横浜年表ピックアップ【10月17日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
皆さん台風の被害は大丈夫ですか?
伊豆大島にはかつて何度も竹下桟橋から夜行便でお世話になりました。
伊豆稲取だとすぐですが…
亡くなられた皆様のご冥福をお祈りいたします。
●1875年(明治8年)の今日
「維新後横浜に来住し私塾を開いていた山梨県の人真下晩菘(77)が浅草で没した」
最初調べても(山梨ネタ)ばかりなので、諦めかけていましたが
さらに検索を続けていたら横浜ネタ出てきました。
ここに登場する「真下晩菘(ましも ばんすう)」は
1799年(寛政11年)山梨県に生まれ、幕末に旗本に仕えた幕臣です。
そして明治維新後、横浜野毛で私塾「融貫塾」を開きます。
ここまでは調べで判りましたが
横浜野毛の私塾「融貫塾」
場所はまだ特定していません。
「融貫塾」はその後、政治結社「融貫社」の母胎となり多くの活動家・指導者を輩出しました。真下晩菘は晩年、原町田に塾を開きこの地で亡くなります。
幕臣時代に面白いエピソードがあります。
ちょっと長くなりますが紹介しておきましょう。
真下晩菘の生まれた甲州市塩山に暮らす同郷の親友だった樋口八左衞門の息子大吉が
1857年(安政4年)に父の親友だった彼を頼って江戸に出てきます。
彼は郷里の“古屋あやめ”と駆け落ち同然でした。
幕臣としてすでに役職に就いていた真下晩菘は、彼に仕事を斡旋します。
幼名大吉は“樋口為之助”と名乗り(後に則義)、
蕃書調所の小使いとして働き金を貯め同心株を買い職を得ます。
明治になっても失職期はあったものの職に就き役人の傍ら不動産の売買・斡旋などを副業として生計をたてていました。
樋口 則義とあやめの間には娘3人の息子2人の計5人の子どもに恵まれ、
中流に近い豊かな家庭を築きます。
ところが
明治21年頃から家族に不幸と不運が重なります。
父の事業失敗と死が突然訪れ、
借金で残された家族は 樋口家三女の「奈津」の稼ぎに頼ることになります。
樋口家三女「奈津」こと夏子、一葉という名で短くも珠玉の作品を残して逝った日本最初の女性文筆家「樋口一葉」です。
●1910年(明治43年)の今日
和辻哲郎(21歳)横浜に泊まりがけで、14日から4晩つづけて山手のゲーテ座に通い、ウォリック・メイジャー一座の芝居を見たそうです。四日間連続泊まりがけの観劇というのは凄いですね。上演したウォリック・メイジャー一座とは
Warwick Major. Comedy Companyのことで、アジア公演を行い神戸でも上演しているようです。
「横浜ゲーテ座」は、日本初の本格的演劇場で、フランス人建築家であるポール・サルダの設計で 1870年(明治3年)に横浜居留地68番地に建てられました。
その後、1885年(明治18年)現在の場所に新しいホールが建設されました。
1923年(大正12年)関東大震災で建物が崩壊しますが、1980年(昭和55年)岩崎学園によって復元され現在に至っています。
ゲーテ座の「ゲーテ」の語源は、 詩人のゲーテではなく、英語の「陽気・愉快・快活」という意味に由来します。
●1914年(大正3年)の今日
大町桂月(45歳)
横浜鶴見に行き、花月園で好文会を催す。池辺義象、久保天随、武島羽衣、金子元臣らが参会する。
大町桂月(詩人、歌人、随筆家、評論家)
池辺義象(国文学者、歌人)
久保天随(漢文学者)
武島羽衣(詩人、国文学者、作詞家)
金子元臣(国文学者、歌人)
●1930年(昭和5年)の今日
「電車前後に丸形系統番号を採用(側面方向板は廃止)」
●1942年(昭和17年)の今日
根岸競馬場で最後の秋季競馬開催。戦争の激化のためこの日で終了。
No.276 10月2日(火)フェンスに囲まれた公園
No.130-1 5月9日 10日クラベウマ外交の時代(前編)
No.130-1 5月9日 10日クラベウマ外交の時代(後編)
●1987年(昭和62年)の今日
「近代水道100周年記念式典」が行われました。
No.291 10月17日(水)横浜水要日!
横浜年表ピックアップ【10月16日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
今日は台風26号モードで (直接関係ありませんが)短めに
●1905年(明治38年)の今日
「小村全権が横浜港に帰着した」
小村全権とは“小村寿太郎”のことです。
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wikiより |
1905年(明治38年)に日露戦争が終わり、この戦争に関する関係国の講和会議(ポーツマス会議)が開催され、小村はこの会議の全権大使として参加しました。当時、最も外交力のある人物でしたが彼をもってしても欧米各国の巧妙な外交力の前に十分な実力を発揮できないまま、ポーツマス条約を締結し帰国します。
結果に世論は沸騰し、焼き打ち事件が起こり世情不安になります。
横浜年表ピックアップ【10月4日】
1905年(明治38年)10月4日
第26代大統領セオドア・ルーズベルトの長女アリス・ロングワース・ルーズベルト(21歳)がアジア歴訪の帰りに「ミネソタ号」で再度横浜港に立ち寄ります。
この出来事と 深く関係があります。
●1939年(昭和14年)の今日
「目黒蒲田電鉄は臨時株主総会を開催し、
社名を「東京横浜電鉄株式会社」と変更します。」
えっ?と思うかもしれません。
東京横浜電鉄株式会社はこのときすでに現存しています。
1924年(大正13年)10月25日に「武蔵電気鉄道」から「東京横浜電鉄株式会社」と変更し社長に矢野恒太、専務取締役に五島慶太が就任します。
これが「東京横浜電鉄株式会社」の始まりです。
では、何故
ここに別会社の目黒蒲田電鉄が「東京横浜電鉄株式会社」と変更したのでしょうか?
実は1939年(昭和14年)の今日、
1924年(大正13年)から運営している「東京横浜電鉄株式会社」を
「目黒蒲田電鉄」が吸収・合併します。
普通なら吸収した方の会社名を名乗るのが一般的ですが、
目黒蒲田電鉄は、吸収した「東京横浜電鉄株式会社」の名をそのまま統合会社に使用します。
元々
目黒蒲田電鉄は、
1922年(大正11年)に渋沢栄一が立ち上げた田園都市(株)の鉄道部門を分離独立させ設立した会社です。
二つの別会社 共に経営陣の中に“五島慶太”が就任していました。
彼がこの「目黒蒲田電鉄」と「東京横浜電鉄株式会社」を合併させ 一つの「東京横浜電鉄株式会社」現在の東急を創り上げました。
本当はもっとややこしいのですが、ざくっとまとめてしまいました。
※会社合併とは全く関係ありませんが
1954年(昭和29年)の今日
東急東横線に画期的なデザイン、性能を持つ超軽量高性能5000系車両が導入されました。
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(Shellparakeet) 懐かしい方いるのでは?ボディはグリーンです。 |
●1941年(昭和16年)の今日
「横浜興信銀行が県下6銀行を合併した。」
(株)横浜興信銀行は
1920年(大正9年)に誕生し1957年(昭和31年)まで横浜金融界の要となった銀行で、
1956年(昭和31年)から(株)横浜銀行=浜銀→BOY(The Bank of Yokohama,Ltd.)となり現在に至っています。
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ビル群の一番左の縦に青い筋のあるのが浜銀本店 |
日本最大の地方銀行で、都市銀行と肩を並べる資産力を有しています。
1941年(昭和16年)の今日は、
明治25年創業の(株)相模銀行、
明治33年創業の(株)足柄農商銀行、
昭和2年創業の(株)明和銀行、
昭和5年創業の(株)鎌倉銀行、
昭和7年創業の(株)秦野銀行、
昭和7年創業の(株)平塚江陽銀行
の6行を合併します。
横浜興信銀行は元々、経営危機に陥った地元神奈川の破綻整理や経営改善のために設立された組織でした。
キッカケは1920年(大正9年)第一次世界大戦後の反動恐慌下で破綻した
七十四銀行と横浜貯蓄銀行の2行を整理・精算する目的で設立されました。
その後、神奈川県内の小規模の銀行を吸収合併し、神奈川県の代表金融機関として戦後不動の位置に付けます。
昭和20年を最後に (株)都南貯蓄銀行を吸収し
最終的には15に及ぶ金融機関が合流してできた全国でも珍しい、民間資本だけで大銀行となった“地方銀行”です。
No.145 5月24日 BOY七十四(修正版)
※初代頭取は三渓園を作った原富太郎です。
●1967年(昭和42年)の今日
バス48系統
横浜駅前〜中央市場前間の運転を開始しました
かつて中央市場にも市電路線がありましたが、初期の廃止路線として1966年(昭和41年)8月に生麦〜神奈川区役所間が廃止されるに伴い廃止になります。
代りにバス路線48系統が開通しますが、
中央市場にバスが行くようになった背景には、中央卸売市場に関係する人たちの増加があります。高度成長に伴い、横浜および神奈川県内の消費力アップで多くの飲食店、販売店が登場します。
●1978年(昭和53年)の今日
「海の公園」着工
No.51 2月20日 海の公園計画発表
横浜年表ピックアップ【10月15日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
※この日に関係する 俳人、思想家、経済人
市政、経済動向を紹介しました。
●1901年(明治34年)の今日
滝春一( たき しゅんいち) 横浜に生まれ水原秋桜子に師事し、「馬酔木(あしび)」の同人として活躍。
1939年(昭和14年)から「暖流」を主宰。戦後,無季俳句をとなえて「馬酔木」をはなれたが、昭和41年に復帰し昭和57年「花石榴」で蛇笏(だこつ)賞を受賞。
人生の機微をうたった多くの句を残します。1996年(平成8年)4月28日に死去。
●1912年(明治45年)の今日
石川三四郎(36歳)
横浜市(中区)根岸町字西竹之丸3178番地に転居してきます。
石川三四郎は、埼玉県出身
明治〜昭和時代にかけて活動した社会思想家、社会運動家です。東京法学院(現在の中央大)に学びキリスト教の洗礼を受けます。
1902年(明治35年)万朝報(よろずちょうほう)社に参加しその後「平民社」にはいり解散までここで言論活動を行います。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1170.html
1906年(明治39年)2月に石川は田中正造に出会い、足尾・渡良瀬の問題に関わっていきます。この年「平民新聞」の主幹に就任します。
当然、活動の高まりで警察との摩擦が高まり、逮捕入獄します。
石川は入獄前からこじらせていた気管支炎を治すため出獄した後、
1912年(明治45年)の今日 根岸海岸に彼を支援するクリスチャンのツテで転居します。転居後は、近所の住民に「幸徳の仲間だそうだ。打ち殺してしまえ」などと言われながらも海水浴を楽しむ毎日だったそうです。
1913年(大正2年)3月フランス船ポール・ルカ号で“亡命”という理由で渡仏します。フランスではポール・ルクリュ夫妻と親交を温め広く知識の吸収に努めます。
1920年(大正9年)10月に突然帰国します。
日本が生んだ代表的なアナーキストといわれている割にあまり知られていません。戦前の無政府主義(アナーキズム)といえば幸徳秋水や大杉栄が有名です。歴史学者、家永三郎は石川三四郎を称して「国宝的人間」と呼びました。
1921年(大正10年)11月に再度渡欧の旅に出ます。この時に、石川の運命を変える出会いがあります。この船には「北白川宮」がルーマニア皇太子訪日への答礼としてルーマニアに向かう一団が同乗していました。この一行の随行員の一人 尾張徳川家19代目当主、徳川義親(とくがわよしちか)と急速に親交を深くします。
徳川義親は、越前松平春嶽の五男で、帝大に学び“イデオロギーとは無関係に保守・革新の両勢力”に友人を持つインテリでした。実は、「北白川宮」一行が乗船する際に、警察から“この船には大逆事件の幸徳秋水の友人が乗船している。石川は社会主義者なので注意されたい”旨の情報がもたらされていました。この情報の元、徳川義親は石川三四郎の人物像を気に入ります。
徳川義親の知遇を得たことで、石川はその後なにかと物心両面の支援をうけることになり、関東大震災の時に多くの思想犯が投獄された際、徳川義親との知遇から官憲の取り調べを避けることができます。
1927年(昭和2年)共学社をもうけ
1929年(昭和4年)「ディナミック」を創刊します。
戦後になると日本アナキスト連盟を組織し80歳の生涯を閉じます。
※だらだらと長くなってしまいましたが、戦前の大杉、幸徳、石川 彼ら三人の生き方は同じ社会主義者として全く異なった人生を歩みます。この時代の人物にとても惹かれます。
●1946年(昭和21年)の今日
終戦後の横浜経済をどうするか課題山積の中、横浜商工会議所の復活創立総会が焼け残った商工奨励館で開催されます。再出発の定款の承認と役員の決定を行います。
会頭には後に横浜市長となった「平沼亮三」
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聖火を持つ市長像も珍しいのでは? |
副会頭には原合名会社社長「原良三郎」
三菱重工横浜造船所所長「李家孝」が選出されました。
が、「平沼亮三」「原良三郎」両氏は辞任を表明、
野村洋三(ホテルニューグランド社長)を会頭に
柳沢鉱一(横浜興信銀行後の横浜銀行頭取)が選ばれます。
その後1950年(昭和25年)11月22日に再度「平沼亮三」が頭取に選ばれますが
1951年(昭和26年)に横浜市長選出馬のため辞任(市長選には当選)
「原良三郎」が会頭に選ばれました。
●1961年(昭和36年)の今日
山下ふ頭第二突堤五号岸壁が完成します。
山下ふ頭は1953年(昭和28年)に着工、1963年(昭和38年)年に完成しました。
本牧ふ頭は
No.343 12月8日(土)横浜港の本職は?
●1966年(昭和41年)の今日
自治省は、第61国会で成立した地方公営企業法改正により
財政再建団体として「横浜市」を第1号に指定します。
1952年(昭和27年)8月1日に地方公営企業法が制定されます。
「地方公共団体の経営する企業について、能率性・経済性を発揮させる水道・軌道・自動車運送・地方鉄道・電気・ガス。地方公共団体の長の組織のもとに企業の管理者を置き、管理者は、企業職員の任免等の権限を有し、業務の執行については地方公共団体を代表するものとし、財務上は企業の経理について特別会計を設け、発生主義に基づく企業会計方式を採用し、企業職員の身分取扱いについては労働組合としての団結権・団体交渉権を認める。」
そして1966年(昭和41年)7月5日に
地方公営企業法が改正され「企業団制度の新設による管理者の権限強化など」により赤字経営の公営企業の再建に政府から財政援助を受けるための「財政再建計画」(合理化)が必要となり、
横浜市を含め 市電廃止がこの改正法で加速された経緯があります。
●1978年(昭和53年)の今日
日本の硬式庭球発祥の地(フェリス女学院裏)で誕生100年記念祭が行われました。
●1984年(昭和59年)の今日
みなとみらい21地区を含む「西・中区」が
通産省のニューメディア・コミュニティ構想のモデル地域に指定されます。
通産省・郵政省・建設省・農林水産省他がこぞって推進してきた「地域情報化政策」の一つです。
「テレトピア構想」日本版ビデオテックスであるキャプテンシステム等々
「インテリジェント・コミュニティ構想」
「テレワークセンター整備事業」「マルチメディア街中にぎわい創出事業」「田園地域マルチメディアモデル整備事業」「eまちづくり」「ITビジネスモデル地区構想」
ニューメディア・コミュニティ構想の目的は
「地域間の情報化格差を是正するとともに、地域の情報化を通じて活力ある地域社会を創造するため、地域コミュニティの産業、社会、生活の各分野におけるニーズに即応する情報システムの構築を国、地方自治体民間の密接な協力の下に行い、これにより高度情報化社会の円滑な実現に寄与しようとするもの」
①モデル地域を選定し、地域のコンセンサスの形成を図りながら、具体的に情報システムを構築、運用することによって情報システムの評価を行い、改善点を実態に即して検証し、情報システムの構築、運用に関するノウハウの蓄積を図ります。
②モデル地域に蓄積されたノウハウを応用発展させた形で普及させるため、応用発展地域を指定し、情報システムの構築を進めます。
③先行的に情報システムを構築したモデル地域及び応用発展地域を、全国的なネットワークの拠として位置づけ、情報システムの普及及びネットワーク化に貢献させます。
( 2つのタイプ)
先行的に情報システムを構築するモデル地域
モ デル地域で蓄積されたノウハウを応用発展させる応用発展地域が指定され
指定地域には推進法人に対する出資や融資,貸付制度などが設けられた。
横浜年表ピックアップ【10月14日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
今日は鉄道をめぐる10月14日関係を中心に紹介します。
●1934年(昭和9年)の今日は
「鉄道記念日」にあたり「鉄関係」を
外国人墓地にエドモンド・モレルの碑ができました
(中山沖右衛門設立)
○1962年(昭和37年)の今日
国鉄が、外国人墓地のエドモンド・モレル碑を
“鉄道記念物”に指定します。
“鉄道記念物”は1958年(昭和33年)から指定され
この年の鉄道記念物は
・秋田第1号鉄道飛砂防止林
・蒸気動車(キハ6401号蒸気動車)
・西園寺公望自筆の鉄道国有法案説明草稿
最近では
2010年(平成22年)JR北海道が指定した
しづか号機関車、い1号客車、大勝号蒸気機関車です。
頑張れ!!!JR北海道
○1969年(昭和44年)の今日
日本で最古の蒸気機関車クラウス17号が
キリンビール鶴見工場(生麦)で公開されました。(〜10月26日まで)
http://ameblo.jp/suganuma-tenko/theme-10002182761.html
○1972年(昭和47年)の今日
国鉄創立百年を記念して、汐留と横浜間で二日間
蒸気機関車を記念運転しました。
○1986年(昭和61年)の今日
鉄道友の会、高島ヤードに「鉄道博物館」建設の要望書を横浜市他関係団体に提出します。
※2007年(平成19年)10月14日の今日、横浜ではなく
さいたま市大宮区大成町三丁目47番にオープンしました。
http://www.railway-museum.jp/index.html
○2012年(平成24年)7月10日に
原鉄道模型博物館が横浜市の高島にオープンしました。
http://www.hara-mrm.com
★何時設置されたのか?判りませんが
桜木町駅構内に モレルの記念碑があります。
(灯台下暗し 写真撮ってません)
●1936年(昭和11年)の今日
「新京濱國道」第二京浜国道の起工式が行われました。
第二京浜は起点東京市荏原区戸越町(西五反田)、終点が横浜市神奈川区神奈川二丁目(青木通交差点)を結んでいます。
1949年(昭和24年)4月に車道が開通します。
全面完成はその後約10年の時間を要し
1958年(昭和33年)3月に全線開通しました。
「第二京浜」横浜区間には「響橋(めがね橋)」や「岸谷の湧水」などがあります。
●2000年(平成12年)の今日
関東の鉄道に共通するカード乗車券「パスネット」が発売開始されました。
PASMOではありません。(英称:Passnet)
この時点で導入したのは営団地下鉄・小田急電鉄・京王電鉄・京成電鉄・相模鉄道・新京成電鉄・西武鉄道・多摩都市モノレール・東京急行電鉄・東京臨海高速鉄道・東武鉄道・東葉高速鉄道・都営地下鉄・北総開発鉄道・ゆりかもめ・横浜高速鉄道(こどもの国線)・横浜市交通局(横浜市営地下鉄)の17社・局で最終的に関東地方(主に南関東)の鉄道(私鉄・地下鉄)22社局共通の磁気カードとして利用されました。
2008年3月14日まで運用
1,000円・3,000円・5,000円の3種類が発売
パスネットは将来の共通化を目的にJR東日本のイオカードと規格をあわせていた。しかし、結局磁気カードによる共通化は実現せず、一部のJRとの共同使用駅の自動精算機でJR線運賃の精算に使える程度
●1869年(明治2年)の今日
後にジャーナリストとなった成島柳北が32歳の時、
義兄と備中(岡山県)に行くため、当時速度が早かったアメリカ船に乗船するために横浜にやってきます。
ところが、出航延期となってしまい横浜に三泊しで出港を待ち17日の午後5時に出航します。それでも従来の旅に比べてかなり早い旅でした。
鉄道も無く、国内移動の多くが徒歩だった明治初期、
客船航路は外国船籍が独占状態でした。
成島柳北に関しては以前※紹介しましたが
明治維新早々に、外国の技術力の高さに触れた小さな旅でした。
※横浜年表ピックアップ【10月11日】
●1905年(明治38年)の今日
東京飯田橋の料亭「富士見楼」で日本山岳会の設立について最終的な打ち合わせが行われ、この日が「日本山岳会の設立の日」とされています。
東京で設立された「日本山岳会」と横浜の関係は?
この日本山岳会設立の発起人は7人いました。
初代会長となった
※小島烏水(作家で横浜正金銀行員)
財政面から強力な支持者となった高頭仁兵衛(二代目会長)
※武田久吉(6代会長)
河田黙(かわだ しずか)
梅澤親光
※高野鷹蔵(回漕業主)
弁護士の城数馬(じょう かずま)
以上7名ですが
欧米で組織化されていた山岳会の設立を強く進めた人物が
ウォルター・ウェストンです。
1905年(明治38年)3月に二度目の日本滞在を終えて、故国イギリスに向けて帰国する直前、横浜で知り合った4人の山友達を食事会に招きます。
その時のメンバーは小島烏水、岡野金次郎、武田久吉、高野鷹蔵で、
彼らに加えて 上記の仲間達が 小島烏水を中心に“横濱会議”が頻繁に行われます。
準備のため「同志の人々は、何十回となく会合した。恐らく何百通といふ手紙の、やり取りをやったらう」というほどでした。
小島烏水自身も横浜・東京間を何度も往復し、会の設立に奔走します。
「今回法学士城数馬、「博物之友」記者武田久吉、「日本山嶽志」著者高頭式、その他の同好諸氏と相質り、欧羅巴アルプス倶楽部の例にならひて、山岳会なるものを組織し、山岳を文学、芸術、科学等の諸方面より研究せんがため、本会の機関雑誌「山岳」を、毎年三回発行して、汎く同好者に儀たんとす、入会御希望の方には、規則書を呈すべきに就き、左記の拙宅宛に御申込を乞ふ。」
横浜市西戸部町山王山八百九十八番地 小島烏水
日本山岳会は 横浜から誕生したといっても 過言ではないでしょう。
No.118 4月27日 蟹とたはむる
●1922年(大正11年)の今日
山下橋開橋式、山下町海岸埋立竣工祝賀会がグランドホテルで開催されます。
一年後の1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が起ります。
震災復興計画が次々と立案されるなかで、
10月14日横浜の復興都市計画案の中で、海岸公園として「海岸遊歩道構想」が計画されます。これが現在の山下公園となっていきます。
山下公園に関しては、
1925年(大正15年) 6月に着工
1930年 (昭和5年)2月28日に完成
同年3月15日に開園します。
1935年(昭和10年)には
3月26日〜5月24日の期間、
山下公園で「復興記念横浜大博覧会」が開催されます。
このあたりの「山下公園」を巡る話しは
エピソード満載ですので、もう少し整理して
改めて紹介しましょう。
横浜年表ピックアップ【10月13日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
今日はこの日に因んだ
エドワード・モースと
平塚福太郎にスポットライトを当てます。
●1877年(明治10年)の今日
エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse)博士が
横浜の日本亜細亜協会で「日本先住民の証跡」を講演しました。
この年1877年(明治10年)9月に西南戦争が終結しましたが史上最大の内乱に疲弊していた中での、学問への誘いは研究者にとって勇気づけとなったに違いありません。
モースは1877年(明治10年)6月、研究調査のために来日します。
横浜港に到着したモースは文部省に採集の了解を求めるため横浜から汽車に乗って「新橋駅」に向かう途中で汽車の窓から、
大森貝塚を発見したというエピソードは有名です。
モースの日本における功績は、貝塚発見、日本研究の他人類学・動物学という学問的分野の紹介だけではなく、
当時の“お雇い外国人”の刷新を行ったことです。
これまで高い賃金を払っていながら専門でない“お雇い”に代え
専門知識を持つ優秀な外国人教授の来日(招聘)に尽力します。
哲学の教授となったアーネスト・フェノロサはモースの尽力によるものです。
この日講演した「日本先住民の証跡」は
『大森村にて発見せし前世界古器物』から「昔の日本には、アイヌとは別の、食人する人種が住んでいた」と推論したテーマの一部をテーマにしたようです。
その後モースは
1878年(明治10年)に二度目の来日で、北海道を度々訪れ精力的に採集を行います。また
1882年(明治15年)に三度目の来日時にはモースのコレクションに刺激された日本美術研究家のビゲロー(William Sturgis Bigelow)も一緒に来日します。
彼はフェノロサ、ビゲローらと各地を訪れ、日本の(江戸以前)文化採集を行います。
集めた民具は800点余、陶器は2900点に上りました。その多くがボストン美術館に収蔵されています。
モースコレクションから小さな発見
●1912年(大正元年)の今日
横浜「本牧花屋敷」が開園します。
※他の資料では1911年(明治44年)もありますが恐らく1912年が正しいと推測します。理由は下記に。
「本牧花屋敷」は東京浅草の「花屋敷」にヒントを得て、当時の土木事業者「平塚組」経営者“平塚福太郎”が作った遊戯施設です。
園内には池や滝を設けて小さな動物園や水族館も併設
初夏には躑躅、秋には菊の花壇が多くの花で埋まり、
演芸の常設小屋もあり多くの人で賑わったそうです。
さらに1914年(大正3年)には海水浴場を併設します。
ここに遊園地を作るキッカケとなったのが
1911年(明治44年)12月
横浜電気鉄道(現在の横浜市電)の本牧線が西ノ橋と箕輪下(現本牧原)間が開通したことで
一気に本牧エリアの利便性が高まったことです。
この「本牧花屋敷」建設には近くにある「三渓園」の原富太郎も応援したそうです。
そもそも、原三渓は当時最先端の路面電車を本牧三之谷に引くことを強く望んでいました。しかし本牧に鉄道を通すには
山手の山にトンネルを掘らなければならないという難題が立ちはだかる状態でした。
この本牧隧道の工事を請負ったのが「平塚組」の平塚福太郎でした。
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昔の名残はごく一部に残されています |
一帯の整地工事も同時に行い、住宅販売ビジネスも同時に行います。東急や阪急が行う前にデベロッパーとして鉄道連動型地域開発ビジネスの先駆けとなります。
「本牧花屋敷」完成後、平塚福太郎は自宅を本牧に移ししばらく暮らしていたそうです。この時に引越してきた家族に息子の平塚武二(当時小学校2年)が居ました。
※平塚 武二(ひらつか たけじ)
戦前の昭和、戦後初期の時代に活躍した児童文学作家です。
鈴木三重吉に師事し、雑誌「赤い鳥」の編集に携わり『魔法のテーブル』『Q』などを発表します。
1942年(昭和17年)童話集『風と花びら』を発刊。
戦後は空想と風刺にあふれた「ウイザード博士」などの童話を発表するなど古典や神話、歴史に取材した作品に優れたものがあり、代表作は『馬ぬすびと』『ものがたり日本れきし』、最後の作品は1973年の「ヨコハマのサギ山」あかね書房刊です。
意外なところでは
偕成社から出されている世界のどうわ12巻「イソップどうわ」
文が平塚武二 絵を熊田千佳慕が担当しています。横浜コンビの作品ですね。
弟子には横浜の児童文学者 長崎源之助、
横須賀出身で横浜の 佐藤さとる
いぬいとみこ、神戸淳吉らがいます。
「見たことがありますか」 平塚武二
海をみたことがありますか。
あります あります。
松の木が風にごうごうと鳴っていました。 まつかさを拾いました。
耳にあてたら 波の音が聞こえました。
ずっとむこうにレースのような波が見えました。
山を見たことがありますか。
あります あります。
汽車の窓から 大きな富士山が見えました。
富士山の歌をうたいました。 雪で真っ白な頂きでした。
墨色の空でした。
川を見たことがありますか。
あります あります。 深い深い朝もやでした。
葦の間に カイツブリが 浮いていました。
「ほうーい」とだれか呼んでいました。
しばらくすると 川は朝日で いっぱいになりました。
(以下略)
大正時代、羽振りの良かった平塚組は、本牧花屋敷の経営が上手くいかなかったのか、それとも平塚武二が後継者とならなかったからかどうかわかりませんが会社は消滅したようです。
それでも 本牧花屋敷オープンで、地域が発展し三之谷商店街はこの頃に誕生したと新井恵美子「原三渓物語」に書かれています。
児童文学者の平塚武二は、戦後早々には磯子の間坂に居を構えていたそうですから、本牧を引き払ったのは戦前のことかもしれません。
実は 平塚家「平塚組」の名残が 今も三渓園近くに残っています。
本牧三之谷・桜道に ひと際目立つのが「亀の子石神社」
「大昔のこと、漁師の網にかかった大亀がそのまま石に化したのだと伝えられている。いつの頃からかこの亀の子石はのどを守る神、特に百日咳に効験ありとして信仰され、百日咳などを患うと、この神様からたわしを借りてのどをこすり、また小児の食した茶碗をこのたわしで洗うと不思議に咳が治るといわれている。三七の結願で治ると亀の子たわしを倍にして返礼する習わしがある。」(本牧三之谷町内会、横浜本牧観光協会)
ここに古い小さな香台が残っていますが
ここに「平塚組」とあり、ここに寄進し氏子であったことが判ります。
(その他まとめて)
●1925年(大正14年)の今日
横浜市民としてはじめて飯田九一の「初秋」が帝展日本画に入選した。
●1936年(昭和11年)の今日
トーマス転炉の技術導入に関して日本鋼管とドイツデマグ社との契約成立
●1940年(昭和15年)の今日
横浜公園で大政翼賛三国結盟市民大会開催
●1949年(昭和24年)の今日
帝蚕倉庫に北仲通5丁目地先の埋立免許が下ります
●2000年(平成12年)の今日
横浜情報文化センター開館
横浜年表ピックアップ【10月12日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
●1890年(明治23年)の今日
「イギリス人スペンサーが横浜公園内で軽気球にのつて自由飛行の技を演じた」
昨年の「暦で綴る今日の横浜」ブログで紹介しました。
No.286 10月12日(金)初の空中PR横浜で (加筆修正)
●1899年(明治32年)の今日
「尾崎三良(57歳)横浜港から日本郵船の「八幡丸」に乗り、神戸から京都に向かう。三条実万公四十年祭に列席する。過日の大風雨のため東海道線が不通になったことによる。」
尾崎三良に関しては
「番外編」10月17日こら!ちゃんと仕事せい!
尾崎が向かった三条実万(さんじょう さねつむ)公四十年祭は幕末の公卿三条 実万の贈正一位に追陞[ついしょう]された式典に参列するために京都に向かいますが
(恐らく台風で)鉄道が不通になり、復旧が遅れたために海上ルートで関西に向かいます。
●1919年(大正8年)の今日
「河東碧梧桐(46歳)横浜に行き、神奈川台の田中屋で開かれた送別会に出席する。」
ミモーザを
活けて一日
留守にした
ベットの白く
河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)は日本の俳人・随筆家で、伊予松山出身。正岡子規の友人で、秋山真之を敬愛していました。
従来の五七五調の形にとらわれない新傾向俳句運動を起こし俳句界に一時代の足跡を残します。独特の書体で飯田九一文庫百人の一人にも選ばれています。
送別会の行われた「田中屋」は、幕末の開業で坂本龍馬の妻、おりょうが働いていたといわれていることで有名な料亭です。
http://www.tanakaya1863.co.jp
●1922年(大正11年)の今日
松尾邦之助(22歳)逓信省無給嘱託として
横浜港から諏訪丸で出航しフランスに向かいます。
二等船客で船賃は六百七十円だったそうです。
松尾邦之助(まつお くにのすけ)は新聞記者、評論家、翻訳家。
1922年(大正11年)からパリに暮らし、
1928年(昭和3年)に一時帰国しますが日本で結婚、妻を連れて再び渡仏します。
フランスでは藤田嗣治とも親交があり、彼らの支援も受け
出版活動や翻訳活動を行います。
1940年(昭和15年)の日米開戦前夜、
妻ひろが藤田嗣治・高野三三男らと帰国し
松尾邦之助は欧州に留まり敗戦後の1946年1月、引揚船で帰国します。
1958年(昭和34年)『レジオン・ドヌール勲章』を贈られます。
●1934年(昭和9年)の今日
「横浜合併を否認された日吉村で当局糾弾村民大会がひらかれた」
横浜市港北区日吉はもしかすると 川崎市中原区日吉になっていたかもしれません。
この微妙な“国取り合戦”を紹介します。
No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発
●1948年(昭和23年)の今日
第1回県営戸塚競馬開催。
戸塚競馬場は1933年(昭和8年)吉田町の水田を埋め立てて開場します。
現在も柏尾川に架かる矢部町の駒立橋は競馬場に因んだ名前です。
●1977年(昭和52)の今日
横浜市はルーマニアのコンスタンツァ市と姉妹都市として1965年(昭和40年)7月1日に提携し、今日10月12日にさらに交流のはばを拡げる「友好姉妹都市」提携調印のためコンスタンツア市長が横浜市に来訪しました。
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ルーマニア国旗 |
他の友好姉妹都市
※サンディエゴ(アメリカ合衆国)→1957年(昭和32年)10月29日提携
※リヨン(フランス共和国)→1959年(昭和34年)提携
※ムンバイ(インド)→1965年(昭和40年)6月26日提携
※オデッサ(ウクライナ)→1965年(昭和40年)7月1日提携→心配です。
※バンクーバー(カナダ)→1965年(昭和40年)7月1日提携
※マニラ(フィリピン共和国)→1965年(昭和40年)7月1日提携
交流に関心のある方は
横浜コンスタンツァ友好委員会
「横浜コンスタンツァ友好委員会事務局」
住所: 〒233-0012
横浜市港南区上永谷2-14-35 光里 友岐 方
電話: 045-843-3071
FAX: 045-843-3008
担当: 光里 友岐(委員長)
横浜年表ピックアップ【10月11日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
●1879年(明治12年)の今日
「成島柳北(42歳)鎌倉を見物したのち、公田から大岡に出る近道をして五里を歩き、横浜停車場に着く。」
当然、全ての道程が“徒歩”です。昔の人は健脚でした。
成島 柳北 (なるしま りゅうほく)、幕末は幕府の将軍侍講、奥儒者で、明治維新後文学者、ジャーナリストとして活躍します。(姪孫に俳優の森繁久彌)
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Wikipediaより |
成島家は19世紀前半から幕府の『徳川実紀』『続徳川実紀』『後鑑』などを編纂する
家に生まれ、将軍家の学問を進講する将軍侍講の任に就きますが批判したために解職。
この頃から洋学を学び、維新後1872年(明治5年)欧米を巡ります。この時に岩倉具視、木戸孝允らと出会い、欧州では共済制度を学び帰国後、安田善次郎と共に日本最初の生命保険会社「共済五百名社」(現在の明治安田生命)を興します。
一方で、ジャーナリストとして1874年(明治7年)に『朝野新聞』を創刊し初代社長に就任します。
大隈重信が設立した早稲田大学の初代の議員となり「朝野新聞」社論でも大隈重信の改進党に近い言論を展開します。
前米大統領のグラント訪日の際には接遇委員を勤めました。
ところが、次第にジャーナリズムに関心を失い、文学や風流に傾倒していきます。
彼の代表作?『柳橋(りゅうきょう)新誌』はその名前の通り色街「柳橋」のエッセイとガイドブックを一緒にしたような作品です。
遊郭街の繁盛ぶりを紹介しながら、そこに絡む人々の人情を描きました。
今日紹介した成島柳北、横浜道行の一行は
彼が浜松からの帰途に箱根塔之沢の玉の湯、湯本の福住(萬翠楼)に泊まり、小田原から東海道を上ります。藤沢で昼食後東海道を離れ江の島に行き、江戸時代からの老舗、伊能忠敬も利用した旅館夷屋吉右衛門に泊まります。
※割烹旅館「惠比壽屋」藤沢市江の島1-4-16に現在も営業しています。
そして10月11日の今日、鎌倉を見物したのちに公田から(上)大岡に出る近道を五里歩き、横浜停車場に着く徒歩旅行を終えます。
●1918年(大正7年)の今日
小説家「田村俊子」34歳
朝日新聞記者“鈴木悦”の後を追い横浜港から「メキシコ丸」で出航しカナダに向かいます。その後18年間アメリカ、カナダバンクーバーで暮らしますが、“鈴木悦”が亡くなり1936年(昭和11年)3月31日18年ぶりに帰国します。
官能的な退廃美の世界を描き、自由奔放な生活を私小説にした作品が多い。
日本敗戦直前に上海で脳溢血により客死します。
●1973年(昭和48年)の今日
商工会議所百年史によると
「新相鉄ビル」に横浜高島屋の増設店舗が開店した とありました。
正確には
新相鉄ビルと高島屋ビルからなる「相鉄ジョイナス」の
“横浜高島屋部分”が完成し開店しました。
“ジョイナス部分”は遅れて
1978年(昭和53年)5月に全館リニューアルして開店しました。
屋上にはジョイナスの森彫刻公園、
4階には吹き抜け「市民の憩いの広場」があり当時としては斬新な試みでしたが、途中で店舗となり“先人”の努力が消えていってしまったのは実に悲しい限りです。
※現在横浜駅ビル改築でどうなるのか?
期待したいところです。
ジョイナスの森彫刻公園は
1986年(昭和61年)に横浜市「まちなみ景観賞」
1991年(平成3年)には写真による屋上利用コンクール最優秀賞「建設省住宅局長賞」を受賞。
横浜年表ピックアップ【10月10日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
※10月10日は銭湯の日です。
横浜にもまだまだ頑張っている!人気の!銭湯が多くあります。
横浜で最も有名な?銭湯愛好家の集まりが
「横浜銭湯めぐりの会」
http://www005.upp.so-net.ne.jp/sento-meguri/sento.htm
横浜市浴場協同組合
http://www.1126.jp/home.htm
個人的には、1990年代に24軒銭湯はしごしたのがピークで、2000年代には数軒しか利用していませんが、中々良いもんです。
●1877年(明治10年)の今日
「西南の役が平定したので総督有栖川宮・参軍海軍大将河村純義・参軍海軍少将伊藤祐麿が軍艦「丁卯」「春日」「清輝」の3隻にのり東海鎮守府へ凱旋した」
東海鎮守府はまず1876年(明治9年)横浜に仮設され1884年(明治17年)には横須賀に移転しました。
暦で語る今日の横浜【9月28日】
でも紹介しましたが、横浜市内の西南の役に関係する石碑に時々出会います。
日本の最大級にして最後の“内乱”です。
まだまだ不明確なところも多く資料発見が期待されます。
●1894年(明治27年)の今日
川上音二郎(30歳)横浜の港座で、21日まで「日清戦争」を興行する。以来しばしば港座で興行する。
→港座は湊座のことでしょう。
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煙を出す建物の隣が湊座(港座)で、横浜公園に隣接していたようです。 |
No.415 横濱的音楽世界
●1896年(明治29)の今日
「実業家若尾幾造(68)が没した彼は山梨の人で1859年横浜にうつり生糸売込業をいとなんだ。世人から水晶大尽とも呼ばれた」
横浜には開港と同時に、近郊から商人がビジネスチャンスを求めて集まってきます。江戸商人は幕府の関係があったためか堅実さを求める人が多かったようですが、他県からの商人達はかなり手荒い商売をした人たちも多かったようです。
山梨県出身の「甲州商人」、群馬県出身の「上州商人」は絹・生糸関係で多く横浜を目指しました。
No.465 三島と横浜、その縁を探る
●1923年(大正12年)の今日
「馬車道〜日本橋間復旧開通」横浜市営交通八十年史
え?日本橋、と最初驚きましたが、横浜にも「日本橋」の地名と市電の駅がありました。今は名残もありません。
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震災前 |
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震災後 |
※震災で市電の走る道が変わっているのが判ります。
●1954年(昭和29)の今日
「野毛山で紙芝居屋さんの運動会開催。」
手元に資料はありませんが、調べてみたいテーマですね。
“紙芝居屋さんの運動会”とは 果たしてどんな内容だったのでしょうか?
「戦後の街頭紙芝居は1946年(昭和21年)ごろから人気上昇し、GHQ占領時代に最盛期を迎える。しかしその内容が「低劣、俗悪」であり子どもによくないという世論を受けて、自治体が条例や認定制を設け、また業界が自主規制を行ううちに紙芝居はその自由奔放さと輝きを失っていき、その後は1953年(昭和28年)に放送開始した街頭テレビなどにも押されて衰えていった。」(Wiki)
ということですから、この運動会が行われたのが ピーク時の頃であったようです。“自主規制”の一環として 同業者の親睦を兼ねて運動会が開かれたのではないでしょうか。
●1964年(昭和39)の今日
第18回オリンピック東京大会が開催されましたね。
神奈川県下では
サッカー(三ツ沢蹴球場 他)
ヨット(藤沢 江の島)
バレーボール(横浜文化体育館 他)
カヌー(相模湖)が競技会場として使われました(〜24)。
横浜年表ピックアップ【10月9日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
●1886年(明治19年)の今日
「横浜の麦藁真田紐製造所の新築が落成した」
麦藁真田紐(むぎわら さなだひも)は【麦稈真田紐(ばっかん さなだひも)】とも書き、麦わらを平たくつぶし真田紐(さなだひも)のように編んだものを指します。
真田紐は縦糸と横糸を使って織った平たく狭い織物の紐のことで、麦藁で真田紐のように編んだものを使って麦わら帽子(ストローハット)を作り、日本各地で地場産業として盛んに行われました。
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本文とは関係ありません。埼玉県春日部市の地場産業です。 |
特に戦前は“麦わら帽子”がさかんに外国へ輸出され、製造素材として麦藁真田が製造されました。
その輸出を担ったのが横浜港です。
※絹製品と同様に、需要の高まりに伴い粗製濫造が起こり、全国の麦稈真田製造を行っていた中小企業の多くが破綻します。
1920年頃の工業用ミシンは米国シンガーが独占状態でした。昭和に入り
ブラザー工業が「麦わら帽子製造用環縫ミシン」を開発し大ヒットします。
https://museum.global.brother/guide/zone/1/10?lang=ja&_ga=2.233123099.482062017.1651186413-1442387065.1651186413
「昭三式ミシン(麦わら帽子製造用環縫ミシン)の商標を「BROTHER」と定めて市販開始」
●1926年(大正15年)10月9日付けで
「横浜新報もしほ草・江湖新聞」が明治文化研究会から小野秀雄の校訂で発行されました(全500頁で索引が付いている点が特徴)
元々『横浜新報もしほ草』は、
明治のマルチタレント“岸田 吟香”が米国人ヴァン・リード(Eugene M. Van Reed)と共に慶應四年に横浜の外国人居留地で発行された新聞です。
日本初の日刊新聞「横浜毎日新聞」の誕生以前に横浜で生まれた新聞の一つです。
一方「江湖新聞」は、福地桜痴が1868年(慶応4年)江戸で創刊した佐幕派の新聞で絵入り・総仮名付きの新聞です。
新政府を否定的に論じたため第22号で発禁処分となります。
この二つの画期的な新聞を1926年(大正15年)に復刻し、話題になります。
復刻に尽力した小野秀雄(おの ひでお)は日本のジャーナリズム研究、マス・コミュニケーション研究の先駆者といわれた人物で、「新聞学」「新聞史」を確立した一人です。この本の発行元となった「明治文化研究会」は吉野作造が主宰し、小野秀雄や宮武外骨 他当時の多くの言論人が関わります。
『横浜新報もしほ草』は,神奈川大学のデジタルアーカイブで閲覧できます。
http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/handle/10487/4462
No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者
●1897年(明治30年)の今日
「大佛次郎、横浜英町で生まれる。」
大佛次郎は横浜出身の代表的な文学者です。
父が日本郵船会社社員だった関係で横浜市に生まれ、明治37年4月に太田尋常小学校に入学するまで横浜で育ちますが、翌月東京新宿に転居します。
港の見える丘公園に大佛次郎記念館があります。
http://osaragi.yafjp.org
彼に関しては 別の機会にぜひ紹介してみたい横浜・鎌倉に関係の深い人物です。
横浜英町は、現在の横浜市中区英町で、黄金町駅の近くです。
●1942年(昭和17年)の今日
「オーストラリア方面の外交官や引揚者を乗せ鎌倉丸が帰国」と横浜市史II・1下1015に記録があります。Wiki『日本郵船戦時戦史 上』では10月8日、大内氏『商船戦記〜世界の戦時商船23の戦い』によれば9月27日とありますがここでは市史を採用しました。
「鎌倉丸」は1941年(昭和16年)日本海軍に徴用され特設運送船となります。
1942年(昭和17年)10月9日の航海が交換船として最後の任務でした。
(交換船)
交換船とは
第二次世界大戦当時に、開戦により交戦国や断交国に取り残された外交官や駐在員、留学生などを帰国させるために関係国の船舶で運航された船のことです。
敵国の関係者と自国の関係者は“中立国に寄港”し、交換が行われました。
交換船は戦時国際法に沿って「交換船として運航される全ての船舶はすべて民間籍であること」と定められたため、民間船舶が“徴用”されることになります。
浅間丸(16,975トン、日本郵船)、龍田丸(日本郵船)、帝亜丸(日本郵船)
※アメリカ生まれのジャニー喜多川(後のジャニーズ事務所社長)も第一次日米交換船グリップスホルム号に乗船し帰国しています。
鎌倉丸は
→1942年(昭和17年)に日英交換船として東アジアの英国領と日本を往復しました。
(再び海軍徴用船)
横浜に最後の交換船として交戦国、自国の関係者を搬送した後、鎌倉丸は再び軍の徴用船として航海に出ます。
1943年(昭和18年)4月15日に神戸からバリクパパンへ向け出航したのが最後の航海となります。
鎌倉丸は1930年竣工時に「秩父丸」と命名されましたが、1939年に鎌倉丸(かまくらまる)と改名されました。その事情を含めエピソードは
No.38 2月7日 鎌倉丸をめぐる4つの物語
●1956年(昭和31年)の今日
「屏風ヶ浦漁協・同海岸埋立反対期成同盟が磯子海岸埋立に反対」
磯子は戦前人気の海水浴場でしたが、戦後最も早くしかも全面的に埋立が行われ工場が誘致されます。
横浜年表ピックアップ【10月8日】
横浜の出来事を年表からピックアップしました。
●1878年(明治11年)の今日
居留地、西波止場沖でボートレースが開催されました。
西波止場沖は かつてグランドホテル他 多くのホテルや
フランス(租界)人居留地があり、外国人のイベントが数多く
開催されました。
1886年(明治19年)にも西波止場沖でヨットレース開催されて
いる記事が出ています。恐らく頻繁に行われていたのでしょう。
No.226 8月13日(月)西波止場の2勝1敗
●1903年(明治36年)の今日
合名会社明治屋設立(代表社員米井源治郎)。
1885年(明治18年)創業者磯野計が横浜万代町で船舶納入業を開始します。これが明治屋の創業にあたります。そして法人化(合名会社)し、二代目社長に米井源治郎が就き、明治屋中興の祖となります。
1911年(明治44年)4月22日株式会社に改組します。
この日に因んで
No.113 4月22日 甘辛両党おまかせ!
●1966年(昭和41年)の今日
野毛山公園遊園地、金のかかる遊戯施設を廃し、子供の遊び場や草木中心の公園としてリニューアル開園します。
●2005年(平成17年)の今日
引退を表明していたハマの大魔神こと佐々木主浩の引退セレモニーが本拠地である横浜スタジアム で行われました。
選手交代で佐々木主浩が告げられると、今日も勝ちを確信しました。
No.300 10月26日(金) 優勝、日本一
No.95 4月4日 横浜DeNAベイスターズの本拠地「ハマスタ」開幕
ベイスターズ優勝は多くの幸運と勢いが重なり実現しました。
1998年(平成10年)9月19日には、
横浜ベイスターズの優勝を祈願する目的で、
横浜駅東口の地下街・ポルタに「ハマの大魔神社」が設置されました。
祀られたのは「ハマの大魔神」で、多くのファンが訪れました。
この神社は佐々木主浩選手が最も得意としたフォークボールの握りをかたどったご神体が祭られ優勝決定後もしばらくは設置され、1999年(平成11年)の1月17日に撤去されました。この間、約1,660万円のお賽銭が集まり、全額横浜市社会福祉協議会 に寄付されたそうです。
佐々木主浩選手は1989年(平成元年)ドラフト1位で横浜大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ )に入団します。
1998年(平成10年)に優勝した後、オフにFA宣言。
メジャーリーグのシアトル・マリナーズ に移籍します。
アメリカンリーグ新人王に輝き
メジャーリーグでも抑え投手として活躍します。
2001年と2002年の2年連続MLBオールスターゲーム登板という快挙を成し遂げ、好成績を収めますが、2003年に故障者リスト入りして以来不振に陥ります。
シーズン終了後、もう1年間残っていたマリナーズとの契約を破棄して退団し、日本に帰国しベイスターズに復帰します。
2004年度、前半は好調な成績を残しますが
8月に入り3試合連続して救援に失敗し2軍落ちとなります。
8月7日に現役引退を表明し、
10月8日(対ヤクルト戦)に行われる予定だった引退試合には佐々木自身が辞退し、セレモニーのみが行われ挨拶で「生涯野球人であることを誓います」と語りました。
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=iFdL9twD0ww
http://www.youtube.com/watch?v=xC4zFFy7tBI