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No.220 8月7日 (火)Visit Yokohama MM

ホテルは街の魅力のバロメーターです。
素敵な街には良いホテル・旅館があります。横浜ホテル事情を観察すると、横浜の魅力度が見えてきます。
1997年(平成9年)8月7日の今日、みなとみらいに3番目のホテル「パン パシフィックホテル横浜」が開業しました。現在は「パン パシフィック横浜ベイホテル東急」と経営母体が変わり改称されています。

「パン パシフィックホテル横浜」は、クイーンズスクエア横浜の運営会社である横浜・シティマネジメントが“みなとみらいエリア”3番目のラグジュアリーホテルとして開業しました。東急電鉄グループが海外ホテル経営を行っていたパン パシフィックホテルズの日本進出(逆輸入)旗艦店として、ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル、横浜ロイヤルパークホテル(当時横浜ロイヤルパークホテルニッコー)に次ぐ話題の進出となりました。
http://pphy.co.jp
2007年(平成19年)に創業時の横浜シティ・マネジメントから東急ホテルズ傘下の横浜ベイホテル東急ヘ経営権が譲渡され「パン パシフィック 横浜ベイホテル東急」と改称されました。

“パン パシ”のめざすラグジュアリーさは
“personalized care, because we genuinely care”の実現を目指し、全従業員(アソシエイツ)がお客様ひとりひとりに妥協なきおもてなしを施す姿勢から導き出されています。(少しCMっぽくなってしまいましたが)
1997年(平成9年)当時から、ホテルレストランの目玉として
地元横浜市出身の石鍋裕シェフがプロデュースする、『フランス料理 クイーン・アリス』がオープンするということで話題になりました。
また、中国料理は総料理長 脇屋友詞の「トゥーランドット游仙境」の開店という有名料理人のお店がホテルに進出する相乗効果を狙った展開がブームになりました。

みなとみらい地区が1989年以降開発されるに伴い、横浜観光の軸が明治大正時代が薫る山手、山下エリアと新しい都市空間としてのMMエリアが形成されることで横浜の魅力に幅がでてきました。当然、ホテル進出競争も起こり、みなとみらい周辺には90年代から次々とホテルが進出しします。

■ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル
1991年8月20日に開業。
http://www.interconti.co.jp/yokohama/index.html

■横浜ロイヤルパークホテル
1993年9月15日に開業。
http://www.yrph.com

ブリーズベイホテル(1990年9月)、ナビオス(1999年)、ワシントンホテル(2000年)に加え、新横浜にホテルアソシア新横浜(2008年)桜木町駅前にはニューオータニイン(2010年)が開業しましたが、

パークハイアット横浜、W Yokohama(共に2010年開業予定)の中止はリーマンショック以降の経済環境の激変とはいえ横浜ホテル市場にかげりを示す兆候とする関係者も多く、今後の横浜の“ビジット”能力が問われているでしょう。

(余談)
「パン パシ」ホテル正面玄関からのアプローチはわかりやすいのですが、クイーンズスクエア側からホテルに入る際、入口がわかりにくく開業当初一瞬迷いそうになりました。(その後ちょっと改善?されました)

【関連ブログ】
No.200 7月18日(水)無限の境界

No.180 6月28日横浜能楽堂、その点と線

1996年(平成8年6月28日)の今日、
横浜市西区紅葉ヶ丘に横浜能楽堂が開館しました。
この能楽堂にある能舞台は関東地区で最も歴史あるもので横浜市指定建造物に指定されています。
横浜能楽堂を巡る様々な物語を簡単に紹介します。
(という割に長文でごめんなさい。プリントして読んでください)一部修正しました。

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能楽堂外観

横浜能楽堂(よこはまのうがくどう)は、横浜市西区紅葉ヶ丘27-2掃部山公園の一角にある横浜市の能楽堂です。
現在は指定管理者制度により公益社団法人横浜市芸術文化振興財団が運営しています。
周辺には掃部山公園、音楽堂、県立図書館、青少年ホール等が隣接する知のなごみ空間です。

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散策ルート紹介

横浜能楽堂の能舞台は、移築・復元されたもので
1875年(明治8年)に
東京・根岸の前田斉泰邸(加賀藩邸)に建てられたものです。
設計は東京帝国大学工科大学建築学科出身の山崎静太郎が担当し、鏡板に描かれた松、白梅、根本の竹が極めて珍しい構図となっているのが特徴です。

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珍しい白梅、根本の竹

その後、1919年(大正8年)東京文京区染井の華族(元高松藩主)松平頼寿の母千代子さんが隠居されていた所に能舞台を移築されたことから「染井能舞台」と呼ばれるようになりました。
※母 千代子 彦根藩主、大老だった井伊直弼の次女にあたります。
当時 都内には多くの能舞台があったそうですが、関東大震災と戦災でも4カ所だけ残った内の一つです。
戦後、昭和20年〜30年頃までは、
宝生流を中心に能再興の本拠地として全盛を極めました。
また松平頼寿は、現在の本郷学園創設者だったところから
ここの生徒達は年に何回か能を鑑賞する機会があったそうです。

(実は父が東京に大学進学のため上京した際、本郷中学に3年時編入しています。卒業証書には松平頼寿の名が在り
 能楽堂の話しを聞いたことがあります)
1955年(昭和40年)になり、この「染井能舞台」は老巧化が激しく再建を断念し解体されました。
その後、宝生能楽堂の倉庫に保管されていましたが、
1979年(昭和54年)解体された部材が横浜市に寄贈されることになりました。
横浜市は最大限の復元をめざし部材の大部分を使って“横浜能楽堂”として復元再生に挑むことになります。
新能楽堂建設には当初膨らむ予算や技術的課題が山積し完成にはかなり時間がかかりました。
全体設計を大江匡(大江匡建築事務所)が担当し
1996年(平成8年)3月にようやく竣工の運びとなりました。
http://ynt.yafjp.org/
東京根岸から染井へそして横浜紅葉ヶ丘へと“うつろい”ましたが、
能の心は新しい舞台の下で受け継がれています。

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落雁がおすすめです
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(横浜能楽堂を繋ぐ因縁)
この横浜能楽堂「舞台」を設計した山崎静太郎には不思議な横浜との縁があります。
東京帝国大学工科大学建築学科時代の同期で親友となった仲間に、
●大熊喜邦(おおくま よしくに)
妻木頼黄・矢橋賢吉の後を引き継いで国会議事堂の建設を統括し、横浜銀行協会、帝国劇場、山口県庁舎・議事堂の設計にも関わった建築家です。
●後藤 慶二(ごとう けいじ)
日本建築界の構造学者としては草分け的存在。
コンクリート構造に関する論文を多数執筆発表ました。
絵画、俳句、能等の芸術にも造詣が深く、建築作品に活かしています。(36歳で死去)

そして
●咲壽栄一(さくじゅえいいち)
1884年(明治18年)横浜電気株式会社の常務取締役上野吉二郎の長男として東京の京橋に生まれました。
1893年(明治27年)に横浜市吉田小学校へ転校、神奈川県立第一中学校へ入学します。
京都市第三高等学校を経て、東京帝国大学工科大学建築学科に進み山崎清太郎、後藤慶二、大熊喜邦ら上記の仲間達に出会います。
卒業後大蔵省臨時建築部に入り、のちに大蔵技師。
妻木頼黄とともに設計にあたりますが30歳という若さで逝去します。
墓所は横浜市磯子区の根岸西有寺墓地です。
咲壽栄一は惜しくも30歳という若さで亡くなりましたが、その間短い時間ではありましたが大蔵省臨時建築部で多くの税関設計に関わってきました。また俳人としても非凡な才能を表し短い人生に詠んだ句はおよそ3万句もあったそうです。
彼が亡くなった後、山崎静太郎が中心となって咲壽栄一遺稿集「卯木集」を出版します。咲壽は卯花(ウツギの花)を好み、俳号「卯木屋」と読んだそうです。
横浜電気株式会社の常務取締役上野吉二郎の長男ですが、母方の高橋家の祖母の姓を名乗り咲壽栄一(さくじゅえいいち)として活躍しました。
この高橋家が、現在の「株式会社ダニエル」を創業し横浜クラシック家具の伝統を守っています。
「株式会社ダニエル」http://www.daniel.co.jp/

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(まだある横浜能楽堂)
長くなりますが 分けずに一気にいきます。
東京と文京区根岸の前田斉泰邸に建てられた「根岸能楽堂」を我が母のために文京区染井に移築した松平頼寿は、最後の高松藩主だった松平頼聰の八男でした。
頼聰はあまり評判が良くありませんが、母となる千代子は善き母だったようです。
この母千代子は、井伊直弼の次女として生まれ幕末明治、大正、昭和まで生き抜いた女性です。
彼女の生涯も物語になる波乱万丈の人生だったようです。
この横浜能楽堂の建つ敷地は、開港50周年に際し井伊家から寄贈された掃部山公園(かもんやまこうえん)です。
平成に建った能楽堂の窓から井伊 直弼像を眺め観るとは…。

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画像が飛んでいますが右側の窓から像が見えます
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(見学フリーデーがありますので是非 中をご覧ください)

もう一つの貴重な能舞台
「久良岐能舞台」
http://www.kuraki-noh.jp

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(おまけ)
今日6月28日は、「貿易記念日」です。
1963年(昭和38年)、自由貿易推進の為に閣議決定し、通商産業省(現在の経済産業省)が実施を決めました。
FTAとかTPPとか、最近議論になっていますが、
1859年(安政6年)5月28日(新暦6月28日)、徳川幕府がロシア・イギリス・フランス・オランダ・アメリカの五か国に、神奈川(横浜)・長崎・箱館(函館)での自由貿易を許可する布告を出し、港を開港、同時に「運上所」(税関)が設けられました。
貿易に携わる企業だけでなく、ひろく国民全般が輸出入の重要性について認識を深める日として設定したそうです。
FTAとかTPPについて 考える一日(では済みそうにありませんが)にしてみましょう。

No.143 5月22日 横浜遺産、あまりに無名!

北緯:35度26分01秒
東経:139度37分50秒
この位置にあるごく普通の神社、
明治時代の そして横浜の貴重な刻印の物語をご紹介しましょう。

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(まえおき)
1932年(昭和7年)の今日、現在の南区八幡町にある中村八幡宮の上棟式が挙行されました。
おそらく”関東大震災で受けた本宮の再建が行われたものです。
創立年代は不詳ですが、第60代天皇醍醐天皇(885年〜930年)の頃すでに「八幡大明神」の神祠としてここにあったと伝えられている神社です。
社格は明治6年に八幡村の村社となりました。
この神社はごく普通の“村の鎮守様”ですが、Wikipediaの【八幡神社】には
横浜の八幡神社の一つにリストアップされています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/八幡宮
中村八幡宮(横浜市南区八幡町)
杉田八幡宮(横浜市磯子区)
根岸八幡神社(横浜市磯子区根岸)
舞岡八幡宮(横浜市戸塚区舞岡町)
八幡社(横浜市青葉区)
※横浜市内にはざっと数えても36もの八幡神社がありますから、選ばれた理由を知りたいところです。blo-E4-B8-AD-E6-9D-91-E5-85-AB-E5-B9-A1-E5-AE-AE-E9-96-80この中村八幡宮は、横浜橋商店街を抜け三吉演芸場を過ぎ「三吉橋」を渡り寂れてしまった「三吉橋商店街」の途中にあります。
ここに、1876年(明治9年)8月から1年間だけ作られたきわめて珍しい内務省地理寮水準点(BENCH MARK)が残されています。
日本近代測量の重要な遺産ですが、現在数えるほどしか残存していません。
なかでも当時の位置に残っているものは文化財に指定されるほど貴重なものです。

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横浜市地域文化財史跡(1998年11月9日指定)

(BENCH MARK)
横浜は日本で最初に近代測量が行われ五千分の一地図を完成させた街です。
明治新政府が近代国家となっていく上で正確な「地図」が必要となり明治7年(1874年)1月、内務省に地理寮(後の地理局、現在の国土地理院)を設置しました。
てはじめに開港5港(横浜・神戸・新潟・函館・長崎) と東京・大阪・京都など主要都市の市街図作成に力を注ぎました。
測量の基本は三角点を使った「三角測量」ですが、高低差の正確な測量には三角点に加えて標高の位置情報が必要となります。
当時、恒久的な建築物や石組み、または標石等に
「不」の字に似た記号を刻み、計測点とし横棒部分が標高ラインを示しました。
この記号“水準点”が内務省地理寮水準点(高低几号標)で、英語ではBENCH MARKといいます。

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この頃、政府は欧米列強各国のスタンダードモデルを急いで取り入れた時代でした。
このBENCH MARKは導入期に1年だけ採用されたイギリス式の測量技術の貴重な遺産です。
なぜ日本語で「几号」というか面白いエピソードが残っています。
記号から机を連想し、机と同じ意味の「几」の字を当て「几号(きごう)水準点」もしくは不の字から「不号水準点」と呼ばれました。

(余談)
港湾用語で、船に積み下ろしをする積荷を一時的に保管して荷捌きをする簡単な小屋(保税倉庫)を上屋(うわや)と呼び作業を「上屋業務」といいます。開港時、外国人(英語系)がこの建物を見てWare houseと呼び、日本語の「上屋」の造語ができたと言われています。

(貴重な「不」の字に似た記号)
測量の行われた横浜にはこの内務省地理寮水準点が幾つか残っています。
震災、空襲、接収という三大苦を経ても現存しているのは大変なことなんですが、一部のマニアにしか知られていないのは残念です。
■中村八幡宮以外の横浜「不号水準点」
(本牧山妙香寺)
横浜市中区妙香寺台8
北緯:35度26分01秒、東経:139度39分02秒
→未調査(すみません)

(山谷庚申塔)light_201504190223 light_201504190224 横浜市南区山谷110
北緯:35度25分47秒、東経:139度37分31秒

(伊勢山皇大神宮)
横浜市西区宮崎町64
北緯:35度27分00秒、東経:139度37分36秒

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設置当時から移動されています
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覗き込まないと見えません

■観光コンテンツ
寺社は重要な観光コンテンツです。
その歴史軸、カテゴリー軸(祭祀)、由緒軸等だけでは「京都」に「鎌倉」にかないません。
横浜の観光コンテンツ構築にはそこに別なサブカテゴリーをセットすることで確実なものになっていきます。
まだまだひろがる「横浜コンテンツ」

No.6 1月6日(金) 天然スケートリンク開場(修正、加筆)

2013年9月修正、加筆
1948年(昭和23年)のこの日、神奈川新聞に「大倉山天然スケート場開場」という記事が出ていました。
2012年冬、赤レンガ倉庫広場の「Art Rink × GROUND ANGEL in 横浜赤レンガ倉庫」も10年を迎え横浜の人気スポットとなりましたが、戦前から戦後にかけて人気の天然スケートリンクが大倉山にありました。

「大倉山天然スケート場」は1938年(昭和3年)に大曽根町(現大曽根台)の冨川善三さんが「氷場」の池をスケートリンクに変え営業を開始しました。氷を造るところを氷場(こおりば)といい、綱島、大倉山一帯は「氷場」が地場産業として盛んに造られます。
明治初期、横浜開港場では外国人が、ボストンや天津(てんしん)など外国からわざわざ氷を輸入していました。この状況を知った綱島の飯田広配(いいだひろとも)さんが外国人より製法を聞き、改良を加えて港北地域の特産品としたことが、この地域の「氷場」の始まりだそうです。
その副産物(ではありませんが)利用法としてスケート場が登場しました。スケート場は、天候に左右されましたが成功すると利益も莫大なものがありましたから、ハイリスクハイリターンの事業であったことは確かです。

この大倉山天然スケート場、
1935年(昭和10年)には、東急電鉄から千円という巨額の投資を受け、大少5つの池を300坪の大リンクに改装し一度に200人が滑走でき人気スポットとなったそうです。
リンクづくりは全て手作業で、厳寒の中激務だったそうですが製氷には電気を使用しなかったこともあり第二次世界大戦時も閉鎖されること無く、多くの市民の憩いの場としても利用されました。
オープン当初の滑走料金は1時間15銭でしたが
改装後の広告には
「都心から一番近い天然スケート場、リンク400坪、休憩室、更衣室の設備があり、1月上旬より2月下旬まで公開、入場料1時間25銭、貸スケート1時間20銭」(東急『沿線案内』)とあります。
当時の気象記録を見ると、昭和20年代に入ると一日の降雨量が増えています。
天然リンクには雨が一番大敵で雨が降ると営業に響きました。
オープンから約20年間、利用客促進のための東急の投資も功を奏しましたが
気象条件の悪化が主な原因で大倉山一帯のスケートリンクは昭和22年から25年頃に次々と幕を閉じることになります。
一方“天然氷づくり”は、スケートリンクより早く大正期までが最盛期で、昭和に入ると機械製氷に押され廃業していきます。
現在もその名残が残っているそうですが、実地確認はしていません。

スケートリンクと言えば、昭和40年代に箱根強羅の天然リンクにでかけた記憶があります。
スケートリンクといえが現在も現役で活躍する

「神奈川スケートリンク」が頑張っていますね。

神奈川スケートリンク
現在、日本で一番長寿営業のリンクです!」というキャッチフレーズが凄い!
2014年現在 改装のため休業中、代わりに
横浜市中区翁町2-9-10(旧 横浜総合高等学校 跡地)にリンクがオープンしています。
http://www.kanagawaskaterink.com/index.php

※老朽化のため建て替えられるそうです。工事期間中の営業は仮設リンクで対応し、来年12月には新スケート場が完成する予定です。