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第945話【横浜史の節目】

来年は明治維新150年にあたります。
横浜は開港159年。吉田新田完成351年。2018年を迎えるにあたり 平成30年 そして平成31年には
日本近代史上、初の穏やかな平成の終わりを迎える年となります。
ということで

改元についてちょっと整理しようと思ったら
以外に 手こずりました。 改元は何時行われるのか?
1868年10月23日(慶応4年9月8日)
改元の詔書(年始めから遡って改元)
「慶応四年を改めて明治元年と為す」
制度上は慶応四年は存在しないことになります。
1912年(明治45年)(大正元年)7月30日 大正改元の詔書
※改元の詔書には「明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト為ス」
即日改元となりました。
1926年(大正15年)12月25日 昭和と改元。
※明治以降 改元に関して改正がないので
同日改元となり12月25日が昭和元年。
1926年(大正15年)12月26日に改元したという記述も散見しますが、根拠?は不明です。
1989年〔昭和64年〕1月7日
翌日から平成と改元と発表。
1989年(平成元年)1月8日から
 2019年(平成31年)4月30日まで平成時代。
2019年5月1日が改元 ということになりました。
※平成元年は日本史上初めて、遡及がない改元が行われ、
平成は近代史上初めて生前改元が行われることになりました。
余談が長くなりました。
横浜の歴史、時代の変わり目を私流に<超簡単まとめ>しました。
★古代、
横浜市域の多くが海でした。貝塚が今や横浜の丘の上、三沢にありました。
No.212 7月30日 (月)ある“日本人”の学究心

No.212 7月30日 (月)ある“日本人”の学究心

927年(延長5年)
市域内に点在する「杉山神社」が、式内社とされました。
杉山神社は
横浜、鶴見川流域に多く点在し、帷子川、今井川流域にも建立されている全国でのこの一体にしか無い神社です。
杉山神社一覧

杉山神社一覧


暴れ川<鶴見川・帷子川>流域が安定してきた証として神社建立となったと思われます。

★中世
三浦氏の一族平子氏、榛谷氏、稲毛氏など有力な豪族による安定した時代に多くの寺社が横浜市域に誕生します。
1275年頃
北条実時が武蔵国久良岐郡六浦荘金沢(金沢区)に金沢文庫と称名寺を建立。
※※暦で語る今日の横浜【9月22日】

暦で語る今日の横浜【9月22日】


16世紀 横浜は後北条氏の領地となりました。
1590年(天正18年)後北条氏が、豊臣秀吉に攻められて滅亡。

★近世
徳川家康が江戸入りその後江戸幕府が成立。
横浜市域は明治まで徳川氏の領地となりました。
1721年(享保6年)金沢に六浦藩米倉氏1万2,000石の陣屋が置かれ
市内唯一の大名領となりました。
この間、徳川幕府の安定した政権の下で、
農業が飛躍的に進歩し、
併せて築城技術が干拓・治水技術に移転することで大干拓時代が到来し
食料の生産量が飛躍的に伸びます。
まさに、現在の横浜の基礎となった「吉田新田」は大干拓時代の
1667年(寛文7年)に完成します。
この干拓事業の成功が、横浜の発展を支える重要な条件となります。
※wikipediaの「横浜の歴史」では吉田新田完成が記載されていないのが残念です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/横浜市の歴史

横浜歴史上三大エポック!
最初は「吉田新田」完成です。

★幕末
横浜市域最大の事件、ペリー来航と横浜での交渉、そして横浜開港という一大事件が起こります。あまりに有名ですので詳細はカットします。
開港場ができ、居留地が生まれ、外国人はもとより日本各地から人材が集まります。
これによって
日本最大の国際交易港がこつ然!と登場。

★近代
意外と知られていませんが横浜は明治に入り<海軍の街>になります。
北仲の燈台局に隣接して東海鎮守府が設置され、艦隊の後方を統轄する機関となります。

東海鎮守府

その後、すぐに横須賀に移転しましたが、
戦前、横浜は海軍観艦式の開催母港として重要な役割を担います。
<大観艦式>は横浜の一大観光資源として重要なコンテンツでした。
第859話【絵葉書の風景】観艦式に見る日本の歴史

第859話【絵葉書の風景】観艦式に見る日本の歴史

戦前観艦式資料

戦前観艦式資料

【横浜側面史】 観艦式

【横浜側面史】 観艦式

第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント

第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント

■1871年4月20日(明治4年3月1日)
東京・京都・大阪に郵便役所(現在の郵便局)を設置し最初の郵便切手が発行されました。
※郵便は開港後すぐに<領事館郵便>として日本(横浜)から各国に書簡が送付されましたが外国郵便局はこれ以前に居留地内に設置。■1909年(明治42年)
開港50周年記念 市章・市歌制定

横浜市歌

■1928年(昭和3年)11月10日
横浜市営バス開業

市営バス50周年乗車券

横浜史上、3つ目の節目は
1923年(大正12年)に起こった関東大震災です

昭和以降の横浜は次回に

第943話【今無い風景を読む】汽車道と北仲通の壁模様

1997年(平成9年)に開通した汽車道(開港の道)を渡る折、

開通直後の汽車道

桜木町駅から日本丸の脇に立つと、いつも気なる風景がありました。
帝蚕倉庫の壁に設置されていた「Panasonic」の光学ディスクをモチーフにした広告です。
それ以上にこの壁に這うツタの葉が描く<模様>に釘付けとなったことを記憶しています。
この風景、一服の絵画に見えませんか?
森の中に一軒の家が建ち、冬には枯れ、秋には色づき四季の変化もありました。
私が汽車道を良く渡るようになったのは2000年頃からです。それから17年、汽車道の木々も成長し、何と言っても周辺の景色が大きく変わっていきました。
汽車道、運河パーク内を通るこの道はその名の通り、明治以来汽車が通る鉄道線でした。1989年(平成元年)に横浜博覧会で使用されたのを最後に廃線となり、閉鎖されていましたが、再整備が決まり山手まで繋がる<開港の道>の入口です。この道は
桜木町から明治期に整備された「新港埠頭」現在の象の鼻パーク、大さん橋、山下公園、そして山手ふらんす山を経由する遊歩道です。
撮影の頃、新港埠頭近辺には大きな商業施設、横浜ワールドポーターズがありませんので、1990年代の風景です。 1980年代、1990年代、2000年代、2010年代
このエリアは 10年単位で大きく変貌してきました。
横浜市内で今、
最も変化し続けている空間といえるでしょう。

第942話【謎解き】吉田橋広場

今年は馬車道150年です。
1867年(慶応3年)に「吉田橋」から関内を通り抜ける広い道路が整備されたことに因みます。
この「吉田橋」から続く<広い通り>は地元の人たちに通称「馬車道」と呼ばれるようになり、その後区画整理を経て現在の「馬車道通り商店街」となりました。 この吉田橋を渡ると伊勢佐木町の繁華街が日枝神社近くまで続きます。
もう一つ
「吉田橋」袂から斜めに「吉田町商店街」が野毛へと続きます。 この吉田橋際に立ってみると、馬車道側に不思議な空間があります。
かつて
「丸井横浜関内店馬車道館」があった場所でした。 1980年(昭和55年)に開店
2000年(平成12年)に閉店しその後高層マンションとなっています。
当時、この広い空間は丸井馬車道の敷地だと思っていましたが、その後丸井が撤退しマンションが建つ計画が公表された時に、この空間が公共の土地であることがわかりちょっと驚いた記憶があります。

一方、伊勢佐木口側は昔、馬車道側より広く長い広場(広い空間)がありましたが今は無くなってしまいました。この広い空間には一時期運河沿いに「警察署」が建ちその後デパートが伊勢佐木のシンボルとなった時代があります。この<不自然な>広場は共に、関内に街路が整備された頃から他の道路とは異なり、誕生しました。なぜ?ここに広場のような空間が存在したのでしょうか?
私の結論から先に紹介します。
吉田橋<関門>あたりはかつて関内外の主要関門であったため、交通量が多く関門周辺に<滞留空間>が自然と出来上がったのだと推理しました。

場所を馬車道側に戻します。
この空間について資料を調べるキッカケとなったのは一枚の写真でした。
最初に紹介しましたように、馬車道側に明治期から現在まで不思議な広場が存在していたことは、過去の風景写真によって明らかです。明治期の地図でも明確にこの空間が示されています。慣れとは恐ろしいもので、何度となく見ていたはずの<この空間>の不自然さに全く気が付かなかったのです。

偶然入手したこの一枚の写真、裏面のメモから1953年(昭和28年)頃に撮影されたと思われます。
街路樹のエッジに白い像が建っています。ロダンの考える人をイメージさせる腕を曲げ顎を支えているかのようなポーズです。
戦前の風景には見当たりません。
終戦直後の米軍進駐時の写真にもありませんでした。
戦後復興期に短期間設置されたようです。
何故短期間かというと、1958年(昭和33年)5月8日の写真にはこの白い像が別のものに変わっていたからです。この年、開港百年祭が行われ、その時の様子が広瀬始親(ひろせもとちか)氏が記録していた写真集に収められていました。ここにはトーテムポールようなものが設置されています。
再度、白い像のある写真を拡大してみると背後に石燈籠のようなものも二基設置されています。
馬車道の老舗で伺っても記憶に無いとのこと。
まだ この謎は解けていません。

第940話【最強の市長】有吉 忠一

現在、横浜市長は
第32代、20人目の林文子氏が就任しています。(2009年(平成21年)8月30日〜)
戦前は13代まで官選市長が市政を担当しました。
戦後は選挙で選ばれています。
戦前戦後を通じて 任期満了か、途中辞任によって市長交替となりました。
例外は在任中に亡くなれた市長が2名
16代「平沼亮三」氏と24代「細郷道一」氏でした。
(最強の市長は誰か?)
最強という表現が適切かどうかわかりませんが
ここに紹介する第10代横浜市長「有吉忠一」は横浜市政史に残る
“最強”の市長といえるでしょう。
歴代市長を評価するには様々な視点から市政の結果を分析していかなければなりません。政策実行力・問題解決力・政治的決断力 他いろいろ指標がありますが
有吉忠一は
「数多くの業績を残した昭和初期の「不世出」の市長」と言われています。
“「不世出」の市長”というのは中々の評価ですね。
横浜市史上最大級の難問、震災復興に取り組んだ不屈の市長です。
ここに当時の有吉市長を知ることができる一枚の写真があります。
たまたま海外の写真オークションで手に入れたものです。

生糸検査所の有吉忠一と秩父宮

生糸検査所屋上から「横浜復興」を秩父宮に説明する有吉市長

1927年(昭和2年)6月2日(開港記念日)
この日、関東大震災から5年
<復興>を市内外に宣言する重要なセレモニーとして「大横浜建設記念式」を開催しました。式典には秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう)を迎え、望月圭介逓信大臣を始め、1,557人もの市内外の名士が集まり盛大に挙行されました。
秩父宮は式典に参列する前、市長有吉忠一により復興状況の説明を受けます。

(関東大震災)

震災被災(焼失)エリア

(震災復興)

秩父宮視察が行われた生糸検査所
震災復興のシンボルとなった商工奨励館

有吉忠一の簡単な経歴を紹介しましょう。
1873年(明治6年)
京都府生まれ。
第三高等中学校、帝国大学法科大学法律学科(現在の東京大学)
1896年(明治29年)
内務省入省。
1897年(明治30年)
島根県 参事官
兵庫県 参事官
1901年(明治34年)
内務省 参事官
1908年(明治41年)3月
第11代 千葉県知事 就任。
知事時代、千葉県営軽便鉄道(後の東武野田線の一部)の開通を手がける。
1910年(明治43年)6月14日
韓国統監府総務長官 就任。
朝鮮総督府総務部長官。(〜1911年(明治44年)3月13日)
1911年(明治44年)3月13日
第13代 宮崎県知事 就任。
知事時代 宮崎県営鉄道を建設。飫肥線の敷設、日本初の学究的発掘調査となった西都原古墳群の発掘調査を行う。
1915年(大正4年)
第九代 神奈川県知事 就任。
自治時代 多摩川の改修を指示し川崎市中原区に「有吉堤」の地名が残る。
関東学院の開設に助力。
同年11月10日
大礼記念章
1919年(大正8年)4月18日
第15代 第15代兵庫県知事 就任。
1918年(大正7年)6月29日
勲二等瑞宝章
1922年(大正11年)6月16日 退任
1922年(大正11年)6月12日 ※
「朝鮮総督府政務総監」に就任(〜1924年7月4日)。
※知事退任日と総監就任日に重なりがありますが 資料のママ掲載します。

有吉は軍事権を除く行政・立法・司法の実務を統括し、在任中、朝鮮総督府の日本人高級官僚、特に「生え抜き官僚」との軋轢に加え、関東大震災時の“朝鮮人虐殺”に反発する朝鮮での暴動等の真ただ中でかなり苦労します。

1924年(大正13年)7月4日
その任を解かれ東京に戻ります。
1925年(大正14年)5月7日
第10代横浜市長に就任。
※推薦者 原富太郎、中村房次郎、井坂孝ら
1930年(昭和5年)2月10日
正式に辞意を表明します。
「予算案さえつくれば、その決定は予算を実行する後任市長と市会の自由裁量によるべき…」との一言を残し、
同年4月 貴族院議員 勅選。
1930年(昭和6年)2月26日
昭和6年度の予算が成立する前に辞職。
1933年(昭和8年)
第7代 横浜商工会議所会頭。(〜1942年(昭和17年))

■有吉忠一の横浜
米貨公債で<震災復興資金>を集め、早期復興に努め 大きな成果をあげました。
「大横浜建設」の三大方針
・横浜港拡張
・市営埋立(臨海工業地帯の建設)
・市域拡張
生糸貿易に大きく依存してきた横浜市の体質を脱却して工業化を推進するために臨海部に大規模な工業地帯を建設し企業を誘致し港湾機能を拡充。
広大な後背地の確保(市域拡大)
市長時代から退任後
横浜商工会議所会頭時代精力的に臨んだのが
「東京湾拡張問題」=東京港開港要求でした。
横浜にとって東京開港は死活問題。東京にとっても東京開港を渇望していました。この問題はすでに明治期からくすぶっていた課題で 震災後は政財界を巻き込んでの大問題になっていました。
有吉は横浜・神奈川の意見を取りまとめ東京と横浜との軋轢解消を推進しました。
首都圏の港湾経済を考える上で、都市間で争っている時代ではない!
という視点から 国と東京市との合意を求め奔走します。
最終的には横浜復興で独自に米貨公債により調達した復興資金の残債半分を国に肩代わりしてもらう代わりに東京開港を制限付きで認めるという結論をまとめます。
「(横浜復興に借りた米貨公債を政府に肩代わり叶えば)東京の希望に反対しない事になった、併し満支関係の船は兎に角、英米の大船は東京には寄港出来ぬ、東京港は水深二十五尺、六七千噸級内せいぜい一万噸級を限定とする実情である、夫はさてをき横浜市民も此解決で初めて積極的に振興の業にあたる事が出来るようになったのである、之は昭和十五年の事であるが、この時市税総額八百七十万円で、市の公債費は総額八百九十万円、市税の全額を挙げても尚ほかつ足らぬという窮境であったのである(中略)ああこれで横浜市民のために、震災のあとかたづけが出来たと、肩の荷をおろした感で、大変本懐に思った事である。(有吉忠一 経歴抄)」
◯有吉忠一関係ブログ
■震災復興 横浜拡大
No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命

No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命


1929年(昭和4年)8月19日に飛行船ツェッペリン伯爵号は
何故 急遽計画を変更して横浜上空に現れたのか!
第818話【横浜2345】大横浜の時代

第818話【横浜2345】大横浜の時代 


No.464 昭和5年頃の横浜

No.464 昭和5年頃の横浜


No.336 12月1日(土)ホテル、ニューグランド

No.336 12月1日(土)ホテル、ニューグランド


No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

■市長エピソード
No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更

No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更


No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?

No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?


■県知事時代
No.445 「有吉堤」

No.445 「有吉堤」(加筆修正)


No.443 岸辺のアル闘い

No.443 岸辺のアル闘い

第939話【番外編】横浜のクリスマス

以前、”クリスマスツリー”の歴史に関して少し調べたことがあります。
日本でクリスマスツリーが飾られたのはいつ頃か?
調べると意外に難しく、ネット上の出典なしネタが多くあり、本腰を入れて出典を調べる必要に迫られましたが、諦めました(笑)。
簡単にまとめると
クリスマスツリーのルーツは諸説ありドイツから始まったのが有力でした。

1.ボニファチウス説
「8世紀のドイツ、樫の木を崇拝する人たちが子どもを生け贄に捧げていました。ドイツの使徒と呼ばれた聖ボニファチウスはこの風習を止めさせるためにオークを切り倒すとき、奇跡が起こりキリスト教の神の力が彼らの神よりも強力であることを示してイエスキリストこそ真の神であることを説いたことに由来。
2.三位一体=三角=樅の木
キリストの三位一体の象徴
3.ユール原型説
北欧に住んでいた古代ゲルマン民族の「ユール」という冬至の祭で使われていた樅の木
は冬でも葉が枯れない生命の象徴。
4.「旧約聖書」の創世記の舞台劇
「中世のドイツでは、イヴに教会の前でキリスト降誕祭の序幕として、楽園におけるアダムとイヴの堕罪の物語を演じる神秘劇が行われていた。」
この<禁断の果実>がなる木を舞台に立てたことに由来。

キリスト教伝来の頃はおそらくツリーは無く江戸時代には長崎の出島ではオランダ商人によって密かに「唐人冬至」を模した「阿蘭陀冬至」としてクリスマスを祝ったそうです。 
時代を近代からとすると幾つか文献がでてきました。
(ドイツ流)
1860年に通商条約締結のために来日していたプロイセン王国使節であったオイレンブルク一行が公館で飾った記録が残っています。

オイレンブルク一行

残念ながら横浜ではなく江戸の赤羽根のプロイセン王国公館でのことでした。
「随員の中の二、三人のクリスマスの準備を依頼した。何よりもクリスマスツリーを立てることが先決だったが、日本で木を一本切り倒すのはいつでも難しいことであった。しかも本当の樅の木は江戸にめったにない。それでも木はぜひとも必要である。(中略)ついに馬にまたがり、何マイルも先まで乗り回してありとあらゆる植木屋を探してやっとすばらしい一本をみつけてきたのである。」
これからが大変だったようで、準備の様子も細かく描写されていますが略します。
「準備そのものがまるで祝典だった。五人の水兵がそのために働いた。(略)すばらしいクリスマスツリーは天井まで届くほどで、オレンジや梨がたくさんそれにぶるさがっていた。」
※冬に梨がたくさんあった?のはいささか疑問ですが
当時、クリスマスツリーで飾り、抽選会などを行いお菓子を振る舞うドイツ流スタイルはゲストとして招かれた英国の将軍ホープ・グラント、領事オールコック、駐日アメリカ総領事館のヒュースケン他のゲスト達も驚きの様子が記されていました。
「オイレンブルク一日本遠征記」より
では、日本人によってクリスマスパーティが行われたのは何時ごろかというと、
1874年(明治7年)に実業家の原胤昭(たねあき)が築地にあったカロザースの妻ジュリアの女学校で開かれたクリスマスパーティーで日本最初のサンタクロースが登場、飾ったのが最初と言われています。
横浜が舞台となったクリスマスツリーの登場は、
1886(明治19)年12月7日
現在クリスマスツリーの日となっている12月7日のこの日
明治屋が横浜で外国人船員向けにお店でクリスマスツリーを飾りつけたそうです。
この日が1886年が日本初の「クリスマスツリー」だ とする説もあるようです。

本町通り明治屋

1900年(明治33年)に明治屋が東京銀座に進出すると、銀座のお店でもクリスマス飾りが広く行われるようになり、広く商店などのデコレーションに繋がったようです。
少し遡ると
1868年(慶応4年)に出された運上所の取り決めの中で、
開港場の休日が、4月7日、5月15日、7月7日、7月15日、8月1日、9月9日の他に、西暦の日曜日そして クリスマスの日が設定されました。
1879年(明治12年)12月には
海岸教会で日本人初のクリスマスの儀式が行われたという記録が横浜市史稿にあり、いち早く教会が建てられた横浜でも”クリスマスミサ”が積極的に行われたようです。
さらに横浜歴史年表でひろった<クリスマス>
1951年(昭和26年)12月19日
日米合同でクリスマス・デコレーションのコンクールを開催する。
1970年(昭和45年)12月23日
横浜公園体育館で市民クリスマスフォークダンス開催。

No.413 あるドイツ人の見た横浜

No.413 あるドイツ人の見た横浜


【番外編】今日はクリスマスツリーの日?

【番外編】今日はクリスマスツリーの日?


<クリスマス風景 クリッピング>

第899話【謎の風景】1910年(明治43年)3月

今日紹介する<風景>は、未解決の一枚です。少し謎が解けてきました(後部で紹介)
ここは何処でしょうか?
手がかりは多いのですが確定できていません。分からないままご紹介します。
謎の風景を特定するのは楽しい作業です。
一つのヒントであっけなく解けてしまうこともあれば判りそうで全く判らないものもあります。
今回は謎の風景を読み解けるだけ解いていきたいと思います。
(風景を読む)
まず最大の読み解きポイントが<木柱>です。
「明治四十三年三月 横濱市役所」
最も具体的なヒントとなっています。
横浜の 明治43年、1910年3月はどんな時期だったか?
明治末期で、20世紀に入り横浜の都市整備本格的にが始まったころです。

1903年(明治36年)10月8日 合名会社明治屋設立(代表社員米井源治郎)
1904年(明治37年)2月10日 日露戦争(〜05年9月5日)
3月9日 横浜鉄道株式会社設立
7月15日 横浜電気鉄道開通(神奈川-大江橋間)。
10月 「実業之横濱」創刊1905年(明治38年)
10月23日 横浜沖で凱旋観艦式、行幸。
1906年(明治39年)5月 三渓園 開園
9月 横浜製糖株式会社創立。
10月 帝国肥料株式会社創立(本社 横浜)。
12月 「横濱貿易新報」発刊(貿易新報を改題)
※「実業之横濱」と「横濱貿易新報」 横浜メディアの誕生
1907年(明治40年)1月 横浜生命保険株式会社創立。
1908年(明治41年)3月18日 朝日新聞社主催の世界一周会に参加の57人(婦人3人)横浜を出帆。
この女性の一人が横浜の野村みち(38歳)です。
9月23日 横浜鉄道(東神奈川ー八王子間)開通。
白船艦隊来港
【横浜絵葉書】弁天橋の日米国旗
1909年(明治42年)7月1日 横浜で「開港50年祭」挙行。
 7月11日 政府関係者の反対を押し切り横浜掃部山で井伊直弼の銅像、除幕式。

1910年(明治43年)3月19日 野毛3丁目から出火。630戸焼失。
この時期の横浜は第一次市域拡張(1901年)から第二次市域拡張(1911年)の間にあたります。
(同時期の風景と比較)
■派大岡川
下記の絵葉書は1910年の風景です。
この絵葉書は指路教会が見えることから派大岡川河畔、吉田橋上伊勢佐木寄りから大岡川方向、宛名面のタイムスタンプが1910年(明治43年)です。
画像はそれ以前の発行と推理できますが、発行年は不明。
指路教会は1892年(明治25年)ヘボンの尽力により建てられたものなので、少し時期は絞りこめます。さらに左奥に小さく写る橋は柳橋で、1905年(明治38年)の地図によると柳橋たもとに横須賀行きの船着き場がありました。
当時使われていた船の大きさから<派大岡川>のスケールが良く判ります。■橋
不明風景に戻ります。
川には木製の橋が架かっています。 橋脚は四基、構造は在来工法による湾曲した桁橋。川幅は写り込んでいる人物から推測すると橋脚は14〜15m、川幅はもう少しあるでしょうか、当時の横浜市内ではかなり大きい川です。画面左側の川岸は広い道となっていて材木店が建ち並んでいます。
岸側が電信柱、陸側が電力柱のようです。
対岸、画面右側には<板塀>が張り巡らされ木造三階建て・煉瓦の洋館が建ち並んでいます。両岸の風景が明確に異なっている点もこの風景の特色です。
1910年頃の市域範囲からこの川は「大岡川」とその支流であろうことは推理できます。
中でも川幅からは「派大岡川」の風景と推理できそうですが少し狭いようにも感じます。
確証がありません。継続調査していきます。
【新展開】
お世話になっている本牧の郷土史研究家の長澤さんからここは吉田川「長島橋」ではないか?という資料とヒントをいただきました。
横浜橋側から川下に「長島橋」を観る風景と推定すると、右側が真金遊郭、左が駿河町一丁目ということになります。真金の建物の風情もこんな感じかもしれません。駿河町の材木店も探すヒントになるかもしれません。この年の翌年に路面電車が通ります。
これを軸にさらに追いかけてみます。まずは御礼と訂正追記を報告します。(2019.07)

大正三年ごろ長島橋付近

第867話 【明治の風景】横浜駅前公衆便所(加筆)

初代横浜駅が開業したのは1872年6月12日(明治5年5月7日)考えてみれば、開港以来十数年で産業革命の象徴を導入したことになる。
わが国の鉄道発祥の駅舎は新橋駅と共にアメリカ人建築家、R・P・ブリジェンスが設計した。
ここに横浜駅前、鉄道開業後の写真に写る<謎>の建物を発見?

初代横浜駅前

明治25年に発行された絵地図にも駅前噴水の先、大岡川に面した場所に何か建造物がある。
私はこれは新しい「公衆便所」ではないかと推理した。
撮影時期は、初代横浜駅開業期から
1902年(明治35年)に初代大江橋が架替されるまでの間であることは間違いないだろう。
さらに絞りこめるか、果たして公衆便所なのか
資料を漁ってみた。
まず簡単に横浜公衆便所史から
開港後、欧米人が出会った日本の風習の中で、
庶民が平気でどこでも<立ちション>するという行為には閉口したという。
そこで外国人たちは<公衆便所>の設置を時の行政府に強く要望した。
早速動いたのが横浜町会所、現在の横浜商工会議所だった。
1871年(明治4年)11月に横浜町会所の費用で町内83カ所に小便所を設置。
掲示板を使って設置場所を掲示し
「右之通りに付旅人は別して心得居可申事也」と示した。
この小便所は四斗樽大の桶を地面を掘り下げて埋め込み、板囲いをした程度の簡単なものであったため臭いがきつく外国人にはかなり不評だったようだ。
「主要地区には瓶(かめ)を埋め込み、男女両用に供し、屋形式のやや完全なるものに改造するなど、統廃合の結果、多くは橋詰に設置する事となり、其の数も四十数箇所となった。」
これが写真にある初代横浜駅前広場、大江橋詰に設置された公衆便所ではないか?
<横浜駅前公衆便所>
確証は無いがその他にこの当たりに必要な<建築物>が考えつかない。邏卒所=交番も考えたが、川沿いに建てる必要があるのか?窓がない、川に向かって蓋らしき構造、などなど疑問が残る。
拡大してみると人影が見え”立ちション”に見えないこともない。
写真左側には「大江橋」が架かっている。下流右岸から「大江橋」を見ている。
反対側からの風景でも確認してみたい。

大江橋上流の右岸から「大江橋」を写している。
恐らくこの風景の方が新しいものだろう。電信柱が増えているのが判る。
ちょうど樹木が遮っていて、正確に確認することができないが、角度的には橋詰の<建造物>は無いように見える。
短期間で撤去された可能性もある。

明治二十年代の初代横浜駅周辺。横浜電気鉄道はまだ開通していない。

1872年(明治5年)2月17日の横浜毎日新聞には
「仮名垣魯文、立ち小便で科料(とがりょう)とられる。仮名垣魯文、当港へ来たり、本町辺にて風と立小便為し、邏卒に見咎められ、科料申付けられし由、西洋膝栗毛の趣向を一寸実施に見せたるは面白し。」と時の有名人も”立ちション”で捕まったようだ。
(参考資料:荒井保男『日本近代医学の黎明 横浜医療事始め』2011 中央公論新社)
※番外編
偶然の一致?

桜木町公衆便所遠景
桜木町公衆便所

大江橋近くに2016年までなかなか良いデザインの公衆便所があったが、廃止されてしまった。
位置的にも古地図の位置と合っている(若干大江橋寄りではあるが)!んだけどな。
さらに追いかけてみるか?

第843話 1898年(明治31年)7月8日開港港則公布

1898年(明治31年)7月8日の今日、
開港港則が(勅令)公布されました。

開港港則
開港港則

第一条 左ニ記載スル外国通称ヲ許シタル諸港ノ経界ハ左ノ如ク之ヲ定ム
「横浜ノ港界ハ、十二天(マンダリン・ブラフ)ヨリ燈船マデ、夫ヨリ正北ニ向イ鶴見川口ノ東岸マデ引キタル一線内ニ含マル」と規程されました。(勅令第百三十九号)官報7月8日
港湾に関する原則的なことを決めた国の法律です。
第一条には、上記の通り、横浜港の範囲が明記されました。

赤線が「横浜港の範囲」
赤線が「横浜港の範囲」

「境界線は鶴見川河口域から真南に下ります。」
「南端は本牧十二天、小港のあたりです。」

横浜“港はどこからどこまで”というごく当たり前のルールが初めて規定されました。
外国との港湾に関する規則は
1869年5月(明治2年)に大阪を国際港と認め開港する際に4カ国領事と協議し「大阪港規則」を決定し布告します。明治政府になって初めての<港則>の成立です。

ところが、この「大阪港規則」は、曖昧な部分が多く、例えば港の境界が示されていませんでした。つまり外国船が入港する際の停泊地<碇泊位置>に関する規定が無く、乱暴に言えば何処に停泊しても規制できないものでした。
当然、様々なシーンで日本と外国、そして外国同士の紛争が多発します。ルールが曖昧なゆえに各国の思惑がまかり通る、緊迫した港湾行政が全国の<開港場>で行われ、特に最大の開港場であった横浜居留地がクローズアップされます。
当時明治政府は、不平等条約を抜本的に改定することを目的としていたため、港湾規則に関しても、現行ルール(不平等条約下)での運用で紛争を乗り切ろうとしていました。
現実に起こる紛争は国レベルから港の直接管轄者である<県>に預けてしまいます。
横浜港を例に取れば 港湾行政に神奈川県・税関(大蔵省)・外務省・内務省、(後に横浜市)など関係者が関わっている状態が長く続きます。
ここに、居留地内の諸外国のパワーバランスが加わり、事態はかなり複雑な様相を呈します。
幕末、南北戦争で日本(横浜)で静かにしていたアメリカが明治に入り、俄然発言力を増してきます。明治初頭、居留地自治をめぐりイギリスとアメリカの主導権争いは明治横浜の様々な政策に影響を及ぼします。
明治期の<神奈川県令・知事>は日本の外交政策の最前線に立たされた役職なので、個々に追っていくと知事によって個性も出て面白い。
港の規則に話を戻します。
港の範囲を示す国内のルールは1870年(明治3年)に「横浜港内規則」によって規定されていましたが、あくまで列強が<参考>にしていたルールで、暗黙の了解、慣例化されていたルールだったようです。
ところが事態はこの慣例が次第に破られていきます。

いろいろ調べてみると、諸外国の商船が勝手に貿易を始める<税関>から見れば密貿易・脱税にあたりますから 当然対処しようと考えます。税関にとって港の境界は生命線でもありますから、当然国の問題として政府に何とかしろ!と上申します。
ところが、政府は事態を明確にせず、不透明なまま問題を先送りします。これは政府が怠慢であった訳ではなく、天下の不平等条約を元から改定したい政府にとって、不平等の一部で諸外国と交渉し<妥協>を強いられることを嫌ったからです。ここで港湾規則制定が転機を迎えます。

外務大臣に大隈重信が就任します。

大隈重信
大隈重信

彼は、港湾ルールの早期確定(制定)のため<不平等条約撤廃>とは分離して交渉にあたります。
これが横浜港<大築港計画>のキッカケになりました。
大隈は、かねて懸案であった横浜港の整備を国が責任をもって行うから、港の使い方も同時に考えましょう!
という方策を示します。
→第一期横浜港築港計画が1890年に始まります。
この横浜港築港計画に関しては、国内問題として内務省と外務省、さらには横浜税関(大蔵省)・神奈川県を巻き込んだ論争(と抗争の間くらい)があり
日本各地の築港計画に関わったオランダとの競争があった結果、英国のパーマー設計で築港計画が行われます。
時代は、開港以来30年もの時が流れ、世界の海運状況が劇的に変化していました。
大型商船が世界各国で増産され、大海運時代が到来していたのです。
港湾ルールの早期確定を狙った大隈のチャレンジは国内外の議論沸騰と<大隈の襲撃事件>によって挫折します。しかし、一度始まった港湾ルール策定の流れは国内外のニーズとも合致し、
1898年(明治31年)7月8日の今日、
開港港則 勅令 という形で結集することになりました。
そしてこの「開港港則」にもとづき「横浜港規定」が設定されさらに詳細な港のルールが明文化されていきます。
少し後半端折った感があります。「開港港則」制定への道のりは実に興味深い事項です。ここには作家有島武郎の父、横浜税関長有島武や実は明治以降にも大活躍した後藤象二郎らも登場し、さらに資料を読み込んでみたいエピソードです。
また、この「開港港則」における<横浜港の範囲>が後の東京・横浜開港闘争!?にも重要な役割を担ってきます。
今日はここまでとします。

(過去の7月8日ブログ)
No.190 7月8日(月)パブリック・ディプロマシー
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=417
1958年(昭和33年)7月8日の今日
伊勢佐木から横浜公園に移築された米軍用の室内運動場フライヤー・ジムの …

(参考資料)

■開港港則は

港内における船舶交通の安全と整頓を図ることを目的として制定された法律(1948公布)。本法制定以前に存在した旧開港港則(1898年公布の勅令)が,開港のみを対象とし,また関税や検疫事務に関する規定を含んでいたのに対して,本法は,その内容を交通警察的見地からの規定に純化するとともに,その適用対象を開港以外の港も含め港一般に拡張した。適用対象となる港およびその区域は政令(港則法施行令)によって定められることとされており,1997年現在その数は500余港となっている。
■開港港則中改正
明治31年勅令139号として開港港則が制定されました。本則は開港(海外との貿易が可能とされた港)における船舶交通と衞生上の安全を図ることを目的としていました。また、開港の指定が同則の第1条でなさえていたことから、開港の指定は、同則の改定として実施されました。

第835話 1875年(明治8年)6月29日小学校と呼ぶ

1875年(明治8年)の今日6月29日
「学舎の名を<学校>と改称(横浜歴史年表)」
横浜の小学校は制度として1872年(明治5年)から寺院等を使って始まりました。それ以前に江戸時代からの<寺子屋>として地域の教育機関だったものもあります。新学制が導入され小<学舎>と呼ばれてその後1875年(明治8年)の今日、小学校と呼ばれるようになりました。
上記の(横浜歴史年表)表記によると

壮行学舎→横浜学校<注1>
存心学舎→吉田学校
立志学舎→太田学校
養賢学舎→石川学校
三到学舎→元街学校
就蘭学舎→北方学校
洗心学舎→本牧学校
主敬学舎→根岸学校※
(正)※志敬学舎→根岸学校
真照学舎→磯子学校
弘照学舎→鶴見学校※
(正)※弘明塾→鶴見学校

と紹介されていますが、調べていくと誤記(文字変換誤作動)等があり整理に手間取りました。一部確認できたものを修正しました。
明治期にかなりの小学校が地域に設立されています。日本の近代化を支えた柱の一つです。
<注1>横浜小学校
https://ja.wikipedia.org/wiki/横浜小学校
(明治前期創設の小学校)
明治前期に<現横浜市域>に設立され現在もある小学校リストを一覧化してみました。(廃校は略しています)

※印は創設時の<学舎>
1872年(明治5年)
山下小学校  北八朔町1865-3※中村学舎
石川小学校  中村町1-66※養賢学舎
豊岡小学校  豊岡町27-1※弘明塾
1873年(明治6年)
子安小学校  新子安一丁目24-1※子安学舎
都岡小学校  都岡町4-8※今宿学舎・川井学舎
北方小学校  諏訪町29※就蘭学舎
鉄小学校  鉄町427※鉄学舎
星川小学校  星川三丁目18-1
元街小学校  山手町36※三到学舎
末吉小学校  上末吉一丁目9-1※末吉学舎
谷本小学校  藤が丘一丁目55-10※谷本学舎
保土ケ谷小学校  神戸町129-4※程谷学舎
磯子小学校  久木町11-1※真照学舎
杉田小学校  杉田一丁目8-1※森田学舎→森中原学校
根岸小学校  西町2-46※志敬学舎
金沢小学校  町屋町26-26※知足学舎・柴村小学舎・野島学校
釜利谷小学校  釜利谷東六丁目37-1※赤井学舎(万蔵院)
六浦小学校  六浦三丁目11-1※三分学舎(光伝寺)
大綱小学校  大倉山4丁目2-1※地域の四学舎(大乗寺・東照寺・本乗寺・観音寺)
日野小学校  日野七丁目11-1※日野学舎
田奈小学校  田奈町51-13※??
富岡小学校  富岡西七丁目13-1※富岡学舎
日吉台小学校  日吉本町一丁目34-21※清林学舎
長津田小学校  長津田町2330※壮行学舎
戸塚小学校  戸塚町132※富塚学舎
市場小学校  元宮一丁目13-1※真明学舎
潮田小学校  向井町三丁目82-1※潮田学舎
山内小学校  新石川一丁目20-1※荏田学舎
青木小学校  桐畑17※青木学舎
市沢小学校  市沢町781※市野澤学舎
二俣川小学校  二俣川1-33※宮沢学舎
石川小学校  中村町1-66※養賢学舎
大岡小学校  大橋町3-49※大岡学舎
太田小学校  三春台42※立志学舎
日下小学校  笹下3丁目9−1※笹下東樹学舎
1874年(明治7年)
高田小学校  高田町1774※高田学舎
中川小学校  牛久保東二丁目21-1※大棚学舎
鴨居小学校  鴨居四丁目7-15※ 鴨居学舎
桜岡小学校  大久保1丁目6−43※最岡学舎
1875年(明治8年)
川島小学校  川島町1162※川島学舎
神奈川小学校  東神奈川二丁目35-1※神奈川学舎
1876年(明治9年)
千秀小学校  田谷町1832
1879年(明治12年)
戸部小学校  伊勢町2-115※戸部学舎
1880年(明治13年)
今井小学校  今井町981-1(3月25日)
白根小学校  中白根一丁目9-1(7月5日)※今宿学舎(本立寺)より分校
1889年(明治22年)
新治小学校  新治町768※久保学舎より分校
1890年(明治23年)
瀬谷小学校  相沢四丁目1-1(11月15日)※ 瀬谷学舎・二つ橋学舎・若宮学舎・新道学舎・阿久和学舎などが統合?
1892年(明治25年)
豊田小学校  長沼町125-4(5月1日)※龍臥学舎(明治5年2月)
中和田小学校  和泉町3721(5月17日)※岡津学舎
中山小学校  中山町925(9月1日)※移転し「森の台小学校」中山第二小学校が「中山小学校」に※中山学舎
川上小学校  秋葉町203-2(10月1日)
本郷小学校  中野町16-1(10月5日)
永野小学校  上永谷二丁目21-10(11月3日)※棲心庵学舎(明治5年)
このように、明治前期に地域の学校が多く設立されます。
学校の敷地は地元の協力で(寺社、私有地等)を寄付し開校された学校が多かったようです。
※各小学校・区役所の資料から表記を整理したものです。表記以外に<学舎>として歴史があるものも散見されます。

(その他の6月29日ブログ)
No.181 6月29日(金) オーシャンビューの35棟解体
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=427
1959年(昭和34年)6月29日(月)の今日、米軍に接収されていた山下公園が“一部解除”されたことを祝う式典が行われました。
この接収時期の山下公園風景が絵葉書にされています。

山下公園米軍接収風景
制作当時、この風景が未来永劫?続くと思ったのでしょうか?
それとも、貴重な風景ととらえたのでしょうか?
14年に渡る接収は当時の横浜中心部接収事情からはかなり長い接収期間といえるでしょう。

第828話 1889年(明治22年)6月22日杉村濬

1889年(明治22年)の今日
初代の<在バンクーバー日本国領事館(現在総領事館)>に杉村濬(すぎむら・ふかし)領事が着任します。
正確には彼を長としてカナダで初めて領事館が開設されました。
当時、カナダの在留邦人は200名程度で悲惨な状況だったそうです。
このカナダ領事時代の体験が杉村濬のブラジル移民政策に大きく影響を与えました。
杉村濬は<ブラジル日本移民の端緒を開いた人>といわれています。
盛岡出身
「杉村濬(幼名:順八)は1848年(弘化5年)1月16日,岩手郡仁王村大沢川原小路4番戸(現:盛岡市大沢川原)にて盛岡藩士杉村秀三,ナカの次男として生まれた。父秀三は剣術に優れ,濬も明治期の作人館で剣術を教えていた。濬は明治初期から外交畑で活躍し,のちにはカナダやブラジルへの移民事業に努めた。(盛岡市サイトより)」

1875年(明治8年)横浜毎日新聞論説記者となり編集長兼主筆として<朝鮮に関する論策>を中心に活躍しました。
1880年(明治13年)に外務省に出仕、京城公使館書記官、釜山浦領事館、台湾総督府事務官等を経て外務省通商局長として海外移民計画を立案するポジションに立ちます。ここから彼の移民政策を中心とした外交官人生がはじまりました。
カナダには2年赴任します。その後も主に日朝関係の諸問題を担当し最後は自ら希望したブラジルのリオデジャネイロに赴任、1906年(明治39年)5月19日に亡くなるまで移民事業促進にあたります。
横浜とバンクーバー、そしてブラジルは現在も深い関係にあります。バンクーバーはいち早く横浜と航路が開通した町です。

バンクーバー港と横浜港は姉妹港です。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kowan/guide/shimaiko/
移民に関しては
「海外移住資料館」が新港埠頭にあります。
http://www.jomm.jp
お勧めです。レストランは特にバラエティに富んだ各国の料理を<都度>楽しむことができます。
夏は最高のビアレストランです。

ブラジルは<神戸市>と友好姉妹都市で、残念ながら横浜はなっていません。
おそらく ブラジル移民船第一号「笠戸丸」が神戸港から出発したからかもしれません。

ブラジルでは現在約150万人の日系人が暮らしています。
彼らの家族の中には横浜から旅だった方も多いと思います。なぜ 彼らは日本を離れたのか、そして今 国とは何か?
「海外移住資料館」を訪れる度に 考えさせられます。

(過去の6月22日ブログ)
清水市と横浜市は開港以来関係の深い町です。
No.174 6月22日(金) しみずみなとの名物は?
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=434
1897年(明治30年)6月22日(火)
外国との貿易に欠かせない横浜税関清水支署が設置されました。
これによって、清水港の国際化の歴史が大きくかわります。