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第962話 8月2日(木)
1930年(昭和5年)8月2日(土)の今日、
午前9時半、横浜港に日本郵船の北大西洋航路定期船「龍田丸」が桑港(サンフランシスコ)から入港しました。

この年の春4月25日に初就航した「龍田丸」は浅間丸姉妹船として三菱造船で建造。隔週運行し、米国サンフランシスコからロスアンジェルス・ハワイを経由し、横浜・神戸そして上海・香港を結ぶ花形航路でした。

この日到着した「龍田丸」に83歳になる日本を代表する実業家が乗り合わせていました。
浅野総一郎。
このブログでも様々なテーマに登場する、近代横浜経済を語る上で重要な人物です。
意外に、浅野自身に関しては殆ど触れることは無く、彼のビジネス展開を紹介する程度でした。
といって浅野総一郎をガチンコで紹介しようとすると
それだけで 数十回のボリュームを必要とするほど、マルチスーパー実業家です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/浅野総一郎
アウトラインはウィキペディアでごめんなさい。
彼の業績をザクッと絞ると
安田財閥と関係が深く
基本は「セメント」
知る人ぞ知る現在も浅野セメント(現在は太平洋セメント)
浅野製鉄→日本鋼管株式会社(現:JFEスチール)

浅野造船

東洋汽船
※日本郵船に挑戦し、孤軍奮闘、最終的に客船部門は日本郵船に。貨物部門は残り戦後まで続きます。
東亜建設工業
https://www.toa-const.co.jp/company/introduction/asano/
沖電気工業 →意外でしょう?
関東運輸株式会社
浅野物産株式会社(現在は 丸紅や株式会社NIPPOなどに分社)
この他にも鉄道関係にも深く関わり
青梅鉄道、五日市鉄道、南武鉄道
そして 教育機関として「浅野学園」
といった企業群を挙げるだけでも、浅野財閥と呼ばれた理由がわかります。
しかもこれらの企業群を一代で築いたのですから、すごい人物でありすごい時代でした。これ以外に
浅野総一郎の果たした最大の功績は
横浜港整備と京浜埋立事業の立役者であったと思います。
浅野総一郎が安田善三郎と出会い、渋沢栄一に信頼された”大風呂敷”は
横浜港の整備される前、
東京と横浜をつなぐエリアを整備し運河機能を活かした一大インフラ計画をいち早く考え、夢を実現、実際に成功させたことでしょう。
とにかく横浜は開港したまでは良かったのですが、その後の横浜港はとにかく使い勝手が悪く、幕末の海運事情はあっという間に過去のものとなってしまったため近代港湾施設整備が急務でした。19世紀末から20世紀は
世界が産業革命以降の技術革新の荒波に揉まれていた時代でした。
大消費地「東京」へスムースに荷が運べない。
湾岸は多摩川の土砂が蓄積しペリーが測量で確認した通り、遠浅で海運には向きませんでした。鉄道など陸路の整備もままならない中、横浜から東京までの回漕費は、ロンドンより横浜までの運賃とほぼ同額という実に非効率の時代がしばらく続いたのです。当時の神奈川県に話を持ち込んでもなかなか埒が明かず、最終的には自分で資本を集めて事業化してしまったのが浅野総一郎でした。
話を1930年(昭和5年)8月2日に戻します。
この日、浅野総一郎の帰国は大きく新聞紙上にも取り上げられました。

「若返った浅野翁」
「十億外資借入旅から帰国」
若返ったのはそのファッションでした。真っ赤なネクタイを締めた姿が、83歳の日本人には見えなかったのでしょう。また十億外資借入旅とは、震災で打撃を受けまた昭和に入り恐慌が起こるなど、経済状況が厳しい中、80歳を過ぎた浅野総一郎は、事業発展のために
「セメントを輸出するために、今年はアメリカとイギリス、ドイツに支店を作るぞ。世界恐慌といってもいつまでも続くとは思えない。それにアメリカ政府は景気対策として、公共事業を始めるだろう。セメント需要は一段と高まるだろう。不況のときこそチャンスだ。」
「安田さんが亡くなったから、俺はこれからは海外から資金を借りて仕事をする」とぶち上げ、昭和5年5月18日にシベリア大陸経由で欧米視察(資金調達)の旅に出ます。ところが、ドイツで体調異変に気が付き、食道がんの可能性があると診断されます。ドイツでは友人の野村大使らの歓迎を受けますが、旅半ばで急遽日本へ帰ることを決断、アメリカ経由で
8月2日のこの日横浜に帰ってきたのです。帰国後すぐに診察、結果は食道がん。
その後 大磯に戻り療養しますが11月19日
83年の波乱に満ちた生涯を遂げました。
今日はここまで。
浅野総一郎と築港の父パーマーの話も紹介しておきたいところですが、別の機会にしておきます。
第952話 吉田町通物語
昭和の記憶に開港の時代が刻み込まれている瞬間に出会う。吉田町では、店の名に<土手>をツケて呼んでいたと聞いて久しぶりに痺れた。
これこそ昭和に伝わっていた開港の記憶だ!
吉田町の大店(おおだな)だった「武蔵屋呉服店」は当時「土手のむさしや」と呼んでいたと伊勢佐木に店を移した「むさしや」の津田さんに伺った。
吉田町の店は皆<土手の〜>と呼んだとのことだが、最初は運河側の店のことだったかもしれないが、これは宿題としよう。
なぜ<土手の〜>と呼ばれていたか、ここには若干説明が必要だろう。
とにかく昔の記憶が生きていたことが素晴らしい。
結論から言えば
「吉田町は土手沿いに生まれ育った町である。」
江戸時代初期1667年に干拓事業が完成し、1669年には幕府より吉田新田の名が認められたことに始まる新田の歴史は、それまで深い入海だったこの地域の交流を深める道の誕生でもあった。半農半漁の野毛村、太田村と対岸の石川中村は、この吉田新田に橋が架かることで往来が盛んになった。
最も頻繁に利用されたのが現在の「長者橋」と「車橋」ルートで、野毛村と石川村は隣村となっていく。この人の流れは2つの村を繋ぐ現在の長者町1丁目から9丁目という町名にも現れている。
江戸時代、この道を通り石川村に出て横浜村に入り風光明媚な洲干弁天詣もさかんに行われたと想像できる。 ここに転機が訪れた。外国船から多くの異国人が降り立ち、横浜村の外れで外交交渉が行われ、この地が開港場となる。
1858年(安政5年)に日米修好通商条約が調印され、幕府は神奈川(横浜)の開港を翌年6月と定め開国へと一気に舵をきることになる。
横浜は神奈川の一部なり!
と主張はしたが、東海道神奈川宿から横浜への交通は非常に不便であったことは紛れもない事実だった。そこで幕府は、東海道から開港場までの道を普請することを決める。芝生村(現在の西区浅間町)から開港予定地まで直線で繋ぐにはいくつかの架橋と峠の開削が必要だった。
工期3ヶ月の突貫工事で、架橋材は欄干に杉、杭には松を使用し人海戦術で「横浜道」が開港日直前に完成する。
・新田間橋、平沼橋(現・元平沼橋)、石崎橋(現・敷島橋)
・野毛の切通し
・野毛橋(現・都橋)、太田橋(現・吉田橋)
こうして横浜道の完成は開港の1日前だった。
実はこの工事、ピンはねで間に合わなくなり保土ケ谷宿本陣苅部家に泣きついてなんとか完成したというおまけまでついている。
この「横浜道」の完成によって、まず漁村野毛村が開港の街に変身する。
1859年(安政6年)6月4日だから開港後すぐに神奈川奉行所<奉行役所>が戸部村宮ヶ崎(西区紅葉ヶ丘、現・神奈川県立青少年センターあたり)に開設する。
太田村(現在の日ノ出町)には陣屋(警備本部)ができ野毛は役人と武士が通ういわば官庁街になった。
No.438 神奈川奉行入門
開港し道はできたが、開港場となる横浜村にはヒト・モノ・カネが大きく動く町普請が必要となる。
特に町普請には人と部材が集められる。
大きな荷物は船便で、小物は東海道から「横浜道」を使って開港場に搬入された。
前置きが長くなったが
この横浜開港場の町普請の要衝にあったエリアが「吉田町」だった。
当初、野毛から「野毛橋」を渡り吉田新田の端の石垣突堤堤(土手)脇道を使って「太田橋(吉田橋)」へと人とモノが流れた。
横浜にいち早く登場した商店街が「吉田町」だったと私は考える。
■幕末・明治初期の吉田町ビジネス
※資料で確認できた範囲での一覧です。
安政五年 清水組支店(清水喜助)建設業→現存
安政六年 飯田屋商店 米穀酒類販売
文久年間 小泉商店(遠州屋) 鰹節乾物
慶応二年 田中屋 茶小売業・両替業→現存
慶応三年 油屋小林商店 砂糖卸小売業
明治元年 武蔵屋 下駄小売
明治二年 武蔵屋呉服店 呉服商→移転現存
明治二年 大野屋 足袋販売
明治三年 駿河屋 新古衣類
明治三年 遠州屋(雪吹啓次郎) 新古衣類
明治四年 満利屋 人形・玩具→移転現存
明治四年 清水商店 乾物米穀問屋
明治初期 徳島屋呉服商 呉服商
明治六年 濱田屋呉服店 呉服太物卸小売
明治六年 萬屋石油米穀商 米穀油類卸小売
明治七年 伊勢屋金物店 金物販売
明治九年 山田時計店 時計金属美術商
一覧を見れば明らかなように
吉田町に拠点を構えて大成功したのが「清水組」現在の清水建設である。
<川の奥白い社屋が清水組。左手が柳橋、右側が現在の桜木町に位置する>
人が通れば商いが生まれる。現在も吉田町に店を持つ「田中商店」は幕末、この地でお茶を飲ませる商いを始め成功する。
新田が開港場のバックヤードとして変化する中、干拓地(新田)の整備が行われ、運河の町が登場する。
関内と関外を分ける運河、派大岡川と堀川の護岸整備が進み、土手の吉田町裏に柳町が誕生し、対岸には湊町が整備される。

さらには野毛浦地先に鉄道用地が内田清七によって埋め立てられ、桜木川・大岡川・派大岡川が交わる運河の十字路が誕生する。後に吉田町となる柳町はその名の通り、運河岸に柳木が植えられ、船着き場も作られ荷揚げ場として昭和まで使われることになる。 <昭和20年代の吉田町派大岡川岸。貸しボート店が賑わっていた>
吉田町の<土手>には吉田新田の土手と同時に岸辺・船便が活用された運河の街という2つの意味合いがこめられているのだろう。
第950話 【大岡川】千秋橋の謎
今回は謎のみで<解いていません>
(大岡川運河群の誕生)
大岡川下流域はかつて大きな入海で、江戸期に吉田新田が干拓で誕生します。この吉田新田の誕生によって「大岡川」「中村川」「派大岡川」が誕生します。
この時点では、新田の中央に灌漑用水路として「中川」がありました。川というより田畑に水を供給した用水路であったと思われます。
開港後に都市化が急速に進み、郊外化が進み吉田新田が徐々に市街化されていきます。
開港によって吉田新田に最初に誕生した街(ストリート)は現在の「吉田町」通りです。※
開港直後はまだまだ沼や灌漑用の小河川が多く住宅地としてはいろいろ不便な点が多かったようですが吉田町は新田の堤に沿って「吉田橋」へと続く道として発展していきます。
第948話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」
幕末10年が過ぎ明治に入ってから横浜は日々大きく変化していく街でした。
吉田新田が都市化される中で、真ん中にあった<中川(灌漑用水路)>が「吉田川」「新吉田川」に変身し、派川として「富士見川(後に埋立)」「日ノ出川」「新富士見川(富士見川)」「堀川」「派大岡川」など運河群が整備されていきます。
川には橋が架けられ
運河とともに「橋」も横浜の重要な交通の要所となっていきました。
<千秋橋>
今日のテーマ「千秋橋」がなぜ謎なのか?
明治30年ごろまで「千秋橋」は無く、土手となっていたようです。
堀割川から新田に入り「新吉田川」「吉田川」となり「派大岡川」に合流するのですが、吉田川は上流が「新吉田川」下流を「吉田川」と呼んで<新>と<旧>とに分かれていた時期がありました。
ではどこから「吉田川」なのかというと「千秋橋」あたりです。
「千秋橋から蓬莱橋までの400mが「吉田川」で、」という資料もあるように、
吉田川があって、そこに新吉田川が繋がった訳ですが
土手の部分が、長者町にあたります。
下記は明治14年測量の横浜を細かく描いた地図です。
明治14年測量図より
地図では石川町車橋から野毛側長者橋に続く「長者町四丁目」と「長者町五丁目」が途中堤で繋がっていることがわかります。
長者町は関内外の数ある町内の中で<珍しい町域>を持っています。
長者町は吉田新田域を唯一横断している<町>です。
その距離約1kmで『横浜沿革誌』によれば1870年(明治3年)6月頃に長者町の地名が付けられたとあります。
この長者町のど真ん中が「千秋橋」にあたりますが、
そもそも橋では無かったようです。
もう一つの地図も紹介します。
明治25年横浜真景一覧図絵
明治25年に描かれた「横浜真景一覧図絵」のクローズアップです。
この地図にも「千秋橋」は無く、堤が示されています。
長者町が繋がっていることと、この地図から
明治初期の一定期間ここには橋が無く、陸続きだったことがわかります。
その後、運河整備のために下流の「吉田川」
堤を挟んで上流の「新吉田川」がつながり、
そこに架かった橋が「千秋橋」ということになります。
取り合えず 手元の資料だけでの推理ですのでご了承下さい。
※吉田町は1862年(元治元年)に、元町とともに関外で初めてできた街である
『吉田町の研究』p11。
第948話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」
・横浜絵の誕生
開港後、初代イギリス公使オールコック(Rutherford Alcock)が「人の住まぬ湾のはしの沼沢から、魔法使いの杖によって、日本人商人たちが住む雑踏する街ができた」「魔法使いの杖 の一振りによって茸の生えた一寒村が一瞬にして国際港と化してしまった」
と表現した横浜は徳川幕府末期に花開いた<経済・外交特区>として誕生しました。
横浜開港の表現を”一寒村”とする<元凶>の一人がcolonialismの真っ只中に生きたオールコックですが、確かに居留地には外国人が次々と移り住み、多くの商館やホテルといった洋館が日本人の手によって建てられていきます。
この時の様子が克明に描かれたのが「横浜絵」です。この横浜絵は当時を知る資料価値としても注目されています。
・横浜浮世絵
No.401 短くも美しく
外国人の風俗をモチーフとして制作され短期間に売り出された横浜浮世絵(横浜絵)はおよそ八百数十点にも及びます。
中でも私は五雲亭貞秀 作「横浜鉄橋之図」が好きです。

■五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」(大判横6枚)
横浜絵の第一人者である五雲亭貞秀は精密で鳥瞰式の一覧図を多く描いています。下総国布佐(現千葉県我孫子市)に生まれた貞秀は初代歌川国貞の門人として錦絵を学び五雲亭、玉蘭斎の画号で多数の作品を残しました。
「貞秀の作品は他の作者にくらべて写実的であるといわれ、歴史資料としての価値も高いといわれています。(開港資料館)」
この「横浜鉄橋之図」は横浜開港のシンボルの一つで1869年(明治2年)に燈台技師ブラントンの設計によって完成した「鉄橋」と呼ばれた吉田橋を描いたものです。
この作品は翌年の明治に入って間もない1870年(明治3年)に描かれました。
開港から11年目という短時間にこれだけ整った風景が誕生し維持された当時の人々の英知に感動すら覚えます。
■甍の波
五雲亭貞秀の洋館の描写も秀逸ですが
私は日本人街の描写が好きです。珍しい洋館やメインモチーフの「鉄橋」はデフォルメしたとしても、見慣れた日本人の住宅風景は素直に描写していると感じます。
「野毛橋(都橋)」は前回のブログで紹介しました。
第947話【横浜の橋】リユース都橋(みやこばし)
開港時に突貫工事で完成した「横浜道」で一躍脚光を浴びた野毛橋は関内外発展により架替てその名を「都橋」と改名します。
木製の太鼓橋だった明治3年「野毛橋」の様子をこの横浜絵で知ることができます。
今回、
この作品を拡大してそこに描かれた当時の風景を少し読み解いてみたいと思います。
気になった「野毛橋」あたりをクローズアップしてみました。

・吉田橋と野毛あたり
吉田町と野毛橋の付近の絵図には
太鼓橋を渡る二頭だての馬車と
すれ違う人力車
魚を天秤棒で運ぶ魚屋らしい姿が描かれています。
吉田町の通りには
女性と子供が不思議な乗り物に載ってる姿が描かれています。
「駕籠」の一種でしょうか、運び辛そうです。
後ろからは馬上のお付きが従っているようにも見えます。そのすぐ横に洋犬が一匹描かれていますが、この一行が連れている犬と思われます。
また
この様子を二階から興味深く眺めている物見遊山風の人物も描かれています。
もう少し引いて見てみます。
野毛橋より下流左岸には米が積まれている店舗とさらに下流には「渡船役所」が描かれています。川沿いに柳や松、桜の木樹があり、荷物を積んだ船が何艘か見えます。大岡川を使った水運の賑わいが感じられます。一方 野毛橋を越え野毛の町に入ると子ノ神社の鳥居があり神社を回り込むように道が野毛山の方向に向かっています。
他の資料からも「野毛橋(都橋)」を見てみましょう。

鉄道敷地埋立前夜
この「横浜鉄橋之図」の野毛浦近辺に戻ります。ここは明治4年に始まるまさに横浜駅開業前夜の風景です。
「馬車道」「姥が岩」の文字も読むことができます。
鉄道前夜、鉄の橋近辺の読み解きは別の機会に譲ることにしましょう。
第947話【横浜の橋】リユース都橋(みやこばし)
※なんとサボりにサボって2018年初ブログです。まずは慣らし運転で。
大岡川の橋を良く渡ります。
中でも「都橋」を渡ることが一番多く、好きな橋でもあります。橋には<蒲の穂>をモチーフにしたレリーフが飾られています。親柱の電灯にも重厚感があります。時折カモメが止まっている風景は港街を感じさせます。
「都橋」これまでもこのブログで何回か書いています。まずはこれらをちょっとまとめてみました。
No.425 川の交差点、都橋界隈
都橋は鉄道が初めて開通した1872年(明治5年)に「野毛橋」から改名した橋です。
野毛橋は幕末に「横濱道」が突貫工事で開通したことによって一躍重要な橋となりました。
「野毛町一丁目往還北側茅屋を毀ち、道路を改修し、野毛橋を毀ち、更に北方へ凡そ三間位置を換へ、橋台を築造し、無杭木橋に改造し、都橋と改称す同月野毛橋の古材を太田村に移し、以て栄橋を架す。」
埋立と護岸整備が進み、
幕末期に架けられた野毛橋の位置より三間(約5m)上流に都橋が架替えられます。当時の絵地図から類推すると、当初は子の神社脇を通り野毛橋へと繋がっていた<横浜道>が整備され道筋変更に伴い橋の位置も変わったようです。
(再生)
野毛橋の部材を再活用し上流の栄橋を架けたとあります。
リユースですね。
1882年(明治15年)に都橋は木橋から鉄橋に代わり、関東大震災で被災、しばらく暫定の木橋が架けられていましたが、1928年(昭和3年)7月に震災復興橋として生まれ変わります。この時に中村川に架かっていた「共進橋」の親柱を再活用され完成しました。 橋梁部材は、江戸期<木製の時代>から今日の鉄骨の時代まで時折条件次第で再利用されてきました。大岡川下流域では、西之橋が浦舟水道橋として再生されました。
新山下の「霞橋」も部分的リユースです。
(都ぞ春)
都橋の「都」は、9世紀後半に古今和歌集で素性法師が詠んだ「見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」に因んでいます。すでに大岡川本支流に架かっていた「柳橋」「櫻橋」を元に鉄道用地埋立で作られた櫻木川(櫻川)に架かる「錦橋」と共にこの句が当てられたと思われます。
第885話【横浜の橋】都ぞ春
第946話【横浜史の節目】後半
1923年(大正12年)9月1日
関東大震災で横浜市域は多くの人命、財産を失います。
実質、東京より被災度が大きかった横浜は、帝都東京を復興するという最優先の下
独自の震災復興を目指さなければなりませんでした。
多くの企業が横浜を去り、港都の機能が麻痺、蚕・絹を中心とした貿易産業は壊滅状態となります。
横浜は元々
幕末、江戸開港を避けた結果として、<港都横浜>が誕生します。
関東大震災が起こる頃、横浜は現在の10分の一にも満たない<小横浜>でした。
1901年
第1次市域拡張 面積24.80km2
1911年
第2次市域拡張 面積36.71km2
1927年
第3次市域拡張 面積133.88km2
廃墟からの脱却を復興だけではなく
<発展><産業転換>という新しいベクトルで推進したのが
【最強の市長】有吉 忠一でした。
湾岸の埋立、港湾機能の高度化、産業誘致を推進し
<大横浜>を目指しました。
※市域拡大
【番外編】市域拡大は元気なうちに!?
1923年から戦後まで横浜は波状的な破壊・復興を繰り返しました。
震災後の横浜は横浜大空襲でまたまた壊滅。
終戦、当時沖縄を除き、日本最大の<占領・接収>時代を迎えます。
※関東大震災
No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる
※横浜の空襲
「写真でみる横浜大空襲」web版
http://www.city.yokohama.lg.jp/somu/org/gyosei/sisi/web-air-raid/
※占領下の横浜
第905話 【占領下の空】
長い占領・接収時代が続きます。
戦後接収解除と人口急増が重なり、横浜は爆発的に拡大する<東京>のベッドタウン化していきます。
■1968年(昭和43年)
人口200万人都市となります。この年、ブルーライトヨコハマ、伊勢佐木町ブルースという空前の大ヒット曲が生まれ、横浜市の大PRとなりさらに人口が急増します。
1968年をテーマに
No.422 【舞台としての横浜】妙蓮寺と野毛
■市電の時代の終わり
1966年(昭和41年)に生麦線、中央市場線を廃止したのを皮切りに廃止路線が増えて行きます。
1972年(昭和47年)市電とトロリーバスが全廃されその姿を消しました。
同時期、関内外の運河が消えてゆきます。
■1980年代、横浜は政治の嵐
No.357「今保守を問う」
■1989年バブル崩壊前夜のお祭り
No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催
■1996年防災ボランティア元年
No.237 8月24日(金) 防災は体で覚える!
■2002年はワールドカップサッカー
No.161 6月9日(土) 日本、ロシアに勝利!
後半はリンクばかりになってしまいました。
第944話 中世の横浜(2)
歴史上横浜市域における<いくさ>はあまり多くなかったようです。
中世期に 幾つか横浜の戦いがありました。
横浜の中世史に関心のある方に横浜の<戦場>は?
と質問すると、
多くの方が挙げるのが、緑区の「小机城」と
神奈川区の「権現山」です。
さらに
御家人畠山重忠の終焉の地「鶴ケ峰古戦場(旭区)」を中世の<戦場>とする資料もあります。
これらの<いくさ>は室町幕府の権力が完全に失墜した乱世を背景に起こったものです。
舞台としては600年あまりの長い中世末期、応仁の乱以降に始まった「戦国時代」でした。
平安時代が保元の乱・平治の乱で終わりを告げ、東西に分かれ源氏と平家の勢力闘争が起こります。もののふの登場です。
西の京都は平家、平清盛が太政大臣となり実権を握りますが、東国の源氏が反転し、平家が壇ノ浦で破れ鎌倉時代となります。
海の平家が陸の源氏に、舟の平家が馬の源氏に負けたという表現もできるでしょう。
このころの横浜市域でのできごとは
伊豆から逃げる源氏の反転の舞台となりました。
幾つかの劇的な<いくさ>を経て、鎌倉に幕府が開かれ横浜市域には<かまくら道>が整備されます。
源(みなもと)から北条に政権が移るも鎌倉の地は京都から離れた政治の中心地を維持することになります。初代執権北条時政による北条氏体制を決定づける<いくさ>といっても<謀略>ですが、
1205年(元久2年6月22日)畠山重忠の乱が起こります。
武蔵国二俣川、現在の旭区鶴ケ峰あたりです。
この近くには畠山重忠が戦って敗れた北条氏の一万騎兵に因んだ「万騎が原」の地名も残っています。
※畠山重忠は「坂東武士の鑑」と呼ばれ源頼朝の信頼が厚かった御家人の一人で、埼玉県に居館等があったことで埼玉の偉人の一人をなっています。
1333年(元弘3・正慶2)新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼし、南北朝分裂を経て足利尊氏により室町幕府が始まります。
この足利政権末期に各地で武士たちの群雄割拠が始まり、戦国時代へと時代は変わっていきます。小机の戦いはその前哨戦とでもいえるでしょう。
(小机の戦い)
謎多き応仁の乱が収束に向かった
1478年(文明10年)太田道灌(おおた・どうかん)がお家騒動、家督争いにより起こった長尾景春の乱を最終的に小机城攻めによって落城させた戦いを「小机の戦い」といいます。ことの発端は家督争いですが、長尾景春も太田道灌もこれまでにない新しい知略による<いくさ>を展開した武将で、両者の戦いは南関東全域を舞台に歴史的な戦いとして注目に値します。
中世の戦いの特徴の一つに、お家騒動、嫉妬、恨み等、怨恨?に起因するものが多く起こります。前述の畠山重忠の乱もそうです。
“武士道”にはほど遠い?お家騒動連発の時代です。その結果が戦国時代、下克上へとなっていきます。
この小机城、
鶴見川を防衛の要素に取り入れた城です。後北条氏が縄張りを整備し標高42m(比高22m)の根小屋風・連郭式平山城です。
道灌は、この小机城を攻めるため鶴見川を挟む対岸に、亀之甲山(かめのこやま)城を築き拠点として持久戦を用い
2月6日から攻め4月11日にようやく落城させます。
権現山の戦いは
第852話 7月19日京浜急行と権現山の戦い
第943話【今無い風景を読む】汽車道と北仲通の壁模様
1997年(平成9年)に開通した汽車道(開港の道)を渡る折、

桜木町駅から日本丸の脇に立つと、いつも気なる風景がありました。
帝蚕倉庫の壁に設置されていた「Panasonic」の光学ディスクをモチーフにした広告です。
それ以上にこの壁に這うツタの葉が描く<模様>に釘付けとなったことを記憶しています。
この風景、一服の絵画に見えませんか?
森の中に一軒の家が建ち、冬には枯れ、秋には色づき四季の変化もありました。
私が汽車道を良く渡るようになったのは2000年頃からです。それから17年、汽車道の木々も成長し、何と言っても周辺の景色が大きく変わっていきました。
汽車道、運河パーク内を通るこの道はその名の通り、明治以来汽車が通る鉄道線でした。1989年(平成元年)に横浜博覧会で使用されたのを最後に廃線となり、閉鎖されていましたが、再整備が決まり山手まで繋がる<開港の道>の入口です。この道は
桜木町から明治期に整備された「新港埠頭」現在の象の鼻パーク、大さん橋、山下公園、そして山手ふらんす山を経由する遊歩道です。
撮影の頃、新港埠頭近辺には大きな商業施設、横浜ワールドポーターズがありませんので、1990年代の風景です。
1980年代、1990年代、2000年代、2010年代
このエリアは 10年単位で大きく変貌してきました。
横浜市内で今、
最も変化し続けている空間といえるでしょう。
第942話【謎解き】吉田橋広場
今年は馬車道150年です。
1867年(慶応3年)に「吉田橋」から関内を通り抜ける広い道路が整備されたことに因みます。
この「吉田橋」から続く<広い通り>は地元の人たちに通称「馬車道」と呼ばれるようになり、その後区画整理を経て現在の「馬車道通り商店街」となりました。
この吉田橋を渡ると伊勢佐木町の繁華街が日枝神社近くまで続きます。
もう一つ
「吉田橋」袂から斜めに「吉田町商店街」が野毛へと続きます。
この吉田橋際に立ってみると、馬車道側に不思議な空間があります。
かつて
「丸井横浜関内店馬車道館」があった場所でした。
1980年(昭和55年)に開店
2000年(平成12年)に閉店しその後高層マンションとなっています。
当時、この広い空間は丸井馬車道の敷地だと思っていましたが、その後丸井が撤退しマンションが建つ計画が公表された時に、この空間が公共の土地であることがわかりちょっと驚いた記憶があります。
一方、伊勢佐木口側は昔、馬車道側より広く長い広場(広い空間)がありましたが今は無くなってしまいました。この広い空間には一時期運河沿いに「警察署」が建ちその後デパートが伊勢佐木のシンボルとなった時代があります。この<不自然な>広場は共に、関内に街路が整備された頃から他の道路とは異なり、誕生しました。なぜ?ここに広場のような空間が存在したのでしょうか?
私の結論から先に紹介します。
吉田橋<関門>あたりはかつて関内外の主要関門であったため、交通量が多く関門周辺に<滞留空間>が自然と出来上がったのだと推理しました。
場所を馬車道側に戻します。
この空間について資料を調べるキッカケとなったのは一枚の写真でした。
最初に紹介しましたように、馬車道側に明治期から現在まで不思議な広場が存在していたことは、過去の風景写真によって明らかです。明治期の地図でも明確にこの空間が示されています。慣れとは恐ろしいもので、何度となく見ていたはずの<この空間>の不自然さに全く気が付かなかったのです。
偶然入手したこの一枚の写真、裏面のメモから1953年(昭和28年)頃に撮影されたと思われます。
街路樹のエッジに白い像が建っています。ロダンの考える人をイメージさせる腕を曲げ顎を支えているかのようなポーズです。
戦前の風景には見当たりません。
終戦直後の米軍進駐時の写真にもありませんでした。
戦後復興期に短期間設置されたようです。
何故短期間かというと、1958年(昭和33年)5月8日の写真にはこの白い像が別のものに変わっていたからです。この年、開港百年祭が行われ、その時の様子が広瀬始親(ひろせもとちか)氏が記録していた写真集に収められていました。ここにはトーテムポールようなものが設置されています。
再度、白い像のある写真を拡大してみると背後に石燈籠のようなものも二基設置されています。
馬車道の老舗で伺っても記憶に無いとのこと。
まだ この謎は解けていません。
第940話【最強の市長】有吉 忠一
現在、横浜市長は
第32代、20人目の林文子氏が就任しています。(2009年(平成21年)8月30日〜)
戦前は13代まで官選市長が市政を担当しました。
戦後は選挙で選ばれています。
戦前戦後を通じて 任期満了か、途中辞任によって市長交替となりました。
例外は在任中に亡くなれた市長が2名
16代「平沼亮三」氏と24代「細郷道一」氏でした。
(最強の市長は誰か?)
最強という表現が適切かどうかわかりませんが
ここに紹介する第10代横浜市長「有吉忠一」は横浜市政史に残る
“最強”の市長といえるでしょう。
歴代市長を評価するには様々な視点から市政の結果を分析していかなければなりません。政策実行力・問題解決力・政治的決断力 他いろいろ指標がありますが
有吉忠一は
「数多くの業績を残した昭和初期の「不世出」の市長」と言われています。
“「不世出」の市長”というのは中々の評価ですね。
横浜市史上最大級の難問、震災復興に取り組んだ不屈の市長です。
ここに当時の有吉市長を知ることができる一枚の写真があります。
たまたま海外の写真オークションで手に入れたものです。

生糸検査所屋上から「横浜復興」を秩父宮に説明する有吉市長
1927年(昭和2年)6月2日(開港記念日)
この日、関東大震災から5年
<復興>を市内外に宣言する重要なセレモニーとして「大横浜建設記念式」を開催しました。式典には秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう)を迎え、望月圭介逓信大臣を始め、1,557人もの市内外の名士が集まり盛大に挙行されました。
秩父宮は式典に参列する前、市長有吉忠一により復興状況の説明を受けます。
(関東大震災)

(震災復興)


有吉忠一の簡単な経歴を紹介しましょう。
1873年(明治6年)
京都府生まれ。
第三高等中学校、帝国大学法科大学法律学科(現在の東京大学)
1896年(明治29年)
内務省入省。
1897年(明治30年)
島根県 参事官
兵庫県 参事官
1901年(明治34年)
内務省 参事官
1908年(明治41年)3月
第11代 千葉県知事 就任。
知事時代、千葉県営軽便鉄道(後の東武野田線の一部)の開通を手がける。
1910年(明治43年)6月14日
韓国統監府総務長官 就任。
朝鮮総督府総務部長官。(〜1911年(明治44年)3月13日)
1911年(明治44年)3月13日
第13代 宮崎県知事 就任。
知事時代 宮崎県営鉄道を建設。飫肥線の敷設、日本初の学究的発掘調査となった西都原古墳群の発掘調査を行う。
1915年(大正4年)
第九代 神奈川県知事 就任。
自治時代 多摩川の改修を指示し川崎市中原区に「有吉堤」の地名が残る。
関東学院の開設に助力。
同年11月10日
大礼記念章
1919年(大正8年)4月18日
第15代 第15代兵庫県知事 就任。
1918年(大正7年)6月29日
勲二等瑞宝章
1922年(大正11年)6月16日 退任
1922年(大正11年)6月12日 ※
「朝鮮総督府政務総監」に就任(〜1924年7月4日)。
※知事退任日と総監就任日に重なりがありますが 資料のママ掲載します。
有吉は軍事権を除く行政・立法・司法の実務を統括し、在任中、朝鮮総督府の日本人高級官僚、特に「生え抜き官僚」との軋轢に加え、関東大震災時の“朝鮮人虐殺”に反発する朝鮮での暴動等の真ただ中でかなり苦労します。
1924年(大正13年)7月4日
その任を解かれ東京に戻ります。
1925年(大正14年)5月7日
第10代横浜市長に就任。
※推薦者 原富太郎、中村房次郎、井坂孝ら
1930年(昭和5年)2月10日
正式に辞意を表明します。
「予算案さえつくれば、その決定は予算を実行する後任市長と市会の自由裁量によるべき…」との一言を残し、
同年4月 貴族院議員 勅選。
1930年(昭和6年)2月26日
昭和6年度の予算が成立する前に辞職。
1933年(昭和8年)
第7代 横浜商工会議所会頭。(〜1942年(昭和17年))
■有吉忠一の横浜
米貨公債で<震災復興資金>を集め、早期復興に努め 大きな成果をあげました。
「大横浜建設」の三大方針
・横浜港拡張
・市営埋立(臨海工業地帯の建設)
・市域拡張
生糸貿易に大きく依存してきた横浜市の体質を脱却して工業化を推進するために臨海部に大規模な工業地帯を建設し企業を誘致し港湾機能を拡充。
広大な後背地の確保(市域拡大)
市長時代から退任後
横浜商工会議所会頭時代精力的に臨んだのが
「東京湾拡張問題」=東京港開港要求でした。
横浜にとって東京開港は死活問題。東京にとっても東京開港を渇望していました。この問題はすでに明治期からくすぶっていた課題で 震災後は政財界を巻き込んでの大問題になっていました。
有吉は横浜・神奈川の意見を取りまとめ東京と横浜との軋轢解消を推進しました。
首都圏の港湾経済を考える上で、都市間で争っている時代ではない!
という視点から 国と東京市との合意を求め奔走します。
最終的には横浜復興で独自に米貨公債により調達した復興資金の残債半分を国に肩代わりしてもらう代わりに東京開港を制限付きで認めるという結論をまとめます。
「(横浜復興に借りた米貨公債を政府に肩代わり叶えば)東京の希望に反対しない事になった、併し満支関係の船は兎に角、英米の大船は東京には寄港出来ぬ、東京港は水深二十五尺、六七千噸級内せいぜい一万噸級を限定とする実情である、夫はさてをき横浜市民も此解決で初めて積極的に振興の業にあたる事が出来るようになったのである、之は昭和十五年の事であるが、この時市税総額八百七十万円で、市の公債費は総額八百九十万円、市税の全額を挙げても尚ほかつ足らぬという窮境であったのである(中略)ああこれで横浜市民のために、震災のあとかたづけが出来たと、肩の荷をおろした感で、大変本懐に思った事である。(有吉忠一 経歴抄)」
◯有吉忠一関係ブログ
■震災復興 横浜拡大
No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命
1929年(昭和4年)8月19日に飛行船ツェッペリン伯爵号は
何故 急遽計画を変更して横浜上空に現れたのか!
第818話【横浜2345】大横浜の時代
■市長エピソード
No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更
■県知事時代
No.445 「有吉堤」