横浜年表ピックアップ【10月26日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
●1878年(明治11年)の今日
「北方の射的場で外国人の競走会開催。」
No.169 6月17日(日)私は武器を売らない
「北方の射的場」で「競争会」が開催されたことがポイントです。
●1887年(明治20年)の今日
「自転車入荷の広告が出される。」
No.369 1月3日(木)自転車乗ってますか?
●1938年(昭和13年)
「本市社会事業家渡辺たま子(81)が逝去した。
渡辺福三郎夫人で、横浜孤児院、女子商業学校を設立した。また婦人運動に活躍した」
※渡辺福三郎は渡辺治右衛門(銀行家・東京の大地主)の弟、横浜第一の地主。
※1900年(明治33年)南太田の庚耕地に横浜孤児院を創設
●1939年(昭和14年)の今日
「市では東京開港問題にたいし、本格的な反対運動をおこすことに決定した」
No.347 12月12日(水)横浜自立の原点
※港都横浜と帝都東京の都市間競争!
今私が最も関心のあるテーマです。
●1948年(昭和23年)の今日
第1回横浜市営戸塚競馬開催(〜11/2)。
No.306 11月1日(木)戸塚駅東口小史
暦で語る今日の横浜【9月18日】
横浜の年表から
今日起った出来事をピックアップしました。
●1874年(明治7年)の今日
「路上、橋際で人力車の客待ち停止が多く通行の妨げとなるため人力車並列場を設け、以後そこに置くように指示した。」(神奈川県史料)
明治以降急速に成長した人力車は、明治期のモータリゼイション時代のパイオニアですが、交通ルールが決められていなかったため、多くのトラブルも起ってきます。
バブル時代に繁華街のタクシーが社会問題となりましたが
歴史は繰り返すのかも知れません。
「人力車並列場」とは現在のタクシー乗り場のことです。
●1878年(明治11年)の今日
新橋・横浜間の汽車運行事業で中等の空席が多いため苦慮していた国は
上・中等の旅客に往復切手(割引往復乗車券)の制度を設け割引し乗車促進策とします。実施は11月1日で、日本初の往復乗車券のはじめといわれています
●1906年(明治39年)の今日
山崎紫紅、「史劇 七つの桔梗」発表
山崎紫紅、横浜生まれの劇作家。本名山崎小三。
史劇を多く手がけ「七つ桔梗」は彼の代表作の一つ。
●1925年(大正14年)の今日
野毛山公園が開園しました。
面積は27,500坪でもとの「原善三郎」と「茂木惣兵衛」の庭園を併せこれに水道給水場を加えたものです。野毛山公園は災害復興事業として始まった事業です。
No.101 4月10日 薄れ行く災害の記憶
●1963年(昭和38)の今日
飛鳥田市長が市会で初の市政運営方針を発表
横浜市六大事業
http://ja.wikipedia.org/wiki/横浜市六大事業
No.393 横浜外環状線に遊ぶ
No.37 2月6日 都市デザインの実践場
No.58 2月27日(月)政治家が辞めるとき
●1915年(大正4年)の今日
横浜市は、セルビア救済のために「万国救難の会」結成し義捐金募集を開始します。
※第一次世界大戦の舞台となった バルカンの火薬庫セルビアは、中世オスマントルコ支配から独立したころから小国同士の争いが絶えない地域でした。1912年〜1913年にバルカン戦争を通してオスマン帝国から独立を勝ち取りますが、1914年(大正3年)6月28日ボスニア地方の州都サラエヴォで起ったフランツ・フェルディナント大公の暗殺をキッカケに全面戦争に突入します。第一次世界大戦の始まりです。
この第一世界大戦で
セルビアは全人口の28%、男子人口の58%を失います。
1919年(大正8年)のパリ講和会議では日本の提出した人種差別撤廃案に賛成するなど民族問題に取り組む姿勢をとりますが、この地域の人種差別と宗教差別による歪みは、20世紀後半まで火種となって残りました。
●1919年(大正8年)の今日
小野光景(おの みつかげ) 75歳で亡くなります。
横浜商業高校(Y校)の前身にあたる横浜商法学校を創立しました。
絹糸輸出商社の小野商店を創業した実業家で貴族院議員を歴任。
中央本線(辰野支線)に彼の名にちなんだ「小野駅」がありますが、鶴見線の「鶴見小野」は、この地を埋め立てた小野高義・鱗之助親子に因んだものです。
暦で語る今日の横浜【9月14日】
横浜の年表から
今日起った出来事をピックアップしました。
●1862年(文久2年8月21日)の今日
幕末の大事件「生麦事件」が西暦1862年の今日起ります。
ブログでは(文久2年8月21日)の旧暦にて紹介しました。
※因みに幕末明治の年表を悩ます「旧暦」は
明治5年12月2日(1872年12月31日)まで使用されていました。
翌日の12月3日が明治6年1月1日(1873年1月1日)となり日本の暦が「西暦」に統一されました。→しゃんしゃん!!という訳には行きません。
何故か?
だって旧暦で生活していたのが約一ヶ月(明治5年の12月が無くなってしまう訳ですから むちゃくちゃな変更です。
それも 11月9日(約一ヶ月前)に布告され実施されます。
立川志の輔さんは この出来事を新作落語にしています。
番外編 幕末明治の年号って苦労します。
●1875年(明治8年)の今日
「野犬が増加したため、飼主の住所氏名を明記した首札を飼犬に付けるよう触れが出た。神奈川県史料(1)390」
明治8年の話しです。現代とはレベルが違いますが野犬の問題は同じようですね。
●1896年(明治29年)の今日
巖本善治(33歳)横浜本牧の多聞院に滞在する。と日記にあります
多聞院は現在も中区本牧元町2−16にあります。
巌本 善治(いわもと よしはる)は女性教育家、評論家で事業家です。
フェリス女学院に講演に行って助教・若松賤子を知り、
1889年(明治22年)横浜海岸教会で結婚式を挙げます。
No.153 6月1日(金) 天才と秀才
実業家としては
コーヒーの直輸入会社カフェ・パウリスタに取締役として参加。
1911年(明治44年)11月
東京にカフェ・パウリスタが開店します。現在もカフェ・パウリスタは健在です。
http://www.paulista.co.jp
●1923年(大正12年)の今日
震災後2度目の市会がひらかれ、
帝都復興事業に横浜市を包合することを求める意見書を
監督官庁に提出する建議可決
※復興から“横浜”が取り残されないように 必死の意見書を国に提出します。このような“横浜も東京と同様に復興支援を”という記事を当時の新聞や行政記録に多く発見することができます。
現実 関東大震災以降、横浜は急速に都市力を失っていきます。
●1929年(昭和4年)の今日
「保土ケ谷区天王町の橘樹神社の新築落成式の報告祭が行われた」
相鉄線天王町近くにある橘樹神社は
天王様 (てんのうさま)とも呼ばれ素盞嗚尊を祀る文治二年創建の神社です。
社殿は文政十三年に改築し
大正12年の関東大震災で倒潰し1929年(昭和4年)の今日復興します。
が、横浜大空襲で全焼し1951年(昭和26年)に復興し現在に至ります。
http://www.youtube.com/watch?v=wUljQchyDr0
橘樹神社(たちばな じんじゃ)は武蔵国橘樹郡に幾つか点在します。
橘樹郡の総社は川崎市高津区子母口にある橘樹神社です。
●1932年(昭和7年)の今日
「済生会鶴見診療所が開設された。」と記事がありました。
済生会鶴見診療所の「済生会」を調べて びっくりしました。
※済生会 正式には
社会福祉法人恩賜財団済生会(おんしざいだんさいせいかい)と称し、
日本最大級の医療福祉関係の財団です。
http://www.saiseikai.or.jp
※「済生会は、明治天皇が医療によって生活困窮者を救済しようと明治44(1911)年に設立しました。100年以上にわたる活動をふまえ、今、次の三つの目標を掲げ、日本最大の社会福祉法人として全職員約54,000人が40都道府県で医療・保健・福祉活動を展開しています。」財団HPより
(最初の病院は横浜に!)
1913年(大正2年)9月に
神奈川県済生会病院が現在の横浜市西区岡野町に開設したのが済生会第1号病院です。
横浜からスタートした医療財団だったのです。
神奈川県病院はのち横浜大空襲により焼失し、戦後移転し現在横浜市神奈川区
富家町6-6に開設し地域医療拠点として医療活動を続けています。
http://www.kanagawa.saiseikai.or.jp
暦で語る今日の横浜【9月7日】
●1875年(明治8年)の今日
久良岐郡磯子村真照寺旧境内
久良岐杉田村東漸寺塔頭の地上知分を
それぞれ小学校敷地として下渡することについて、神奈川県より内務省へ伺った。「神奈川県史料(5)135〜136」
久良岐郡磯子村真照寺旧境内→磯子小学校(明治6年5月)
久良岐杉田村東漸寺塔頭の地上知分→杉田小学校(明治6年5月)
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写真 さがしてます |
※明治初期(明治10年までに)設立された小学校リスト
1872年(明治5年)
山下小学校 北八朔町1865-3
1873年(明治6年)
子安小学校 新子安一丁目24-1
都岡小学校 都岡町4-8
北方小学校 諏訪町29
鉄小学校 鉄町427(くろがね)
星川小学校 星川三丁目18-1
元街小学校 山手町36
末吉小学校 上末吉一丁目9-1
谷本小学校 藤が丘一丁目55-10
保土ケ谷小学校 神戸町129-4
磯子小学校 久木町11-1
杉田小学校 杉田一丁目8-1
根岸小学校 西町2-46
金沢小学校 町屋町26-26
釜利谷小学校 釜利谷東六丁目37-1
六浦小学校 六浦三丁目11-1
大綱小学校 大倉山4丁目2-1
日野小学校 日野七丁目11-1
田奈小学校 田奈町51-13
富岡小学校 富岡西七丁目13-1
日吉台小学校 日吉本町一丁目34-21
長津田小学校 長津田町2330
戸塚小学校 戸塚町132
市場小学校 元宮一丁目13-1
潮田小学校 向井町三丁目82-1
山内小学校 新石川一丁目20-1
青木小学校 桐畑17
市沢小学校 市沢町781
二俣川小学校 二俣川1-33
石川小学校 中村町1-66
大岡小学校 大橋町3-49
太田小学校 三春台42
1874年(明治7年)
高田小学校 高田町1774
中川小学校 牛久保東二丁目21-1
鴨居 小学校 鴨居四丁目7-15
1875年(明治8年)
川島小学校 川島町1162
神奈川小学校 東神奈川二丁目35-1
1876年(明治9年)
千秀小学校 田谷町1832
このように、明治初期に地域の学校が設立されます。
学校の敷地の多くが地元の協力で
(寺社、私有地等)を寄付し開校された学校が多かったようです。
●1899年(明治32年)の今日
「太平洋電線敷設に関し建議する。」
日本の国際通信に歴史は古く
1871年(明治4年)に始まります。
長崎と上海が海底ケーブルで結ばれ、通信ビジネスが始まりますが、当時最も貿易量が多かった日米間のケーブル通信が実現するには
その後 かなりの時間を必要とします。
長年、日米間は欧州経由で国際電報が取り扱われていました。
日米直結の太平洋ケーブル計画は、通信が欧州からアジアに開通した明治初期から念願でした。特に国内最大の対米貿易都市、横浜にとって
「太平洋ケーブル敷設」は悲願でした。
明治政府にとって最初の外国首脳訪日だった
ハワイ王カラカウア王とも太平洋通信計画が話し合われます。
また、ハワイ国王一行の正確な到着時間も(欧州経由)電信で伝えられます。
No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に
様々なハードルを乗り越え、太平洋を越え日米間にケーブル通信が開通したのが
1900年(明治39年)8月まで待たなければなりませんでした。
この太平洋通信事業成功に尽力したのが
「大谷嘉兵衛」氏です。
No.345 12月10日(月)Tea or Coffee?
大谷嘉兵衛、三重出身の実業家で明治大正期の横浜史に欠かせない重要人物ですが
横浜での“大谷嘉兵衛”知名度は??????
1899年(明治32年)9月7日の今日
横浜商工会議所会頭 大谷嘉兵衛は
10月に米国フィラデルフィアで開催された
第一回国際商業会議所会議に出席する前に
「太平洋電線敷設に関し建議」し、
アメリカに渡り日本代表として米国に建議書を渡します。
多くのハードルを乗り越え サンフランシスコ・ハワイ・マニラまでが開通し、
すでにマニラ・香港間の回線と繋いで通信回線が
太平洋を繋ぐことになります。
No.26 1月26日 横浜東京間電信通信ビジネス開始
この太平洋通信回線の開通が
日露戦争(後には真珠湾攻撃)に深く関わっていきますが、
その話しは別の機会に。
※大正時代ですが
一通の電信が大問題となった「大正のロッキード事件」
シーメンス事件も横浜が舞台でした。
No.23 1月23日 大正の正義
No.465 三島と横浜、その縁を探る
2013年(平成25年)8月
猛暑日に縁あって三島市の中央部に源流を持ち
中心部を流れる「源兵衛川」下りを楽しみました。
静岡県東部に位置する三島市と約100Km離れた
横浜市のつながりを少し探ってみました。
「源兵衛川」
三島駅前にある「楽寿園」小浜池を水源として、三島市中心部を抜け最下流に位置する「温水池」までの約1.5キロ続く清流です。
住宅地、商業地の合間を縫うように流れる「源兵衛川」は、かつて“お金以外は全て捨てられていた”と言われた“どぶ川”の汚名を持つ川でした。この川に自生していた「梅花藻」も絶滅していました。
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開花する梅花藻 |
今から四半世紀前に多くの市民と専門家の手によって再生活動が始まり
現在は 多くの市民が「源兵衛川」の恵みを楽しむ市民憩いの清流となっています。
今では「梅花藻」をはじめカワセミも観察できる大切な自然空間となっています。
http://www.kouenguide.com/search/water/genpei/
http://www2.tokai.or.jp/younet24310/repo9-1.html
(CFS)
Customer(顧客)
First(第一)
Store(店舗)
この言葉を社名に抱える株式会社CFSコーポレーションは、現在イオングループに属する年商1,000億円を越える中堅のドラッグストアチェーンです。
マツモトキヨシホールディングスの4,300億円には及びませんが、静岡・神奈川を中心に300店舗を展開しています。
私たちは
「ハックドラック」「ハックキミサワ」の名の方が有名になっています。
CFS=HACは
横浜市港北区新横浜2-3-19に本部があり
三島市広小路町13-4に本店がある
「横浜」と「三島」を繋ぐ企業です。
1923年(大正12年)7月
石田初太郎が、個人営業の工業薬品等の小売店を横浜市南区横浜橋通商店街にて「イシダ」を創業します。
一方
1926年(大正15年)9月
君澤安が、個人営業の薬局を静岡県三島市広小路町にて創業します。
キミサワの名は、創業者の名であり、創業地の君澤郡の地名に由来します。
近くには君澤山浄土宗蓮馨寺があります。
(合併)
この「株式会社クスリのイシダ」と「株式会社キミサワ」が
1993年(平成5年)8月21日に合併、株式会社ハックキミサワに商号変更します。
その後、HACとなり
2003年(平成15年)8月21日に株式会社ハックキミサワから株式会社CFSコーポレーションに商号変更となりました。
近くにある「ハック」が横浜と三島を舞台に展開する企業だと知っていましたか?
イオングループ傘下に入るに至っては 紆余曲折ありましたが、ここでは触れません。
(いっずっぱこ)
三島駅から温泉地「修善寺」まで、
三島市民の足であり観光の重要な路線となっている
「伊豆箱根鉄道駿豆線」が走っています。
「伊豆箱根鉄道駿豆線」は
1893年(明治26年)9月30日豆相電気鉄道株式会社として創業された120年の歴史をもつ鉄道会社です。
一方、小田原駅と南足柄市の大雄山駅とを結ぶ大雄山線も同じ伊豆箱根鉄道の路線です。
「伊豆箱根鉄道駿豆線」は利用者からは「いずっぱこ」という愛称で呼ばれています。
はて?
この「伊豆箱根鉄道駿豆線」が横浜とどうつながる?
確かに修善寺と横浜を直結する「JR踊り子号」が2本走っています。
それだけではありません。
「伊豆箱根鉄道駿豆線」の歴史に横浜は重要な舞台となりました。
設立発起人
豆相電気鉄道株式会社設立の立役者となったのが
甲州商人“雨宮 敬次郎”でした。
雨宮 敬次郎(あまみやけいじろう)
「天下の雨敬」「投機界の魔王」と呼ばれ、波瀾万丈の商人人生を歩みましたが、投資家であると同時に全国の鉄道開業に参画していきます。
軽便鉄道の雨宮とも呼ばれました。
雨宮のビジネスの出発点は横浜でした。ワンマンでインフラビジネスに進出した点は政商“高島嘉右衛門”と共通点が多くありますが
分岐点は高島と同じ「鉄道事業」でした。
甲斐国山梨郡牛奥村に生まれた雨宮 敬次郎は地元で一財産築き
1870年(明治3年)から1872年(明治5年)頃に横浜でビジネスを始めますが
生糸相場・洋銀相場で大失敗しスッテンテンになります。
1876年(明治9年)から1877年(明治10年)
アメリカ、ヨーロッパを外遊し、鉄道、製鉄、水道等のインフラビジネスの重要性を感じます。
製粉事業に成功し現在の「日本製粉株式会社」の基盤を作ります。
※日本製粉株式会社
日清製粉に次いで日本国内シェア2位
横浜工場 横浜市神奈川区千若町2丁目1
軽井沢の開発事業でこの地に植林をし軽井沢の森林を作ったことはあまり知られていません。
(鉄道経営)
雨宮が関わった鉄道事業をざくっと紹介します。
●中央本線の前身となる甲武鉄道
●現在の西武国分寺線となった川越鉄道
●北海道炭礦鉄道の取締役
●大師電気鉄道の発起人→大師鉄道は
現在の京浜急行です。
●東京市街鉄道の会長
●1905年(明治38年)には
江ノ島電鉄社長に就任しました。
●横浜線にも関係があります。
No.69 3月9日 事業失敗鐵道、横浜線物語
てなちょっとこじつけっぽいネタでしたが
三島は素敵な街でした。
No.463 高島嘉右衛門 風聞記
北海道と横浜を結ぶ政商「高島嘉右衛門」を追いかけている内に、不思議な人間関係に辿り着きました。
今日は 想像の領域!のセミフィクション仕立てです。
賀茂真淵、本居宣長と並ぶ国学者、平田篤胤(ひらた あつたね)。
その考えは尊皇攘夷の支柱となり、倒幕後の明治維新変革期の原動力ともなりました。
幕府の暦制を批判したことで江戸から追放された人物です。
平田篤胤は
1776年10月6日(安永5年8月24日)に生まれ
1843年11月2日(天保14年閏9月11日)郷里秋田で亡くなります。
彼が江戸処払いを命じられ、1841年(天保12年)故郷秋田に蟄居するまで京橋三十間堀に居を置いていた頃
近隣の子供達を集め一種の英才教育をしていた時期があります。
ちょうどその頃 近所(三十間堀八丁目)に暮らしていたのが
薬師寺嘉衛門一家です。この薬師寺家六男が
後に高島嘉右衛門と名乗ります。
嘉右衛門は 易断家としても有名で自伝によれば獄中で学んだとありますが、
そのキッカケとなったのは
平田篤胤か その養子となり優秀だった平田 銕胤(ひらた かねたね、1799年12月31日(寛政11年12月6日)〜1880年(明治13年)10月25日)ではないか?と推理しています。
高島 嘉右衛門は1832年12月24日に生まれます。
平田 銕胤は1824年25歳の時に篤胤の養子となります。
銕胤は嘉右衛門の親くらいの年齢ですから 嘉右衛門は彼から易学を学んだのかも知れません。
これだけでは ただ単に 時代と育った場所が近いというだけです。
ところが 意外な所で この点と線が結ばれたのです。
舞台は 一気に北海道に移ります。
北海道の西南海岸に“せたな町”という小さな街があります。平成に入って市町村合併する前は“瀬棚町”と漢字で表記しました。
この“瀬棚町”を もしかしたら テレビか新聞で知っている方も多いかもしれません。過疎地における予防医療の実践で多くの報道があった村上智彦医師で有名になった町で、彼が一時期勤めていたのが「荻野吟子記念瀬棚町医療センター」です。
ここでは村上医師ではなく記念病院名となった「荻野吟子(おぎのぎんこ)」がキーワードになります。
■荻野吟子
荻野吟子は日本における近代医学を学び女医となった第1号です。北海道久遠郡瀬棚町で開業し10数年この瀬棚地域に貢献した記念すべき人物ですが、その人生は波瀾万丈そのものでした。
荻野吟子の功績をしのび 1967年(昭和42年)北海道百年を記念して女史の顕彰碑が開業地跡に建てられます。
1851年4月4日(嘉永4年3月3日)武蔵国幡羅郡(現在の埼玉県熊谷市)に生まれ
1913年(大正2年)6月23日東京府本所区小梅町の自宅で亡くなります。
62歳でした。
彼女の足跡を簡単に追います。
1870年(明治3年)19歳のとき夫からうつされた淋病がもとで離婚し、治療のため上京します。ところが、婦人科治療を行った医師は全て男性医師だったため“屈辱的な体験”をします。そこで荻野は女医を志します。
1875年(明治8年)24歳で東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)一期生として入学します。
1879年(明治12年)首席で東京女子師範学校卒業し医学を習得するために私立医学校・好寿院に特別に入学を許されます。その時も男子学生に様々ないじめにも遭いながら優秀な成績で卒業します。
当時 医師資格受験が許認可制だったため、
荻野吟子は東京府、埼玉県に医術開業試験願を提出しますが
ことごとく“却下”されてしまいます。
1884年(明治17年)9月多方面への働きかけが実り医術開業試験前期試験を受けることができます。他に3人受験者がいましたが吟子だけ合格します。
1885年(明治18年)3月34歳で後期試験に合格し同年5月湯島に「産婦人科荻野医院」を開業します。近代日本初の公許女医の誕生です。
1886年(明治19年)田口卯吉らとともにキリスト教の洗礼を受けます。
さらに荻野吟子は自ら波瀾万丈の人生を選びます。
1890年(明治23年)39歳の時13歳年下の同志社の学生、志方之善(しかたゆきよし)と周囲の猛反対を押し切り再婚します。
夫、志方之善が理想郷をつくるという信念から北海道へ渡る決意をし
1891年(明治24年)単身渡道します。
キリスト教徒のための理想郷を求めて志方之善の他、丸山要次郎らが神丘地区(イマヌエル)に調査に入り、
1893年(明治26年)に会衆派と日本聖公会の教徒約60戸が入植します。
1896年(明治29年)吟子も診療所を閉鎖し之善のいる神丘地区(イマヌエル)に入植しますが、諍いを嫌った吟子は海辺の瀬棚合津町に移転し診療所を開業し夫、志方之善と距離をおきます。
※当時 今金町は一種のゴールドラッシュで、砂金、メノウ、マンガン、マンガン採掘採集地として入植者が殺到しますが同時に争いも絶えない時代でした。
志方之善はマンガン採掘にも失敗し京都の同志社に戻り神学を学び、牧師として北海道浦河教会に赴任することになります。
1905年(明治38年)志方之善は敗残の思いの中、病死します。
1908年(明治41年)吟子は帰京するまでこの地瀬棚町で診療活動を行います。
ここまで「荻野吟子」の簡単な生涯を追ってきましたが、どこに高島 嘉右衛門との接点があったのでしょうか?
吟子は医術開業試験願を提出しますがことごとく“却下”されてしまいます。
「…願書は再び呈して再び却下されたり。思うに余は生てより斯の如く窮せしことはあらざりき。恐らくは今後もあらざるべし。時方に孟秋の暮つかた、籬落の菊花綾を布き、万朶の梢錦をまとうのとき、天寒く霜気瓦を圧すれども誰に向かってか衣の薄きを訴えん。満月秋風 独り悵然として高丘に上れば、烟は都下幾万の家ににぎはへども、予が為めに一飯を供するなし。 …親戚朋友嘲罵は一度び予に向かって湧ぬ、進退是れ谷まり百術総て尽きぬ。肉落ち骨枯れて心神いよいよ激昂す。見ずや中流一岩の起つあるは却て是れ怒涛盤滑を捲かしむるのしろなるを。」(せたな町HPより)
万策尽き、最後の手段として外国での資格取得も考えていた荻野吟子に救いの手を差し伸べたのが、
高島嘉右衛門です。
嘉右衛門と荻野吟子の接点は不明ですが、
当時の医師資格に関する政府トップ衛生局局長「長与専斎」との接点を
嘉右衛門は国学者で政府に発言力のある
井上 頼圀(いのうえ よりくに天保10年2月18日(新暦1839年4月1日)〜大正3年(1914年)7月4日)に依頼します。
井上 頼圀は国学者で文部省、宮内省に出仕し、私塾神習舎で教えた教育者です。
1882年(明治15年)には松野勇雄らと皇典講究所(のち國學院)を設立します。
國學院教授、女子学習院教授を務めました。
ここで、冒頭の推理が登場します。
国学者、井上 頼圀は
平田 銕胤の弟子にあたります。
高島嘉右衛門より7歳年下の井上 頼圀は、平田 銕胤を介して親交があったのではないでしょうか。
荻野吟子が 北海道久遠郡瀬棚町で医療活動を行いながら過ごした10年
1898年(明治31年)から1908年(明治41年)の頃
高島嘉右衛門は
1889年(明治22年)「北海道炭礦鉄道会社」に出資
1892年(明治25年)4月4日に二代目社長に就任。
1906年(明治39年)10月1日に国有化。
この時期に、荻野吟子と高島嘉右衛門との交流が 北海道で無かった方が不自然ではないでしょうか。
山師、政商 かなりダーティなイメージのある「高島嘉右衛門」ですが、
単純に腹黒い人物像では解けない部分も多く、
人間 高島嘉右衛門の実像が 今後の研究であぶり出されていくことを
大いに 期待するところです。
●今回は 殆ど横浜とは関係ありませんでしたが、
点と線がつながった感動をそのまま掲載しました。
次回から また横浜ローカルに戻ります。
(余談)
高島嘉右衛門のもう一つの謎が
時の総理大臣 伊藤博文と 姻戚関係にありながらも
その関係が 易経で伊藤の暗殺を予言した!という話ばかりです。
伊藤博文の汚れ役を一部担っていたとも考えられます。
幕末明治はまだまだ 謎だらけです。
No.462 北海道と横浜を結ぶ点と線2
横浜と北海道の大地を点と線で結んだ男がいます。
おそらく、北海道と最も因縁のある横浜商人でしょう。
彼の名は
高島嘉右衛門(たかしまかえもん)
今日は “北海道と横浜を結んだ高島嘉右衛門”を紹介しましょう。
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神奈川区にある高島嘉右衛門自宅近くの碑 |
北海道に限らず八面六臂の活躍をした嘉右衛門は、横浜・東京のインフラ関係、港湾関係に多く関わります。南は佐賀鍋島藩、東北の南部藩、静岡、愛知 他全国を走り回ります。殆ど鉄道のない時代にです。
中でも北海道では多方面で活躍し多くの足跡を残しています。
■北海道の高島嘉右衛門
2006年(平成18年)4月に廃線となった「北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線」に「高島駅」がありました。この「高島駅」は、横浜市西区にある「高島駅」同様、高島嘉右衛門に因んでつくられた駅です。駅名としては1910年(明治43年)9月22日国有鉄道網走線の駅として開業した「高島駅」の方が歴史ある駅でした。
皮肉にも東横線高島駅(後に高島町駅)も2004年3月に廃止されました。
北海道の「高島駅」は廃止される前に一度訪れたかった場所ですが、残念ながら間に合いませんでした。
何故、北海道に高島駅?
北海道の十勝川流域、帯広市の北東に位置する中川郡池田町高島は
明治中期に高島嘉右衛門が開いた「高島農場」によって発展した町です。鉄道インフラに強かった高島は鉄道敷設を念頭に入れながら農場周辺の道路整備を行います。
「高島農場」
大正11年の地図でも確認することができます。
農場の横には学校も開校しますが、学校は池田町立高島小学校として現在も残っています。
実は高島嘉右衛門の北海道ビジネスは明治になって早々から始まります。
1874年(明治7年)には横浜港〜函館港間の定期航路を開きます。
経営的には大失敗で採算が合わずに翌年には中止になってしまいますが嘉右衛門は諦めていませんでした。
その後も北海道でのビジネスチャンスを狙っていました。
ちょうどこの頃、新潟県三条町から二人の青年が北海道札幌に小間物店を開きます。今井藤七と同郷の高井平吉です。
彼らは苦労しながらも低価格と誠実さ・勤勉さが評判となり地域一番店となり1874年(明治7年)には店名を「丸井今井呉服店」とします。
この「丸井今井呉服店」が後の北海道老舗デパート「丸井今井」に育ちます。
創業期、高島嘉右衛門とも交流があり。嘉右衛門の北海道ビジネスとも深く結びついていました。
※「丸井今井」は残念ながら近年経営破綻し三越伊勢丹ホールディングス傘下となりました。
大正13年に札幌の老舗丸井今井本店ビルの設計を担当したのが「遠藤於菟」です。
No.159-2 6月7日(土) 三井物産ビル
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=4877
精力的に北海道のビジネスチャンスを求めた嘉右衛門は、
1889年(明治22年)「北海道炭礦鉄道会社」に出資し経営参加します。
此の頃に関係があったのでは?と思われるのが
瀬棚町に日本の女医第一号となった荻野吟子が開業し、高島が支援したと思われる接点がありました。
No.463 高島嘉右衛門 風聞記
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=91
その後、創業者堀基の後を継ぎ1892年(明治25年)二代目社長となります。(後に四代目社長にも)
※「北海道炭礦鉄道会社」 手宮(小樽市) – 幌内(三笠市)間をはじめ、現在の北海道旅客鉄道(JR北海道)函館本線の一部
■ワンマン経営の果て
高島嘉右衛門のビジネススタイルは、典型的なワンマン経営でした。明治期の様々なビジネスに参画しますが、全て後継者育成をしなかった経営者でした。
成功したもの失敗したもの全て自分で切り開き自分で責任をとっていくタイプでした。同じワンマン経営だった岩崎弥太郎とは同じビジネスチャンスをつかみながら全く対照的な人生を歩むことになります。
もう一つ、高島嘉右衛門を巡る 面白いエピソードが北海道にあります。
次回は 半分想像!フィクションも含めて 高島嘉右衛門の謎に迫ります。
(関連ブログ)嘉右衛門は話題満載。いっぱいあります。
No.204 7月22日 (日)一生を世界一周に賭けた男
No.61 3月1日 成田山横浜別院延命院復興
No.391 謎解き馬車道
他は省略
【再開のお知らせ】
2013年8月13日(火)酷暑は続きます。
世の中は“お盆休み”ですね。
私は、8月2日(金)に目の不具合を感じ近くの眼科医で
「緊急入院」を告げられ 約10日間入院しておりました。
この間、雪隠詰めでしたので いろいろ思いを巡らせてきました。
ブログの【再開です】
現在仕込み中のネタを少し予告しておきます。
【北海道を繋ぐ点と線】プロローグ
横浜が育てた多くの商人達からベストを選ぶとしたら?
視点で変わりますが
波瀾万丈といえば
中居屋 重兵衛と高島嘉右衛門でしょう!
さらに加えれば田中平八ですが、中居屋 重兵衛と高島嘉右衛門の二人を越える商人はいないでしょう。
共に、一時期“横浜市”では不人気のようでした。中居屋 重兵衛は目下基礎資料を読んでいる途中です。
今日は、「高島嘉右衛門」から横浜が繋ぐ“点と線”のプロローグとします。
彼に興味を持ったのは、今から三十年位前でした。
高島嘉右衛門は、業績の割に横浜で“無視”されている感じがしたからです。
近年、高島嘉右衛門の遺族から(ようやく)資料が公開されました。
※現在開港資料館で整理分析中です。
中居屋 重兵衛は謎だらけであまり横浜開港史に登場しませんが、彼の出身地群馬ではかなり研究されています。
一方中居屋 重兵衛に対し、高島嘉右衛門は謎よりあまりに活動領域の広い史実に
研究者も二の足を踏んだのかもしれません。
また、一時期 社会問題にもなった「高島暦」の創始者だったからでしょうか?
彼 高島嘉右衛門は 例えば清水の次郎長、佐賀鍋島藩主、福沢諭吉、伊藤博文らと関係がありました。
伊藤博文とは最終的に姻戚関係になります。
北は北海道とも深い関係があります。
次号の「ブログ」はこの辺から始めたいと考えています。
幕末明治を生き抜いた政商「高島嘉右衛門」にとって多角事業のほんの一部でしかなかった「北海道」での事業から見えてくる小さな物語を紹介しましょう。
北海道もまた 横浜に似た 幕末以降波瀾万丈の開拓史を残した地です。
No.460 横浜と福島をつなぐもの
ひらめきは素晴らしい!でもどう表現したら良いのか。
時々出会うラッキーなネタなんですが
料理ができない歯がゆさが先立ってしまいます。
今日は 言い訳から始まります。
かつて、福島出身の震災復興に関し優秀な“テクノラート”が居ました。
堀切 善次郎(ほりきり ぜんじろう)
1884年(明治17年)9月2日福島県飯坂温泉の豪農豪商の堀切家に生まれた堀切 善次郎は、東京帝国大学卒業後内務省に入り法律、技術官僚として事務官・監察官・参事官・書記官を経て都市計画局長・土木局長など歴任します。
その後、渡欧(1919年大正8年〜1921年大正10年)し
ドイツで革命後のワイマール憲法の選挙法を調査研究し帰国します。
最近某財務大臣発言で物議を醸した「ワイマール憲法」ですが
それまで婦人参政権が無かった日本の普通選挙制導入に大変尽力された政治家です。
※婦人参政権の実現は戦後になりますが、彼の手で法案が提出されます。
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堀切邸 |
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天井のカーブをもたせる贅! |
一方、堀切 善次郎は、都市政策にも明るく
震災直後から復興計画に関わることになります。
その結果、復興局長官に抜擢された清野長太郎知事の後任として
1925年(大正14年)震災で焦土化した神奈川県復興のために知事に赴任します。
当時の有吉忠一横浜市長と二人三脚で精力的に復興施策を実施していきますが、
前任の神奈川県知事だった復興局長官“清野長太郎”が就任中に急死します。
そのため、堀切は清野長太郎の後任として 着任早々1926年(大正15年)復興局長官に任命されます。さらに1929年(昭和4年)には13代東京市長となり
横浜と東京で 復興の優先に関して“ライバル関係”になります。
東京政財界からは 横浜に限定されていた“国際港”としての独占権を廃止する“東京開港運動”が起ります。
ここで、横浜市長「有吉忠一」と「堀切 善次郎」は、
同じ神奈川で以前タッグを組みましたが、
その後全く利害を異にする立場で争うことになります。
No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?
国策を理由に1941年(昭和16年)5月20日“東京港が開港”します。
東京開港運動は大正期に高まり
昭和早々からは強い政治運動となります。
横浜港にとって“致命傷”だった“東京開港”が戦争直前までもつれこんだ背景には
もしかしたら堀切 善次郎の横浜への思いがあったのかもしれません。
こればかりは判りません。
横浜と福島は
野口英世(のぐちひでよ)、星一(ほしはじめ)のエピソードが劇的ですが
この堀切 善次郎と横浜も 静かなる因縁があったかもしれません。
No.321 11月16日(金)吉田くんちの勘兵衛さん(加筆)
開港場「横浜」生みの親は誰でしょう?
私は“吉田勘兵衛”さんだと考えます。
彼の名が現在市内の一部に残っています。
その代表が「吉田橋」と「吉田町(商店街)」です。
1946年(昭和21年)11月16日(土)この吉田町商店街が復興祭を開催(17日まで二日間)しました。
この記事から
ざくっと(おこがましいですが)吉田町商店街を巡るエピソードを当ブログ流に追って?みましょう。
まず吉田町商店街はどこにあるのでしょうか?
現在の吉田町は伊勢佐木町と野毛町を結ぶ短い商店街です。
開港後横浜が国際港として整備が始まり、国内用と外国用の桟橋ができました。
国内用の日本波止場から「馬車道」が走り「派大岡川」の「吉田橋」を抜け伊勢佐木町商店街横から野毛と「横浜道」に抜ける商店街が「吉田町商店街」です。
それでは始めましょう。
吉田町商店街は幕末から昭和40年代まで、
継続してずーーーっと
横浜で一番コンスタントに賑わっていた“隠れ人気スポット”でした。
だから、終戦直後も一番に「復興祭」を開催したのでしょう。
1946年(昭和21年)11月16日(土)の「復興祭」は、神奈川新聞に広告と記事が出ています。
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写りが悪いのでご勘弁ください |
“吉田町復興際”
進駐軍の許可を得て清水組(現在の清水建設)の全面協力で商店街を再建します。
※清水建設は1858年(安政5年)井伊直弼より開港場横浜の外国奉行所などの建設を請け負い横浜開発とは縁が深いゼネコンです。(都橋脇に横浜支店があります)
そこに戦前のお店が復活しその記念セールをするといった内容です。
(広告では)70の店舗が揃ったとPRしています。
ビクターの歌手が3名出演する“歌謡ショー”も同時に行われました。
3人の歌手とは
晩年は横浜で暮らしたデュエットの藤原亮子、
第1回日本レコード大賞童謡賞を受賞した石井 亀次郎。
そして新人の平野愛子でした。
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平野愛子(wikipedia) |
これは中々特筆すべきことで、歌手 平野愛子が新人で登場していることです。
平野は1945年(昭和20年)暮れにビクターが行った歌手募集で3,000人の中から7人という400倍以上の倍率から選ばれた大型新人でした。
特にビクター専属作家「東辰三」に見いだされ
1947年(昭和22年)4月にビクターが戦後初のレコードとしてリリースした
「港が見える丘」で第一線に躍り出た
「濡れたビロウド若きブルースの女王、平野愛子」です。
この歌のヒットが「港の見える丘公園」の名につながります。
No.129 5月8日 ヒット曲の公園
港が見える丘 平野愛子
https://www.youtube.com/watch?v=VHJd8VMleCU
この“吉田町復興際”開催から半年後ですから、もうライブで練習していた頃ではないでしょうか?
当時を知る方から平野愛子は吉田町で何を歌ったか聞いてみたいものです。
(開港以前に横浜に着目)
この吉田町商店街、吉田橋の名が残る「吉田」は、横浜の関外地区を開港前に私財を投げ打って埋め立てた「吉田勘兵衛」さんの「吉田」です。
彼の努力、開拓精神が無ければ今の横浜は無く、開港場は最初の要求通り“神奈川”になっていたかもしれません。
(悲劇の埋立て王)
吉田家の代々に渡る横浜埋立て物語は語るも涙の物語です。
横浜に広大な新田を造った吉田 勘兵衛は江戸時代前期の日本橋で材木商を営み財を成します。高島嘉右衛門、苅部康則らとともに横浜三名士といわれました。(時代はズレますが)
※マルチビジネスマンだった高島嘉右衛門
保土ケ谷宿の本陣を代々管理し、横浜道を造った苅部康則
吉田勘兵衛、
新田開拓に関しては、隅田川沿い、千住中村の音無川流域を埋立て農業の世界でも成功します。
1656年(明暦2年)に横濱の入海に目をつけます。
幕府の許可を得て新田の開発(干拓)に着手し数々の苦労を乗り越え完成し「吉田新田」と名付けます。
この功績により苗字帯刀を許され、子孫は代々この新田に住み続けることになります。現在は大岡川近くの「吉田興産ビル」にその名残があります。
大岡川吉野町辺りから現在の首都高速までぜーーーんぶ、
吉田家の奮闘でできた土地です。
工事の途中、潮除堤が崩壊し干拓途中の土が流されたりしますが、地元の人々の意見をまとめあげながら約20年かけて
1667年に完成させます。
信心深かった吉田勘兵衛は
「新田開発の成功は村民の努力と神様や仏様の守りがあったからだ」と考え“お三の宮日枝神社”と長者町八丁目に“常清寺”を建てます。
吉田家の菩提寺となっている“常清寺”はその後、久保山に移りますが共に祀られた「浄地院殿永運日浄清正公大神祇」(清正公様)は現在も(清正公通り)と共に長者町に残っています。
吉田家は明治に入って、横浜開港場の水運機能を高めるために中村川から根岸湾までの運河を開削し「堀割川」工事を進めます。途中財政難に陥りますがなんとか完成します。
現在の吉浜町・松影町・寿町・翁町・扇町・不老町・万代町・蓬莱町はこの土砂を使って埋め立てられたのです。
まさに現在の横浜は「吉田さん」のおかげです。
No.214 8月1日 (水)開港場を支えた派川(はせん)工事
(最近元気な吉田町)
最近元気になった「吉田町」に関しては
http://www.yoshidamachi.org
十六夜吉田町スタジオ
http://izayoiyoshidamachistudio.com/ja/
カクテルの世界チャンピオンのお店「ノーブル」も吉田町にあります。
No.134 5月13日 必ず素晴らしい日の出が訪れる
その他
吉田町商店街付近はまだまだ十話分以上のネタがありますが、
今日はこのへんで。またの機会に。
【番外編】吉田町雑景
No.352 12月17日(月)市民の財布を守った都南
1894年(明治27年)頃に「第一有隣堂」を当時のビジネススポット吉田町通りに開業します。