No.178 6月26日(火)孟買への道

1965年(昭和40年)6月26日(土)
インド共和国の最大都市ムンバイと横浜市は姉妹都市締結を行いました。
横浜市は世界の7都市と姉妹都市を提携しています。
その他に1都市と友好都市提携、7都市とパートナー都市提携し自治体レベルの国際交流を行っています。

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友好都市提携締結当時、ムンバイはボンベイと呼ばれていました。
1995年に英語での公式名称Bombayを
マラーティー語表記でムンバイと変更することになりました。
漢字表記「孟買」はムンバイに近い表記ですね。

英国植民地時代よりの名称ボンベイといえば?
お酒に関心のある方なら高級ジンブランドのボンベイ・サファイア(Bombay Sapphire)を思い浮かべるのではないでしょうか。
英国統治下のインド時代にジンがマラリア予防の薬として飲まれていたことからの連想で名付けられたとされていますが、ブルーサファイヤとインドを重ねたイメージはヴィクトリア女王の肖像をあしらうに相応しいブランド力を維持しています。

ボトルに成分がイラスト入で入っています

(横浜印度物語のはじまり)
横浜とインドの関係は、開港とともに始まります。
英国資本の先駆けとしてインド植民地銀行が横浜に支店を出したことが最初です。
明治に入り様々な分野に居留地のイギリス商館従業員として多くのインド人が横浜で暮らしはじめます。
明治半ばに入り、インドは日本にとって重要な貿易国として存在感を現してきます。
国力を高めるために殖産興業政策の一環として紡績業の拡大を図るには主原料である「綿」を海外から求める必要に迫られます。
安くて品質の良い綿花生産国を日本政府は国を挙げて調査します。
結果、印度綿花が優良であることが分かります。
ところがそこに大きな課題が出てきます。
当時の遠洋航路の海運は、英国の世界最大級の船会社P & O Lineなどが独占状態で運賃は海運会社が主導してきました。

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この時期に、一人のインド人が日本を訪れます。
1893年(明治26年)ボンベイの綿花豪商タタ(J. G.N. Tata)の来日です。
彼は日本郵船社長の森岡昌純、日本資本主義の父といわれた澁澤榮一、浅野財閥の創設者、淺野總一郎らに精力的に会見し独自の航路確保を提案します。
当時、すでに英国資本に対しても発言力を持っていたタタがP & O Line等と価格交渉をせずいきなり未知の国「日本」と航路交渉をしたのかは謎ですが、
タタは、日本/孟買間の航路開設の必要性を力説します。

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世界に衝撃を与えたタタの自動車

(世界のタタ)
近年、タタ自動車で世界に衝撃を与えたインド最大の企業「タタグループ」(年商300億ドル)は、当時も綿花を中心に世界を相手に交易する商社でした。
日本という開国したての新人海運会社と共同で欧州の独占企業に対抗しようと提案した訳ですから、タタも日本側も大変な決断を必要としたでしょう。
※タタ財閥は、ちょっと不思議な企業で「世界で最も倫理に厳しい企業」といわれています。(当たり前であって欲しいですが)
提案を受けた「日本郵船会社」は1885年(明治18年)郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が合併し誕生した若い海運企業でした。
資本金1,100円で、創業時の船腹数は58隻、64,600総トンで「横浜〜上海」「長崎〜仁川」「長崎〜ウラジオストック」沿岸11航路を開設します。
「日本郵船会社」のファンネルマークとして有名な白地に引かれた二本の赤いライン、通称「二引の旗章」はこの時の二社が大合同を現しています。
No.116 4月25日 紺地煙突に二引のファンネルマーク


(インド洋波高し)
当時、日本とインド間の航路は英・豪・伊の三国の海運会社が組織する「ボンベイ・日本海運同盟」が支配していました。
そこに新規参入するわけですから、
当然「本航路上のみならず、貴社の既得航路においても激甚な競争を試みる」という同盟側の強い警告と中止要求が出されます。
「日本郵船会社」は決断し、タタ商会と各1隻を提供しあい6週1回の定期航路の開設を決定します。1893年(明治26年)11月7日(水)第1船として廣島丸が孟買向けに神戸を出航し、日本初の遠洋定期航路がスタートします。
「ボンベイ・日本海運同盟」は資本力でダンピング攻勢をかけます。
二年にわたり「日本郵船会社」と「同盟」の我慢比べが続きます。
「我々は日本の代表として、内外の航路を自分たちの手に取り戻さなければならない」「自国の海運を守らなければならない」という国内紡績会社の団結も功を奏し、競争停止を申し入れたのは同盟側でした。
1895年(明治28年)11月にP & O Lineは英国外務省を通じて仲裁を申し入れてきます。
国内では賛否両論議論になりますが、
日本郵船側は計画中の欧州航路開設も考慮し、
1896年(明治29年)5月6日に同盟側と運賃合同計算契約を締結し、
国際的に認められることになります。

(綿でつながる横浜地場産業)
横浜の地場産業“横浜捺染”は、戦前スカーフは勿論モスリン、戦後インドのサリー染織、欧州ブランドの日本生産等で伝統と技術を維持してきますが産業構造の激変により多くの捺染企業が姿を消していきます。
しかし、現在も横浜捺染が生き残り世界最高級のプリントを発信し続けられるのは、インドと日本が綿を通じて欧米に並ぶ経済力を育ててきたからに他なりません。

インド共和国 国旗

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