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【ミニネタ番外編】横浜電信柱探索(加筆)

今日は私の街歩きのガイド時に定番話題となっている
<電柱>の話を改めて絵葉書から紹介しましょう。
道路には電柱が建っているが、大きく電力を運ぶ電力柱、通信回線を張り巡らす電信柱がある。私たちは日常<電柱>か<電信柱>と呼び、殆ど電力柱とは呼びません。
この<電力柱><電信柱>かつては別々に建っていました。
今も分かれて建っている道路もあり、街歩きの楽しみの一つです。

「電信の父」といわれた寺島宗則が明治維新早々、横濱で最初に事業化した電信は、瞬く間に全国に広がります。
電気よりも早く普及した電信そして電信のために設置された「電信柱(でんしんばしら)」。
日本の情報インフラのスタートラインといっても過言ではありません。
今日は、この電信柱から「横濱風景」を読解いてみます。
lig_nnP8140410.jpgまずはクイズから行きましょう!
電信柱
電力柱
なんと読むでしょうか?それぞれの役割は?
電信柱は「でんしんばしら」ごく一般的に使用されていますね。
電力柱は?
「でんりょくちゅう」と読みます。
役割は電信柱が「電信」で電力柱は「送電」のための柱です。
歴史は「電信」柱が古く 電気→「電力」柱が約二十年遅く巷に設置されました。
現在は電信柱と電力柱が合体し「共用柱」として使用されているケースが多くなりました。

(風景としての横濱電柱)
横浜は“戦災”と“震災”で多くの記録を失いました。
残されている記録から “横浜の電柱”を読み解いていきます。

戦前の風景を読解くには「写真」がベストですが、横浜は冒頭にも書いたように“戦災”と“震災”で多くの記録を失ってしまいました。そこで重要な記録資料として役割が見直されてきたのが「絵葉書」です。
「絵葉書」に描かれた横濱風景で“電信柱”の存在は脇役も脇役、殆ど注目したコレクターはいなかったのではないでしょうか。
改めて、「絵葉書」から風景を読み込もうとすると
電柱が気になり始めました。
下記のサイトで横浜の戦前風景に出会えます。
都市発展記念館

手元にある「絵葉書」から横浜の電信柱風景を観察してみましょう。
横浜市立図書館 絵葉書「Yokohama’s Memory」

→電信柱の視点で観てみましょう。
気になって気になってしかたなくなりますよ!!
この他、建築物は当然ですが服装、乗り物など 見始めると不思議探検が始まります。
lig_201312絵はがき002(電信電力の歴史)
明治大正の電信柱風景を読み解く前に、簡単な電信・電力の歴史を振り返ってみます。
●印は<電力関係> ■横浜関係
1869年(明治2年)
■英国の通信技師を招き横浜燈台役所と横浜裁判所の間に電信回線を敷設。
ブレゲ指字電信機(モールス信号ではなく針で文字を指す方式)による通信が始まる。
「横浜の寺島」

1871年(明治4年)電信機器初の国産化
1878年(明治11年)国産電話機誕生(2台)
1886年(明治19年)
●日本初の電気事業会社(東京電燈)が開業
1887年(明治20年)
●日本初の火力発電所が完成
1889年(明治22年)からは一般利用が始まった。
1890年(明治23年)
電信線電話線建設条例 制定
→急速な普及で、道路専有による交通障害が多発。
→道路を管轄する内務省と逓信省の確執
■横浜〜東京で電話・電報業務サービス開始
1892年(明治25年)
●日本初の水力発電所が京都で完成。
1895年(明治28年)2月1日
●日本初の電気鉄道として、京都電気鉄道が開業。
1899年(明治32年)わが国長距離通話のはじめ(東京〜大阪間)
全国の電話加入者数が1万人を超えた。
1903年(明治36年)12月30日 横浜共同電灯会社「高島町に発電所竣工」
No.365 12月30日(日)横浜初の発電所

No.365 12月30日(日)横浜初の発電所


1904年(明治37年)7月15日
●■横浜で最初の電気鉄道(路面電車)運行開始。
No.417 Tram Tin Tim Street Car

1913年(大正2年)
●電力の動力需要が照明用の需要を超える。
1919年(大正8年)道路法で電柱の優遇専有が撤廃。
→逓信省 猛反発
1926年(昭和元年)日本初の自動交換方式開始
1942年(昭和17年)内務省・逓信省が協定を結び
電柱問題が解消。→といっても戦中だよね!!

 

(絵解き絵葉書)
明治大正期、電信柱と電力柱は別々だったそうです。
電信・電話は大正期まで回線数分だけ“電信線”が必要でした。
電話回線を一本のコードに集約する技術登場にはもう少し時間がかかります。
交換所で“交換手”が掛かってきた電話先と話して繋いでほしい相手に“手動”で繋ぐ時代が続きます。
ということは、電信柱の線数でおおよその電話回線規模が推察でき、街の規模の指標の一つになります。

light_横浜絵葉書再編01_111
8極 17連?
light_横浜絵葉書史料001
12極5連、8極14連?
light_百科事典005
12極5連、8極3連?

また、「電信柱」の回線数の変化で街の発展史を推論することもできます。
lig_読み解き地蔵坂絵葉書lig_201312電柱絵はがき001

資料を調べてみると、
電信柱の材質も最初は普通の木製柱で、材質は杉・桜・ヒノキを使用、風雨で7から8年しか持たなかったそうです。その後防腐剤入りが導入され、耐用年数が20年に延びます。
コンクリート柱となるのは戦後になります。
電柱の交換作業も大変だったようですが、現在行われている”電柱地下埋設”の考えが中々進まなかったため莫大なコストをかけていました。

今からすれば 欧米の仕組みを導入していた日本がなぜ電柱埋設を推進しなかったのでしょうか?
断片的資料ですが、ここにも縦割り行政の壁があったようです。
電信柱を道路に設置するための管理権争奪が当時の逓信省と内務省で壮絶な戦いがありました。
情報インフラは全てに有用なものなんですが。

lig_201312絵はがき弁天通り電柱さらに「電信柱」に続いて「電力柱」が登場します。電力の一般家庭への普及は、大正期に進みますが、道路占有の視点では「電気鉄道網」の推進と電信柱の増大から電気・電信の共有化が議論され関東大震災以降 少しずつ進行していったようです。
lig_201312絵はがき柳橋電柱どこかで 昔の情景に出合ったなら 「でんしんばしら」にも注目してみてください。
現在でも電信専用の<電信柱>のある通りもありますよ!
#電信柱 #絵葉書の風景

2016年11月加筆修正

【横浜側面史】 観艦式

戦前、横浜で開催された大規模の式典が多くあります。

■製茶共進会・生糸繭共進会(1879年(明治12年))
■開港50周年記念式典(1909年(明治42年))
■神奈川県横浜市勧業共進会(1913年(大正2年))
■震災復興記念横濱大博覧会(1935年(昭和10))
この他、
特に横浜で多く開催されたのが海軍「観艦式」です。
今日はこの横浜沖「観艦式」を少しレビューしてみます。

観艦式930373
<昭和3年観艦式記念絵葉書  合成写真っぽい>
「観艦式」は明治に始まり現在も行われていますが、戦前は軍拡競争の中で国の威信をかけた式典として盛大に行われました。
「観艦式」
戦前、明治から昭和にかけて 日本海軍は「観艦式」を計18回実施しています。
その半数九回が横浜沖で実施されました。
No.285 10月11日(木)武装セル芸術

ここでは1940年(昭和15年)10月11日(金)に開かれた帝国海軍、最後で最大の「観艦式」について簡単に紹介しました。

そもそも「観艦式」というのは1341年に英国で始まったデモンストレーションで、当時のエドワード3世が英仏戦争の際に指揮を鼓舞するために出撃の際観閲したことに始まります。
余談ですが、
礼砲の作法も英国のプロトコルが世界標準になっています。発射数を最大21発として19発・17発・15発〜と奇数回その地位によって数が決まっています。
No.231 8月18日 (土)give a twenty‐one gun salute.

No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に

「No.285 10月11日(木)武装セル芸術」の回での紹介を含め
今回「観艦式」を再度紹介するに至ったのは
なぜ 「観艦式」の半分を横浜で行ったのだろうか?
という素朴な疑問があったからです。
おそらく 横浜港沖で行った理由は
「帝都東京」と「東海鎮守府」である海軍中枢基地「横須賀」に近いこと。
そして
横浜港の持つ構造の良さだろうと推測できます。
→後半で別途紹介します

全18回の「観艦式」の内訳は
横浜沖で9回
神戸沖で6回
横須賀沖で2回
1回(初回のみ)大阪天保山沖
で行われました。

観艦式44288d
<式次第>                  kawakita collections

観艦式41384

観艦式928357
kawakita collections

最初に横浜沖で実施された「観艦式」は
1905年(明治38年)10月23日<日本海海戦勝利凱旋観艦式>と呼ばれ、
日露戦争の勝利を祝う目的も兼ねていました。
第五回目にあたるこの「観艦式」は、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将が総司令官として式典に臨み国民の関心もかなり高いものでした。
観艦式図 <当時の観艦式 配列図>
この第五回目以降、観艦式は拡大を続けます。
明治期観艦式の見物人に関する資料は手元にありませんが、
1928年(昭和3年)御大礼特別観艦式(昭和天皇即位式)として実施された横浜沖での観艦式は天候にも恵まれ
鶴見岸から本牧まで、多数の見学者が水際を埋め尽くしその数は100万人を越えていたそうです。
この観艦式には米国『重巡洋艦ピッツバーグ』、英国『重巡洋艦ケント』『重巡洋艦サフォーク』『重巡洋艦ベルウィック』、仏国『装甲巡洋艦ジュール・ミシュレ』、伊国『リビア』、オランダ『ジャワ』と各国の特務艦計11隻の外国艦船も参加しています。

(劇場としての横浜港一帯)
横浜港一帯が最高の一大劇場と化していたことになります。
横浜港の持つ円形劇場、
横浜港から鶴見川崎にかけての、岸辺・丘からの眺め
現在のように工場や高層ビルの無い時代に、少し小高い丘に登れば横浜沖の東京湾が一望できたロケーションは、海上デモンストレーションには最高です。
多くの国民・関係者にプレゼンスできる「横浜港一帯」だったのです。

観艦式444384
kawakita collections

以前 このブログで 帝都東京と 港都横浜の都市間競争を紹介しましたが、帝都東京が力と権力も有しながら中々開港できなかった背景は、省庁間・地元経済界の猛反対に加え、多くの市民の支持と
「港都横浜」としての“劇場性”もあったからではないでしょうか。

70年代に私が初めて横浜港周辺を散策し始めた頃、
まだまだ海辺は近づくことが難しかった時代でした。
「KEEP OUT」の文字も多かった気がします。
横浜港の水際が自由で快適な空間になりはじめたのは つい最近のことです。
戦前以上に港都横浜の魅力を楽しめるようになった?今
“平和会議場”もあることですし
みなとのみらいから積極的平和を発信できる都市に成長していって欲しいものです。

観艦式一覧
1868年 (明治元年3月26日) 大阪天保山沖 4月18日
1890年 (明治23年)4月18日 神戸沖。
1900年 (明治33年)4月30日 神戸沖。
1903年 (明治36年)4月10日 神戸沖。
1905年 (明治38年)10月23日 横浜沖 日露戦争終結
1908年 (明治41年)11月18日 神戸沖。
1912年 (大正元年)11月12日 横浜沖。
1913年 (大正2年)11月10日 横須賀沖。
1915年 (大正4年)12月4日 横浜沖。
1916年 (大正5年)10月25日 横浜沖。
1919年 (大正8年)7月29日 横須賀沖。
1919年 (大正8年)10月28日 横浜沖。
1927年 (昭和2年)10月30日 横浜沖。
1928年 (昭和3年)12月4日 横浜沖 【御大典記念】
1930年 (昭和5年)10月26日 神戸沖。
1933年 (昭和8年)8月25日 横浜沖。
1936年 (昭和11年)10月29日 神戸沖。
1940年 (昭和15年)10月11日 横浜沖。
【日本海軍最後の観艦式】紀元二千六百年特別観艦式

(余談)
観艦式資料を探していたら
観艦式準備資料の中からこんな図面・文書を発見しました。
観艦式509317
観艦式4397e3 以前横浜水上署見学の際
ここで西波止場という言葉が使われていました。何気なく聞き流していましたが
lig_sanbasi 戦前からこのあたりを
「西波止場」と呼び続けていたんですね。

戦前観艦式資料

戦前18回開催された海軍 観艦式の簡単な一覧を作りました。
横浜港沖で九回開催されています。

式典日 式典名称 御召艦 場所
1 明治元年(1868年) 3月26日 軍艦叡覧 (陸上) 天保山沖
2 明治23年(1890年) 4月18日 海軍観兵式 巡洋艦「高千穂」 神戸沖
3 明治33年(1900年) 4月30日 大演習観艦式 巡洋艦「浅間」 神戸沖
4 明治36年(1903年) 4月10日 大演習観艦式 巡洋艦「浅間」 神戸沖
5 明治38年(1905年)
10月23日
凱旋観艦式
(日本海海戦勝利)
巡洋艦「浅間」 横浜沖
6 明治41年(1908年)
11月18日
大演習観艦式 巡洋艦「浅間」 神戸沖
7 大正元年(1912年) 11月12日 大演習観艦式 巡洋艦「筑摩」
(※太平洋戦争時のものではない)
横浜沖
8 大正2年(1913年) 11月10日 恒例観艦式 戦艦「香取」 横須賀沖
9 大正4年(1915年) 12月4日 御大礼特別観艦式
(大正天皇即位式)
戦艦「筑波」 横浜沖
10 大正5年(1916年) 10月25日 恒例観艦式 戦艦「筑波」 横浜沖
11 大正8年(1919年) 7月9日 御親閲式
(欧州派遣艦隊慰労)
巡洋艦「出雲」 横須賀沖
12 大正8年(1919年) 10月28日 大演習観艦式 戦艦「摂津」 横浜沖
13 昭和2年(1927年) 10月30日 大演習観艦式 戦艦「陸奥」 横浜沖
14 昭和3年(1928年) 12月4日 御大礼特別観艦式
(昭和天皇即位式)※史上最大
戦艦「榛名」 横浜沖
15 昭和5年(1930年) 10月26日 特別大演習観艦式 戦艦「霧島」 神戸沖
16 昭和8年(1933年) 8月25日 大演習観艦式 戦艦「比叡」 横浜沖
17 昭和11年(1936年)
10月29日
特別大演習観艦式 戦艦「比叡」 神戸沖
18 昭和15年(1940年)
10月11日
紀元二千六百年
特別観艦式
戦艦「比叡」 横浜沖

light_横浜関連雑資料009<第9回観艦式>

light_横浜関連雑資料013<第7回大正元年観艦式と思われる>

light_横浜関連雑資料019<第5回観艦式>

light_大桟橋観艦式絵はがき060<現在何回目の観艦式か推理中>

light_博覧会316<明治38年 東京観艦式とあります。日露戦争凱旋式を兼ねていました>

No.640 6月12日(木)横浜茶業物語

今回でちょうど640話なので1000話まで360話

諸君、日本茶飲んでいますか?
飲料の近代史は世界史そのものです。国家間の戦争・政争が人々の飲料のし好を変えてきました。中国茶の味を知ってしまった欧州(英国)は、貿易赤字解消のためにアヘンを売り戦争まで起こします。米国独立のエピソードにボストン茶会事件があります。イギリスに高額の茶税を掛けられアメリカンコーヒーの文化が生まれます。
幕末、日本が開港されたニュースが欧米に伝わると、多くの商社が横浜に押し寄せます。
既に日本茶の品質と存在は、長崎を通じて九州のお茶(嬉野茶など)が知られていました。最大の関心を示したのが英国でした。東インド会社は香辛料とお茶を求めてアジアを物色していた真っ最中でした。今日は少し乱暴ですが、横浜茶業史のドラマを紹介しましょう。
幕末、幕府が開港した開港場を通じて日本は一気に国際社会の渦に巻き込まれます。
垂涎の「生糸」「茶」で儲けようとしたら、当時江戸幕府が各国と結んだ通貨設定のおかげで「ぼろ儲け」システムに気がつきます。
No.466 19世紀の「ハゲタカファンド」

日本は約50万両分=(一両約8万円として400億円)の金貨を国外に放出し、通貨危機が起ります。舞台は横浜開港場でした。単純に両替するだけで儲かったのですから日本人の商人もかなり両替に加担します。その中に、横浜が生んだ政商「高島嘉右衛門」もいました。彼はこれで大もうけし、明治維新以降のビジネス資源にします。
話をお茶に戻します。
日本のお茶産業は、生糸に次ぐ重要な輸出商品でした。幕末の幕府財政危機を引き継いだ明治政府の稼ぎ頭として「生糸」も「製茶」も横浜港から開港場の外国人商館を経由して輸出されました。
お茶の大消費地はアメリカでした。英国のお茶の商社も日本で調達したお茶の殆どを米国に再輸出されました。この傾向は幕末期に米国史上最大の内乱南北戦争(1861年〜1865年)が起こり、海外との貿易実務が停滞したことでピークに達します。
そして、内乱の終わった米国が、国際市場で復活し日本に向けても海路を開き直接日本から「お茶」を輸入することになります。
(表1)→調整中
別表でも明らかなように、米国の南北戦争終了に輸出量が激増し太平洋に向かう「横浜港」は、対米向けお茶輸出港として取扱量が激増します。
財政危機を救う「製茶産業」でしたが、輸出が増えても生産地はそのメリットを享受できませんでした。
お茶の製品化には、生茶葉を加工する必要があります。この再製加工は全て外国商社が独占的に行っていました。再製加工工場(=お茶場と呼ばれました)の労働条件は最悪で、女工哀史は生糸だけではなくお茶場にもあてはまりました。
「野毛山の鐘がゴンと鳴りゃガス灯が消える
早く行かなきゃ釜がない」
「慈悲じゃ情けじゃ開けておくれよ火番さん
今日の天保をもらわなきゃ
ナベ・カマ・へっつい皆休む
箸と茶碗がかくれんぼ
飯盛りちゃくしが隠居して
お玉じゃくしが身を投げる」
といった 労働歌も生まれました。

明治に入り、大量の輸出用のお茶生産が求められる中、居留地での欧米商社が引き起こす不当な取引に不満の声が高まります。流通構造は生産者がお茶売込商に販売し、幾つか流通を経て外国人商社が強気、強引なビジネスを展開していました。従来の売り込み商も下流(生産者)への強引な生産要求を行い市場が荒れはじめます。
こんな時に、生産者の中で直接外国人商社に売込む者達が登場します。
さらには、直接米国に向かい直輸出の交渉を行う日本の売込み商も登場します。
1874(明治7)年静岡でお茶を生産する仲間達が横浜の本町三丁目に製茶の売込み商「謙光社」を設立します。創設に関わったのは静岡県榛原郡出身の“原崎茂吉”ら数人で、お茶の生産地としては新参であった静岡という条件も影響したのでしょう。
自力でお茶取引の改善を求める初期の動きでした。しかし中々上手くビジネスは進まず、明治16年頃までは損失を重ねていました。
中興の祖となったのが丸尾文六という人物で、一度為替相場で失敗していましたが、その経験を活かして「謙光社」を株式会社に改組し、近代経営に乗り出します。
丸尾文六の参画により、横浜における「謙光社」は飛躍的な成長を示します。
1885(明治18)年には総扱量百万斤を越え、当時の大手売込商達の仲間入りをします。大谷・中条・岡野・吉永というビッグ4に次ぐ5位になり自他ともに認める大手売込商社となります。
翌年の1886(明治19)年には、総扱量百五十五万斤となり、第四位の吉永仁蔵商店を抜き「謙光社」は第四位に躍り出ます。
lig_歴史資料明治製茶輸出資料1lig_明治製茶輸出資料日本商人

手元にある明治19年に「謙光社」が発行した「横浜港製茶輸出入表」では、外国商社は“居留地住所”のみで記載しているのには驚きました。
商社第一位は居留地178番「スミス・ベーカー商会」(米国)で、いち早くお茶の取引で、日本最大の取引量を誇りました。この「スミス・ベーカー商会」に幕末から明治初年まで勤めていたのが“大谷嘉兵衛”で、その後の横浜製茶業界、財界の重鎮となった人物です。

(茶業界の偉人 原崎 源作)
丸尾文六によって押も押されぬ大店となった「謙光社」を立ち上げたとき創設者の“原崎茂吉”の実家静岡県榛原郡の縁者が彼を頼ってこの「謙光社」に勤めます。
原崎 源作(はらさきげんさく)1858(年安政5)年生まれで16歳でした。お茶の生産地で育った源作は、「謙光社」で勤める前から製茶加工の機械改良に関心があり、特に悲惨な作業の一つだった釜入れし炭火で熱する作業を女子工員が素手で40分位行う行程を楽にできる機械はできないものか考えていました。
改良は失敗を重ねに重ねますがついに原崎式再生釜を発明し明治32年に特許権を取得し、その後の製茶業を大きく変えることになります。
原崎 源作は茶業界にとって偉大なパイオニアですが、横浜にはちょっと残念な結果をもたらした人物でもあります。
生産力と生産品質を飛躍的に向上させた指導者、原崎 源作は一方で横浜にイチイチ運ばず直接清水港からアメリカにお茶を輸出すれば時間もコストもダウンできるではないか!と清水港国際港化に尽力し、国際港を認めさせた人物でもあります。
清水国際港のオープンで、横浜の茶業輸出量は下がり、次第に下火になっていきます。生糸は関東大震災まで横浜港の花形でしたが、製茶の輸出は明治末期から減少の一途をたどります。
静岡県菊川市には 茶業の往事を偲ぶことができる「赤レンガ倉庫」が保全されているとのこと、機会があれば訪問してみたいと思います。

No.259 9月15日(土)全国お茶の品評会開催

No.112 4月21日 濱にお茶は欠かせない

YOKOHAMAxyについて

界隈性ということばがあります。

辞書では“その”あたり一帯。のことを指し示すことばです。言い換えれば「付近」「近辺」「あたり」ですが、界隈には不思議な広さがあるので好きです。

私が界隈ということばを身近なものとして使いはじめて25年以上経ちます。パソコン通信のハンドルネームに「横浜界隈」と使いはじめてからです。フォーラムのメンバーからは「界隈さん」と呼ばれるようになりましたが、オフ会で「界隈」の持つ印象に猥雑さを指摘されたことがあります。界隈を“悪所”のくくりとして使う人もいることを実感しました。

最近では“こだわり”と同じように、暖かみのある地域を漠然と指し示す意味合いで使われています。

建築関係の辞書によれば

「地元商店街の賑わいや生業の活気といった、生活感あふれる雰囲気を感じさせる個性的な街並みについて、界隈性が高いなどという。個々の非合理的条件が全体としては合理的にまとまっているような状態をいう。」

とあります。

あるビジネス提案の時に、私は界隈の定義を下記のようにプレゼンしました。

暮らしの“場”に思いを寄せるとそこは「界隈」になります・・・。
日頃、私たちは界隈という言葉を何気なく使っています。

「元町界隈」「港界隈」といった使い方をします。
私たちはあるエリアに関心を持ったとき、“文化”“人”“暮らし”などの情報が気になります。この気になる情報が体験、印象と重なり合いその場所を「界隈」と呼び意識の中に仕舞い込みます。「界隈」には実体験が必ず含まれています。
情報だけでは「あたり」ですが、実際に足を運んでみると「界隈」が醸成されます。

そこに暮らす生活者の「愉しみ方」があり
訪問者が体験として得られる「愉しさ」と重なる部分が多いエリア(まち)
これが魅力ある「まち」界隈性のある街です。

 

私のブログタイトル「YOKOHAMAxy」は、

ヨコハマ エックスワイではなく よこはまかいわいと読みます。

ギリシア語のχ(カイ)とアルファベットのy(ワイ)を合成しました。

エックスワイでも構いません。

アルファベットの元となったギリシア文字の中からX(カイ)とアルファベットのY(ワイ)を選び、開港以来、異国文化を積極的に取り入れてきた横浜のエキゾチックさを「界隈」と重ね合わせました。エックス・ワイの意味も同時に持たせています。

このブログの目的の一つが 私の横浜界隈探しです。

「個々の非合理的条件が全体としては合理的にまとまっているような状態をいう。」を再定義し
「人々の感じ方の違いが全体として地域的にまとまっている状態」を私は界隈と定義しておきます。

あなたの界隈性は どんな感じでしょうか。

No.159-2 6月7日(土) 三井物産ビル

開港場のある5つの都市は「もののはじめ」が大好き。
というか、お初好きは徳川時代の“江戸っ子”気質から?
真偽の程は専門家に任せるとして…。

今日は横浜開港場に現存する「お初」を一つ紹介しましょう。
日本初の鉄筋コンクリートビルディングが横浜にあります。
(正確には「日本初の鉄筋コンクリート製オフィスビル」らしい)
1911(明治44)年、日本大通り中程に建った「三井物産横浜支店」です。

日本大通旧三井物産ビル<旧三井物産横浜支店>
このビルなら知ってるよ!という方も多いでしょう。
この「旧三井物産横浜支店」は、「震災・戦災・占領」という横浜の危機を幾度となく乗り越えてきた建造物の一つです。
冒頭「旧三井物産横浜支店」は、
1911(明治44)年、日本大通り中程に建ったと紹介しましたが、実は半分が明治時代のもので残りは昭和に入って増築されたものです。
外観を観る限り全く違和感のない明治の設計意匠をそのまま活かしています。
歴史性(古さ)でいえば、前年の1910(明治43)年にこの建物の裏手にあたる場所にレンガとコンクリートを使って建てられた「三井物産倉庫(現 日東倉庫)」が現存しています。
→この日東倉庫が今 解体の危機にあります。残念ですね。(20140731)→解体されました。

日東ビル(旧三井物産倉庫)
インフォメーションが無いと見過ごし通り過ぎることの多いこの倉庫、明治から建っている歴史的建造物です。
明治の建造物が現役で存在していることに驚きと敬意を感じます。
■建築概要
☆旧三井物産横浜支店
設計:遠藤於菟、酒井祐之助
竣工:1911(明治44)年→一号館
改修増築:1927(昭和2)年→二号館
構造:鉄筋コンクリート造り4階建て
所在地:横浜市中区日本大通14
★旧三井物産横浜倉庫
設計:遠藤於菟
竣工:1910(明治43)年
構造:煉瓦造、一部コンクリート使用
所在地:横浜市中区日本大通14
※遠藤於菟(えんどうおと)
主な作品
横浜正金銀行(技師として現場監督を務めた)
帝蚕倉庫本社事務所
横浜生糸検査所

(斬新なデザイン)
遠藤於菟設計、明治の建築物としては斬新なデザインでした。華美でなくシンプル・質素なスタイルは100年経っても現在を感じます。
同時代
1917(大正6)年7月1日に開館した開港記念横浜会館(現在は横浜市開港記念会館)と比較すると使用目的は異なるがシンプルさが際立っています。
同時代の商業ビル建築デザインとして比較してみると意匠のシンプルさは良く判ります。
旧兼松商店本店「日濠館」(現・海岸ビルヂング)

■少し横道に逸れます。
建築家 遠藤於菟の作品は残念ながら殆ど残っていません。

http://modern-building.jp/endo_oto.html
ここでも横浜の作品しか紹介されていませんが、
三井物産横浜支店造築設計とほぼ同時期(大正14年)に北海道札幌の老舗丸井今井本店ビルの設計を担当していることに驚きました。
(丸井今井本店ビルは連続改築のため原型を留めていません)
丸井今井札幌本店
「丸井今井」は輝かしき北海道の歴史を刻んできた老舗百貨店でした。
残念ながら経営破綻し現在は三越伊勢丹HG傘下となっています。
No.462 北海道と横浜を結ぶ点と線2

このブログで少し紹介しましたが、丸井今井は 北海道・新潟そして横浜を結んでいます。
機会があれば追跡したいテーマです。

(竣工当時)
さて、この三井物産横浜支店の竣工当時の姿(一号館)を観たいと思っていました。
現在の姿は、昭和2年に震災復興を兼ね造築(二号館)・一号館を改修したものです。
ほぼ竣工当時の姿を守っているとのことですが、どこか変わっているのではないか?

一号館だけのときは正面玄関が日本大通脇にあったのが、二号館が造築されることで日本大通側になったようです。よく見ると 一号館と二号館は完全に左右対称ではないことに気がつきます。
微妙に意匠が変わっている。壁面等はどうなんだろう。
手元にある資料を引きずり出しましたが現在の写真しかありませんでした。
ところが
たまたま まとめ買いしてあった大量の戦前絵葉書の中からこの一枚を発見したのです。

横浜関連雑資料023三井物産横浜支店の竣工当時のものだとは当初気がつかず見逃していましたが、再度拡大してみると確かに三井物産横浜支店であることが判りました。
lig_mituiビル

lig_横浜三井ビル表面BW024撮影時期は「ハガキ表面」から大正7年以前であることは推定できます。

lig_窓アップ lig_倉庫

一号館の最上階の窓のデザインは現在のものと異なっています。
また倉庫に関しては、用途が変わったのかなにか換気口のようなものが窓から出ていることが判ります。

この画像からもう少し新たな発見があるかもしれません。

→次回へ

杉山神社一覧

ワードプレス初チャレンジ。
表組実験です。エクセルをそのままコピペしてみました。

社名 現住所
岡村天満宮 (合祀) 横浜市磯子区岡村2-13-11
杉山神社 横浜市港北区岸根町377
菊名神社 (合祀) 横浜市港北区菊名6-5-14
杉山神社 横浜市港北区新羽町2576
杉山神社 横浜市港北区新羽町3918
杉山神社 横浜市港北区新吉田町4509
太尾神社 (合祀) 横浜市港北区太尾町1054
八杉神社(合祀) 横浜市港北区大豆戸町239
杉山神社 横浜市港北区樽町4-10
神明社 (合祀) 横浜市神奈川区羽沢町916
神明社(合祀) 横浜市神奈川区菅田町2568
杉山神社 横浜市神奈川区菅田町436
熊野神社 (合祀) 横浜市神奈川区東神奈川1-1
杉山神社 横浜市神奈川区片倉5-5-21
杉山大神 横浜市神奈川区六角橋2-31
杉山神社 横浜市西区中央1-13-1
杉山神社 横浜市青葉区あかね台1-1-6
住吉神社 (合祀) 横浜市青葉区すみよし台833
子ノ神社 (確証無) 横浜市青葉区たちばな台2-22-1
杉山神社 横浜市青葉区みたけ台26-1
杉山神社 横浜市青葉区市ヶ尾町641
杉山神社 横浜市青葉区千草台17-2
鐵神社 (合祀) 横浜市青葉区鉄町1553
杉山神社 横浜市鶴見区岸谷1-20-61
伊勢山神社 (合祀) 横浜市鶴見区駒岡4-29
末吉神社 (合祀) 横浜市鶴見区上末吉4-14-14
潮田神社 (合祀) 横浜市鶴見区潮田町3-131-1
鶴見神社 (合祀) 横浜市鶴見区鶴見中央1-14-1
杉山神社 横浜市都筑区茅ヶ崎中央58
杉山神社 横浜市都筑区佐江戸町2020
杉山神社 横浜市都筑区勝田町1231
杉山神社 横浜市都筑区大熊町497
杉山神社 横浜市都筑区池辺町2718
杉山神社 横浜市都筑区中川6-1-1
杉山神社 横浜市南区宮元町3-48
杉山神社 横浜市南区南太田2-7-29
子神社 (合祀) 横浜市南区堀ノ内町2-134
杉山宮 横浜市保土ヶ谷区上星川2-12-12
杉山神社 横浜市保土ヶ谷区星川1-19-1
杉山神社 横浜市保土ヶ谷区西久保町118
杉山神社 横浜市保土ヶ谷区川島町896
杉山社 横浜市保土ヶ谷区仏向町553-1
杉山神社 横浜市保土ヶ谷区和田1-10-4
杉山神社 横浜市緑区鴨居4-8
杉山神社 横浜市緑区三保町2079
杉山神社 横浜市緑区寺山町177
杉山神社 横浜市緑区西八朔町208
杉山神社 横浜市緑区青砥町1119
杉山神社 横浜市緑区中山町718
本郷神社 (合祀) 横浜市緑区東本郷4-12
神明神社 (合祀) 川崎市宮前区有馬5-13-24
小倉神社 (合祀) 川崎市幸区小倉103
杉山大神 川崎市幸区小倉277
久本神社 (合祀) 川崎市高津区久本1-16-13
久末天照大神社 (合祀) 川崎市高津区久末642
諏訪神社 (合祀) 川崎市高津区諏訪3-16
杉山神社 川崎市高津区末長811
日枝大神社 (合祀) 川崎市川崎区小田2-14
五反田神社 (分祀) 川崎市多摩区三田1-2-10
杉山神社 川崎市多摩区西生田3-3-2
井田神社 (合祀) 川崎市中原区井田中ノ町13
小杉神社 (合祀) 川崎市中原区小杉御殿町1-1010
日枝神社 (合祀) 川崎市中原区上丸子山王町1-1455
新城神社 (合祀) 川崎市中原区新城中町4-14
細山神明社 (合祀) 川崎市麻生区細山2-6
杉山神社 町田市つくし野2-8-3
杉山神社 町田市金森1621
杉山神社 町田市金森326
椙山神社 町田市三輪町1618
杉山神社 町田市成瀬4507
杉山神社 稲城市平尾1189
杉山神社 三浦郡葉山町上山口2642

以上です。

【番外編】ランドマークが建つ

残照、ある時期 みなとみらいエリアに建つ(建設中の)ランドマークタワーを撮っていた時期があります。
記憶に残るランドマークタワーの風景を紹介します。
ごめんなさい!!一部画像が逆版です、
修正アップし直しますのでしばし逆でご勘弁を。
フィルムからスキャンした際 左右を間違えました。

■ランドマークタワー
正式には「横浜ランドマークタワー」といいます。
70階建てで高さ296.33mです。
1990年(平成2年)3月20日に着工し、1993年(平成5年)7月16日に開業しました。
http://www.yokohama-landmark.jp/page/
http://ja.wikipedia.org/wiki/横浜ランドマークタワー
今日は 写真集です。
特に解説は設けません。

全国から精鋭の職人が集まったそうです。クレーン職人が話題に。 
建設中のランドマークタワー

No.470 パーセプションギャップを読む

日本が開国することで多くの国々から外国人が来日します。
目的はビジネス、政治、教育、布教 等々いろいろありました。

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彼らは一応に驚き、それぞれの価値観で未知の国「日本」を理解しようとしました。
未開の“野蛮”な国と感じる人、美しき風景に感動する人、美術・工芸に驚嘆する人、インフラや生活水準を未熟とする人 様々でした。

そして彼らは日記や書籍、新聞等々で“不思議の国”を母国に伝えます。
このブログでも何人かの人物を通して横浜(日本)の姿の伝わり方を紹介しました。

No.402 JIMAE TABI

「幕末から明治中期にかけて日本が外国から技術や語学研修のために多くの
“OYATOI”外国人が来日しました。一方で、在留外交官・宣教師や商館の外国人も“自前”で日本国内を旅記録に残し、一部は母国で出版され日本研究や、日本紹介の役割を果たしました。今日は、外国人の日本紀行の一部を紹介しましょう。」

→ここでは、外国人が日本(横浜)について記述した旅行記系の書籍を紹介しました。
今日は、これら多くの外国人が“幕末から明治”にかけて来日し日本をどう認識したかをテーマ別に“横断”してまとめあげた一冊の著作を紹介します。
「逝きし世の面影」渡辺京二 著
平凡社ライブラリー

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「逝きし世の面影」というタイトルからも読み取れますが、
著者は 開国時に訪れた外国人の日本評から 明治以降急激に失われたであろう“日本”(文化)の姿を浮き彫りにしようと試みています。
開国当時ですから日本といってもその多くが
横浜(神奈川)・江戸(江戸郊外)・日光・長崎・函館 など開港に関連するエリアが多く取り上げられています。
この「逝きし世の面影」から地域を拾いだすことで
外国人の“横浜”(論までいきません)が読み取れます。

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本書で引用された訪日外国人の一部
■外交官
「アンベール」「オイレンブルク」「エルギン」「オールコック」「ゴンチャロフ」「シーボルト」「ハリス」「パークス」「ヒューブナー」他
■女性外国人
「バラ」「バード」「シドモア」他
■研究者・専門家
「ケンペル」「ベルツ」「パーマー」「ヘボン?」「モース」他
その他「グリフィス」「ペリー」「グラント」「ブラック」他

(意外)
多くの外国人が最初に訪れた開港都市「横浜」の記述が意外と少ないことに気がつきます。
著者の引用の傾向もある程度見受けられますが、オリジナルにあたってみても
外国人にとって開港居留地の街「YOKOHAMA横浜」よりも郊外部の残された(当時はありのままの)日本に関心があったことも事実です。

オールコック「破損している小屋や農家」を見受けなかった。と神奈川近郊の田園の豊かさに感動していたようです。
一方で他の外国人の中には「日本の農業はいまなお非常に未開なやりかたで行われている」と認識した人物も引用しています。
(切り口)
この「逝きし世の面影」の章立ては
 ○ある文明の幻影
 ○陽気な人びと
 ○簡素とゆたかさ
 ○親和と礼節
 ○雑多と充溢
 ○労働と身体
 ○自由と身分
 ○裸体と性
 ○女の位相
 ○子どもの楽園
 ○風景とコスモス
 ○生類とコスモス
 ○信仰と祭
 ○心の垣根
14にわたる章立ての中で、思いのほか少なく感じたとはいえ
多くの横浜に関するエピソードが鏤められています。
いささか懐古的過ぎる、外国人によるニッポンよいしょ!集の感も拭えませんが、世界各国から日本(横浜)を訪れた 日本(横浜)の「価値」を再認識し、現在を考える良き資料となることは間違いありません。

(イザベラ・バード)
この「逝きし世の面影」中でも良く取り上げられているイギリスの女性旅行家、紀行作家であるイザベラ・バード。

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明治初期の東北地方や北海道、関西などを精力的に旅行し、旅行記”Unbeaten Tracks in Japan”を著します。

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時期は
1878年(明治11年)6月から9月にかけて、通訳兼従者として雇った「伊藤鶴吉」野他には誰も伴わない“女性 一人旅”の記録です。
世界的にも当時珍しい女性旅行家のニッポン紀行に登場する「日本」は新鮮で、欧米文化と日本文化の間にあるギャップと、理解の手がかりをここに読み取ることができます。一般的な紹介では日光、東北地方や北海道、関西旅行が有名ですが、44章立ての中で冒頭と最後には 横浜の情景が印象深く描かれています。
「上陸して最初に私の受けた印象は、浮浪者が一人もいないことであった。(中略)税関では、西洋式の青い制服をつけ革靴を履いたちっぽけな役人たちが、私たちの応対に出た。たいそう丁寧な人たちで、私たちのトランクを開けて調べてから、紐で再び縛ってくれた。ニューヨークで同じ仕事をする、あの横柄で強引な税関吏と、おもしろい対照であった。(英米間は当時険悪な関係であったことも背景にありますが…)
横浜の英国代理領事との会話では「私の日本奥地旅行の計画を聞いて『それはたいへん大きすぎる望みだが、英国婦人が一人旅をしても絶対に大丈夫だろう』と語った。」
「横浜駅は、りっぱで格好の石造建築である。玄関は広々としており、切符売り場は英国式である。等級別の広い待合室があるが、日本人が下駄をはくことを考慮して、絨毯を敷いていない。そこには日刊新聞を備えてある。」
など 当時の様子が丁寧に描かれています。
イザベラ・バード自身、先入観もありましたが次第にそのパーセプションギャップを融和していく心の変化を読み解いていくのも面白いでしょう。
最終章、最後にイザベラは
「汽船ヴォルガ号にて、一八七八年クリスマス・イブ。—-雪を戴いた円い富士山頂は、朝日に赤く輝いていた。私たちは十九日に横浜港を出て、ミシシッピー湾(根岸湾)の紫色の森林地帯のはるか上方に富士山が聳え立つのを見たのである。三日後に私は日本の最後の姿を見た—-
冬の荒涼とした海が烈しく打ち寄せる起伏の多い海岸であった。」

(印象的な山形路)
http://www.genki-machinet.com/img/20070602-4/20070609-15yamasin.pdf
http://www.genki-machinet.com/img/20071005-08/20071016-23yamasin.pdf

(外国人に関する関連ブログ)
No.413 あるドイツ人の見た横浜

No.163 6月11日(月) 反骨のスコッツ親子

No.290 10月16日(火)文士の大家さんは法律家

No.234 8月21日(火)パーセプションギャップの悲劇

【ミニミニよこはま】No.2 突然外交特区へ

今日は、開国によって外国との交易が始まり
「居留地」ができ上がるあたりを簡単に整理してみましょう。

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明治初期の関内・関外図

徳川幕府の時代は「鎖国」を行い、
外国との貿易は勿論、情報交換は厳しく禁止されていた!
と学んできましたが、最近の日本史研究の流れでは
「徳川時代は交易を遮断せず
 長崎・対馬・松前・薩摩の4カ所に制限し
 交易相手も限定していたので
 外国からの情報は一切遮断されていた訳ではない。」となってきました。

ここで少し前置きが長くなりますが
日本史全般になります。
17世紀から19世紀にかけて
徳川幕府は前述の4つのチャンネルを通じて海外交易と情報を入手していました。

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北は「松前藩」が蝦夷地の“アイヌ”と交易を行いながら北の動向を探っていました。
南の「対馬藩」では“朝鮮”と交易を行い外交としては「通信使(つうしんし)」の招聘を行い江戸時代には朝鮮から12回に及ぶ「朝鮮通信使」が日本を訪れます。
 ※各地に朝鮮通信使の通る街道史跡が残っています。
南端の「薩摩藩」では“琉球”と交易を行い江戸への使節団の受け入れ等を行っていました。
 ※ペリーは浦賀上陸の前に琉球に立寄り外交交渉しています。
最も交易量、情報量が多かったのが「長崎・出島」でした。
阿蘭陀(オランダ)に交易相手を限定し、欧州との窓口となっていました。
「松前藩」から[露西亜]情報を。
「対馬藩」から[朝鮮]情報を。
「薩摩藩」から[中国]情報を。
「長崎・出島」からオランダを通じて[欧州]情報を入手していました。
特に「長崎・出島」からの情報は“徳川幕府”が外国奉行(長崎奉行)により
中国船とオランダ船から積極的に情報収集を行っていました。
「唐船風説書」と「オランダ風説書」からアジア大陸から欧州まで
“限り”はありましたが情報収集活動が行われていました。

(外国船往来)
江戸時代後半には
ロシアが頻繁に北海道近辺に出没します。
アメリカもペリー以前に日本に来航し、幕府と情報交換が行われ、
徳川幕府は19世紀に入り自国近辺が“騒がしい”ことは重々認識していました。
そこに、ものものしく幕府のお膝元に“突然”現れたのが
ペリー率いるアメリカ艦隊でした。

(外国人居留地)
開港時の顛末は省き(別掲予定)
ここから一気に時間を進めます。
徳川幕府が開国を認めたことによって
日本各地に「居留地」が作られます。
1858年の日米修好通商条約に始まり1899年(明治32年)に廃止されるまで「居留地」は、日本の外国=居留及び交易区域として特に定めた一定地域として存在しました。
東京(江戸)には「築地居留地」

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神奈川には「横浜居留地」

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大阪には「川口居留地」

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兵庫には「神戸居留地」

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長崎には「長崎居留地」

この他に箱館と新潟が開港し、居留地が一部形成されますが絶対数も少なかったためほとんどの外国人は市街地に雑居していました。

(横浜居留地)
横浜居留地は1859年に正式に開港しました。
このとき江戸幕府が突貫工事で整備し指定した居留地は日本風の造りで木造の雑居住宅ばかりでした。
開港直後の1860年(万延元年)に、水害防止と居留地を堀割で囲むため現在の元町商店街脇を掘り進み「堀川」を作ります。

開港時なので「堀川」がありません。
開港直後、堀川が作られます
明治初期の関内俯瞰図

関内外国人居留地域が西洋風の建築物になるのは
1866年(慶應2年)の大火”豚屋火事”→「慶応の大火」の後でした。
No.294 10月20日(土)防災道路を造れ!

No.362 12月27日(木)彼も我も公園に集う

この時期に整備・形成された街区が

関内エリアの原型となり

現在とほぼ変わらないことに驚かされます。