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【横浜側面史】 観艦式

戦前、横浜で開催された大規模の式典が多くあります。

■製茶共進会・生糸繭共進会(1879年(明治12年))
■開港50周年記念式典(1909年(明治42年))
■神奈川県横浜市勧業共進会(1913年(大正2年))
■震災復興記念横濱大博覧会(1935年(昭和10))
この他、
特に横浜で多く開催されたのが海軍「観艦式」です。
今日はこの横浜沖「観艦式」を少しレビューしてみます。

観艦式930373
<昭和3年観艦式記念絵葉書  合成写真っぽい>
「観艦式」は明治に始まり現在も行われていますが、戦前は軍拡競争の中で国の威信をかけた式典として盛大に行われました。
「観艦式」
戦前、明治から昭和にかけて 日本海軍は「観艦式」を計18回実施しています。
その半数九回が横浜沖で実施されました。
No.285 10月11日(木)武装セル芸術

ここでは1940年(昭和15年)10月11日(金)に開かれた帝国海軍、最後で最大の「観艦式」について簡単に紹介しました。

そもそも「観艦式」というのは1341年に英国で始まったデモンストレーションで、当時のエドワード3世が英仏戦争の際に指揮を鼓舞するために出撃の際観閲したことに始まります。
余談ですが、
礼砲の作法も英国のプロトコルが世界標準になっています。発射数を最大21発として19発・17発・15発〜と奇数回その地位によって数が決まっています。
No.231 8月18日 (土)give a twenty‐one gun salute.

No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に

「No.285 10月11日(木)武装セル芸術」の回での紹介を含め
今回「観艦式」を再度紹介するに至ったのは
なぜ 「観艦式」の半分を横浜で行ったのだろうか?
という素朴な疑問があったからです。
おそらく 横浜港沖で行った理由は
「帝都東京」と「東海鎮守府」である海軍中枢基地「横須賀」に近いこと。
そして
横浜港の持つ構造の良さだろうと推測できます。
→後半で別途紹介します

全18回の「観艦式」の内訳は
横浜沖で9回
神戸沖で6回
横須賀沖で2回
1回(初回のみ)大阪天保山沖
で行われました。

観艦式44288d
<式次第>                  kawakita collections

観艦式41384

観艦式928357
kawakita collections

最初に横浜沖で実施された「観艦式」は
1905年(明治38年)10月23日<日本海海戦勝利凱旋観艦式>と呼ばれ、
日露戦争の勝利を祝う目的も兼ねていました。
第五回目にあたるこの「観艦式」は、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将が総司令官として式典に臨み国民の関心もかなり高いものでした。
観艦式図 <当時の観艦式 配列図>
この第五回目以降、観艦式は拡大を続けます。
明治期観艦式の見物人に関する資料は手元にありませんが、
1928年(昭和3年)御大礼特別観艦式(昭和天皇即位式)として実施された横浜沖での観艦式は天候にも恵まれ
鶴見岸から本牧まで、多数の見学者が水際を埋め尽くしその数は100万人を越えていたそうです。
この観艦式には米国『重巡洋艦ピッツバーグ』、英国『重巡洋艦ケント』『重巡洋艦サフォーク』『重巡洋艦ベルウィック』、仏国『装甲巡洋艦ジュール・ミシュレ』、伊国『リビア』、オランダ『ジャワ』と各国の特務艦計11隻の外国艦船も参加しています。

(劇場としての横浜港一帯)
横浜港一帯が最高の一大劇場と化していたことになります。
横浜港の持つ円形劇場、
横浜港から鶴見川崎にかけての、岸辺・丘からの眺め
現在のように工場や高層ビルの無い時代に、少し小高い丘に登れば横浜沖の東京湾が一望できたロケーションは、海上デモンストレーションには最高です。
多くの国民・関係者にプレゼンスできる「横浜港一帯」だったのです。

観艦式444384
kawakita collections

以前 このブログで 帝都東京と 港都横浜の都市間競争を紹介しましたが、帝都東京が力と権力も有しながら中々開港できなかった背景は、省庁間・地元経済界の猛反対に加え、多くの市民の支持と
「港都横浜」としての“劇場性”もあったからではないでしょうか。

70年代に私が初めて横浜港周辺を散策し始めた頃、
まだまだ海辺は近づくことが難しかった時代でした。
「KEEP OUT」の文字も多かった気がします。
横浜港の水際が自由で快適な空間になりはじめたのは つい最近のことです。
戦前以上に港都横浜の魅力を楽しめるようになった?今
“平和会議場”もあることですし
みなとのみらいから積極的平和を発信できる都市に成長していって欲しいものです。

観艦式一覧
1868年 (明治元年3月26日) 大阪天保山沖 4月18日
1890年 (明治23年)4月18日 神戸沖。
1900年 (明治33年)4月30日 神戸沖。
1903年 (明治36年)4月10日 神戸沖。
1905年 (明治38年)10月23日 横浜沖 日露戦争終結
1908年 (明治41年)11月18日 神戸沖。
1912年 (大正元年)11月12日 横浜沖。
1913年 (大正2年)11月10日 横須賀沖。
1915年 (大正4年)12月4日 横浜沖。
1916年 (大正5年)10月25日 横浜沖。
1919年 (大正8年)7月29日 横須賀沖。
1919年 (大正8年)10月28日 横浜沖。
1927年 (昭和2年)10月30日 横浜沖。
1928年 (昭和3年)12月4日 横浜沖 【御大典記念】
1930年 (昭和5年)10月26日 神戸沖。
1933年 (昭和8年)8月25日 横浜沖。
1936年 (昭和11年)10月29日 神戸沖。
1940年 (昭和15年)10月11日 横浜沖。
【日本海軍最後の観艦式】紀元二千六百年特別観艦式

(余談)
観艦式資料を探していたら
観艦式準備資料の中からこんな図面・文書を発見しました。
観艦式509317
観艦式4397e3 以前横浜水上署見学の際
ここで西波止場という言葉が使われていました。何気なく聞き流していましたが
lig_sanbasi 戦前からこのあたりを
「西波止場」と呼び続けていたんですね。

No.388 あらためて横浜市歌

このブログでも何回か「横浜市歌」を取上げています。
今日、あらためて横浜市歌をラジカルに紹介します。

現在の横浜市歌は原曲ではありません。
まずこの情報が広く明示されたのは何時からでしょうか?
少なくとも私の記憶では 比較的最近のことではないでしょうか。
(教育委員会には問い合わせていません)

 

横浜市歌は、開港50周年に制定されました。
作詞は森 林太郎(鴎外)
作曲は南 能衛ですが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/南能衛

一部変更を 小船幸次郎以下「市歌普及委員会」が行いました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/小船幸次郎
この編曲については小船幸次郎について書かれた文献「市民とオルガン」で一部触れています。他の情報もありますが、ここでは下記のみ掲載します。

(市民のオルガン 神奈川新聞社 刊)

良い悪いの問題ではなく、もう少しきちんと説明をする必要があると私は思います。
たしかに、教育委員会のHPにはPDFで一枚の説明書がリンクされていますが、少なくともオリジナルの提示とどこを変えたか横浜市は明示することが教育的な見地だと私は思いますが。(オリジナルが聞きたい!)
http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/gakusyu/sika/pdf/sikatebiki.pdf

とはいえ、全国3,447市町村ありますが、小学校からオトナまで歌っている市歌は 横浜だけですね。おそらく。
他府県の人は「うちの市では無い。市歌すら知らない」が大半です。

横浜市歌の真実

【番外編】横浜市歌の真実

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る前編

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る前編

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る 後編

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る 後編

No.183 7月1日(日) 7月のハマ?

No.332 11月27日(火)おやかた、濱で一振り。
No.334 11月29日(木)歌の横浜

http://www.youtube.com/watch?v=pGDGrZBr7tI
http://www.youtube.com/watch?v=wm81P7iRicc
http://www.youtube.com/watch?v=lUEjYuEBOig
http://www.youtube.com/watch?v=7Pg7-xw0vrE
http://www.youtube.com/watch?v=b5OdOaN8ejI

■あらめや音頭
http://www.youtube.com/user/masaruarameya
■横浜市歌ブルースバージョン  中村裕介
http://www.youtube.com/watch?v=R_Fu7Wf06wo

No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催

1989年(平成元年)の今日、横浜市政100周年(横浜開港130年)記念事業の中核となる横浜博覧会開会式が行われました。
この横浜博覧会はみなとみらい21地区の69haを使用して開催され、のべ1,333万人が入場しました。<開催期間は1989年(平成元年)3月25日〜10月1日>

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公式ガイドブック
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当時の横浜駅西口駅前、靴磨きが生業としてありました

この「横浜博YES’89」英称:YOKOHAMA EXOTIC SHOWCASE ’89 は1960年代に構想された「みなとみらい21計画」の“地鎮祭”のような役割を持つお祭りでした。
横浜駅界隈と関内界隈、桜木町駅界隈をつなぐ位置に広がる「三菱重工横浜造船所」跡地が「みなとみらい21」エリアです。
下の写真は77年のみなとみらいに相当するエリアです。

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左上が横浜駅で右下がカップヌードルミュージアム、赤れんが倉庫のある新湊埠頭エリアです。そのさらに下が関内地区で臨海部の造船所がエリアを分断しているのが良くわかります。ここを80年代に地ならしと埋め立てを行い90年代に街を作る計画が「みなとみらい21計画」です。
いわばその鍬入れ式を市政100周年というタイミングに博覧会というかたちで実施しよう!ということになった訳です。
関東大震災まで首都圏で光り輝いていた「横浜界隈」は、その後戦災、米軍接収の苦難の中、失われた半世紀の時を過ごします。本腰で横浜のまちづくりに取り組み始めたのが1960年代後半、飛鳥田市長時代の「六大事業」構想です。当時、東京湾岸は工場地帯がベルトのように臨海部を占有していましたが、可能な限り臨海部を職住機能のある街にする計画が湾岸各都市で計画されます。千葉は幕張エリア計画、東京が臨海副都心計画、そして横浜がみなとみらい21計画でした。熾烈な都市間競争の始まりです。

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1988年ほぼ埋め立て完了横浜博会場準備中
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現在のみなとみらいエリア

この「横浜博YES’89」はバブル期に開催されました。
地鎮祭は行ったものの、バブル崩壊で90年代「みなとみらい21計画」は苦難の道を歩みます。
また、単に新しい街ができるだけでは無く、周辺の商業地域との調整にも様々な難題が起ります。横浜駅東西の商業戦争、野毛地区の東急線廃止問題、伊勢佐木の地盤沈下等々を抱えながら「横浜博YES’89」が挙行されました。
ただ、「横浜博YES’89」にはここで紹介したように「みなとみらい21」というあたらしい街ができあがる地鎮祭(前夜祭)的な役割がありましたから希望が見えました。
事実動員があったりもしましたが、このみなとみらいに蒔かれた種や樹々はなんとか現在まで枝葉を広げ形になりつつあります。
さあこの点で「開港開国博Y+150」はその先に何を見ようとしたのでしょうか?

「みなとみらい21計画」の評価、是非は様々な議論が行われています。私も別の機会にまとめてみたいテーマの一つですので後日に譲ります。

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ガイドブック他報告書各種

「横浜博YES’89」の開催内容のマップです。ゴンドラはあるし専用鉄道も敷かれます。現在みなとみらいのシンボルとなっている観覧車もこのときにできたものです(後日現在地に移設)。桜木町駅前の動く歩道、日本丸、美術館もこの時期に設置されたものです。思い出のある方も多いと思います。

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会場マップ

No.75 3月15日 JAPAN FOREIGN TRADE FAIR YOKOHAMA

戦後、横浜で開催された博覧会(開港博)は四回あります。
1989年に市制100周年としてYES89
2009年に開港150周年としてY+150がそれぞれ開催されました。
この二つの博覧会に先立つ1949年(昭和24年)の今日から「JAPAN FOREIGN TRADE FAIR YOKOHAMA(日本貿易博覧会 横浜)」が開催されました。(〜6月15日)
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横浜も東京に匹敵する大空襲による戦災ダメージはかなりの規模でした。
さらに日本最大面積の接収地(沖縄は日本ではありませんでした)を抱える基地の街となりました。
占領下にあった日本は1947年(昭和22年)に一部貿易が可能となり横浜港の機能も回復し始め、戦災復興のために産業博覧会を開催しようという計画が持ち上がり「日本貿易博覧会」が開催されました。

日本貿易博覧会神奈川会場
 
 

博覧会の目的は会の規約によると「本会は内外における物産の現状及び産業資料を展示し、日本産業を再建し、日本貿易の振興を図るを以て目的とする。」でした。

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報告書

横浜市と神奈川県の共催で、開場は「野毛山」と「神奈川(現在の反町公園)」の二会場に分かれて会期93日間にわたって実施されました。
予算規模5億1000万円
第一会場(野毛山会場)27,500坪
第二会場(神奈川会場)28,000坪
合計56,000坪に企業関係を中心に、政府関係、全国自治体のブースが50の施設に展開されました。二会場は市電で結ばれ(シャトル電車?)入場者数は360万人(有料1,122,721人)にのぼりました。
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野毛山会場

内容に関しては、Wikipediaを参照してください。

この「日本貿易博覧会」も他の横浜で開催された「博覧会」同様赤字でした。

議会でも赤字補填に関して紛糾します。
博覧会閉会後、神奈川開場の施設はその後10年間「横浜市役所市庁舎(臨時)」として使用され移転後は公園となりました。
会場内の演芸館が神奈川スケートリンクになりました。また、野毛山開場は、公園として整備され現在にいたります。庭園が野毛山動物園に、迎賓館が横浜迎賓館(現セントジェームスクラブ迎賓館)として活用されることになりました。

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「日本貿易博覧会」1949年から10年後の1959年に開港100周年祭が行われます。

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なぜ 両方のエネルギーを合わせられなかったのか?
残念であると同時に不思議でなりません。
この博覧会を広告会社として仕切ったのが「日本電報通信社(電通)」発展の礎を築いた広告の鬼、(四代目社長)吉田秀雄です。例の「鬼十則」(おにじゅっそく)を作った人物です。

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2016 12加筆修正

【番外編】横浜市歌の真実

■横浜市歌に秘められた謎
横浜で最もポピュラーな歌は「横浜市歌」です。

わが日の本は島国よ (わがひのもとはしまぐによ)
朝日かがよう海に (あさひかがよううみに)
連りそばだつ島々なれば (つらなりそばだつしまじまなれば)
あらゆる国より舟こそ通え (あらゆるくによりふねこそかよえ)
されば港の数多かれど (さればみなとのかずおおかれど)
この横浜にまさるあらめや (このよこはまにまさるあらめや)
むかし思えば とま屋の煙 (むかしおもえばとまやのけむり)
ちらりほらりと立てりしところ (ちらりほらりとたてりしところ)
今はもも舟もも千舟 (いまはももふねももちふね)
泊るところぞ見よや (とまるところぞみよや)
果なく栄えて行くらんみ代を (はてなくさかえてゆくらんみよを)
飾る宝も入りくる港 (かざるたからもいりくるみなと)

この横浜市歌の作詞者は「森林太郎」文豪森鴎外です。
作曲は南能衞(みなみよしえ)で
1909年
明治42年)開港五十周年記念式典で披露されました。

開港五十年紀年絵はがき

この辺りについてはネットでもいろいろ資料がありますので参照して下さい。
ここでは、森林太郎がなぜ作詞を引き受けたのだろうか?という素朴な疑問に迫ってみたます。
森の日記からは「横浜市長三橋信方に頼まれた」とあります。
1909年(明治42年)3月21日横浜市長名で代理が森林太郎に作詞を依頼したことに始まります。
市長名代「三宅成城」氏が開港50周年記念事業の一つとして依頼し、森林太郎が受けるのはごく自然ことですが、何故森鴎外だったのでしょうか?
選定過程の資料は関東大震災で失われてしまい残っていません。
想像が楽しくなります。
(以前から知合い?)
当時の第五代市長「三橋信方」と軍務医「森林太郎」は知り合いだったのか?
旧知の仲まではいかないにせよ何らかの繋がりがあったのでは?
という仮説を立て調べ始めました。
日記、記事等を読む限り、直接的な史実は見当たりませんでした。
傍証はかなり出てきました。
ここで素人探偵飛躍を承知で この二人の関係に迫ってみることにします。

■キーワードは水
「鴎外」と「三橋」をつなぐキーワードに「水」があります。
さらに掘り下げれば「虎列刺(コレラ)」がこの二人を結びつけていたことは間違いありません。幕末から明治にかけて、日本にとって国家存亡の危機は「コレラ」でした。
開国によって世界が航海で繋がると同時に
疫病も世界レベルになる「コレラ パンデミック」が世界を襲います。
明治に入り何度もコレラが上陸・伝搬し、中でも数回大規模に蔓延し非常事態が宣言されます。「コレラ対策」は国家の最重要課題でした。
当時の「公衆衛生」の最先端医学情報はドイツにありました
そこで森林太郎はドイツで公衆衛生を学ぶために留学します。ドイツではコレラ菌の発見者コッホ博士にも学んでいます。

公衆衛生の要は
「上下水道」の整備に尽きます。つまり「安全な水の確保」がこの伝染病の拡大を防ぐ解決法です。森は日本に戻り、上下水道の普及と『改善』を報告します。
一方、第5代横浜市長「三橋信方」もまた水の専門家でした。
市長になる前、官僚時代には横浜水道経営の立役者となり、パーマーが構築した日本初の水道経営を軌道に乗せる実績を残します。
横浜が良港として、国際都市として発展するには安心できる大量の水確保が必須でした。
「森林太郎」「三橋信方」は共に都市経営における水道整備を同時代に担ったテクノラートでした。
また、
三橋信方はベルギー公使を歴任するなど外交官としての国際感覚も持ち合わせていました。ベルギーは鴎外が学んだドイツの隣国ですが、時間的な接点はありません。
「森林太郎」「三橋信方」そこには両者の直接的関係はなかったかも知れませんがが
公衆衛生に対する“
信頼感”と“シンパシー”があったことは間違いないでしょう。
市歌を作る話しがあがった時、市長「三橋信方」が最初に浮かんだ人物は文壇においても活躍し始めていた「森林太郎」だったのではないでしょうか。

1909年明治42年)7月1日に横浜市歌は「開港式典」で発表されました。
式典からしばらくして
7月31日に市長三橋信方は鴎外の自宅を訪れます。
形式的には、作詞依頼等の事務は官吏三宅成城氏にまかせましたが、
無事市歌も完成し一段落した頃に訪問した訳は?
そこで話された話題は何だったのでしょうか?
当時世の中を騒がせた森の発禁問題も話題に出たのでしょうか?
それとも「水」談義だったのでしょうか。

■意外な出来事
横浜市歌は、1966年(昭和41年)歌いにくいという理由で 音階の一部を変更しています。変更には異論も多かったようですが当時の関係者の強い意向で
 子供達が歌いやすいようにという理由で変えられています。
この事実には 驚きました。
つい最近まで横浜市歌の<楽譜>にそのことが記述されていませんでしたが、ある時から記載されています。指摘があったのでしょうか?(2011年投稿2018年補足)

■元となったもの
横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る前編

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る前編

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る 後編

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る 後編

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る前編

■(ブログを始める前2009年ごろに書いたものです)
「わが日の本は島國よ 朝日輝ふ海に 連り峙つ島々なれば あらゆる國より舟こそ通へ」と続く歌詞は、文豪森林太郎(鴎外)作詞による横浜市歌です。街のどこかでこの歌が流れると、思わず口ずさむ市民に出会うことができます。そう、平成になって音頭やブルースにもなったこの歌は日本一歌唱人口の多い市の歌といえるのではないでしょうか。
横浜市歌は小雨降る新港埠頭で行われた「開港50周年記念大祝賀会式典」で市民に披露されました。1909年(明治42年)7月1日のことです。

開港五十年紀年絵はがき

市民に愛されているこの市歌、作詞者鴎外は有名ですが、作曲者についてはほとんど知られていません。作曲は当時東京音楽大学助教授であった南能衞(みなみよしえ)です。何故、この二人が横浜市歌を作ることになったのか詳細は不明ですが、二人とも「反骨の精神」を持つ気概ある芸術家であったことは間違いありません。

南能衞は明治14年徳島に生まれ、この横浜市歌を作曲した時は28歳でした。作詞者の鴎外が47歳でしたから親子に近い年の差がありました。小さい頃から数学が得意で、徳島師範学校を卒業し尋常小学校教員資格を得ました。すでに徳島市富田尋常小学校訓導に任命されていましたが、休職し好きな音楽教育の道に進むことを選び東京音楽学校甲種師範科に入学します。卒業後、教員となり郷里徳島中学から和歌山師範に移り師範では初の男女混声合唱を指導します。この成果が評価され1908年、母校東京音楽学校に戻り助教授に就任します。順風満帆でしたが、数年後人事で辞表を叩き付けます。
一方、作詞の森林太郎(鴎外)は、明治大正の文豪として多くの作品を残していますが、大秀才で、二歳年齢を多く申告し帝国大学医学部に入ります。語学に堪能で、19歳で本科を卒業後陸軍軍医となりドイツに留学します。この時の異国の恋を描いたのが代表作「舞姫」ですが、軍医との二足のわらじで書いたものでした。1909年『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」等も執筆した夏目漱石と並ぶ文豪となります。
横浜市歌制作時、南能衞は東京音楽学校助教授になり、森林太郎(鴎外)は文学へと傾倒し始めた頃です。鴎外は、軍医の職を持ちながらも、フェノロサのもとに開設された東京美術学校(現東京藝術大学)に1889年(明治22年)美術解剖学講師となり、1892年(明治25年)9月には慶應義塾大学の審美学(美学の旧称)講師を委嘱され日本の美学の基礎を切り開きます。鴎外の偉大な遺産は、文学であり美学ですが、発禁処分、左遷、戒飭(かいちょく)後彼も人事問題で辞表を叩き付けます。
共に正義感が強く、反骨精神の塊だったようです。(後編へ)

横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る 後編
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=628