。
(ツェッペリン伯爵の夢)
飛行船は、フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵が生涯をかけて開発した硬式飛行船の一種で、世界の飛行船製造のスタンダードモデルとなりました。このツェッペリンモデルを実業化したのが「グラーフ・ツェッペリン」で、建造資金はドイツ国内の義援金やドイツ政府の資金拠出金によって集められました。
そして、LZ-127号を使った世界一周のメインスポンサーがWilliam Randolph Hearst、新聞王となりイエロー・ジャーナリズムで帝国を築いた人物です。
不景気に悩むドイツの技術力をアメリカが買ったのです。
正確には、アメリカのハースト新聞社が必要経費の約半分、残りをドイツ、フランス、日本など世界の新聞社が資金提供したメディア船でした。
定員20名の乗客の中には各国政府代表、富豪、メディア関係者、そして2名の日本人記者と軍人(日本政府代表)の3名が乗り込み、ハースト新聞社からはカメラマンと
紅一点のグレース・ドラモンド・ヘイ女史が乗り込みました。

(飛行ルート)
■出発地はツェッペリン社のある南ドイツのフリードリッヒスハーフェン(Friedrichshafen)から一度ニュージャージー州レイクハーストまで飛行し世界一周の出発地とします。(レイクハーストを発着点にすることが資金提供条件)
http://ja.wikipedia.org/wiki/フリードリヒスハーフェン
ソビエト上空を横断し、シベリアから樺太に入り、日本へ。
霞ヶ浦に着陸(唯一の中継地点)し、アラスカ経由でロサンゼルス、東海岸のハースト湖まで飛行しました。
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おおよそのルート |
※ちなみに茨城県土浦市とフリードリヒスハーフェンは姉妹都市です。
(日本国内ルート)
1929年(昭和4年)8月19日の早朝、
北海道寿都町(すっつちょう)上空から日本列島を南下、着陸地霞ヶ浦を確認し、東京の千住から隅田川、東京港上空を経て品川から山手線に沿って渋谷、新宿、池袋を通って再び千住へと皇居外周部を回り、霞ヶ浦に着陸する予定でした。
ツェッペリン伯爵号の飛行ルートとしては、破格のサービスのようにも思えます。
他の国々はさらーっと通過しているにも関わらず、ツェッペリン伯爵号は、北海道から横浜まで、じっくりその容姿を日本国民に見せつけます。
『君はツェッペリンを見たか』が合い言葉になったそうです。
ツェッペリン伯爵号は乗員65名(乗客20数名を含む)で、全長236.6m、最大直径30mの空に浮かぶ巨体です。
池袋のサンシャイン60の高さが地上239.7mですからその大きさのすごさを簡単に想像できます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/サンシャイン60
着陸地、霞ヶ浦には東京から臨時便の列車も出て当時30万人もの人出でした。
(進路変更)
実際にツェッペリン伯爵号は隅田川上空から急に予定進路を変えます。
清州橋から機首を都心(皇居方向)に向け東京駅、皇居の一部をかすめ(国会でもめますが、関係国との配慮で不問)品川から多摩川河口を越え神奈川県に入ります。
川崎の京浜重工業地帯を通過した後、横浜市内に飛来します。さらにツェッペリン伯爵号は横浜中心部上空で旋回して、往路と同じ都心コースを引き返し、霞ヶ浦に着陸します。
なぜ?
ツェッペリン伯爵号は都内周遊を変更し横浜に飛来したのでしょうか?
関係者の記録が現在無いため真相は謎です。一部資料には
「研究者の間では、藤吉らの日本人が、発展した日本の首都の中心と横浜の姿を外国人に見せたがったらしい」とありますが、日本縦断だけでも異例のサービスと思える飛行に急遽、変更するとは中々考えづらいものがあります。
事実、
乗船客の一人でソビエト政府代表の地理学者カルクリン氏はソ連上空の飛行ルートリクエストにツェッペリン伯爵号が一切応じなかったため
(たいした要求では無かった)怒って霞ヶ浦で下船するという騒動も起っています。
(仮説)
1929年(昭和4年)当時、横浜市長は有吉忠一でした。
大正14年(1925年)5月7日、震災復興にために市長になったような有吉は、横浜港の拡張、臨海工業地帯の建設、市域拡張の三大方針を打ち出し大胆な復興事業を進めます。
No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?
しかし、市の財政は逼迫していました。
横浜復興の総費用は約2億円、国が半額強を出しましたがそれでも約8,000万円は横浜市の財政でまかなう必要がありました。
当時の横浜の通常予算は年間約1,000万円でしたし、税収の大幅減少は明らかでした。
この時、国は横浜に“悪魔のささやき”をします。
アメリカからの借金です。米貨公債の発行です。
横浜市は当時4,000万円に当たる約2,000万ドルをアメリカから借金します。
時代は明らかに英国から米国に世界経済の主役が交代した時代です。
世界情勢情報が経済を左右し始めた情報経済の始まりです。
まさに「非対称性情報」下の市場経済が経験的に登場し始めました。
“ハーストミッション”がツェッペリン伯爵号にはあったのではないでしょうか?
ハースト自身がこの米貨公債を購入していたかどうか未調査ですが、少なくとも銀行団を含め多くのアメリカ資本が米貨公債の行方を気にしていたことは当然でしょう。
京浜工業地帯から横浜市内の復興状態を確認させ(写真に収め)彼らに提供することを企画したとしても不自然ではなかったでしょう。
ハースト新聞社が多額の資金で運行させた飛行船に
紅一点のGrace Marguerite Hay Drummond-Hay女史と
カメラマンを同乗させた目的・役目は何だったのでしょうか?
http://en.wikipedia.org/wiki/Grace_Marguerite_Hay_Drummond-Hay
イギリス外務省高官の未亡人であったヘイ女史は国際感覚と、動じない強靭な精神力の持ち主だったとも言われています。
何らかのミッションを持っていたKey Women であったことは間違いないでしょう。
この時代、横浜にとって昭和初期は大変重要な
曲がり角の十年といえるでしょう。
(余談)
霞ヶ浦からロスまでの機内食を用意したのが帝国ホテルだったそうです。
アメリカの名門ホテル、ウォルドルフ=アストリア経営者が帝国ホテルに勤めていた剣持確磨氏に依頼し実現しました。
重量制限の厳しい中、上質のメニューづくり当時のスタッフが苦労されたそうです。
61人6日分、総重量1トンの範囲でしかも保存できるように準備する必要がありました。
「鶏肉のソテー トリュフ風味ソース」
「フォアグラのパテ」
「ジェリー添えの鎌倉ハム」などが提供されたそうです。
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機内献立表 |
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20120819も横浜上空を飛行船が舞いました。 |
No.160 6月8日(金) 親王殿下のニッポン
今日は日希関係です。
むりやり関係ネタを探している訳ではありません。
たまたまです。(でもちょっとうれしい)
かつて世界各国の要人が来日した横浜港。
まさに国際港ですね。
船の入港で世界情勢の変化もいち早く分かることができたので新聞社も横浜港に通信員を配置していました。
1891年(明治24年)6月8日(月)「午前十時五十分「希臘」のジョージ親王殿下横浜港へご入港」しました。と配信します。(当時の毎日新聞)
「ジョージ親王殿下」
この時代の国名、人名には苦労します。読みと表記にはバラツキがあります。
「希臘」とはギリシャの漢字表記です。
この「ジョージ親王殿下」とはゲオルギオス・ティス・エラザス
当時のギリシア王国ゲオルギオス1世と王妃オルガの次男(一説に三男 詳細調査してません)を指します。
ゲオルギオスはギリシア語発音で、新聞では英語表記で<ジョージ>となっていますが、ここでは以下ギリシア読みに従いゲオルギオス親王殿下と表記します。
この記事の内容は、
5月11日に滋賀県大津で起った外交的大事件「大津事件」(※下欄 大津事件参照)で負傷したロシア帝国皇太子と共にウラジオストクに同行していたギリシアのゲオルギオス王子がロシア軍艦で帰路につく際、乗り継ぎのため「横濱」に寄港したという内容です。
昨日取り上げた「土耳古国」とは扱いがかなり違います。
No.159 6月7日(木) 強い日土友好の原点
理由は、この大津事件が日本にとって”国の命運をかけた”重大な事件だったからです。
※大津事件
日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現・大津市)で警備にあたっていた警察官・津田三蔵が皇太子を突然斬りつけ負傷させたという、暗殺未遂事件のことです。大国ロシアの要人を官憲が殺傷しようとする由々しき事態。
国を揺るがした事件であると同時に、
犯人津田三蔵をどう裁くのか?
日本の司法史に必ず登場する事例です。
ここでは「大津事件」は取り扱いませんが、
この事件の対処のため、明治天皇が急遽京都に向かいますが、天皇は見舞いをロシア側から一日待たされるという事態からも事件の重大さと国力の違いが分かります。
この時代、ギリシャは、ヨーロッパの小国で、しかも長い間オスマン帝国支配下にあり独立してまもない国でした。
当時、ギリシャはオスマン帝国と比べたら、吹き飛ぶような国力でしたが、それでもこの国の「王子ゲオルギオス親王”殿下“」が特別扱いされたのは、ギリシャ王国が持つ歴史にあります。
このエリアは現在も欧州の原点であると同時に民族紛争の絶えないエリアです。
最大の理由は宗教的背景です。
ギリシア=ギリシア正教とロシア=ロシア正教は特に同じ流れを持った“キリスト教 正教会”系だからです。
バルカン半島が19世紀から”世界の火薬庫”と呼ばれたほど、紛争の絶えない小国家が列強の宗教や民族関係を背景に支援の下でバランスをとっているゾーンでもありました。(現在もいまだ緊張感は継続しています)
当時
ギリシャ王室は、「ティス・エラザス・ケ・ザニアス」と呼ばれ、欧州王族の一員でした。ギリシャ王国が1832年に建国されて以来、列強各国と姻戚関係になることで国の威信を保ってきたのです。
王子ゲオルギオス親王もロシア帝国皇太子・ニコライの従兄弟にあたります。
当時のギリシャは、宿敵国オスマン帝国に対峙するため、ロシアの国力に頼らざるを得なかったのです。
一方1891年(明治24年)の頃の日本は、
列強の一つ「大露西亜帝国」の前に、まさに「坂道を登り始めたばかりの国」でした。
司馬遼太郎「坂の上の雲」の主軸となる日露戦争1904年(明治37年)2月8日〜1905年(明治38年)9月5日)への道は、まさにこの時に始まっていたといえるでしょう。
明治元年生まれの24歳の青年王子の悲劇と40歳になろうとする明治天皇の屈辱がこの“戦争”になんら関係が無かったとはいえないと思います。
6月8日午前10時50分、横浜港に着いた「ゲオルギオス親王殿下」は上陸後露西亜領事館に向かい、横浜港近辺は厳戒態勢がとられます。
殿下は翌日の9日午前10時に出港する太平洋郵船会社のゲーリック号でギリシャに帰国する予定でしたので8日の夜、
日本政府はグランドホテルで歓迎レセプションを企画します。
ところが、日本の申し出に対しゲオルギオスは無視し、
ロシアと関係の深い”フランス”の招きに応じます。
フランス外交はしたたかですね。
一方日本政府側は むかついたでしょうね。
この事件のあった初期の日希関係はぎくしゃくしたスタートでしたが、戦後は港を舞台に親しい交流が続いています。
戦後のギリシャは「海運国」として活躍し
横浜は上陸したギリシャ人が集う「ギリシャ料理」の名店が多く誕生します。
「オリンピア」「スパルタ」「アテネ」「パルテノン(閉店)」「サロニコス(閉店)」等です。ギリシャ料理店の多さは港町横浜の特徴といえるでしょう。
●オリンピア
https://www.olympiayokohama.com
横浜市中区太田町2丁目30
●ギリシャ料理 スパルタ:SPARTA
www.sparta.jp/
横浜市中区吉田町3−7
●ギリシャ料理&バー アテネ/ATHENS
横浜市中区山下町217-4
●パルテノン
横浜市中区本郷町1丁目1
No.150 5月29日 記憶すべき記録、記録すべき記憶
1945年(昭和20年)5月29日の今日は五月晴れの穏やかな朝でした。
午前9時過ぎに突然姿を現した米軍機から降り注いだ焼夷弾はほんの一部を除いて横浜中心部を焼き尽しました。
歴史に言う「横浜大空襲」です。
Superfortress「超空の要塞」と呼ばれた米軍主力戦闘機B-29爆撃機が517機、護衛機P-51戦闘機101機による徹底した無差別焼夷弾攻撃が行われました。
この空爆により約8千〜1万名の死者が出ます。
先の3月10日には東京で未曾有の規模で「東京大空襲」が実施され、3月13日深夜に始まった「大阪大空襲」が行われていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/東京大空襲
http://ja.wikipedia.org/wiki/大阪大空襲
これらの空爆は“効率よく破壊、殺戮するための手法”が採られたことが記録により明らかになっています。
空爆責任者カーチス・E・ルメイ少将をして、
「もし、我々が負けていたら、私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた」と語らしめた意図的空襲でした。
横浜大空襲の場合、目視が可能な朝から行われ、焼夷弾攻撃で商工業地及び住宅地がどのように燃えていくか“データ収集のための実験的攻撃”といわれています。
(目標設定)
横浜空襲は爆撃の目標を5カ所に設定しました。
東神奈川駅、平沼橋、横浜市役所、日枝神社、大鳥国民学校です。
日本の住宅がどのように延焼したのか、米軍は関東大震災の記録を詳細に研究した上での「実証実験」でした。
目標設定があったものの、高高度からの絨毯爆撃の誤差が大東急湘南線(京浜急行)「黄金町駅」周辺に集中被害をもたらしました。
軍事施設の駐中していた神奈川区反町、保土ケ谷区星川町と住宅密集の南区真金町地区一帯の被害も大きく、壊滅的被害を受けました。
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神奈川新聞特集より抜粋 |
海軍が一部施設として使用していた攻撃目標の一つ横浜市立大鳥小学校(本牧町大鳥1571-17)は焼け残り、戦後すぐに米駐留軍野戦病院として使用されました。
皮肉にも、敗戦後自宅で自殺を図った東条英機元首相の緊急治療にあたり一命をとりとめのがこの病院です。
東京裁判で死刑が確定した東条を含む七人の遺体は、処刑後横浜市保土ケ谷区にある久保山霊場で火葬され遺骨は米軍により東京湾に捨てられたことを付記しておきます。
この横浜大空襲の記憶するモニュメントがひっそり大通公園に建てられています。
平和祈念碑 由来之記
場所:横浜市中区弥生町4付近
建立日:1992年(平成4年)5月29日
「この人類至高の祈りが 志ある人々により継承発展され 犠牲者
も平和の使徒の先駆者として 至福の時を 共に迎える日の近きこ
とを信ずる。」横浜戦災遺族会
東京大空襲の記録は
東京大空襲・戦災資料センターとして情報公開されています。
http://www.tokyo-sensai.net/
(最後に)
1945年(昭和20年)4月27日から横浜大空襲の前日まで三回にわたって開催された新型爆弾の投下目標選定会議では、
第二回まで京都・広島・横浜・小倉
が設定され投下精度を上げるため“目標4都市への通常空襲禁止命令”が出されていました。
横浜大空襲から2ヶ月後の7月16日にアラモゴード実験場において行われた人類最初の核実験(トリニティ実験)が成功し、「核の時代」が始まりを告げます。
(余談)
5月29日は1937年(昭和12年)に 横浜市磯子区滝頭に生まれた美空ひばりの8歳の誕生日でもありました。
No.94 4月3日 横浜弁天通1875年(大幅加筆)
ブリュターニュ生まれのフランス人青年が、
滞在地日本の横浜弁天通にある骨董品店の看板娘に恋をします。
娘の名は「三谷はな(おはなさん)」16歳でした。
彼の名はマルセル、居留地警護のために本国から来た軍人のため、いずれ別れが待っている運命でしたが、二人は刹那の思いを燃やします。
数ヶ月間の恋でした。
この出会いから別れまでの物語を
同僚の著者ルイ・フランソア・モーリス・デュバールが、親友マルセルの恋として描いたのが『絵のように美しい日本』(抄訳『おはなさんの恋』有隣堂刊)です。
著者ルイ・フランソア・モーリス・デュバール(1845〜1928)は
極東勤務の一環として1874年(明治7年)から計6ヶ月横浜に滞在しました。
この間のジャポン経験を同僚マルセル(J・A・ルヨー)の恋を通して描いたセミドキュメンタリーLe Japon pittoresque『絵のように美しい日本』は
1879年(明治12年)にパリで発刊され話題になります。
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日本語版には収録されていません |
この本のポイントは、当時ヨーロッパで主流となっていた西洋文明優位主義や人種的偏見を持たず、日本の文化を外国の一つの異文化として捉え、的確にかつ公平に表現している点です。また、ラブストーリーに絡めて日本文化や当時のアイヌも紹介している点が特筆されます。
女性のしかもアジアの女性に尊敬の目線すら感じる評価を与えている著者は本当に数ヶ月の日本滞在で取材(情報収集)したのでしょうか?
日本文化の表現、地理の理解は秀逸です。
もしそうだとしたら、彼は天才的な情報将校であったといえるでしょう。
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右が妹のおはな、左が姉のおさだ。なかなかの美人ですね。 |
幕末から明治にかけて、多くの欧米人が開国された「にっぽん」を訪れますが、多くの“男たち”が日本の娘の美しさに魅了されていきます。
「逝きし世の面影」(渡辺京二 著)第九章「女の位相」で
著者は多くの訪日外国人記録から丹念に“日本人女性像”を切り抜き評論を加えています。
“日本の女性は美しかった…”?
マルセルの恋に戻りましょう。
巻頭にこの恋物語の主人公マルセル役となったブルターニュ地域圏イル=エ=ヴィレーヌ県生まれのフランス人青年J・A・ルヨー海軍中尉に向けて献辞が添えられています。
ブルターニュ人は頑固で有名だったらしく、物語の中でもからかいのネタになっています。
我が知友 海軍中尉J・A・ルヨーへ
友よ、ぼくらがマラッカ海峡を通過した日のことを覚えていますか。ひどい猛暑で頭がくらくらしたことなど、あらためて添えるものではありませんね。(中略)
ときには夢多き多感な青年らしく、なにかにつけてすぐにぼくの部屋を訪れ、二人でよく日本の話しに興じたものでした。ときにはキャビンのドアと船底の竜骨のあいだに、雨水の小さな湖ができて、船が揺れる度にミニュチュアの波が足元を洗い、どこからまぎれこんだのか、白太のおが屑までが寄せては返していたものです。ぼくらの所在ない空想にかかるとそんなものさえ敵対するミニ艦隊に見えました。(中略)
「いかがですか、航海中の出来事を書きとめておいては?」と、なにかの折にきみにそう勧められたことがありましたね。
「それもそうだね」
ぼくがこの本の1ページ目を書いたのは、この時でした。(後略)
村岡正明抄訳『おはなさんの恋-横浜弁天通り1875年』有隣堂刊より抜粋
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自作マップ |
(恋多きルヨー)
当時、おはなさんに恋する海軍中尉J・A・ルヨーは著者デュバールをして「海軍の学問界ホープ」と言わせた秀才で、帰国後は工学の道に進み海軍兵学校で造船工学を指導しますが、37歳の若さで亡くなります。
(デュバールの略年譜)
一方デュバールは
1845年8月28日フランス、現在のブルゴーニュ地域圏コート・ドール県のジュヴレ・シャンベルタン(Gevrey-Chambertin)に生まれました。
この地名だけでワイン好きの方であれば幾つか銘柄が出てくるでしょう。
ブルゴーニュの中でも有名なワイン生産地です。
大学卒業後海軍に入り
1868年〜数年仏領セネガルに主計補佐官として赴任しました。
1873年に主計大尉として日本中国海域の哨戒艇であるデクレア号に乗り
1874年9月に長崎港に上陸しすぐに上海に向かい11月まで駐留します。
任務を終え、長崎経由横浜港に12月6日に入港します。
1875年4月2日まで横浜市内に駐留し翌日の4月3日に横浜を出港、上海勤務に向かいます。(途中 神戸に寄港し京都大阪などを見学)し5月5日に上海に到着します。約5ヶ月の勤務を終え10月に横浜に戻り、一ヶ月滞在し最後の日本での生活を体験し本国フランスに帰国します。
その後幾つかの植民地の行政官等を歴任し、最後はマルセイユで海軍の副長官を務めました。
1877年に創設された「Société de géographie de Marseille(マルセイユ地理学会)」に所属し様々な活動を行い83歳で亡くなったそうです。
※一部フランス語の本人訳なので役職等不正確かもしれません。
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余談です。高級ブランドでございます。 |
(歴史的背景)
1863年(文久3年)下関事件をきっかけに英仏両国が居留地の自国民保護のための軍隊を駐留します。フランス軍が山手186番地に駐屯し、遅れてイギリス軍は山手116番地に駐屯します。英仏合わせて3,000人を超える軍隊が山手に駐留することになります。その後、明治維新となり新政府との外交交渉の過程で日本政府が少しずつ居留地の安全保障の役割を担うようになりますが依然英仏軍の駐留状態(治外法権)は変わりませんでした。
岩倉具視が再三英国と交渉に当たりますが“時期尚早”として拒否されます。
1871年(明治4年)岩倉使節団がアメリカ経由欧州に向かい、
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横浜港を出る岩倉一行、象の鼻から母船に向かった様子 |
英国と仏国に駐屯軍撤退要求をしますが“拒否”されますが…。
英仏とも自国の事情もあり1875年(明治8年)3月をもって撤退することを日本政府に通告します。その撤退要員として
デュバール達の艦船が日本に派遣された(と思われます)。
撤退時、送別の式典が行われたり、英仏の軍人たちとの商品交換が盛んに行われたり、現場レベルでは別れ(撤退)を惜しんだようです。
ある意味
日本の独立の第一歩になるのですが、
この布告がもう少し遅れたら
二人の恋の物語はどうなったのでしょうか。
No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発
3月も終わりです。91話目です。
鉄道の開通は地域の活力を一気に高めますが、紛争の種にもなります。
新線開通でにわかに活気づく村に大騒動が起りました。
この小さな村に当初関心の無かった横浜市と川崎市の両市が
神奈川県橘樹郡日吉村をめぐって争奪戦を繰り広げました。
熾烈な騒動は4年に渡って起ります。
中傷合戦、暴力事件まで起き、最終的には神奈川県が仲裁に入り矢上川をはさんで東西に村が二分され決着を迎えました。
1934年(昭和9年)のこの日、
横浜市にとって国取り合戦に有利な一つの契約が結ばれます。
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平成元年日吉上空 |
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明治14年矢上地区は起伏に富む丘陵地帯でした。 |
この日結ばれた契約は、
横浜市長(大西一郎)と慶応義塾塾長(小泉信三)、
そして東京横浜電鉄の取締役(五島慶太)の三者で出資し
日吉村に開設準備中の「慶応義塾大学日吉キャンパス」に
横浜市が水道供給しますという内容です。
第一条
甲(横浜市)はその経営に係る上水道に依りて乙(慶応)が神奈川県橘樹郡日吉村地内に新設したる校舎その付属施設に給水するものとす。
(経緯)
横浜市と川崎市の日吉争奪合戦は、1933年(昭和8年)6月にまず横浜市が日吉村にラブコールしたことに始まります。
これに対して遅れをとった川崎市が7月あわてて日吉村に合併を申し入れます。
そもそものキッカケは、東横線の開通と日吉駅の大変身計画で町が急激に変化しようとしていたからです。
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田園調布ほどではありませんが、放射状の宅地開発を設計 |
(東急の鉄道戦略)
大東急、五島慶太戦略は、沿線にリゾート施設、例えば温泉(綱島)を開発、大学を誘致し地域ブランド力をアップし周囲に住宅地を分譲するという戦後多くのデベロッパーが手本とした地域開発手法を駆使しします。
五島慶太は日吉駅の東側43万平米をかねてから分校用地を探していた慶応義塾に無償提供するので大学を開設して欲しいと提案し昭和3年に内定します。
それまで林野だったこの地域に学校と住宅地を造る訳ですから、インフラ電気水道が必須条件になります。
五島は平沼亮三を介して横浜市に水道施設を依頼します。
この時、横浜市は日吉合併がスムーズに行くとは考えていなかったようです。
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現在も後者の背後に広大な林野があり大学の体育施設が集中しています。 |
日吉村は矢上川をはさんだ7つの集落が明治初期に合併してできた村で、村民の主な生活圏は川崎市中原町でした。
鉄道の開通で地域が代わったとしても、日吉駅開発が無ければ恐らく川崎市中原区日吉町になっていたのではないでしょうか。
横浜市が水道施設契約で一歩リードすることで、形勢が逆転します。
川崎市より早く合併を申し入れたことも横浜市編入派が優位に立ちます。
しかし川崎市の巻き返しも熾烈でした。
住民投票が何度も行われますが、集落ごとに意見が分かれます。
4年に渡ってすったもんだしますが、昭和12年4月をもって、橘樹郡日吉村は矢上川東村落を川崎市、日吉駅を含む西側が横浜市となり現在に至ります。
これでしゃんしゃんといったわけではありません。
日吉村分裂騒動は半世紀、1989年まで引きずります。
(かどうか???????)
横浜市港北区日吉の市外局番は、横浜市内(045)にも関わらず1989年まで044でした。
理由はNTT中継局がこのエリア中原局管轄だったために044にせざるを得なかったということですが、単純にそれだけでは無かった?
と勘ぐるのは悪い癖ですね。
慶応義塾は昭和9年、インフラ整備の見通しが立つと一気に学校建設を開始しますが、事前調査を行うと敷地から古墳や弥生式住居跡が発見され周辺からは国宝「秋草文壷」他、重文となる様々な出土品がありました。
創生期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いたコンドルの弟子、曽禰 達蔵とその後輩 中條 精一郎や博物館明治村の初代館長となった谷口吉郎らが
精力的に日吉キャンパスの施設設計に携わりその作品が残っています。
学校建築でも、近代から現代へ
作品制作の場に地域開発が深く関わっていく始まりといえるでしょう。
No.85 3月25日 日本の運命を変えた男横浜に入港
1906年(明治39年)の今日3月25日(日曜日)
日本の運命を変えた一人のマーチャントバンカーが家族とともに約二十日間の船旅を終え午後4時頃横浜港に入りました。
彼の日記によれば、午前11時に陸地が見えたとあります。
残念ながら富士山は見えなかったようです。
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シフ肖像写真 |
彼の名は、ジェイコブ・ヘンリー・シフ(Jacob Henry Schiff)。
典型的な単身アメリカに渡り成功したユダヤ系ドイツ人の銀行家です。
鉄道事業投資に才能を発揮しJPモルガン商会と並ぶクーン・ローブ商会の頭取としてアメリカ大陸の鉄道事業をベースに建設、電信会社、ゴム産業、食品加工等を展開します。
彼は、日本が当時日露戦争(1904年〜1905年)のための外資(戦費)調達で苦戦する中、必要な戦費の四割を欧州で調達することに成功し明治天皇より最高勲章の旭日大綬章を贈られた金融マンです。
当時日露戦争に要した資金は17億2121万円で、1895年(明治28年)3 月に終わった日清戦争の9倍で国家予算の6倍にも及ぶ金額でした。
日本政府はその殆どを外資(ポンド)に頼る必要がありました。
日本円では物資を購入することができなかったからです。この時の外資調達責任者が高橋是清(当時日銀副総裁で後に大蔵大臣、総理大臣を歴任。226事件で死亡)で、幕末ヘボン塾で学び居留地の外国銀行でボーイとして働きながら英語を習得し渡米します。
若い時の高橋是清の人生は下手な冒険小説より破天荒、波瀾万丈エピソードの塊みたいな人物です。
高橋是清との信頼関係を築き、日本を精力的に支援したシフは、戦勝国日本を家族で訪れます。
日本滞在中は横浜、鎌倉、東京(天皇をはじめ多くの要人と会います)、日光、静岡、京都、奈良(途中朝鮮半島)を精力的に巡り5月17日にまた横浜港から出発するまで滞在します。
到着した4月25日は、グランドホテルに宿泊し、夕食に満足します。夜には日本のオリジナルタクシー人力車に乗り伊勢佐木あたりに繰り出し人出の多さに驚きます。
翌日の26日は一日横浜市内観光に出かけます。
女性陣は観光とショッピング、シフは横浜正金銀行でお金を調達(下ろ)し頭取の高橋是清と歓談します。
その後横浜最大の骨董品店「サムライ商会」で女性陣と合流し、寺院見物、元町百段坂上の茶屋でティータイム。そこの女主人がドイツ語と英語を話せたそうです。
最後に横浜植木株式会社で盆栽を幾つか購入しホテルに戻り夕食をとります。
27日は横浜駅から汽車で東京に移動し、28日に天皇の謁見、叙勲を終え東京に数日滞在します。
(以下の旅程は省略しますが 詳しくは「日露戦争に投資した男」新潮新書を参考に)
※横浜植木株式会社は、シドモア桜をアメリカに運ぶ準備をした会社でもあります。
明治31年2月には ニューヨーク事務所開設しています。
ジェイコブ・ヘンリー・シフの居たクーン・ローブ商会は一時期モルガン財閥と並立する存在でしたが、マーチャントバンクスタイルから証券市場での取引へのシフトに遅れ、衰退していきます。
1977年にリーマン・ブラザーズに統合され、1984年アメリカン・エキスプレスが買収しクーン・ローブの名は完全に消えます。
No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催
1989年(平成元年)の今日、横浜市政100周年(横浜開港130年)記念事業の中核となる横浜博覧会開会式が行われました。
この横浜博覧会はみなとみらい21地区の69haを使用して開催され、のべ1,333万人が入場しました。<開催期間は1989年(平成元年)3月25日〜10月1日>
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公式ガイドブック |
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当時の横浜駅西口駅前、靴磨きが生業としてありました |
この「横浜博YES’89」英称:YOKOHAMA EXOTIC SHOWCASE ’89 は1960年代に構想された「みなとみらい21計画」の“地鎮祭”のような役割を持つお祭りでした。
横浜駅界隈と関内界隈、桜木町駅界隈をつなぐ位置に広がる「三菱重工横浜造船所」跡地が「みなとみらい21」エリアです。
下の写真は77年のみなとみらいに相当するエリアです。
左上が横浜駅で右下がカップヌードルミュージアム、赤れんが倉庫のある新湊埠頭エリアです。そのさらに下が関内地区で臨海部の造船所がエリアを分断しているのが良くわかります。ここを80年代に地ならしと埋め立てを行い90年代に街を作る計画が「みなとみらい21計画」です。
いわばその鍬入れ式を市政100周年というタイミングに博覧会というかたちで実施しよう!ということになった訳です。
関東大震災まで首都圏で光り輝いていた「横浜界隈」は、その後戦災、米軍接収の苦難の中、失われた半世紀の時を過ごします。本腰で横浜のまちづくりに取り組み始めたのが1960年代後半、飛鳥田市長時代の「六大事業」構想です。当時、東京湾岸は工場地帯がベルトのように臨海部を占有していましたが、可能な限り臨海部を職住機能のある街にする計画が湾岸各都市で計画されます。千葉は幕張エリア計画、東京が臨海副都心計画、そして横浜がみなとみらい21計画でした。熾烈な都市間競争の始まりです。
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1988年ほぼ埋め立て完了横浜博会場準備中 |
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現在のみなとみらいエリア |
この「横浜博YES’89」はバブル期に開催されました。
地鎮祭は行ったものの、バブル崩壊で90年代「みなとみらい21計画」は苦難の道を歩みます。
また、単に新しい街ができるだけでは無く、周辺の商業地域との調整にも様々な難題が起ります。横浜駅東西の商業戦争、野毛地区の東急線廃止問題、伊勢佐木の地盤沈下等々を抱えながら「横浜博YES’89」が挙行されました。
ただ、「横浜博YES’89」にはここで紹介したように「みなとみらい21」というあたらしい街ができあがる地鎮祭(前夜祭)的な役割がありましたから希望が見えました。
事実動員があったりもしましたが、このみなとみらいに蒔かれた種や樹々はなんとか現在まで枝葉を広げ形になりつつあります。
さあこの点で「開港開国博Y+150」はその先に何を見ようとしたのでしょうか?
「みなとみらい21計画」の評価、是非は様々な議論が行われています。私も別の機会にまとめてみたいテーマの一つですので後日に譲ります。
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ガイドブック他報告書各種 |
「横浜博YES’89」の開催内容のマップです。ゴンドラはあるし専用鉄道も敷かれます。現在みなとみらいのシンボルとなっている観覧車もこのときにできたものです(後日現在地に移設)。桜木町駅前の動く歩道、日本丸、美術館もこの時期に設置されたものです。思い出のある方も多いと思います。
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会場マップ |