No.451 芸術は短く貧乏は長し
文学賞といえば
「芥川賞」「直木賞」が有名です。
芥川賞は“芥川龍之介”に因んだ賞です。
では?直木賞は?
作家であり脚本、映画監督までこなした「直木三十五」に因んだ賞です。
この直木三十五なる人物は
横浜と深く関係があります。
今日は文学賞の名となった
「直木三十五」と横浜について紹介しましょう。
「直木三十五」
(なおき さんじゅうご)
直木三十五賞(通称「直木賞」)はエンターテインメント系の作品に与えられます。
http://www.bunshun.co.jp/award/naoki/
直木三十五は
1891年(明治24年)2月12日、現在の大阪市中央区安堂寺町2丁目に生まれました。
本名は植村宗一で、苗字の植村の「植」の字を分解して「直木」とし、名の部分は年齢を元に直木三十一(31歳のとき)からスタート、
三十五で改名することを止めました。
彼は1934年(昭和9年)2月24日、
四十三歳で亡くなっていますから“初志貫徹”していれば
「直木四十三」となったでしょう。
(放蕩作家 直木三十五)
大正の末から昭和の初めにかけ文壇、映画界で活躍しますが
相当の放蕩作家でした。
(戦前は放蕩作家多いですね。ある意味良い時代だったのかもしれません)
43歳で亡くなった翌年の1935年(昭和10年)
友人だった文藝春秋社長・菊池寛により直木賞が設置され現在まで多くの作家の目標となっています。
彼の代表作となったのは「南国太平記」という作品で、
幕末薩摩藩のお家騒動を取材した新聞小説で不動の位置を築きます。
時代小説では多くの秀作を残しています。
一方で、事業癖というか稀代の浪費家でもありました。
京都で映画制作に手を出し失敗。出版社も幾つか創設し失敗します。
1933年(昭和8年)春、これまでずっと借家住まいだった直木三十五は、横浜金澤の富岡を訪れ、この地が気に入ります。
一説によると、この地金澤を舞台にした江戸時代の武士、豊島刑部明重を執筆するためだったとも言われていますが、国税庁に半旗を翻し納税を拒否していた“直木”が一生で唯一、自身で設計し家を建てることを決意します。
![]() |
関東学院大学による復元調査 |
場所は慶珊寺の裏山の一角。
境内に家を建てたいと住職佐伯隆瑞に申し入れ、結局寺の北側後方の高台、当時畑だった千三百三十五坪を借り受けることになります。
新居は昭和8年の暮れに完成し、東京から引越します。
ところが彼は、余りの静けさに堪えられないとか、
自分の設計した家の使い勝手が悪いとか 言われるように
ほどなく
文芸春秋の一室に、逃げるように帰り 自宅を放棄します。
体調もかなり悪化していたのでしょう。
家屋の完成間もない翌年1934年(昭和9年)2月24日、帝国大学付属病院にて、持病の脊髄カリエスが悪化して亡くなります。
墓は 自宅近くの 富岡山長昌寺にあります。
この使い勝手の悪い 直木邸は彼の死後、家族と知人が暮らしていましたが
売りに出すことになります。
戦時中に購入したのが「橋本 東」という方で、
冗談で「疎開用に」と言ったことから 偶然購入するはめになります。
“買うには買ったが…”
あまりにも不便で使い勝手が悪いので一部を改装します。
しかし、殆ど住むこともなく 最後は老朽化のために取り壊されてしまい、現在は空き地となっています。
この元「直木三十五邸」入口に
横浜ペンクラブの方々と大佛次郎氏が中心となって
彼の記念碑が建っています。
「芸術は短く貧乏は長し」
No.416 一枚の案内パンフ
今日は大枚800円もはたいて購入した
一枚のパンフレットから見える風景を紹介します。
【注目1】湘南アルプス
最近は
高麗山(168m)〜八俵山(160m)〜浅間山(181m)〜湘南平(160m)の丘陵を「湘南アルプス」と表現するらしい。
ところが、
昭和12年頃、金沢文庫から「湘南アルプス」の上り口があったようです。
現在は「横浜の屋根」 という呼び名をするそうです。
“釜利谷”の金沢自然公園、釜利谷市民の森〜氷取沢あたりと推定できます。
峯の灸寺は円海山護念寺・峯の灸のことです。
【注目2】湘南電鉄
湘南電気鉄道(略して湘南電鉄)わが国最初の1,435mm軌間の採用
運行期間は黄金町 – 浦賀間と金沢八景 – 湘南逗子間が1930年(昭和5年)4月開通し翌年の1931年(昭和6年)黄金町 – 日ノ出町間が開業しました。
1933年(昭和8年)4月から京浜電気鉄道と相互乗入れを実現しました。
1941年(昭和16年)11月に合併解散し京浜電気鉄道に一本化され現在の京浜急行電鉄の前身となります。
だから!
正確にはこの地図が作られた昭和12年は相互乗入れ期ってことですね。
京浜電気鉄道の名が無い!!!???
この頃は、京浜より湘南の方が強かったのかな?
【注目3】裏面にも
緑と水の魅惑!
湘南電気沿線の新緑!!
軽快な「最新式展望電車」とあります。
手元に資料が無いので 後日探してみます。
当時、モテハ220形とい う木造展望車が東北宮城を走り
ガイドガールが乗務し、熱い紅茶のサービスがあったそうです。
モテハ220形?これもどんな車両だったのか
知りたい!
1941年(昭和16年)11月1日に)3社合併、社名をを京浜電気鉄道(株)に。
11月25日には、五島慶太が取締役社長に就任します。
一時、京浜急行は東急傘下に入りますが
戦後すぐに 財閥解体時に独立します。
一枚の小さな チラシ 衝動買いしたので
無理矢理 紹介しました。お粗末様。
No.410 横浜最古の寺周遊(前編)
今日は「弘明寺(ぐみょうじ)」を紹介しましょう。
721年開祖、武藏国久良郡(くらきぐん)の郡寺として
現在まで多くの参拝客、観光客を集める古寺です。
瑞應山蓮華院弘明寺は、インドの善無畏三蔵法師により開かれた横浜で最も古いお寺です。
本堂は寛徳元年(1044年)3月10日、光慧上人により建立され明和3年(1766年)に智光上人により再建されました。
1976年(昭和51年)に火災予防も兼ね茅葺より銅板葺に改修され現在にいたります。
(文化財)
国指定重要文化財の木造十一面観音立像(彫刻)
横浜市指定有形文化財の木造金剛力士立像(彫刻)
木造黒漆花瓶(工芸品)
弘明寺梵鐘(工芸品)
坂東三十三カ所の十四番札所です。
御詠歌は
「ありがたや
誓いのうみを
かたむけて
そそぐ恵みに
さむるほのやみ」
現在は京浜急行が寄進した「身代わり地蔵菩薩」が人気です。
(波乱の歴史)
弘明寺の現在の賑わいにも波乱の歴史がありました。
鎌倉時代には地元鎌倉武士の信仰を得、
江戸時代には観音信仰の場として鎌倉街道も整備され
弘明寺詣で賑わいます。
大きな転機は 明治維新でした。
弘明寺は「御朱印寺」として幕府公認の寺として保護されましたが
神仏判然令による廃仏毀釈運動で檀家の無い寺は特に経営が厳しくなります。
神仏分離は仏教排斥を意図したものではありませんでしたが、一種の民衆の廃仏運動に繋がります。
1901年(明治34年)に31歳の若き一人の僧が困窮の弘明寺住職となります。
彼の名は渡辺寛玉(老師)弘明寺中興の師として現在も語り継がれています。
彼は、寺を守るために 当時山手にあった真言宗準別格本山増徳院の役僧を務めます。平たく言えばアルバイトをしながら寺を守ったというところです。
この真言宗準別格本山「増徳院」といえば、
この寺の墓所をペリーの意向で外国人の墓地に提供したことから現在の「山手外国人墓地」が誕生します。
「増徳院」は、関東大震災で倒壊し平楽に再建され現在に至ります。
渡辺寛玉という方は、この増徳院で多くの有力者の知遇を得ます。
1907年(明治40年)に「弘明寺」の支援団体「勝保会」が市内の有力者の下で興されます。
弘明寺「勝保会」
会長が茶商 大谷嘉兵衛です。
彼は、伊勢山皇大神宮の創建にも尽力し、初代氏子総代となっています。
副会長には市内有数の質商として財を成した太田治兵衛がなり
メンバーには
原富太郎、石川徳右衛門、平沼亮三、野村洋三 他横浜の有力者が名を連ねます。
「勝保会」を軸に弘明寺は 地域振興も含め復興することになります。
その昔、手っ取り早い産業誘致に「花街」がありました。
特にお寺さんには「花街」がつきものでしたので
大変賑わったそうです。
(文教地区に)
1920年 (大正9年) に横浜高等工業学校「横浜高工」(後の横浜国大工学部)が設立され
弘明寺の環境が一変します。
お寺さんの表参道の真ん前に国立の学校が設立されたことで、
学校の横に「花街」は教育環境上ヨロシクない。
賑わいの観光資源?だった花街は井土ケ谷と大久保に分散してしまいます。
その代わりに、(通学用に)
1919年(大正8年)市電の終着駅として鎌倉街道沿いに「弘明寺駅」が完成します。
![]() |
とは言え
弘明寺駅と蒔田駅周辺は、何もないノッパラと畑ばっかりで場末!の停車場でした。
その後、産業振興博覧会の「共進会」が蒔田近くで開催され(地名に共進の名が残っています)たり、
1930年(昭和5年)に京浜急行「弘明寺駅」が開業することで次第に賑わいを取り戻しはじめます。
この京浜急行「弘明寺駅」の敷地は「弘明寺」が提供したそうです。
昭和10年頃になり、弘明寺が敷地を提供し 市民公園「弘明寺公園」が誕生し
弘明寺商店街のベースが形成されます。
そして幸運にも戦災を免れることで 戦後の商品供給の市場として栄え現在の商店街が出来上がります。
戦後も「弘明寺商店街」エリアは、市電が廃止されるまでは地域最大の商業集積地でした。その後、上大岡の発展で地域一番の座を譲り渡しますが
当時、東洋一の全長270m(現在全長312m)のアーケード設置したり
最近では太陽光発電システムが設置する時代にしっかりとアンテナを張った商店街マネジメントで活性化しています。
■市民公園「弘明寺公園」散策
■弘明寺商店街おすすめの店
■お宝紹介 は(後編に続く)
No.385 【横浜界隈鉄道編】横浜の駅
今日は、横浜市内の駅を簡単に紹介しましょう。
1990年から折々に市内全線全駅巡りをし、2008年に市内全駅前に降り立つことを踏破しました。
中からお気に入りの駅を幾つか紹介していきますが、
その前に 全駅概況を。
(日本一の横浜駅)
横浜駅は、記憶に従えば日本一路線が乗入れている駅です。
意外じゃありませんか?
○東急東横線
○相模鉄道線
○京浜急行電鉄線
○横浜市営地下鉄ブルーライン線
○横浜高速鉄道みなとみらい線
○JR東海道本線
○JR根岸線
○JR京浜東北線
○JR横須賀線
以上6社9路線乗入れ規模は他のターミナル駅ではありません。
新宿駅が微妙なところですが5社8路線、東日本旅客鉄道(JR東日本)・京王電鉄・小田急電鉄・東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)が乗入れています。地下では離れて西武新宿駅があります。
wikiでも
「2012年現在一つの駅に乗り入れる鉄道事業者数としては日本最多となっている。」とあります。
(市内の駅の数)
全路線をカウントすると
168駅ありました。
「横浜駅」のような複数路線乗入れのターミナル駅をまとめてカウントすると、
153駅となります。
※市内全線全駅踏破は、勿論全事業路線の改札を出る!ということでカウントしています。
(ただし、センター北・南、横浜駅のようにシームレスな路線は別です)
(市内の路線)
市内を走る路線は21あります。
事業会社でカウントすると9社です。
■こどもの国線(全線)→横浜高速鉄道・東京急行
■相鉄いずみ野線→相模鉄道
■横須賀線→JR東
■横浜高速鉄道みなとみらい線→横浜高速鉄道
■横浜市営地下鉄グリーンライン(全線)→横浜市
■横浜市営地下鉄ブルーライン(湘南台駅以外全線)→横浜市
■横浜新都市交通金沢シーサイド線→横浜新都市交通
■横浜線→JR東
■海芝浦支線→JR東
■京浜急行電鉄→京急
■京浜東北線→JR東
■根岸線→JR東
■逗子線→京急
■相模鉄道(相鉄)
■鶴見線→JR東
■田園都市線→東京急行
■東横線→東京急行
■東海道新幹線→JR東海
■東海道本線→JR東
■南武線→JR東※
■目黒線→東京急行
南武線? の駅が横浜市内にある!
「矢向駅」です。
地図上は横浜市内なので実際行ってきました。
![]() |
昔はここに住所があったそうです |
![]() |
駅前ロータリーに木があるのは懐かしい感じがします |
隣の尻手駅はプラットフォームを避けるように川崎市内です。
妙に不自然です。この辺の市域確定について調べてみたいものです。
同じホーム<市またぎ> では「大船駅」も横浜市に乗っかっていますが
所在地は鎌倉市です。(鎌倉市大船1丁目)
「笠間口」は横浜市栄区笠間一丁目にあります。
(駅数ランク)
事業会社別市内駅数ランク
第一位は当然、横浜市営地下鉄ブルーライン 31駅
第二位は、京浜急行本線の 23駅※
第三位は、横浜新都市交通金沢シーサイド線の14駅です。
以下 相鉄本線(13駅)、根岸線(11駅)、横浜市営地下鉄グリーンライン(10駅)、横浜線・東横線(9駅)といった順です。
※京急の横浜市内駅数23は、京急全体から見ても多いのではないでしょうか。
(オタク系ランキング)
もうすでに鉄男君系ですが、さらにマニアックなランクを。
横浜市内で路線がまとまって見えるる地点は?
5路線がまとまっていますが さてどのあたりでしょうか?
写真に撮ってあります。この開かず踏切は無くなりました。
手前から鶴見線、京浜東北線、東海道線、JR貨物線、京浜急行線
(余談編)
横浜市内で戦後廃止された路線があります。さてどこでしょう。
(市電を除きます)
答:ドリームランド線
廃止になりかかったこどもの国線もありますが…
No.367 1月1日(火)この駅「日ノ出町駅」
あけましておめでとうございます。
今年2013年(平成25年)1月1日から一年、
よろしくお願いします。
正月だからまず何から始めようか?
初日の出ということで、今年は京浜急行「日ノ出町駅」からのんびり始めます。
プロローグ
(湘南と東京を結ぶ駅)
「日ノ出町駅」は1931年(昭和6年)12月26日 に「湘南電気鉄道」と「京浜電気鉄道」が結ばれ誕生した駅です。
前年の1930年(昭和4年)2月に「京浜電気鉄道」の高輪駅と横浜駅間が開通し、同年4月に「湘南電気鉄道」が黄金町駅と浦賀駅の間を結んでいました。
No.88 3月28日 京浜湘南電鉄連結地点
当初「湘南電気鉄道」は黄金町駅から大岡川に沿って「国鉄桜木町駅」まで延伸する予定でした。その名残が現在も日の出町、野毛の道筋として残っています。
「京浜電気鉄道」「湘南電気鉄道」軌間規格が異なる二社の決定的違いを乗り越えた開拓精神が、現在の京浜急行を誕生させることになります。
(トンネルを抜けて)
横浜駅から京浜急行下り線に乗り、戸部駅を過ぎると連なる三つのトンネルがあります。
御所山トンネル、上原トンネル、野毛山トンネルです。
横浜市西区南部の丘陵地帯を一気にくりぬいたトンネルを抜けると、崖にへばりつくように「日ノ出町駅」が出現します。
日ノ出町はカーブした駅で、しかも道路(県道)の上にプラットフォームがあるかなり無理をして造った駅のなごりが今も残っています。
二社の規格を揃え1933年(昭和8年)4月1日に品川と浦賀間の直通運転が実現し横浜市内南西部の重要な首都交通路線となります。
![]() |
この駅の象徴、昔から残っているタイル模様の三浦半島。 |
1964年(昭和39年)に国鉄根岸線が桜木町駅から磯子駅まで延伸するまで、日ノ出町駅は伊勢佐木町界隈に出かける最寄り駅でした。
※昔、日ノ出町駅前には山手英学院という予備校がありました。駅前という便利さもあり横浜市内有数の独立系予備校でした。山手英学院は、港南台に「山手学院(中・高】」を作り、日ノ出町の英学院は有隣堂の経営を経て廃校となりました。
この頃、予備校に通う生徒の食欲を満たした小さなラーメン店が「いろは」で、一時期ご主人が体調を崩し閉店していましたが、現在場外馬券売場「WINS横浜」横で復活しています。
(ぶらり散歩には最適)
京急日ノ出町駅はふだん目的が無い限りあまり降りない駅ですが、ぶらり降り立つにはかなり魅惑的な街です。
簡単に日ノ出町駅前ぶらり観光情報を紹介しましょう。
■聖俗アダルトからキッズまで
今、日ノ出町駅前は再開発計画がようやく実を結び、大改装中です。
駅前の「不二家」も無くなりました。現在整地が終了し、基礎工事が始まったところです。(2013年1月)
この街は、ストリップ劇場「浜劇」、アダルト専門映画館「横浜光音座」、場外馬券売場「WINS横浜」などがありその先には、福富町・野毛界隈が拡がるオトナの街です。
一方で、伊勢山皇大神宮、横浜市立中央図書館、野毛山公園、野毛山動物園、大岡川河畔などもあり聖俗混合の不思議な(本来の街?)味わいがある界隈です。
■記念碑
日ノ出町界隈には、美空ひばり、長谷川伸の記念碑があり昭和という時代を感じることができます。
1948年(昭和23年)5月に美空ひばりが横浜国際劇場会館一周年記念特別興行で前座として笠置シヅ子の「セコハン娘」を歌い大喝采を浴びます。この劇場支配人福島博との出会いから、横浜国際劇場の客員としてデビューし後に準専属となり大スターの道がここから始まります。
この横浜国際劇場は現在JRA場外馬券売場となっています。
一方の長谷川伸は昭和前期に活躍した日本の小説家、劇作家です。この日の出町で生まれました。
「股旅物」というジャンルを築き、彼の作品中の「仁義」を切るシーンは実家が没落して若い頃に横浜ドックで働いていた頃に覚えたものをモデルにしたというエピソードがあります。
彼の文学的評価は昭和の大衆小説に輝くものですが、もう一方で新鷹会という文学学校を主宰し村上元三、山手樹一郎、山岡荘八、戸川幸夫、平岩弓枝、池波正太郎、西村京太郎らを育てたことは特筆に値します。
※日本丸ドックの一角にも長谷川伸文学碑があります。
■アートの実験エリア
湘南電気鉄道「黄金町駅」から京浜電気鉄道「日ノ出町駅」の高架線周辺をアートで新しい街づくりを行っているゾーンがあります。
黄金町エリアマネジメントセンターが運営しています。
http://www.koganecho.net/
名称は「黄金町」ですが日ノ出町駅の方が最寄り駅です。
詳しく紹介したいところですが、別の機会にします。HP等で確認の上、イベントやショップに行ってみると良いでしょう。
■100円ワンコインバスなら日ノ出町
みなとみらい100円バスの赤レンガ倉庫行は、始発が日ノ出町駅前です。
No.284 10月10日(水)Happy Birthday HAMARIN RIN
今日は旧体育の日ですね。
1998年(平成10年)10月10日の今日は、横浜市営交通イメージキャラクター「はまりん」の誕生日です。
「はまりん」は、横浜市営交通のイメージキャラクターです。一般公募で採用されました。全国鉄道系キャラの中でもトップクラスの人気と認知度を(勝手に)誇ります。
Wikiにも「利用者からの知名度は交通事業者のマスコットキャラクターとしては比較的高いものとなっている。」と記述されています。
http://www.city.yokohama.lg.jp/koutuu/kids/profile.html
「はま」はよこはま・浜っ子
「りん」は市バス・地下鉄の車輪
「まりん」は横浜の象徴でもある海
横浜市営地下鉄 3000N形 (3321F) 『♪はまりん号♪』
http://www.youtube.com/watch?v=-jkEOhQIzd8
キャラクターグッズの人気も高く、販売網の充実も「はまりん」の特徴ではないでしょうか。ネット通販もあります。
http://www.kyouryokukai.or.jp/profile/profile_hamarin.html
■そこで、全国の鉄道系キャラをざくっと集めてみました。
(悉皆網羅してません。個人的好き嫌いでセレクトしました)
○けいきゅん(京浜急行電鉄)
○さんてつくん(三陸鉄道)
○しんちゃん・けいちゃん(新京成電鉄)
○スーパー駅長たま(和歌山電鐵)
○スピーフィ(つくばエクスプレス)
○ちかまる(福岡市交通局)
○ハッチー(名古屋市交通局)
![]() |
どこかのキャラに似てません?頭の部分以外 |
○パレオくん、パレナちゃん(秩父鉄道、パレオエクスプレス)
○ホッピー・スッピー(北大阪急行電鉄)
![]() |
旧ホッシー君とかぶりますね。 |
○メトポン(東京メトロ)
![]() |
都心キャラ?ローソン支援? |
○モジャくん(JR北海道)
○モノちゃん(千葉都市モノレール)
![]() |
おさるキャラ |
○ゆうちゃん(神戸市営地下鉄)
![]() |
ちょっと弱いな |
○ゆりも(ゆりかもめ)
○リーモ(仙台市地下鉄東西線)
○りんかる(東京臨海高速鉄道)
○レインボーファミリー(大阪市交通局)
○レビット君(甘木鉄道)
○都くん京ちゃん(京都市営地下鉄)
![]() |
どこかとかぶっていますよね。 |
さあ、どのキャラがお好きですか?十年以上のキャリアを誇る「はまりん」、シンプルで認知性もあり良い線いっていると思いますが いかがでしょう。車輪に着目した点が最大のポイントだと思いますが。
(番外編)
横浜中華街では今日「双十節」が行われます。近頃の日中関係緊張の余波でどうなることか?と思いましたが実施!と聞いて正直「良かった」と思っている一人です。
双十節は、中国が君主制の清王朝から1911年10月10日に始まった辛亥革命に因んだ「中華民国」のお祭りです。正式名称は中華民国国慶日。
ちなみに10月1日は「国慶節」で、中華人民共和国独立記念日です。
(今年は残念ながら中止に)
No.230 8月17日 (金)孫文上陸
No.230 8月17日 (金)孫文上陸(加筆修正)
「中国革命の父」と呼ばれた孫文、
中国が清国から独立した辛亥革命は彼抜きでは語れません。
革命直前まで清国に追われ、革命後は袁世凱と敵対しながら何度も亡命を繰り返しては中国本土の革命勢力を取りまとめようしました。
その重要な舞台となったのが日本そして横浜です。
横浜は孫文にとって生涯忘れ得ぬ地となりました。
1913年(大正2年)8月17日の夜半、革命今だ達成しない傷心の孫文が、富岡の海岸に上陸します。
![]() |
上陸したのはこの近辺です。 |
(ちょっと複雑ですが)
孫文は革命を決心してから十数回日本を訪れます。
通算で9年以上滞在しますが、そのうち横浜滞在期間は延べ6年近くに及びます。
孫文が亡命滞在した世界の各都市の中で、横浜が最も長い滞在地でした。
時代は19世紀末「清国」末期です。
アヘン戦争、太平天国の乱、洋務運動が起こり、日清戦争で大きな賠償を抱える革命前夜の1895年(明治28年)11月のことです。
ハワイにいた孫文は中国広州で挙兵しますが失敗、同志とともに日本へ亡命し、横浜で革命派の秘密組織「興中会」支部を設立します。
その後、機会を見ては本国で挙兵しますが失敗し日本、欧米に亡命を繰り返します。
この革命派「興中会」は1911年までの間に10回の武装蜂起を決行、全て失敗しますがこれが革命の引き金となっていきます。
※ちょうどこの頃、1906年頃を描いた映画が「孫文の義士団」です。
https://www.youtube.com/watch?v=-j2eGQcmkd4
この間 日本亡命中に孫文は、多くの日本人支援者と出会います。
南方熊楠、宮崎滔天、犬養木堂(犬養 毅)
頭山満や内田良平と玄洋社社中
副島種臣
そして彼に現在なら一兆円近い支援をした
実業家 梅屋庄吉らです。
当時(孫文を革命分子として確保したい)清国領事館(山下町公園)のあった横浜中華街で孫文は、運命の女性との出会います。
この間、加賀町警察の積極的な保護を受け、革命運動の準備を行うことが可能となりましたが、同じくロンドン亡命中では、清国公使館に監禁されてしまいました。
そして、期熟し
1911年(明治44年)10月10日の武昌蜂起をキッカケに辛亥革命が起ります。
この時孫文はアメリカに亡命していましたが各地で蜂起したリーダー達を取りまとめるために、急遽上海に戻り臨時大統領となります。
ところが、
世紀の悪党!と呼ばれた
策士「袁世凱」に見事、クーデターを起こされます。
1913年(大正2年)に政権奪還のために蜂起しますが大惨敗します。
孫文は亡命を求め日本(神戸)へ向かいます。
孫文の電報を受け取った日本の支援者は亡命を許可するよう求めますがしばし時間がかかります。
孫文は中国からまず神戸に入り、その後横浜に向い、
8月17日の夜半、神奈川県警水上警察署のランチに乗り移り
富岡海岸沖合で和船に乗り換えて、日本に上陸します。失意の亡命でした。
上陸の碑「孫文先生上陸之地」が、金沢区富岡東の慶珊寺(けいさんじ)山門脇に建てられています。(位置は冒頭のマップ参照)
孫文は生涯、理想の革命を追いますが実現する事はありませんでした。
「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」という遺言を残し、1925年(大正14年)3月12日に北京で亡くなります。
孫文は、日本で自らを孫中山と呼ぶようになります。
以後、中山は孫文を表すキーワードとして世界中の中華街には中山路(チュウザンルー)があり、彼の偉業をたたえる中山記念堂が建てられています。
![]() |
創業当時の外観 |
![]() |
魅惑の担々麺、90年代後半まで裏メニューでした。 |
横浜の中山記念堂は、北京料理の名店で魅惑の担々麺がある「華都飯店」の三階にあります。
No.229 8月16日 (木)一六 小波 新杵
1888年(明治21年)8月16日の今日、
後に児童文学者となった巖谷小波が父巌谷一六に連れられて金沢富岡の初代内大臣「三条実美」の別邸”富岡海荘”に行きました。
その時父一六は54歳、小波は18歳でした。
![]() |
富岡海荘の図 沖から見た富岡 |
巌谷小波の記録には訪問目的は記されていませんが、
この年、現在の金沢区富岡東2丁目の海岸に三条実美は”富岡海荘”を建てていますから、新築祝いかもしれません。
どちらにしろ、明治天皇の最も信頼の厚かった内大臣「三条実美」の別邸ですから、多くの人々が訪れたことでしょう。
巌谷一六もかなり三条との交流があった関係と推測できます。
巖谷小波(いわやさざなみ)の代表作の一つ
唱歌「富士山」の作詞者です。
https://www.youtube.com/watch?v=aIOsF8fg4Dg
あたまを雲の 上に出し
四方の山を 見おろして
かみなりさまを 下に聞く
富士は日本一の山
青空高く そびえ立ち
からだに雪の 着物着て
霞のすそを 遠く曳く
富士は日本一の山
一方父の巌谷一六(いわやいちろく)は
1834年3月17日(天保5年2月8日)〜1905年(明治38年)7月12日
明治の三筆(四筆)と呼ばれた書家で、本名は修、一六は号。
菱湖流と六朝書法の書風を確立します。
では、
この二人が訪れた「三条実美」の別邸はどこか推理してみます。
幾つか資料で三条の別荘の位置について表記されています。
「1888年(明治21年)に現在の金沢区富岡東2丁目の海岸に別荘を建てた」
(富岡海荘図巻)
![]() |
左手といってもそそり立つ岸壁の中腹あたり? |
「〜富岡の海岸で、富士山の左手に三条の別荘があったと思われる。」
この資料だけで、勝手推測しました。
※海上から富岡海岸を見た海岸風景ですが
富士山の位置(見えたた)が正確かどうかは不明です。
飾りとして<富士山>を添える、デフォルメするケースは
良くありました。
富岡東2丁目は富岡総合公園一帯ですので公園の一角に富岡海荘はあっただろうと断定!?
周辺を探してみました。

深い追求は専門家に任せるとして、まだ京急も国道も整備されていない旧道からもちょっと距離のある場所に別荘を建てるとはすごいなと感心しながら富岡巡りをしました。すぐ近くに、同時期 大蔵大臣だった松方正義の別荘もあったということですから、良いロケーションだったようです。
小高い丘の中腹からは東京湾、千葉県が目の前に広がっています。当時横浜入港の外国船は 金沢沖を通りましたので 異国船のチェックもできたかもしれません。
(一六 新杵)
三条の富岡海荘を訪れた巌谷一六は、
近江の人で代々藩の医者の家だったそうです。
息子には医者になってもらいたかったようですが、小波は文学者の道を選びます。巌谷一六、明治38年に亡くなりますが、多彩な書を残しています。
ネットで調べたら 書がらみで意外な発見。
巌谷一六氏は横浜、関内の南仲通で1884年(明治17年)創業した洋風菓子製造の店看板の揮毫を引き受けています。
店の名は「新杵」で、創業者は 桐沢枡八で、東京には 桐沢清吉が支店を出しています。
「新杵」の文字(ロゴ)が開店に合わせて書かれたのか、判りませんがかなり個性的な文字です。
![]() |
モースコレクションから発見 |
昔で言う「暖簾分け」で1910年(明治43年)に創業したお店が、現在清瀬に本拠を移し現在関東一円に多くの支店を出している「元祖 焼大福」の新杵です。
No.124 5月3日 料亭にて超機密書類盗まれる
今日は憲法記念日です。
憲法に因んだ横浜ネタといえば、伊藤博文らが金沢八景の料亭東屋で「明治憲法」草案を練ったという話しでしょう。
このあたりの顛末はかなりブログ等に記載されていますので、私はちょっと別なネタに振って紹介しましょう。
とはいえ、
本命、明治憲法草案について簡単に紹介しておきます。
1868年(明治元年)明治政府になってから憲法が制定するまで紆余曲折、かなり時間がかかります。1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法が発布され、国民に公表されますから、たっぷり20年はかかったことになります。
この間、政変も何回か起り、国際情勢も変化する中、1887年(明治20年)5月に憲法草案を書き上げた舞台が横浜市金沢区の料亭東屋と横須賀市夏島の伊藤博文別邸です。(夏島草案)
当初東京で検討されていましたが、プロジェクトの合宿みたいなものでしょう、首相の別邸近くの風光明媚な場所でということで当代有名な相州金沢の東屋旅館で作業を継続します。
が、
留守にしている間に、草案の原稿の入った鞄が盗まれるという大失態が起ります。原稿は無事発見されますが、機密上問題だということで、伊藤の別荘「夏島」に移り作業が続けられます。
というわけで、憲法に因んだ「横浜」はとんだ災難の舞台になってしまいました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/大日本帝国憲法
http://hamadayori.com/hass-col/culture/MeijiKenpo.htm
http://www.keikyu.co.jp/webtrain/ryouma/spot/spot_kenpou_sousou.html
(江戸時代からの有名旅館)
憲法草案盗難という前代未聞の事件に見舞われた「東屋」
江戸時代から続く有名旅館でした。
1955年(昭和30年)廃業ということですから結構最近まであったんですね。
憲法草案が盗まれた旅館ですが、
現代でも良くある話しで、旅先のセキュリティにはご注意を。
今日は、この「東屋」について紹介します。
金沢江戸時代、金沢八景が観光名所として栄えていた頃、 瀬戸橋近くには旅館や料亭が立ち並び賑わいをみせていました。
その中の一つが東屋でした。
金沢(横浜市金沢区)は、鎌倉時代から開けた街でした。
![]() |
東屋写真(金沢区40周年誌より) |
天保 7年(1836)に刊行された「江戸名所図会」にも瀬戸橋と旅亭東屋が描がかれた四枚つづきの挿絵があります。
![]() |
江戸名所図絵より |
瀬戸の急流、橋の上を行き交う旅人、旅亭の客引き。舟には獲れたばかりの跳ねる魚、料理を座敷に運ぶ仲居の姿等が見事に描かれています。
![]() |
江戸名所図絵より |
明治大正期には、多くの文人、政治家もここを訪れました。
当時の記録から「東屋」関係のものを幾つか探してみました。
明治20年6月1日
伊藤博文(45)横浜の金沢に行き東屋に滞在する。4日、同所夏島の別荘が落成して移る。「海辺の空気は至て清涼にて、心持大によろしく候。……日和よき時には、後の山廻り、海岸の貝ひろひ等にて、余程おもしろく日を送り申候」。8月13日、帰京する。以後、しばしば訪れて滞在する。
明治35年2月22日
自轉車旅行の催有り 午後一時を期し品川停車場前の茶見世に會す 來る者久米 佐野 菊地 小代 中丸 小林 合田及拙者の八人也 舊東海道筋を走り横濱を經杉田に到る 此處にて月の出を眺め山を越え金澤東屋ニ一泊
2月22日 アーティストツーリング
明治32年10月16日
津田左右吉(26、千葉県の中学校の教師として生徒を引率し、鎌倉から横浜の金沢に行き東屋に泊まる。17日、鎌倉巡覧ののち三橋支店に泊まる。18日、横須賀に行き造船所を見学して泊まる。19日、再び鎌倉に出て江の島に至り岩本楼に泊まる。20日、藤沢で箱根に行った一隊と合流、帰京する。
大正09年9月 佐佐木信綱(48)横浜金沢の称名寺に古書を訪ね、旅館東屋で昼食をとる。
金沢湾?のシンボル瀬戸神社のびわ島弁天社のそばに、
「金沢総宜楼に題す」という詩碑が建っているそうです。
(今度行きます)
この詩碑もとは東屋の庭内にあったもので昭和30年に廃業したときここに移されたそうです。
金沢区は魅力一杯の歴史をたっぷり楽しめるゾーンです。まだ数回しか訪れていませんが、時間を作って今年はじっくり散策してみたいと思います。
→ということで この後金沢八景を堪能してきました。
No.136 5月15日 フルライン金沢区
No.269 9月25日(火)河口に架かる橋
No.107 4月16日 かみ(お)おか ひとだんらく(修正)
急膨張を続ける人口(住宅地)を背景に、
横浜西の拠点上大岡駅前周辺の整備が急がれていました。
まず京浜急行の立体化と駅舎周辺道路の再整備が行われ、
1997年(平成9年)に「ゆめおおおか」が完了し、引き続き「camio」、
そして2010年(平成22年)の今日、
「上大岡C南地区第一種市街地再開発」miokaがオープンしました。
20年以上懸案だったこのエリアの整備が“ひとだんらく”しました。
2003年(平成15年)に「camio」ができ、
2010年(平成22年)に「mioka」ができました。
残っているのが「O」?わかります?
camio mioka=kamio oka
再開発ビルの地上33階、地下2階建ての内、地下1階から地上6階までが商業施設でミオカ(英文名称:mioka)といいます。
地上7階から33階までの部分は高層住居で「上大岡タワー ザ レジデンス」です。隣にあったショッピングセンターも同時にリニューアルし、「リストガーデンスクエア」から「miokaリスト館」と名称も変更しました。
上大岡駅前エリア開発は
地権者の合意形勢が出来ず当初の計画通りには行きませんでしたが最終的に三地区の開発が行われました。
A地区
上大岡駅改修と「ゆめおおおか」ビル
ゆめおおおかビルは、パブリックアートが随所に展開されています。世界的アーティスト奈良祥智の作品群を含め、100点以上設置されています。この作品探検も面白いですよ!
B地区
横浜上大岡ショッピングゾーンカミオ
そしてC地区が「mioka」です。
上大岡エリアは、港南区周辺の宅地開発による急激な人口増加に対処が必要でした。
昭和45年を100とすると、平成2年の港南区人口は215%と倍以上に膨れ上がります。横浜市全体の伸び率が144%ですからいかに急激な伸びか おわかりかと思います。駅の横を走る「鎌倉街道」は常時大渋滞で、商業機能も手詰まり状態でした。
とにかく航空写真を見てもびっしり住宅密集地が広がっています。
いびつで不完全ではありますがこの駅前開発で、上大岡はポテンシャルを回復します。
当然テナント間の競争はし烈化しますが、商圏は港南台、洋光台、磯子にまで拡大します。
今だ一区画地権者の不同意で全く手つかずのゾーンがあります。
旧街道沿いや、川沿いに下町風情も残っていますが、まだまだ変化する町にどうなっていくのか気になるところです。
上大岡エリアは横浜市の拠点づくり計画の重要なゾーンの一つになっています。
(簡単年表)
1963年(昭和38年)に京浜百貨店が完成、開業。
その後
1965年(昭和40年)富士スーパー開業
1969年(昭和44年)東光ストア(後の東急ストア)開業→閉店
1971年(昭和46年)ダイエー開業→閉店
1972年(昭和47年)横浜市営地下鉄の上大岡駅が開業
1974年(昭和49年)イトーヨーカ堂上大岡店開業
1975年(昭和50年)長崎屋上大岡店開業→閉店
1980年(昭和55年)三越上大岡店開業→三越エレガンス→閉店
1988年(昭和63年)2月14日 上大岡駅前再開発協議会設立
1996年(平成8年)10月1日ゆめおおおか(駅ビル)
2003年(平成15年)12月6日camio(カミオ)開業
2010年(平成22年)4月16日mioka(ミオカ)開業
※2013年年表4月加筆修正
(余談)
一昔前、駅近くのスナックでペンギンを飼っているところがあり、時々街中を散歩していましたが現在も元気?なんでしょうかね。