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【横浜の橋】№5 移民橋
「移民橋」という名の橋はない。
移民の街だった「横浜」だからこそ“移民”の橋があった。
四方を海に囲まれた日本に暮らす我々にとって、国境は海にある。
「海外」という熟語がふさわしい。
国交を限定してきた江戸時代から明治に入り近代化が進む中、この国から移民を選ぶ人々の移動が始まった。
横浜には明治以降多くの移民宿が誕生した。宿は移民船が多く出港した大さん橋や新港埠頭付近、初代横浜駅(桜木町駅)近くと駅と港を繋ぐ本町・相生町・住吉町五六丁目・馬車道北側あたりに点在した。
<JICA 移民資料館>
桜木町駅を降り立ち移民の関係者はそれぞれの「移民宿」に向かう。
恐らくほとんどの<移住者>が「弁天橋」を渡り宿または港に向かった。戦前の弁天橋は“移民橋”でもあった。 今日の“移民橋”の話は戦後に始まる。
移民の手続きはかなり煩雑で一週間程度の時間が必要だったため移民を希望するものは家族との別れも含め移民宿での逗留が必要だった。
「移民宿」の正式名称は「外航旅館」外国に出国するための出国手続き中に留まる宿のことだが、利用客の中に移民が多かったことからこの名が付いた。
戦争直前、横浜市内(関内外近辺)には十七軒の「移民宿」があった。
戦争により休止状態となり、一部は焼失し無事だった宿も多くが進駐軍に接収され、すべての移民宿が消えた。
「戦後の移民宿は1952年(昭和27年)に再開された。」と「ランドマークが語る神奈川の100年」(有隣堂刊 読売新聞社横浜支局編)ある。
さらに調べてみると、
1950年(昭和25年)に「移民宿」が横浜駅前に新設されている。
戦後、横浜駅の表玄関は「東口」だった。駅前には広いロータリーがあり、駅前には昭和5年に竣工した新興倶楽部ビル(神奈川県匡済会ビル昭和52.7解体)が建ち、交通の要衝だった。
「横浜駅」は帷子川の運河群に囲まれた島にある駅である。いまでこそ埋立と多くの橋によってほとんど意識しないが、横浜駅一帯は多くの橋によって結ばれている。現在も北には月見橋・金港橋、南には万里橋・築地橋がある。
戦後最初に誕生した「移民宿」は、駅から数分歩き帷子川に沿った万里橋と築地橋の間にあった。
この「移民宿」の名は「横浜ホテル」 神奈川都市交通(株)を中心に戦前の旧・外航旅館組合の有志が市と国に働きかけホテル計画を立てた。敗戦のため移民出国は無かったが、戦前に出国した<移民>の母国帰省需要が高まっていたのである。
このホテル計画は異例の速さで実現する。ホテル用地は横浜市が駅近く(横浜市西区高島通り1丁目5番地)を優先的に使用許可し、建設省も速攻で建築許可を出す。さらには日本交通公社もこのプロジェクトに参画、
1950年(昭和25年)7月に資本金1,000万円の株式会社「横浜ホテル」が誕生。
当時のハワイ(米国本土)からの移民帰省ニーズをいち早く取り込んだ。
大さん橋に付いた日系人達はおそらく国鉄か市電で横浜駅まで移動し「横浜ホテル」に逗留したと思われる。
「横浜ホテル」はハワイ日系人の故郷に錦を飾るホテルとして愛用され、利用者は外国人が50%、日系人40%、日本人が10%くらいだったそうだ。(東急ホテル史より)
開業当時は木造モルタル二階建て27室の小さなホテルだったがその後増築等で拡張し客室46(洋室28、和室12)、グリル・バー・宴会場なども新築された。
実は この「横浜ホテル」は計画当時から大東急傘下にあった横浜都市交通(株)の下でその後の東急Gに吸収される運命にあった。
1954年(昭和29年)東急電鉄(株)が「横浜ホテル」の株式を70%し傘下に収めた。この東急「横浜ホテル」がのちの「横浜東急ホテル」となり拠点を東口から西口に移転することになる。
戦後の「移民宿」の歴史は短い。「横浜移住斡旋所」を関内に設置し移民手続きや出港までの宿泊を国(外務省)が行うようになった(昭和31年)ことや、戦後の成長が始まり、移民の経済的要因がかなり無くなったことで1957年(昭和32年)頃をピークに減少に転じた。
1973年(昭和48年)に最後の移民船「にっぽん丸(あるぜんちな丸)」が出港し、その幕を閉じたのである。
ここにも別の角度から「横浜ホテル」に触れています。
【横浜の橋】№4 帷子川河口に架かる橋
目下、横浜の橋の原点ともなる「吉田橋」に関して資料発掘中。
面白い素材を発見したが<謎>が究明できないので別な話題として帷子川河口の簡単な取りまとめをしてみたい。
橋の多くは<川>に架かる。現代は陸橋も多いが、基本 橋といえば川になる。
横浜には大きく四大水系がある。
鶴見川(一級水系)
帷子川(二級水系)
大岡川(二級水系)
境 川(二級水系)
その他に入江川・侍従川といった小さな単独河川がある。
横浜は開港時、大岡川河口域に誕生した。<帷子川・大岡川埋立前イメージ>
釣鐘状の<吉田新田>の河口域に出っ張った<横浜村>の半島(砂州?)を埋め立てながら街を作り上げてきた。
開港場となる時、横浜は東海道からも一定の距離があり帷子川の河口がじゃまをして開港場にアクセスするには遠回りしなければならない。
そこで「横浜道」というショートカット道を突貫工事でなんとか完成させる。この時にこの「横浜道」のベースとなったのが、江戸時代に埋め立ての始まった新田の<エッジ>だった。
ここを仮に<帷子川第一堤防>と呼んでおこう。ここには「新田間川」「平沼橋」「石崎橋」の三つの橋が架かり出口となった。
その後、明治に入りさらに河口域に<帷子川第二堤防>が作られる。
日本最初の鉄道路線の用地として明治の政商「高島嘉右衛門」によって埋め立てられた<鉄道道>だ。「高島嘉右衛門」の事業だったので<帷子川第二堤防>は「高島」の地名が現在も多く残っている。 堤防といっても川を堰き止めることはできないので、ここにも幾つか<橋>を設けて川筋を作ることになった。
<帷子川第二堤防(鉄道道)>には「月見橋」「万里橋」「富士見橋」この三つの橋が架かり川の出口となる。明治5年のことだ。
開港から明治初期にかけて、
横浜港は貧弱な「象の鼻」しか無かった。必要に迫られた政府はしっかりとした港湾施設「大桟橋」の設計を英国人技術者パーマーに依頼する。
彼は横浜港北側に防波と帷子川導水(土砂の流れ込むを防ぐ)を兼ねて<帷子川第二堤防(鉄道道)>の真ん中にあたる「万里橋」の出口から湾内に「導水堤」を設置する設計を行う。
1894年(明治27年)に横浜鉄桟橋(現在の大さん橋)が完成し、
1905年(明治38年)には新港埠頭第1期工事が完成、徐々に港のスタイルが固まってくる。一方で、<帷子川第二堤防(鉄道道)>を軸に埋立が進み、内側の<内海>そして外側も埋立が行われ 第二の橋が架かるようになる。
月見橋の先に「金港橋」
万里橋の先に「築地橋」
富士見橋は鉄道用地として埋め立てられ川筋が築地橋に集約され帷子川は二つの橋が出口となった。
大岡川がなで肩の釣鐘状の川筋であるのに対し
帷子川は肩ひじ張った矢羽のような川筋になっている。
この帷子川と大岡川の二つの川があったからこそ 現在の横浜が形成された。
マザーダブルリバーである。
横浜駅周辺、陸の賑わいに消えかかっている<帷子川>だが、
その歴史は橋とともに味わいがある。
【横浜の橋】№3-2 震災と横浜の橋
1月17日は阪神淡路大震災から21年目だった。
私たちは9月1日、3月11日と共に忘れてはならない震災の日である。
“災害は忘れた頃にやってくる”のではなく
“災害は忘れなくてもやってくる”ことを自覚しておく必要がある。
地震災害はこの3回だけではない。明治以降地震災害は何回も何回も起こっている。
「関東大震災」における関内外の橋を吉田橋を中心に少し考えてみたい。
関東大震災で横浜市中心部は未曾有の被害を受けた。川(運が)の街である関内外のほとんどの橋が震災によって倒壊、半倒壊のために人々は避難路を失ってしまった。ここに台風の影響による強い南風が木造の家屋から出火した火災を煽り立てる結果となってしまった。
湾岸の油槽からは油が漏れ出て、運河の一部が炎の道となる。
関東大震災の被害は東京が都市規模から最も大きかったが、震源地に近い「横浜市(神奈川県)」の被害もかなりのものだった。
震災誌によると
「更に橋梁を見れば、全市総数八十六橋の中、僅かに大江橋・吉田橋・辨天橋の三橋のみを残して他は殆ど墜落或は焼失しその骸型も止むるに過ぎなかった。」 市内にまず86しか橋がなかったこと。その中で資料にもあるように三つの橋以外は全て渡ることができなかった。
運河の町の避難する経路の多くを失ったということだ。
「大江橋」
この橋は、震災直前に竣工し最新の橋梁技術が導入されてこともあり、倒壊を免れた。
「辨天橋」
皮肉ではないがさすが大蔵省(現財務省)管轄の橋梁、丈夫にできていた。現在も橋脚部分は残っている。
「吉田橋」
下記の表を見て分かるように、吉田橋付近での避難中の被災死者数は関東大震災最大級であったことがわかる。当時の第繁華街<伊勢佐木>や関内の人口集中地区での被災となったことや、吉田橋の袂には「伊勢佐木警察署」があったことも避難者の心理に逃げる方向をここに向けさせたかもしれない。
橋脚は無事だったが、街灯、欄干等はその後補修され一部デザイン変更があった。
<震災前>
<震災後>
吉田橋際にあった伊勢佐木警察も倒壊し出火、全焼する。
少々余談になるが、被災した「伊勢佐木警察」について紹介しておこう。
現在大通公園脇(中区山吹町2番地の3)に位置しているが、市内警察署の中で最も移転した警察署ではないか(しっかり確認していない)
1877年(明治10年)1月25日
市政が始まり横浜市内に6つの警察署が設置された。
長者町・松影町・戸部・山下町・高嶋町そして伊勢佐木警察の母体となった堺町である。堺町警察署は当時、現在の「横浜地方裁判所」がある位置にあり関内の中心にあった。
1878年(明治11年)2月
横浜区内の6警察署(堺町、高島町、山手、松影町、長者町、戸部町)が統合し、横浜堺警察署に改称する。
1882年(明治15年)7月1日
横浜警察署に改称された。
1884年(明治17年)7月
堺町から伊勢佐木町25番地(吉田橋南詰)に移転。当時「鉄の橋(かねのはし)」として有名な吉田橋のたもとにあったことから、俗に「鉄の橋の大屯所(おおたむろ)」と呼ばれた。
1893年(明治26年)12月
地名にちなんで伊勢佐木町警察署に改称。
1923年(大正12年)9月1日
関東大震災で倒壊。二日後久保山→9月7日太田尋常小学校→10月5日初音町→大正13年9月に本願寺境内と4回にわたり仮庁舎が移転。
1925年(大正14年)10月
名称を伊勢佐木警察署に改称。
1926年(大正15年)11月
長者町5丁目に用地を買収
1927年(昭和2年)12月
本庁舎完成。
1945年(昭和20年)6月18日
戦災のため加賀町警察署へ一時統合。
1946年(昭和21年)9月
伊勢佐木警察署として再開。
1974年(昭和49年)
現在地に現庁舎が落成、移転。
最後に
横浜で最大の死者が出たのは中華街だった。狭隘道路に木造住宅と昼食時も重なり避難すらできなかった中華街の被害が推測でも2,000人を超えたという悲劇も忘れてはいけない。
【横浜の橋】№3 横浜を語るなら吉田橋を知れ

横浜の橋といえば「吉田橋」を採り上げない訳にはいかない。横浜開港場が誕生した時に架けられて以来、この町の成長を見守ってきた横浜の代名詞といっても過言ではない。今回から数回に分けて「吉田橋」を紹介する。
まずは簡単に「吉田橋」アウトラインを確認しておく。
現在の「吉田橋(よしだはし)」は中区伊勢佐木町と中区港町の境を走る首都高速道の上に“ある”。
「吉田橋」いわゆる橋梁なのか地下施設の構造物の一部なのか?いささか疑問に思っている。橋梁の専門家ではないので 詳細はわからないが事実吉田橋はマリナード地下街の天井部にあたる。
首都高速道建設時の
1977年(昭和52年)10月29日にマリナード地下街が開業する際に上部を「吉田橋」としてかつてのトラス構造をモチーフにした欄干のある屋根に<建替え>られたからだ。ここにはベランダ?もあれば窓もある。 この詮議は別の機会にし、簡単な歴史を整理することにする。
<吉田橋の歴史>
安政六年(1859年)開港時に<開港場>と<東海道>を繋ぐ横浜道が突貫工事ですすめられた。この時、横浜道の一端となる開港場と吉田町を繋ぐ仮橋が架かった。これが後の吉田橋である。同時に野毛の街と新田を繋ぐ都橋(野毛橋)も架かり、横浜道が完成した。
翌年の1860年(庚申万延元年)、開港場の<出島化>を図り中村川を延伸。
堀川を完成させ、そこに「谷戸橋」と「前田橋」を新設し<山手>と開港場の往来を確保する。
(当然関門も設置)
※当時、開港場はまだ整地もままならない農地だった。
開港はしたものの、かろうじて外国人と江戸を中心とした商人たちが(仮)仕事場を作り始めたばかり。この時に、開港場に暮らす農民たちの土地を<地上げ>し、山手のもとに強制移住させたのが横浜元町である。
横浜沿革誌によると万延元年二月に「堀割の東山下へ農家九十余軒を移転せしめ、名を横浜元町と称す」とある。
◆初代
文久二年(1862年)に正式な橋として初代の「吉田橋」が設置される。
その後、横浜開港場を認めていなかった英国他の欧米各国も実質的に便利で安全な開港場を認めるようになり急速に変貌を遂げる。
※この年文久二年八月に「生麦事件」
明治維新を挟み、横浜開港場の物流は急激に増加し、
“おそらく”吉田橋はキャパを超えていたのだろうと想像できる。日本の近代化を支えた“お雇い外国人”による早期のインフラ整備事業の中に「吉田橋」の改築がある。
◆二代目
1869年(明治2年)「吉田橋」は灯台技師リチャード・ブラントンにより錬鉄製の無橋脚トラス橋に掛け替えられた。これが日本で2番目の鉄橋、二代目「吉田橋」である。 一番目の鉄橋は、長崎のプレートガーター構造の「くろがね橋」。
「吉田橋」は当時世界トップクラスの橋梁技術を誇った英国の主流橋梁様式だったワーレントラス(正確には下路ダブルワーレントラス)桁構造で作られた。
サイズは
長さは「80フィート(約24.4m)
支間78フィート(約23.8m)
桁高5フィート2 1/3インチ(約1.6m) 「五十畑レポートより」
当時の吉田橋(かねはしと呼ばれた)
現役の鉄製下路式ダブルワーレントラス桁橋は
県内では「箱根登山鉄道早川橋梁」で見ることができる。

◆三代目
1911年(明治44年)三代目「吉田橋」が完成。この橋が最も有名、絵葉書や写真に残っている。
日本最初のカーン式鉄筋コンクリート橋に架け替えられた。
このとき歩道と車道、電車道が分離設計された。
設計は工手学校(現在の工学院大学)長に就任していた石橋絢彦(いしばし あやひこ)
※石橋絢彦
彼はイギリスに留学し灯台建築の技術を学び灯台局に勤務。その後、1889年(明治22年)に神奈川県庁内に横浜築港掛が設置され総監督がヘンリー・パーマーとなった際に臨時横浜築港北水堤現場監督として任に就いた。
三代目「吉田橋」については下記ブログも参考にしてほしい。
【しりとり横浜巡り】6月10日(火)吉田橋
三代目、文献には関東大震災で倒壊を免れ、多くの人命を救ったといった記述が見られるが、これは事実誤認だろう。かろうじて倒壊を免れたが、関内外から避難者が殺到し多くの死者がでた現場となったという皮肉な結果となってしまった。 ◆四代目
1958年(昭和33年)開港100年祭に際し、老朽化していた「吉田橋」の架け替え工事が行われた。この時、仮設の人道橋が設置された。場所は吉田町商店街に入る分岐点あたりだった。
◆五代目?
1978年(昭和53年)3月竣工。
1977年(昭和52年)に派大岡川を埋め立て首都高速が代わりに走ることとなった。
この首都高速道建設に際しマリナード地下街が10月29日に開業。上部が道路になり「吉田橋」としてかつてのトラス構造をモチーフにした橋に建替えられた。
冒頭の繰り返しになるが
現在の「吉田橋」が橋なのか地下施設の構造物の一部なのか?私は橋梁の専門家ではないので 詳細はわからない。
名は残っているが、ここはもう橋ではない、かもしれない。
さて 五代に渡る吉田橋の歴史を簡単に追ってきた。
なんとか全五代の吉田橋画像も手元の資料で紹介したが、三代目は震災と戦災で一部変更されているようだ。このあたりをもう少し詳細に詰めたかった。
次回は吉田橋150年の歴史の中から、エピソードをいくつか掘り出してみたい。
【横浜の橋】№2 横浜最古の橋
横浜市内でこのような“橋との出会い”があるとは想像もしなかった。
まるで映画の一シーンのように“この橋”は目前に現れた。出会いの時期、ルートにも恵まれたのかもしれない。現存する最古のアーチ型石造橋だそうだ。「昇龍橋」
橋そのものの“古さ”から計ると横浜市内で最も歴史ある橋は中村川に架かる「浦舟水道橋」(近々紹介予定)だが、その場所に架かっている歴史から比較するとこの「昇龍橋」が最も古いということになる。
竣工した時代は資料上はっきりしていない。橋には「大正四年」とあるが、移動の可能性もあり明治三十年であるとか大正三年としている文献もある。
どちらにしろ この佇まいは周囲の環境を含めて“時間”を十分に感じさせる。
「昇龍橋」は境川水系の柏尾川支流「いたち川」(㹨川)の上流域に架かっている。
地番は横浜市栄区長倉町1388~1404
(出会い)
「昇龍橋」との出会いは偶然だった。
2012年の6月、横浜市内18区をバスで一筆書きのように通過(巡る旅)トライアル中にたまたま車中から見かけた<看板>に惹かれ降り立ったことに始まる。早朝6時にスタートしたバス巡りも北から左回りで戸塚区を抜け栄区に入り金沢八景行きのバスに揺られていた時だった。初夏の昼時「いたち川小川アメニティ」の看板に思わず停車ボタンを押していた。降り立ったバス停が「長倉町」だった。
降りてから分かったことだが「長倉町」は
「いたち川小川アメニティ」のちょうど真ん中にあたる。「権現山展望台」まで270m、「横浜自然観察の森入口」まで285mと指示された看板があった。この時に初めて記憶の中から「昇龍橋」という魅惑のキーワードが蘇ってきた。
いつか行きたいと思っていたがほとんど忘れかけていた橋だった。迷うことなく「昇龍橋」のある下流への道を選び、半分荒れた散策道(当時)を川筋に沿って歩くことにした。
場所によってはブッシュに阻まれ、掻き分けながら進むがせせらぎの<水>は美しかった。用意があればそのまま水の中を歩いてみたい思いがつのる。
しばらくして、「昇龍橋」は幻想的に登場した。苔むした石橋と周囲の木立の木漏れ日が実に美しい。
https://www.youtube.com/watch?v=vxG8PuvAEd4
(神戸)
「昇龍橋」の近くにはこのあたりの歴史を物語る地名が現在も使われている。「神戸」「八軒谷戸」「野七里」は集落のはずれを意味している。「神戸」の地名は面白い。(こうべ、こうど、ごうど、かんべ、かんど、じんこ、じんご、かのと)など読みが多彩で「神の戸」租税が免除される神社領の位置を表し、谷戸のつまりにあることが多い。「八軒谷戸」に至っては文字通り“八軒”程度しか民家がなかったことを表している。「昇龍橋」は資料を読むと元々「白山神社」の参道としていたち川に架けられたもので、白山の龍神信仰からこの橋は「昇龍橋」と呼ばれたのかもしれない。
横浜市内で最も高い「大丸山」一帯から流れ出るいたち川にはこの「昇龍橋」の他にも多くの橋が架かっている。
正確では無いが<河川橋梁図>等で数えるといたち川には80もの橋が架かっていた。義経橋、弁慶橋、源示橋、みなもと一の橋、みなもと二の橋といった鎌倉幕府に因んだもの。青葉橋、葉月橋、桧橋、山入橋、山里橋、森美橋(もりよしはし)といった名も、いたち川の特色を良く表している。
今年、初夏にでも「昇龍橋」近くにある<超人気>の「上郷森の家」にでも泊まりながらこの一帯を散策されてはいかがだろうか。横浜の自然力を感じ取ることができるおすすめコースの一つだ。
http://www2.kamigou-morinoie.org
震災と関内外
「関内」という住所は無く開港時の居留地一帯を<関内(かんない)>と呼んでいます。
外国人居留地が治外法権であると同時に、外部と隔絶したエリアであったため、そこに関所を設け関所の内側と外側を表す地域名称として「関内」という名称が誕生しました。
開港後、「関内一帯」は外国人と日本人が日本大通りを中心に住み分けていました。
当時の街区設定がその後も守られ、ほぼ現在まで関内の街区構成は変わっていません。同様にいわゆる関外も明治時代から街区にあまり大きな変化は起こっていません。
ただ、関内外エリア史においてまとまった区画整理事業が行われた時期があります。
関東大震災です。
中区史には
「震災前の街区は、開港以来のものともいえるもので、都市構造の上では、いろいろと不備・不便な点が多かった。
都市構造上の不備な点として、特に道路の幅員の狭さが挙げられる。本町通りや大江橋の通りが18メートルで最も広く、尾上町は15メートルで、大かたの道路は7〜13メートルが多かったのであった。それに、住吉町五丁目の六道の辻は、放射状の六差路で交通の要所ではあったが、道はぱは5.5メートルから11メートルと狭くて不便そのものであった。」
とあります。
震災前と震災後で関内エリアの道路が最も変わったのが馬車道の「六道の辻」近辺です。尾上町通、本町通、関内大通など現在の関内の原型がこの時に完成します。
19世紀にナポレオンの権勢の下でパリの街を自在に切り裂き<大改造>したセーヌ県知事オスマンのように都市の大改造を行った訳ではありませんが、関内外の道路拡張、直線化など、かなり“強行な”街区整理を断行します。
当然この時に、立退き等のトラブルが多発し、区画整理反対同盟なども結成されます。
横浜市史第5巻下にはこの時の反対運動の模様を伝えています。
大正13年
「12月10日自動車八台に「関内区画整理反対期成同盟」と大書した白書を巻きつけ市役所に陳情に向かい、市長・助役に対し「吾々は既に整理地区外たるの故を以て本建築を実施し、警察の許可を受けつつある。然るに最近の市会は此の地帯を以て追加せんとする模様であるが、震災後一個年以上も経過した今日斯る無謀な計画を樹てられては数千人に上る被害者が出る(後略)」
ので取り消せ!
と抗議が続きます。震災後の復興計画の遅れが既に自力で復興を開始した市民に追いつかなかったために遅れて出された<復興計画>で道路拡張するからどけ!というところで紛争が起こるのは当然のことでした。一方区画整理を推進して欲しいという組織も誕生し、市民の対立が激化していきます。
ようやく対話の土俵が大正15年に入り整い、補償申告会が組織されます。この整理を巡る紛争調整を行う機関として
1926年(大正15年)7月23日「横浜市区画整理委員連合会」が結成されました。会長には当時市議会議長で後に市長となった平沼亮三が、副会長には劇作家としても有名な市議会議員の山崎小三(紫紅)が就任します。
この「横浜市区画整理委員連合会」は、民間委員を中心にした組織で関内だけでなく広く震災復興に伴う土地区画整理の紛争調停に尽力し徐々に効果をあげていきます。
大正15年から本格的に始まった復興事業は、例えば関内地区では
馬車道の六道の辻が無くなり
七道に見えますが「六道の辻」です。

区画整理後
本町通が22m〜27m道路に、
関内大通、尾上町通は25mに拡幅され 街並みが一変していきます。平行して橋梁・河川運河・公園・上下水道などの復興事業も加速され昭和4年にはほぼ完成していきました。
市史によりますと
「区画整理のための移転建物は18,750余棟、潰地充当地は5,283坪、換地面積は787,573坪に達し、整理前宅地面積792,700余坪は整理後674,100余坪へと減少」
公共空間に生まれ変わったことになります。
前述の「六道の辻」に関しては
No.391 謎解き馬車道
に少しエピソードを紹介しています。
1954年(昭和29年)6月30日東口「横浜ホテル」
「西区高島通り1丁目5番地にある横浜ホテルを東急が買収(東京急行50年史)」


(東西戦争)
戦後、
神奈川県下で五島慶太・昇 率いる「東急」と堤義明・清二率いる「西武」の熾烈な開発競争が行われました。小田原箱根伊豆における東西戦争の歴史は獅子文六の小説にもなり有名です。
箱根は東急傘下の「小田急」と「西武」が、伊豆をめぐっては「東急」の伊豆急と西武が鉄道・バス路線でガチンコ勝負となります。
この東西戦争、巷のネタにはあまりなっていませんが、ここ横浜でも戦後熾烈な企業間競争が行われました。
市内の拠点を俯瞰してみると 現在「新横浜」「磯子」「八景島」あたりに西武が拠点を置いています。
<横浜ホテルを東急が買収>した1950年代は東急が本格的にホテル事業に進出し始めた時期にあたります。
東急グループはヒルトングループとの提携をベースに高級ホテル事業を成功させたいと考えます。まず1954年(昭和29年)3月に軽井沢パークホテルを買収します。その3ヶ月後には<横浜駅前戦略>の幕開けとなった横浜駅東口(西区高島通り1丁目5番地)にあった神奈川都市交通の経営する小さなホテルの買収でした。
一方の西武鉄道も
1954年(昭和29年)10月1日
旧東伏見宮別邸を横浜プリンス会館として開業、
1960年(昭和35年)9月14日には
横浜プリンスホテル新館が開業し横浜のレジャー部門に楔を打つ形で進出を図ってきます。
(ヘッドハンティング)
「横浜ホテル」社長にはキャピー原田と呼ばれた和歌山県出身の両親を持つ日系アメリカ人「原田恒男」が就任。彼は1921年(大正10年)カリフォルニア州に生まれ、日米戦争で日本語情報将校として従軍します。終戦後はGHQ経済科学局(Economic Scientific Section)局長であるウイリアム・F・マーカット少将の副官(中尉)として配属され、当時の大蔵大臣・池田勇人とマーカットとの国家予算など重要な交渉の通訳を担当した人物です。
キャピー原田に関しては<日米野球の恩人>として有名で、この「横浜ホテル」社長だったことに驚く人も多いと思います。
戦前「大東急」を作り、戦後も東急電鐵王国を築いた五島慶太の才能の一つに人材力、事業展開に必要な人物のスカウト力がありました。
GHQを退官後、ハワイアン・トラベル・サービスホテルという日米旅行中心の代理店を開設していた原田恒男もその一人でした。
買収した「横浜ホテル」は木造モルタル造り、二階建て27室という旅館に毛の生えた小さなホテルでしたが経営陣には
社長は前述の原田恒男
取締役には五島昇、
五島慶太の懐刀「大川 博」
神奈川都市交通の「伊藤 福一」
※神奈川都市交通の命名は「大川 博」
といった錚々たるメンバーが参画します。
同年12月27日に新館増築、本館改装を行い新規営業を開始します。
さらには
1955年(昭和30年)4月 「横浜ホテル」は先に買収済みの軽井沢パークホテルの経営にも当たることになります。
そして
1959年(昭和34年)に念願の東京に銀座東急ホテルを着工し 本格的なホテル経営に参入することになります。そして
1961年(昭和36年)4月に「横浜ホテル」は「横浜東急ホテル」へ商号を変更します。
(東口から西口へ)
東急電鉄は以前から横浜駅西口を軸に相鉄線との連結を含め本格的な横浜進出を狙い、「横浜ホテル」は東口から西口にシフトします。
1962年(昭和37年)3月27日
高島のホテルを閉鎖し横浜駅西口に横浜東急ホテルを移し新規オープンします。
この年、11月23日には横浜ステーションビル(シアル)が開業し、横浜駅西口駅前の核施設となります。
2002年「横浜エクセルホテル東急」と名称変更。
2011年3月31日に閉館
現在は、「エキサイトよこはま22」計画が進行中です。
(関連ブログ)
No.328 11月23日(金)横浜駅東西戦争史
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=263
No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=328
No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=604
No.87 3月27日 横浜駅のヘソが変わる
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=530
No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=399
※少し長くなりましたが まだまだ
この草創期の東急ホテル事業に関わった人物が面白い!
「横浜ホテル」初代社長の「原田 恒男」
彼の人脈に銀座東急ホテル・東京ヒルトンホテルの「星野 直樹」
星野ファミリーは横浜と深い因縁があります。
東映・大映との関係、平和球場での日米野球
いずれ 掘って!みたいと思います。
横浜学舎の歴史
1875年(明治8年)6月29日のこと
「学舎の名を<学校>と改称(横浜歴史年表)」
横浜の小学校は制度として1872年(明治5年)から寺院等を使って始まりました。それ以前に江戸時代からの<寺子屋>として地域の教育機関だったものもあります。新学制が導入され小<学舎>と呼ばれてその後1875年(明治8年)の今日、小学校と呼ばれるようになりました。
上記の(横浜歴史年表)表記によると
壮行学舎→横浜学校<注1>
存心学舎→吉田学校
立志学舎→太田学校
養賢学舎→石川学校
三到学舎→元街学校
就蘭学舎→北方学校
洗心学舎→本牧学校
主敬学舎→根岸学校
(正)※志敬学舎→根岸学校→根岸小学校
真照学舎→磯子学校
弘照学舎→鶴見学校
(正)※弘明塾→鶴見学校→豊岡小学校
と紹介されていますが、調べていくと誤記(文字変換誤作動)等があり整理に手間取りました。一部確認できたものを修正しました。
明治期にかなりの小学校が地域に設立されています。日本の近代化を支えた柱の一つです。
<注1>横浜小学校
https://ja.wikipedia.org/wiki/横浜小学校
(明治前期創設の小学校)
明治前期に<現横浜市域>に設立され現在もある小学校リストを一覧化してみました。(廃校は略しています)
※印は創設時の<学舎>
1872年(明治5年)
山下小学校 北八朔町1865-3※中村学舎
石川小学校 中村町1-66※養賢学舎
豊岡小学校 豊岡町27-1※弘明塾
1873年(明治6年)
子安小学校 新子安一丁目24-1※子安学舎
都岡小学校 都岡町4-8※今宿学舎・川井学舎
北方小学校 諏訪町29※就蘭学舎
鉄小学校 鉄町427※鉄学舎
星川小学校 星川三丁目18-1
元街小学校 山手町36※三到学舎
末吉小学校 上末吉一丁目9-1※末吉学舎
谷本小学校 藤が丘一丁目55-10※谷本学舎
保土ケ谷小学校 神戸町129-4※程谷学舎
磯子小学校 久木町11-1※真照学舎
杉田小学校 杉田一丁目8-1※森田学舎→森中原学校
根岸小学校 西町2-46※志敬学舎
金沢小学校 町屋町26-26※知足学舎・柴村小学舎・野島学校
釜利谷小学校 釜利谷東六丁目37-1※赤井学舎(万蔵院)
六浦小学校 六浦三丁目11-1※三分学舎(光伝寺)
大綱小学校 大倉山4丁目2-1※地域の四学舎(大乗寺・東照寺・本乗寺・観音寺)
日野小学校 日野七丁目11-1※日野学舎
田奈小学校 田奈町51-13※??
富岡小学校 富岡西七丁目13-1※富岡学舎
日吉台小学校 日吉本町一丁目34-21※清林学舎
長津田小学校 長津田町2330※壮行学舎
戸塚小学校 戸塚町132※富塚学舎
市場小学校 元宮一丁目13-1※真明学舎
潮田小学校 向井町三丁目82-1※潮田学舎
山内小学校 新石川一丁目20-1※荏田学舎
青木小学校 桐畑17※青木学舎
市沢小学校 市沢町781※市野澤学舎
二俣川小学校 二俣川1-33※宮沢学舎
石川小学校 中村町1-66※養賢学舎
大岡小学校 大橋町3-49※大岡学舎
太田小学校 三春台42※立志学舎
日下小学校 笹下3丁目9−1※笹下東樹学舎
1874年(明治7年)
高田小学校 高田町1774※高田学舎
中川小学校 牛久保東二丁目21-1※大棚学舎
鴨居小学校 鴨居四丁目7-15※ 鴨居学舎
桜岡小学校 大久保1丁目6−43※最岡学舎
1875年(明治8年)
川島小学校 川島町1162※川島学舎
神奈川小学校 東神奈川二丁目35-1※神奈川学舎
1876年(明治9年)
千秀小学校 田谷町1832
1879年(明治12年)
戸部小学校 伊勢町2-115※戸部学舎
1880年(明治13年)
今井小学校 今井町981-1(3月25日)
白根小学校 中白根一丁目9-1(7月5日)※今宿学舎(本立寺)より分校
1889年(明治22年)
新治小学校 新治町768※久保学舎より分校
1890年(明治23年)
瀬谷小学校 相沢四丁目1-1(11月15日)※ 瀬谷学舎・二つ橋学舎・若宮学舎・新道学舎・阿久和学舎などが統合?
1892年(明治25年)
豊田小学校 長沼町125-4(5月1日)※龍臥学舎(明治5年2月)
中和田小学校 和泉町3721(5月17日)※岡津学舎
中山小学校 中山町925(9月1日)※移転し「森の台小学校」中山第二小学校が「中山小学校」に※中山学舎
川上小学校 秋葉町203-2(10月1日)
本郷小学校 中野町16-1(10月5日)
永野小学校 上永谷二丁目21-10(11月3日)※棲心庵学舎(明治5年)
このように、明治前期に地域の学校が多く設立されます。
学校の敷地は地元の協力で(寺社、私有地等)を寄付し開校された学校が多かったようです。
※各小学校・区役所の資料から表記を整理したものです。表記以外に<学舎>として歴史があるものも散見されます。
横浜製自動車 雑話(改訂)
1925年(大正14年)3月3日
アジア初の「日本フォード」製造工場が横浜市神奈川区子安に開設されました。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6947
このフォードの進出は、日本自動車産業界に大きなインパクトを与えました。
日本の自動車生産革命が国内メーカー、アメリカメーカーの下で<横浜>から始まりました。
1925年(大正14年)2月に資本金400万円で「日本フォード社」が横浜市緑町4番地に設立されます。
そして3月3日、新子安に「日本フォード」の製造工場が生産を開始します。
当初は本国モデルの左ハンドルT型フォードをノックダウン生産しますがここでは右ハンドルモデルAの生産をおこないました。
遅れること二年、ゼネラル・モーターズが大阪に拠点を置き生産を初め米国二大自動車メーカーによる東西競争が始まります。
1936年(昭和11年)に、日本政府は自国の自動車産業の保護育成を目的とする「自動車製造事業法」を制定。この法律により、国内資本が50%以上の企業のみ自動車製造が制限されたことで、
1939年(昭和14年)12月にはトヨタ・日産・フォード間の合弁企業設立交渉が行われたこともありましたが、軍部からの強い横槍があり夢の合弁はたち消えとなってしまいます。
日本フォード社は1940年(昭和15年)に操業停止を余儀なくされます。
1941年(昭和16年)12月から1945年(昭和20年)8月終戦までの期間は日本政府に接収され、陸軍収容財産となり全ての生産設備は解体され、倉庫だけが残ったそうです。
戦後の連合国軍接収を経てフォードに返還され、東洋工業の所有となり現在はマツダのR&D(研究開発)センターとなっています。
一方、自動車製造(株)が1933年(昭和8年)に資本金1000万円で横浜に設立されます。(社長 鮎川義介)
翌年の1934年(昭和9年)6月に日産自動車(株)と社名を変更。翌年から生産に入ります。
1937年(昭和12年)2月には販売体制を確立するために「日産自動車販売」を設立します。
現在の日産自動車横浜本社
C58汽車道を走る
1980年(昭和55年)6月13日〜15日の三日間
「横浜港開港120周年・横浜商工会議所創立100周年記念」イベントにC58が走りました。その頃はまだ横濱に暮らしていなかったので写真も当時の雰囲気もわかりませんがネット上でも熱烈な写真記事が掲載されています。
山口線から横浜にC58を運び 汽車道を東横浜駅から山下埠頭駅まで走行!!
C58は過去に横浜機関区に所属していたことがあり久しぶりの里帰りとなりました。
このルートが現在「山下臨港線プロムナード」となって、歩行専用ルートとなっています。
使用車両はC58-1+スハ43系4両で、一日3往復
東横浜 山下埠頭 東横浜
09:57 → 10:09 10:30 → 10:42
12:30 → 12:42 13:00 → 13:12
14:30 → 14:42 15:02 → 15:14
<写真>
■横浜にC58が走った日。
http://rail.hobidas.com/blog/natori09/sp/archives/2008/05/c58.html
■横浜港開港120周年1980年6月13日
http://www.yokohama-album.jp/picture/detail/174/
http://www.yokohama-album.jp/picture/detail/175/
「山下臨港線プロムナード」
No.62 3月2日 みらいと歴史をつなぐ道
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=557
「開港の道」山下臨港線プロムナードの終着地点となっているのが
「港の見える丘公園」です。
No.129 5月8日 ヒット曲の公園
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=486